チャペック初期短編選
システム
日曜日の午後のさんさんと降り注ぐ太陽の光に誘われて、ぼくたちはセント・アウグスティンの波止場につながれた蒸気船「ホドル提督」号に乗船した。ところが、こんな具合にしてぼくたちが紛れ込んだのが、独立教会派の集会のなかだったとは思いもしなかった。
三十分ほどたったころ、ぼくたちの人見知りしないなれなれしい振る舞いにたまりかねた宗教団体の人たちは、不適切な行為を理由に、ぼくたちを海のなかに放り込んでしまった。それからしばらくするうちに、もう一人の白い服の男が落下してきた。そして甲板上の善意の人が、ぼくたちに救命用の浮輪を三個ほうってよこし、賛美歌を歌いながら広い海原にぼくたちを置きざりにして去っていった。
「おやおや、これは有名なスランケ社のパテント商品ですな」白い服の紳士は、ぼくたちが三個のゴム製の浮輪をがっちりとつなぎ合わせたとき、話の糸口をつかもうとして口を開いた。「なあに、どうってことはありませんよ、諸君」
紳士は新しいツアー仲間を見やりながら言った。「あと六時間、このまま南風が続くよう願いたいもんですな、そしたら、わたしら陸地にたどりつけますよ」
そう言ってから、彼は正式に自己紹介をした。彼、ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏はヒューバーツタウンで農園と工場を経営していたが、セント・アウグスティンの妹のところの滞在をちょうど延期したばかりだった。そしてぼくたちをホドル提督号から放り出すことに抗議したところ、彼もまたこのようなきわめて不適切な状況下で、思いもかけない知己をうるにいたったというわけである。
ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏はヨーロッパでの国家経済学の勉学にはげむ一方で、ライプチッヒではビュッヒャーを、ベルリンではリストやワーグナーを聴いた。彼はシェッフェレ、スミス、キャリー、テイラーを研究したと語った。彼の産業現場巡礼の旅は、ストライキの労働者たちに両親を殺害されるという、思いもかけぬ突発事件で中断された。
そこでわれわれ休暇中の人間〈訳注・働かない人間という意味にもなる〉として、議論をはじめた。
「汝、哀れなる労働者よ! おまえたちは社会の犠牲者だ。労働者は十九世紀の工業生産物である。一世紀におよぶ過剰生産のあと、おまえたちの始末をどうつければいいのだ? その余剰労働者は何百万の規模である。その一人一人が人間である・・・・・・か、クエスチョン・マーク。これが問題だ。そして、世紀の危機です。いいですか、労働者の手は拳に成長する芽です。われわれ上流階級人は昔から今にいたるまで一万人がいいとこだ。われわれは決して増加しない。しかし、彼らはどうか、絶えず増加しつづけている。いいですか、お若いの。労働者はわたしの父と母を殺したのです。彼らは十九世紀の伝統を破壊しました。われわれの父や母を殺した以上、今度は、われわれにも向かってきます。殺されるのですよ、あなたが。われわれが殺されるのです。そして、ああ、われらが高雅にして豊かなるわが祖国のわれら男性の美しき友、女性たちも、また、殺されるのです。・・・・・・その恐ろしき瞬間の来たりなば」
「おおおっと、みなさん、気をつけてくださいよ、大波がきますよ」とジョン・アンドリュー・リプレイトン氏が注意をうながし、おだやかな微笑を浮かべて言葉を続けた。「しかしね、諸君、わたしは殺されませんよ。わたしの工場、わたしのヒューバーツタウンはきわめて平和に生活しています。わたしは文化改革を導入したのです。つまり、労働問題という粗野な幹に、高貴なる産業の花を植えつけたというわけですよ。
「わはーっ」ぼくたちは大波がもたらしたひどいゆれに、思わず大声をあげた。「じゃあ、あなたも労働者を改造しようとしている人たちの一人なのですね。あなたは日曜学校や民衆大学を開校し、禁酒禁欲を徹底させ、家庭に芸術をもたらした。また、講演会やオーケストラの演奏会を企画し、討論会を開き、奨学金を設け、神智学からディレッタンティズムまでも奨励された。あなたは労働者に磨きをかけ、目を開かせ、教育し、家畜のように飼いならされた。しかし、ねえ、リプレイトンさん、労働者に教育の餌を与えたとしたら、彼らは文化的野獣として息を吹き返します。一方、われらが内なるスーパーマンは居眠りだ。そうなると、いつか、われわれは指導者や、扇動家たちの大洪水のなかを流され、工場のなかからは何万何千という救済者やインテリゲンチャや教条主義者、神父に啓蒙家といった連中が吐き出されてきますよ。これは完全な侵略です。それに屈しない輩は掃き出されます。その発展の頂点をきわめた世界は宇宙の埃となって崩壊します。最後に残った強靭な魂のみが流星のように宇宙を飛び交うでしょう」
ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏はこの長広舌に耳を傾けていたが、聞き終わると、防水のシガーケースから葉巻を引き抜いてから火をつけた。
「葉巻はいかがです、紳士方、このずぶぬれの、冷え冷えとした環境のなかでは、まんざらでもないかもしれませんよ。それにしても紳士方、あなた方のお考えは、わたしが二十年前に考えていたのとおなじです。さあ、その先をどうぞ!」
葉巻を吹かしおえたところで、ぼくたちはリズミカルな波のゆれに揺られながら、また、話を続けた。
「たしかに、理想の労働者像というものはあります。それは自動織機、はずみ車、自動紡績機、輪転機、まあ、いわば蒸気機関車のようなものです。自動織機は何かを判断したり、支配しようとしたりしません。彼らは連帯もしなければ、演説もしません。織機はたった一つのことしか考えない。そのかわり強固で執拗な主導的理念です。それは糸です。糸以外には何ひとつ望みません!
それからはずみ車です。はずみ車は回転の邪魔をしてもらいたくないだけです。回転する以外に何ひとつ余計な思いつきも発想もしません。回転するってことはです、リプレイトンさん、こいつは偉大なる理念ですよ。回転することは世界の最重要課題です。回転がすべてです」
「こいつはすげーや、お若い紳士方!」ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏は海水と唾液でぬるぬるになった葉巻を吐き出しながら、 熱烈な同意の叫びをあげた。「あんた方がそんな方だとすりゃあ、わたしのシステム、労働問題解決の手段、リプレイトンの構造的労働力有効活用法についても、ご理解いただけるものと信じます。そこで、諸君……」
「よろしいですかな、諸君! 生産という言葉はもともとはラテン語のフェブリスという言葉から導き出されたものであります。その意味するところは熱狂的な活動という意味であります。そうなのです、諸君、産業というのは生計をたてるためのちまちまとした賃仕事ではありません。産業というのは熱病のような情熱、昂揚、理想主義によって十分な栄養を補給された熱病なのであります。五千俵の綿を加工するという、ものすごい力の集合体はあだやおろそかな成果ではありません。ところがこれが百万俵という話になると、諸君、百万俵の綿を加工するために、全世界を加工するために要求されるのは、もはや芸術的想像力と理想主義以外の何ものでもありません。全世界は単なる原料にすぎないのです。全世界はいまだ加工されざる素材であります。天も地も、人類も時間も、空間も無限も、すべてが原料にすぎません。諸君、産業の使命とは全世界を加工することであります。世界は工場にならなければなりません!
われわれはこの仕事を壮大なる規模でとらえましょう。われわれは社会主義の闘争、肺結核、出産率の低下、啓蒙活動、八時間労働、それにアルコール依存症を論じます。労働問題は私たちの足を引っ張ります。労働者は単純に回転する機械にならなければなりません。いかなる思考も規律違反です!
諸君、すべては速度を速めなければなりません。諸君! テイラー主義というものは、そもそも体系的な誤りであります。なぜなら精神の問題を見落としています。労働者の精神は端的に言って機械ではありません。だから排除しなければならないのです。私のシステムではそれをやりました。わたしのシステムは社会問題にたいする偉大なる回答であります。
みなさん、わたしは最初から、労働の一単位以上の何ものでもない労働者のことを夢想していました。それゆえ、わたしは、わたしの企業に、ある選ばれた人間たちだけを採用しました。知恵遅れ、ルンペン、無気力症、文盲、白色症、オランウータン、脳水腫症、異常大頭症に小頭症、下等人種、その他その他、要するにミュンスターベルク教授のもとにおいて特殊な検査を受け、何も考えず、何も知らず、何の欲もない、詩や天文学、政治、社会主義、ストライキや組織について思ってもみたこともない、しかも彼らの生はただ遺伝的な性向や習慣によってのみ成り立っているということが証明された者たちだけを採用したのです。わたしは代理人を通して世界中からこういった選ばれた労働単位をかき集めました。わたしのヒューバーツタウンはいわばブリアレウス<ギリシャ神話・百手巨人>で、二万二千組の腕と一つの頭、つまりわたしですな、をもった町なのです。わたしのヒューバーツタウンはきわめて順調に機能しています」
「おっと、リプレイトンさん、そこの流木にぶっつからないようにしてくださいよ」私たちは叫んだ。「それは、リプレイトンさん、たしかにすばらしい解決策ではありますね。しかしあなたはその選ばれた労働者たちが、ときに異常をおこしたり、退化したるするかもしれないということが、ご心配ではないのですか? たとえば、あるとき何かのはずみに、規律が破られ、彼らの精神力が完全に発揮されるというようなことをです。一週間に一度くらいは健康診断が必要なんじゃありませんか? ひょんなことから、彼らに知恵の光が差すということはないでしょうかね?」
「まず、ありませんな」リプレイトン氏は大得意で言いながら、近くに流れてきた流木をよけた。「ねえ、諸君。わたしは労働者に滅菌をほどこし、消毒したのです。彼らのなかのあらゆる感情の芽を前もって摘み取ったのです。自己犠牲とか仲間意識、家族愛、詩的なもの、先験的なものをです。そして食欲や性欲にたいする関心も管理しました。わたしは彼らの身のまわりを荒廃させたのです。わたしは彼らに建築構造上からも、星の運行の上からも、滋養供給の上からも、また気候風土の上からも、厳格にシステム化された生活を――いわばそれらのものを押しつけることによって彼らを管理したのです」
この話の途中、ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏はぬるぬるした海藻の|叢(むら)に、まきこまれ、身動きもできなくなった。その間、ゆったりとした潮の流れがゆっくりとぼくたちを岸辺のほうに運んでいった。その細い筋が水平線の上に白っぽく浮かんでいた。リプレイトン氏は急いで自分の労働管理メソードを説明しようとし、ついにはだんだんと声を大きくしながら早口で叫んだ。
「きみたち、頼むから、もうちょっと聞いてくれ。労働者たちは誰もが規格性と規則性、慈悲のなかでベッドについているんだ。みんな電池の部品のようにおんなじだ。わたしは労働兵舎を建てた。みんなが自分専用の個室をもっている。これらの個室は一寸の狂いもなく同じだ。すべての者が同じ喜び、同じ時計をもち、同じ夢を見る。誰もが他人にたいして頼みごとをする必要もなければ、分けてもらう必要もない――きみたち、もうちょっと待ってくれたまえ、わたしは彼らを退屈と飽食と、無感情、快適、清潔によって包囲したんだ――ねえ、君たち、女のことはどうしたと思う? 女性は美的感情や家族、倫理、社会、ロマンティックな、詩的な、あらゆる文化的感受性を刺激する。そうとも、わたしは自分の経験から、わたしのなかにもあることを知っている。ああ、女だ! 女はあらゆるシステムの敵なのだ。女はだよ、諸君、――ちょっと失礼。だから女をだ、一定の期間を決めて許す。職長は三日にいっぺん。金属加工職人は一週間にいっぺん。織物職人は二週間にいっぺん。農園労働者は一ヶ月にいっぺん。それもただ夜だけ、女の美しさを見ないように、美的興奮をおぼえさせないために、真っ暗闇のなかでだけ。おーい、きみたち、まだ聞こえますか? ――美的ないし道徳的な興奮、つまり何か高尚ななものを感じはじめることがないようにですよ。――いいですか、言っておきますがね――女は――労働者のどんな情念をも――沈静させます――これがわたしの"メソード"です―― ―― じゃ、お元気で!」
ジョン・アンドリュー・リプレイトン氏はぼくたちの視界から完全に消え去るまで、より一層大きな声を張り上げながら、ぼくたちの背後からそんなふうに叫んでいた。彼は錨につながれたブイのように海のなかに縛りつけられていた、もはや助かるみこみはなかった。岸に向かって吹いていた風はぼくたちを岸辺まで運んだとたん止み、リプレイトン氏の精一杯の声も聞こえなくなった。
静かな月夜の晩に人々のあわただしい動きが起こった。そしてぼくたちはいよいよ冷え込んできた海面にただよっているリプレイトン氏捜索のモーターボートが出ていったチャールストンの町近くの岸辺に夜どおし立っていた。
やがて救助されたリプレイトン氏をふくむ、ぼくたち三人は、そのあとは何事もなくセント・アウグスチンの町へ馬車でもどった。次の日、私たちは彼の姉の家にリプレイトン氏を訪ねた。ぼくたちはそこでゆり椅子にすわり、手に手紙をもち、苦悩に満ちた表情の彼を見た。彼は黙ったままぼくたちを迎え入れ、何も言わずにぼくたちにその手紙を差し出した。そこには次のように書いてあった。
私の手紙はとても悲しいお知らせでございます。大変な惨事が起こりました。すべて何もかもがこわされてしまいました。労働者たちが暴動を起こしたのでございます。工場に火をつけましたが、そこから何ひとつもち出すことができませんでした。そして、奥様と三人のお子様をみんな殺してしまいました。
事件はまったく予想もしないところから起こりました。それは若い労働者ボブ・ギボンの額に坑内灯がつけたままになっていたのでございます。そこへその夜に割り当てられた女が、すごく美人の女が訪れたのでございます。そのおかげで彼のなかに美にたいする感受性と人間のより高い使命感が目を覚まし、彼のなかに繊細かつ複雑なる感情が目覚めたのです。そして次の日には監督の叱責にもかかわらず、一日中鼻歌をうたい、いろんな絵を描き、夢を見、話をし、意味ありげな表情で顔を見合わせ、自分の感情をまったく人間のようなやり方で表現するようになったのです。
彼にそそのかされてほかの労働者も夜には明かりをともして観察し、ほぼ同じような興奮を実感するにいたったのです。彼らはシャツの胸当てをつけ、針や、鏡、絵葉書、詩集、楽器、絵画など、そのほか恋愛の感情と密接にかかわりのあるような類似の品物を整えました。そしてたちまち歌手の四人組や、環境美化チームが二組、演劇グループが二組、そしてスポーツ・チームまでができました。
労務管理部にはその運動を防止する力はありませんでした。やがて労働者たちは女性地区の占領に成功し、すべての女たちを連れ去り、家庭生活を営みはじめました。その次の日には労働時間の短縮と賃金要求をしました。その次の日にはジェネラル・ストライキに入り、金属労働者、繊維関係労働者、農業関係労働者の職能組合を設立しました。六月二十五日には三種類の定期刊行物が発行され、町じゅうの商店や倉庫が破壊され、同二十六日には殺戮がはじまりました。これは、あなたさまがこの町をはなれて、いたずらにご帰還をひきのばされていた最後の日に起こった事件であります。
できますことなら、どうか気をお静かにおたもちくださいますよう。
かわいそうなリプレイトンさん! あわれなるギボン、現代のアダムよ! おまえたちはわれわれにとって、なんと危険な存在なのだ。おお、海のかなたの女友達よ! 天なる神よ、われらが青春をまもりたまえ!
小 麦
私たちは週刊情報誌のなかに「小麦相場、二〇パーセント上昇」と書いてあるのを読んでいた。すると、ドアのほうへ行きかけていたオーフェン氏の代理人ガウデンツィウス氏が考え込んでいる私たちに気づいて、言葉をかけてきた。
「小麦が二〇パーセント、値を上げましたよ」
「そりゃ、まずいな」と私たちは落ち着きなく言葉を返した。 「パンが値上がりしますね。たぶん貧しい人たちも、彼ら特有の利害関係に翻弄されながら、気の休まる暇もなしってとこでしょうね。昨日、郊外を歩いているときのことですがね・・・・・・」
私たちは話を続けた。
「一人の貧しそうな男がぼくたちに話しかけてきたのです。で、その男が言うには『貧しいということが、われわれ貧乏人に何の得にもならなくなりました。もし物価がこのまま下がらないとしたら、わたしたちは、もはやお手上げですわ』とね」
「しかし物価の上昇も今が天井ですよ」ガウデンツィウス氏は反論した。
「たしかに、全体的に価格は下降傾向を示しています。経済恐慌の到来が予想されます。証券も不動産も価値が下がるでしょう。プレミアムの幅も減少しています。デールンブルク氏とドイツ植民地のおかげで、ダイヤの価値まで下がっています。ですから、すべてのものの価値が下がって、貧乏人の手にもとどくようになるでしょう」
「そうそう、たしかにその通りです」
私たちは大喜びをした。
「同じく道徳の価値も下がりましたよ」ガウデンツィウス氏は続けた。
「シュティルスキー・フラデッツのアントン・シェーンバッハ教授が『今日では堕落していない娘は、社会的価値が低い。道徳は今日、きわめて価値が低下しているから、いかなる貧しい人間といえども道徳の要求に応えることができる』というコメントを発表しましたよ」
「まったくその通りだ」私たちは楽しくなって言った。「人間の命の値段も下がっています。愛それ自体だって軽く見られています。ただ、メアリ・オーフェン夫人のごく最近の情事だけはちょっと高くつきすぎましたね」
「メアリー・オーフェン夫人は今日、パーティーを開きます、あなた方も招待したいそうですよ」ガウデンツィウス氏は声高に話し、それから挨拶を交わしてわかれた。
私たちがオーフェン家の廊下を通り、サロンの入口に来たのは夜だった。そこにはメアリー・オーフェン夫人が立っていて、私たちに微笑みかけていた。
「これはこれは、ようこそ」相場師で、投機家、穀物の仲買人であるこの家の主人のオーフェン氏が私たちをとらえた。「チェコ語で小麦のことをなんと言います? プシェニツェでいいのですか? それはそうと、あなた方、よろしければ、しばらくわたしの事務室にいらしていただけませんか? もし、できましたら、ある文書がチェコ語でうまく書かれたものかどうか、見ていただきたいのです。つまり、わたしはあるコメントを新聞に投書したいのです。こちらです、どうぞ」
「ハナー地方特派員」とある原稿を読み、その間違いを訂正した。「長引く霜の影響で穀物、とくに小麦が壊滅的打撃を受けた。この地方一帯は絶望の極に追いやられている。われわれは国会議員や政府当局者に訴える。――ルヴォフ地方特派員。バナート地方特派員(地名は変更する)」
「ブエノス・アイレス発特電。旱魃の影響により凶作となる。小麦の収穫は全滅。投機筋は次の取扱商品の発見にやっきとなっている」
「ハンガリー議会より(電話)。国会議員ミクローシュ・エルチ伯爵は悲惨な不作、とくに雪害による小麦の不作によって甚大な被害をこうむったサートマルスキー郡にたいして八〇万コルンの地域援助を提案した」
「ロンドン取引所。シベリア、アルジェンチン、アメリカ合衆国から小麦不足にかんする震撼すべきニュース。経済界に恐慌」
「飢饉。『新時代』紙の伝えるところによるとカザンスカヤ県では飢饉が発生したが、それはとくに昨年の小麦の不作に起因するものである。政府は極度の窮乏を防ぐために、最大規模の対策を講じている」
「ウイーン取引所。穀物市場の混乱。小麦が三十五パーセント上昇したが、さらなる上昇もなしとは言い切れない」
「いかがです」しばらくしてオーフェン氏が口を開いた。「これがわたしたちの正直な気持ちをうたった歌です。まず第一に仕事、次に音楽。しかしこんなのはまだ序の口です。わたしたちは戦争をはじめなくちゃなりません。たぶん戦争になるでしょう。わたしたちがそれをやらかすのです。インテル・アルマ――クレスクント・プレティア(戦争のあいだ――物価は上がる<訳注・後半は「ミューズの神は沈黙する」をもじったもの>)というわけです」
オーフェン氏は独り言のようにつぶやいた。
「わたしはすでに一千台分の小麦の契約をしています。そして小麦は三十五パーセント値上がりするでしょう。三百万か――五百万か――七百五十万か――」
そしてオーフェン氏が夢見るようにつぶやきながら計算をしているあいだに、私たちは壁にかかった例の有名なティツィアンの絵をもとにした古い木版画(A・ベルテッリ製作)に引きつけられていた。画面では処女ダナエが仰向けに横たわり、金の雨に姿を変えたオリンポスの山の|快楽主義者(ゼウス)の来訪を信頼に身をゆだねながら待ち受けていた。やがて私たちはある疑念を胸にいだきながら語り合っていた。
いまどきの人間のダナエなら、むしろ小麦の雨に姿に変えた神を愛人にしたがるだろう。小麦は二〇パーセント値を上げている。オーフェン氏はいささかの興奮もなしに夢見ていた。そして次の値上がりも期待できなくはない。恵み深き神よ、期待できなくはない。
ソロモンはサルミットをどんなふうに賞賛したか? 私たちは夢想した。おまえの|臍(へそ)は麦の穂で取り巻かれた杯のようだ。――おお、スラミットよ、おまえの歯は洗い場のなかを通っていく羊のよう。おまえの喉は象牙の塔のよう。おまえの乳房は双子の小鹿。しかし何よりも、そして常に美しいのはおまえの臍だ。なぜなら、こむぎは二〇パーセント上昇し、その後の上昇も必ずしも望みなきにあらずだからだ。
助任司祭フロデガンクは、すでに歴史となり、もはやこの世にはない祖父たちの洗礼者であり、また養育者でもあった人物として一年に一度、クリスマス・イヴの日に訪問客に対面すべく、体を清められ清潔な衣装を着せられて領主の客間に運び込まれる。彼はリューマチに冒された日々を女中たちから粥をあてがわれ、温めたレンガや綿に取り巻かれながらすごしていたが、その助任司祭フロデガンクの百二十歳の誕生日を祝うために彼の屋根裏の小部屋には数人の人々が集まっていた。
それらの人々とは、館の門番ロヘリウス、白い顎ひげをたくわえ、老王の風格をもっている。従僕バヤン、従僕フランソワ・シクソ、従僕アルビネット・ソラル。全員が老人であり、ごま塩の頬ひげだけを残した顔には昔ながらの表情をしている。イギリス人の仕立屋フランシス・スマッツは懐旧の情抑えがたしといった表情。頬ひげの下男チャントリー、白い服のコック長イジャーク氏。後ろに留め金のついた膝当てをつけた男たち、それに数人の老人。
「助任司祭さま」生気のない顔のシクソが話しはじめた。「われらが高貴なる当領主の輝ける館の全使用人、および、この館にかかわりをもつ人々になりかわり、あなたさまの祝福とお祝いの言葉をお伝えするの任にあずかりましたることは、わたくしにとりましてもこの上なき名誉なことであります」
助任司祭フロデガンクは皺くちゃの口の端からよだれをたらしながら、霞のかかったような目で見まわしながら、ぶるぶるっと身震いした。
「敬愛おくあたわざるご老人」アルビネット・ソラルはささやいた。「わたしども輝かしい一族の名誉あるご生誕の証人とならせられますように、あなたさまが五百歳の長寿をたもたれますよう」
「聖なるご老体よ」シクソは感動して言った。「残念なことに、わたくしどもはあなたさまがご覧になりましたことを見ることができません。そして、あなたさまは、いま、何も見ず、何も聞かれない。ただ、ご覧になるのは、すでに無きもののみであります。神があなたさまを祝福されませんことを!」
「世界は変わりました」冷静なパヤンが話しかけた。「わたくしは老人です。ですから、見えるものも見たくありません。わたくしは四百歳です。なぜなら、わたしは相続者だからであります。わたくしは母の生命のなかで仕えました。そしてわたしが父親のなかにあったかぎりにおいて、わたくしはお仕えしていたのでです。そしてわたくしの両親は生まれるまえから、わたくしの祖父のなかでお仕えしていました。そしてわたくしの祖父たちは、お仕えいたしておりました母の胎内に生を受けたのです。四百年間、わたしは先祖のなかで仕えてきて、そしてお館の仕事から去っていくのです。なぜなら、わたくしはもう、いま見ているものを見たくなくなったからです」
「いま、見えているものとは何でありましょう。人々がお互いに平等になったということであります」アルビネット・ソラルが言った。「もはや貴族でないということは不名誉なことでも何でもなくなりました。世界は変わったのです。したがって貴族であるということもまた、それほど名誉なことでなくなりました。ですから、わたくしはこの館から出て行きます。なぜなら、もはや高貴な人でない人たちに仕えることが、わたしには名誉なことでなくなったからであります」
「わたしはいま起こっていることを、もう見たくない」パヤンが静かにくり返した。「P男爵はクラッドノで国民社会主義者です。高貴なるT騎士はビール醸造所の主任です。貴族たちはワイン会社の取締役になっています。貴族と盗賊たちがいちばん多く刺青をしています。J・O・伯爵夫人は乳母になりました。おお、天よ、わたくしの目はもうぼんやりとしか見えません! だって涙を通して見ているのですから」
「そうです、わたくしたちはご先祖様たちのお立ちならびになる長い廊下を通りながら泣いています」アルビネット・ソラルはまえの言葉を受けて言った。「もはや高貴な身分などはありません。わたしの先祖たちはご主人の腰に剣を結びつけていました。ところがわたしはヘルニアの腰に剣を結んでいるのです。恥ずかしいったらありゃしませんよ。でも、もうわたしはこのお館から出てまいります。だって、平民などに仕えていい気がするはずがありませんからね。だからわたしは嫌悪の念をいだきつつ、この館から出ていきます」
「昔はどんなにすばらしかったことか!」シクソはもの思いに沈み、夢見ていた。「あのきらびやかな騎馬の一隊が目の当たりに浮かんでくる。耕地の上で労役についている農奴たちが、貴族たちの金ぴかの馬車を見ようとして背を伸ばしている。なぜなら光るものと力のあるもの以外に敬意を払うものはないからです」
「おお、おまえ、弱き目よ、デモクラティックな目よ、おまえたちは自分の目をもっている。なぜなら、汗と機械の真鍮以外に光るものはないからだ。おまえたちは自分の目をもっている。なぜなら、おまえたちには、おまえたちの目をまぶしくさせるものがないからだ」
「戦いからもどってきたとき、彼らの胸は赤かった」シクソは夢想した。「そして決闘者の胸は大司教の手袋のように赤かった。そして彼らの力は皇帝の服のように紫色だった。しかも、もはや、わたしには赤いものは何ひとつ見えない」
「黙れ、シクソ」アルビネット・ソラルが言った。「集会の赤旗では不足なのか? その言葉の支持者のネクタイの赤さでは不満なのか? 黙れ、シクソ。現在ではそれ以外の緋色は望まれていない」
「おお、シクソよ、もうたくさんだ」パヤンは嘆きの声をあげた。「われわれは先祖の遺影にむかってひざまずきながら涙とともに生きようではないか。そしてわれわれのご主人さまたちが、『われわれ』の先祖たちが唾棄したようなものに自らを似せようとなされたときでも、われわれは、われわれのご主人さまのご先祖さまにお仕えした、われわれの先祖たちと同じように、お仕えしてきた。いま、われわれのご主人さまが、時の流れのままに変わりながら、われわれのことを忘れ去ってしまわれたときでも、われわれは伝統や、絶えることなく面々と引き継がれた遺産として、ここに残った。ゆえに、シクソよ、われわれは歴史的存在である。なぜなら、遠い過去と、時間を超えて延々と引き継がれてきた遺産だからだ。そして、これこそが、あらゆるものにまして高貴なのだ。
おお、シクソよ、われわれのお仕着せはいぜんとして遠い昔の金の輝きをたもっている。そしてわれわれの顔は何百年来のものであり、家紋にも似ている。そしてもしわれわれの祖先がいまのわれわれのご主人さまと対面したとしたら、あまりにも市民的な風貌に嫌悪の念さえいだくだろう。たくさんだ、シクソ、遠い時代の姿かたちをもちつづけているのはわれわれだけだ。われわれは伝統である。われわれは歴史である。われわれは過去のものである!」
助任司祭フロデガンクは何かぶつぶつと言った。
そしてチャントリー氏は「われわれこそは最後の貴族階級だ」という言葉でしめくくった。
アルコール
私たちは小さな安酒場のテーブルに頬杖をつき、どろどろに汚れた耐火煉瓦敷きの床の上に唾を吐いていた。なぜなら私たちは屈辱感と自分を駆りたてる不潔な衝動に身を任せる必要があったし、自尊心を忘れるために、汚らしい仲間にまじって、堂々と安酒場の中に入っていく男になるという欲求を抑えることができなかったからだ。だから、いま、私たちの肩に哀れな顔を押しつけて泣いている男をほどほどに慰めながら、やり場のない嫌悪感におそわれて不機嫌に唾を吐いているのだ。
ブリキ張りのべたべたしたカウンターの前の太った女は、情夫の膝の上でまどろんでいる。
おお、このところ選ばずつきまとう憂鬱よ! おまえはこんな安酒場に入るときと同様に、上流のサロンにもついてくる。そして孤独な夜と同様に、泥酔の夜にもおまえは生まれ出る。おまえのとりこになった男たちは、みんなが手のひらに頭をかかえてため息をつく。
「酒が高くなるぞ」どろんとした、うつろな表情の向かいの男が話しかけてくる。その顔には群集に崇めたてまつられる偶像の生気のない、正体不明の醜悪さがやどっていた。
「酒が高くなるぞ」
「ビールも高くなる」丸々と太った中世の工兵隊員のようなふてぶてしい風貌のボクスタフルがぼそりと言った。
「それに情熱だって高くなる。勇気も高くなる。おれたちは酔っ払わないかぎり原理も情熱ももつことはできん。だからおれは酔ってもいないくせに確信をもってるやつの気がしれん」
「アルコールが高くなる」悲しみに息づまりながら黄色の肌のフニクが言った。「そうなると子供が出来にくくなる。なぜなら酒が高くなるから、おれたちはもはやこんなに酔うことは金輪際なくなるだろう。そうなるとおれたちのやせ細った女房どもは、おれたちをその気にさせるほど美しくは見えなくなる。だから子供が出来にくくなるのだ」
「酒は高くなる」見知らぬ偶像が昔を懐かしむようにささやいた。
「おれは絵葉書に色をつけている」熱に浮かされたように若い肺病やみが私たちに言った。「七日目に酒が飲めるために、六日間は夜中まで働いている。今度、酒が高くなるとしたら、飲み代を稼ぐために七日目も色つけをして働かなきゃならん。ところが、そうなったら、飲むときがなくなってしまう、わかるかい?」
「そいつはすばらしいことだよ」私たちの肩に顔をつけた隣人がすすり上げながら言った。「おれが酔っ払ったときは、いつも、おれのそばに蜘蛛が寝るんだ。だからおれは蜘蛛が大好きさ――」
「毒蛇が人間を噛むのなら」またフニクが話しかけた。「人間は酒を飲まなきゃならん。それで、苦痛が人間を噛むとしたら、そのときだって人間は酒を飲まなきゃならん。ところが、いまや、貧乏人はもう苦痛さえもてなくなる。苦痛を癒すには酒が要る。その酒が貧乏人の手には届かなくなるんだからな」
「酒が高くなる」荒くれ男のメドゥナが不意に言葉を発した。「だがな、オレたちの女房に乳が出なくなったら、いま赤ん坊どもが朝晩飲んでいるようにガキどもを養っていくにゃどうすりゃいいんだ?」
「酒が高くなる」くたびれた偶像が悲しみを極度につのらせて三度目の声を発した。
「わたしは、ピエティオキーと言います」古いフロックコートを着たのっぽの男が親しげに自己紹介をした。「で、わたしは資金をおもちの共同経営者を探しておるんですわ。シベリアからアマニティという茸を輸入しようと思っておるのです」
「サモエード族は」ピエティオキーは私たちのグラスを飲みほしながら話を続けた。「サモエード族はこの毒茸の北方種を集めています。これらの茸をせんじた液は強力な酩酊作用を発揮しますので、彼らはそれを飲んでいるのです。そして、やがて彼らの尿はいぜんとして酩酊作用を保持しており、彼らは酔うためにそれを飲むのです。そして彼らの尿はいま一度酩酊作用を発揮し、今度は自分の妻に飲ませます。しかし女性の尿はその後でも十分な効力をもち、子供たちに飲ませます。わたしはこの茸の輸入の実現をはかりたいのです。ですから金満家の協力者を探しているのです。利益は手中にあるようなものです」
ピエティオキーは話をしながら、テーブルの上にチョークで自分の住所を書いた。
私たちの隣人は絶え間なく泣いて、感謝を込めて私たちの肩を愛撫していた。
こういった男は――私たちは感傷的な気分で考えていた――こういった男は酔えば泣けるから、ただそれだけのために飲んでいるのだ。正気の日々の六種類の重苦に耐えるのは、やがて涙と悲しみの快楽を心ゆくまで味わうために、自分の感情と自分の無意識の苦痛にひたるため、また、自分のなかに見捨てられた天使か、購われざる悪魔かを感じるために、とことん人生を生き、空想を得るためになのだ。
ほら見ろ――私たちはさらに語りつづけていた――まるでより強力な夢か幻をここで買っているかのようじゃないか。いずれにしろ、現実はあまりにも高価だ。しかし、いまや、夢、まぼろしもまた現実と同じくらい高価になった。それどころか、現実よりももっと高くなった。
二度のキスのあいだに カレル・チャペック作
ある裕福な企業家が若くて美しい娘と結婚した。しかし彼女は結婚してまもなく、幼い女の子ヘレナを残して死んだ。ヘレナは何年かの後に気性の激しい、頑固な娘に育った。それというのも、彼女の性格は母性的なやさしさに触れて、そのやさしさを知ることがなかったからだ。だから彼女は生涯、手におえない、かたくなな女として成長した。彼女は言い寄ってくるあらゆる求婚者たちを退けた。彼らは何とかして彼女の気を引こうとしたが、そんなものには目もくれず、耳を貸そうとさえしなかった。そんなわけで彼女はいかにも気位の高い、冷淡な、色恋沙汰など、はなっから問題にもしていないというふうに見えた。
このころ父親の使用人のなかにヤクプという名の一風変わった若者がいた。彼はヘレナにすっかり恋をしてしまった。ヘレナは彼の愛を知らなかった。なぜなら彼女は自分の周囲から完全に孤立してお高くとまっていたからだ。そのあげく彼の愛は彼を抜き差しならないところまで追い込み、懊悩と煩悶の日々をおくるまでになった。
しかしヘレナは自分に恋など無縁なものだと思っていた。それでもどうしようもなく気が滅入ったときなど彼女の心臓はどきどきと鳴り、気持ちもいらいらしてくる。そんなとき、彼女のまなざしはひそかに、挑発的にヤクプの上に釘づけになるのだった。その目はきらきらと輝き、ヤクプをどぎまぎさせた。 だがヘレナは、使用人のヤクプのことなど考えまいと必死に自分の昂ぶる気持ちを抑えるのだった。
つまり、このような気遣いは恋のはじまりを意味する。そしてその恋は孤独と自尊心のなかで成長していき、ついにはヘレナのかたくなな性格にもかかわらず、もはや耐えられないほどにまでになり、夢と涙のあいだを|往来(ゆきき)さまようということになった。ヘレナは愛と決断がはっきり自覚できたような気がした。
こうして二人の仲が進展していった。つまり、最初の喜びのとき、頬を染める、それとない出会い、目と目が合う、そして目配せ、そんな喜びの体験を、はじめて、そして体中で実感した。
すれ違いざまの手と手の触れ合い、小さな紙切れに書かれた手紙の交換。困惑のなかから思わず出てきた近しい者同士にだけ許される「あんた」「おまえ」の呼び交わし。会いたくて居ても立ってもいられない気持ち。そして、やっとはじめての二人だけの出会い。男の腕のなかに飛び込む、それからキスと愛の告白。そしてそのなかにひたりきる二人。こんなキスだけでは満ち足りるはずはない。情熱のほとばしり以外に言う言葉を知らない。しかし、やがて分別を強いられる。もっときちんと話し合わなければ、これからの自分たちの愛と、その可能性について。
しかし、まもなく、あれほど用心ぶかく、気を配っていたにもかかわらず、一晩中一緒にいたことがもれて、みんなに知られてしまった。それというのも、途切れることのない時間の流れのような快楽の持続のなかでヘレナは永遠の愛をヤクプに誓っていたからだ。
やがて、ある日のこと、ヘレナはヤクプの腕のなかに抱かれているところを父親に目撃されてしまった。ヤクプはそのせいでヘレナとのあいだを引き裂かれ追放されるはめになった。しばらくしてヘレナは自分が母親になったのに気がついた。父親は即刻、知り合いの、やくざで、品性下劣な小人物にヘレナを嫁がせた。それから間もなくヤクプの子供の女の子が生まれた。
そのときから、夫はひどく残酷にヘレナを責め苛み、そうすることにこの上もない快感を覚えるようになった。こうしてヘレナは恐ろしい苦痛を耐えながら、心身ともに干からびていった。これらの事情のすべてを聞き及んだヤクプは、路上でヘレナの夫をこっぴどい目にあわせた。おかげで、もともと病弱だったこの男は恐怖とヤクプから受けた打撲傷がもとで死んでしまった。
ヤクプは裁判にかけられ、五年の禁固刑を受けた。ヘレナは娘を連れてどこか遠くの地に移り住んだ。その土地でヘレナは未亡人として喪服に身を固めてすごした。土地の人は彼女の美貌にほれ込んで言い寄ってくる男たちをすべてはねつける、その冷静な態度と身持ちの固さにたいして賞賛を惜しまなかった。
一方、ヤクプは五年を監獄のなかで過ごしたが、その五年間というもの、ヘレナが自分を待っていてくれているだろうかというのが唯一の不安で、そのことを絶えず頭のなかに思いめぐらせながら日々の生活をおくっていた。そんな気がかりのせいでヤクプはひどく気持ちが落ち込む。それを見て周囲の誰もが彼の愚直さにあきれ返っていた。
ヤクプはこの五年間のあいだに、すっかり生来の陽気さを失い、顔色まで蒼白くなった。なぜなら、真っ暗闇の中でも、いつも目を覚ましていたからだ。そして五年の後、監獄から出ると、すぐにヘレナを探しにいったが、どこにも彼女を見つけることができなかった。それというのも、ヘレナがどこへ引っ越していったか誰一人として知っている者はいなかったからだ。
そのころへレナは幼い娘といっしょに生活していたが、彼女は娘にたいして意地悪で、厳しかった。彼女の頭のなかにも、心のなかにも、誰かの消息を知りたいという意欲はまったくなかった。そしてある日のこと、ヤクプは一軒の家にたどりつき、その家のバルコニーの上にヘレナを見つけたのだ。しかし彼は道端の縁石の上に腰をおろして、あえて家のなかへ入ろうとはしなかった。なぜなら、頭は服役中に丸坊主にされていたし、健康も害して肌は黄色くなっていたからだ。それに何より彼はいま乞食のように汚い身なりをしていた。この道を通る町の人たちは、怖がって、小銭さえ恵んだりした。
一週間のあいだ彼はこんなふうにして道端にすわっていたが、ついに決心をしてその家のなかに入っていった。しかし家の女主人は彼のことをまったく覚えていなかった。だからヘレナは彼を追い出して、けっしてその男には何も与えてはいけないとみんなに申しわたした。そこで彼は大声で叫んだ。
「わたしは、以前、ヤクプと言っていたんだ」
そこでヘレナは彼に椅子にすわるようにと言った。そして何の用事かとたずねた。しかし、そう問うときの彼女の目は、ヤクプには耐えがたい、心底、胸が痛むようなそんな冷やかさだった。彼は一言も口を利くことができなかった。ちょうどそのとき、部屋のなかに彼の娘が入ってきた。しかしヘレナは娘をぶつと、部屋の外に追い出した。
そのときヤクプは目をうつむけて、自分のぼろ服、自分のみじめな姿を見た。そして心のなかで思った。ヘレナはオレの哀れな姿を見て、オレが罪人か乞食に成り果てたと思って驚いたんだ。一方、彼女は誇り高い未亡人としてこのあたりでは通っている。そこでヤクプは一言も話すこともできずに、愛と悲しみに胸ふたぐ思いをいだきつつ――なぜなら、彼にはヘレナ以外に愛する者はいなかったから――彼女のもとから去った。
こうしてヘレナはその後もいかなる思いも念頭に浮かべることも、何かの衝動に心を動かされるということもない日々を送った。その一方で、ヤクプは富と、名声と地位を得て、ヘレナの前に対等の人間として立つことができるように、遠く離れた町へ出かけていった。みんなはこの男の固い意志とエネルギッシュな仕事ぶりに目を見張った。しかし彼の頭のなかには何としてもはやく富を得て、ヘレナのもとへもどりたいという思いしかなかった。
こうして四年の後にヤクプはヘレナのもとへもどった。ヤクプはすばらしくきらびやかな馬車に乗ってやってきたので、ヘレナの召使たちは全員がドアの前に立って、頭を低くさげて迎え入れたほどだった。ヤクプはそんなものには目もくれず、入口の階段を急ぎ足にあがると、まっしぐらにヘレナのもとへ駆けていった。しかし、彼女は彼が誰だか見当もつかないというふうだった。
「ぼくだよ、ヤクプだよ」と言うと、ヘレナは彼に言った。
「何の御用でしょう?」
ヤクプは喉がしめつけられるような思いがして口もきけなかった。そのときヘレナの娘が母親のほうに近づいてきた。ヤクプは彼女に微笑んだ。しかしそのとたん彼の目から涙があふれ出た。思えばヘレナと最初のキスを交わしてからもう十年の歳月が流れ去っているのだ。だからヤクプはヘレナにかつての二人の愛の記憶をよみがえらせるようにしなければならないと考えた。彼は二人のデートのこと、二人だけの秘密、二人だけが知っている身体的な特徴などを語り、家や庭のこと、一日一日とすぎていったあの日々のこと、その日々のなかでどんな言葉を交わし、どんなことをしたか、そして二人がどんな喜びのなかですごしたか、そのすべてを描写した。
それからやがてヤクプは五年間の刑務所での生活がどんなだったか、いかに侮蔑と屈辱のなかで働かなければならなかったか、どれほどヘレナを待ちこがれたか、そして思い出していたかを語り、ことこまやかにそのときの苦しみ、孤独、愛、不安を物語った。そのとき彼の頬に皺が深く刻まれているのが見えた。
しかしヘレナはかたくなに自分のなかに閉じこもり何の反応も示さなかった。ヤクプは、その後、ヘレナを求めて、どれほどあちこちと広い世間を探しまわったか、そして最後にやっと探し当てたものの、とても話しかけることができなかったこと、そのあとで自分がヘレナのために金持ちになり、名声を得ようと決意をかためたこと、そしてそれを成し遂げたこと、どれほどのお金をもち、どれほど多くの尊敬を得ているかを語った。しかし、語れば語るほどヘレナの存在は遠のき、実体のない影だけの存在になっていくような気がしてきた。
そこでヤクプは言った。ぼくたちは自分たちの娘をいっしょに育てるべきだよ、あの子が父親と母親をもてるようにと。「あたし、あの子、きらいよ」とヘレナは言った。その言葉を聞いて、ヤクプはひどく悲しくなった。だって、自分とヘレナとのあいだには共通するものが何もなく、永久に二人は切りはなされてしまったことがわかったからだ。彼女の心は死んでいる。だから愛情が必要なのだ。愛がなければ彼女の心を目覚めさせることはできない。ヤクプにはそう思われた。そこでヤクプはもっている財産をすべて売り払って、ヘレナの近くに居をかまえ、毎日、彼女を訪問した。彼は涙なしには自分のことも彼女のことも、あるいは二人にとって身近なことなど話すことができなかったから、日々過ぎ行く世俗的生活を超越した、きわめて普遍的な人間の問題について語った。人々は彼を哲学者と思って、尊敬した。
しかし、このような生活が数年間続くうちに、ヤクプはヘレナのことを忘れるために世界の果てにまで行ってしまったほうがいいのではないかと考えるようになった。最後の晩、彼女を訪ねたが、何かについて語るというのでもなかった。ただ、ヘレナを笑わせようとして、わざと女性の言葉でしゃべったり、ひょうきんなことを言ったりしたが、それでもヘレナは無関心、無表情のままだった。やがてヤクプは立ちあがって言った。
「じゃあ、さようなら」
ヤクプは階段を降りていった。しかし階段の最後のところで、突然、心臓にひどい痛みを覚えた。彼は、叫び声をあげて、また階段を駆けのぼり、ヘレナのところへもどってきた。そしてヘレナを両腕で抱き寄せた。ヘレナは恐ろしい力で抵抗した。ヤクプにはなす術もなかった。それでも身を守ろうとする強い力にたいして、長時間、真っ暗闇のなかで争っていたよう気がした。やがてヤクプは頭に血がのぼり、何をしているのかわからなくなった。それからしばらくして、ふと気がつくと彼女が彼の首に両腕を巻きつけて、彼に激しいキスをあびせている最中だった。それはあくことを知らぬ貪欲な、激しいキスだった。だから彼は二十年前と同じように彼女を腕に抱き、キスと愛の誓いの応酬をつづけた。
すると突然二十年間という長い年月が消え去り、ヘレナは彼の腕のなかに憩うていた。キスとキスのあいだにヤクプのことを「あんた」と呼び、恥ずかしさと|初心(うぶ)さを見せながら震えていた。彼女は体ごと、心ごとヤクプに身をゆだねた。拒み、息も絶え絶えになりながら、懇願し、笑った。こんなキスにもう沢山ということはない。快楽の財宝に尽きることもない。時間もまた彼らの抱擁を引き裂こうともせず、時間の流れが彼らの幸福を損なうこともなかった。無窮の時間の持続さえもが彼らの至福の愛を色あせさせなかった。
朝が来たとき、ヘレナはヤクプの腕のなかに眠っていた。やがてヤクプは過ぎ去った日々のことを思い返しはじめた。屈辱と忍従のなかで働かなければならなかった監獄での無駄な五年間。その後、裕福になり、財産も得た。名声も地位も得たがそれもむなしかった。苦労したおかげで、年とともに人よりも分別もつき、哲学者のように人に教え諭し、尊敬もされた・・・・・・が、それもむなしいことだった。なぜなら、すべては二度のキスのあいだに流れ去った空疎な時間、二人の恋人のあいだの不毛の一瞬でしかなかったからだ。
「二度のキスのあいだに人間はどんなに多くのことを体験するんだろう」
ヤクプの思いが声になってもれた。すると、そのときヘレナは、彼がここにいるのが不思議だといわんばかりにその美しい目をヤクプに向けた。ヤクプもまた彼女にキスをして言った。
「ヘレナ、昨夜、君は君のお父さんの家で、ぼくの腕のなかで眠っていたんだよ。夢も見ずに、意識もなくぐっすりと。君は二度のキスのあいだの時を、夢も見ずに眠り通してきたのだね」
ヘレナは蒼い顔をしていた。そしてささやいた。
「人間は二度のキスのあいだに沢山のことを耐え忍んでいるのよ!」
そしてヤクプは、自分が老いたこと、死が近いことを心のなかで感じていた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/05/20
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