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夢幻泡影

     (1)

 

 東京府東京市江戸川区平井町二丁目九百九番地。今、この地番はない。もっとも、昭和十七年には、東京府が東京都に変わり、東京市がなくなり、東京都江戸川区になっているのだが、もちろんそれも今はない。しかし、その十七年以降も府の呼称は残っていた。他の箇所でどうであったかは定かではないが、昭和十九年、私が小学校から中学を受験した際にはまだ、中学校は府立一中であり、府立二中があり、府立化工というような学校もあった。

 それはともかく、江戸川区平井町二丁目九百九番地は黒茶けた土の道路と幅三メートルほどのどぶ川に区切られた一角を指し、そこには、石炭殻を一メートルほど積み上げて宅地にし、三棟の住宅が建てられていた。その辺りでは、一応、嵩上げした宅地に建てられている住宅として、新興の瀟洒な住まいと見られていたろう。その他は、どぶ川沿いに商家が並び、その裏側に、五、六軒ぐらいずつの長屋が軒を連ねているような地区だった。

 私たち一家は、その三棟の一番左側というべきか角地になる部分で、小さな庭もある住宅に住んでいた。二軒目には、我家と同じような中級サラリーマン夫婦が住んでいたはずなのだが、私の母はともかく、子供がいなかったためか交流がなかった。三軒目には、お妾さんと母が呼んでいた中年の婦人が一人で住んでいて、私は何度か訪れている。どういう呼び掛けがあったのか定かには覚えていないが、まだ少年だった私を可愛がってくれていたらしい。

 ところが、その辺りは昭和二十年三月十日未明の空襲で焼失してしまう。その後の様子を私は知らない。おそらく、戦争が終わってから区画が整理され、地番も変更になったものか、現在は江戸川区平井四丁目の何番地かになっているらしい。かなり後になってからの話だが、小学校時代の同級生から同窓会の通知を貰い、その表記に、四丁目とあったので、そんな風に変わってしまっているのだろうと受け止めた。ちなみに、私たちがいた頃の平井町四丁目は当時国鉄の、今はJRの線路を越えた北側の地区で、歩いて十分から二十分は離れていた。その辺りまで含めて、そちらが二丁目を吸収して四丁目になったものかどうかも私は知らない。

 知らないというより、それを知ろうという気持ちがなかった。私には、その地番を消し去りたいとの思いがあって、それがなくなって安堵したというべきか、私のある部分が抹殺されたのに、私は吐息を漏らしたものだった。私の意識の中からは早くに、その地はなくなっていた。ところが、弟が漏らした言葉によって、私が消し去ったはずの想いが甦らせられた。

「兄さん、僕は僕が入学した小学校を知らない。一度も見てもいない。そのうち、行ってみようかな」

 弟とは、とくに疎遠だったわけではない。彼は運輸官僚の道を歩み、私が週刊誌の編集から通信社の記者として生活していたために、往来が少なかった。私の方が、彼を敬遠していた面もなくはないが、それでも時には、二人だけで酒を飲む機会もあった。そんな時、彼は整備新幹線の問題や空港設置などで代議士と遣り合うのが面倒でねといったような話をさりげなく語らないわけでもなかったが、仕事についても、私事に就いても、あまり多くを喋っていない。だから、そのような話題が私たちの間で交わされた試しはない。それを口にしたのは、彼が運輸事務次官を退官して間もなくの頃で、何処ぞの理事長の肩書きを持ってはいたが、まあ、全くの閑職で、暇な時間を過ごしていたから、ふと、そんな思いに駆られたのだろう。

 しかし、私は嫌な思いに襲われた。もちろん、弟に、それほどの意識はなかったに違いない。それでも、私には、彼が官界のトップに踊り出たからこそ、誇らしげに、自分が入学した小学校に行ってみたいと言っているように聞こえた。

 確かに、弟は、その小学校を知らないはずだった。昭和二十年四月、弟は疎開先だった母の実家がある千葉県佐原市の小学校に入らなければならなかったに違いない。それを父がどのような判断で、また、どのような手続きを踏んだものか解らないが、平井町二丁目の、私が卒業している小松川第五小学校に入学させ、即日、学童が集団で疎開していた山形県に行かせている。私たちが住んでいて、焼け出された二丁目でも、小学校があった辺りは三月十日の空襲でも焼け残り、学校として存続していたから、そんな手段が取れたのかもしれない。それで、弟は疎開先の佐原市から父に連れられて上野駅に行き、そこで平井町からの学童と合流して山形に直行している。

 帰って来たのは、戦争が終わって秋になってからで、その時は、私たちが身を寄せていた千葉県幕張町の伯母の家に戻り、そこから幕張町の小学校に行かされた。だから、弟は入学したはずの小学校を全く知らないままに、人生を歩んで来たと言うのだろう。

 当時の学童疎開がどんなものであったのか私は知らない。戦後になって、いろいろな文章で綴られたものも読んではいるが、実態は、それこそ千差万別であったに違いない。妹は昭和十九年八月に、四年生で小松川第五小学校から山形県の湯の浜に学童疎開で行っている。そこには私も二度訪れているのだが、そこは温泉旅館だったためか、妹達の集団は恵まれた日々を過ごしていたように思っている。それに反して、弟が行った先は山寺だったと聞いた。そんな所に、まだ集団生活も知らない一年生で送り込まれたのだから、全くどうしようもない毎日だったに違いない。帰りたい、迎えに来てという、つたないひらがな文字の葉書が何通か来ているのを私は見ている。

 苦い想いを残しているであろう小学校に、確かに、その小学校には入学したものの、そこで勉強したわけではなく、苦難を味わったのは疎開先の話で、だからこそ入学したはずの小学校へ行ってみたいと言うのだろうが、私はその時、あの頃の学校ではなくなっているよというような答え方しかしなかったように思う。実際にその後、弟が、その地を訪れたものかどうか知らない。

 ふと見上げると、弟の遺影が私に微笑みかけている。それは、弟が運輸事務次官に就任した際の記者会見か何かの時のもで、彼が気に入っていたからと弟の妻が言っていたが、確かに、頂点に上り詰めた男の自信と余裕が感じられる写真だった。弟は平成十三年八月八日に他界した。癌だった。運輸事務次官を退官後半年ほどして、日本鉄道建設公団総裁に就任、それが激務であったのかどうか知らないが、一年もしないうちに肝臓に癌細胞があると診断され、手術でなく放射線治療をすることになったとの連絡を受けたのは平成十二年の五月だった。それでも、治療を受けながらも勤務している様子なので、弟の妻が言うように、放射線治療で簡単に回復する程度の癌なのだろうと思い、見舞いにも行かなかった。

 その頃は母が他界した後、茅ヶ崎で独り暮らしをしている父の面倒を見に、週に二回は茅ヶ崎に行かなければならなかった関係で、弟の方に時間がさけなかった事情もある。その父が十三年四月二十二日に他界、その葬儀は、父の死を知らせて病状を悪化させてはいけないと言う彼の妻の意向によって、弟抜きの姉妹で済ませている。六月九日に、父の納骨を終えると、それを待っていたかのように、突然、診断を受けた癌センターではなく、御茶の水の方の内科病院に入院したとの知らせがあった。

 私はその時になって、私の中学時代の同級生で癌の専門医になっている友人に電話を掛けた。私が事情を説明すると、彼は医師だから、自分が直接診ていない患者に就いてとやかく言えないが、そして、正確な判断かどうか判らないがと前置きしながらも、回復する見込みはないと考えた方がいいというような答え方をした。彼が言いずらい面を私なりに解釈し、最初に手術をしないで放射線治療をと言われた時に、つまり、手術が出来ない状態で、すでに末期癌症状ではなかったのかと受け止めた。私はたまたま、御茶の水にはしばしば出向く用事があったので、七月に入ってからそれとなく、何回か病院に顔を出した。しかし、見た目には元気だった。秋になったらゴルフにでも行こうなどとも言っていた。現職の総裁なのだから仕方がないのかもしれないが、秘書が何時もそばにいて仕事の書類を見せている。それだけではなく、治療の合間をみて、秘書と共に総裁室へ出向いているとも言う。

 彼は仕事の鬼ですからと言う弟の妻が、それをどう受け止めているのか訊く術もなく、また、どれほどの余命があるのか判らないにせよ、職を辞して温泉旅行にでも行ったらどうかとも言えないままに、七月も中旬を過ぎていた。七月の二十日に見舞いに寄った際には、まだ元気だった。その後、私は町内会長を引受けているために、小学校の記念式典や地域の祭り、そして二十九日の参議院選挙と種種の行事に追われていたが、八月に入ってようやく、祭りの合間を縫って、四日に訪れると病室が変わっていた。ナースセンターに近い方が便利だからという説明だったが、その時はもう、弟の意識は薄れていた。それだけではなかった。公団の秘書から冊子を渡された。二千五百人規模で、二千五百万円相当の葬儀の予定だった。私は何も言わずに、何も言えないままに病院を出た。

 弟はそんな葬儀を望んでいたのだろうか。直接、それに就いて語ってはいなかったが、母の葬儀に際して、彼は内内でと言っている。母は平成八年に他界している。その時、弟は官房長だったか運輸政策局長だったか、いずれにしても次官になる直前で、他人に迷惑を掛けたくないから親族だけの葬儀にして欲しいと言った。父が国鉄の小田原駅長で退職した関係から茅ヶ崎に住んでいたのだが、駅周辺の葬祭場では国鉄の関係者に知られてしまうし、当然のことながら運輸省にも広まってしまうと周辺の人に気を遣わせてしまうからと言う。

 私は了解した。それで、茅ヶ崎市でも北部の山の中に建設された市の施設で、ひっそりとした葬儀を営んだ。そこは茅ヶ崎の中心部からはタクシーで行くしかなく、それも二十分はゆうに掛かる所だったから、近くの人の参列もなく、椅子に座ったのは十数人に満たない全くの親族だけだった。弟も秘書にだけ行き先を告げて出て来ているのでと言い、時間を限って帰って行った。まだ、健在だった父が、それをどのよう思ったものか、何も言わなかったが、父は自分の葬儀に就いては、東京からも来てくれるだろうから、便利な所がいいと言い、辻堂の駅前にある葬祭場を口にしていた。

 父の葬儀の際には、弟はすでに闘病の最中にあって、彼の妻から父の死を言ってくれるなと釘を刺されていたので、彼の意向を訊かないままに、母と同じ市の施設で、これまた僅かな親族だけの送りとなった。父は、弟が次官になるまではと常々言いながら生きて来た。だから、九十三歳の死の直前まで、意識はしっかりしていた。次官を退官した後、日本鉄道建設公団の総裁になったのにも満足していたらしく、あいつは俺の意思を継いで鉄道に尽くしてくれていると私に言った。それを思うと、父は前運輸事務次官、日本鉄道建設公団総裁の父としての葬儀を営んで欲しかったのではないかと考える。だから、便利のいい斎場を言っていた。

 公団の秘書から渡された葬儀の予定には目も通さなかったのだが、気掛かりでもあったので、七日の午後、御茶の水の印刷所に行く用事もあり、そこから、私は病院に足を運んだ。ベッドの傍らには、彼の妻と二人の子供、それに長男の嫁がいた。共に、四日に私が帰った後、交替で詰めていると言う。弟はもう、全くの昏睡状態だった。時々、苦痛に表情を歪める。それに応じてモルヒネを打って貰うしかないらしい。疲れきっているらしい四人に、何処かで食事でもして、一息入れて来たらどうかと言うと、婦長、今では看護師長というのだろうが、年配の女性が、三十分以上は空けないようにしてくださいと念を押す。つまりもう、何時死んでもおかしくないという状態なのだろう。結局、誰も外出できずに、丁度、私より遅れて来た私の妹にパンや握り飯を買って来て貰って、私も一緒に、その夜を過ごす羽目になった。泊まってもいいと言った妹たちには、病室が狭いから明日にでも、また来てくれればいい、もし、変化があったらこちらから連絡するからと帰宅させた。

 そして、一夜明けた八日の正午過ぎに、弟は永眠した。こちらか看護婦を呼んだわけではない。ナースセンターでモニターを見ていたのか、医長と看護婦が走って来て、一応脈を診、瞳孔を覗き込んで、ご臨終ですと言う。それだけだった。あっけないと言えばそれまでだが、そんなものだろうと納得するしかない。病室の外の廊下で待機していた公団の秘書に、弟の妻は直ぐに連絡をとるように言う。病院側からは、遺体を清めるので部屋を空けてくれと言われる。そして、遺体に着せたい洋服などがあったら出しておいて欲しいと言う。弟の妻は即座に、この前、整備新幹線の起工式の時に着て行った式服がいいと言い、あらかじめ用意していたのか、ロッカーからそれを出して、看護婦に託す。

 部屋を出て、私は妻に電話をする。昨夜のうちに事情は説明してあるので、妻は待機していてくれた。

「持って行くのは喪服とワイシャツとそれから?」

「靴も忘れないでくれ。それから靴下も」

「下着も持って行くわよ。汗、かいているんでしょう?」

「そうしてくれ」

 暑い日だったので、七日には、私はポロシャツにサンダル履きで印刷所へ行き、そのまま病院に寄っていた。

「どう行ったらいいの?」

「一時間ほどしたら、こちらを出るようになるだろうから、品川の方に来てくれないか。ああ、君は品川の家を知らないんだね。品川駅からタクシーでミャンマー大使館の方と言えば判る。大使館の前がT字路になっているから、そこを右折して百メートルほど行った所のマンションだ。その辺りまで来れば判ると思う」

 私が電話を掛けている間に二人の妹の姿が消えていた。彼女たちは八時前に私たちの朝食を用意して届けてくれていた。私が訊くまでもなかった。

「彼女たちには、先に帰ってもらって、家の中を片付けるように言ったわ」

 私は不愉快な思いに駆られた。確かに、二人は私にとっても弟にとっても姉妹ではあるのだが、少なくても一人は弟の姉に当たる。その二人に対して、こうしろと命じている態度が明らかに出ている。私は彼女と一緒に過ごしたくなかった。私は煙草が吸いたいからと、それを理由付けのようにして階段を下り、病院の外に出る。四日に、公団側から葬儀の予定を言われた際に、私はそれに答えていない。しかし、その予定通りに、ことが進んでいる。弟が死んだ後は彼に代わって、その妻が公団を指揮している。そんな雰囲気さえ感じる。

 病院正面の植え込みの影で煙草を吸っていると、直ぐにそれと判る車が入って来る。先の秘書も玄関まで来ていて、私に紹介する。

「総務課長です」

「お忙しいところ、ご迷惑をお掛けします」

「奥様からは、すべてお任せしますと言われております。私の方で、全部手配しました。ご遺体を運ぶ車も一時間後には来るように言ってあります」

 私が、葬儀をどのようにするかに就いて公団側に答えていなくても、彼女はそのようにして欲しいと、公団側の予定を受け入れていたのであろう。受け入れるというより、そうすべきだと言っていたのかもしれない。

「手順は、ご自宅に戻ってからご説明いたします。葬儀委員長は仁杉巌氏にお願いしました。それで、仁杉さんも次官も夕方までにはご自宅の方に伺うと申しておりますので、あちらでお迎えしてください」

 つまりは私に、弔問に訪れる高官に挨拶して欲しいという話なのだろう。そんなことも、公団の葬儀予定には書いてあったのかもしれない。私がそれに目を通していないだけで、ことは進んでいる。それも致し方なかろう。今更、私が葬儀は内内にして欲しいと言ってみたところで、走り出してしまっている車は止めようがなかろう。

 弟が、他人に迷惑を掛けたくないと言ったのは母の葬儀の際だったが、弟の気持ちがすべてにわたって他人に迷惑を掛けたくないというものなら、この暑い最中に、葬儀のために多くの人に集まってもらうのを遠慮したであろう。とりあえず、親族だけで葬儀を済ませ、秋になってからでも、公団側の行事を営ませたのではないか思う。

 しかし、この場合はそうはいかない。自宅に到着すると、そちらに先に着いて待っていた義弟が直ぐに言った。

「公団としての力を誇示しなければなりませんからね。それと、後任総裁の問題もありますよ。内内でとなると、副総裁が来て面倒を見ることになる。そうしてしまうと、副総裁が後任の総裁に昇格するという線が濃厚になってしまう。それを避ける意味でも、仁杉さんを葬儀委員長にして、大々的な葬儀にしてしまった方がいいという判断ではないのですかね」

 公団としての思惑が、いや、それは公団だけの問題ではなく、運輸官僚トップの思惑が交錯する中で、弟の葬儀の手順が決められた。一応、私も打ち合わせの席に呼ばれた。すでに、父が他界してしまっているので、長男としての私が親族を代表して登壇焼香の上、そのまま、参列者の焼香を受けるよう要請される。それも、致し方ない手順なのだろう。ただ、私は十一日の午前中に地区民生委員の選出を依頼されており、また、十二日には父の新盆供養で銚子の寺に呼ばれているという事情があった。公団の総務課長には、その旨告げた。その時、弟の妻が声を荒げた。

「弟のためですよ。兄さん、そなもの全部断ってください」

 その態度と、もの言いに、私は神経を逆撫でされた思いになった。それで、強く反発した。

「民生委員の選出は二ヶ月も前から決まっていて、関係者を集めている。私の意に反した仕事だけれど、これも公務だと思うから引き受けている。父の新盆供養も、私には欠かせない」

 座が白けたのが解った。それをどう感じたのか、妹が私の背後に来て言った。

「兄さん、上手く調整出来ないの?」

 私は答えない。そこを遣り繰りして貰えないかと弟の妻が言うのなら考えてもいいのだが、一方的に、全部断れと言われたのでは私も引き下がれない。

 公団の総務課長が葬儀社と連絡を取りながら、場所は青山葬儀所で、十日の通夜、十一日午後の葬儀を纏め上げて提示する。

「午後も二時からの葬儀にしていただけたら、午前中に民生委員の選出を終えて間に合いますし、十二日の銚子行きも大丈夫でしょう」

 結果としては、すべてに支障なく決まったのだが、弟の妻は私に、不満げな視線を浴びせた。

「僧侶を五人揃えたいのですが、こちらで頼んで宜しいでしょうか」

 総務課長の、その言葉に彼女は直ぐに反応した。

「うちの方で揃えます」

 そして、鼻を蠢かした。

 彼女の実家の縁続きに、僧侶がいるのは知っている。それに依頼して、動員しようと言うのだろう。末寺まで声を掛ければ、五人くらい集められると踏んだのだろうか。

 その、五人の僧侶による読経が始まっている。おそらく、青山葬儀所で経を唱えるなど、彼らにしても弟の縁続きにならなかったら、一生訪れる機会などなかったろう。それもこれも、すべては前運輸事務次官、現日本鉄道建設公団総裁の肩書きによる。私は空疎な思いに駆られる。確かに、二千人を超える参列者で溢れている。しかし、それはただ参列しているに過ぎない。花輪を贈ってくれた人も、弟の死を悼んでいるわけではない。

 そんな葬儀もある。それが一般かもしれない。私はふと、自分の屈辱の日を想う。

 

     (2)

 

 昭和十九年の春、私は府立三中を受け、失敗した。私には考えられない結果だった。それまで、私は一度として、苦渋を味わった試しがない日々を過ごして来ている。いわゆる苛めなどにも遭っていない。周囲の人々すべてに暖かく囲まれていた。その時、一緒に府立三中を受験した級友のY君が合格していたのだから、私には衝撃というより茫然と立ちすくんでいた思いが残っている。そのY君とは、小学校三年生以来の親友だった。

 小学校一年生として入学したのは、小松川第一小学校だったのだが、三年生になるに際して分割され、新設の第五小学校に替わった。第一小学校に通っていた一、二年生の頃の日々にはあまり思いがない。新しい学校に移って三年生のクラス編成がなされ、一組が男子生徒、三組が女子生徒、そして二組が男女組になった。私たちは、その二組に組み込まれ、卒業するまでクラス編成は変わらなかった。

 Y君と親友になったきっかけは級長選挙による。始業式が終わり、二、三日授業に出た後に私は風邪をひき、一週間ほど休んだ。そして、日をおいて教室に入ると、級長選挙をやると言う。

「だって、貴方が休んでいる間に級長選挙をやって、変な人が級長になってしまったら困ると思って延ばしていたのよ」

 女子生徒のAさんが言った。私は周囲から庇護されるような日々の中でしか過ごしていない。私は、そうした気遣いを当然のように受け止める。彼女が私に好意を寄せていたものかどうか、判らない。後年、彼女が明治大学の女子専門部に通っていた頃に一度会っているが、そこまで話題は進まなかった。ただ、その時、つまり、級長選挙を延ばしていると言われた時に、私は彼女に訊いている。

「ほかに、誰がいいの?」

「そう、Y君かN君」

 それだけ聞いて選挙に入った。私はY君の名を書いた。結果は私とY君が共に二十票、N君が八票だった。男女組だったからかもしれないが、男子二十四名、女子二十四名の票の結果だった。私は一瞬悔やんだ。私がN君を書いておけば私の勝ちだった。Y君が私の名を書いたかどうかも判らない。これも、後年になって知るのだが、選挙なら自分の名前を書いて投票するのが常識だと言う。小学校三年生では、そんな考えはなかった。それは何も、私だけの問題ではなかろう。

 それはともかく、その時は籤引きでY君が勝ち、一学期をY君、二学期が私、三学期にN君という順番が決まった。それ以来、Y君とは何かにつけて、相談し合う仲になっている。そして何故か、そのローテーションが卒業まで続く。一時、Y君が二学期の方がいいなと私に言ったことがある。二学期には運動会など各種の行事があり、その都度、私は花形になっていた。そして、どういうわけか五年生になると、六年生を飛び越して、国旗掲揚と青少年団旗を持って壇上に立つ栄誉を担ったのである。彼はそれをやってみたかったと言う。ちなみに、男女組だからか、二組の副級長は女子と、これも決まっていた。それも、級長選挙と一緒に行なわれ、そちらの方は、Mさん、Kさん、Nさん、_さん、そして私に声を掛けてくれたAさんと票が分散した。それで、五人がどのように順番を決めたのか判らないが、五人が順次副級長になった。

 当然、一組の級長は男子、三組の級長は女子だったのだろうが、何故か、行事の中心には何時も二組の級長が当てられた。それは六年生の最後になって知るのだが、最初から、男子も女子も二組に上位の生徒を集めて編成されていたらしい。今で言う、進学クラスになるのだろう。上級学校を受験したのは、Y君と私の府立三中、N君ら二人が府立七中、その他、府立化工に二人、そして、市立一中に二人が挑んでいる。一組の方の話は聞いていない。また、女子も小松川第七高女に二組から四人受験していて、これも三組から受験したという話は聞かなかった。そうした割り振りは、担任の教師によって行なわれたに違いない。そして、落ちたのは私と、第七高女を受験したAさんの二人だけという結果になった。それだけに、私は落ち込んだ。

 いずれにしても、私は府立三中に入れなかった。級長を分け合っていたものの、Y君よりも学力は上だとの自負があった。だからというわけでもないが、とりたてて受験勉強をしていない。受験勉強ばかりでなく、日常の予習、復習もした試しがなかった。それでも大丈夫だという自信があった。日常を言うなら、私は『ああ無情』や『三銃士』などを読むのに没頭していた。

 といって、私は日々、家に引きこもってばかりいたわけではない。父が国鉄勤務だったからか、小学校三年生の時には、丹那トンネルを抜けて沼津まで連れて行ってもらっている。当時、国鉄は東京から沼津までしか電化されていなかったので、沼津で蒸気機関車に切り替えられていたのだが、その作業を見せてもらった。次いで、清水トンネルを越え、越後湯沢まで行っている。こちらは、上野から水上までが蒸気機関車で、水上で電気機関車に切り替わる。その電気機関車の汽笛(?)の音が山肌に響き、木霊する美しさに感じ入ったのが今も記憶に残っている。そこでは、清水トンネルに入る列車がループ式の鉄路を行くのを見た。同じように、軽井沢に行った時には、アプト式のレールを目の当たりにしたし、スイッチバック方式の運行も体験した。

 そればかりではなかった。科学博物館や万世橋にあった鉄道博物館にもしばしば出掛けている。そして、当時、有楽町にあった毎日新聞社の建物と一緒だったプラネタリュウムの会員にもなって通っていた。一方で、小学校四年生のころから、叔父が保善中学に行っていた関係から、ラグビーと野球を教えられ、担任ではなかったが若い先生にせがんで、チームを作って校庭を駆け回ってもいる。もっとも、その先生から、ランニングは自分のペースを守って走れと教えられていたのが、後になって災いとなるのだが、とにかく、夏には、逗子の海に海水浴に連れて行ってもらったりして大事に育てられていた。だから、私が府立三中の受験に失敗したという結果は、私以上に、父には衝撃だったに違いない。それが後々まで、父の気持ちの中にわだかまっていたろう。とにかく、私は知識も体育も万全だという自負を抱いて受験している。しかし、結果は現れなかった。

 府立三中の試験を受けて帰った私は、当然受かるものと決め込んで、職員室の担任に報告した。筆記試験の様子に就いては、担任の先生も、それなら大丈夫だろうと言い、互いに納得しあったものである。それでも私は落ちた。

 それがすべてではないにしても、私には思い当たる節があった。体力テストというほどには考えていなかったのだが、学力試験のほかに、校庭を一周するテストがあった。私は自分のペースを守り、自分の走りで一周した。そういう風に走れと私は教えられていたし、私は自分の信念を曲げなかった。それなのに、私は走っている最中に二度、前との間隔があいている、詰めろと注意を受けた。私はあえて、それに従わなかった。慌てて走力を上げて前を詰める走りをしなかった。それはおそらく、走りの速さを変えて、それに順応できる能力を試していたのではなかったのだろうか。私はそれで、枠外に弾き出された。

 これは、私の一生に付き纏う。それ以後、私は私の意思を周囲の状況に合わせることなく貫いて来ている。そのために私は、ある意味で、栄光の道からはずれ、裏街道を歩む人生を過ごして来てしまったのかもしれない。それを悔いているわけではない。ただ、この時の中学入試の失敗が、私の人生を決めているように思う。しかし、十九年の春だから、私は一応、十三歳になっていたのだが、満年齢にすれば、まだ、十二歳にも達していない子供が、その時、自分の意思を貫く人生に思いをいたしたものかどうか、そこまで定かには言えない。

 そしてまた、もしその時、私が府立三中に受かっていたとしても、父が描いていたような道を歩み、弟のように政府高官の要職に就けたものかどうかも疑わしい。ちなみに、府立三中に受かったY君は後に、早稲田に進み、日本航空に入社し、中間管理職で退職している。人それぞれの能力は判らない。

 府立三中に失敗した直後に、私は府立三中と同じ両国にあった日大一中の受験を口にした。父は反対だった。経済的な理由もあったかもしれない。しかし、父の次の一言が私には堪えた。父は言った。

「そんな所へ行ったら帝大に入れない」

 父の思惑はあくまで、私を東大に入れ、そこから私が官界のトップになる未来にあった。そして、一年浪人しても、再び府立三中を受けるように言われる。そのために、私は小学校の高等科に行く羽目になった。それが、私には耐えられなかった。二日ほど行って、私は不登校を決め込んだ。そこで学ぶものは何もない。それには、父も母も困ったようだった。伯母の家の隣に住むというS氏と話を纏め、とりあえず市川中学に併設されている八幡中学への編入が決まる。そして、二学期からは市川中学に移すという。S氏は退役の陸軍准尉で、市川中学で長く教官を勤めていた。後で聞くと、厳しい教官だったという。

 五月になって、私は八幡中学に通うようになる。平井の駅で、府立三中に向かうY君とは反対に、下り電車に乗る屈辱を味わいはしたものの、小学校の高等科ではないのを自分に言い聞かせて、曲がりなりにも中学生になった。幸いだったのは、私と同じように府立に落ちて八幡中学校に来ていたF君に会えたことだろう。彼は本郷の肴町から通って来ていたので、東京帝国大学を毎日見ている。おそらく、そこの医学部に通う日を夢見ていたのではなかったのではなかろうか。しかし、彼は一学期の終わりに、栃木の方の親の実家に疎開してしまい、別れ別れになってしまうのだが、屈辱に沈んでいた私にとっては大いなる支えになった。ちなみに、F君は後に千葉医大に入り、内科医として活躍していて、今でも、何かと私の健康相談に乗ってくれている。

 二学期から、私は予定通り市川中学に移った。教官のS氏に目をかけられているのはいいのだが、そのためもあってか、私はすべてに率先して行動しなければならないような羽目に追い込まれる。柔剣道はもとより、学業もおろそかに出来ない。しかし、それは私に快い緊張感をもたらす。そして、S氏と話している中で、私は海軍兵学校への道を示された。彼が陸軍の退役軍人だったにも関わらず、海軍の兵学校を口にした理由が今でも解らないが、その時は、そんな疑問を問うまでもなく、士官への道を選ぶのが当然のように受け止めていたに違いない。戦火が厳しくなっている時代だった。もう、旧制高校から東大をという道を固執するわけにもいかなくなっていた。しかも、その翌年から、兵学校にも予備学生制度が導入され、中学二年から受験できるようになったのである。それを目指して、私は邁進する。

 そして、この時期、私は真面目にというべきか、真っ当に教科書に取り組んでいる。それは、後の章でも触れるようになるのだが、私が私の人生の中で自分自身に勉強を強いたのは、この時と、後は昭和二十一年から二十二年にかけての僅かな期間でしかなかった。それ以外に就いて言うなら、私は私の生き方に、真摯に立ち向かった時間はないように思う。昭和十九年の九月から、私はひたすら学業に励み、一方で、教練や柔剣道を通じて心身を鍛えている。

 昭和二十年に入って、母と弟妹たちは佐原市の母の実家に疎開する。父と二人だけの生活になるのだが、苦労というより、その方が誰にも煩わされずに教科書が広げられるのに、私は気持ちの上でも高揚していた。そんな中で、三月十日を迎える。その頃は三月初めに学年末の試験も終わり、息抜きの日々でもあった。九日の夜は、父が当直だと言い、私一人になるので、久し振りにY君を呼んで、互いの近況を語り合っていた。そこにU君が加わった。U君は高等科に進み、その年に、工業に進学する予定になっていたので、その相談に来たのだと思う。三人で語らっている間に、警戒警報が発令される。そんな事態にはもう、慣らされていた。しかし、それは直ぐに解除になる。私たちは枕を並べて眠ることにした。

 眠りについて幾らも経っていなかったろう。今度はいきなり空襲警報のサイレンが鳴った。私たちは飛び起きた。それが、まだ、九日のうちだったか、もう十日になっていたのか定かではない。しかし、事態は緊迫していた。すでに、都心の方では爆撃が始まっているのか、その方角の空が赤く望めた。私は制服に身を固め、支給されていた鉄帽を被る。二人も防空頭巾の紐を結んでいる。その時、我が家の庭に火柱が上がった。私は咄嗟に、布団を抱えて火柱を抑えた。

 それは、後になって知るのだが、その三月十日の空襲は東京の下町一帯が、焼夷弾による絨毯爆撃に見舞われている。私たちの所が絨毯の端に当たっていたのか、焼夷弾は我が家に落ちた一発のほか、数箇所で炎が上がった程度で、すべて消されている。その時点では、大火にはいたらなかった。

 Y君は直ぐに帰ると言って、我が家を飛び出している。何故かU君は残ってくれた。周辺での火災はなかったのだが、百メートルほど先で火炎が噴き上がった。U君が言った。

「とにかく、何か持って逃げよう」

 私たち二人は、寝ていた布団を担いで家を出た。三百メートルほど先に荒川放水路が流れており、その土手まで逃げれば安全だろうとの判断だった。私たちは、その間を二往復している。しかし、持ち出したのは布団とか毛布だけだった。それ以外の貴重品や箪笥の中に残っていたであろう母の着物などを持ち出す余裕もなかったし、そんなところにまで気は回らなかった。いや、その二度目の時、私は教科書類を鞄に詰め込んで肩に掛けている。私にとっては、それが貴重品だった。三度目にはもう、危険だからと土手から離れるのを抑えられた。

 U君と私は、そこで燃え盛る炎を見ているしかなかった。私たちは無傷だったが、私たちの周辺には、炎の下を逃げて来たのであろう火傷を負った人たちや衣服が千切れている人たちが続々と押し寄せてくる。阿鼻叫喚というのか、子供の名前を叫んでいる母親や手当てのしようもない傷をそれでも布切れを巻いて凌ごうとしている人たちが、折り重なるようにして(ひしめ)いている。状況は全く判らない。荒川放水路の土手には高射砲の陣地があったはずだが、応戦している様子もない。もちろん、そんな高射砲が役に立つとは、私でも考えていなかった。おそらく、そこに駐留していた兵士たちは被害地域に出動して、救援に当たっていたのだろう。

 火炎は夜が明けるまで衰えなかった。それでも、周囲が明るくなった頃には収まったように見えた。幸いなことに、放水路の土手の周辺にまでは火炎は及ばなかった。その辺りは焼け残っている。U君の家は放水路に近かった。

「うちは焼けていないかもしれない」

 U君が立ち上がる。

「うちも焼けていたら仕方がない。とにかく、これをうちに運んで、それから考えよう」

 U君が冷静に提案する。そうするしかない。土手の上から見たところ、我が家の辺りは完全に焼けてしまっている。私たちは我が家から持ち出した布団類を担いでU君の家に向かった。彼の家は焼け残った地域にあった。しかし、そこに留まるわけにはいかない。私は布団類をU君の家に託して、焼けてしまっている我が家に戻ることにした。

 我が家は完全に焼け落ちていた。何一つ残っていない。そんなものだろうとの思いもあった。悔しさとか虚しさといった感慨は沸かなかった。ただ、私の家が焼け止まりで、道路ひとつ隔てた放水路側が全く無傷のまま、それまでと変わらない佇まいだったのに、奇妙な光景を見ているような思いにも駆られた。しかし、それも運命といったような迫り方をしたわけではなかった。それでも、焼け跡に足を踏み入れて、燻っている瓦礫の中に焼け爛れた腕時計を発見した時には、しまったと思った。中学に入った時に、記念に買ってもらった時計だった。枕元に置いて寝た。鉄帽を被った後に、それを腕にするつもりでいたに違いない。その余裕がないままに私は消火に立ち向かい、そのまま逃げてしまった。

 Y君がどうなったか判らない。彼の家も焼けてしまっているのだろう。しかし、早い時期に、彼は家に戻っているはずだから、何処かに避難しているだろうと考える。それより、私はこれからどうすべきかの決断を迫られている。父に連絡の取りようがなかった。疎開先にいる母たちは無事であるに違いないが、東京駅の前にある建物に、父はいるはずだった。そちらが、どのような状況になっているかも判らない。死んでいるかもしれない。それも、私は当然のように受け止めていた。

 燃え(かす)の板切れを探し、それに、これも焼け焦げた棒切れで、母親が疎開している佐原に行くと書いて、何とか焼け跡の中心に立てた。これから歩き出してみたところで、数十キロ以上もある佐原まで、その日のうちに辿り着けようはずもなかったが、そう書いておくしかない。取り敢えずは、市川の中学校に行くしかなかろう。幕張に伯母が住んでいるのだが、そこまででも、ゆうに三十キロはあろう。市川までなら十数キロ。それなら、夕方までには行き着けよう。学校で一泊させてもらい、それから考えようと思う。

 私が焼け跡を出て、歩き始めようとした時に、肩を叩かれた。父だった。よかったなと思った。それだけだった。特別に感激したとか、抱き合って無事を確かめ合うようなことはしなかった。その日の都内の交通がどうなっていたのか判らない。しかし、いずれにしても、隅田川周辺からこちら側は鉄道の施設も全焼しているのだから、電車が走っているわけがない。父は朝早くに東京駅前の本省を出て、歩いて戻ったに違いない。だから、昼を回って辿り着いた。状況を直ぐに飲み込んだ父は言った。

「新小岩から、二時に列車が出る。とにかく、それに乗って、佐原へ行こう」

 鉄道の仕事をしていたからか、そうした運行を踏まえて戻って来たのだろう。私は手短に、布団類をU君の家に預けていると告げる。

「じゃ、そこに寄って、暫く預かってもらうよう頼んで、新小岩へ行こう」

 新小岩は荒川放水路の向こう側、つまり千葉県側になる。そちらは被害にあっていないのだろう。だから列車も出る。U君の家に寄り、放水路の土手に上る。そこから向こう岸の新小岩に行くには、通常なら、一キロメートルほど下流にある東京から千葉に向かう国道が通っている小松川橋を渡らなければならないのだが、父はためらわずに、通常なら、列車が通っている鉄橋を渡り始める。新小岩の駅に行くには、それが一番近いし、今はそこに列車は走っていない。しかし、一、二歩行って、私はためらった。意外にも枕木は等間隔に並んでいない。そして、その隙間は思ったより広い。私は一歩、一歩、枕木の間隔を確かめながら歩みを進めなければならない。川面がずっと下に見える。目をそらすわけにもいかない。駄目だとも言えない。私は肩からの鞄の紐を握り締めて父に従った。

 二時に、新小岩を発車した列車だったが、佐原に着いたのは暗くなってからだった。父と私の姿を見て、母は一瞬、驚いた様子だったが、次の言葉に私は衝撃を受けた。

「何も持ってこなかったの?」

 無事でよかった、生きていて何よりだったというような迎え方をされなかった。この時の母の言葉は今もって、私の中に(うず)いている。それはともかく、その母の言葉を聞いて、私はその場に座り込んでしまった。朝から何も食べていない。疲れきっていた。父も同じであったに違いない。しかし、父は言ってくれた。

「何か、食べさせてやってくれないか。それから、火の中を潜って来ている。風呂にも入れてやれないか」

 実家とはいえ、母にも遠慮があったのであろう。直ぐに、食事だ、風呂だと言い出せなかったのかもしれない。しかし、二、三日は母の実家で過ごすことになる。その間、父と母がどのように相談したのか判らない。数日もしないうちに、私たちは幕張の伯母の家に移っている。伯父はシンガポールが陥落した直後に、司政官としてシンガポールに行き、マレー鉄道の管理に当たっていた。それで、伯母が一人で住んでいたので部屋は空いている。当然のように、私たち一家はそこに雪崩れ込んだ。伯母は迷惑だったに違いないが、断るわけにもいかなかったのだろう。父の勤務も私の通学も、幕張からなら可能だった。

 幕張に落ち着いて直ぐに、私は市川の学校に行った。まずは、住所変更をしておかなければならなかったのと、それ以後の学習に就いて確かめておきたかった。学校はもう、休暇に入っていて、生徒はいなかった。事務室で話をしている時に、S教官が姿を見せた。

「大変だったそうだな」

「家は焼けましたが、おかげさまで元気であります。幕張の伯母の家から通うようになりますので、お世話になります」

 S教官の家は伯母の家の隣である。毎日監視されているようになるだろう。それも致し方ない。

「落ち着けてよかった。それより、兵学校への受験は、そのまま進めてもいいな」

「はい。お願いします」

 私は、はっきり答えている。新学期については、四月一日に指示があるから、登校するように言われる。しかし、その四月一日に、私たちは中山競馬場行きを命じられる。動員令である。中山競馬場では、近郷の農家から集められた馬の血液を採取し、血清をつくる作業が行なわれていた。私たちに課せられたのは、それらの馬の世話であり、各厩舎に配属されて、馬の食事、敷き藁の清掃、その間を縫って馬を引き出し、適度な運動をさせることだった。それほど過酷な労働ではなかった。むしろ、楽しい時間を過ごしていた。適度な運動といっても、扱っているのがやんちゃな中学生である。勝手に自分が世話している馬を連れ出しては、手綱一本で競争に興じたりしていた。鞍なんかない。全くの裸馬である。それでも平気だった。誰に教わったわけでもないのに、私も含めて、みんなが裸馬を乗りこなしていた。

 そんな中で、私は私にとっての唯一の戦いを体験する。空襲警報が出ていたわけではない。私は二頭の馬を曳いて近在の梨畑を歩き、競馬場に戻って来た。その時、突然、怒鳴られた。メインスタンドからだったので、拡声器か何かで怒鳴られたに違いない。

「馬を放して退避しろ」

 私は馬を放さなかった。いや、放せなかった。もし、そこで馬を放してしまって行方不明にしてしまえば、鉄拳制裁に遭うのを知っていたからである。再度、叱咤の声が響いた。

「ばか者、馬を放せ、退避しろ」

 その時になって気付いた。グラマンがこちらに向かって降下して来ている。馬もいきり立って左右に私を引っ張る。このままでは、馬もろともグラマンの格好の標的になって、簡単に殺されてしまうだろう。私は馬を放し、傍らの側溝に飛び込んだ。側溝から一メートルほど先に土煙が連なった。見上げると、操縦席から体を乗り出してこちらを見ているパイロットが識別できた。それだけではなかった。パイロットは撃ち損じてしまったのが悔しかったのか、一度上昇してから、また、こちらに目掛けて突っ込んでくる姿勢をとった。その角度を見て、私は側溝を飛び出し、数メートル先の木の根元に伏した。別に、恐怖感はなかった。それが、戦いだと思った。機銃は側溝を中心に撃ちこまれた。私は無事だった。私は戦いに勝ちはしなかったが負けたわけでもないと自分自身に言い聞かせた。

 馬は二頭とも行方不明になってしまった。しかし、それについての咎めはなかった。咎めどころか、司令官から、沈着な行動は見上げたものであると褒められたのを教官が鼻を(うごめ)かして伝えてくれた。

 そんな日々を過ごしていたから、その頃は勉強どころではなかった。それは全国何処の中学生でも同じであったに違いない。六月の末になって、私は動員先の中山競馬場から学校に呼び出され、九月一日に江田島に行くよう指示された。試験らしい試験を受けていない。その時は学校推薦という形で入学が決まったと後で知らされた。そして、七月からの動員が免除され、江田島に行くまでしっかり勉強しているように言われる。

 それからというもの、私は佐原の母の実家に移って、勉学というより、ほとんど何もしない日々を過ごしている。そして、八月十五日を迎える。盆の行事か何かで、私は本家筋に使いに行った。戻ってみると、母の実家には近所の人たちも集まっていて、戦争が終わった、いや、まだ、終わっていないと騒いでいる。正午に、天皇の放送があったと言う。私は聞いていない。しかし、時間が経つにつれて、戦争は終わったという認識が広まる。ただ、その時はまだ、私は江田島に行くつもりでいた。

 これは後になって、私が時事通信社の文化部長だった頃になって知るのだが、豊田穣氏を偲ぶ会があり、その席で、豊田穣氏を慕って長い間、彼のところに出入りしていたというE氏により、当時の状況が判明した。E氏は昭和二十年の四月に兵学校に入ったものの、江田島ではなく、直ぐに長崎県の大村に移され、そこで英語教育を受けていたと言う。そして、八月に入ってから、九月に入校してくる予定の二千余名に上る中学生の名簿の整理をしていたと語った。私は思わず答えた。

「その名簿の中には、私の名前もあったはずです」

「あの時、中学二年生だった?」

「ええ、動員先にいましたけれど、九月に江田島に行くように言われていました」

「いや、私たちは名簿の整理を終わった段階で帰郷するようになったのですが、その名簿の人たちを幻の兵学校最後の生徒だと言っていました。幻の生徒に会えるとは思いも寄りませんでしたよ」

 二千余名の生徒と聞かされて、私は私なりに納得した。通常、二百名前後の生徒しか採らない兵学校が二千名も集めたから私もその枠内に入れたのだろう。普通なら、私など受かるはずもない。そして、その二千名について、彼は、こうも語った。

「幼年学校と張りあったわけではないのですよ。海軍では、とにかく多くの中学生を安全な場所に移して、まともな教育をしておかなければ国家がおかしくなってしまうと集めたものだと聞かされました。まさか、そんな多くの少年を将校として船に乗せるわけにもいかなかったでしょうし、陸戦隊に組み込む考えもなかったでしょう。早く、安全な場所で教育をとの考えから、九月入校という変則的な方法を取ったのではないでしょうか」

 それはともかく、八月十五日は夜に入って、太鼓の音を聞いた。戦争が終わった証としてか、一挙に盆の行事が噴き出したように感じた。そして、そこには戦争とは全く関係のない昔のままの農村風景が広がっていた。しかし、私は私が辿って来た道が失われたのに、声も出なかった。

 

     (3)

 

 無条件降伏という言葉が、私の中にも定着し、広がった。これからの日々かどうなるか判らない。中山競馬場に戻ってみると、そこにはもう、生徒は誰もいない。厩舎には、元からそこの厩務員だった夫婦が残り、彼の指導で、私たちは馬の面倒を見ていたのだが、生徒が去ってしまった後、二人で残った馬の世話をしていた。八月十五日の夕方、動員生徒には解散命令が出て、皆、学校に戻ったと言う。その足で、学校に行く。

 誰もいない静かな校舎があった。事務員が一人だけいた。彼も、詳しい事情は解っていないらしく、九月一日に、全員登校するようにという指示が出ているとだけだと告げられる。授業がどうなるのか判らない。学校がそのまま存続するものかどうかも判らない。

 しかし、授業は九月から平常通り再開されることになった。もちろん、平常とは言っても、変則的なものだったろうし、教練のような課目ははずされていた。それから、剣道も柔道も禁止された。これまで持っていた教科書の一部を塗りつぶすようにとも言われた。授業が再開されたといっても、そこには、何もなかった。教師は自信なげに教壇に立っている。代わって、校庭では野球が始まっていた。正規のボールやグローブがあるわけではなかったが、それでも少年たちはたくましく、野球に興じた。

 その頃はもう、佐原の母の実家から幕張の伯母の家に戻っていたので、S教官とは隣家同士なのだが、その後の彼の消息は聞いていない。そんな時、彼が千葉市内をMPの腕章をつけて歩いていたと聞かされる。それが、米軍の要請によるものなのかどうかも判らない。しかし、そうした変わり身の早さに、私たちは笑いあったものだった。

 九月、十月の二ヶ月間は市川中学に通っていたはずなのだが、その間、何をしたのか、どんな授業が行なわれていたのか、記憶に残っていない。日記もつけていない。学校も先生も、そして生徒たちもすべてが混乱の中にあり、定見のない日々を送っていたのであろう。当時の校長は、イギリス・ケンブリッチ大学に学び、風貌、容姿ともにイギリス紳士を髣髴させる人であったし、私たちが一年生の時にも、英語教育に熱心な人だった。むしろ、戦争が終わってからの方が、彼の教育理念が生かされるのではないかと思われたが、彼は責任を感じているのか、学校に出てきていないと聞かされた。それで、私は彼に会う機会がないままに、市川中学を離れることになる。

 十一月に入って、我が家は大船に居を移す。転居と言えば聞こえはいいが、行った先は工員宿舎の一室だった。海軍の燃料廠があった所で、そこに徴用されて来ていた工員の宿舎で、十二畳の部屋が幾つもあり、その一室があてがわれた。そこに、国鉄関係の家族が数十所帯も集まっていた。共同浴場と共同便所があったが浴場は使いようがなく、それぞれの家族がドラム缶等を使って凌いでいる。便所は共同でも仕方がない。それを使うしかなかった。十二畳といっても、疎開先から戻った弟妹や父の妹の所で世話になっていた祖母までが一緒になったのだから、住むというより、ただ、布団を並べて眠るしかない生活だった。私たちはなすすべもなく、そこで、そんな日々を送っていた。

 大船に移って直ぐに、私は逗子開成中学に行った。転校の手続きのためだった。鎌倉や藤沢にも、それなりの中学校があったのだが、私は一も二もなく逗子開成を選んだ。逗子開成は海軍兵学校の予備校のようにも言われ、幾多の海軍士官を輩出している。私の思いはまだ、兵学校に繋がっていたのかもしれない。事務室で、多分、市川中学の一年生の時の成績表を提出しただけだと思うのだが、私はすんなり、転校を許された。もしかすると、兵学校への進学が決まっていたというような添え書きがあったのかもしれない。書類を出しただけで、翌日からの登校を促された。

 しかし、逗子開成の状態は市川中学よりも酷かった。何しろ、同級生は、つまり昭和十九年に入学した生徒はその年から造林作業や農作業に出され、二十年に入ってからは軍需部や弾薬庫に動員されていたと言う。全く勉強をしていない。そして、戦後の混乱の中に放り出されていた。三学期に入っても、まともに勉強が進まない。

 それでも、四月、三年生に進級する。若手の先生が入って来たからか、彼らの熱意によって、授業開始前に二時間の補習授業が行なわれるようになった。私も、大船から一番電車に乗って、その補習に参加した。通常の授業で進められている過程はすでに、市川の一年間で済んでいるものだった。補習は、その先を行っている。そして、それは夏休みに入っても続く。先生も生徒も必死だった。時間が限られている。昭和二十三年から学制が変わる。昭和二十三年、つまり私たちが四年生の春に行なわれる高等学校の試験が旧制度による受験の最後の機会になる。それまで、二年を切っている。その間に、四年分の学習をしておかなければならない。

 もちろん、全員ではなかった。希望者だけと言われて、初めは数十名も参加していたろうか。それが、夏休みに入る頃には十数名になってしまった。それでも、その中で、私は頑張っていた。私の中にはまだ、一高、東大への路線が燻っていたのかもしれない。家に戻っても、十二畳一間のそこには机もない。私は逗子の駅前に出来たCIAの図書館や鎌倉駅裏の図書館に寄って、教科書や参考書を開く日々を重ねていた。

 一高への思いはあったが、私は受験間際になって、一高を回避しなければならないだろうと考える。それで、静岡か水戸をと父に言った。それは即座に拒否された。

「そんな所に行ったら、地方大学を出ることになる」

 確かに、そうかもしれない。旧制度が続くのなら、静岡からでも水戸からでも東大に行く機会はあるのだろうが、新制度になると、それぞれに大学として独立するというのだから、そのまま地方大学で卒業するようになるのだろう。それなら、無理を承知でも、一高を受けろと言うのだろうか。私は父の顔を窺った。

「自信がないのなら止めろ」

 父は、それしか言わなかった。父は言いたくなかったに違いない。静岡や水戸に行った私に、学費を含めて、そちらで暮らすだけの費用を出せないとは言えなかった。私は思いを巡らせて、都立高校を選択する。

 その受験で、消息が絶えていたY君に出会う。府立三中の受験で明暗をわけた二人だったが、結局は同じではないかとの思いもあったが、私たちは再会を喜び合った。彼も私と同じように考えて、一高を回避し、都立高校を選んでいたに違いない。今度は一緒にと試験に臨んだのだが、二人ともども落ちている。後になって、私が早稲田に行った時、私は文学部だったのだが、Y君は早稲田の理工学部にいた。そこでも互いに、同じような道筋を辿っているのに、顔を見合わせて笑い合ったものだった。そして、さらに言うなら、彼は早稲田を出た後、日本航空に入社し、中間管理職で定年を迎えているのだが、私も時事通信社の文化部長で定年退職しているのだから、つまり二人とも経営陣に参画し得ないままに一線を退いている人生に、明暗の意味合いを考える。

 旧制の都立高校に落ちてしまえば、そのまま新制の高校に行かなければならない。もっとも、私たちの年代は旧制中学校で卒業してもよかったので、何人かは新制に移行せずに、卒業証書を受け取っている。しかし、そうなってみると、改めて東大を目指すような意欲は失われていた。自分の限界を知ったというべきかどうか。私の図書館通いも途切れ勝ちになり、高校での授業も疎かになる。いや、先にも書いたように、十二畳一間の所に帰っても仕方がないので、図書館で過ごす時間は変わっていなかったのかもしれない。ただ、私はそこで、学習するというより、フランスの文学書を読むようになった。何がきっかけだったか解らない。私はまず、サルトルに取り付いている。

 これも、ある意味では、それからの私の生き方を左右したのかもしれない。私が新制高校に移行して直ぐに、我が家は浦和に転居する。八畳と六畳の二間しかない家で、二軒が背中合わせになっているのだが、それでも庭がある住まいだった。それなら、数ヶ月前に、浦和を受けていたらどうだったろうかと、ふと思う。全く意味のない考え方かもしれない。いずれにしても、すでに新制高校に移行してしまっていたので、転校するわけにもいかないだろう。浦和から逗子まで通えないわけでもなく、事実、二ヶ月間ほどは通っているのだが、片道二時間余、往復にすると五時間近くも電車に揺られる羽目になる。その間、本を読むしかない。電車の中での読書だったから文庫本になるのだが、それで、文庫本に親しむようになり、結果として、私は小説にのめり込む。それしかない。そして、私は次第に文学の世界にスタンスを移して行く。

 夏休みを前にして、私はアルバイトをするから逗子にいたいと申し出る。後輩の家で、別荘のようにして使っている建物に、留守番代わりに住んでくれるなら、ひと部屋を無料で提供してもいいと言われたのがきっかけだった。逗子の海岸には、東鉄の海の家があった。採用する側は逗子の駅長で、その息子が同級生だった関係もあり、そこに押し込んでもらって、私の逗子での生活が始まった。もちろん、ひと夏の稼ぎで、幾ら住まいが無料だといっても、それだけですべてが賄えるわけでもない。しかし、逗子で過ごすと宣言してしまった以上、アルバイト口を探してでも頑張るつもりだった。それまで、客として立ち寄っていたラーメン屋での下働きなど、ささやかな仕事を見つけては、何とか過ごしていた。

 逗子に住むようになって、A君と急速に親しくなる。家が近くだったためもあるが、画家志望のA君の話に魅きつけられていったからかもしれない。彼は芸大を目指していた。そして、芸大を出たら、パリに行くと語った。

「俺は絵を描くしかない。そう決めている。戦争に行かなくてよかったと思っている。戦争中から、そうだった。何とかして、絵を描いていたいと考えていた。人間の存在を絵に求めていた。だから、パリに行きたい」

 そう語るA君に、私は触発された。文学書を読み漁るようになっていたので、私にも、パリへの想いはあった。

「僕は小説を書くよ」

 私はA君に、そう宣言する。

 自己を語るには、A君のように絵の世界もあるだろうし、音楽もあろう。しかし、才能の問題はさておくとしても、絵にしろ音楽にしろ、金がかかる。その点、小説なら、鉛筆と雑用紙ぐらいあれば事足りる。私の小説志望は、その面からも自然の成り行きだったと思う。そして、小説なら、アルバイトをしながらでも書ける。私は自分の才能を棚に上げて、小説を書くと言ってしまった。それまで、私の念頭にはなかった選択だった。東大を目指すのが私の人生であるかのように言われ、それは必ずしも勉学のためではなく、社会のエリートとして歩みを求められていたに過ぎないのだが、それが失われた時点で、私は突如として、文学を、それも小説を書くという道を求めた。文学少年ではなかった。詩に親しんでいて、小説に移行したわけでもない。ただ、鉛筆と紙さえあれば出来るという、私のそれからの進路は、そうした要素から確定する。

 そのために、私は早稲田の仏文科を念頭に置く。しかし、それを父や母に言ってみても意味がない。私は就職すると告げる。自力でやって行くしかないと考えたからだった。ある意味では、それからの生活は荒れていたと言うべきかもしれない。受験のための勉強はとうに放棄していたのだが、小説を書くのだからというのを言い訳に、一人でいるのをいいことにして、煙草や酒に親しむようになった。早稲田の仏文科を目指すといっても、取り敢えずは就職して、自分で学費を稼いでからの話になる。

 私の小説家志望をさらに強固なものにしたものが、戦争責任論の討論の中にあった。それは、戦争が終わって直ぐの頃から始まっていたらしいのだが、その頃、学園内では戦争責任を追及する声が高まっていた。ある種の運動が急速に整備され、組織的に動き始めていたからかもしれない。そうした議論が、そこここで交わされていた。小は、ある教師に対するものから、大は、天皇の責任問題にまで及んでいた。

 天皇の責任問題は早くに回避され、定着しつつあった。それはアメリカの占領政策によろう。しかし、神ではないと宣言した以上、それなら、人間としての解明が必要ではないかとの考えが私に芽生えた。人間を書く。フランスの文学書を読むうちに、私の心の中に刻み込まれて行った思考がそれだった。人間になったと言いながら、天皇は天皇でしかない。私は、それに反発した。

 とにかく、自力でやって行くしかない。その証の意味もあって、修学旅行に行く費用も父に求めずに、一人学校に残った。級友との語らいも、それで断ち切られた。すべて、私の意志で決めた。何処かに就職して小説を書く。私には、それしかないという思いがあった。早稲田の仏文科を目指すにしても、自分で何とかしなければならない。

 しかし、簡単に就職をしてと、口では言えるものの、就職口が直ぐに見つかるわけもない。今の時代なら、アルバイト先を転々としながらでもやって行けたと思うが、その頃はまだ、それほど働ける場所がなかった。私は父に、そしてまた、その頃すでにシンガポールから帰って来ていた伯父に、就職口を探して欲しいと懇願するしかなかった。その結果として、伯父の口利きもあって、日本通運への就職が決まる。

 

     (4)

 

 昭和二十五年、新制高校を出て私は日本通運東京支社に入社する。といっても、私は一般の入社試験を受けていない。四月の末近くになって、東京支社に来るようにとの連絡があり、訪れると、いきなり経理部長の所に行けと言われる。それが面接試験といった形になったのだろうか。その場で、会計課に配属される。その頃の東京支社長は静岡の駅長をしていた人と聞く。そんな関係からか、私は入社試験らしいものを受けずに、東京支社に入れてもらえたのかもしれない。

 いい社員だったかどうかは解らない。簿記など知らない。帳簿付けを教わりながら、貸方、借方といったような用語も覚えた。会計課だから帳簿づけや計算に算盤が欠かせない。小学生の頃に手にしていたに過ぎない算盤だったが、数ヶ月のうちに、社内テストのようなもので三級に認定されたのだから、それなりに仕事はこなしていたのだろう。しかし、そこで一生を過ごすつもりはもともとない。私の思いはあくまで文学にあった。だから、私の勤務態度の端々には、それを臭わすものがあったに違いない。大目には見てくれていたのだろうが、いい社員であったとは言えなかろう。

 伊豆の函南に、健康保険組合の寮があって簡単に宿泊できるのを知った私は、入社一年目というのに、しばしばそこに行き、小説を書いている。温泉で小説を書く。私はもう、いっぱしの作家気取りだった。そればかりではなかった。同じ会計課員の一人の奥さんが新宿の二幸裏で飲み屋をやっているのをいいことに、そちらにも出入りして酒を飲み、大人の仲間入りをしていた。

 私が函南の寮で、その後、その寮は熱海に移るのだが、そこで、小説を書いているのを知られ、私は誘われて、その頃、東京支社にあった雑誌「いこひ」に小説を書いている。ちなみに、私が「日通文学」に関係するようになるのは、私が早稲田に入ってからで、それから二年ほど後になる。とにかく、そうして、勤務しながら小説を書き、酒を飲んで日々を重ねているうちに一年が過ぎようとしていた。就職してから、浦和の家に戻っていたので、給料は全部自分で使える。それなら、学費も賄える。昭和二十六年、私は私が想い描いていたように、早稲田の仏文科に入る。試験科目に数学や物理といった理科系がなかったので、受験勉強もしないままに一年を過ごしてしまった私でも通れたのだろう。口頭試問の際に訊かれた。

「早稲田の仏文科を選んだ理由は?」

 私は昂然と答えた。

「小説を書くためです」

 教授が三人並んでいて、そのうちの一人が質問したわけだが、私の答えを聞いて、他の二人が、そういう学生がいてもいいねというように喋り、それだけで口頭試問は終わってしまった。今では、そうはいくまい。その頃はまだ、そんな時代だった。

 もちろん、その時はまだ、日通の社員で、日通に通っていたので、第二文学部、いわゆる夜間部に入ったのだが、要は早稲田に行けばいいのであって、昼、夜の区別については意に介さなかった。それに、卒業して、どうこうというわけでもない。卒業する前に作家になっていればいいのだから、早稲田に入っただけで私は意気軒昂だった。だから、早稲田の仏文科に行ったからといっても、小説を書くのが目的なのだから、講義に出席して、フランス文学史などを懸命に勉強しようとも思っていない。実際に、夜間部といっても、原則として、五時、七時と、七時、九時の時間帯に講義が行なわれているのだから、五時に間に合うわけがない。七時、九時の遅い方の時間帯にある講義で興味の持てるものだけを選んで出掛けていた。新庄嘉章、坪内士行、河竹繁俊といった教授を目の前にするだけでよかった。学部長だった谷崎精二、西条八十はもう教壇には立っていなかったが、特別講義があると聞くと出向いていた。それだけだった。一般教養、特に語学などには出ていない。それでも、全く単位を取らないわけにもいかなくて、日曜日などに行なわれるハイキングなどに参加して、体育の単位を埋めるようにしていた。

 入学して直ぐに、私は演劇研究会と映画研究会に入る。それも、小説を書くためには必要と考えたからだった。演劇研究会、略して劇研と言っていたが、当時まだ、そこには小沢昭一が頑張っていて、私はその秋の公演で、舞台監督の助手を務めている。映画研究会の方では、後に坪内士行教授の知遇を得て、東宝の研究所に紹介され、砧の撮影所に通うようになる。

 そこには、他の大学からも何人か来ていて、十人ほどの研究生が映画脚本についての指導を受けた。折に触れて提出を求められる脚本を私は難なくこなしている。自分が書いて来た小説を脚本に仕立て直せばいいのだから、私には楽な作業だった。他の皆が四苦八苦しているのを尻目に、私は何本もの映画脚本を提出している。その最後の仕上げに、室生犀星の「あにいもうと」を渡され、よかったら使うと言われた。何人かが挑戦しているはずだが、結局、それは水木洋子の脚本で映画になり、我々の脚本についての評価は何もなかった。後に、その映画を観たのだが、それは梨畑を営む兄の許に妹が帰って来るもので、背景といい、描写といい、室生犀星の小説をそのままなぞったもので、何の変哲もない映画になっていた。私は梨畑を全く使わずに、都会の小企業を舞台に脚色して、親の代からの町工場を営んでいる兄の許に、銀座の場末の酒場で働いている妹が訪ねて来るという設定にした。それなりに現代感覚を盛り込んだつもりだったが、受け入れられるものではなかったのだろう。

 しかし、当時、同じ研究所の隣の演技部では、宝田明、河内桃子が汗を流していて、休憩のひと時に談笑したり、渋谷から砧に通うバスで、まだ少年だった岡田真澄と一緒だったりしたのが懐かしく思い返される。そして同時に、自分の小説を脚本にする作業で、書かなくてもいい部分、つまり、演技、行動で具体化できる、また、そうしなければならない表現方法があるのを知り、それからの小説の文章の構成、会話のもっていき方、間のありようなどが学べたのを受け止める。

 いずれにしても、小説を書くために早稲田に行ったのだから、私はそれらの研究会に入ると同時に、同人雑誌を物色する。中で、「浪漫文学」の名称に惹かれて、そこの同人になる。これも、ある意味で、ひとつの岐路になったのであろう。主宰者というべきか、有力同人のありようによって、その後の状態が左右されるのを後になって知る。新入生では、そんな事情が解ろうわけもなく、勧誘された雑誌に入ってしまうのだろうが、そしてまた、離合集散の激しい集団でもあるのだから、自分の意思、力によって動けないわけでもないのだが、何がしかのしがらみを残してしまうのも、同人雑誌の宿命のようにも思える。

 当時、早稲田は丹羽文雄を中心にして、文壇に一大勢力を誇っていた。成功するかしないかはもちろん、本人の資質によるのだろうが、丹羽の門を叩くのを小説を書く目的に考えていた学生も多かった。そんな中で、私たちの集団は反丹羽の姿勢をとった。私も、それに同調した。反権威主義といった感覚が、どこかにあったのかもしれない。それと、私には、自分の中に培ってきた文学と丹羽集団が持っている文学とは、何か違うのではないかといった思いもあった。私は早稲田にいながら、早稲田でない集団と接触するようになる。

 それはともかく、同人雑誌仲間とは新宿に出るのが常だった。私は日通に入った時から新宿通いをしているのだから、先輩に伍して遅れをとらない。その頃、「浪漫文学」の連中は三越裏の明治通りに近い辺りにあった「トロイカ」という喫茶店を根城にしていた。喫茶店と言いながら、コーヒーではなく、アレと称する焼酎まがいの飲み物を口にしながら喋っている。そして、時が過ぎると、新宿駅東口脇の地下道を抜けて西口側に出て直ぐの所にあった「紅梅」なる飲み屋に行く。線路脇の掘っ立て小屋のような店で、カウンターに数人、壁際の席に二、三人が座ればいっぱいになってしまう。そこでよく、終電まで頑張ったものだった。終電を逃して、誰かの下宿に転がり込む仲間も多かったが、当時、私はまだ日通に通っていたので、何とか終電で帰り、翌朝にはきちんと出勤していた。

 そんな日々を重ねていたが、三年間の支社勤務の後、私は池袋支店への転勤を命じられる。通常の転勤だったと思う。二十五年に入った新制高校卒の社員は、それぞれに支店勤務を命じられ、都内の各支店に向かっている。浦和から通っていた私の事情を考慮して池袋が選ばれたのであろうから、温情ある転勤だったに違いない。指示通り、私は池袋支店に移る。しかし、支店での勤務は支社のようにはいかない。宿直もある。私はそこで決断する。

 折りしも、戦後最初の不況時代を迎えていて日本通運でも人員整理が言われ、退職金が上乗せになる制度が発足した。東京支社にいたら、世話になった人の手前もあって言い出せなかったかもしれないが、私はそれに跳び付き退職する。それで、当分の学費は賄えそうだし、一、二年もすれば、いっぱしの作家になれると思ってもいた。日本通運で一生を過ごすつもりがないのなら、早くに自由になった方がいい。

 その頃はもう「日通文学」とも関係していて、三田系の同人雑誌にも紹介されていた。そこには、発表する機会にまで至らなかったが、日通を辞めてからというもの、私は文学一筋という思いから、自分が中心になる同人雑誌を次々と立ち上げている。次々というのは、立ち上げはするものの、うまくいかないのと、私の考えとは違う方向に行ってしまい、私が離脱する羽目になってしまうからである。

 とにかく、日通を退社してしまえば、私には限りない時間があった。それまでろくに単位も取っていなかったのだが、それから急速に単位を稼いでいる。別に、卒業を目途にしたわけではなかったが、朝の時間に家を出てしまえば、大学に寄って教室で暫く過ごすしかない。それから新宿に出る。だから、先にも書いたように、東宝の研究所にも通えた。しかし、それも、初めのうちだけだった。そのうち、私も新宿で飲んで、そのまま誰かの下宿に転がり込み、翌日夕方まで眠りこけ、それからまた、新宿に出るといった生活に浸るようになる。

 そうなると、如何に日通から多額の退職金を貰っていたとしても、賄えるものではない。私は夏の中元時期と暮れの歳暮の季節に、大手百貨店の配達にアルバイト口を見つけ、稼がなければならない羽目になった。自転車の荷台に大きな籠を付け、幾多の配達品を積んで都内を回る。当時は一升瓶がそのまま、一本とか二本と包装されていたので、これが結構な重量になる。かなりきつい仕事だった。それでも、その仕事で、都内二十三区の地理に詳しくなれたのは収穫だったかもしれない。その他では、同人雑誌仲間の先輩が十条と赤羽で貸し本屋をやっていたので、店番をして日銭を稼いでいる。

 文学の話だけなら、そうした奇麗ごとで済んでしまうのだろうが、いや、それも文学のうちと思い、私はその頃、乱れた夜を過ごしてもいる。私が最初に女性を見たのは、感じたのは、日通に入って直ぐの頃だった。例の会計課員の奥さんがやっていた飲み屋に顔を出すようになって、そこで働く女性を女として受け止めるようになった。当然の成り行きだろう。二十四、五のやや年嵩の女性と私と同年輩の女性が働いていて、若い方の彼女が私に好意を寄せてくれていたように思う。

 ある夜、まだ暑い季節だったから、日通に入って数ヶ月も経っていない頃と思うが、したたかに酔って、私はその飲み屋で眠り込んでしまったらしい。気がつくと、カウンターの上に誰かが横たわっている。年嵩の方の女性だった。それも下半身を露わにしている。暑いからそうしていたのかどうかは解らない。二本の脚が伸びている。薄明かりの中で、私はその間に、黒々としたものを見た。割れ目は見えなかった。いや、感じなかったのかもしれない。何故か、そこは黒い毛の小島のように見えた。間近に、それを見るのは初めてだったが、それが何であるのか知らないわけがない。私は体を起こして近づき、そこに手をあてがった。女の足が少し動いたように思えた。それでも、そこを覆い隠そうというような動きではない。むしろ、脚を広げたように感じる。私は顔を寄せる。女の匂いが鼻を衝く。

「吸って」

 女が、そう言った。確かに、女の声だった。女は寝こけていたわけではなかったのだろう。私がそこに手をあてがったのも知っていた。女に声を掛けられて、私は身を引く。しかし、私には、女に、そう言われたからといって、それでどうしたらいいのか解らない。いや、私は普通に接吻を言われたものだと理解し、女の股間に近づけていた顔を上げて、女の表情を窺った。

「そこを吸ってよ」

 女の手が、黒々とした茂みを分けている。それでも、私には、その先にあるものが見えない。薄暗がりだったからだけではなかろう。そうした行為を私はまだ知らなかったし、そこに顔を押し付けるにはためらいもあった。

 その時だった。

「旅館は何処もいっぱいなの。どうしようもないわね」

 若い方の女が戻って来た。私は身を引いて佇む。

「姐さんも寝ていたの?」

 そう言われて、年嵩の女はようやく体を起こし、浴衣の裾を引き寄せた。

「姐さんも大胆ね」

 彼女も、女の股間を見ていたに違いない。しかし、年嵩の女は慌てる風もなかった。裾を合わせながらカウンターから降りると、椅子に腰を据えた。

「じゃ、三人でこうやって朝まで過ごすしかないね」

 それだけだった。もし、若い方の女が帰ってこなかったら、私たちはそのまま体を交えていたかもしれない。

「貴方のために、旅館を探しに行ったのよ」

 若い方の女が言った。何処か旅館に空いている部屋があったら、私はそちらで、若い方の女と一夜を過ごしていたであろう。それも、なかった。それで、私の最初の体験は幻になる。

 新宿で飲んで、誰かの下宿に転がり込むようになって、私は先輩の下宿というより、先輩の女の所に連れて行かれた夜があった。女が、どんな風に布団を敷いてくれたのかどうか判ろうわけもなく眠り込んだのだが、私は女の手を感じて目覚めた。温かく、そして柔らかな感触だった。それが、私の股間にあった。その手に導かれるまでもなく、私のものはすでに直立している。女の手が荒々しく私のパンツを引き下げる。私のものが屹立しているものだから、慌てていたのだろう。私の方からは、女に手を差し伸べられない。私はただ、動物的な反応で女の上に体を重ねた。しかし、私は私のものが女の股間に触れただけで、それすらも判らないうちに果てている。挿入したものかどうかの覚えがない。それでも、私は女の股間に私のものを押し付けているのだから、それが、私の、女性との初めての交わりだったと言えよう。

 ただ、翌朝になって、先輩とその女が慣れ親しんでいる様子を見て、釈然としない思いに駆られる。その時、先輩の女は、先輩と私を取り違えて私の方に手を入れて来たのだろうか。そして、まだ、それに気付かないでいる。そんなものだろうか。もし、私と承知していての行為だったら、先輩は裏切られている。私は女と視線を合わさないようにして、そこを出た。そして、歩きながら考えた。彼女は知っている。先輩との行為なら、先輩はああも簡単に果てはしなかったろう。そこに、私は女のしたたかさを感じた。

 それはいい。しかし、私には、女に挿入した感覚がなかったために、それから数日、あれは何だったのかなという思いに駆られて過ごす羽目になる。それならと思い、自分の男を明確にしようと、新宿二丁目に女を求める。そして、私はそこで、ようやく、挿入したという思いを果たすと同時に、その女と風呂に入り、新宿の飲み屋で初めて見た黒々とした陰毛が、人並み外れたものだったのを知る。二丁目の女の陰毛は、それを掻き分けるまでもなく、その先のものを曝していた。

 そうなると、歯止めが利かないというのか、そうした場所に出入りするのが日常になってしまい、新宿で夜を過ごす回数が多くなる。それは新宿ばかりでなく、その頃、中央線の終電が三鷹止まりだったのを利用して、三鷹駅の五日市街道側にあった青線地区に行ったり、都内ばかりでなく、都内周辺のそうした箇所に通っている。そればかりではない。前述の「紅梅」に飲みに来ていた女子学生を誘って、甲州街道の向こう側、新宿の貨物駅があった裏側辺りの安宿に泊まったりもしていた。

 そうして、早稲田で四年間を過ごすのだが、その間、私の発表する作品は新聞や雑誌の批評で度々取り上げはされるのだが、それ以上には評価されずに終わってしまう。一、二年のうちにいっぱしの作家になるという思い上がりは、あえなく潰える。まあ、それが普通なのだろう。学生のうちは、それくらいの思い上がりがなければ、小説など書いていられない。今なら、留年して学生を続けていたらと思わないわけでもないが、その頃にはもう、やや、諦めの気持ちも芽生えていた。それなら、取り敢えず就職して、それからの道を探らなければならないだろう。

 というのも、その頃すでに、私は女子学生と半同棲の状態にあった。私が劇研に入っていた関係から、ある劇団の手伝いを頼まれ、そこに出向いた時に、渋谷の女子大学から来ていた女優から、詩を書いている友人がいるのだが、早稲田のしかるべき同人雑誌を紹介してくれないかと言われ、引き受けた。ところが、彼女は一般の女子学生で、東京駅を七時半に乗らなければならないと言い、我々が飲み始めようとする頃には帰ってしまう。最初は私も、それで仕方がないと思い、「トロイカ」ではなく、その近くにあった、まだ木造時代の「風月」で、コーヒーを飲んで過ごしたものだった。

 私はもともと、彼女を連れて来た女子学生の方に関心があり、付き合っていた。学生ではあったが、一応、女優として舞台に立っていたからか、男を惹きつける何かを持っていた。芝居の話を口実に、最初は高田馬場に、次いで新宿に連れ出して酒を飲む機会を私は意識して作った。あまり飲める方ではなかったらしいが、女優としてのツッパリもあったのか、私の誘いを断らない。そうした帰り、一応は彼女を東横線の綱島にあった彼女の家まで送っていたのだが、遅くなったのを口実にして、安宿に泊まり、彼女と深い仲になるのに、それほどの日時は要しなかった。綱島には、今でもそうだが、そのための安宿が幾らもあった。

 恋心というほどのものではないにしても、それまでの商売女や行きずりの女との交わりとは違い、私はその女にのめり込んだ。そうした私たちの関係があって、彼女は友人の女子学生を私に紹介したのだろうが、一方に、もう慣れた男女の関係があったからか、私は彼女から紹介された女子学生に、他人行儀でいられたのかもしれない。

 しかし、紹介された女子学生は横須賀出身で、私が逗子で学んでいるのを知ったからか、私に親近感を持つようになったらしい。話しているうちに、彼女が横須賀のはずれ、久里浜からさらにバスに三十分も乗って帰らなければならない事情も知る。それが鬱陶しいと彼女は言う。

「それなら、帰らなければいいじゃないか」

「それも、そうね」

 彼女はこともなげに答える。初めから、そのつもりだったのかどうかは判らない。その次に出会った時には、七時を過ぎても立ち上がらない。そればかりではない。飲めもしない酒を飲みに付いてきた。当然、七時半には乗れない。私は彼女に電報を打っておくように言った。その頃は駅からでも電報が打てた。私たちは新宿駅に立ち寄って彼女の家に電報を打ち、それから飲みに行った。当然、その夜彼女は私と新宿の安宿に泊まっている。おとなしい女子学生だとばかり思っていたのだが、意外と気性の激しい面があったのかもしれない。

「好きなようにしてもいいと言われたわ」

 その次に会った時に、直ぐそう言った。電報を打ったのはよかったのだが、相手は誰かと詰問されて、私の名前を言っていたらしい。しかし、だから、結婚して欲しいというような言い方はしなかった。独りでもやって行くつもりだったのかもしれない。その頃にはもう、彼女も彼女を私に紹介した女子学生と私との関係を知らないわけでもなかったろうから、あえて結婚を口にしなかったに違いない。それでも、好きなようにしてもいいという言葉の裏側には、私と結婚してもいいという意味合いがあろうから、それからは彼女の思惑通り、私が彼女を連れ回す羽目になる。そして、卒業を目の前にする頃になると、私は二人でやって行くしかないだろうという考えに追い込まれる。そうなると、留年してでも、のんびり小説を書いていればいいといった気持ちは何処かに追いやられる。その結果、私は彼女と一緒になり、今日まで来ている。もし、男と女が一緒になるについて、愛という言葉が必要なら、私は彼女を紹介した女子学生と結婚していなければならなかった。

 それはともかく、その時代も、就職難だった。無理とは解っていたが、私は毎日新聞と松竹を受けている。もちろん、一蹴されてしまう。幸運だったのは、逗子開成時代の級友の兄が政府広報誌の編集長をしていて、そこで使ってくれるという。それが後に、時事通信社に吸収され、いっぱしのサラリーマンとしての生活に入る。その部分について言うなら、私は恵まれていたのかもしれない。一方で、安泰なサラリーマン生活に浸ってしまったから、文学に対する一途な思いが薄れてしまっていた時期と言えなくもない。

 ところが、昭和四十四年に書いた小説が「小説現代」に採り上げられる。寺内大吉、菊村到と大きな活字で目次が並んでいた。その他、その号には、梶山季之、野坂昭如、笹沢左保、川上宗薫らが書いていて、目次の活字が彼らより大きい。私は戸惑いを覚えた。読み物を書いたつもりはない。それまでの私の作品となんら変わってはいなかったのだが、セックス描写が現代的だと見られたに違いない。セックスだけを書くつもりはないので、次に要請された時に、私の私なりの作品を持って行ったら、これでは駄目だと断られた。確かに、その時、編集長の要請に従って、そのままセックス物を書き継いでいれば、読み物作家にはなっていたかもしれない。それをしなかったのは、サラリーマンとして安定した収入があったからに違いない。もし、ろくな職業にも就いていなくて、日々追われていたのなら、どんなものでも書かせて欲しいと、跳びついているはずである。そして、俺の文学は違う所にあると自分に言い聞かせたりはしない。しかし、その時にはまだ、自分の小説に(こだわ)る気持ちが強く私を領していた。

 そうした思いを強固にしたのは、その頃、私が「星座」に所属していたからだろう。「星座」は戦前に、第一回の芥川賞作品を掲載した雑誌である。それが昭和三十年に復刊されていた。復刊する前、昭和二十九年に、私の小説を読んだS氏が、「星座」をやりたいから参加しないかと誘ってくれた。まだ、私が学生だった頃である。彼と話をしていて、フランス文学に傾倒していた私は惹かれた。自分の文学をやるには、丹羽の所に行くより、ここしかないと決めた経緯もある。そのためもあって、私は私の文学を止めないで、今日まで来ている。何も、慌てて、売るための小説を書く必要はないという思いが、私の中にはあった。

 しかし、それもこれも、詮無い話ではある。「小説現代」ばかりでなく、「新潮」も「文芸」も、その時々の編集長からは目をかけられていた。それぞれの雑誌の新人賞といった賞の発表の際に、受賞しないのに予選通過作品として貴方の名前を入れたのでは、かえって傷がつくと思うから削除しましたという電話を何度貰ったことか。そこで、受賞した作家が、その後どれほどの作品を書いているかとなると心細い。全く忘れ去られてしまっている人の方がほとんどだと言ってもいいだろう。

 ざっと数えて、五百編ほどの小説を書いて来たろうか。四百字詰めの原稿用紙にすると、三万枚程度になろうか。それが多いのか少ないのか、はたまた普通なのか判らない。しかし、私は私が決めた道を歩んで来た。五百篇が全く顧みられずに埋もれてしまっても、それは致し方ない。文学とは、そんなものだと思うしかない。はたまた、いい小説はそんなに書けるものではないという人もいる。せいぜい十篇ぐらいを集中して書くべきだったと言われる場合もある。しかし、とにかく、書かなければ駄目だと言われ続けて来た。書かなければ、文章は練れてこない。私も、その気になって、書き連ねて来ている。

 

     (5)

 

 棺の上に飾られた弟の写真をもう一度見やる。彼は自分の思いを全うしたと言うだろうか。一般的に見るなら、運輸事務次官を勤め、今、鉄道建設公団総裁として葬られようとしている。それが名誉というものだろう。彼は鉄道が好きだった。鉄道一筋に歩み続けて来た。祖父、父と鉄道に勤務していたのだから、その意思を継いで運輸省に入ったのは間違いなかろう。

 それはそれでいいのだが、では、どれだけ自分の意思が鉄道に注がれたかとなると、彼の場合は違っていたように思われる。当初の新幹線はそうだったかもしれない。しかし今、総裁として関わっている整備新幹線となると、政治屋の思惑で建設が進められているに過ぎない。それでも彼は、そこに自分の意思があると言うだろうか。

 私が時事通信の熊本支局長だった頃に、彼は運輸省の課長時代だったと思うが、熊本に来ている。おそらく、博多、鹿児島間の新幹線問題の調整があったのではなかろうか。一夜、酒を酌み交わした席で、彼はそれには触れずに言った。

「兄さんは好きなことが出来てよかったな」

 彼は私に対して何時も、兄さんという呼び掛け方しかしない。そこに、彼の生真面目な性格というか、身の処し方が顕われている。だからこそ、父親の思惑をそのまま自分のものとして生きて来たに違いない。何故か、それが哀れにも思えた。私は彼の視線を避けて答えた。

「好きなことをしているといっても、単なるサラリーマンではどうにもならないよ」

「それでもいいさ。僕は天文学をやってみたかった」

「お前はちゃんとした出世コースに載っているんだ。参事官から局長は約束されているんだろう?」

「それだけの話さ」

 その時すでに、彼は単なる役人でしかない自分に愛想を尽かしていたのであろうか。いや、一方で、彼は役人としての自分を見詰めていたのかもしれない。それはつまり、鉄道が好きで仕事をしているのではなく、審議官、局長、次官へと進む歩みに、自分を納得させていたに違いない。そして、それこそが父の希求した道であった。

「道子も、義姉さんのように、自分の仕事があればいいのだろうに。芝居見物でもいい。何か趣味のようなものでもいいんだが、少しは外に目を向けてくれたらと思う」

 それは、彼の妻への不満だったろうか。彼は運輸省に入省して数年してから、さる人の紹介があり、見合いのような形で結婚している。弟の将来を見越しての結婚だったに違いない。それは、それでいい。しかし、それ以来、彼は妻からも絶えず、上り詰める道を強いられていたのかもしれない。もちろん、夫婦の間に、どんな葛藤があるのか解らない。いずれにしても、弟の場合、女性関係で問題があったとは思えない。それだけに、夫婦として純粋であったにしても、息抜きが出来ない生活に、弟の思いが、そんな言葉になったのだろう。だからといって、彼の妻を悪し様には言えない。彼女は彼女なりに、夫に尽くしている。

 その時弟は、それ以上に語らなかった。しかし、後年になって、宮中に出向くので、同じ着物を着て行くわけにはいかないというような話を姉妹にしているのを聞き、彼女の志向がどのようなものであったのか解るような気がした。それが、今回の葬儀にも顕われている。確かに、公団に任せるしかないのだろうが、それだけでなしに、彼女は総裁夫人として、その場所に立っていたかったに違いない。

 視線を巡らせて、彼女の表情を窺う。柔和な顔立ちをしている。顔を伏せていない。悲しみに耐えている様子は見られない。気丈だと言えば、そうも受け取れようが、そこには、そうした葬儀に満足しているといった風情が感じられた。

 確かに、これだけの葬儀が営まれる例はそう多くはあるまい。しかし、如何に豪華な葬儀であっても、それは何処か白々しい。追悼の言葉は、その地位に対するものであって、仕事の内容には触れてこない。それでも、彼は満たされているのだろうか。もちろん、彼はもう、それを知る術もない。いや、彼が病状が悪化しても総裁の座を去ろうとしなかったのは、責任感があるからだと彼の妻は言ったのだが、こうした光景を思い描いていたからかもしれない。

 すでに、何人かの先輩、友人が他界している。最初に入った「浪漫文学」の中心になって活躍していた辻史郎は十年ほど前に、誰にも知られずに死んでいる。同じ仲間だった山本梧郎も浅井栄泉も、それより前に亡くなっている。それぞれに、いい仕事をしていたとはいえ、誰にも顧みられたりはしない。全くの同級生で、国文科から来て「浪漫文学」や、その後、私が立ち上げた「無名派」でいい小説を書いていた白井更生は小説を捨てて映画の世界に入り、テレビドラマなどでも活躍していたが、これも早くに死んだ。仲間内で、名をなしたと言えば石和鷹であろうが、彼は「無名派」に水城顕の本名で参加しているのだが、彼とて、志半ばで他界している。

 そうでなくても、先輩の三上結介や森千人はもう、書かなくなって久しい。最初の頃、これが大人の小説だと言われた作品を書いていた大南勝彦は出身地の小田原に戻って文化活動をしているとはいうものの、それだけでしかない。白井更生と仲間だった立野善雄は公正取引委員会などに勤めていたらしいが、最近になって、川柳に凝っていると葉書を寄越したが、小説への思いは消えてしまっているに違いない。それで、いいのだろう。営々として、小説に取り組んでみても、それは、それだけでしかない。もう一人、私たちの同級生の中ではもっとも秀才だと謳われ、丹羽の門下生となり、早くに才能を開花させて華々しくデビューした富島建夫も、少女小説でもてはやされはしたものの、それが、彼の本意だったとは思えない。

 初七日の法要に訪れた際に、弟には、勲記と併せて、従三位の称号がもたらされたと示された。彼の妻は、これで殿上人になったんだわと喜んでいたが、私には、虚しさしか感じられなかった。この国にはまだ、天皇を中心とした思惑が渦巻いている。そのために、私も、府立三中への受験を強いられた。そして、それだけが目的だった。それなら、弟はそれだけは成し遂げた。そう思えばいいのだろうか。

 弟が熊本に来た時に、兄さんは好きなことが出来てよかったなと言った言葉を私は噛み締める。といって、私はどれほどの仕事をして来たのだろうか。鉛筆と紙さえあればいいと言った私の選択が、私には重く圧し掛かっている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/09/26

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豊田 一郎

トヨダ イチロウ
とよだ  いちろう 小説家 1932(昭和7)年東京都に生まれる。

掲載作は、「日通文学」2004(平成16)年8月号に発表。

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