勲章
寄席、芝居。何に限らず興行物の楽屋には舞台へ出る藝人や、舞台の裏で働いてゐる人達を目あてにしてそれよりも亦更に
わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立つてゐた
爺さんはその時、写真なんてヱものは一度もとつて見たことがねえんだヨと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがたうを繰返したのであつたが、それが其人の一生涯の恐らく最終の感激であつた。写真の焼付ができ上つた時には、爺さんは人知れず何処かで死んでゐたらしかつた。楽屋の人達はその事すら、わたくしに質問されて、初て気がついたらしく思はれたくらいであつた。
その日わたくしはどういふ訳で、わざわざカメラを提げて公園のレヴュー小屋なんぞへ出掛けたのか。それはその頃三の
楽屋口へ這入ると「今日終演後ヴアラヱテ一第二景第三景練習にかゝります。」だの、何だのと、さまざまな掲示の貼出してある板壁に沿ひ、すぐに
踊子の部屋へは警察署の訓示があつて、外部の男はいかなる用件があつても、出入はできない事になつてゐる。然るにわたくしばかりはいつでも断りなく、づかづか入り込むのであるが、楽屋中誰一人これを咎めるものも、怪しむものもない。これには何か訳がありさうな筈である。然しわたくしは
部屋のひろさは
踊子はいつも大抵十四五人、破畳に敷き載せた破れた座布団の上に、裸体同様のレヴューの衣裳やら、楽屋着やら、湯上りの浴衣やら、思ひ思ひのものに、わづか腰のあたりだけをかくしたばかり。誰が来やうが一向平気で、横になつたり、仰向きになつたり、
畳を敷かない板の間には、歩く余地さへないばかり、舞台ではく銀色のハイヒールやサンダルの、それも紐が切れたり底や踵の破れたりしたものが脱捨てられ、楽屋用の草履や上靴に交つて外ではくフヱルト草履や、下駄足駄までが一つになつて転がつてゐる時がある。紙屑、南京豆、甘栗の穀に、果物の皮や竹の皮、巻煙草の吸殻は、その日当番の踊子の一人や二人が絶えず掃いても掃いても尽きない様子で、何も彼も一所くたに踏みにじられたまゝに散らばつてゐるのだ。
見渡すと、女の人数だけずらりと並んだ鏡台と鏡台との間からはわづかに
オペラ館の踊子部屋と云ふのは大体まづこんな有様で。即ち散らかし放題散らかしても、もう此れ以上はいかに散らかしたくとも散らかすことはできないと思はれる極度の状態である。それは古ぎれ屋か
安香水と油と人肌と塵埃との混じ合つた重い匂が、人の呼吸を圧する。
わたくしは踊子部屋の光景———その暗惨とその乱雑とその騒しさの中には、場末の色町の近くなどで、時たま感じ得るやうな緩かな淡い哀愁の情味を、こゝにも亦遺憾なく
その日、いつものやうに、のそりのそり二階へ上つて行つた時、わたくしは朝鮮人らしい
「よく御覧。みんな
純綿の一声に、寝てゐる踊子も起直つて、一斉に品物のまはりに寄集る騒ぎ。廊下を歩み過ぎる青年部の藝人の中には、前幕の化粧を洗ひおとしたばかり。半身裸体のまゝの者まで入つて来て、折重つた女の子の間に割込み、やすいの、高いのと、わいわい言つてゐる最中である。赤ら顔の身体の大きい爺さんが一人、よごれきつた岡持を重さうに、よちよち梯子段を上つて来た。
するとハンカチの地合を窓のあかりに透して見てゐた踊子の一人が爺さんの姿を見るや否や、
「おぢさん、おそいねえ。あたい、ペコペコだよ。」と叱りつけるやうな鋭い調子で言つたが、爺さんは別に返事もせず、矢張退儀さうな、のろまな手付で岡持の蓋をあけ、
「お前のは何だつけ。蓮と
年は既に五十を越して、もう六十代になつてゐるかも知れない。
わたくしが写真をとつて大喜びに喜ばせてやつた爺さんといふのは、丼を持つて来た此の出前持なのである。
ぢいさんは毎日時刻を計つて楽屋の人達の註文をきゝに来た後、それから又時刻を見はからつて、丼と惣菜や香の物を盛つた小皿に割箸を添へ、つひぞ洗つた事も磨いた事もないらしい、手のとれ掛つた岡持に入れて持運んで来るのである。年中めつたに休んだ事はないさうだが、どこに家があるか、女房子供があるのか無いのか、そんな事は楽屋中誰一人知つてゐるものはない。「鮫やのおぢさん。」と踊子達は呼んでゐるが、丼飯をつくる
鮫屋の爺さんは初めに註文された丼を二階の踊子と三階の青年部へ、一ツ一ツ配つて歩く
二階の部屋の踊子は一しきり揃つて一人残らず舞台へ出て行き、踊つたり跳ねたり歌つたり。そしてまた元のやうに鏡台の前の破畳の上に、つかれきつた身体を投出したまゝ、此の次は夜の部になる其日最終の舞台を待つのである。この間いつも二三時間ばかり。わたくしは踊子と共に舞台裏へ降りて、女達が揃つて足を蹴上げる藝当を、背景の間から
「さうか。ぢや、おぢさんも戦争に行つたことがあるんだね。何処へ行つたんだ。」
「今話したぢやねえか。日魯の大戦争よ。満洲ぢやねえか。」と言つて、爺さんは禿頭から滑り落ちさうになる鉢巻の手拭を締直したが、「えゝと。何年前だつたらう。おれももう意久地がねえや。」
急に何やら思出したやうに溜息をつき、例の如く細い目をぱちくりさせながら、ぢつと兵卒の衣裳に鈍い視線を注いでゐた。
「おぢさん、いくつになるんだ。」
「うむ。あれアたしか。明治三十七年………て云ふとむかしも昔、大むかしだ。」
一体かういふ人達には平素静に過去を思返して見るやうな機会も、また習慣もないのが
「あの時分にやおれも元気だつたぜ。」
掌で顔中の油汗を撫でたなり黙り込んでしまつた。兵卒に扮した役者はその側に寝ころんでゐる踊子の方へ寄りかゝりながら、
「おぢさん、戦争へ行つて、勲章、貰はなかつたのか。」
「貰つたとも。貰はねえでどうなるものか。嘘ぢやねえ。見せてやらうか。」
得意な力づよい調子が胸の底から押出された。
「持つて来て見せてやらう。親方の家へ置いてある………。」
「おぢさん。」と兵卒に寄掛かられた踊子は重さうに其男を押し退け、「お見せよ。ねえ。おぢさん。新ちやんの衣裳を着て、勲章下げて御覧よ。」
「ふゝふゝ。おもしれヱ」
爺さんは妙な声を出して笑つたが、急に立上り、空丼を片づけた岡持の取手をつかんで、そのまゝ出て行つた。
わたくしは踊子の中の誰彼にせがまれて、いつものやうに写真を取りはじめる。窓の外はもう夜になつてゐたが、並んだ鏡台の前毎に、一ツづゝかなり明るい電燈がついてゐるので写真を取るには都合がよい。
爺さんは果して岡持も持たず手ぶらでやつて来た。さつき
踊子達は爺さんが取り出して見せる勲八等の瑞宝章と従軍記章とを物珍らし気に寄つてたかつて見てゐたが、する
爺さんは玉の汗をぽたぽた
わたくしは家へかへつて其夜すぐフイルムを現像して見た。露出は思つたよりもよくできてゐたが、ふと気がついて見れば、勲章のつけどころが規則通りではなく、軍服の胸の右側になつてゐた。これは其時脱捨てゝあつた衣裳へ、踊子が勝手次第に勲章を縫付けた為か。或は爺さんも年をとつて思ひちがひをした為でもあらう。
わたくしは仕方がないから引伸して焼付をする時、フイルムの裏表を逆にして、見たところだけをそれらしく紛らせ、十日ほど過ぎてから楽屋へ持つて行つた。
「鮫屋は来ないなア。今日は。」とわたくしは暫く待つてゐた後、踊子の一人にきいて見た。
「あれツきり来ないのよ。」
「ぢや、丼は誰が持つてくるんだ。困るだらう。」
「外の家のものを食べるから困らないわ。」
話はそれきりである。
また一週間ほどたつて遊びに行つて見たが、其時には楽屋中もう誰一人、鮫屋の事をきいても返事をするものもない。そんな親爺がこの楽屋へ丼飯なんぞ持つて来たことがあつたのかと、思返して見やうとする者すら、一人もないやうな有様であつた。
わたくしは爺さんがいつも酔つたやうな赤ら顔に油汗をかき、梯子段の上り下りも退儀さうであつた様子から、脳溢血か何かで倒れたものと、勝手な考方をした。然し身寄のものでもあるなら、折角うつした写真だけは届けてやりたいとも思つたが、無論そんな手蔓のあらう筈もなかつた。
写真は今でも捜したなら、わたくしが浅草風俗資料と紙札をつけて、興行物のプログラムや流行唄や踊子の姿など、さまざまな写真や紙片を投込んで置く箱の中にしまはれてゐるであらう。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/09/14