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京羽二重

  をけら火やしらみそめたる東山

 京都の人には説明するまでもない句であるが、新村博士の広辞苑に依ると、「をけら」は漢字で「朮」と書き、きく科の多年生草本で、世に「をけらまつり」と云ふものがある、京都八坂神社で毎年大晦日から元旦にかけて行ふ神事で、鑽火(きりび)で朮を焚き、その煙の靡く方角を見てその年の豊凶を占ふ。参拝者はその火を火縄に移して持ち帰り、雑煮を煮て年頭の吉祥を祝する。とある。この行事は今日でも年々行はれてゐるが、私は京都で七八年の歳月を過し、葵祭や祇園祭や大文字の送り火などにはたびたび出遇つた経験がありながら、不幸にしてこのをけら祭は一度も見てゐない。それは私が非常な寒がりやで、底冷えのする京都の冬を恐れること甚しく、毎年秋の末から翌年の二三月にかけて熱海其の他の地へ逃げ出すせゐである。たまに一度か二度、彼の地で正月を迎へた覚えがあり、そんな時に人に誘はれて行つて見たいなあと思つたことはあるけれども、それでも出かける勇気がなくて家に蟄居(ちつきよ)したまゝであつた。その後下鴨の邸を人に譲り、伊豆山の山荘に立て籠るやうになつてからは、いよいよをけら火を見る機会をなくしてしまつたが、矢張見ておけばよかつたと、大晦日の晩になると、いつも思ひ出す。そして書斎の壁にこの半折(はんせつ)を掲げて、せめて祇園から石段下あたりの、夜更けから明け方へかけての夜の賑はひを偲ぶのである。

 ところでこの半折は、祇園の藝者百奴(もゝやつこ)が書いたものである。祇園では毎年四月から歌舞練場で都をどりが一ヶ月余に(わた)つて興行される。その時藝者たちの余技の絵画や和歌や俳句の筆蹟が展観される習はしになつてゐるので、私は踊りを見るついでにこの展観を見て廻るのを楽しみにしてゐる。往年井上流の名手の名をほしいまゝにした屋寿栄(やすえ)などは書も絵も達者であつた。小豆(こまめ)は漢字を巧みに書いた。或る年小豆が[花意竹情」と行書で書いた文字があつたのが眼にとまつたので、私はそれを懇望して額に収め、今も大切に保存してゐる。百奴は屋寿栄や小豆ほど著名ではないが、仮名書きの文字が優れてゐる点では、祇園藝者中の何人(なんぴと)にも譲らないであらう。この「をけら火」の句も或る年の会場に飾られてゐたのを見つけて、まだ会つたこともなかつたその人に、花見小路の茶屋「吉初」の女将を介して乞ひ受けたのであるが、そのお返しに私も何か拙い腰折を一首したゝめて贈つたことを記憶してゐる。

 京都に住んでゐた時、私は下鴨の邸を「潺湲亭(せんくわんてい)」と号してゐたが、熱海に移つてからは庭の中に水の流れを取り入れることが出来なかつたので、「潺湲亭」の名を廃して「雪後庵」と呼ぶことにした。ちやうどその頃単行本の「細雪」が大いに売れ、その印税で伊豆山の土地家屋を手に入れたので、それを記念するために「雪後」の文字を用ひたのである。私はこの伊豆山の雪後庵に昭和二十九年の春から本年(昭和三十八年)の四月これを某氏に譲渡するまで、足かけ十年の歳月を送つた。その間、毎年春と秋とには殆ど欠かさず京都に遊び、北白川の義妹の家に十日あまり滞在するのを常としたが、たつた一度、去年の秋だけは「台所太平記」を執筆中であつたゝめ残念ながら行きそびれた。今年の春も、伊豆山から西山へ転居のために例年よりも入洛の時期がおくれ、毎年欠かしたことのなかつた都をどりを見そこなひ、平安神宮の紅しだれを逸し、漸く五月二十日の夜に大阪を経て都人りをした次第であつた。

 熱海を立つ前に毎日新聞大阪本社の山口広一君から電話があつて、京都へ来たら是非大阪へ立ち寄つて戴きたい、今道頓堀の中座で渋谷天外の一座が台所太平記を出してをり、藤山寛美の初役の女形の「はつ」が盛んに見物を笑はしてゐるから、あれを必ず見てやつて下さい、なほこの機会にあなたをお招きして何処かで一席設けたいと本社の人々が云つてゐるから、御迷惑ながらその際はお越しを願ひたい、場所は大阪でなくてもいゝ、京都でも結構ですとの話であつた。そんな事情で、先づ中座の観劇を済ませてから一旦都入りをして北白川の家に落ち着き、新聞社の招宴には日を改めて応じることにした。では会場は何処にしますか、大阪にしますか京都にしますかと、重ねて山口君からの電話で、私は即座に京都を希望した。京都は何処? と、山口君が三つ四つ料亭の名を挙げた中で、私は又躊躇するところなく「奥山」を希望した。日は(きた)る五月二十九日の午後六時から六時半までの間にお出でを願ひたいとのこと。主人側は山口君の外に大阪本社編集局長の枝松茂之君、故薄田泣菫(すゝきだきふきん)氏の令息で編集局次長の薄田桂君以下五名、客は私と私の妻の二人、主客併せて八人である。男ばかりの席へ奥さんをお招きするのはいかゞであるが、私を除く他の人々は皆あなたと初対面であるから、奥さんにお出でを願つた方が何かにつけて都合がいゝと考へまして、と山口君は云つた。

 会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売つた奥山はつ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、(くど)くは書くまい。(かつ)て彼女が祇園を去つて料理屋兼旅館の女将となつたと聞いた時、私はこの上もなくそのことを惜しんだ一人であるが、今日の会場を私がこゝに(えら)んだのは、ひよつとしたら毎日新聞や山口君の顔で、こゝの座敷でなら彼女が得意の地唄舞を舞ふのを見ることが出来ようかと思つたからである。

 今日の招待を、私以上に私の妻が喜んだのは想像に余りある。大阪育ちの彼女は十八九歳の頃、父に連れられてたびたび祇園の茶屋へ遊びに来たことがあつた。あの時分の久子、小光、鶴葉、まだ襟かへをしたばかりの団子(今の杵屋六左衛門夫人)、富菊などゝいふ人たちとは仲好しであつたが、或る時どうしても舞妓の姿に扮して見たくなり、団子から総鹿子(かのこ)の振袖やだらりの帯を借りて久子に着つけを手伝つて貰ひ、東京でぽつくり、京大阪でこつぽり又はおこぼ、又はこぼこぼと云ふあの重い高い下駄を穿いて、切通しから南座の前へ出て四条の大橋を渡つて歩いたら、歩く度毎(たびごと)にそのこつぽりが音を立てゝこぼこぼと鳴るのがとても気持好かつた。友だちの藝者たちも面白がつて大勢一緒に附いて来た。その頃南座の前に「美人堂」と云ふ藝者の写真を売る絵はがき屋があつたので、彼女はそこの二階に上り込んで舞妓姿の写真を撮つて貰つたりした。その写真は今も何処かに残つてゐる筈であると云ふ。

 さう云ふ風であるからして、彼女は早くから祇園を好み、井上流の舞を好んだ。大阪にも山村流神崎流などの地唄舞があり、小幸(こゆき)のやうな名人がゐることはゐるけれども、やはり古くからの伝統を固く守つて崩さずにゐる京舞の風趣を最も愛した。分けても深く魅せられたのははつ子の「黒髪」であつた。他にどんな名人がゐるにしても、はつ子の「黒髪」ばかりは絶品であると私の妻は云ふのであるが、私もそれに異議は(とな)へない。髪を先笄(京都では普通サツコウガイと発音してゐる。これは地頭(ぢあたま)でなければ、(かつら)では()へない)に結ひ、黒の紋附に金銀唐織の丸帯を締め、白襟の一部の裏を返して紅い襟裏が見えるやうにした、祇園花柳界のあの正式の服装、––この姿は大阪では稀に見るが、東京には全然ないものである。––はつ子が「黒髪」を舞ふ時はいつもこの服装である。そして誰よりもこの服装が似合ふのもはつ子である。舞は舞そのものゝ技巧ばかりが()べてゞはない。何と云つても美貌がそれに加はることが条件である。それも、東京の銀座辺を歩けばいくらでも眼につくやうなありきたりの美貌を云ふのではない。京都でなければ絶対に見られないやうな美貌であつて、始めて舞が引き立つのであるが、はつ子の場合は正にそれである。あゝ云ふ顔は単に祇園の花柳界のみを代表する顔ではなく、京都全体の美を象徴するものと云へる。あの顔を見てゐると、京都の持つ幽艶、気品、哀切、風雅、怨情、春夏秋冬のさまざまの変化、さう云ふものゝすべてがそこにあるやうな気がする。私が最後に彼女の「黒髪」を見たのは、昭和三十三年十一月二十七日東京赤坂の草月会館に於てゞあつたが、それは彼女が妓籍を去つた後のことであつたにも拘らず、その容色はまだ一向に衰へてゐなかつた。余談ながら、私の右手が今のやうに麻痺してしまつたのは、その日その舞を見て宿に帰つて来た明くる朝からのことであつた。

  妹といでゝ若菜摘みにし岡崎の

    かきね恋しき春雨ぞふる

 香川景樹の「桂園一枝」月の巻に見える歌だが、景樹はこのあたりにト(ぼつきよ)してゐたので、岡崎を詠んだ歌がこの(ほか)にも一つ二つあつたやうに思ふ。その頃の岡崎の春は、どんなにのんびりとして長閑(のどか)であつたらうと思ひやられるが、今日でもいくらかその面影が残つてゐない訳ではない。はつ子が法勝寺町に「奥山」の店を持つたのは昭和三十年の三月の由であるが、私も昔ついあの近くに二三年住んだことがあつた。それは昭和二十一年から二十四年の四月頃までの、足かけ四年間ぐらゐであるから、彼女がまだ祇園に出てゐた時代である。場所は岡崎ではなく、あれから白川の細い流れを越えた南禅寺の下河原町で、川は私の家の庭の端を通り、書斎の窓の下を淙々と音をたてゝ流れてゐた。「潺湲亭」の号は最初その家に名づけたのであつたが、私の跡を引き継いだ人が今もそのまゝ住んでゐる。川を一つ隔てた向う河岸が法勝寺町で、現在も私が彼処に住んでゐるとしたら、あの書斎からはつ子の料亭の屋根が見えるかも知れず、声をかければ聞えるかも知れず、私に取つてはまことに懐しい土地である。ことしは生憎五月の初めから長雨つゞきで、楽しみにしてゐた当日も朝からじめじめと降つてゐたが、しかし折角のことであるから、私は背広服を止めて、前田青邨(せいそん)画伯から贈られた、取つて置きの「ちた和」の微塵(みぢん)(つゐ)結城紬(ゆふきつむぎ)を着、去年の秋から北白川の家に預けつぱなしにして置いた茶の古ぼけたインバネスを、雨除(あまよ)け代りに羽織つて出かける。今時(いまどき)こんな時代物のインバネスなどを着る者はめつたにないが、陽気外れのこんな季節にはこれが結構役に立つ。せいぜいめかし込んだ妻は、可哀さうに夏のコートしか用意がないので、自動車を降りて番傘に護られながら玄関へ辿り着くまでが大騒ぎである。

 主人側の六氏は既にみんな揃つてゐた。はつ子はと見ると、頭を普通の引つかづけにして、飾り気のない質素な女将の身なりをしてゐる。あ、この頭ではあの「黒髪」は見るよしもない、今日は舞はない気なのか知らんと、少しがつかりする。藝者は小豆、美与吉、鼓、まん子、一栄、富之、の六人が先づ来てゐる。広間の襖を開け放つたところに板敷の舞台があつて、その外が奥深い庭になつてゐる。実際はそんなに奥深くはないらしいのだが、京都の庭師はかう云ふ技術が得意であつて、雨に打ち煙る竹林の奥の方をいかにも幽邃に見えるやうに作つてゐる。私を除く人々は私の妻をも含めて皆酒。私一人だけ「お茶け」で我慢する。瓢亭の料理が次々と運ばれる。美与吉、鼓の地方(ぢかた)、一栄の笛で、舞はまん子の「鉤簾(こす)の戸」を皮切りに、次いで小豆が「蘆刈」を舞ふ。この人は全体が小柄で、上背(うはぜい)がないのが損で、歌舞練場の舞台などでは引き立たないけれども、かう云ふ座敷で舞はせると、さすがに名手であることが(うなづ)ける。私の妻は今度京都へ来たついでに、ひそかに八千代さんの高弟のかづ子さんを招いて、北白川の家の二階で、この間から妹のS子と二人「蘆刈」を(さら)つて貰つてゐたので、特に念入りに見てゐたが、舞が終ると、

「あたし、『蘆刈』の稽古は止めにするわ」

と、私の耳元で小声にさゝやく。

「小豆さんの舞ふのを見てゐると、『蘆刈』なんてとてもむづかしい舞だと云ふことが分つたわ。とてもあたしたちにはあんな扇使ひが出来るもんぢやない。明日から何かもつとやさしいもの、『鉤簾の戸』か何かを教へて貰ふ」

と、歎息したやうに云ふ。実は先刻、今日は何を舞ひませうかと小豆からそつと相談があつたので、「蘆刈」と云ふ註文を出した。さうしたら小豆が、「蘆刈」は久しく舞つたことがないので巧く舞へるか知ら、と、危ぶみながら舞つてくれた。久しく舞つたことがないのに、あのむづかしい舞をあれだけ見事に舞へると云ふのは大したものだ、あたしたちは下手の横好きで、どうせ物にならないことは知れてゐるけれど、それにしても「蘆刈」は無理だ、なんぼなんでも物笑ひにはされたくないと、妻はさう云つて溜め息をつく。

 小豆の次に、はつ子が訪問着に着かへて屏風の前に現れる。「露の蝶」を舞ふと云ふ。今日は先笄の頭と白襟黒紋附の姿は遂に見ることが出来ないけれども、兎も角も舞つてくれると云ふのは特別のサービスである。訪問着は濃い納戸色(なんどいろ)で、それにアイボリー色の紙衣(かみこ)の帯を締めてゐる。帯には濃い茶の花兎の模様がある。髪は地髪を自分で器用に(まげ)に作つて載せてゐる。私はこの「露の蝶」の小曲の詞が好きで、今は亡き大阪の菊原検校(けんげふ)がしばしば唄つてくれるのを聴いた。又妻や義妹が昔阪急岡本の私の家の舞台で、山村流の先代のお若さんに手ほどきをして貰つて、

 ……今は此の身に愛憎(あいそ)もこそも、月夜の空や鶏鐘(とりかね)を恨みしことも仇枕(あだまくら)、……

と、舞つてゐたことがあつたのを、つい昨日のことのやうに思ひ出した。が、はつ子の舞は「黒髪」の外にもいろいろ見た覚えがあるけれども、この「露の蝶」を見るのは始めてゞあつた。

「小豆さんにもう一遍舞うて貰ひまつさ、小豆さんは舞が好きどすさかい、なんぼでも舞うてくれはります」と、はつ子が又しても小豆を舞台に引つ張り出す。今度は「七つ子」を舞つてくれる。

 ……北嵯峨の踊りは、つゞら帽子をしやんと着て踊る振が面白い、……

と云ふところで、あたしがやると、あんな風に軽く跳べないと、妻が又感心する。

 この辺で舞も終りかと思ふと、はつ子が又々三度小豆を引つ張り出して、二人で「千代の友」を舞ふ。地方の美与吉と笛の一栄は消えてなくなつて、鼓が一人で三味線を受け持つてゐる。と、最後に子花が顔を見せる。この人も祇園の美女の一人で、面ざしが何処やら十五世羽左衛門を思はせるものがあつたが、暫く会はなかつた間にやゝ肥えて、羽左衛門ではなくなつた代りに却つて独自の味を出してゐる。早速彼女も掴まつて「八島」を舞はされる。

「考へると古いもんだなあ、僕があなたを知つたのは、あなたがまだ舞妓の時分だつたからなあ」

「さうどす、もう四十年前になります」

 はつ子と私との間で、ふとそんな昔話が栄える、里見先生とよく御一緒にお出でになりました、久米先生とも御一緒でした、これこれこんなことがありましたと、若かりし頃の出来事をいろいろ思ひ出して話してくれるのであるが、私はきれいに忘れ果てゝ何も覚えてゐない。たゞ一つ、はつ子の家が丸焼けになつて、数々の舞妓の衣裳が一夜で烏有に帰したことがあつたのを、ぼんやりと覚えてゐるのみであつた。

 あの頃はつ子に劣らない美貌の舞妓として讃へられてゐたひろ子の噂が出る。ひろ子ははつ子と同年で、背恰好(せいかつかう)も同じくらゐで、自然二人は無二の仲好しであつた。異なるところは、はつ子が終始花柳界の人として生き、今もその世界にとゞまつてゐるのに、ひろ子は野村徳七翁の思ひ者となつて岡崎天王寺町の市電の終点に近いあたりの宏荘な邸に囲はれる身の上になつた。さうなつてからもはつ子との交友に変りはなく、はつ子が「奥山」の店を創めるのに今の地を択んだのも、ひろ子が自分の邸に近いところから、こゝをすゝめたのであると云ふ。私が南禅寺に居を構へてゐた時分、私の妻はひろ子がときどき家の前を通るのを見かけたさうであるが、彼女は祇園時代の(よしみ)を忘れず、往き復りに丁寧に会釈して過ぎたとやら。不幸にして彼女は数年前に他界したので、結局は藝者から旅館の女将で通したはつ子の方が幸福であつたと云へるかも知れない。ひろ子も美貌の持主ではあつたけれども、はつ子のやうに京都特有の美を象徴するものは持つてゐなかつた。はつ子には狭斜の巷で育つた、生え抜きの祇園の人らしい匂ひがあつたが、ひろ子の美しさはもう少し一般的で、まあ云つて見れば東京臭かつた。私はひろ子の「黒髪」も見たことはあるが、舞ははつ子の艶麗なのに遠く及ばなかつた。(けだ)し彼女のさう云ふ藝者臭くないところ、銀座臭い感じのところが、徳七翁のお眼がねに叶ふ所以(ゆゑん)であつたかも知れない。

 はつ子は云ふ、自分は美容院などへも行つたことがない、自分もパーマネントをかけたいと思ふけれども、ドライヤーに頭を入れるとムカムカして気分が悪くなり、吐き気を催して来るので、あの中へ這人ることが出来ない、髪を結ふにも、(かもじ)は使ふことがあるけれども、鬘は殆ど使つたことがない、

「あたしの髪はいつも地髪で結ふのどつせ」

と。

 又云ふ、

「先生がいつや知らん朝日新聞PR版に安田輝子さんのことお書きやしたやろ、あの方のお父さんがあたしの顔を見たいお云ひやして、わざわざお母さんと御一緒に来とおくれやしたんどつせ」

と。

 安田輝子さんのお父さんと云ふのは、音楽評論家の野村光一さんのことである。昭和三十七年八月十一日(土曜日)日付の朝日新聞PR版に、私は代表的な日本美人の一人として輝子さんを推薦してゐる。その紙上に私の談として次のやうな意味のことが載つてゐる。––「もともと私は関東の女より関西の女の人の方が好きであるが、輝子さんは八年ほど前、安川加寿子さんの紹介で私の娘にピアノを教へに来てくれた。そのとき二三度しか会つてゐないが、私は輝子さんが奥山はつ子によく似てゐると云ふ印象を受けた。眼のかたち、眼づかひがそつくりだし、全体から受ける印象が似てゐた。あとで聞けばお父さんの野村光一さんは京都生れ、お母さんは秋田生れであると云ふから、両方から美人の血を受けてゐるのだらう」と。輝子さんは昭和二十四年東京藝大ピアノ科を卒業。その後安田善次郎翁の令孫で建築設計士である安田紫気郎氏に嫁ぎ、今では二人の子持ちである。PR版にこの記事が出た時、野村さんは久し振りに輝子さんを連れて伊豆山の家へ挨拶に見えたことがあつた。だがそれだけでは物足らず、評判のはつ子と云ふ人を実際に見て確かめたかつたのであらう、或る時夫人の千枝子さんを伴つて「奥山」へ訪ねて来、娘がこの家の女主人(あるじ)に似てゐる点を観察して、得心して帰つたと云ふ。私はそんな出来事があつたのを野村さんからは聞かされたことがなく、この夜始めてはつ子から聞いた。

 朝からの雨はなほ止まず、瀟々と降りしきつてゐる。一同酒が終つて、この旅館が自慢の手製の漬物でぶゞ漬を参る。これは彦根に住んでゐるはつ子のお母さんが拵へて送つて来るのである。「うまい、うまい」と、山口君がしきりに漬物の風味を褒めてぶゞ漬のお代りをする。はつ子が、自分の親たちは彦根の生れで井伊家の一族である、今も系図書が大切に(しま)つてあるからお目にかけてもいゝなどゝ語る。吉はつの女将の先祖も井伊家の家来で槍一筋の家柄であつたから、奥山の家と吉はつの家とは昔から親しくしてゐました、今夜の藝者衆も皆吉はつから入れたのですと、彼女がさう云つてゐるところに、吉はつの女将が挨拶に現れる。ところで私も吉はつとは、この女将の先代から懇意で、今の女将が「(かず)ちやん、員ちやん」と呼ばれて小学校へ通つてゐた時分から知つてゐた、が、こんな調子で昔話に(ふけ)り出したら際限がないので、雨がいつしか小止みになつた隙を見つけて暇を告げることにする。六時半から始まつて今が九時近く、二時間半ほどの宴であつたが、なんとその時間の楽しかつたことか。藝者の数が入れ代り立ち代り前後で七人、井上流の舞が鉤簾(こす)の戸、蘆刈、露の蝶、七つ子、千代の友、八島の六番、短い時間に小人数の客がこんなに沢山の舞を見せて貰ふとは未曾有のことである。それも一流の地方で、はつ子が二番、小豆が三番も舞つてくれた。こんなことはほんたうに珍しい。新聞社や山口さんの顔もさることながら、はつ子や小豆が私たちになみなみならぬ好意を寄せてくれた証拠である。

 私の妻と義妹とは、その明くる日も北白川の家の二階で、八千代師匠の高弟のかづ子さんに稽古をつけて貰つてゐたが、昨夜はなかなか面白かつたさうですね、さつき子花さんに会つていろいろ伺ひましたと、かづ子さんが云つた。子花は、もう好い加減舞も済んでゐる頃と思ひ、時分を見計らつて行つたのであるが、行つたらとうとう掴まつてあたしも舞はされてしまひましたとの話。それを子花の言葉で云ふと、「舞はもう済んでる思うて行つたら、まだやつたんで、うちも舞はしてもろたんどつせ」

となる。東京だつたら「舞はされちやつた」と云ふところを、「舞はしてもろた」と云ふところが京都である、さう云つて私たちは笑つた。

 

(了)

 

 

芦屋市谷崎潤一郎記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/10/19

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谷崎 潤一郎

タニザキ ジュンイチロウ
たにざき じゅんいちろう 小説家 1886・7・24~1965・7・30 東京日本橋に生まれる。文化勲章。日本藝術院会員。東京帝大在学中に仲間と第二次「新思潮」を創刊し『刺青』『麒麟』『少年』『幇間』『秘密』等瞠目の短篇を相次いで発表、永井荷風の絶賛を受け自然主義文学全盛の文壇に異彩を放った。大正期には戯曲、推理小説、映画制作にも旺盛に関わり、関東大震災後関西に移住、長編『痴人の愛』『蓼喰ふ蟲』を経て、『蘆刈』『春琴抄』『武州公秘話』『猫と庄造と二人のをんな』『細雪』『少将滋幹の母』『夢の浮橋』『鍵』『瘋癲老人日記』等々に到る名作秀作群の山を築いて日本近代文学に一頂点を成した。『陰翳礼讃』などの美しいエッセイも数多く、源氏物語の現代語訳も繰り返し完成した。

掲載作は、1963(昭和38)年「新潮」8月号初出、文豪の眩いばかり心豊かな私生活をうかがわせて、まこと「はんなり=花あり」とした1編を成している。

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