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暗愚小伝

目次

「典型」序

 これらの詩は昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の詩は含まない。終戦直後に花巻町で書いたものや、ここに来てから書いたものでも、その頃の感情の余燼(よじん)の残っているものははぶいた。それらのものは、いわば戦時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。

 ここに来てから、私は専ら自己の感情の整理に努め、又自己そのものの正体の形成素因を窮明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史を或る一面の致命点摘発によって追及した。この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにいられなかった。そして今自分が或る転轍(てんてつ)の一段階にたどりついていることに気づいて、この五年間のみのり少なかった一連の詩作をまとめて置こうと思うに至った次第である。

 これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによって自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆って詩を書かせるであろう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によって私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない。

 「暗愚小伝」

  家

   土下座(憲法発布)

誰かの背なかにおぶさつてゐた。

上野の山は人で埋まり、

そのあたまの上から私は見た。

人払をしたまんなかの雪道に

騎兵が二列に進んでくるのを。

誰かは私をおぶつたまま、

人波をこじあけて一番前へ無理に出た。

私は下におろされた。

みんな土下座をするのである。

騎馬巡査の馬の蹄が、

あたまの前で雪を蹴つた。

箱馬車がいくつか通り、

少しおいて、

錦の御旗を立てた騎兵が見え、

そのあとの馬車に

人の姿が二人見えた。

私のあたまはその時、

誰かの手につよく押へつけられた。

雪にぬれた砂利のにほひがした。

――眼がつぶれるぞ――

   ちよんまげ

おぢいさんはちよんまげを切つた。

――旧弊々々と二言目にはいやがるが、

まげまで切りたかあねえんだ、ほんたあ。

床屋の勝の野郎がいふのを聞きやあ、

文明開化のざんぎりになつてしまへと、

禁廷さまがおつしやるんだ。

官員やおまはりなんぞに

何をいはれたつてびくともしねえが、

禁廷さまがおつしやるんだと聞いちやあ、

おれもかぶとをぬいだ。

公方さまは番頭で、

禁廷さまは日本の総本締だ。

そのお声がかりだとすりや、なあ。

いめえましいから、

勝の野郎が大事(でいじ)さうに切つたまげなんぞ

おつぽり出してけえつてきた。――

   郡司大尉

郡司大尉の報効義会のお話を

受持の加藤先生が、教室でされた。

隅田川から出発した幾艘かのボートが

つい先日金華山沖で難破した話である。

ボートで千島の果までゆかうとする

その悲壮な決行のなりゆきを

加藤先生は泣いて話した。

生徒もみんな泣いてきいた。

下谷小学の卒業生が遭難者の中に

一人まじつてゐるといふことが

下谷小学の生徒を興奮させた。

身を捧げるといふことの

どんなに貴いことであるかを、

先生はそのあとでこんこんと説いた。

みんな胸をふくらませてそれをきいた

   日清戦争

おぢいさんは拳固を二つこしらへて

鼻のあたまに重ねてみせた。

――これさまにちげえねえ。――

原田重吉玄武門破りの話である。

――古峯(こぶ)(はら)のこれさまが

夜でも昼でも往つたり来たり、

みんな禁廷さまのおためだ。

ありがてえな、光公(みつこう)。――

わたしはいつでも夜になると、

そつと聞耳を立てて身ぶるひした。

たしかに屋根の上の方に音がする。

羽ばたきの音が

   御前彫刻

父はいつになく緊張して

仕事場をきれいにして印材を彫つた。

またたくまに彫り上げてみんなに見せ、

子供の私にも見せてくれた。

本桜(ほんざくら)の見ごとな印材のつまみに

一刀彫の鹿が彫つてあつた。

あした協会にお成りがあるので

御前彫刻を仰せつかつたと父はいふ。

その下稽古に彫つたのだ。

父は風呂にはいつてからだを浄め、

そのあした切火をきつて家を出た。

天子さまに直々(ぢきぢき)ごらんに入れるのだよ。

もつたいないね。

――どうか粗相のございませんやうに。――

母はさういつて仏壇を拝んだ。

子供のわたしは日がくれても

まだ父が帰らないのでやきもきした。

おかへりといふ車夫の声に

私は玄関に飛んで出た

   建艦費

日清戦争は終つても

戦争意識はますますあがつた。

次の戦争に備へるために

軍艦を造る費用を捻出するのだ。

陛下が一ばんさきに大金を下され、

官吏は向う幾年間か、

俸給の幾分かを差引かれた。

父はその事を夜の茶の間で

母や私にくはしく話した。

遼東還附とかいふことで

天子さまがひどく御心配遊ばされると、

父はしんから心おそれた。

――だからこれから(みつ)も無駄をするな。

いいか。――

   楠公銅像

――まづ無事にすんだ。――

父はさういつたきりだつた。

楠公銅像の木型(きがた)を見せよといふ

陛下の御言葉が伝へられて、

美術学校は大騒ぎした。

万端の支度をととのへて

木型はほぐされ運搬され、

二重橋内に組み立てられた。

父はその主任である。

陛下はつかつかと庭に出られ、

木型のまはりをまはられた。

かぶとの鍬形の剣の(くさび)が一本、

打ち忘れられてゐた為に、

風のふくたび剣がゆれる。

もしそれが落ちたら切腹と

父は決心してゐたとあとできいた。

茶の間の火鉢の前でなんとなく

多きを語らなかつた父の顔に、

安心の喜びばかりでない

浮かないもののあつたのは、

その九死一生の思が残つてゐたのだ。

父は命をささげてゐるのだ。

人知れず私はあとで涙を流した

  転調

   彫刻一途

日本膨脹悲劇の最初の飴、

日露戦争に私は(うと)かつた。

ただ旅順口の悲惨な話と、

日本海海戦の号外と、

小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、

そのくらゐがあたまに残つた。

私は二十歳をこえて研究科に居り、

夜となく昼となく心をつくして

彫刻修業に夢中であつた。

まつたく世間を知らぬ壺中の天地に

ただ彫刻の真がつかみたかつた。

父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。

職人以上のものが知りたかつた。

まつくらなまはりの中で手さぐりに

世界の彫刻をさがしあるいた。

いつのことだか忘れたが、

私と話すつもりで来た啄木も、

彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに

すつかりあきらめて帰つていつた。

日露戦争の勝敗よりも

ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた

   パリ

私はパリで大人になつた。

はじめて異性に触れたのもパリ。

はじめて魂の解放を得たのもパリ。

パリは珍しくもないやうな顔をして

人類のどんな種属をもうけ入れる。

思考のどんな系譜をも拒まない。

美のどんな異質をも枯らさない。

良も不良も新も旧も低いも高いも、

凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、

必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。

パリの魅力は人をつかむ。

人はパリで息がつける。

近代はパリで起り、

美はパリで醇熟し萌芽し、

頭脳の新細胞はパリで生れる。

フランスがフランスを超えて存在する

この底無しの世界の都の一隅にゐて、

私は時に国籍を忘れた。

故郷は遠く小さくけちくさく、

うるさい田舎のやうだつた。

私はパリではじめて彫刻を悟り、

詩の真実に開眼され、

そこの庶民の一人一人に

文化のいはれを見てとつた。

悲しい思で是非もなく、

比べやうもない落差を感じた。

日本の事物国柄の一切を

なつかしみながら否定した

  反 逆

   親不孝

狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。

フジヤマは美しかつたが小さかつた。

むやみに喜ぶ父と母とを前にして

私は心であやまつた。

あれほど親思ひといはれた奴の頭の中に

今何があるかをごぞんじない。

私が親不孝になることは

人間の名に於て已むを得ない。

私は一個の人間として生きようとする。

一切が人間をゆるさぬこの国では、

それは反逆に外ならない。

父や母のたのしく待つた家庭の夢は

いちばんさきに破れるだらう。

どんなことになつてゆくか、

自分にもわからない。

良風美俗にはづれるだけは確である。

――あんな顔してねてるよ。――

母は私の枕もとで小さくささやく。

かういふ恩愛を私はこれからどうしよう

   デカダン

彫刻油画詩歌文章、

やればやるほど(すね)をかじる。

銅像運動もおことわり。

学校教師もおことわり。

縁談見合もおことわり。

それぢやどうすればいいのさ。

あの子にも困つたものだと、

親類中でさわいでゐますよ。

鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら

私はどこ吹く風かといふやうに酔つてゐる。

酔つてゐるやうにのんでゐる。

まつたく行くべきところが無い。

デカダンと人は言つて興がるが

こんな痛い良心の眼ざめを曾て知らない。

遅まきの青春がやつてきて

私はますます深みに落ちる。

意識しながらずり落ちる。

力トリツクに縁があつたら

きつとクルスにすがつてゐたらう。

クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に

奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた

  蟄 居

   美に生きる

一人の女性の愛に清められて

私はやつと自己を得た。

言はうやうなき窮乏をつづけながら

私はもう一度美の世界にとびこんだ。

生来の離群性は

私を個の鍛冶に専念せしめて、

世上の葛藤にうとからしめた。

政治も経済も社会運動そのものさへも、

影のやうにしか見えなかつた。

智恵子と私とただ二人で

人に知られぬ生活を戦ひつつ

都会のまんなかに蟄居した。

二人で築いた夢のかずかずは

みんな内の世界のものばかり。

検討するのも内部生命

蓄積するのも内部財宝。

私は美の強い腕に誘導せられて

ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた

   おそろしい空虚

母はとうに死んでゐた。

東郷元帥と前後して

まさかと思つた父も死んだ。

智恵子の狂気はさかんになり、

七年病んで智恵子が死んだ。

私は精根をつかひ果し、

がらんどうな月日の流の中に、

死んだ智恵子をうつつに求めた。

智恵子が私の支柱であり、

智恵子が私のジヤイロであつたことが

死んでみるとはつきりした。

智恵子の個体が消えてなくなり、

智恵子が普遍の存在となつて

いつでもそこに居るにはゐるが、

もう手でつかめず声もきかない。

肉体こそ真である。

私はひとりアトリエにゐて、

裏打の無い唐紙のやうに

いつ破れるか知れない気がした。

いつでもからだのどこかにほら穴があり、

精神のバランスに無理があつた。

私は斗酒なほ辞せずであるが、

空虚をうづめる酒はない。

妙にふらふら巷をあるき、

乞はれるままに本を編んだり、

変な方角の詩を書いたり、

アメリカ屋のトンカツを発見したり、

十銭の甘らつきようをかじつたり、

隠亡と遊んだりした

  二律背反

   協力会議

協力会議といふものができて

民意を上通するといふ。

かねて尊敬してゐた人が来て

或夜国情の非をつぶさに語り、

私に委員になれといふ、

だしぬけを驚いてゐる世代でない。

民意が上通できるなら、

上通したいことは山ほどある。

結局私は委員になつた。

一旦まはりはじめると

歯車全部はいやでも動く。

一人一人の持つてきた

民意は果して上通されるか。

一種異様な重圧が

かへつて上からのしかかる。

協力会議は一方的な

或る意志による機関となつた。

会議場の五階から

霊廟(モオゾレエ)のやうな議事堂が見えた。

霊廟のやうな議事堂と書いた詩は

赤く消されて新聞社からかへつてきた。

会議の空気は窒息的で、

私の中にゐる猛獣は

官僚くささに中毒し、

夜毎に曠野を望んで吼えた

   真珠湾の日

宣戦布告よりもさきに聞いたのは

ハワイ辺で戦があつたといふことだ。

つひに太平洋で戦ふのだ。

詔勅をきいて身ぶるひした。

この容易ならぬ瞬間に

私の頭脳はランビキ(1)にかけられ、

咋日は遠い昔となり、

遠い昔が今となつた。

天皇あやふし。

ただこの一語が

私の一切を決定した。

子供の時のおぢいさんが、

父が母がそこに居た。

少年の日の家の雲霧が

部屋一ぱいに立ちこめた。

私の耳は祖先の声でみたされ、

陛下が、陛下がと

あえぐ意識は(めくるめ)いた。

身をすてるほか今はない。

陛下をまもらう。

詩をすてて詩を書かう。

記録を書かう。

同胞の荒廃を出来れば防がう。

私はその夜木星の大きく光る駒込台で

ただしんけんにさう思ひつめた

編輯室註
  1. (1)蘭引=蒸留器。

   ロマン ロラン

ひとりアトリエの隅にゐて

深くしづかに息をつくと、

ひろい大きな世界のこころが

涙のやうに私をぬらした。

やさしい強いあたたかい手が

私の肩にやんはり置かれた。

眼をあげるとロマン ロランが

額ぶちの中に今も居る。

ロマン ロランの友の会。

それは人間の愛と尊重と

魂の自由と高さとを学ぶ

友だち同志の集りだつた。

ロマン ロランは言ふやうだ。

――パトリオチスム(1)の本質を

君はまだ本気に考へないのか。

あれ程ものを読んでゐて、

君にはまだヴエリテ(2)が見えないのか。

ペルメル(3)の上に居られないのか。

今のまじめなやうな君よりも

むしろ無頼の昔の君を愛する。――

さういふ時に鳴るサイレンは

たちまち私を宮城の方角に向けた。

本能のやうにその力は強かつた。

私には二いろの詩が生れた。

一いろは印刷され、

一いろは印刷されない。

どちらも私はむきに書いた。

暗愚の魂を自らあはれみながら

やつぱり私は記録をつづけた

編輯室註
  1. (1)仏語:愛国心
  2. (2)仏語:真実
  3. (3)仏語:混乱

   暗 愚

金がはいるときまつたやうに

夜が更けてから家を出た。

心にたまる膿のうづきに

メスを加へることの代りに

足は場末の酒場に向いた。

――お(とう)さん、これで日本は勝てますの。

――勝つさ。

――あたし昼間は徴用でせう。無理ばつか

し云はれるのよ。

——さうよ。なにしろ無理ね。

――おい隅のおやぢ。一ぱいいかう。

――歯ぎり屋(1)もつらいや。バイト(2)を買ひに

大阪行きだ、

――大きな声しちやだめよ。あれがやかま

しいから。

――お父さん、ほんとんとこ、これで勝つ

んかしら。

――勝つさ。

午前二時に私はかへる。

電信柱に自爆しながら。

編輯室註
  1. (1)歯車削りの旋盤工
  2. (2)旋盤用刃物

   終 戦

すつかりきれいにアトリエが焼けて、

私は奥州花巻に来た。

そこであのラヂオをきいた。

私は端坐してふるへてゐた。

日本はつひに赤裸となり、

人心は落ちて底をついた。

占領軍に飢餓を救はれ、

わづかに亡滅を免れてゐる。

その時天皇はみづから進んで、

われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。

日を重ねるに従つて、

私の眼からは(うつばり)が取れ、

いつのまにか六十年の重荷は消えた。

再びおぢいさんも父も母も

遠い涅槃(ねはん)の座にかへり、

私は大きく息をついた。

不思議なほどの脱却のあとに

ただ人たるの愛がある。

雨過天青の青磁いろが

廓然とした心ににほふ。

いま悠々たる無一物に

私は荒涼の美を満喫する

  炉 辺

   報 告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。

あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた

あの傍若無人のがさつな階級が

とにかく存在しないことになりました。

すつかり変つたといつても、

それは他力による変革で、

(日本の再教育と人はいひます。)

内からの爆発であなたのやうに、

あんないきいきした新しい世界を

命にかけてしんから望んだ、

さういふ自力で得たのでないことが

あなたの前では恥かしい。

あなたこそまことの自由を求めました。

求められない鉄の囲の中にゐて

あなたがあんなに求めたものは、

結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、

あなたの頭をこはしました。

あなたの苦しみを今こそ思ふ。

日本の形は変りましたが、

あの苦しみを持たないわれわれの変革を

あなたに報告するのはつらいことです。

   山 林

私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。

詩は自然に生れるし、

彫刻意慾はいよいよ燃えて

古来の大家と日毎に接する。

無理なあがきは為ようともせず、

しかし休まずじりじり進んで

歩み尽きたらその日が終りだ。

決して他の国でない日本の骨格が

山林には厳として在る。

世界に於けるわれらの国の存在理由も

この骨格に基くだらう。

囲炉裏にはイタヤの枝が燃えてゐる。

炭焼く人と酪農について今日も語つた。

五月雨はふりしきり、

田植のすんだ静かな部落に

カツコウが和音の点々をやつてゐる。

過去も遠く未来も遠い

 

 

高村光太郎記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/05/15

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高村 光太郎

タカムラ コウタロウ
たかむら こうたろう 詩人・彫刻家。1883(明治16)年~1956(昭和31)年。彫刻家・高村光雲の長男として生まれ、わが国の彫刻や詩に多大な功績を遺したが、太平洋戦争中は日本文学報国会の詩部会長に就任し、多くの戦争賛美詩を発表。戦後、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送った。初期の詩作品に見られるような人道主義的な立場を取りながらも、積極的に戦争に協力した背景には光太郎の強固な個人主義の限界を指摘する評者もある。

ここでは戦後の1947(昭和22)年に『展望』19号(筑摩書房刊)に発表した「暗愚小伝」の全文と、「暗愚小伝」の成立事情を語った1950(昭和25)年10月刊行の詩集『典型』(中央公論社刊)の「序」を掲載する。底本は主に2006(平成18)年、北川太一編『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(二玄社刊)に拠った。原文に従って「序」は新かな、「暗愚小伝」は旧かなとした。電子文藝館には高村光太郎の「『わが詩をよみて、人死に就けり』ほか」と「九代目團十郎の首」が掲載されている。藤井貞和「言葉と戦争」に所収されている論文「戦争責任論争と問題点」に、次のような文章がある。 戦争をあおりたてるような作品を書いたか、書かなかったかのレベルが問題なのではなく、作品一篇に内面の省察がどこまで深く遂げられているか、否か、ということが、たしかに、戦争責任論の核心であるにちがいない。だから、作品一篇に内省なくして、国家の詩を書きうる人は、戦後の人民の詩を書くこともできるのであって、そのようなよこすべり的文学状況が臆面もなく横行してゆくところにこそ、文学的近代の弱点が露呈されている。ひいては戦後責任の問題にほかならないのだ」。戦後、「暗愚小伝」を発表することで、高村光太郎は、己の戦争責任を踏まえて、真摯に「戦後責任」をとろうとしたのだろう。また、高村光太郎研究家の北川太一は、次のように書いている。「昂進すれば盲いた理性はむしろ狂気に類する。どうすれば、容易に陥りやすいその狂気を克服しうるのか。光太郎は自らの暗愚のみならず、富国強兵と立身出世を車の両輪として推し進めてきた『この特殊国の特殊な倫理』が、如何に人間性を埋没させ、へし折ってきたかについて、告発する。光太郎一人の問題でも、此の国のみの問題でもない。歴史は螺旋を描いて変転する。半世紀を隔てて再び世界の人心は荒廃に瀕する。この詩群の暗示するものは、現に眼の前にある。ありうべき人間の生について、愛について、戦争について……。このかけがえのない人間の生の記録から読み取らねばならないことは、いまも限りない」。高村光太郎没後50年以上経った今、この国の、きな臭くなってきた風潮のなかで同じような暗愚を「繰り返してはならない」と先達から鞭を打たれているのは私たちではないのか。(編輯室)