最初へ

やがて、やってくるその日

    一

 

 そこが、かつて、どのような海であったのか、僕は知らない。当初は都会から出る塵芥を処理するための埋め立て地として、東京湾内にせり出して行った陸地が、現代の技術を駆使して整備され、新たな都市が形成されている。東京の旧市街地にも、近代的な高層ビルが林立するようになり、都市景観は大きく変わっているのだが、海上に造成された地域に見る市街は、全く異質な空間を思わせる。

 大森の老舗の料亭に生まれた妻は、大森海岸を語り、その辺りで展開されていた海苔の養殖に言及するのだが、その地域でも、海はすでに失われている。これから、僕が赴こうとしているホテルは、大森海岸からすればさらに都心に近く、近年になって造成された区域の一画にある。その辺りは、かつて隅田川の河口から広がる湿地帯であったはずだが、そうした自然の香りは、もはや感じられない。

 我々の未来を模索する時、自然との調和が言われる。しかし、実際には自然を無視して、人間優先の空間が造成されて行く。それが、我々の豊かさの象徴にもなっている。そうした営みは、人類の進化とともに続けられ、今日に至る。荒れた台地では安住の地にはなり得ず、また、海水の脅威から陸地を確保するために、さらには、洪水から農地を守るために、我々は自然にあらがって来た。その結果が今、目の前に広がっている。

 ここのところ何日か、暑い日が続く。梅雨寒などといわれる日々もあったが、その季節が過ぎると、気温が急に上昇した。それ以来、我々はずっと、熱気の中に漂っているように思われる。それも都会があらかた、コンクリートで覆われてしまったからかもしれない。今日も暑い一日だった。日が落ちても熱気は去らない。地球全体の温暖化が言われているが、コンクリートのビル群に囲まれ、それぞれの建物から排出される熱い大気や、走り回る自動車の熱を受けていると、温暖化にあらがう術がないように思える。幾ら暖められた空気は上昇すると言われても、そこに、涼風が吹き込む余地がない。樹木が、森林が、炭酸ガスを吸収し、酸素を我々にもたらすとしても、今ではその能力を遥かに凌駕していよう。

 そう言いながら、僕は車を運転している。車の中にいる限り、快適な空間に包まれ、汗を拭う煩わしさはない。ホテルの駐車場に車を入れ、エレベーターに乗る。地下の駐車場までは、さすがに冷房は及んでいないが、エレベーターに乗ってしまえばもう、暑かった一日への思いは、消し飛んでしまう。僕は、エレベーターの鏡になっている壁面に向かい、ネクタイを整え、背広の襟を引く。

 エレベーターを出ると、折よく支配人と顔が会う。

「繁盛しているようで、なによりじゃないか」

「お陰様で。専務のご提案だったプールが人気でしてね。海を眺めながら、そして、ビルの夜景を仰ぎ見ながら過ごせるのが若者ばかりでなく、年配の方々にも受けているようで、泳ぐというより、プールサイドで、お飲み物を召し上がりながら語り合うのを楽しみにしているお客様も多いようです。お陰様で、売り上げも増えております」

 専務と言われて、僕は苦笑するしかない。最初に、専務と呼び掛けられた時に、僕は、大仰に否定した。そんな僕に、支配人は言った。

「存じております。専務は奥様ですが、旦那様と申し上げるわけにもまいりません。逆ですと、奥様と声をお掛けしてもよろしいのでしょうが、専務の旦那様ではおかしいです。専務とお呼びするしかありません」

「そんなものかね。僕の立場は常識に反するわけだ」

 それ以上、強く言葉を返すのも大人気ないと思い、反発しなかったために、僕は支配人からずっと、専務と言われている。確かに、これまでの社会の流れを見るなら、男性が中心になって組織が成り立ってきていたのだから、専務は男性であって、妻は奥様と呼ばれる立場にあった。しかし、これからは、そうもいくまい。専務の旦那様でおかしければ、ただの男として扱って貰うしかない。それなら、今夜の話し合いの中で、僕の部下として働いてくれている千代に、それを持ち出してみてもいいと思う。

 僕が専務の旦那様でなくても、支配人は客商売が身に付いているのだから、僕に、丁寧に頭を下げて案内するだろう。腰を折って言う。

「お席は、いつものようにお取りしてありますから」

「ありがとう。ロビイで待つように言ってあるので、それから、上に上がる。僕は一人で行けるよ」

「ここは、専務の応接間のような所ですから、ご案内するまでもありませんね」

 僕は支配人に手を振って、ロビイに入る。千代は、すでに来ていた。さわやかな笑顔を向ける。もう、大人になっているという自信の表れなのか、実際に、少女ではないふくよかな表情を見せる。初めて出会った頃には、尖った顔をしていた。体型も熟した女に変わってきている。まだ、結婚したという話は聞いていないが、そこに、男の影を見る。魅き付けられる。仕事をしている時には、以前の印象が残っていて、彼女に女を感じていなかったのだが、こうした場所で出会うと、僕は改めて、千代の女を認識させられる思いになる。

「何か、特別なお話でもあるのですか」

「いや、たまには、君を慰労しなければいけないと思ってね。編集室では、声を掛ける暇もない毎日だから」

「仕事のことでしたら、何も、慰労されるまでもありませんわ」

 かつての部下だった。部下という言葉を使うなら、今でもそうだが、僕がまだ、通信社の出版局に在職していた当時に、彼女は大学卒の新入社員として、僕の仕事に加わった。入社試験の成績が抜群によかったと聞かされた。そのためか、彼女は社の中枢の仕事に就けずに、傍流になる出版局に回されたのに不満を抱いていたらしい。何かにつけて僕に反抗した。その頃を思うと、彼女の変身ぶりが微笑ましい。

 僕はその頃、週刊誌のデスクを担当していたのだが、彼女が、僕の部下になって三年ほどして、僕は社を辞している。それまでのニュース中心の誌面づくりから、暴露記事に移行する編集に反発したからだった。それが、世間一般の趨勢で、そうしなければ部数が伸びないばかりか、週刊誌としての存在すらも顧みられなくなってしまうのは目に見えていた。だから、社の幹部の判断は間違っていない。しかし、僕は自説に固執して、自分の場所を失った。だからといって、退社にまで踏み切れたのは、妻があっての話だった。

 妻は大森の料亭を、その父親から引き継いでいた。そればかりでなく、他にも不動産を持っていて、今、訪れているホテルにも、建設計画当初から関与し、役員に収まっている。そんな関係から、僕は自分の仕事場の延長のようにして、人に会う時や接待に使える立場にあった。

 それはともかく、社を辞めた僕は、小さな出版社を起こした。妻の温情によろう。

「貴方の出したい本を手掛けてみたらいかが?」

 妻は、そう言った。名義上、社長になった妻は、一切を僕に任せてくれた。

「これで、儲けて欲しいなどとは言わないわ。でも、あまり赤字を出すようなら、考えなければならないかもしれないけれど」

 僕には、これといった目算はなかった。取り敢えずは、自費出版のような形で、売れない詩集やら、大手出版社で顧みられなくなっている良心的な小説集を手掛けるつもりでいた。その程度の仕事しか出来ない。それ以外に何が出来るかと言ってみたところで、料亭の仕事に参画してみても、妻が所有する不動産会社の役員になったとしても、勤まるどころか、かえって邪魔になると、妻は判断したのだろう。言ってみれば、玩具を与えられた幼児のようなものだった。

 それも、僕は自覚していた。料亭の娘と結婚していたのを僕は、僕の父親に感謝しなければならないだろう。政治屋の端くれだった父を嫌って、僕は通信社に職を得た。父親とは違う生き方を選んだ。しかし、父が出入りしていた料亭の娘を妻にして、僕は一般の男性が生きなければならない苦難の道を放棄できた。いや、男としての生き方から脱落したと言えなくもない。

 出版社が多い都心のビルに一室を構え、僕の出版業はスタートした。一応の伝手と言えば、通信社の出版局に勤務していた頃に、顔馴染みになっていた大手印刷会社の営業部員だが、話してみると、そんな所でも、中小企業の社史の編纂や、社長の自伝などを引き受けていると言う。その仕事の一部を回して貰い、僕の出版は始まった。

 編集者を雇うまでもなかった。経理と雑用をこなしてくれる事務員が一人いれば、こと足りた。その程度の仕事しかなかったし、それなら、妻が危惧するような赤字を出すまでもなかろう。

 そんな所に、千代が来た。彼女は多分、自らが思い描いていた未来が拓けないのに苛立っていたのだろう。入社試験の成績はともかく、物事を判断する能力には長けていたに違いない。その頃はまだ、政治部、経済部、あるいは社会部というような部署では、女子社員を敬遠していた。実際に、夜勤には縛りがあったし、機動的に動かせないとの考えがあったのも否めない。千代は恐らく、外信部にでも上がって、特派員勤務を夢見ていたのではなかろうか。今では、運動部にまで女性記者が進出していて、男ばかりの野球集団や、サッカーの取材にも当たっているし、外国で勤務する女性記者も多くなっているが、それも、二十世紀から二十一世紀にかけての急速な変化によろう。

 千代は、その一歩手前で、自分を切り替えた。

 僕の、ささやかな編集室に訪ねて来た千代は言った。

「私に、仕事をさせてください」

「今のところ、僕一人でこなせる程度の仕事しかない。君が何か、新しい仕事を持ち込んでくれるならいいが、そうでなかったら、僕の仕事を半分にして、給料を分け合うわけにはいかないだろう」

 僕に反発し、突っ張っていた千代を想い浮かべながら、僕は腰を引く。

「政治家や、経済人の女性絡みのスキャンダルを追いかけて、それを正義の証しのようにしている編集に、未来は開けませんわ。芸能人の結婚、離婚にまでは手を広げないにしても、根は一緒ではありませんか。大林さんはあの時、編集部の、そうした行き方に反対されて、社をお辞めになった。私は、そんな大林さんに、拍手したかった」

「そうでなければ売れない。僕のような考え方では、社が立ち行かなくなる。売れない本を抱えていては、社員に給料が払えない。それは解っているつもりだったのだが、僕にはまだ、出版する側の知性に拘る何かがあった。でも、読者の求めるものに応じるのも、出版の仕事ではないのかと思うようにもなった。そして、それが時代の趨勢というものなんじゃないのかい?」

「あの時、社の方針に反対されて、きっぱりと社をお辞めになった大林さんを尊敬しました。ずっと、出版の仕事に携わって行くのなら、それくらいの気位がなければいけないと、あれからずっと、考えていました。ですから、お願いに上がったのです。私の気持ちで仕事をして行くなら、出版に携わっていたいのなら、ここしかないと思って」

 千代は、自分が口にした言葉に戸惑ったのか、視線を伏せている。

 もう、三十に近い年齢になっているはずだった。男と女のありようは、すでに知っていよう。彼女自身がどう考えていようと、子供ではない。男と女に肉体の交わりがあるのを知らなければ、おかしい。

 僕の所に配属されて直ぐの頃だったと思う。印刷所への出張校正の帰りしななどに酒を飲む機会が多かったのだが、そんな際に、男の手が触ったとかで大騒ぎになったのを聞いている。異性に対して、潔癖なのだという評判が広まった。しかし、それも、ただ若い女性一般の反応のように受け止めた。

 ところが、それから暫くして、机を並べてみると、僕との間に書籍を積み上げて隔離するなど、異常とも思えるほど、男を避けている様子が伺い知れた。そんなにまでしなくてもいいだろうにと言った僕に、彼女はきっぱりと言葉を返した。

「男の匂いが嫌なのです」

 それなら、電車にも乗れないだろうし、こんな職場で働くのは考えられないと答えようとしたのだが、僕は息を飲んで口を閉ざした。以来、彼女とは仕事で必要な最小限の言葉しか交わしていない。

 俯いていた千代が顔を上げ、僕に鋭い視線を向けた。

「大林さんは、出版する側の知性に拘っているとおっしゃいましたね」

「それは、組織の中にいた当時の話だ。今は、それ程でもない。実際に、一人になって仕事をしてみると、そうもいかない事情が解ってきた。それに、僕は苦労して、この仕事をしているわけではない。出来ることだけやっていればいいという立場にいる」

「ですから、私の考えを、ここで生かしていただけないでしょうかとお願いに上がったのです」

「君はもう、社を辞めてしまったの?」

 微かに、頷いたようだった。

「じゃ、ここで働くしかないじゃないか」

 一人でも充分に賄える仕事しかなかったが、彼女に支払う給料ぐらいなら、なんとかなろう。それに、彼女にも仕事を取ってきてもらえば、少しは収入も増えよう。多少の赤字なら構わないと妻は言っている。

 こうして、千代は、僕のささやかな出版社で働くようになった。

 当初は、自費出版の仕事を、僕と同じように手掛けていた。彼女なりに、かつてのクラスメートや、会社勤めの間に知り合った友人を通して、それなりの仕事を持ち込んできた。僕が懸念した赤字どころか、彼女のお陰で、僕の出版社は、僕が一人で切り盛りしていた時より収益が上がるようになった。組織の中の編集部にいた頃には考えられないような働き振りだった。営業もやり、原稿整理から校正、印刷所との折衝など、僕を煩わすことなくこなした。かつて、男の匂いが嫌いだと言って、突っ張っていた姿は消えていた。

 そんな千代が、社長である僕の妻と、意を通じるようになったのは、何時の頃からなのだろうか。千代が僕の所で働くようになって、半年ほど過ぎたある日、突然、妻が僕の事務所に来た。

 社長ではあっても、妻が僕の事務所に顔を出すなど、ほとんどない。千代を雇うと告げた時に、妻は一応、千代に会うと言って、事務所に来ている。それからもう一度、近くのお得意さんまで来たからと言って寄り、千代と談笑して帰った記憶がある。その時は、僕と千代との関係がどんなものかと、覗き見しようとしたのではないかと勘ぐったものだが、取り立てて妻との間で、千代の名前が話題になった試しはなかった。

 それまで、あまり僕の事務所を訪れていない妻なのに、その時はどういうわけか、ドアを開けると直ぐに、妻は僕に言った。

「あなた一人ではないし、せっかくだから、もっと大きな仕事をしたらどうなの?」

「大きな仕事?」

「注文を取って出版しているだけでなしに、こちらで企画した仕事をなさったらいかがかしら?」

 僕の仕事に就いて、これまで、妻は何も言わなかった。実際に、妻と過ごす時間は僅かしかないので、互いにそれを口にしていないのだが、妻は妻なりに、社長として、僕の仕事を考えていたのかもしれない。妻は続けて言う。

「貴方より、清水さんの方が企画力がありそうだわ」

 僕は、離れてデスクを構えている千代を見た。僕も普通には、千代とは言わない。彼女の姓である清水とも言っていない。ほとんどは、君でことがすむ。千代にも、妻の言葉が聞こえているはずだが、彼女はデスクの上のパソコンの画面に見入り、仕事を続けている。

「私、清水さんに賭けてみるわ。そんな気になったの」

「僕には出来ない仕事を彼女に任せると言うのかい」

 僕は不愉快になった。妻が千代の仕事振りをどのようにして知り、能力をどう評価したのか解らない。それにしても、妻は、名義上の社長ではあっても、出版の仕事を僕に任せると言ったはずだった。実際にこれまで、事務所にはほとんど顔を出していないし、とやかく言われた試しはない。夜のひと時にも、それを口にしたことはなかった。妻が急に、自分の意思を露わにしたのには、何か、妻を動かす背景がなければおかしい。

「新しい雑誌を出してみたくなったのよ。それを清水さんにお願いしたいわ」

 妻は、千代のデスクの方に顔を向けて、そう言った。千代が顔を上げる。

「女性のための、女性による雑誌。貴女なら出来るわね。これまでは、女性向けの雑誌と言っても、男性が企画し、男性の手によって発行されてきているわ。それも、主婦という括りをつけたり、あるいは、男性が女性を指導、啓発するというような形でしかなかった。そうではなくて、女性の発想になる女性の雑誌、それを清水さんに創ってみて欲しいの」

 社長の独断専行で、女性週刊誌の発行が決まった。

「当座は、貴方が編集長という形で、準備に入らなければならないでしょうが、編集内容は、清水さんにお任せして、計画を進めてくださいな。清水さん、それで、宜しいでしょう?」

 妻は、それだけ言うと出て行った。実際の編集長である僕は、妻に無視された。僕を除外して、千代に新しい雑誌の発行を命じた。しかし、妻の思惑がどうあれ、女性の手による女性向けの週刊誌は成功した。

 半年先の発行を目途(めど)に、千代は女性のスタッフを固め、印刷以外はすべて、女性の手によって、新雑誌の創刊に漕ぎ着けた。発行責任者にも、妻の名前が記された。創刊パーティも妻の肝煎りで華々しく行われ、各界の注目を浴びた。そんな中で、僕にも賞賛が寄せられた。

「思い切った手を打ちましたね」

 僕には答えようがない。同業者や関係者は常識として、僕がすべての指揮を取ったと見ていよう。外部との折衝はもちろん、僕がこなした。しかし、雑誌の成功は妻の決断と、千代の努力、能力によろう。創刊号は三十万部を捌いた。爆発的とまでは言えないだろうが、千代は、二十万という数字を思い描いていたらしい。とにかく、三十万部が維持できるのなら、女性だけの少ないスタッフで始めた雑誌として、評価されなければならない。そのために、千代は女性関係の団体にも手を回し、そんな中からも企画を取り出し、執筆の依頼に飛び回る日々になった。

 事務所も、編集スタッフを入れるために、広い部屋を新たに借り、それなりの体裁を整えた。僕は、大森の料亭の敷地の一隅にある自宅から自分で車を運転して、新しい編集室に通う。そんな毎日になった。しかし、僕には、さしたる仕事はない。社長である妻が顔を出すわけでもないので、僕はさしずめ、妻の代行として、事務所全体を取り仕切っているに過ぎない。言って見れば、総務部長のようなものだった。

 自費出版などを細々と扱っていた時代と違い、一般業務も経理も多くなり、その面でも人が増えた。それらの統括もしなければならない。広告の出し入れもある。編集はすべて、千代が取り仕切っていると言っても、僕にも仕事がないわけではない。しかし、僕はそれでも、僕が始めた社史や自分史の編集、出版を続けていた。以前ほど、こちらから積極的に働きかける気持ちはなくなっていたが、それを手放してしまうと、自分の立場がなくなってしまうように思う。

 千代を中心とした編集部の方は、女性ばかりの集団でもあり、終日活気に溢れ、躍動している。編集に一切タッチしないと言った以上、僕は、そちらに顔を出すのが憚られた。僕は、僕の引き受けた仕事に携わり、営業上の書類に目を通し、時に、広告関係者などとの接待に付き合っている。それで、千代に声を掛ける機会も失せていた。

 千代を慰労しなければという思いはあった。しかし、それとは違う、千代との繋がりを探りたい気持ちが高まってもいた。何人かのスタッフの能力に支えられているにしても、それを纏めて、週刊誌の刊行を成功させた千代に、僕は、同じように編集者を志した人間として、ある種の苛立ちを覚えないでもなかった。

 支配人が用意してくれた席に収まって、僕は千代に、飲み物はどうするかねと訊く。

「僕は車だからあまり飲めないけれど、ワインを一本頼もうか」

「ええ、せっかくですから、頂きますわ。大林さんもお飲みになったらいかがですか。ここは、大林さんのホテルなんでしょう?」

「僕のではないが、妻が役員になっている」

「ですから、酔って、車が運転できないようなら、ここにお泊まりになれば宜しいわ」

 もともと、自分の意思を貫く女性だとは思っていたが、このように、直裁なもの言いをするようになったのは、仕事によって培われた自信によろう。

「私の方から、大林さんにお礼しなければならないと思っていましたわ。これだけの仕事を任せて頂けたのは、大林さんのお陰ですもの。大林さんの所で仕事をさせてくださいとお願いしたのが、裏切られなかった。ですから、このお食事は、私の方から大林さんに差し上げなければならないものだと思いますわ」

「しかし、それは社長の決断だろう」

 妻とは言いずらかった。社長という言い方で妻をはぐらかせた。ここでは、妻を離れて、千代と語りたかった。どのテーブルでも、商談はともかくとして、男と女の語らいが流れている。

「車だから飲めないとおっしゃらずに、大林さんにも心置きなくお飲み頂きたいわ。その方が、私も気分よく飲めますもの」

 僕たちは、ワインのグラスを合わせた。テーブルに置かれた照明を受けて、グラスの中の赤い液体が揺らめく。

「きついんじゃないか」

「仕事がですか?」

「出張校正は、夜遅くまでかかるだろうし、とにかく週刊だから、原稿にも追われる。それをよく、女性だけでこなしている」

「それを承知で、引き受けたんですもの。夜遅くなるからといって、苦情を言う人はいません」

「特別な話はないと言ったのだが、ここまできたら、すべてを君に任せた方がいいように思えてきた。僕が、あそこにいる必要がない。どうだろう。その方向で考えて貰えないだろうか。つまり、営業も経理も、広告業者との折衝もすべて、女性のスタッフにした方が、もっと特色をアピールできるのではないかと考えた」

 千代の瞳が、輝いたように見えたのは、テーブルの上の照明によろう。千代がかざしているワイングラスの赤を映してか、千代の表情が燃えているようにも思える。そんな話ではなく、何の語らいもないまま、互いの瞳を探りながら飲めたら、言葉がなくても、互いに通じ合うものを掴めよう。ここに、お泊まりになったらと千代は言った。それは、一緒に泊ってもいいという意味合いを込めての言葉だったろうか。そうでなくても、ここでの会話は、男と女の機微に触れたものの方が似つかわしい。

 しかし、もしここに、千代と泊ったら、それは妻に知れよう。支配人が直接、妻に告げなくても、何処かから伝わる。それなら、酔った千代を送るからと言って車を頼み、他のホテルに行った方がいい。そんなふうに、思いを巡らす。

 こんな場合、女性は男との夜に、何も求めないものなのだろうか。三十にもなろうという女性が、男との悦楽を知らないわけがない。男と食事をし、酒を飲む。その先の交わりに、期待を抱かないものだろうか。今、目の前に、千代のふくよかな胸がある。彼女は、それを慈しむ手立てを知っていよう。そのために、ワインを口にしている。

 もちろん、それは僕だけの想いかもしれない。千代は現実の問題を考えていよう。彼女が、僕の所で仕事ができたのを僕に感謝しているとしても、それがそのまま、僕への想いに繋がるわけがない。だから、彼女は思慮深げな言葉を口にする。

「すべてを私に任せるとおっしゃっても、それで、大林さんはどうなさるのですか」

 僕は単純に、千代を(ねぎら)うために食事に誘った。そこに、なにがしかの男としての想いがなかったわけではないが、食事を共にして、絆を深めておきたいとの考えもあった。千代にすべてを委ねたいとの発想は、ホテルに着いてから支配人に出会い、彼との会話の中から芽生えた。しかし、それなら、この提案は、社長である妻になされるべきもので、僕の独断で千代に申し出る案件ではない。

 僕は、僕が口にしてしまった問題に戸惑う。僕の提案によって、僕がどうなるのか、僕は考えていなかった。

「つまり、会社を別組織にして、編集部は編集部として独立したらどうかという話。僕は元のように、一人で自費出版を賄って行くよ」

「考えておきますわ」

 千代の口元がほころぶ。笑ったのとは違う。そして、満足げに頷く。

 僕の当初の思惑とは違う食事になってしまったが、それというのも、僕の話の持って行きようが悪かったからで、僕はそれに、甘んじなければなるまい。

 バーラウンジに席を移して、飲み直すのを千代は遮らなかった。途中で僕は、車の手配を依頼した。

「お客様を送らなければならないからね」

「一台で宜しいのでしょうか」

「僕が、一緒に送るから一台でいい。その代わり、僕の車は一晩、駐車場に置かして貰うよ」

バーに移ってから、強い酒を飲んだ。それでも、千代は動じない。千代の思いは、独立してやっていく仕事にしか向いていないのだろうか。その話は、それで打ち切りにして、と言ってみたところで、それ以外の話題を僕も持ち合わせていない。さりげなく、最近の若い女性の生きようを訊いてみるのもいいのだろうが、そうなると、どうしてもそこに、千代を口説くニュアンスが色濃く漂ってしまうように思え、それも憚れる。僕は、千代の表情をうかがっているしかない。

「皆と相談して、改めて大林さんを交えて会議を開くようにしますわ。今夜はもう、随分頂きました。これ以上、ご馳走になったら、明日の仕事に差し支えますわ」

 そう言って、千代が立ち上がる。 

「車を頼んでおいたから、送る。僕も、自分の車で帰るわけにはいかなから、君のアパートを回って帰る」

 それについては、何も答えない。口を噤んでエレベーターホールに向かう。バーからロビイに降りるエレベーターの中でも、千代はことさら、僕との間に、空間を取って立つ。かつて、男の匂いが嫌だと言った姿勢を見る。

 車を前にして初めて頭を下げる。

「今夜は、ご馳走になりました。私が、お支払いしますと申しても、大林さんはサインで済ませてしまうでしょうから、意味がありませんわね。今夜は遠慮なく、ご馳走になりますわ」

 僕が、一緒に乗り込もうとするのを千代が遮る。

「一人で帰れますわ。大林さんは、ここにお泊まりになったら宜しいのに」

バーで一緒に酒を飲みながら、そして、そのために酔った姿態を見せながら、一方で、男を拒否する表情を向ける。

 千代との間の溝は埋められそうにない。千代は僕から離れて行く。走り去るタクシーの尾灯をぼんやり見ているしかない。冷房の効いたホテル内から路上に出て、熱気に包まれたためばかりでない暑さを感じる。体が、火照っている。

 

     二

 

 十時を過ぎている。もう、座敷はあらかた片ずいている頃だろう。このところ、客が少なくなっている。二つも座敷が埋まればいい方で、大広間を使うような宴会は、年に数回もない。今夜も十人ほどの宴席が二つだけだった。後片付けも、楽に済む。

 私は、板場に声を掛け、庭石を伝って、同じ敷地内の住まいに向かう。夫はまだ、帰っていない。ダイニングに用意された夕食が、そのままになっている。一週間に一回か二回ぐらいしか箸が付けられていない。無駄になると思っても、作ってもらって料亭の方から運ばせている。夫も、早く帰って、一人で食事を摂るつもりにはなれないのだろう。

 夫の夕食時に、私がいない方が悪い。夫と食事を共に出来るのは、年に数回もないだろう。だから、私がいなくても、夫がそこで食事をしてくれたり、私が帰った時に、夫が食事を摂りながら酒を飲んでいてくれてたりすると、無性に嬉しくなる。しかし、そんな夜も、ほとんどない。夫が言うように、確かに仕事で遅くなるのは解っている。週刊誌に携わっていれば、仕事の大半は夜になろう。それでも、酔って夜半に帰り、そのまま寝てしまう夫に不満が募る。

 私も、座敷の仕事で疲れて帰るのだから、(ねぎら)って欲しいと思う。食事は一緒にできないにしても、私たちだけの場所で、私と飲んで語らってくれたらと願う。しかし、夫は私に、言葉らしい言葉を掛けない。結婚当初から、夫は口数が少なかった。座敷で接する男は、多くが私に、何かと語りかける。女心を誘うようなもの言いをする。それが日常でないのも知っている。それは宴席での遊びであって、彼等も妻には、そうした言葉を掛けていないのだろう。それにしても、夫は最近、以前にも増して無口になったように思う。

 私は衣装を畳んでから、風呂場に向かう。夫の食事の用意も、風呂の準備も、仲居が仕事の合間を見てやってくれているので助かる。もし私が、全くの一人で、私が夫の夕食を作り、だれもいない所に帰ってから風呂に湯を満たさなければならないようだったら、もっと虚しい思いに駆られよう。

 湯の中で、私は手足を伸ばす。そこには、ふくよかな肉体がある。艶やかで滑らかな肌を見る。胸の膨らみも、取り立てて大きいわけではないが、形よく盛り上がっている。下腹もたるんでいないし、腰回りの肉も丸く張っている。今夜も座敷で、女将を抱いてみたいなと言われた。何時ものように、こ冗談を、とかわしたが、私にはまだ、男を誘う体がある。夫は私に、子供が欲しければ、他の男と寝たらどうかと言ったが、この体なら、それも出来ようし、子供も産める。ふと、そんな思いが浮かぶ。

 結婚すれば、子供が出来るものと思っていた。子供を作るためにと考えたわけではなかったが、結婚とは、そんなものだろうとの意識はあった。男のものが私の中に入る。それは初め、苦痛ではあったが、直ぐに愉悦に変わった。それでも、私には、結婚による男と女の行為は、子供に繋がるものだという思いが残っている。確かに、夫と交わるようになって、男のものが私の体内に入る快感を知った。その時には、これで子供が出来るのだという思いよりも、男の動きに体が反応し、愉悦に浸っているだけだろう。男と女は、それで、いいのかもしれない。そうは言っても、単に、交わりの快楽を求めるだけなら、結婚するまでもない。

 そう思っていても、私は夫が言うように、男と女の愉悦を求めるのでなく、子供を産むためだけに、他の男と交わろうという気持ちにはなれない。あの悦びに浸るだけだったら、例えば、今夜、言い寄った男を迎え入れたらいい。しかし、それはその時だけの交わりであって明日に繋がらない。むしろ、それで声を上げる時を知ってしまうと、その後の虚しさに耐えられなくなってしまうように思う。

 結婚して数年を経ても、私は妊娠しなかった。世間一般の夫婦生活がどのようなものか知らない。座敷に出ていても、夜は夫と一つの布団に寝て、過ごしている。夜毎ではないにしても、夫と交わっている。夫のそれが、私の中で疼き、夫が放出するのを受け止めている。それでも、私は身ごもらなかった。私は私なりに排卵日を考え、その時には、私の方から夫を求めもした。しかし、その兆候は顕れない。

 それとなく、夫に言ってみた。

「貴方と一緒に、病院へ行って、診てもらった方がいいかしら?」

「僕は嫌だね。僕に欠陥があるというのなら、君は他の男と寝たらいい」

 それ以上、深い議論を交わしていない。座敷に出ている立場からすれば、私にとっても、妊娠、出産は煩わしい。むしろ、独り身であった方がいい。客筋はどう思っているか知らないが、夫の存在も曖昧にしている。誘われてもいいといった雰囲気を漂わせるのも、仕事上、欠かせない。私は座敷では何時も、そのように振る舞っている。母もそうだった。教えられたわけではないが、母の血が私の中に流れている。

 母の場合は、父の存在がはっきりしていた。父があっての料亭でもあった。それでも母は座敷で、男たちを魅きつけていた。その頃の父は料亭とは別の所に住み、母が座敷に出ているのを口実に、馴染みの女性と酒を飲み、(しとね)を共にしていた。そんな時代でもあった。母は父の所に帰らずに、ほとんどを料亭で過ごし、私と妹は私が今、住んでいる離れで育てられた。

 父が、料亭に顔を出すのは、父と懇意な政治家が席を設けた時ぐらいだった。そうした宴席で、私の結婚が決まった。見合いでも、恋愛でもない。結婚が決まってから、私は私の夫になる男と会った。中央の政治家を支える地元有力者の次男だという触れ込みだったが、彼はジャーナリスト志望で、すでにその職に就いていた。好意を抱いたとすれば、父と違う男を見たからかもしれない。母を妻として、仕事の支えにしながら、別の女と寝ている父を、私は嫌悪していた。それでも、そうした父を中心に料亭は維持されてきた。

 明治の末ごろの創業と言う。もともとは、この辺り一帯の土地持ちだったのだろう。今でも、かなりの地所が残っている。大きくなったのは、父の父、つまり私の祖父の代になってからで、周辺の土地に鉄道を敷く事業に加わり、住宅地造成に力を尽くしている。その頃から、中央の政治家や、それに繋がる経済界の大物、官界のトップに愛用される料亭として、名を馳せた。

 大森海岸の漁業権を放棄したのは、父の代になってからと聞く。空港との絡みもあったに違いない。その見返りかどうか、空港ビルの中に権益を得た。それは今も、拡張される空港施設に生きている。その辺りに、父と政治家との繋がりを見る。海岸一帯の倉庫業を手にしたのも、漁業権との引き換えだろう。それは父の弟、私の叔父が経営に当たっている。その叔父も、父と同様に、妻がありながら、何人かの女性の家に出入りしていると、これは母が嘆いていた。そうした家系を継がなければならないからと、私は自分の子供に拘っているわけではない。父から私に引き継がれたものを、私は私の子供に託す必要もなかろう。母がこぼしていた叔父にという気持ちにはなれないが、私には妹がいる。

 妹は大学在学中に同級生と深い付き合いになり妊娠し、一悶着あったものの、その男と結婚して、父に追われた。私より早い結婚だった。父は、妹を経済界のだれかと結び付けたかったのだろう。しかし、妹と結ばれた彼は大学を出ると、服飾関係の仕事に就き、結構忙しく働いている。もともと、そうした関係の家に育ったから、華やかな面があり、妹は、それに魅かれたのかもしれない。六本木にブティックを出し、妹が切り盛りしている。彼女は、それで満ち足りていよう。そして、その妹は、二人の子供に恵まれた。

 そんな妹を見ているからか、父が自分の思い入れで決めた結婚ではあっても、会ってみると、ジャーナリスト志望だと言う男に、私は私なりに、父とは違う男を感じたのかもしれない。料亭を離れての生活を想い描いたわけではないが、その男と結婚すれば、父や叔父の生き方とは別の、つまり、母が耐えた日々は避けられそうに思えた。しかし今、別の重荷を背負っている。

 夫が、いけないと言っているわけではない。私が座敷に出ている以上、彼が週刊誌の編集に携わっているのなら、生活が行き違いになるのは、初めから解っていた。妹のように、何時も一緒にいて仲睦まじく仕事をし、同じ時間を過ごせるわけがない。だから、子供が出来ないのだというわけにはいかないが、このままの状態が続くのなら、後は妹に託した方がいいのかもしれない。

 家系を継がせるために、夫が言うように、私が夫以外の男の子供を産むのがいいかとなると、古めかしい言い方ではないにしても、私には踏み切れない。もっとも、古来からのしきたりを言うなら、妻に子供が産まれなければ、夫は側女(そばめ)に子供を産ませて、家系を保って来ている。夫に、そこまでの思慮があって、私に側男(そばお)を言っているとは思えない。

 父が存命中は、妹も気兼ねしてか、こちらには寄り付かなかった。妹が料亭に足を踏み入れたのは、母の葬儀の時だけだったように思う。母が他界してからは、父は、だれ憚ることなく、母を疎外して(ねんご)ろになっていた女性と生活を共にするようになったが、しかし、その女を籍には入れていない。それだけが、父の家系に対する気位だったように思える。母が他界すると、後は私に任せると言い、自宅に引き籠もってしまった。

 父が纏めた結婚だったのだが、結果として、父の思惑も裏切られたに違いない。父は、政治家の繋がりから、私の夫を選んだのだろうが、それが生かされなかった。夫は週刊誌の編集に精を出している。料亭の経営に興味を持っていない。それは、それでいいのだが、父のように、政治家の顔で客が呼べない。彼の父親が、地元の有力者であっても、もう、そういう時代ではなくなっていた。私が足を運んでも、高が知れている。客足が落ち、老舗の名が消えるのも仕方がない。父にしても、それは悟っていよう。だから、私に託して、口を出さなくなった。その父も、母の三周忌を済ませると、母を追うように()った。父には、心残りがあったかもしれないが、むしろ、老舗の崩壊を見ずに済んでよかったと思える。

 確かに、この料亭を支えて行くのは難しい。時代が違う。祖父や父の頃のように、政治家が料亭で政治を取り仕切り、金を動かす要素はなくなった。それに、今更、大森でもない。店をどのような形で畳んだらいいか、今は、それを考えなければならない。空港の中と、お台場のホテルに料亭の名を冠した和食の店を出しているのだが、幸い、そちらが繁盛していて、それで、本体が支えられている。空港はさらに拡張されるから、売り上げも伸びよう。本体は取り壊して、貸しビルにするか、マンションにして、売り払ってしまった方がいいのかもしれない。

 風呂から出て、寝間着を纏う。夫のために用意した料理の中から、野菜の煮付けを取り出し、それで、日本酒を飲む。それが、私のささやかな(くつろ)ぎになる。そんな時、夫が帰ってくれば、一緒に酒が飲める。語らいがなくても、そうしたひと時が欲しい。いや、そうして酒が飲めるのなら、なにがしかの会話も成り立つだろう。

 何時になって帰るのか分からない夫を、私は、起きて待っているわけにはいかない。夫は、九時過ぎに、家を出ればいいらしいのだが、私は、その頃合いには、仕事を始めていなければならない。仕込みなどは、私が一々、口を出すまでもないのだが、早くに顔を出す習慣は母から引き継いでいる。実際に、九時には、料亭の私の部屋に帳簿類が持ち込まれる。仕事は会計士と彼のスタッフに任せているが、書類には目を通さなければならないし、サインを求められる。彼等はコンピューターの画面でやり取りし、料亭以外の仕事も纏めてくれている。夫は起きて顔を洗えば、それだけでもう、出掛けられるが、私は身支度に時間が掛かる。起き抜けの顔を見られたくない。それで、七時には起きる。それが長年にわたって身についているから、十二時を過ぎれば床に入るようにしている。

 まどろんだ頃に、夫が帰ってくる。先に寝てしまっている私を咎めない。自分で風呂の湯を足し、浴びる。風呂から出て、一人で飲む場合もあるらしい。夫のために用意された料理のうち、何品かに箸が付けられているのは、酒を飲んだ時だろう。翌朝、テーブルの上に、銚子やウイスキーの瓶が残されているのでも知れる。洗濯物は風呂場に残してある。私はそれを始末すればいい。言ってみれば、手の掛からない夫で助かっている。

 困るのは、私の眠りが深まる頃、夫が私を抱く場合だった。夫婦だから、当然かもしれない。夫の手が、私の寝間着の裾を開き、股間を探る。鬱陶しいとは思うのだが、その手を拒めない。手荒にパンティが引き下げられる。それに、私は腰を上げて応じてしまう。私が風呂に入りながら慈しんだ乳房への愛撫はない。夫は直ぐに体を重ね、私の中に割って入る。それまで半ば、睡魔に漂い、夫の行為が疎ましく感じられていても、夫のそれが挿入されると、私の中の女が疼く。何時(いつ)しか私は、夫を求めて、夫の肩に手を回している。それが、女の性なのだろうか。

 明日、朝早く起きなければならないのだから、やめてとは言えない。初めは疎ましくても、何時しか、体が反応している。時には、私の方から悦びを深めようと腰を突き付けたりしている。そんな時、夫の方が簡単に放出してしまい、私から離れて寝入ってしまうのに苛立つ。朝が早いからといっても、点された火は、それなりに燃え尽きるまで追い求めたい。その方がよく眠れるはずだ。点された火が残ったままでは、かえって眠れない。私は枕に顔を押し当てて耐える。

 夫がではなく、男性は行為によって放出してしまえば、快楽が得られるのだろうが、女性は、その先を求めたい。いや、単にそれが、子供を産むための行為であるのなら、男が放出したものを受け止めればいいのであって、それだけでしかない。夫が放出した時に、それは終わっている。そのように理解しなければいけないのだろうか。

 しかし、それなら、私と夫との交わりは、子供を産むための行為ではなくなっているのだから、夫が放出したものを受け止めているだけでは意味がない。夫も、それを悟っていよう。彼は、自分が放出したものが結実しないのを知っていながら、それでも、病院には行かないと言っている。それなのに、夫は放出する作業を繰り返し、放出するためだけに、私の中に入る。

 そこに、愛を言ってみても意味がなかろう。子供とは関係なく、愛し合っているから交わるという言い方もある。確かに、子供を産むという意識にかかわりなく、男と女は結ばれる。むしろ、その行為に愉悦を求めて、互いに体を絡める。肌の触れ合いに痺れる。男と女が歓びを探り合った結果として、子供が産まれる。それは、それでいい。

 それにしても、男は、放出するだけで、それが男の仕事であるにしても、それで快楽の頂点に達し、終わってしまえるのが妬ましい。夫は、放出すれば満ち足りて、寝入ってしまう。夫が放出するものを受け止める意味合いがなくて、夫のものを受け入れている私は、夫に何を求めたらいいのだろうか。乳房や首筋への愛撫であろうか。それでも多分、私は夫のものが挿入される感触に身を任せるだろう。そして、夫が放出するのを待つ。

 同業の女将に誘われた。

「毎晩、男を相手にしていると、疲れるわ。息抜きに、女だけのサロンに行かない?」

 訪れた所は、まさに女の世界だった。言ってみれば、室内プールかもしれないが、そこで全裸の女性が戯れ、その周辺で慈しみ合っていた。すべて、全裸だった。何も身に付けていない。

「ここでは、全部脱がなくてはいけないの。危険なものを身に付けていないという証しでもあるわ」

 女だけのサロンという話だったので、午後のひと時、お茶でも飲みながら語り合う場所と考えて、気軽に入会を依頼し、預かり金を払ってしまった。全裸に恐れをなして、引き下がるわけにはいかない。女将稼業をしていれば、それなりに世擦れてもいる。それに、私は自分の裸身に自信もあった。

「いいわ。女だけなら、裸の方が自然よ。温泉の大浴場だってそうでしょう」

 入り口こそ、普通のクラブのように、燕尾服ようの制服を着た女性がいたが、ロッカールームから先は、従業員もすべて全裸だった。まだ、寒さが残る季節だったが、ロッカールームも程よい温度に保たれているのか、脱ぐのに、抵抗がない。むしろ、脱ぐのに解放感すら覚える。脱いでしまえばもう、そこは夏の世界だった。温風で肌に汗が浮き、プールの水が心地好さそうに感じられる。

 私たちは、プール・サイドのデッキチェアに腰を下ろす。

「いきなりでは、拠り所がないように思うでしょう。だったら、初めはタオルを胸に巻いていてもいいのよ」

 そう言われれば確かに、タオルを上半身に掛けて、デッキチェアで寝ている女性も何人かいる。

「温水のシャワーもあるし、サウナもあるわ。お好きなように使ったらいい。食べ物や飲み物はレストランでとなっているけれど、プールサイドにも運んでくれるわ。ただし、ナイフやフォークの取り扱いについては注意してね。プールの中に落としたりしたら危険だから。それと、コークの瓶などもプールに入れないように言われているわ」

 全裸なのは、危険なものを身に付けていない証しのためと彼女は言ったが、プールの周辺には、ガラスの破片などが落ちていないかどうか、全裸の従業員が気を配っている様子が伺える。

「そうは言っても、それは大目に見ているのよ。だって、コークの瓶を使いたがる人もいるもの」

 そう言われても、初めは、その意味が解からなかった。しかし、直ぐに目に付いた。どういうカップルか解からないが、プール・サイドの木陰で、コークの瓶を股間に差し込み睦み合っている二人を見る。若い女性の白い大腿の間で、黒いコークの瓶が蠢いている。それは、単に戯れているのではなく、その行為は確かに、性の饗宴でしかない。プールの中に、無数に浮かんでいるレモンを、美容のためと思ったのだが、それも股間に入れて悦しむものだと、後で知った。濡れた体を拭うタオルは、プールサイドの各所に山積みされている。

「貴女も直ぐに、いいお友達が出来るわよ。貴女は魅力的だし、私も貴女の裸を見るのは初めてで、私が言い寄ってみたい気持ちにもなっているわ。そうして、座っていれば、誰かがきっと、声を掛けて来るわ。熟年の女らしさが発散している」

「褒めてくれてありがとう。こうしていると、私も何か、女に自信が持てたみたい」

「ご免なさい。私の彼が来ているから、私は向こうに行くわ。彼にと言っても若い娘だけれど、私は彼女に抱かれるのが好きなの。そのために、ここに来ているのよ。貴女は一人で、泳いでいらっしゃいよ。誰も言い寄って来ないようだったら、後で、誰かを紹介するわ」

 そう言って、タオルをデッキチェアに残し、プールを回って行く彼女の後姿からは、私と同年輩のはずなのに、張りが感じられない。腰周りの肉もだらしなく広がっているように見える。それに比べれば、私の腰はまだ、締まっているし、皮膚にもたるみがない。女を主張できる身体だと思う。

 その時は、誰とも睦み合わなかった。後で、誰かを紹介するわと言っていた彼女も、彼女の言う彼との交わりに熱中してしまったのか、上気した顔で戻って来ると、疲れてしまったから先に帰るわ。貴女はもう少し、のんびりしていらっしゃいよと言い残してロッカールームへ行ってしまった。私は暫く、プール・サイドに残っていたものの、ただ、充満する温風と、それぞれのカップルが発散する熱気に、のぼせて帰った。

 しかし、その光景が私の脳裏から消えない。

何時(いつ)、行ってもいいのよ。貴女はもう会員なのだから、せいぜい利用した方がいいわ。気晴らしになるでしょう。でも、貴女だから誘ったのよ。口の軽い人には教えられない。注意してね。私は、お座敷に出る前に、どうせお風呂に入るのなら、あそこですっきりしてきた方がいいと思って入会したのだけれど、夜も、午前一時までやっているから、お座敷が早く済んだら、それからでもいいのよ」

 後ろめたい気持ちがしないでもなかった。しかし、男との交わりもそうだが、それを知ってしまうと、その中に引き込まれてしまう疼きにあらがえない。女同士の性の饗宴なのだからという言い訳と、そして、そこでなら、私の女が出来そうな誘惑が私を駆り立てる。夫はどうせ、十二時を過ぎなければ帰って来ないだろうとの思いもあって、私はタクシーを呼び、都心のクラブに向かう。

 戯れる相手はいない。それでも、大きなプールに入って泳ぎ、温水シャワーを浴びるとゆったりした気分になる。体を拭ってから、レストランで冷えたワインを口にする。全裸なのだから、拘束されるものがない。身に何も付けていないという効用を知る。目の前で繰り広げられている女同士の愛の交歓も、解放された光景として、受け入れられる。

 全裸の従業員が、ソーセージはいかがと微笑み掛ける。私がまだ、慣れていない様子なのを気付かってか、私が一人なので、声を掛けてくれたのかもしれない。

「お独りで、ソーセージをお(たの)しみになる方もいらっしゃいますわ。あちらに積んでございますから、お好みのものをお選びください」

 確かに、それはソーセージだった。大小さまざまなソーセージが、大きな籠に盛り込まれていた。私は細くて長いのを二本、皿に載せて自分の席に戻る。

「あら、細いのがお好みなの?」

 目を上げると、若い女が立っていた。もちろん、全裸だった。私のように、タオルも身に付けていない。しなやかな身体の線に少女の印象を受けた。いや、少年のようにも思えた。

「ご一緒してもいいかしら?」

「どうぞ」

 少女は私の傍らに椅子を引き寄せて座る。

「私は太いほうがいいと思うけれど」

「どうして?」

 少女が笑う。そして、私の皿の上のソーセージを一本手にすると、私の前にひざまずき、それを私の股間に当てがう。ソーセージの先が私の陰唇を分ける。思わず、声が出そうになる。それが、私の中に入る。自然に、腰が椅子からずれて、私はのけ反る。

「初めてなの?」

「だって、まだ、入会したばかりですもの」

「それで、細いのを選んだって、わけ?」

「そういうつもりじゃなかったの。ワインのお摘みにと思って、持ってきたのよ」

「じゃ、これ、召し上がったらいかが」

 少女が、私の中からソーセージを引き抜いて、皿に戻す。 それは、一瞬の出来事だったように思う。少女が立ち上がる。

「今度は、太いのにしましょうよ」

 それだけ言って、少女は立ち去る。駆けて、プールに飛び込む。

 思わず私は立ち上がっていた。そして、少女を追う。プールの中で少女を捉らえて、体を引き寄せる。すると、少女は私の体を横抱きにし、私の股間に手を差し延べる。少女の唇が私の乳房を噛む。水の中に、体が浮いているので、拠り所がない。少女の腰に足を絡ませる。少女の指先が私の中を探る。しなやかに動く。夫のものが私の中に入った時のような充足感はない。しかし、私は少女の指の動きを追って体を(よじ)っている。細い指先なのに、私の中が膨らむ。空洞が大きくなったように思う。同時に、その中に熱いものが溢れているのを覚える。

 夫との際には、そんな思いに浸った試しがない。夫のものが私の中に収まっているからか、夫の出し入れに従って、私の粘液は夫のものに絡んで流れ出る。そんなふうに思える。それが、今は私の中に充満している。溢れ出ようとするのを堪えている。水の中だからという思いが一方にある。それでも、我慢するには限界があった。少女の指先を子宮に感じて、私は私の中に溜まっていたものを放出してしまう。その感覚に痺れる。夫との時には味わえない快感だった。少女の指に導かれて、昇りつめた後の放出感を、私は初めて知った。それは放尿とも重なったように思う。夫との場合は、そこまで行っていない。

 こうして、私は少女と友達になった。少女を求めて、クラブに通う。少女は、初めての時に言ったように、太いソーセージを挿入したりもしたが、私は少女のしなやかな指先の愛撫を求めた。そうして、溢れるものに堪えるのが、私の好みになった。

「貴女はいいの?」

「私はいいの。私は愛撫されるより、愛撫する方が好きなの。でも、太いソーセージを、お互いに挿入し合って、腰を使ってみたくなる時もあるわ」

「それなら貴女、貴女はまだ若いんだから、男のものを入れて貰った方がいいんじゃないの?」

「男は嫌なんです」

「どうして?」

「男が男でなくなったから、男に抱かれて、男のものが、私の中に入ってくるのが、嫌になったのです」

 かなり親しくなってからだった。男嫌いだから、こんな所に出入りしているのだろうとは思っていたが、会話を交わすうちに、少女の考え方がはっきりした。

「六十年代の闘争のような無謀な戦いは無意味かもしれないけれど、戦わない男は存在する意義がないわ。男は戦って、傷付くから、女が(いたわ)り、癒してきた。そうでしょう。戦わない男をどうして、女が慰めなければならないの?」

 食べたり、飲んだりした際には、伝票にサインして、後で支払うシステムになっている。それで、覗き見するという程でないにしても、名前は判るのだが、互いに家庭とか仕事に就いて詮索しないしきたりになっているので、とくに、名前も名乗らない。ところが、ある時、夫の口から、清水千代という名が出た。確かに、少女は、そのようにサインしている。夫は、男嫌いの社員がいてね、というような話をして、その女子社員の名を清水千代と言った。

「男の匂いが、嫌なのだそうだ。そういう女性も、いるんだろうね」

 私は、その次に出会った時に、改めて、少女のサインを確かめてみた。自分のサインを後回しにして、少女の筆跡に見入った。間違いなく、清水千代と書いた。

 同じ名前の人は幾らもいよう。全くの別人かもしれない。私は注意深く訊いた。

「ルール違反かもしれないけれど、貴女の仕事に就いてお尋ねしてもいい?」

「雑誌の編集をしています」

 少女はためらわずに答えた。

「私は料理屋の女将だけれど、だから、女として独り立ちしているつもりで、女の世界に来ているわ」

 千代が、正面から私を見据えた。

「いいの。これは貴女と私の話よ。それ以上、詮索するのは止めましょう」

 千代とは、いっそう深まった。そして、千代は私に、女性が独りで生きて行くための方策を尋ねた。

「私の場合は、夫を当てにしていないというだけかもしれないわ。父の時代には、女に君臨するような男がいて、料亭は成り立っていたのでしょうけれど、父が母以外の女と(ねんご)ろになって、女将としての母に頼りながら母を疎外していた父を嫌っていたの。それで、父とは違うタイプの男として、夫を選んだつもりなのだけれど、どうかしらね。結局は、役立たずな男という話になるのかもしれない。それに、料亭の経営も、父の時代とは変わってきているし、男と関係なく、自分の考えでやって行くしかないように思うわ。それだけよ」

 

    三

 

 バスタブの中で、ひとしきり戯れる。互いに、乳房や腰回りを愛撫するには、その方が都合がいい。温水に、体もほぐれる。

 クラブのプールなら、浮遊しているのだから、もっと楽に手足が動かせるのだが、自分のマンションとなると、そんなに大きなバスタブは入れられない。それでも、窮屈な思いをしながら体を絡ませるのも、プールとはまた、違った味わいがある。たっぷり体をほぐしてから、ベッドに行く。

 直ぐに、体を寄せ合い、互いの股間を開く。舌の先で、陰唇を探る。陰核を吸う。そうしていると、どういうわけか何時も、私が智子に覆い被さるようになり、智子の尻を抱き上げる姿勢になる。私は両足を延ばしたまま、智子の舌を受け入れている。私は智子の尻に手を回しているので、彼女のアナルにまで舌が伸びるが、下から私の陰唇に舌を差し込んでいる智子は、その位置から外れない。それが、私には、物足りない。私が膝を立てればいいのだろうが、それでは、私の体が安定しない。足を延ばして、智子の頭を挟んでいた方が落ち着く。

 智子は、その方がいいと言う。智子は、私に愛撫されるのを好む。私がソーセージを使う場合でも、私が智子の上に被さって、それを智子に挿入する。いずれの場合でも、私たちは、簡単に終わらない。疲れ果てるまで、続けられる。そして、昇りつめる。智子が、私と違って受け入れる側に回ろうとするのは、その方が疲れないと考えているからなのだろうか。それは、それでいい。私は多分、私の愛撫で、智子が喘ぐのを私の歓びにもしている。そして、私は私なりに、放出感を味わう。

 疲れないようにしているくせに、もういい、と言うのは何時も、智子の方だった。智子は一度昇りつめると、私を押しやる。

「だって、これ以上続けたら、息が出来なくなってしまうもの」

 私の粘液が、智子の口を覆ってしまうからだろう。それなら、体を入れ替えようと言うのだが、智子は、この方がいいと答える。それは、智子の方が私より、女性らしい肉付きをしているからだろうか。重いカメラ器材を持ち運んでいるのだから、筋肉質になっていてもおかしくないのだが、彼女は私よりも豊満な身体で、柔らかい肌をしている。ことに、腰回りの肉の付き方は女性そのものだし、見事な盛り上がりだった。だから、彼女は、女性の体位を好むのかもしれない。

 私たちは、互いに体を拭い、眠る。

 朝、目覚めると、智子がコーヒーを入れる。その香りが漂ってから、私は起きる。言ってみれば、智子が主婦の役目を果たしている。だから、交わりの体位にも、それが表れるのかもしれない。こうして、私たちは日々を過ごしている。

 智子はカメラマンだった。女性だから、マンというのはおかしいかもしれないが、そうとしか呼びようがない。私が始めた、女性だけの週刊誌に、フリーのカメラマンとして、応募してきた。社員ではなく、一つの仕事について幾らという契約にした。智子も縛られるより、その方がいいと言った。

「写真だけで生きて行きたいもの」

 私の週刊誌だけでなしに、コマーシャル関係の写真もこなしているらしい。センスもいいし、重いカメラを何台もバッグに入れて、飛び回っている姿に惚れた。仕事で遅くなった帰りに、泊まっていかないかと誘うと、喜んで付いてきた。その時、私の部屋に帰って、何か食べるかと訊くと、私が作りますと言い、冷蔵庫を開けて、ハムやら野菜を取り出し、手際よくサラダをしつらえた。

「だって、カメラの仕事は、何でも、一人でやらなければならないでしょう。今は、現像の手間が省けていますけれど、出来上がりまで、自分で見なければならない習性が身に付いているのです。帰って、料理をするのも、一人でやるものだと思っています。宜しかったら、何でも作りますよ」

 男勝りと思っていたのに、意外な面を覗かせる。そうした日常があって、彼女の写真は女性の目を通してという、私の注文もこなせるのだろう。私には、得難いカメラマンだった。他に三人の女性カメラマンもいたが、私は智子を重用した。それで、自然に彼女と接触する時間が長くなった。智子も、私の部下でないという自由な立場からか、親しげに声を掛ける。仕事で遅くなると、遠慮せずに、私の所に泊まって行くようになった。むしろ、積極的に、外で食べるより何か作りますから、編集長の所に行きましょうよと言う。そして、こまめにキッチンに立つ。

 そうして、食事をしていると、夫婦みたいですねと智子が笑う。

「じゃ、一緒に住みましょうか。貴女が、お台所をやってくれると助かるわ」

 仕事柄、私の方が編集室で拘束される時間や、取材で出歩く機会が多い。編集の仕事ばかりでなく、婦人団体などからの講演の依頼も舞い込む。私は、男性からの自立を謳い上げ、女性の世界の確立を訴える。それが、私の週刊誌の売り上げにも繋がる。智子は、フリーの仕事だから、私より時間に自由があった。もちろん、夜遅くまで掛かる撮影もあるし、朝早い出発もある。それでも、昼間、私の部屋にいられる時間もあり、私のものも含めて、洗濯もまめにしている。主婦業を楽しんでいる風情さえ感じる。

 こうして、私と智子との共同生活が始まった。私は何となく、智子に寄り掛かっている。智子が愛しくなる。恋愛とは違うにしても、彼女を手元に引き付けておきたい。それに、クラブでの光景が重なる。私は冗談めかして、入浴中の智子のバスタブに割り込む。私の手が、智子の乳房に触れるのを智子は遮らなかった。私は智子の股間に手を差し込む。智子は目を閉じて、私の首に手を回す。唇を合わせる。

 それまで、ベッドは別にしていたのだが、そうなってしまえばもう、一つのベッドで眠るのが自然だ。私たちは互いに、裸身をまさぐり合う。

「これで、本当の夫婦になったわね」

 智子が、密やかに笑う。私は、クラブでの愛撫を想い描きながら、智子を抱く。クラブに誘ってもいいのだが、それより、智子と二人だけで過ごせる夜の方が、濃密に思える。

 夫婦のようなものだと智子は言うが、そして、智子は一般の家庭の主婦と同じように家事をこなしているのだが、私たちの生活はもちろん、通常の夫婦とは違う。男と女ではなく女同士だからというだけでなく、それぞれに仕事が別になるので、家庭に帰って寛ぐという時間は余りない。食事は、智子が作ると言うのだが、二人が早い時刻に帰って、揃って食卓を共に出来るのはまれだった。もっとも、最近の風潮では、家庭といっても、夕食の団欒は少なくなっていよう。幸い、携帯電話が普及したので、智子とは随時連絡を取り合いながら、それぞれが遅くなる時には、食事を外で済ませるなど、無駄な労力を省くようにしている。それも、今では、一般の家庭と同じようなものだろう。

 外で食事をして帰ると、智子が蜜柑の皮を()いている。剥きながら食べているのかと思ったのだが、口に入れている様子がない。剥いた蜜柑が幾つも並んでいる。

「たくさん剥いておいて、それから食べるの?」

 智子は首を振る。そして、皮を剥く作業を続ける。テーブルに皮が剥かれた蜜柑が並ぶ。それが十数個になると、これくらいあれば足りるわと言い、立ち上がる。そして、蜜柑を抱えて浴室に向かう。

「それ、お風呂に入れるの?」

「いいから、一緒にお風呂に入りましょうよ」

 外から帰って来たのだから、私も体の汚れを取りたい。

「直ぐに行く。先に入っていていいわ」

 私は衣服を脱ぎ、パンティだけになって、浴室に入る。パンティを足から引き抜きながら中を覗くと、智子は、バスタブの縁に腰を下ろし、もちろん全裸で、両足を広げ、股間に蜜柑を入れている。剥いた蜜柑を房に分け、それを一つずつ押し込んでいる。

「貴女も、こうしなさいよ」

 特に、異様とは感じない。私も手を伸ばして、蜜柑を取る。それを房にほぐして、股間に入れる。かなりの数が膣の中に入る。幾つか入ると、満たされた思いになる。そこが膨らむ。智子が寄ってきて、局所を合わせる。そして、押しつける。私たちは体を交差して、その部分を擦る。すると、中の蜜柑が潰れて、果汁が溢れる。

「これしかないのよ。一人の時はこうして、自分で押し潰していたわ」

 蜜柑を膣内に押し込み、充足感を味わい、それを潰す。そして、果汁の滴りに浸る。智子は多分、それで、過ごして来た。一人なら、そんなふうにしか出来ないだろう。

「後、ゆで玉子を入れるの。ゆで玉子は入れる時のするっとした感触がいいのよ。でも、中で潰したりすると、後が大変。黄身がこびりついてしまうと、なかなか取れないのよ。これでも、房の滓が残るけれど、玉子の黄身ほど厄介ではないわ」

「それなら、ソーセージの方がいいんじゃない?」

「ソーセージ?」

「あら、貴女、知らなかったの?」

「私は、蜜柑と玉子しか知らない。後は、指でなぞるしかなかったわ」

「コークの瓶を使う人もいるわ。瓶の口が、子宮に当たるのがいいんですって」

 クラブのプールに浮かぶレモンが頭を掠める。あれは堅過ぎて、時には痛い。それでも幾つか押し込むと、充実した思いに浸れる。

 私がソーセージの使い方を教えてからというもの、智子は、私がソーセージを智子の膣に挿入するのを歓ぶ。それが一番、満ち足りた気分になれると言う。私が、自分の膣にソーセージを差し込み、その一方を智子に挿入する。そうして、睦み合うと、智子は声を挙げる。私も何回か昇りつめることが出来る。そうした交わりだと、智子は口が塞がれていないので、よく喋る。

「出てしまいそう。出してしまってもいい?」

 そして、私にしがみつく。そんな時が、私も一番、感じる。それでも、私はさらに続ける。智子も、それを歓び、求める。

「いいわ。男の人だと、一回で終わりだけれど、二回も、三回も、続けて出そうになるわ」

「貴女、男を知っているの?」

 智子は、顔を振る。

「いいのよ。貴女が男を知っていても」

「一回だけよ。だって、男って、自分だけ勝手にいい気持ちになると、それでお終いなんだもの。こんなふうにはなれないわ」

 仕事で遅くなって帰った時など、智子は疲れているから一人で眠りたいと、ベッドを別にする。私も一人の方がいい時もある。好きなように過ごすのが、私たちのルールになっている。しかし、ベッドを異にする夜が多くなってくると、気になる。男とは、一回だけだと言ったけれど、智子の向こうに、男の影を見る。でも、それを直接には言えない。

「仕事のし過ぎじゃないの?」

 智子は、曖昧な答え方しかしない。

「貴女は、フリーで稼いでいるのだから、たくさんの仕事をこなさなければならないのは解るけれど、疲れるようなら、考えなさいよ」

 そうとしか言えない。智子は仕事を理由付けにしているが、私以外の(たの)しみを知り、それで、疲れて帰るのではなかろうか。それなら、私も、智子以外の女と歓びを交わしているのだから、智子を一方的に非難するわけにはいかないだろう。智子が、男と交わっている姿態が浮かぶ。智子は私との場合でも、受け入れる姿勢を好む。それを口にはしたくなかったが、私は智子に訊く。

「貴女、男がよくなったのと違う?」

「ソーセージより、いいわ」

 意外に、はっきりとした答えが返ってきた。

「ソーセージより感触がいいし、いろいろと刺激される。終わりには、熱いものを浴びせてくれる」

「いいのよ。それがよかったら、その人と一緒に暮らしなさいな」

「編集長の、自立した女性の世界を築くのだという主張には賛成しているわ。だから、この仕事をさせてもらっている。でも、世の中には、男がいるのだから、彼等に奉仕させてもいいと思ったの。彼等が私に、歓びをもたらせてくれるのなら、彼等を使わなければ損よ。結婚して、彼等に従属するつもりはないし、彼等のために、子供を産もうと考えているわけではないわ。そんな時、私はスキンを使わせる。だから、彼等は道具でしかないのよ。それなら、編集長の主張に反しないと思う」

「いいわよ。私たちはお互いに、拘束しない約束ですものね。自分の主張で生きて行く。それが、私の考え方でもあるわ」

 といって、智子は私の所から出ていく様子はない。これまで通り、私との夜を過ごす。その合間に、男を迎え入れている。男から歓びを得ている。それなら私も、智子には明かしていないが、クラブでの悦楽に歓びを求め、その世界に漂っている。智子を責められない。

 しかし、私は男を避けるために、自らをそこに追い込んでいるだけなのではないだろうか。智子のように、素直に男を迎え入れられそうにない。うっかり男を受け入れてしまうと、そのまま流されてしまうように思う。私は男に組み敷かれる。男に導かれて、歓喜の坂を昇る羽目になる。それが嫌だった。

 私はあくまで、私の気持ちで歓びを探りたい。もし、子供を産むために、男が必要だというなら、それは、精子の提供を受ければいいのであって、誰彼の子供である意味合いはない。そして、そのシステムは、すでに出来上がっている。子供のために、男と交わる必要はない。男に挿入されて、歓びの果てに彼の精子を浴び、子供を得る手順はいらない。男との交わりを求めるのなら、彼等の行為によって、快楽がもたらされればいいだけの話である。

 智子は違う。彼女は男を迎え入れる行為に、歓びを覚えている。スキンを使っているから、男は道具に過ぎないと言っても、それは、男の挿入によって、男と女が結ばれ、子供が産まれるという図式から外に出ていない。男に奉仕させていると思っていても、そんな形では結局、男に、女を組み敷いて放出し、女を自分のものにしたという充足感と快楽をもたらすだけになる。男の行為によって女が喘ぐのに、男は満ち足りる。それが疎ましい。しかし、男のものを収めて、その動きに歓び求めようとするなら、どうしても、そうした時間を辿らなければならない。

 戦う男なら、戦って傷付いている男なら、彼の闘争心を高めるために、彼の行為を(たた)えて、受け入れてもいい。女の膣は、そのためにある。男を迎え入れて優しく包み、慈しむ。そして、男に歓喜をもたらす。その果てに、男は放出する。その繰り返しによって、戦う男が産まれ、戦う男を癒す女もまた、産まれて来た。今はもう、そんな時代ではない。男は戦わないし、傷付きもしない。男の闘争心を燃え立たせようと、女性が膣を提供するまでもない。それは、女性自身が快楽を求めるための空洞であればいい。

 しかし、智子が、そうしているのなら、私も男を迎え入れてみてもいいのではないかと考える。男を癒すためにではない。男に、放出する歓びをもたらしてやってもいい。ただ、それだけでしかないのを男に知らしめたい。

 彼に声を掛けたら、彼は直ぐに、その気になろう。ホテルに私を誘って食事をした時、彼はそのつもりになっていた。ホテルに部屋を用意していたかもしれない。私を送ると言って、一緒にタクシーに乗り込もうとしたのは、途中で、何処ぞのホテルにタクシーを着ける下心があったに違いない。

 あの時、私はクラブに直行した。そして、彼の妻と睦み合った。もし、私が彼と交わったら、彼等二人、その双方への背信になるだろうか。

 今夜も帰りが遅い智子を待ちながら、智子が男と交わっている姿態を想い描く。智子の膣の中を、男のものが行き来している。私は身を(よじ)り、そこに、コークの瓶を差し込む。それは冷たく、私の粘膜を分ける。それが、男のものだったら、私は初めから、熱い滴りに浸れよう。

 しかし、私は頭を振る。私は私の意思で、私の高まりを求めればいい。戦わなくなった男に、こちらから声を掛けるいわれはない。

 

    四

 

 その酒場は、銀座裏の、それも狭い露地を入った突き当たりにあった。ビルの軒先を利用して、板囲いをして作ったようなもので、カウンターに五人も座れるかどうか、という酒場だった。

「銀座で一番狭くて、汚い酒場だよ」

 それが、女将(おかみ)の売りだった。宝塚の生徒から女優になったという女将は、今でも美しい。どういう縁で一緒になったのか知らないが、明治のラグビー部でフォワードをやっていたという男と結婚して、そこに店を出した。戦争が終わって、直ぐの頃だったようだ。ところが、夫を早くに癌で失い、以来、独りで酒場を続けて来ている。それは、智子の説明による。

 もっとも、独りでなければやっていけないだろう。五人も座れば一杯になってしまうカウンターだから、カウンターの中に独りいれば、すべてこと足りるだろうし、それ以上に、人が入り込める余地がない。

 初め、俺は智子に伴われて、そこに行った。智子は、その店が銀座のタウン誌に紹介される際に、店内の撮影を頼まれたと言った。

「狭いから、撮りづらくてね。苦労したわ。でも、銀座で一番、狭い酒場という感じは出せたわね」

「そして、私を美人に撮ってくれた」

 女将は、そう言って笑う。長年、独りで客商売をしているのだから、それなりに、腰が座っている。言葉遣いはぞんざいだが、それが、常連には受けているらしい。

「こんな所だから、サービスなんか出来ないよ。女の子が必要なら、自分で連れて来るんだね。その点、この娘が来てくれると助かるよ。お客さんが喜んでくれる。ねえ、そうだろう?」

 カウンターの一番外れで、一人でウイスキーを飲んでいた客に声を掛ける。

「サービスしてくれなくてもいい。女もいらない。第一、女が目当てなら、こんな所には来ないよ」

「じゃ、私なんかどうでもいい」

「いや、ママは美人だからね」

 宝塚の生徒だったという頃を想い描いてみる。戦争前だったろうと思うが、だから、今はもう、かなりの年になっていようが、それなりの美形を保っている。サービスなんか出来ないよと言われても、女将が、そこに座っているから客が来る。

「何を飲む。ウイスキーでいいよね。カクテルなんか作ってくれって言われても困るよ。ウイスキーをそのまま飲むか、水割りにするのか言ってくれたらいい。ソーダで割るくらいなら出来るけれど、そうなると、レモンを切らなくてはならない。面倒なことはよそうね」

 そんな具合で、小皿のピーナツを二つ出す。それだけが摘みだった。俺は氷を入れただけのウイスキーを頼む。智子が水割りと言うと、ミネラルウォーターのボトルをカウンターの上に載せて、好きなように割ってよと任せる。そんなふうだから、気のおけない酒場なのかもしれない。

 俺はピーナツを摘みながら、ウイスキーに口を付ける。女将は智子の方に体を向けて、喋る。次から次へと、何やら言う。智子が、それに相槌を打つと、納得したように微笑み、そしてまた、智子に語り掛ける。よくまあ、喋る内容があるものだと感心するくらい、女将の唇が動く。初めは、話の内容を聞き取ろうとしたのだが、どうやら女同士が解り合える話題の様子で、男を悪者にして喜んでいる。智子が来てくれて助かるというのは、女将自身の問題で、智子を相手に喋るのを楽しみにしているらしい。俺は二人の会話に割り込まずに、一人でウイスキーを飲む。

 一人いた客が帰る。入れ替わりにまた、一人、カウンターに座る。

「この頃、来ないじゃない。景気がよくて、女の子のいるバーに行っているのと違う。あんたはウイスキーをストレートで飲むんだよね」

 そっちには、コップとウイスキーの瓶とミネラルウォーターのボトルを並べ、好きなようにやってよと言う。

「ああ、これくらい出さなければ酒場と言えないね」

 ピーナツの小皿を出す。それだけだった。後はまた、智子とのお喋りに熱中している。新しい客は、そんな扱いに慣れているのか、勝手にウイスキーの瓶からコップにウイスキーを注ぎ、口を付ける。それで、料金はどうなるものが分からないが、恐らく、ウイスキーの減り具合で、幾らと請求されるのだろう。

 俺は、オンザロックを二杯飲んで立上がり、智子を促す。放っておいたら、何時までも話し込んでいるだろう。そんな時間を過すために、智子に会ったわけではない。智子とは、セックスが目的で連絡した。智子も、それを承知している。女将とお喋りしていた智子だが、彼女も頃合いと感じたのか、頷いて立ち上がる。智子は、付けておいてと気軽に言う。女将の応対ぶりもそうだが、智子も常連の一人なのだろう。

 外に出ると、寒風に襲われる。

「オンザロックで飲んだから、体が冷えてしまったよ。何処かで暖まって行かないか」

 智子は答えない。しかし、俺に向けた瞳が輝いている。同意してくれたものと思う。智子だって初めから、そのつもりで俺に会っている。

 今日も、智子は、カメラを入れた大きなバッグを持っている。それを俺が下げて、銀座通りを抜ける。

「お喋りな女将だな」

「他にだれも、喋る相手がいないからでしょう。女は独りでいると、喋る相手が欲しくなるのよ」

「智子も、そうかね」

「私は仕事があるから。それに、いつも、カメラと喋っているわ」

 下げているバッグで、手が痺れてくる。

「こんな重い物を何時も担いで歩いているのかい?」

「私は、独りですもの」

「俺が、助手になろうか」

「そうしてくれると助かるわ。でも、今のところ、お手当ては払えないかもしれない。それでもいい?」

「給料なしの助手か」

「食べさせて上げればいいでしょう。それくらいのお小遣いは上げるわよ」

「部屋代もいるよ。助手になるなら、今のバイトを止めなければならないからね。そうだ。智子の部屋に住まわせて貰えないか」

「そうはいかないわよ。貴方は他人だもの」

「他人かなあ」

 智子が顔を寄せて笑う。

「他人よ。ずっと他人だわ」

「他人でもいい。でも、今夜は他人ではなくなろう。いいだろう?」

「遅くなれないわよ。明日は、朝早く出掛けなければならない仕事があるのだから」

「それなら、急ごう」

 俺たちはタクシーを止めて、五反田の裏口にあるホテルに向かう。そこで二時間を過ごす。智子とは知り合ってから、そんなふうに過ごしている。一か月に、一回か二回だが、そのためのホテルで、体を交える。時に、智子の方が、積極的に誘う場合もある。そうでなくても、俺が、いいだろうと言えば付いてくる。そして、入れて、入れて、とせがむ。

「だって、入れてくれなければ、ホテルに来た意味がないもの」

 俺は喜んで挿入する。直ぐに、入れてとくるから、面倒な愛撫はいらない。俺が中に入ると、智子はそれで満足するのか、俺に足を絡め、深く求める。そして、高まる。俺は多くの女を知らない。だから、智子が特別なのかどうかは解らない。智子は俺を締め付けて喘ぐ。そのために、俺は一直線に昇りつめて、放出してしまう。

「そんなにいいのなら、俺と結婚したらいい」

「結婚したら、毎晩、奉仕してくれる?」

「ああ、智子に、いい思いをさせて上げる」

「私に奉仕するのよ。奉仕するだけなのよ。その意味、解って?」

 あれは、何時の頃だったろうか。暑い夜だった。渋谷の猥雑な店で飲んでいた時、智子が俺の隣に割り込んできた。もちろんまだ、智子とは知らない。大きなバッグを足元に置いて飲んでいる。それも、冷酒をコップで、立て続けに飲む。初めから、かなり酔っていたようだ。支払いを済ませて立ち上がる。バッグが持ち上がらない。足元も定かでない。俺がバッグを持ち上げて、智子を支える。そのまま、ホテルに連れ込んで、体を重ねた。熱い体をぶつけあった。暑かったから、そんなふうになれたようにも思う。

 初めは、俺が犯したような交わりだった。しかし、それから何回か、ホテルで体を交えるような間柄になると、俺は智子に、従属しているような気分になった。それは、俺が貧しいからかもしれない。ホテルの料金を智子が払う。何処かに飲みに行っても、支払いは智子がする。智子は独り立ちしたカメラマンであり、金を持っていた。俺はしがないアルバイトで、一日、一日を暮らしている。初めこそは気ばったものの、数千円のホテル代は苦しい。だから何時も、俺は智子のカメラが入った重いバッグを下げて従う。

 それだけではない。最初は俺が注意して、スキンを使ったのだが、それ以後も、智子は、入れて、入れてと悶えながらも、俺にスキンを着けさせる。確かに、俺は智子の膣の中に放出するのだが、それは、直接には智子に触れない。智子とはスキンを隔てているし、俺のものも、スキンの中に放出され、そこに溜まっている。

「俺は何時も、スキンを使っている。智子に奉仕しているだけじゃないか。それに、何時もこうして、智子のバッグを担いでいる」

 智子は笑う。

「そうね。重いバッグを持ってくれる。そして、入れてくれるものね。あれも、これも、奉仕か。だから、お小遣いぐらいは上げると言った。お小遣いを上げるから、私の助手になる?」

 小遣いを貰って、智子に奉仕する。小遣いのために、バッグを持つだけでなしに、智子に歓喜をもたらす。普通は、男が女に金を出して、愉悦を得る。放出する快感を求めて、女の中に挿入する。そんな時、女はただ男に、放出するための洞窟を提供しているだけだと考えているのだろうか。洞窟の使用料を男から受け取る。そうなると、俺が智子から小遣いを貰うのは、俺のものを智子が使うから料金を払うという図式を俺は甘受する羽目になる。それでも、いいと思う。智子が俺に奉仕させていると考えていても、俺は俺で、智子の中に放出して、例え、それがスキンの中であっても、それで、歓喜が得られる。

 ただ、それだけの行為に過ぎないと割り切ってみても、俺は智子との交わりに、智子の労りが欲しい。そのためには、俺が智子に金を払わなければならないだろう。小遣いを貰って助手になるのであれば、俺はあくまで、智子の助手でしかない。

「お小遣いが足りなくて、飲みたくなったら、あそこに行ったらいいわ。私に付けておいてもいいのよ。一回に、ボトル一本も開けられたら困るけれど、あそこのママなら、そんな飲み方をさせないと思うわ」

 そうして、智子に付けて飲めば、その分、智子は俺に、奉仕させるつもりなのかもしれない。俺は、智子に奉仕するために、酒場に通う。

 智子に出会った暑い夜から一年を経て、また暑い季節を迎えていた。智子の助手にはなっていないが、何となく智子に従属して過している。智子には、ここ暫く会っていない。仕事が忙しいのだろう。そんな時は、俺も無理強いはしない。俺が金を持っていて払ってやれるのなら、仕事を中断させても呼び出せるのだろうが、そうもいかない。金が無いから智子の付けで飲める銀座裏の酒場に顔を出す。一人の紳士が飲んでいた。これまで、一度も出会った試しがなかったが、常連の一人なのだろう。女将と、親しげに談笑している。

 何時ものように、俺にピーナツの小皿を出しながら言う。

「二杯だけだよ。彼女に言われているのだからね」

「何だい。制限付きなのかい?」

「この人の恋人に頼まれているんだ。余り、飲ませないようにって」

「恋人じゃないよ」

「じゃ、何なのさ」

「俺にも、解らない。彼女は俺に、他人だと言う。何時までも、他人だって」

「他人ねえ」

 紳士が、俺の方に体を向ける。

「夫婦であっても、他人のような場合もある」

「だって、おうさんの所は仕方がないじゃない。奥さんは、料亭の女将で働いているのだし、おうさんはおうさんで、出版の仕事をしているんでしょう。普通の夫婦とは違うわ。私の所だって、他人のようなものだったわ。うちの亭主ときたら、店を開けるのは手伝ってくれたけれど、それだけよ。後は何処かに遊びに行ってしまって、十二時頃に戻って来て、看板にしようやと言うのよ。仕入れも、私が一人でやるしかなかった」

「それでも、ママは一緒に帰って寝たんだろう?」

「それだけが、夫婦だったかしらね」

「それで、いいんだよ。一緒に寝て、労わってあげれば」

「冗談じゃない。労わってなんかやらなかったよ。自分がしたい時には、勝手に私の中に入ってきてさ。さっさと、自分だけいい気持ちになって寝てしまうのだからね。労わりようがないじゃない。疲れているのは、私の方なんだからね。私の方が、労わってもらいたかったくらいだよ」

「男と女は所詮、他人でしかない。他人なんだなあ。他人であっても、ママが女性だから、こんな所にも、男が来て、飲む」

「他人だから、いいんだよ」

「全く。ママとは他人だよな」

 紳士は、一人で感心し、立ち上がる。

「君、ここでは余り飲ませて貰えないんだろう?」

 俺は頷く。

「じゃ、他へ行こう」

「女の子のいる所で、飲ませてもらったらいいよ。この人、社長なんだから」

「社長じゃないよ」

「週刊誌の編集をしていた頃はよく来てくれたけれど、この頃は、お見限りだからね。奥さんが、資産家なんだ。お金をたくさん持っているから、付いて行くといいよ」

 紳士に伴われて行った先は、ゲイ・バーだった。入ってみれば、直ぐに、それと解る。何人もの男の美女が、俺たちを取り囲む。俺は初めての経験だし、彼女たちが男だと解っていても、半裸の女に肌を寄せられ、興奮に浸る。その証拠に、俺のものは大きくなっている。

 目敏く、一人の美女が、それを見抜く。

「可愛いじゃない」

 俺の股間に手を当てがう。

「堅くて、大きそう」

 ズボンの上から品定めをする。ズボンとブリーフが介在していながら、俺は女の指先を感じる。女に刺激されて、いっそう堅くなったように思う。

「暴発してしまうといけないから、これだけに、しましょうね。(たの)しみは先に取っておきましょうよ」

 女の手が股間を外れ、俺の腰に巻き付く。そして、席に伴う。紳士は、そこに慣れているのか、二人の美女を両側にはべらせて座る。

 俺に寄り添った美女は、俺から手を離し、カウンターの方に行く。盛り上がった尻を振って歩く様は、女そのものだった。それは、見事に盛り上がっている。俺も、尻は大きい方だし、バイト仲間から、逞しいと、賞賛とも揶揄とも受け取れる言葉を聞く。それでも、今、目の前を行く美女のようではなかろう。それは、大きく盛り上がっているだけでなく、白く輝き、弾力を感じる。男でも、そのような尻になれるのだろうか。いや、彼女は男ではなく、女なのだ。俺の思いが入り乱れる。

 飲み物を持って来る。俺の知らないカクテルだった。彼女とコップをぶつけ合って飲む。紳士は、両側の美女に手を回し、彼女らの乳房を揉みながら、美女にカクテルを飲ませて貰っている。俺も、傍らの美女の肩を抱く。美女が俺の首筋に唇を寄せる。

 安キャバレーなら、その程度のサービスをするだろう。いや、もっと直裁に、ファスナーを開き、中のものを引き出して、しごいてくれる所もあると聞く。しかし、ここでの美女の振る舞いは、大胆のようであっても、何処か、優雅に思える。

 紳士の傍らの美女が替わっていた。和服姿の女が座っている。中年の美人だった。どう見ても、熟女だが、彼女も中身は男なのだろう。和服だからか、紳士とは間隔をおいて座っている。

「ここのママだよ」

 紳士が言う。

「幼稚園に行っている頃から、女の子の洋服を著るのが好きで、とうとう、女になってしまったというのさ」

「男の子に産まれたのだけれど、本当は女の子だったのよ、きっと。女の性が私の中に宿っている」

「それで、女らしく生きている」

「そう。女を貫いてきたわ。女はいいもの。男に抱かれるって、素晴らしいわ」

「君も、そうかね?」

 俺は傍らの美女に訊く。

「私は、男に奉仕するのが好きなの。男に尽くしていると思うと、燃え上がるの。それで、私が尽くしている男に愛されている時が、最高よ。体がとろけてしまうわ。お互いが一体になって、愛し合っているのですもの。本当に、一つになっているっていう感じ。男同士だから味わえる境地だわ。それが、いいのよ。どうしてなのかしらね」

 俺に頬を押しつけて笑う。

「だから、愛してね」

 俺の手を胸に導く。豊胸手術をしているのだろうか。程よく盛り上がった乳房がある。俺の指先が乳首に触れると、身を捩る。尻が少し浮いたので、一方の手を尻の下に入れる。俺は俺の掌で、弾力のある膨らみを探る。

「いいわ。貴方、お上手ね」

 女の手が俺の指先を掴み、アナルに当てがう。初めから、そこが露出していたものかどうか知らない。自然に、俺の指先が、女の、いや、男のアナルに入る。ワセリンか何かを塗り込んでいるのだろうか、簡単に滑り込む。訓練によるのか、もともと、女性の膣より狭いからなのか、俺の指が締め付けられる。

 高級バーの女の子は体面を繕ってか、そんなサービスはしない。安キャバレーの女なら、ただ、男に放出させるためだけの手立てを使う。しかし今、俺に体を絡ませている女性は、いや、男はと言った方がいいかもしれないが、彼女は、自らも愉しみ、俺と一体になろうとしている。俺と愉悦を分かち合おうとしている。こうした場所でなければ、つまり、二人だけの部屋だったら、恐らく彼女も、俺に、智子と同じように、入れてとせがみ、尻を突き出すだろう。俺の堅くて太い物が、彼女のアナルに入る。それが締め付けられる。そんな思いが、俺の亀頭に伝わる。

 俺はもう、極限に達している。

「いいわよ」

 女の手がファスナーを引く。ブリーフを分ける女の指を感じるまでもなく、俺は暴発してしまう。

「いいのよ」

 女が、俺の耳に口を寄せて言う。女の唇が耳朶に触れたからか、そこに、熱い息使いを感じたからか、放出してしまった解脱感とともに、俺は空白の時を漂う。

 彼女は智子と違う。例え、スキンの中であっても、智子は俺の放出を受け止めて歓ぶ。彼女は男なのだが、俺が彼女のアナルを探る行為によって、俺と同じように、放出したのだろうか。

 女が、タオルか何かで、俺の股間を拭っている。任せているしかない。それがまた、心地好い。熱いタオルが亀頭を包む。

「パンツを汚してしまったわね。あちらで取り替えましょうよ」

 女に促されて、洗面所に行く。女が新しいブリーフを俺に渡す。

「履き替えなさいよ。汚してしまったのは、そちらに捨てたらいいわ」

 俺は、ズボンを下げる。ブリーフを足首から抜く。俺の下半身が電光の中に晒される。放出した後の俺のものが、股間に垂れ下がっている。放出してしまったから、力を失っているが、まだ、小さくはなっていない。女が俺の前に立って、それを見ている。

「可愛らしいわ」

 女が、俺の股間に顔を寄せて、俺のものを頬に当てる。しかし、直ぐには、大きくならない。

「いいわ。こうして愛撫するのが好きなのよ」

 女の舌が、亀頭を嘗める。唇が絡んで、吸われる。少し、回復したように感じるのだが、そこにはまだ、堅さが蘇らない。それでも、女に吸われているのに、悪い気はしない。

「いいのよ。堅くて、張っているのも好きだけれど、柔らかくなったのを吸うのって、いい気分。だって、堅くて、大きくなっているのを口に入れるのは、大変だもの。そうでしょう?」

 女の手が俺の陰嚢をまさぐる。次いで、女の指が俺のアナルを探る。俺の陰頚に血液が充満する。俺は思わず()()って、女の口の中に放出してしまう。

「若いのね。もう少し、愉しませてくれると思ったのに。でも、いいのよ。私たちは慣れているから」

 紳士も、そんな思いをしたのだろうか。気が付くと、俺たちはタクシーに乗っていた。ゲイ・バーで過ごした時間が判らない。

「楽しんだようだね」

 俺は答えられない。

「いいんだよ。あそこの女は、女ではない。だから、他人ではないんだ。男同士なんだからね。何処まで、送ろうかね?」

 智子が俺の脳裏に浮かぶ。智子は俺の挿入を歓ぶ。そして、俺が放出するのを受け止めて、満足する。それだけのように思える。智子がスキンを使うのは、俺の子供を産みたくないと考えているからだろうが、その行為は本来、男と女が子供を産むための交わりであって、それだけでしかない。それが快楽に結びつくのは、産む行為への代償のようなものではないかと、俺は思う。だから、代償だけを貪ろうとしている智子の助手に、俺はなれないでいる。俺だって何も、智子に子供を産ませようと、彼女の中に突っ込んでいるわけではない。俺も、瞬時の快楽だけを求めて交わっている。しかし、男と女は子供を産む行為の中から、悦楽を得ようとして交わる。それなのに、智子はそれを、子供を産まない行為として受け止めている。

 彼女は、つまり、ゲイ・バーの女たちは女でありながら、俺が放出するのを受け止めなかった。そういう絡みをしていなかったためもあろうが、もし、俺の放出をアナルの中に受け止めたとしても、例えば、智子のような歓びはないに違いないし、それは完全に、子供に繋がらない。そんなふうに考える。だから、放出した後の俺を慈しんでくれた。それに頬ずりをして、快感を求めた。

「いろいろな女がいるように、彼女たちもいろいろさ。女になって、男にかしずくのを歓びとしている男もいるし、女の気分になって、アナルに挿入されるのがいいのだと言う男もいるさ。男に犯されたいと願う男、というと少し変だが、そうした願望がないまぜになって、あそこには渦巻いている。僕は、大森まで帰るのだが、途中の五反田の辺りでいいかね」

 五反田は、智子とよく、過ごす場所だった。五反田から電車に乗る。それなら、智子と別れた後と同じになる。俺は頷く。

「しかしねえ。僕は、僕が寛げるのは、あんな所しかないのかと思うようになった。女は、女で生きている。僕の場合は、一般とは違うかもしれないけれど、家内との間に子供が出来ない。僕の精子が不足しているのか、家内の方に欠陥があるのか解らないが、どうしても、子供が欲しいなら、その手立てはある。そんな時代になっている。子供を作らなくてもいい性交なら、男と女でなくてもいいし、夫と妻である必要もない。男は男同士で、女は女同士で慈しんでもいい。男と女は所詮、別の生き物なんだよ。互いに、別の考えを持っているし、感じ方も異なっている。その違いを埋める努力をするより、同じ感覚に浸れる者同士が、睦み合ったらいい。そう言うと、あそこの男たちは、女の感情で男と接しているのだから、やっぱり、男と女に違いないと言われるかもしれないが、僕はやはり、女ではない女に酔っているように思える。あるいは、男がイメージしている女が、あそこにはいるのかもしれない」

 五反田で、タクシーから降り、駅の改札口に向かう。タクシーから降りると、熱気が俺を包む。汗が噴き出る。女でない女の裸体が浮かぶ。熱い大気の中に、それが揺らめく。女の肌の熱さを感じる。智子も多分、俺を受け入れて、俺に突かれるのを、そして、俺が放出するのを歓びとしている。しかし、それが、子供を作るための作業だとは考えていない。だから、スキンを使うし、結婚しようと言っても、曖昧にしている。智子は子供を作るより、カメラを仕事に考え、それに熱中している。俺と交わるのは、一時の喉の渇きを癒そうとしているに過ぎないようにも思える。

 それなら、俺も、ゲイ・バーの男、いや女に体を委ねた方がいいのかもしれない。しかし、ゲイ・バーでの放出に、俺は虚しさも覚えている。確かに、俺は智子の中に放出しても、その後、決まって、虚脱感を味わう。虚しさを言うなら、それは同じかもしれない。それでも俺は、智子の中で、つまり、女の膣の中で果てるのに、例え、それがスキンを使っていても、それに、拘る。それは、俺がまだ、女の、いや、男のアナルに挿入し、そこで果てる快感を知らないからなのかもしれない。

 ホームから、智子と過ごすホテルが見える。その一室で、俺は智子を貫いている。それが、古来からの男と女の交わりだった。それが今、薄れようとしている。

 きらびやかなゲイ・バーの光景が、ホテルを覆う。俺を慈しんだ女が大写しになる。男は結局、放出する快感に浸り、その後、精子を出してしまった喪失にさまようのなら、そして、その精子が実を結ばないのであれば、それは、あのゲイ・バーでの行為と、全く変わらない。そこで、紳士は寛げると言った。そんな空間もある。

 ホームに電車が入ってくる。車内の電光と騒音が俺の目の前をよぎり、ホテルで俺と交わる智子も、ゲイ・バーの女も消え去る。ドアが開く。男や女が降りてくる。俺に、日常が蘇る。電車は、何の支障もなく走り出す。その中で、男と女は揺れている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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豊田 一郎

トヨダ イチロウ
とよだ  いちろう 小説家 1932(昭和7)年東京都に生まれる。

掲載作は、「ペン電子文藝館」のために2002(平成14)年夏、書下し。

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