夢の浮橋
五十四帖を読み終り侍りて
ほとゝぎす五位の庵に来啼く今日
渡りをへたる夢のうきはし
この詞書を伴ふ一首は私の母の
いづれの母であるにしろ、母なる人の詠歌と云ふものは、これ以外には伝はつてゐない。私がこの歌を知つてゐるのは、それを記した色紙がうやうやしく表具されて、家に遺つてゐるからである。今もまだ六十余歳で存生してゐる
私には文字の巧拙について兎角のことを云ふ資格はない。乳母は、「近衛流の字イをこない上手にお書きこなしやすお方はおゐや致しまへんさうにござりまつせ」と云つてゐたが、私もしろうと考ながら、多分相当な能筆なのであらうと思ふ。しかし女の能筆家ならば、行成流の細くしなやかな仮名文字を選びさうなものであるのに、かう云ふ肉の厚い、たつぷりと肥えた、漢字の多い書体を好んだのは奇異であつて、そこにこの女性の特殊な性格が見られるやうな気がする。
和歌の巧拙と云ふことになると、私は猶更不案内であるが、それでもこの歌は決して秀歌と云へる程のものではあるまい。「渡りをへたる夢のうきはし」は、「源氏五十四帖の最終巻である『夢浮橋』を今日読み終へた」と云ふのであらうが、「夢浮橋」は至つて短い帖であるから、これだけを読み終へるのには何時間もかゝる筈はないので、こゝで云つてゐるのは、源氏の全巻を読みつゞけて今日漸く最後の帖を終つたと云ふのであらう。「五位の
五位庵の場所は、
石川やせみの小川の清ければ
月も流れをたづねてぞ澄む
とあるのは、この石橋の下を流れる小川のことだと土地の人は云つてゐるけれども、この説にはいさゝか疑問がある。吉田東伍氏の地名辞書は、「今下鴨村の東を流れ糺社の南に至り賀茂川へ入る細流を指す」と一応記し、「然れども古風土記に云々瀬見小川云々とあるは賀茂川の事のみ、今の細流は水源松ケ崎村より出づ、本支の差あり」と云つてゐる。又鴨長明自らも「これ(せみの小川)は鴨川の實名なり」と加茂の歌合に云つてゐるから、それが正しいやうである。後段に見える石川丈山の「瀬見の小河」の詞書にも、「賀茂河をかぎりにて都のかたへいづまじきとて」と、はつきり云つてゐる。尤もこの川は、今でこそあまり澄んでゐないが、私の幼少の頃までは長明の歌で想像されるやうな清冽な流れであつた。そして七月中旬頃の
五位庵の池の水は、土管でこの川につながつてゐて、ときどき水が溢れると、こゝへ落すやうにしてゐた。庵は太い二本の杉丸太の正門を這入ると、
林深禽鳥楽 (ハヤシフカクシテ キンチヨウタノシミ)
塵遠竹松清 (チリトホクシテ チクシヨウキヨシ)
とあつたが、誰の詩で誰の書であるかは父も知らないと云つてゐた。
聯の横についてゐるベルを押すと、人が出て来て開けてくれる。大きな
家族は親子三人と、乳母と、
父の愛はひとへに母に注がれてゐて、この家と、この林泉と、この妻があれば満足であると云ふやうに見えた。父はときどき母に琴を
表玄関の、三畳の襖を開けると八畳の間があり、その奥に十二畳の座敷があつて、そこが一番の広間であつた。そこはやゝ御殿風に造られてゐて、東から南へ縁が廻らしてあり、欄干は勾欄風になつてゐた。南側はわざと日の光りを避け、棚を池の面の方へさしかけてあつて、
わたらじな瀬見の小河の浅くとも
老の波そふ影もはづかし
と云ふ一首を詠じて召しに応じなかつたさうで、その歌の拓本が詩仙堂の床の間に懸けてあるが、私の家でもその拓本を所蔵してゐた。
数へ年の四つ五つの頃、私はこの添水のパタンパタンと云う音をどんなに興深く聞いたか知れない。
「糺さん、そんなとこへ
と、母が頻りに制するのも聴かず、私は庭に飛び出して、築山の熊笹の間を分けて流れのふちへ寄らうとする。
「これこれ、危い危い、そんなとこへ一人で行くのやあらしまへん」
と、母だの乳母だのがびつくりして追ひかけて来、後からしつかりと
乳母は片時も眼が離せないので、常に注意を怠らぬやうにしてゐたが、
「これお兼どん、ぼんやりしてたらあかへんやないか」
と、母に叱られる折もあつた。池の中程に土橋があつて、それを向う岸へ渡らうとする時も、必ず乳母に押へられたが、母が自分で飛び下りて來ることもあつた。池の水は淺いのだけれども、一箇所人間の背よりも深く掘り下げたところがあつて、水が涸れた時に鯉だの鮒だのが逃げ込めるやうに出来てゐた。その穴がちやうど土橋の近くにあるので、
「あこへはまつたらえらいことえ、大人かて出て来られへんえ」
と、母はよくさう云ひ云ひした。
橋を渡ると
「ばあ、あんたは附いて来たらいかん、そこに待つとゐ」
と、私は乳母を待たせておいて、一人で茶席に這入るのを楽しみにした。屋根が低く、部屋が狭く、まるで子供のために造られた
「ぼんさん、あきまへん、お母さんがお怒りやつせ」
と、外に立つてゐる乳母は気を揉んで、
「ほれほれ、こゝは大きい大きい
などゝ云つた。ほんたうに私も大きい百足が這つてゐるのを一二度見つけたが、噛まれたことは一度もなかつた。
私は百足よりも、池のほとりや築山のところどころに据ゑてある、五つ六つの石の羅漢の方が恐かつた。それは中門の外の朝鮮の石像よりもずつと小さく、三四尺の高さのものであつたが、顔がいかにも日本人臭く、へんにむくつけく造られてゐた。或る者は鼻をひん曲げて横眼で睨んでゐるやうに見え、或る者は意地の悪い笑ひを洩らしてゐるやうに見えた。だから私は日が暮れると、決してそれらの羅漢の方へは行かなかつた。
母はときどき奥座敷の勾欄のもとへ私を呼んで、池の魚に
「鯉来い来い、鮒来い来い」
と云つて母が麩を投げると、あの深い窪みの
夏の夕暮には
洗硯魚呑墨 (スズリヲアラヘバ ウヲスミヲノム)
と云ふ句を何かで見かけたが、この池の鯉や鮒どもは麩にばかり寄つて來ないで、この美しい足の周囲で戯れたらいゝのにと、子供心にもそんなことを思つた。
さう云へば、こんなこともあつた。或る時私が吸物椀に浮いてゐる
「このぬるぬるしたもんなんえ」
と云ふと、
「ねぬなは」
と、母が云つた。
「へえ、ねぬなは?」
と聞き返すと、
「そら
と、母が教へた。
「ねぬなはてなこと云うたかて今の人は分りやせん、そら蓴菜ちふもんや」
と、父は笑つたが、
「さうかて、ねぬなはちうたらいかにもぬるぬるしたもんらしい気イがしますやおへんか。昔の歌にはなあ、みんなねぬなはて云うたありますえ」
さう云つて母はねぬなはの古歌を口ずさんだ。そしてそれからは、私のうちでは女中達や出入りの料理人達まで蓴菜のことをねぬなはと云ふやうになつた。
夜九時になると、
「糺さん、もうおやすみ」
と云はれて、私は乳母に連れられて行く。父と母とは何時頃まで起きてゐるのか分らなかつたが、夫婦は奥座敷の勾欄の間に寝、私は廊下を一つ隔てた、奥座敷の北側に当る六畳の茶の間で乳母と寝た。私が駄々を
「お母ちやんと寝さしてえな」
と甘つたれて、なかなか寝つかないでゐることがあると、母が茶の間を覗きに来て、
「まあ、やゝさんやこと」
と云ひながら私を抱き上げて、自分の
「ねんねんよ、ねんねんよ」
と、母は私の頭を撫で、背中をさすりながら、いつも聞かせる子守唄を歌ひ出す。
ねんねんよ
ねんねんよ
よい子ぢや泣くなよねんねんよ
撫でるも母ぞ
よい子ぢや泣くなよねんねんよ
母は私が安らかに眠りつくまで、二度も三度も繰り返して歌ふ。私は乳房を握つたり、乳首を舐めづつたりしながら、次第に夢の世界に落ちる。パタンパタンと云ふ添水の水音が、雨戸を隔てた遠くの方からをりをり夢の中に這入る。乳母にも得意の子守唄が幾種かあつて、
寝たか寝なんだか枕に問へば
枕正直もんで寝たとゆた
とか、
ゆうべ夢見たお寺の縁で
猫が頭巾着て鐘叩く
とか、いろいろ歌つてくれるけれども、乳母の歌では私はなかなか寝つかない。それに六畳の茶の間ではあの添水の音も聞えて来ない。母の聲には子供を空想の世界に誘ふ独特なリズムがあつて、私は容易に眠らされる。
以上私は、たゞ「母」とのみ書いて来たけれども、専ら私を生んでくれた生母についての思ひ出を述べたつもりである。が、考へてみると、四つ五つの幼少時代の回想にしては、少し委し過ぎるやうに思へる。たとへば母の足についての感想、「ねぬなは」についての逸話などは、たとひ生母にさう云ふ事実があつたとしても、
私は生みの母の顔立ちを、はつきりとは思ひ出すことが出来ない。乳母に云はせると、世にも美しい人であつたと云ふけれども、私はたゞぼつちやりとした圓顔の姿を朦朧と浮かべ得るだけである。私は母に抱かれながら、下から彼女を見上げる場合が多かつたので、鼻の穴がよく見えた。鼻は電燈の明りを浴びて薄紅く綺麗に透き通つてゐた。乳母の鼻などゝは比較にならない立派な整つた鼻であることは、さう云ふ角度から見る時に一層さう思へた。だがその外の特長については、眼はどう、口はどう、眉はどうと云ふ風に一つ一つを数へ立てゝみると、大体は分つてゐるやうでゐて、詳細には浮かんで来ない。こゝでも矢張り、第二の母の容貌と重なり合つて、紛らはしくなつてゐるのである。生母の死後、父が朝夕佛前で
その写真で見ると、母は唐人髷に結ひ、私の朧ろげな記憶にあるよりももつと圓々と肥えてゐる上に、全体が薄くぼやけてゐるので、そこからありし日の母の影像を脳裡に再現することは不可能であつた。
「お父ちやん、これ、ほんまにお母ちやんの写真か」
と、私が父に尋ねると、
「ふん、さうや、これはな、お母ちやんがお父ちやんとこい嫁さんに来る前、十六か七の時に撮つたんやて」
と、父は云つた。
「さうかて、これお母ちやんに似てへんやないか、何でもつとよう似たん飾らへんね、うちへお嫁さんに来やはつてからの写真かてありさうなもんやのに」
「お母ちやん、写真嫌ひやつたさかいな、一人で撮つたんこれ一枚しかないのやさうな。うちい來てからお父ちやんと撮つたんが一二枚あるけど、写真屋はんがけつたいな直し方してるさかいに、どだいいやらしい顔になつてるさかい、お母ちやんその写真見るの大嫌ひやつたんや。この写真はな、娘はんの時のやさかい、お前が覚へてる顔と
父にさう云はれると、成る程どこやらに面影を伝へてはゐるものゝ到底忘れ去つた母の姿を生き生きと思ひ出させるものではなかつた。
私は勾欄にもたれて鯉や鮒の泳ぐのを見ては母を恋ひ、添水の水の音を聞いては母を慕つた。分けても夜、乳母に抱かれて寝床に這入つてからの母恋ひしさは譬へやうがなかつた。あの、髪の匂ひと乳の匂ひの入り混つた、生暖かい懐ろの中の甘いほの白い夢の世界、あの世界はどうして戻つて来ないのであらうか、母が亡くなつたと云ふことは、あの世界がなくなることであつたのか、母は一體あの世界をどこへ持ち去つてしまつたのであらうか。乳母は私を慰めようとして「寝たか寝なんだか枕に問へば」を歌つて聞かせるのであつたが、さうされると私はなほ悲しさが込み上げて、
「いやゝいやゝいやゝ、お前らが
と、寝床の中で暴れ廻つて、
「お母ちやんに逢ひたい」
と、布団を撥ね除けてわあわあ泣いた。父が見かねて這入つて来て、
「糺、そないばあを困らすもんやあらせん、えゝ児やさかい大人しうねんねしい」
と云ふと、私は一層激しく泣いた。
「お母ちやんはもう死なはつたんや、泣いたかて
父が聲を曇らせて云ふと、乳母が云つた。
「お母ちやんに逢ひとござりましたら、一生懸命お佛壇さんをお拝みやすのがよろしござります。そしたらきつとお母ちやんが夢の中い出といでやすえ。そして糺、お前賢いなあてお
私がいつ迄も泣き喚くのに溜りかねた父は、
「よしよし、そなお父ちやんと寝よ」
と、十二畳の間へ連れて行つて、抱いて寝てくれることもあつたが、父の男臭い匂ひを嗅ぐと、母の匂ひとはあまりにも違ふ気味の悪さに私は少しも慰まなかつた。父と寝るよりはまだ乳母と寝る方が
「お父ちやん
と云ふと、
「そな、そこの次の間アでばあとねんねしい」
父がさう云ふので、それからは奥座敷の次の間の八畳で乳母と寝た。
「お父ちやんが気味悪いやたら、何でそんなことお
乳母は、私の顔は父にそつくりで、母には似てゐないと云ふのであつたが、さう云はれると私は又悲しかつた。
父は朝一時間、夜一時間、毎日怠らず
「お母ちやんを拝みにおいで」
と、父が手を取つて引き据え、お経の始まりから終りまで動かさずにゐることもあつた。
七つの春から私は小学校へ通ふやうになり、夜な夜な父や乳母を
「お母ちやんが生きてた時分、あの平八ちふ
「一遍だけおぼえてるわ、うしろの川で
「そやそや、
お笹を
ちんとろとろのとろゝ汁
ちふ唄、お母ちやんが
「そんなん覚えてへん」
父はそんな話のついでに、ふと思ひついたやうに云つたことがあつた。
「糺、もし死なはつたお母ちやんによう似た人がゐるとして、その人がお前のお
「そんな人ゐやはるやろか、お父ちやん知つてんのか」
と、私が
「いゝや、もしそんな人がゐたらちふのや」
と、父は慌てゝ取り消すやうに云つた。
父と私とがこんな問答を取り交したのは、私の幾つの時であつたかはつきりとは云へない。その時から父の意中にさう云ふ人が潜んでゐたのか、それとも偶然に発せられた言葉であつたのか知る由もない。が、私が尋常二年生の年の春、瀧の落ち口の八重山吹が真つ盛りの頃、或る日学校から帰つて來ると、思ひがけなくも奥の間で琴の音が聞えた。おや、誰が
「ぼんさん、そこからそうろと覗いとおみやす、綺麗なお方さんが來とゐやすえ」
と、乳母が耳の
私は八畳の間へ這入って、境の襖を細目に開けて中を覗くと、父が早くも目をとめて手招きをした。その人は琴に気を取られてゐて、私が傍へ寄つて行つても振り向きもせず弾きつゞけてゐた。その人は亡き母と同じ姿勢で同じ位置に坐り、同じ角度に琴を横たへて、左の手を同じやうに伸ばして絃を押へてゐた。琴はあの、母が遺愛の品ではなく、何の模様もない無地の琴であつたが、それに聞き惚れて畏まつて坐つてゐる父の位置や態度も、母がありし日と変りはなかつた。その人は一曲を奏で終つて琴爪を抜くと、始めて私の方を向いて笑つてみせた。
「糺さんてお
「お辞儀おし」
と、父は私の頭を押へて云つた。
「今学校からお帰りどすか」
さう云つてその人は又琴爪を
「お前あの人をどう思ふ。お母ちやんに似てると
私は当然父からさう云ふ質問が発せられることを予期してゐたが、父は何とも云はなかつた。私も父にどう云ふ関係の人であるかを問はうとはしなかつた。何かその人の問題に触れることは躊躇せられた。正直のところ、私はその人が母に似てゐるかと聞かれたとしても、即座には答へられなかつたであらう。少くとも先刻始めてあの人を見たとき、あ、これこそお母さんの再來だ、と云ふ感じを抱きはしなかつた。だがふつくらとした圓い輪廓、小柄な背恰好、悠々として迫らないものゝ云ひ振、殊に初対面の私にそらぞらしいお世辞を云はず、ほどほどにあしらつてゐて、それで何となく人を惹きつける力のあるところに好感が持てた。亡くなつた母に似てゐると云へば、さう云ふところが似てゐると思へた。
「あの人誰や」
「さあ、わたくしも存じまへん」
乳母にこつそり聞いてみると、乳母も口止めをされてゐるのか、それともほんたうに知らないのか、何も教へてくれなかつた。
「今日始めて來やはつたんか」
「今日で三遍目ぐらゐでござります、お琴お弾きやしたのは始めてゞござりますけど」
その後私はもう一度、ほとゝぎすの声が聞える頃にその人を見かけたことがあつた。その時はあの琴を弾いてから、父と私と三人で池に麩を投げてやつたりして少し打ち解けた様子を見せたが、それでも夜の食事の前に帰つて行つた。琴はその後も床の間に立てゝあつたので、実際は私の知らぬ間にもつと頻繁に出入りしてゐたのかも分らない。
「糺、ちよつとおいで」
と、父が私を勾欄の間へ呼びつけて話をしたのは、私が九つになつた年の三月のことであつた。たしか夕餉を終へた後、夜の八時頃、親子二人だけしかゐないところで、父はいつになく厳かな、改まつた調子で云つた。
「お前はあの、こゝへ琴弾きに来た人のことをどう思ふか知らんが、わしはいろいろ、お父さんのこともお前のことも考へて、今度あの人に嫁に来て貰はうと思ふ。お前も今年は三年生になるのやさかい、わしの云ふことをよう聞き分けて欲しい。お前も知つてるやうに、わしは死なはつたお母さんをこの上もなう大事がつてた。お母さんさへ達者やつたら何もお父さんは外のもん要らなんだ。お母さんがあないして死んでしまはつたんで、ほんまにわしはどうしたらえゝか分らせなんだ。さうするうちに、ひよつとあの人と知り合ひになつた。お前はお母さんの顔はつきり覚えてやせんさうなが、今にきつと、いろんなとこであの人がお母さんに似てることを思ひ当るやうになる。似てるちうたかて、
不思議にも私は、父の云はんとすることのすべてを、その半ばにも達しないうちに諒承してゐた。父は私の面上に喜悦の色が浮かぶのを見て取ると、
「それが分つたら、も一つ知つといて貰ひたいことがある」
と、重ねて云つた。
「あの人が來たら、お前は二度目のお母さんが來たと
それから後は、父は朝夕佛壇を拝む時、以前のやうに私を引き寄せて長い間坐らせたりはしなかつた。讀誦の時間もだんだん短くなつて行つた。そして間もなく、四月に這入つてからの或る夜、勾欄の間で式が挙げられたことは知つてゐるが、披露の宴などはどこかの料理屋で催されたのかどうか覚えがない。式も思ひの外質素で、
「お母ちやん」
と云ふ言葉を出すことが出来た。二三年この方、父と襖一重を隔てゝ寝る癖がついてゐた私は、新しい母が来た夜から再び乳母と六畳の茶の間で寝た。父は新しい妻を得て全く幸福を感じてゐるらしく、亡き母の時と同じやうな夫婦生活を送り始めた。昔からゐた乳母や女中達も、かう云ふ場合兎角の噂をしたがるものだが、今度の人に一種の
「糺さん、今に学校で古今集の話
と云つて、
寝ぬ名は立たじ来るな厭ひそ
と、
繰り返して云ふが、この足の話、ねぬなはの話等々は、昔の母の時に感じたり聞かされたりしたのが始めで、この時が二度目であつたやうにも思ひ、又この時が最初であつたやうにも思ふ。父はつとめて昔の母の云つたことやしたことを今の母のそれ等と混合させ、私に生母と継母との差異を見失はせるやうに仕向け、今の母にもその心得を云ひ聞かせてゐたのに違ひない。
或る晩、その年の秋であつたと思ふ、私が乳母と寝ようとしてゐると、母が這入つて来て云つた。
「糺さん、あんた五つぐらゐになるまでお母ちやんのお乳吸うておゐたの覚えとゐるか」
「ふん、覚えてる」
「そして、いつでもいつでもお母ちやんに子守唄
「ふん、覚えてる」
「あんた、今でもお母ちやんにそないして欲しとお思ひやへんか」
「して欲しことはして欲しけど」
私は急に胸がときめくのを覚えて、顔を
「そな、今晩はお母ちやんと一緒に寝まへう、
母は私の手を取つて勾欄の間へ連れて行つた。夫婦の寝床は延べてあるが、父はまだ臥てゐない。母も寝間着姿ではなく、昼夜帯を締めたまゝである。天井には電燈がともつてゐる。添水の水音がパタンパタンと聞える。すべてが昔の通りである。母はごろりと横になつて、髷の頭を船底形の枕に載せ、
「お這入り」
と云つて、掛け布団を
「糺さん、お乳吸ひたいか」
と、頭の上で母が小声で云ふのが聞えた。母はさう云つて、自分も顔を
「長いことばあとばつかりねんねして、ほんまに淋しかつたやろえな。お母ちやんと寝たかつたら、何でさうやと早う云うておくれやへなんだんえ。あんた、遠慮しとゐたのか」
私が頷くと、
「けつたいな児オえなあ、さあ、
私は半襟の合はせ目を押し開き、乳房と乳房の間に顔を押しつけて両手で乳首を
「あゝ
「ちつとも乳出て来やへん、吸ひ方忘れてしもたんやろか」
「堪忍え、今にやゝさん生んで、乳が仰山出るやうになるまで待つてゝや」
さう云はれても私は乳を離さうとせず、いつ迄もいつ迄も
「えらい済まんえな、そない一生懸命になつてるのに。出えへんのに吸ひたいのか」
私はこくんこくんと頷きながらなほ吸ふことを止めなかつた。私は昔の母の懐ろに漂つてゐた髪の油の匂ひと乳の匂ひの入り混つた世界が、乳の匂ひはする筈がないのに、聯想作用でそこにあるやうに感じた。あの、ほの白い生暖かい夢の世界、昔の母がどこか遠くへ持ち去つてしまつた筈の世界が、思ひがけなくも再び戻つて来たのであつた。
ねんねんよ
ねんねんよ
よい子ぢや泣くなよねんねんよ
と、昔のリズムと同じリズムで母はあの唄を歌ひ出した。私は感動の余り、折角のその唄を聞かされても、その夜は容易に寝つかれず、ひたすら乳首に
かう云ふ風にして、私は半年ほどの間に、昔の母を忘れたと云ふ訳ではないが、昔の母と今の母との切れ目が分らないやうになつた。昔の母の顔を思ひ出さうとすると今の母の顔が浮かび、昔の母の声を聞かうとすると今の母の声が聞えた。次第に昔の母の影像が今の母の影像と合はさり、それ以外の母と云ふものは考へられないやうになつた。父が私をさう云ふ風にしようと画策したことはすつかりその通りになつた。
私はやがて十三四歳になり、夜は一人で寝るやうになつたが、さうなつてもときどき母の懐ろが恋ひしく、
「お母ちやん、一緒に寝さして」
と、その半襟の合はせ目を押し開いて出ない乳を吸ひ、子守唄を聞いた。そしてすやすやと眠つてしまふと、いつの間に運ばれたのか、朝起きた時は六畳の間に一人で寝てゐた。母は「一緒に寝さして」と云ふと喜んで云はれるまゝにし、父もそれを許してゐた。
私はこの母がどこに生れ、どう云ふ生ひ立ちをした人で、どう云ふきつかけから父のところへ
するとその翌年、長年勤めてゐた乳母が、五十八歳で暇を貰つて故郷の長濱へ帰ると云ふ時であつた。或る日、多分十月の下旬、二人で下鴨神社へお参りをしたことがあつたが、乳母はお賽銭を上げて
「もうこのお宮さんにも当分お別れでござりますなあ」
と、感慨を籠めて云つてから、
「ぼんさん、ちよつとお散歩致しまへうか」
と、森の中の参道を
「ぼんさんはもう何でもかんでも知つとおゐやすのでござりますやろ」
と、不意に妙なことを云つた。
「知つてるて何のことをや」
「何のことて、お分りいしませんのやつたら止めときますけど」
「まあ何のことか云うてみ」
「云うてえゝやら悪いやら」
と、乳母は変に気を持たせながら、
「ぼんさんは今のお母さんのこと、もう大概は知つとおゐやすのと違ひますか」
「いゝや、知らん、経子と云ふのが本名やちふことだけは知つてる」
「どうしてそれお知りやしたのでござります」
「去年戸籍抄本取らんならんことがあつたさかい」
「ほんまにそれだけしか御存知やござりまへんか」
「それ以上はなんにも知らん、お父さんも知つたらいかんて云ははるし、お前かてなんにも教へてくれへんもん、もうそのことは聞かへんことに決めてんのや」
「わたくしも御奉公致しとります間は申し上げんとをりましたけど、江州の田舎へ帰りましたら、今度いつぼんさんにお目にかゝれますや分ら致しまへんさかい、やつぱりこの事は知つてゝ戴きます方がえゝかしらんと思ひます、旦那さんには内証でござりますけど」
「まあその話は止めにしといてくれ、僕はお父さんの云ひつけを守つた方がえゝと思ふ」
私は口ではさう云つたけれども、
「さうでもいづれはお分りやすこつてござりますし、どうしたかて知つとおゐやす方がよろしござりますえ」
と、乳母が参道を二度も三度も行つたり來たりしながら、ぽつりぽつりと洩らす言葉に惹き込まれずにはゐられなかつた。
「わたくしも世間の噂を聞いたゞけでござりますので、確かなこつちやござりまへんけど」と云ひながら、乳母は次のやうに語つた。
伝聞に依ると、今の母の生れた家は、二條辺で色紙短冊筆墨の類を商つてゐた大きな構への店で、今の鳩居堂のやうなものであつたと云ふ。だがその家は母の十歳余りの時に倒産して、現在ではその跡も残ってゐない。その後母は十二歳の時に祇園の某家に養女として身を売られ、十三歳から十六歳まで舞妓をしてゐた。当時の藝名、藝者屋の名等も調べれば分るであらうが、乳母は知らない。そして十六の時、綾小路西洞院の木綿問屋の若主人に身請けされて、その家の嫁に迎へられたと云ふのであるが、正式の妻であつたとも云ひ、入籍はされなかつたとも云ふ。兎に角本妻もしくは本妻同様の待遇を受けて、足掛け四年大商店の若奥様で納まつてゐたが、十九の年に事情があつて不縁となつた。事情と云ふのは、その家の親達や親戚の圧迫があつて追ひ出されたのであるとも云ふし、道楽者の夫に飽きられたためであるとも云ふ。出される時に相当な手当を貰つたものに違ひないが、母は六條辺に
私は始めて母の素姓を明かされて、少からず好奇心を湧かすとゝもに、いろいろ感ずるところがあつた。
殊に母が十三歳から十六歳まで祇園町の妓籍にあつたと云ふことは、想像もしなかつたことであつた。尤も良家の子女として生れ、ほんの足掛け三四年の後に落籍されて大家の若奥様として暮らしたのであるから、その間にさまざまの教養を積んだことであらうし、尋常一様の舞妓上りとは違ふけれども、それにしてもあの鷹揚な
乳母がゐなくなつてから、女中が一人殖えて四人になつた。そして明くる年の正月に、私は母が身重になつてゐることを知つた。彼女が父に嫁いでからちやうど十一年目である。前の夫との間にも子はなかつたので、この年になつてかう云ふ経験を持たうとは、父も母自身も思ひ設けてゐなかつたらしく、
「今になつてこんな大きいお
とか
「三十越えてからの
とか、母はよくそんなことを云つてゐた。父も母も、今日まで子に対する愛を私一人に集注してゐたので、今度のことでいくらか私に気がねしてゐるのかも知れなかつたが、それなら大変な思ひ違ひで、廿年間一人息子で育つて来た私は、始めて兄弟を持つことが出来るのを、どんなに喜んでゐたか知れないのであつた。父には又、昔妊娠中に亡くなつた前の母の記憶があるので、その忌まはしい思ひ出が、ふとした折に心を暗くしてゐるのかとも考へられた。何にしても私が奇異に感じたことは、父も母も私の前で生れて来る子の話をしたがらない風があり、そのことに触れると妙に浮かぬ顔をしてゐる様子がだんだん分つて来たことであつた。
「あてには糺さんちふ子オがあつたら、そいで結構やわ。こない年
と、母は冗談めかして云ふことがあつたが、私は母の性質として、心にもない照れ隠しでそんなことを云ふ筈がないやうにも思つた。
「お母さん何云うてんね、そんなてんご云ふもんやあらへん」
と私は云つたが、父も何となく母の言葉を肯定してゐるやうに見えた。
医師の健康診断では、母は心臓に多少の欠陥はあるけれども、分娩に差支へる程のものではなく、大体において達者な体質だと云ふことで、その年の五月に男の児を生んだ。お産は自宅で行はれ、私の部屋になつてゐた六畳の茶の間が産室にあてられた。その児は産後の肥立ちもよく、やがて父から「武」と云ふ名を與へられたが、たしかお産があつてから半月ばかり後であつたらう、私が学校から帰つて来ると、意外なことに武はもう家にゐなかつた。
「お父さん、武はどこへ行つたんです」
と尋ねると、
「あの児は静市野村へ児オに遣つた。これにはいろんな訳があつてなあ、いづれお前にも分つて貰へる時があると思ふけど、まあ今のとこ、あんまりひつこう聞かんといとくれ。これはわし一人の考から出たこつちやない、あの児が生れると決つた日イから、お母さんとも毎晩々々相談し合うた上のこつちやさかい、わしよりもお母さんの方がさうして欲しい云うてたんや。お前に一言の断りもせんと、さう云ふ処置を取つたんは悪かつたかも知れんが、お前に話したら却つて事がこじれる
私は暫く茫然として父の顔を見詰めるばかりであつた。前日に床上げをしたばかりの母はわざとその場を外したものらしく、姿が見えなかつた。
「お母さんは?」
と云ふと、
「さあ、庭の方へ出て行つたが」
と、父は
私はすぐに庭へ出てみた。母は土橋の中途にうづくまつて、手を叩いて魚を呼びながら頻りに麩を投げてやつてゐた。私が寄つて行くと、母は立ち上つて池の向う側へ歩いて行き、あの薄気味の悪い羅漢の傍の青磁の
「お母さん、今お父さんに聞いたけど、一体これどう云ふこつちやね」
「糺さんびつくりおしたか」
母のふつくらした豊かな頬には、いつものあの、ものに驚かない静かな微笑があつた。彼女に取つては掛けがへのない、生れたばかりの最愛の児を奪ひ去られた親の悲しみらしいものを強ひて押し隠してゐるにしては、あまりに曇りのない眼をしてゐた。
「びつくりするのが当り前やないか」
「子供は糺さん一人だけで結構やて、いつやらも云うたやないかいな」
母は先刻からの泰然とした表情を崩さずにつゞけた。
「かう云ふやうにしたんはお父さんの考でもあるし、あての考でもあるのえ。まあ、このことは又ゆつくり話しまへう」
母の産室にあてられた部屋は、その夜から又私の寝間になつた。私は今日の出来事の裏にある意味を、考へれば考へるほど分らなくなつて、明け方近くまで寝られなかつた。
ところで、こゝでちよつと、父の話の中に出た静市野村のことを記しておかう。
この村は、あの頼光や袴垂保輔や鬼童丸の物語で有名な古への市原野の附近一帯のことで、今もその
野瀬家からその持ち山へ行く途中に、鴨川の源流の一つである鞍馬川が流れてゐた。京都からは余程上りになつてゐるとみえ、山の中腹あたりから
武のことについて、思ひがけない出來事を父と母から聞かされた数日後、私は矢も楯も溜らなくなつて、一人でそつと静市野村の野瀬家を訪ねた。と云つても私は、直ちに武を奪ひ返して、連れ戻さうと云ふ程の決意があつた訳ではない。父母の意向を確かめもせずに、独断でそんなことが実行出來る私ではない。私は何も知らない可哀さうな弟が、やさしい母の懐ろを離れて田舎の百姓家に連れて行かれたことが不憫でならず、兎にも角にもその無事な顔を見せて貰つた上で、一応家に帰つて父と母とに再考を促してみよう、もし聞かれなければ何回でも根気よく頼んでみ、又何回でも野瀬家との間を往來して武との縁を断たないやうにし、武の生ひ立つて行くさまを父や母に告げ知らせよう、さうすれば遂には親達も私の心を酌み取つてくれようと、さう考へた次第であつた。
私は朝早く立つて昼前に野瀬家に着き、ちやうど野良から帰つて来た主人夫婦に会ふことが出来たが、武に逢はして欲しいと云ふと、主人夫婦はひどく当惑した面持で、
「武さんはこゝにゐやはりまへん」
と云ふのであった。
「こゝにゐやへん? そんなら何処に」
と云ふと、
「それがなあ、それがなあ」
と、夫婦は顔を見合はせて、何と答へていゝものか思案に暮れる様子であつた。しかし私が二度も三度も押し返して尋ねると、しまひに根気負けがして、
「あのぼんさんは、もつと遠い田舎の方へ預けましたんでござります」
と、まづ女房が口を割つた。そして云ふには、生憎と私の家には今乳の出る女がゐない、それにお宅の旦那様や奥様も、こゝよりもつと遠いところへ遣りたいと云はれますので、私の懇意な、身元の確かな、さる家へ預けましたと云ふ。遠い田舎とはどこのことだと尋ねると、主人はますます当惑して、それはお宅の旦那様や奥様が御存知ですから、そちらでお聞きになつて下さい、私の口からは申せませぬと云ふ。
「萬が一若旦那さんが聞きにおいでやしても、云うたらいかんと仰つしやりましてゞござります」
と、女房も傍から口を添へたが、それでも私は漸くのことで、その田舎とは
地唄の文句にも「わしが在所は京の田舎の片ほとり八瀬や大原や芹生の里」と云つてあり、寺子屋の芝居でも「中に交る菅秀才、武部源藏夫婦の者、いたはり
それから二三日の間、父母と私は気まづい気持で夕餉の膳に向つても互に口が重かつた。私が静市野村へ行つたことは、野瀬家から知らせがあつたかどうか、父母は何とも云はなかつたし、私もそのことに触れなかつた。母は乳が張つて困るらしく、とき人どき茶席に姿を隠して搾乳器で乳を搾つたり、乳揉みを呼んで揉ませたりしてゐた。父はこのところ健康がすぐれぬらしく、勾欄の間に支那製の紅い張子の枕を持ち出して昼寝をしたり、微熱でもあるのか検温器を挾んだりしてゐた。私はいづれ近日中に芹生へ行つてみるつもりで、二三日家を留守にする口実などを考へてゐたが、祖父が自慢にしてゐたと云ふ
「糺さん」
と、母がいつもの騒ぐ気色もなく云つた。
「糺さん、まあそこにおゐいな」
「又後で來る。こんなとこにお母さんがゐるて思はなんだ」
「お茶室は屋根が低うて暑いさかい、こゝ使はして
「後で來るわ」
私が狼狽の色を示して又行きかけると、
「行かいでもえゝ、もう直き済む、そこにおゐいな」
と、母はもう一度押しとゞめた。
「これ見とおみ、こない乳張って、痛うて痛うてかなんのえ」
さう云つても私が黙つてゐると、重ねて云つた。
「あんた十三か四イの頃まで、この
母は左の乳首に当てゝゐた搾乳器を、右の乳首に当てた。ガラスの容器の中で乳房が一ぱいにふくれ上り、乳が乳首から幾筋にもなって噴き出た。母はそれをコップに移して、私の前にかざして見せた。
「今にやゝが
私は少し冷静さを取り戻して母のすることに眼を注いでゐたが、それでもなほ答へる
「あんた、乳の味今でも覚えとゐるか」
私は声を出すかはりに、俯いて首を振つてみせた。
「そな、これ飲んどおみ」
母は乳の溜つてゐるコツプを、私の方へ差出して云つた。
「さ、飲んどおみ」
途端に、私より先に私の手が動いてそれを受け取つたと思ふと、私は白い甘い液汁の二三滴を口腔に含んでゐた。
「どうえ、昔の味お思ひ出したか。あんた五つになるまで前のお母さんの乳吸うておゐたさうやないか」
今の母が私に対して自分と先妻とを区別する言葉を遣ひ、「前のお母さん」と云つたのは珍しいことであつた。
「あんた今でも乳吸うたりお
母は一方の乳房を掴んで、乳首を私の方へ向けた。
「吸へるかどうや試しとおみ」
私は母の膝頭に私の膝頭をぴったり摺り寄せ、襟を掻き分けて乳首を唇のあはひへ挿し入れた。最初はなかなか乳が出て來てくれなかつたが、舐つてゐるうちに私の舌の働きは昔の動作を呼び返した。私の身の丈は母より四五寸伸びてゐたが、私は身を屈めて懐ろの中へ顔を埋め、湧き出る乳をこんこんと貪り吸つた。そして思はず、
「お母ちやん」
と、甘つたれた声を出した。
母と私とが抱き合つてゐた間は半時間ぐらゐだつたであらう、
「もう今日はこれでえゝやろ」
と、母が乳房を私の口から引き離すと、私は母を突き
それにしても、今日の母の行動にはどう云ふ意味があつたのだらうか。母と私とが合歓亭で逢つたのは偶然であるから、計画的に仕組んだのでないことは分つてゐる。とすると、母は突然私に行き逢ひ、急に私を狼狽させて困らせてみたくなつたのであらうか。今日の出逢ひが私に意外であつたやうに、母にも意外だつたので、云はゞ一種の出來心で、あんな
私はその出來事があつてからは、つとめて合歓亭の方へ行かないやうにしてゐたが、母もいくらか気がさしたのか、それ以後は又茶席を使ふやうにしてゐるらしかつた。私の心をこの間まで大きく占領してゐた念願、武の所在を突き止めるために芹生へ行かうと云ふ考は、どう云ふ訳か母との事があつてからは、さう強いものではなくなつてゐた。私はそれよりも、親達が武について左様な処置を取つた理由を先づ第一に
父が近頃健康を害してゐるらしいことは前に述べたが、私はそれが何か関係があるのではないかと云ふ気がした。父は去年の暮れあたりから血色が悪く、少しづゝ痩せが目立つてゐた。咳や痰はしなかつたけれども、微熱があるらしいところを見ると、胸の疾患ではないかと思へた。父のかゝりつけの医師は寺町今出川の加藤と云ふ人で、父は最初のうちは往診を求めたことはなく、「ちよつと散歩に行つて來る」と、ときどきこつそりと電車で診て貰ひに行つてゐたが、私がそれを嗅ぎつけたのは今年になつてからであつた。
「お父さん、どこぞ悪いのか」
と尋ねると、
「いや、別に」
と、父はいつも曖昧に云つてゐたが、
「そやけど加藤医院の藥があるやないか」
と云ふと、
「何、大したことやない、ちいと
「そしたら膀胱炎みたいなもんやろか」
「うん、まあそんなもんらしい」
と云つてゐた。
父が頻尿に陥つていることは漸く誰の眼にも著しかつた。それとなく注意してゐると、可なりたびたび便所に通ふ。血色もますます悪くなりつゝある。食慾もさつぱりない。入梅が明けて土用に入つてから、昼は大儀さうにごろ寝をしてゐることが多く、日が暮れてからは池の床へ出て食事をしたゝめることがあつても、母や私への手前無理に勤めてゐるやうで、元気がなかつた。
「父は自分では膀胱炎だと云つてゐるんですが、ほんたうにそれだけのことなんでせうか」
私は父が病名を明かにせず、医師へ通ふのをさへ内密にしてゐるのに疑ひを抱き、密かに加藤医院を訪ねて院長に問うたことがあつた。
「膀胱炎もあることはあるんですが、そんならあんたは、お父さんから何も聞いておいでやないのですか」
と、幼い時から
「御承知の通り父は何事も引つ込み思案で秘密主義なので、自分の病気の状態などなかなか話してくれないんです」
加藤氏は「そりや困つたな」と云つて、「実は私は、お父さんの御病気の実際を、御当人にさう露骨には申し上げてないけれども、
父が自分の健康状態に異変を認めて、始めて加藤氏方へ診察を乞ひに来たのは、去年の秋頃のことであつた。父の訴へは、尿に血が交つて出る、排尿後に必ず不快感が伴ふ、下腹部に重圧感がある、常に微熱がある、等々であつたが、加藤氏はその時既に触診に依つて左右の腎臓が腫れてゐるのを認めた。尿に結核菌が混じてゐることも分つた。これは厄介なことになつたと思つたが、氏はその方の専門でないから大学の泌尿科へ行つて検査を受け、レントゲンを撮つて貰ふやうにすゝめた。父は気が進まないらしく、
「そしてこの際特に御注意申したいのは、夫婦間の交りを慎んでいたゞくことですな。今のところ空気伝染の恐れはありませんから、外の家族は心配ありませんが、奥さんは気をおつけにならんと」
「とすると、やっぱり結核みたいなもんやのですか」
「まあ、さうですが、肺結核ではないのです」
「そんなら、どこの結核やのです」
「結核菌が腎臓を冒してるのです。しかし腎臓は二つありますから、一つが冒されてもさう慌てることはありません」
加藤氏が辛うじてその場を糊塗すると、父は諒承して、
「分りました、御忠告の件はその通りに致します。ですが體の動ける間は散歩する方が気晴らしになりますので、私の方から伺ひます」
と云ひ、その後も依然自分の方から診て貰ひに來、往診に来られることを喜ばぬ風であつた。來る時は大概一人であつたが、たまには母が附き添うて来た。加藤氏は父の病状を有りのまゝに母に知らせておく必要があることを考慮しながら、適当な折がなくて過してゐたが、
「先生、これで私はあとどのくらゐ持つもんですやろかな」
と、或る日父がひよつこりと云ひ出したことがあつた。
「何でそんなこと仰つしやるんです」
と、加藤氏が云ふと、父は薄笑ひを浮かべながら、
「お隠しにならいでもよろしいがな、私には最初からさう云ふ予感がしてましたんや」
「何で?」
「何でや分りません、動物的な直覚とでも云ふのでせうかな、たゞ何となうさう云ふ感じがありました。なあ先生、私は分つてますさかい、ほんまのことを云うて下さい」
父の性格を呑み込んでゐる加藤氏は、父の云ふことをその言葉通りに受けた。父は昔から勘の鋭い男であるから、自分の運命を疾うから予知してゐたのかも知れない。加藤氏や大学の医師達の父に対するものゝ云ひ
以上が、加藤氏が私に告げてくれたところのすべてゞあるが、なほ付け加へて、この病気は最後に肺を冒すやうになる場合が多いから、奥さん以外の方々も気をおつけになる方がよいとのことであった。
さて、これから先は、私として少々述べにくいことを述べなければならない。
私は假にこの物語に「夢の浮橋」と云ふ題を與へ、しろうとながら小説を書くやうに書き続けて来たが、上に記して来たところは悉く私の家庭内に起つた真実の事柄のみで、虚偽は一つも交へてない。が、何のためにこれを書く気になつたかと問はれても、私には答へられない。私は別に、人に読んで貰ひたいと云ふ気があつて書くのではない。少くともこの物語は、私が生きてゐる間は誰にも見せないつもりであるが、もし死後に於いて何人かの眼に触れたとしたら、それも悪くはないであらうし、誰にも読まれずに葬り去られたとしても、遺憾はない。私はたゞ書くこと自身に興味を抱き、過去の出来事を一つ一つ振り返つて思ひ出してみることが、自分自身に楽しいのに過ぎない。尤も、こゝに記すところのすべてが真実で、虚偽や歪曲は聊かも交へてないが、さう云つても真実にも限度があり、これ以上は書く訳に行かないと云ふ停止線がある。だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。父のため、母のため、私自身のため、等々を
父の體の状態について、加藤氏が私に打ち明けてくれた談話は、私に止めどもなくさまざまな、或は奇怪と云つてもいゝ妄想を描かせた。父が自分の不幸な運命を悟つた時が去年の秋であつたとすると、その時父の歳が四十四歳、母の歳が三十一歳、私の歳が十九歳である。三十一歳と云ふけれども、母は見たところ廿六七歳の若さで、私とは姉弟のやうにしか見えなかつた。ふと私は、去年乳母が暇を取る時、糺の森の参道を歩きながら私に洩らした今の母の前半生の物語を思ひ起した。あの時乳母は「旦那さんには内証でござりますけど」と云つてゐたが、或はあれは、父が乳母に命じて殊更に云はせたのではあるまいか。父は今後何かの場合に、私の頭の中でつながつてゐる生みの母とまゝ母との連絡を、こゝらで一応断ち切つておいた方がいゝと考へる理由があつたのではないか。私は又、この間の合歓亭での出来事をも思ひ起した。あれもあの時は偶然のやうに思へたけれども、あゝ云ふことが偶然起り得るやうに、前から父が計画してゐたのではないか。少くとも母は、父に無断であゝ云ふ戯れをしたのではないのかも知れない。実は私はあれから暫く合歓亭へ近づかなかつたが、半月ほど経て又母の乳を吸ひに行つたことが一二度あつた。父が不在の時もあつたし、在宅中の時もあつたが、いづれにしても父が母のさう云ふ行爲を知らないでゐた筈はないし、母も父に隠れてしてゐた筈はない。父は自分の死後のことを慮って、母と私との結び着きをより一層密接にさせ、父の没後は私を父同様に思ふやうに母に諭し、母もそれに異存がなかつたのではあるまいか。私はこれ以上のことは云へない。が、武を芹生へ遣つたことなども、さう考へると理解出來る。私は父や母に対して途方もない推測をしたやうであるが、この事はなほ後段に、父が自ら死の床に於いて語るであらう。
母が父の命数の限られてゐることをはつきりと知つたのはいつのことか、父は自分がそのことを悟ると同時に母にも知らせたのであるか、その点は私には分らない。しかしいつぞや合歓亭で、母が「前のお母さん」と云ふ語を使つた時は、不用意に使つた如くであつて実は故意に使つたのではないかと思へる。いや、五月に武を生み落す以前に、母は父から父の運命を聞かされてゐたに違ひあるまい。そして夫婦は互に先の先までを見通した上で、あからさまには語り合はずとも暗黙の諒解のもとに、武を里子に出したのではないか。たゞ不思議なのは、数箇月後に迫つてゐる筈の父との別れについて、母が私のゐる前ではそんなに悲歎してゐる様子を見せなかつたことである。母は喜怒哀楽をあまり顯著に表はさない性格なので、心の中の悲しみを、あのぼつちやりした圓満な顔にやんはり包んでゐたのであらうか。それとも私に取り乱したさまを見せてはならないと、強ひて怺へてゐたのであらうか。いつ見ても母は冴えた乾いた眼をしてゐた。ぼうつとしてゐるやうで案外複雑なところがあるらしい母の気持は、私には今以てよく分らない。いよいよ臨終の時が來るまで、母は一度も父の死について私と語り合ふ機会を作つてくれなかつた。
父が意地にも起き上る元気がなくなり、全く病床の人となつたのは八月に這入つてからであつた。もうその時は全身に浮腫が來てゐた。加藤医師は毎日か隔日ぐらゐに欠かさず来た。病人の衰弱は日を追うて募り、起き上つて物を食べる意慾もなく、母は片時も枕頭を離れなかつた。「看護婦をお雇ひになつたら」と加藤氏はすゝめたが、母は「私が致します」と云つて他人には触らせなかつた。それは又父の希望でもあるらしかつた。三度の食事の世話、と云つても、ほんの一と口か二口食べるだけであつたが、母はいろいろ考へて、父の好物の鮎の鮨や
母と私とが父の枕元へ呼ばれたのは九月の下旬、その前日に珍しい豪雨があつて、土地の人の云ふ「せみの小川」が氾濫し、池へ逆流して池の水が泥のやうに濁つてゐた日のことであつた。仰向けに臥てゐた父は、母と私に云ひ付けて體を横向きに、私達の顔がよく見える位置に向き直らせ、
「糺、お前こゝへおいで。お母さんはそこで聞いてゝくれたらえゝ」
と、私を傍近く招いて云つた。
「わしはもう長いことはない。これが
父の眼は、私の眼の中をいつまでも探るやうに見据ゑた。私は父とこんなにも眼と眼を近寄せて深い直視を受けたことはなかつた。私はその眼の示す意味を十分に解し得たとは思はなかつたが、私が一応頷いて見せると、父はほつとして息をついた。そして数分間口をつぐみ、ゆつくり呼吸を整へてから続けた。
「それで、お母さんを仕合せにするためには、お前が嫁を貰ふ必要があるが、それはお前のための嫁ではなうて、夫婦でお母さんに仕へるための嫁でないといかん。それにはあの、梶川の娘のお澤と云ふ子、あの子を考へてるのやが」
と、さう父は云つた。
この梶川と云ふのは、私の家に出入りしてゐる植木屋で、植辰と云ふ者のことであつた。祖父の時代にこの五位庵の造園をしたのは植惣であるが、梶川の先代は植惣の弟子で、師匠の植惣が死んでからこの庭の仕事を受け継いでゐた。私は當主の梶川はよく知つてゐた。祖父の時代には植木屋が毎日のやうに這入つてゐたさうであるが、父の代になつてからも月に何回か職人が出入りしてゐたので、植辰の親爺とは顔馴染みであつた。娘の澤子もまだ女学校の時分から毎年葵祭の時に遊びに来るので、満更知らぬ顔ではなかつた。細面の、色白の、
「あの児オのことはお前も大体知つてるやろがな」
と、父は澤子の生ひ立ちや気立てについて簡略な説明をしてくれたが、私も前から聞き込んでゐたことがあるので、別に新しい事実はなかつた。彼女が私と同い年の、明治三十九年生れの廿歳であること、今から三年前、府立第二女學校を優良の成績で卒業した才媛であること、卒業後も種々な稽古事に励み、植木屋の娘にしては出来過ぎる程いろいろな藝能を身につけていること、だからどんな立派な家庭へも嫁げる資格はあるのだが、気の毒なことに明治三十九年と云ふと
これだけの長話をした父は、私に応諾の色があるのを見とゞけると、俄に安心したやうに眼を閉ぢて溜息をした。母と私とはもう一度父の體を仰臥の姿勢に向け直した。
父はその翌日から尿が止まり、尿毒症の症状を呈した。食物も全く通らなくなり、意識が混濁し、ときどき訳の分らない
「茅渟」
と、母の名を呼ぶ声と、とぎれとぎれに、
「ゆめの………ゆめの………」
と云つたり、
「………うきはし………うきはし………」
と云つたりする声であつた。それが私の聞くことを得た父の最後の言葉であつた。
八月に田舎から出て来て父の看護を手伝つてくれてゐた乳母は、十月の上旬、初七日の佛事が済むと帰つて行つた。三十五日、四十九日の佛事までは父方母方の人々が見え、久し振の顔が揃ふ折もあつたが、それもだんだんに減つて行き、百箇日には二三人しか来てくれなかつた。明くる年の春、私は三高から大学の法科に這入つた。客嫌ひの父がゐなくなつてから、それでなくても訪客の少い五位庵を訪れる人はいよいよ稀に、梶川の親子だけが週に一度ぐらゐ来た。母は終日家に籠つて、佛前で父の菩提を弔ひ、退屈するとあの遺愛の琴を持ち出して奏でた。あまり淋しいので、母はあれきり途絶えてゐた添水の水音を復活させることにして、梶川に云ひつけて青竹を切つて来させた。あのパタンパタンと云ふなつかしい音が又聞こえるやうになつた。母は去年の父の病中も、さして看護疲れの様子を見せず、臨終から引き続いての後々の法事の間も、常にしやんとして人々に応対をし、相変らず色艶のいゝ豊かな頬をしてゐたが、それが今頃になつて少し疲れが出たと見えて、をりをり女中達に肩や足腰を揉ませてゐた。時には澤子が居合はせて、
「奥さん、私にさしとくりやす」
と、母を揉んでゐることがあつた。
ちやうど合歓の花が咲き初めた或る日、私は母と澤子とが合歓亭にゐるのを知つて這入つて行くと、いつもの座敷に母があの皮の座布団を二枚敷いてごろ寝をし、澤子が頻りに腕を揉んでゐた。
「澤子さんはえらい按摩が上手やねやな」
私がさう云ふと、母が云つた。
「ほんに上手え。本職の按摩はんかてこない巧いこと行かへんえ。かうして
「成る程手つきが上手さうなな。澤子さん、あんた稽古したことあんのか」
「稽古てしたことあらしませんけど、毎日ちうてえゝほど父や母の肩揉まされてますねやわ」
「さうやろえな、これやつたらくろうと
「僕は按摩みたいなもんもうよろし。それより僕も澤子さんの弟子になつて、揉み方
「
「教てもろたらお母さん揉んだげるわ。僕かてそれぐらゐのこと
「そんなてんこつな手エでやつたら、痛うて仕様がないわ」
「僕は男のわりに手が
「どれ、どれ」
と、澤子は私の指を握つたり手のひらを撫でてみたりしながら云つた。
「ほんに、何ちふ華奢な、しんなりした手エしとゐやすのどつしやろ。これやつたら行けまつせ、ほんまに」
「僕は男の癖にスポーツちふもん
「かんどころさへ呑み込んどくりやしたら、すぐお上手におなりやすわ」
それから私と澤子とは母の肩だの背中だのを稽古台にして、暫く揉み療治の稽古をした。母はときどき
七月になると床を池へ持ち出して、母と私と澤子と三人で夕涼みをした。私が父の代りをして添水の水の落ち口までビールを浸しに行つた。母も行ける口なので、私がすゝめるとコツプに二三杯は干したが、澤子は「
「澤子さん、あんたもかうしとおみやす、ひいやりしてえゝ気持どつせ」
と云つても、澤子はきちんと平絽の
「まあ奥さんのお
などゝ云つた。
私の眼からは、澤子は控へ目過ぎるやうに思へた。將來自分の
合歓亭の
「お母さん、揉んだげるさかい來やへんか」
と、母を合歓亭へ誘つたが、
「そな、ちよつと頼みまつさ」
と、母もいつも応じた。澤子がゐない時は勿論であるが、ゐる時でも、
「僕にさしてんか、あんた見てなさい」
と、私は澤子を押し除けて揉んだ。乳を吸はせて貰つた昔が忘れられない私は、さうして母の肉體を
一周忌の法事は百萬遍のお寺で営まれ、庫裡の大広間で参会者に食事を出したが、母も私も、親戚の人々の我々に対する素振が頗る冷淡で余所々々しく、焼香が済むと食事の席に加はらないで立ち去る者もあるのに心づいた。いつたい私の親戚の人々は、亡くなつた父が舞妓上りの人を二度目の妻に迎へた当時から、我々の一家に妙な反感と軽蔑の念を抱いてゐたのであつた。そこへ持つて来て、今度私が梶川の娘と婚約したのであるから、物議を
「お母さん、これでは僕の婚礼の日イが思ひやられるなあ、あの人等来てくれるやろか」
「そんなこと、気イにおしいでもえゝやないか。あの人等のために婚礼するのやあらへん。あてら親子三人が巧いこと行きさへしたらえゝのやさかい」
母は大して気に留めてゐない風であつたが、親類の人々の反感は、私が想像してゐたよりももつと根の深いものであることが、やがて分つた。
法事に参列した長濱の乳母が二三日して國へ帰ると云ふ日の朝、
「ぼんさん、その辺をお歩きやさ致しまへんか」
と、私は又森の中へ誘ひ出された。
「ばあ、何ぞ話があんのか」
と云ふと、
「さいでござります」
と云ふ。
「そんなら大概分つてる、僕の祝言のことやろがな」
「それだけやあら致しまへん」
「何やね、そしたら」
「それがなあ、………ぼんさん、お怒りやしたらかなひまへんけど」
「怒らへん、云うてみ」
「どうせこれは何処ぞからお耳に這入りますこつてつしやろさかい、やつぱりわたくしからお話した方がえゝやろと存じます」
さう云つて乳母は、ぽつりぽつり次のやうなことを知らせた。
私の親戚の人々が今度の結婚に反対なのは勿論であるが、彼等が私達を悪しざまに云ふ理由は、そんなことにだけあるのではない。彼等の批難は梶川との縁組より先に、私達母子に向けられてゐる。つまり、あけすけに云へば、彼等は母と私との間に不倫な関係があると信じてゐるのである。彼等に云はせると、その関係は父が存生中からのことで、父も自分が再起出来ないことを悟つてから、それを大目に見てゐたらしい、いや事に依ると、さうなることを望んでゐたらしい、それどころか、人目を忍んで丹波の田舎へ里子に遣られた武と云ふ子は誰の子なのか、あれは父の子ではなくて
「ぼんさん、気イおつけやすや、世間の口に戸オは立てられんて云ひますけど、人は他人のことになると、えらいこと云ふもんでござりまつせなあ」
乳母は語り終ると、ちらりと妙な横眼を使つて私を見た。
「無責任な人の噂みたいなもん、直きに忘れられてしまふもんやぜ、何とでも勝手に云はしとくねやな」
私はさう答へて、
「そな、来月の婚礼には又出て来てくれるやろな」
と云つて別れた。
これから先の事柄を、私はあまり詳細に記す興味を持たない。たゞ重要な出来事だけを掻い摘んで述べることにしよう。
澤子との結婚式は、その年の十一月の吉日を選んで挙げられた。花聟の私の服装は、特に母の云ひつけでモーニングを避け、父の形見の品である五三の桐の黒羽二重の紋附であつた。親戚は殆ど一人も見えず、母方の人さえ来てくれなかつた。来たのは梶川一家の縁につながる人々だけであつた。仲人役を引き請けてくれたのは医師の加藤氏夫妻であつた。長年観世流の稽古で喉を鍛へてゐた加藤氏は、この時とばかり高砂の一くさりを謡つてくれたが、その朗々たる音声を私は上の空で聞いた。
澤子の、母や私に対する態度は結婚前と格別の変りはなかつた。新婚の私達は奈良から伊勢路へ三四日旅行をしたが、私はどんな場合にも子を儲けない用意をし、一度もそれを怠つたことがなかつた。表向き、母と新婚夫婦との間は至極圓満のやうに見えた。父の没後も、母は表座敷の勾欄の間に寝、私は六畳の茶の間に寝てゐたが、澤子が來てからもやはり新夫婦が六畳の間に寝、母が十二畳の間に寝た。妻を迎へたとは云つても、私はまだ大学に籍を置く部屋住みの身分であるから、当分はさうすべきであると母も私達も考へてゐた。從つて家の会計その他のことは母が萬事指図してゐた。
母のその頃の日常生活と云つては、
そんな風にして足掛け三年を過したが、私が大学三年生であつた年の初夏、六月下旬の夜の十一時頃であつた、寝入りばなの私は澤子に強く揺り起されて眼を覚した。
「お母さんがえらいこつてすのや、起きとくりやす」
と澤子は云つて、急いで私を母の寝室へ引つ張つて行つた。
「お母さん、どうしたんや」
母は何とも答へず、
「あんた、これやのどすがな」
澤子はさう云つて、母の枕元の畳の上に伏せてある団扇を取つて除けて見せた。団扇の下には一匹の大きな
「うちがもうちよつと気イつけてたらよかつたのに、………ついうつかりしてお
と、澤子は真つ青になつてゐた。
加藤医師がすぐ駆けつけて応急の処置を取り、注射を続けざまに打つたが、母の苦悶は刻々に増して行つた。血色、呼吸、脈拍、等の状態は、最初に私達が考へたよりも重大な容態にあることを示した。加藤氏はつきゝりであらん限りの手を尽したが、夜が明ける頃には危篤に陥り、間もなく母は死亡した。「シヨツク死と考へるより外考へやうがありません」と、加藤氏は云つた。
「私が
と、澤子は声を上げて泣いた。
私は今更、私のこの時の驚愕、悲歎、失望、落胆等々の諸感情を委しく書き留めようとは思はない。私は又、みだりに人を疑ふことは自らを辱める
五位庵の建物は、祖父がそれを建築してからほゞ四十年の年月を経てゐ、かう云ふ種類の純日本式家屋としては恰好の寂びと時代がつき、今が最も馴れた美しさを発揮してゐる時であつた。祖父が建てた当座は、
百足は自らそこを這つてゐたので、這はせたと考へるのは邪悪な推測であるかも知れない。が、母は非常に寝つきのいゝ人で、所謂「夜ざとい」方のたちではなかつた。私が揉んでも澤子が揉んでも、彼女は直きにいゝ気持さうに眠りに落ちた。母は強い按摩を好まず、そうつと、眠りを破らない程度に、軽く柔かにさすつて貰ふのが好きであつた。それ故誰かゞ彼女の皮膚の上に微小な物体を置いたとしても、すぐには眠りを覚さないこともあり得る。私が駆けつけた時は母は俯いて苦悶してゐたが、その前は仰向けに臥てゐたと澤子は云ふ。ところで、一つ私の腑に落ちないのは、足をさすつてゐた澤子が驚いて母の顔を見ようとした途端に、心臓の附近を這つてゐた百足を認めたと云ふことである。その時母は胸を
繰り返して云ふが、これは飽く迄も私の単なる空想であつて、想像を逞しくすればさう云ふ仮説も成り立ち得る、と云ふに過ぎない。たゞ余りにも長い間、この空想が私の胸に巣くつたまゝ離れないので、こゝに始めてこれを筆にしてみたのである。私が生きてゐる間は、これは誰にも読ませない記録であることも、前に記した通りである。
それから又三年の月日が過ぎた。
私は一昨年、大学を卒へると、父が重役をしてゐた銀行の行員に雇つて貰つたが、その後考へるところがあつて、去年の春妻を離別した。その際妻の実家からいろいろ面倒な条件を持ち出されたのを、結局先方の云ふがまゝに承諾せざるを得なかつたいきさつは、あまり面白くもない事件だから書き記す気にもならない。私は離縁を決行すると同時に、楽しい思ひ出や悲しい思ひ出の数々をとゞめてゐる五位庵をも人に譲つて、鹿ケ
昭和六年六月廿七日(母命日)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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