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九代目團十郎の首

 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、國運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終ったわけである。彼は俳優という職業柄、明治文化の総和をその肉体で示していた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。明治文化という事からいえば、西園寺公の様な方にも同じ事がいえるけれど、肉体を素材とせらるる方でない上に、現代の教養があまねく深くその風丰(ふうぼう)に浸潤しているので、早く世を去って現代の風にあたる事なく終った團十郎よりは複雑である。團十郎はこの点純粋の明治の顔を持っていて、女でいえば洗髪のおつまのような其の世代の標式といえるのである。五代目菊五郎についても素より團十郎と同じ事が言えるわけであるが、菊五郎の方は余りに多く俳優であり過ぎて、その現われ方がむしろ旧幕の延長として意味があり、当代の文化一般を肉体化していたような趣のある包摂的な團十郎に比べるといささか世代の標式とはなし難い。

 私は今、かねての念願を果そうとして團十郎の首を彫刻している。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたっていた。私の脳裡には(はや)くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取ってしまっていた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。私のもまだ駄目だが、世上に幾つかある團十郎像という記念像もみな物になっていない。浅草公園の「暫」はまるで披け殼のように硬ばって居り、歌舞伎座にある胸像は似ても似つかぬ腑ぬけの他人であり、昭和十一年の文展で見たものは、浅はかな、力み返った、およそ團十郎とは遠い藝術感のものであった。其他演劇博物館にある石膏の首は幼穉(ようち)で話にならない。ラグーザの作というのはまだ見ないでいる。團十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根といわれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらいおっとりしている。その間ぬけさがたちまち潑刺(はつらつ)と生きて来て晩年の偉大を成している。一切の秀れた技巧を包蔵している大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。彼の第一の特色はその大きさにある。いかにも國運興隆の大きさである。彼の実際の身の丈けは今の吉右衛門よりも小さい。五代目菊五郎と並んだ写真では菊五郎の方がわずかに背が高い。その短軀(たんく)が舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず()せても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血統から、荒事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。

 團十郎の顔はぽかりと大きい。その一つ一つがゆったり出来ていて、此は(くま)取られるために生みつけられた特別製の素材であった。其上に舞台上の修練によるあらゆる顔面筋の自由な発達があった。すべてが分厚で、生きていて、円融無礙(えんゆうむげ)であった。

 團十郎の顔は全体には面長である。横から見ると、後頭よりも顔面の方が勝っている。正面から見るとやや鉢開きの形をしていて頰が何処までも長く、滝のようにつづいている。前額の高いのを除いてはこれといって目立つ急な突起は無い。顴骨(かんこつ)も出ていない。下顎(したあご)にも癖がない。その幅のある瓜実顔の両側に大きな耳朶(みみたぶ)が少し位置高く開いている。おだやかな眉弓の下にある両眼は、所謂(いわゆる)「目玉の成田屋」ときく通り、驚くべき活殺自在の運動を()った二重瞼の巨眼であって、両眼は離れずにむしろ近寄っている。眼輪匝筋(がんりんそうきん)は豊かに肥え、上眼瞼は美しく盛り上って眼瞼軟骨の発達を思わせる。眼瞼の遊離縁も分厚く、内眥外眥(ないしがいし)の釣合は上りもせず下りも為ない。そして涙湖、涙阜(るいふ)が異様な魅力を以て光っている。下眼瞼の下に厚い脂肪層が一度陰影を作り、それから直ぐ鼻翼の上の強いアクサンとなる。此の目玉に隈を入れて舞台で彼が見得を切る時、らんらんと言おうかえんえんと言おうか、又城外の由良之助のように奥深くじっと見つめる時、それは世紀の奥を貫く眼だ。鼻梁(びりょう)は太く長いが、別に高くはない。高過ぎて下品になる鼻ではない。むしろなだらかで地道である。顴骨から鼻の両側に流れる微妙な肉、そして更に下顎に及ぶ間延びのした大顴骨筋とそれを被う脂肪と、その間を縫うこまやかな深層筋の動きとは彼の顔に幽遠の気を与え、渋味を与え、或時は悽愴(せいそう)直視し難いものを与える。團十郎は鼻下長である。彼の長い鼻下と大きな口裂と厚い唇とはあらゆる舞台面上工作の根拠地である。彼の口辺の筋肉の変化と強い頤唇溝の語るところは筆で書けない。此所は造型上でも一番手こずる難所である。とにかく清正の(ひげ)は此所に楽に生え、長兵衛の決意は此所でぐっ

ときまり、鷺娘(さぎむすめ)の超現実性も此所からほのぼのと立ちのぼるのである。そしてあのムネ スウリも及ばないめりはり

が此所から出るのである。滝壺のようにとどろく声が生れるのである。團十郎の首はまだ出来ない。

 

 

高村光太郎記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/05/11

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高村 光太郎

タカムラ コウタロウ
たかむら こうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。

掲載作は1938(昭和13)年5月に「知性」に掲載された。愛妻の智恵子が亡くなる5ヶ月前である。智恵子が亡くなったとき、制作中だった塑像「團十郎の首」は乾いて、ひび割れがしていたという。この文章を読むと、高村光太郎は天性の彫刻家だったことが改めて痛感される。彫刻家の視線と詩人の視線とが奥深いところで密接に協調していることがうかがえるからである。高村光太郎はそういう濃密な視線で九代目市川團十郎の顔を凝視することで「明治の劇聖」と言われた稀代の役者を論じ、藝を論じて緩怠が少しも無い。掲載に当たっては、「昭和文学全集(第4巻)」(小学館刊)に拠った。電子文藝館は高村光太郎の「『わが詩をよみて、人死に就けり』ほか」「暗愚小伝」を掲載している。