パリ 映画とバレエに魅せられて
○ あこがれのオペラ座
バレエの殿堂オペラ座
オペラ座はパリの観光名所、パリには今もオペラ座が3つある。その中でパリのオペラ座の代名詞となっているのは、地下鉄オペラ駅を出るとそびえ立っている19世紀の末に完成したオペラ・ガルニエだ。あのミュージカルにもなった“オペラ座の怪人”が住んでいたとされる劇場だけに、どこかずっしりとして厳格な感じがする。石造りの重みときらびやかで豪華な金の装飾の建物は、20世紀のパリの中心にありながら、訪れる人を19世紀にタイムスリップさせてくれる。1860年の着工から完成まで15年がかかったというオペラ座。その間に設計者シャルル・ガルニエが死んだり、工事中に何人もの死者が出たといういわくつきの劇場だけに、怪人が住んでいるとさえ言われても仕方がないことだろう。
現代確立されているクラシック・バレエの元となる舞踊は、16世紀にはすでにイタリアで生まれていたとされるが、フランスに伝わったのは16世紀後半のこと。フィレンツェの名家メディチ家からアンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディチによって、イタリアのバレエ・コミックが伝わったとされている。
フランス最初のバレエ公演は、1581年ブルボン宮廷で開かれた宴会で催された「王妃のバレエ・コミック」。これはイタリアからやってきたバルタアザル・ド・ボジョワイユーが音楽と振付を担当した6時間にも及ぶバレエで、内容はジョワーズ公とルレーヌのプリンセス・マーガレットの婚約を祝ったもの。
その後アンリ4世の時代になると、バレエ作品が続々と創られていった。そして現代、私たちがクラシック・バレエと呼ぶものに近づいてきたのは、ルイ14世時代以降のこと。このルイ14世のバレエ好きは相当なものがあり、自分でも踊っていたという。このあたりのことはソフィー・マルソー主演の『女優マルキーズ』(1997 ヴェラ・ベルモン)にかなり史実に忠実に描かれている。ルイ14世の誕生日に踊り子マルキーズと王自身が仲良く手をつないで踊るシーンが出てくる。といってもこの時代の踊りは、固いコルセットを締めたままだったり、当然バレエシューズもない時代なので裸足であったり……。
そして1661年に王立舞踊学校、1669年にオペラ座バレエ学校が誕生した。さらにバレエの世界でもスターが生まれた。もちろんバレエだけでなく、演劇の世界ではモリエールやラシーヌが斬新な作品を生み出し続けた。舞台芸術が花咲いた時代だった。
ただ、この時代のバレエは歌舞伎や当時のフランス演劇と同じく、男性が女性の役も演じていた。オペラ座バレエ学校が女性を募集したのは1771年のことである。19 世紀に入るとパリ・オペラ座から今日も踊り継がれる数々の名作、そして女性スターが誕生したのは衆知のとおりである。
もちろんロシア・バレエも、歴史と伝統を誇りアンナ・パブロワやバスラフ・ニジンスキーなどの大スターを生んでいるが、ロシア・バレエを現代のように開花させたのはフランス・バレエの力が大きい。
18世紀に帝政ロシアでバレエ学校が誕生しているが、そこに指導者として招聘されたのはフランス人バレエ教師だった。彼の名はモーリス・プティパ。ロシア・バレエではクラシック・バレエの父と呼ばれている。彼は1818年3月13日にマルセイユに生まれた。父も兄もダンサーという家庭だった。1847年にドイツのシュツットガルトのバレエマスターの勧めもあって、1年契約でプリンシパルダンサーとしてマリンスキー劇場にやってきた。その後振付家として大成功、チャイコフスキー3大バレエ『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』『白鳥の湖』などを残した。
パリ・オペラ座は1669年に建設が許可され、1671年にこけら落としが行われた。その後バレエが行われた場所は、パレ・ロワイヤル広場に移った。
19世紀になると今日にも名前が残るバレエ作品、スターが生まれた。
1832年3月に初演された『ラ・シルフィード』を踊ったマリー・タリオーニは、オペラ座で初めてピンクのサテン地のシューズを履いて踊ったバレリーナである。
白いロマンティック・チュチュとトゥシューズ、オペラ座のテノール歌手アドルフ・ヌリが台本を書き、シュナイツホーファーが音楽を担当、マリーの父フィリポ・タリオーニが振付けた『ラ・シルフィード』は、バレリーナたちが競ってヨーロッパ中で成功を収めただけでなく、新大陸アメリカでも大成功した。
デンマークで有名な『ラ・シルフィード』は同名だが、コペンハーゲン王立劇場のバレエ・マスター、オーギュスト・ブルノンヴィルが、恋人の若手バレリーナ、ルシル・グラートとともにパリで『ラ・シルフィード』を観て感激し、デンマークに戻り彼の振付で上演されたが、こちらはデンマークの作曲家シーヴェンスヨルトによるものでパリ・オペラ座版とは異なったもの。
そして9年後1841年に『ジゼル』がパリ・オペラ座で初演された。
現在のオペラ座は、1875年に完成した。設計したのが1825年11月6日にパリのムタール通りで生まれたシャルル・ガルニエであったので、今もオペラ・ガルニエと呼ばれている。1875年1月5日のこけら落としは『ハムレット』などだった。
またパリ・オペラ座のイタリアン通りから数分、マリヴォー通りに曲がったところにあるオペラ・コミックは、1714年に建てられ、『カルメン』(ビゼー)や『マノン・レスコー』(プッチーニ)はここで初演された。火災に遭い現在の建物は1899年に建てられたものなので、パリ・オペラ座より少しだけ新しい。
恐るべき子供、パトリック・デュポン
1987年のカンヌ国際映画祭は50回目ということもあって例年以上にお祭り騒ぎだった。その中で特に話題になったのはオペラ座のダンサーであり、若くして芸術監督にもなったパトリック・デュポンが審査員のひとりとして名前を連ねていたことだった。
世界中のジャーナリストが集まった記者会見では、「第50回のカンヌが選んだ最も興味深い審査員」として紹介された。会見は審査委員長のイザベル・アジャーニに質問が集中していたのは仕方がないが、パトリック・デュポンにもアメリカの記者から「ダンサーのあなたが、なぜ映画の審査をするのか」と聞かれていた。この記者はパトリック・デュポンが映画に出演していることを知らなかったらしい。その質問にはしっかり英語で答え、隣に座ったイタリア人映画監督のナンニ・モレッティにはイタリア語で通訳するはりきりぶり。映画記者の注目を集めていた。
日本では公開されていないが、80年代に『ストラヴィンスキー』でデビューして以来、パトリック・デュポンは4本の映画に出演している。なかでも『ダンシングマシーン』(1990)はアラン・ドロンと共演、ふんだんとダンスシーンがある。残念ながらデュポンは映画の中で殺されてしまうのだが……。
パトリック・デュポンは、長いことフランス人以外の芸術監督が続いたパリ・オペラ座でひさしぶりに登場したフランス人の芸術監督だ。ところで1997年7月のオペラ座のプログラムからパトリック・デュポンの名前が消えていた。オペラ座の恐るべき子供はこれからどこに行くのだろう。
オペラ座での日本人の活躍
初めて私がオペラ座でバレエを見たのは、10年以上も前のこと。今は亡きヌレエフが振付けた『シンデレラ』だった。格式と伝統にあふれた正統派クラシック・バレエを期待していたら、シンデレラをお城に連れていってくれるカボチャの馬車がスポーツカーだったりして、あっけにとられた覚えがある。
この時、衣装を担当していたのが日本人デザイナーの森英恵。シルヴィ・ギエムがまだパリ・オペラ座にいて、シンデレラを踊っていた。そしてウエイトレス役でノエラ・ポントワの娘、ミテキ・クドーが出ていたのも印象的だった。ミテキ・クドーの父、工藤
またバスティーユの新オペラ座で上演された『白鳥の湖』は、毛利
毛利はバレエ以外にも、能や演劇の衣装を担当、市川猿之助のスーパー歌舞伎『オグリ』
や『カグヤ』など古典芸能の世界でも活躍している。1998年3月ミュンヘンで初演される『ラ・バヤデール』の衣装、装置も手がけている。ほかにもカデール・ベラルビの衣装を高田賢三が提供したり、オペラ座に招待されたマーサ・カニングハムの『シナリオ』に、川久保玲の名前があった。
1995年、日本から東京バレエ団がヨーロッパツアーにやってきた。モーリス・ベジャールが三島由紀夫の小説『金閣寺』などをモチーフにして振り付けた『M』だった。カーテンコールになったら、その他大勢の役をやっていたバレリーナのひとりひとりが感激して、中には涙を流している者さえいた。東京バレエ団のカーテンコールで、こんなにもダンサーたちが感激していたのを見たのはこの時だけ。
でも、同じ日本人としてわかる気がする。きっとこの舞台に立つことが、幼いころからの夢だったのだろう。オペラ座までの道のりは、決して平坦ではなかったはず。その夢にまで見た舞台に自分が立っている。そんな気持ちを考えたら拍手する手が熱くなってきた。
またフランス人の中に混じって日本人が舞台に出ているのを見たことがある。オペラ座バレエ学校に日本人として最初に入学が許された小林ひかる。オペラ座バレエ学校は、年に2、3回、オペラ座の舞台を使って、学校公演をする。
その時は生徒の家族らしい観客が多く、普段とは観客席がちょっと違った雰囲気になる。
私が見たときは、舞台の上でバー・レッスンと、センター・レッスンをするというものだった。2年生の彼女はピンクのレオタードで同級生と一緒にセンター・レッスンをしていた。卒業後、1年間、フランス・ユース・バレエ団に在籍した後、ヨーロッパのバレエ団に移ったと風の便りに聞いた。
男性では初めて1995年から2年間、オペラ座バレエ学校に吉本真悟が留学していた。バレエ学校にはローザンヌ国際バレエコンクールの日本人受賞者も留学できるようになった。だからこれからも、オペラ座の舞台を踏む日本人は増えてくることだろう。
ところでパリ・オペラ座ができてから、長いことオペラ座バレエ学校はこの建物の上階でバレエのレッスンを続けていた。それでオペラ座バレエ学校の生徒たちは「オペラ座のねずみ」と言われていた。今ではバレエ学校は郊外に移り、全寮制で大学入学資格バカロレアの取れる普通の高校や中学の授業と、バレエのレッスンが同じ場所でできるようになり、パリのオペラ座からねずみたちが消えてしまった。
パリ・オペラ座といえば、オペラ通でも、絵に詳しい人でなくてもおぼろげながら記憶するのがエドガー・ドガが描いたオペラ座の踊り子たち。ドガが子供の頃から踊り子に夢中だったかどうかはわからないが、1834年オペラ座から歩いて数分のところに生まれた。ドガが画家として頭角を現していった時代、若き芸術家と同じように、パリ・オペラ座にもプリマ・バレリーナが生まれ、作品も『ラ・シルフィード』や『ジゼル』のような名作が誕生している。そしてオペラ・ガルニエの建設。完成するまでに長い時間がかかった駅のような建築物をドガは見続けてきたに違いない。オペラ座では子供たちのスケッチ大会を催すが、その参加者の中に、21世紀のエドガー・ドガがひそんでいるに違いない。
エトワールの引退公演
1996年のパリ祭前夜7月13日、この日も私はパリ・オペラ座にいた。
開演は午後7時30分。夏のこの時期は日本でいえば、午後2時くらいの感覚で明るくてまだまだ暑い。
オペラ座でバレエを観る前にアペリティフとして冷たいビールを1杯飲むのが、いつのころからか習慣になってしまった。もちろん飲むバーも決まっている。オペラ座から数分のところにあるハリーズ・バーだ。20世紀早々オープンしたこのパブは、イギリス式でプライドが高くて、パリなのにワインを置いていない頑固な店だ。
36歳でこの世を去った伝説の美男子ジェラール・フィリップが主演した『肉体の悪魔』
(1947 クロード・オータン・ララ)を観ていたら、このハリーズ・バーが出てきてびっくりするやら、うれしくなるやら……。パリは変わらない街というけれど店の移り変わりは激しいから、50年以上前に作られた映画の中の店構えと、今の造りが変わっていなかったのには感激してしまった。
早熟の天才作家、レイモン・ラディゲの原作の映画化で、フランスの貴公子ジェラール・フィリップが演じた高校生は、フィアンセのいるマルト(ミシュリーヌ・プレール)に恋をする。そして出会いから1年後、ふたりは再会したがマルトは妊娠、別れの予感を感じながら、ひとときの逢瀬を楽しんだのがこのハリーズ・バーだった。
「ジェラール・フィリップの席はどこ? 彼は何を飲んでいたの……?」
などと思いあぐねながら、冷たいビールを飲む。ドアが開くと、ジェラール・フィリップがやって来るような気がする。
この夜、フランスを代表するプリマ・バレリーナが長年踊り続けてきたパリ・オペラ座を去る。芸術は無限、永遠の力を持つと錯覚しがちだが、パリ・オペラ座に所属するダンサーは男性なら45歳、女性なら40歳と定年が決まっている。モニク・ルディエール、今夜が彼女にとって本当に最後の舞台だ。
開幕5分前、オペラ座のベルが鳴る。私たちは、舞台のすぐ脇のボックス席(歌舞伎の桟敷席)に入る。ここからなら舞台を間近に見下ろせ、踊り手たちのナマの息づかいさえ感じ取れる。
劇場の中は超満員。この春に1世紀ぶりの化粧直しを終えて、さらに華やかに輝いている。観客席1991席、天井には6トンを超えるシャンデリアとマルク・シャガールの絵が飾られている。この絵は650平方メートルもの大作で、そのタイトルを「夢の花束」という。この天井画には赤・黄・グリーン・ブルーなどシャガールらしい明るい色調で裸婦やエッフェル塔、天使が舞っている。
なぜ、この絵のタイトルは「夢の花束」なの? ずっと考えてきた。
そしてこの夜、私なりに答えを見つけられた気がした。
今まで数多くのバレエを観てきたが、初めて観るプリマ・バレリーナの引退公演だった。もしパリへ向かう飛行機の中で読んだフランスの新聞の中に「オペラ座のプリマ・バレリーナ、パリ祭前夜に引退公演」という記事をみつけなかったら、のちのちきっと後悔しただろう。
最後の舞台としてプリマ・バレリーナが自ら選んだのは『ジゼル』(マッツ・エック作)だった。日本でも『ジゼル』は谷桃子の当たり役で、1974年の引退公演で踊ったクラシック・バレエの名作。1841年にパリ・オペラ座で初演され、それから157年もの間、世界中で踊り続けられてきた。この悲恋の妖精物語をスウェーデン出身の振付家マッツ・エックが現代解釈したのが1982年。精神病院が舞台という意表をついたバレエは、さらにクラシック・バレエ『ジゼル』の名を高めた。残念なことに日本人によるマッツ・エック版は上演されていない。というのも男性が全裸で踊るのだから、日本で観れるのは果たしていつになることやら……。
幕が開き、音楽が流れる。ベレー帽を被ったジゼルが登場する。裸足だ。今からさかのぼること30年前、11歳の少女がオペラ座の天井にあったバレエ学校に入学した。それから6年後、少女は優秀な成績でオペラ座バレエ学校を卒業した仲間と共にバレエ団に入学する。そしてプリマ・バレリーナへの階段を順調にかつ確実に一歩一歩上っていった。晴れてオペラ座の頂点プリマ・バレリーナになるまでに10年の歳月が流れた。トップに立った時、周りを見渡せばすでに同級生はオペラ座を去っていた。
今までに何度となく踊り切った『ジゼル』でフィナーレを飾る。第1幕、プレイボーイ、アルブレヒトに恋したジゼル、母親との葛藤、陰ながらジゼルを慕っている幼なじみの思いを知りながら、恋をして捨てられるジゼル。
第1幕が終わるとしばしの休憩。
きっと今夜はカーテンコールで何かが起こる。絶対そんな気がした! 芸術家に定年はないはずなのに、『白鳥の湖』だって『ロメオとジュリエット』だって、あと2、3年は踊れるだろう。
「私はまだまだ踊れるのよ!」
という叫びが全身から発せられる。とはいうものの、もう在りし日のように高く飛ぶことも、速く回ることもできない。けれど長年身につけた表現力は、誰にも負けないわ、そんなプライドが私にも伝わってくる。
第2幕、精神病院の患者になったジゼルに会いに、アルブレヒトがはるばるやってくる。狂おしい夜が明けると彼は裸で横たわっている。
一斉に拍手が沸き起こる。一度、降りた幕が開きカーテンコールになった。誰も席を立つものはいない。拍手、拍手、拍手。そしてブラボーの声の嵐、きっと何かが起こる……。
客席からたくさんの花束がオーケストラボックスを越えて、舞台の上のモニク・ルディエールに向けて投げられた。今夜のヒロインが花束を拾い上げた瞬間、紙吹雪がオペラ座の舞台に舞った。その花束を片手に、涙が流れないように天井をみつめるプリマ・バレリーナをシャガールの絵が大きく包みこむ。“夢の花束”とはこの瞬間のことだった。
突然、舞台にふたりの少女が姿を現した。プリマ・バレリーナの愛娘たちだ。彼女は人々に夢を与えると同時に、女として母親として生きてきた。抱き上げられた娘は、母親がバレエを始めた年齢だろう。手をつないで舞台を進んでいく姉娘と同じころ、母親はオペラ座バレエ学校の門をくぐったのだろう。この夜のカーテンコールは14回続いた。幕が降りた後、舞台の中から大きな拍手が聞こえた。仲間たちから贈られた15回目のカーテンコール。感激の渦の中、外に出るとまだオペラ通りは昼間のように明るかった。
パリ祭は無料でバレエを
バレエやオペラは高いものと思いがちだが、これは大きな間違い。確かに高いチケットは、オペラで635フラン(1万4000円)、バレエで395フラン。けれど安いチケットとなるとオペラで65フラン、バレエで20フランという席がある。
フランス人にとって、バレエは庶民が楽しめる芸術なのだ。
映画と比べても日本より安いといわれるフランスのロードショー料金が50フラン位だから、バレエやオペラがいかに庶民の手の届く芸術かということがわかる。
さらにうれしいことが年に1回、バレエが無料で見られる日がある。それは革命記念日の7月14日。この日はオペラ座だけでなく、コメディ・フランセーズやルーヴル美術館など国立の文化施設が無料となる。
1997年は、ジョン・ノイマイヤー振付の『シルヴィア』が上演された。パリ・オペラ座の客席数は1991席。開演時間は午後3時。私は開演4時間前の午前11時にオペラ座に着いたが、もう300~400人程の列ができていた。この日はシャンゼリゼなど至るところで軍隊の行進などセレモニーがあるので、地下鉄の出口が封鎖されたり、バス路線が変更されたりする。私もバスを途中で降ろされオペラ座まで歩いた。
オペラ座の係員が割り込みがないように注意しているなか、午後1時半には列が前に進み出した。暑さに倒れることなく無事、オペラ座の中に入ることができた。
国立劇場にチップは不要
日本人がフランス旅行をして悩むもののなかにチップがある。どのくらいあげていいものなのかと。劇場の場合、私立の劇場とオペラ座のように国立の劇場がある。国立の劇場のサービス係は給料をもらっているのでチップは不要だという。確かにオペラ座で案内してくれた女性にチップを渡そうとして返された経験がある。でも、こちらがそんなことを知らないのをいいことにしっかり受け取るサービス嬢もいるが……。
もちろんシャンゼリゼ劇場など私立の劇場に行く時は、最低でも5フラン程度のチップは渡したい。
いつもと同じように指揮者が入場して物語が始まるはずだが、パリ祭だけは違う。開幕前にフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の演奏があるのだ。パリ・オペラ座オーケストラによる国歌の演奏はさすがで、無意識のうちに外国人である私も起立してしまった。
幕が開く。といっても『シルヴィア』では会場に潜んだ女性たちが弓を打つところから物語が始まる。この日はバレエを見るのが初めて、という子供たちの姿も見られた。
『シルヴィア』はパリ・オペラ座の歴史の中でとても大切なバレエ。特にコンクール向きの踊りがあるわけではないので、決して有名な作品ではないが、パリ・オペラ座ができた翌年1876年6月14日に初演された。
その日のニュースによると600人の人たちが満員で入れなかったという。
なお1998年7月14日の演目はケネス・マクミラン振付の『マノン』である。ちなみに1997年、一番乗りしたフランス人女性は朝7時前にオペラ座に到着したという。
スクリーンのオペラ座
1995年に修復されたパリ・オペラ座は、明るすぎてよくない。昔のうす暗さがよかったという人には『レ・ミゼラブル』(1995 クロード・ルルーシュ)に出てくるオペラ座の舞台や観客席ならば、昔の雰囲気にひたれるはずだ。
まず冒頭シーンはオペラ座のロビーを使った大舞踏会。そして主人公のジャン=ポール・ベルモンドが正面の大階段を駆け上がっていくシーンで始まる。この映画の主人公はオペラ座のエトワール。バレエを見に来たユダヤ人の弁護士に見初められるのだが、その弁護士が誰もいなくなった終演後までエトワールの現れるのを待っているシーンはまぎれもなくオペラ座の客席だ。そして、エトワールを演じる女優が本当にトウシューズを履いて、ヒロイン、コゼットを踊っているのは、バレエビデオとは違った趣がある。
コゼットはフランスの文豪ビクトル・ユーゴーが書いた『レ・ミゼラブル』の中に出てくる孤児の女の子、ジャン・バルジャンに出会った彼女の人生は少しずつ変わっていく。コゼットを踊る主人公の役を演じたアレキサンドラ・マルティネスはバレエ学校出身。まるで『シンデレラ』のような薄幸の主人公のソロをトウシューズでしっかり踊っている。もちろん本物のオペラ座の舞台の上で。
物語の設定は1940年ごろなので、エトワールに恋した弁護士は言う。「まるでアンナ・パブロワだ」と。ほかにもまるでエドガー・ドガの絵が動いているようなロングチュチュをつけたレッスン風景や、彼女が『ラ・シルフィード』を踊っているシーンなどバレエシーンが何か所もある。映画の中で彼女が言うセリフに
「私はコゼットの役を49回も踊ったのよ」
と語るシーンがある。エトワールにとって、何の役を踊るかよりも、どの役を何度踊るかのほうが大切らしい。
舞台側から客席を映し、静かに幕が降りてくるシーンなどオペラ座ファンには興味深い。この映画の監督はフランシス・レイの音楽でも知られる『男と女』(1966)や『白い恋人たち』(1968)のクロード・ルルーシュだが、彼はまたジョルジュ・ドンを起用した『愛と哀しみのボレロ』の監督でもある。
そういえば華やかなファッション業界でもトップのイベント、パリ・コレクションの内側を描いた、ジュリア・ロバーツ、アヌーク・エーメ、マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレンなど大スターを揃えた『プレタポルテ』(1994 ロバート・アルトマン)の中で、世界的なデザイナーたちが一堂に会したシーンの場所となったのもオペラ座だった。
オペラ座ではミラノ・スカラ座のアレクサンドラ・フェリをゲストダンサーに迎えたのに続いて、1997年にはミラノ・スカラ座の男性ダンサーとコール・ドの1年契約をした。フランス人ばかりのバレエ団から、少しずつ変化が始まっている。
ところで映画の生まれ故郷はこのオペラ座の隣。1895年リュミエール兄弟が、世界で初めて映画を上映した場所は、オペラ・ガルニエが誕生してからまもないカプシーヌ通り14番地の地下だった。
シネマトグラフと呼ばれる初めての映画は、実際に映っていたのは列車が駅に入ってくるシーンとか、工場の出口にカメラを固定して、出入りする工員を撮ったりするとりとめもないものだったが、19世紀のたわいない発見が、20世紀に夢と希望をもたらしたといってもオーバーではないだろう。
○ ノートルダムの鐘の音
『ノートルダムのせむし男』が住んでいた建物
ほんの2か月間だけど、私はノートルダム寺院の塔の見えるパリの左岸で暮らしていたことがある。あれはもう10年以上も前になってしまったが、そこは日本からパリに留学していた女性フルート奏者の部屋だった。同い年の彼女が日本に演奏活動に戻っている間だけお世話になった。
入ってすぐ右にキッチンがあり、その奥にバストイレがあり、奥が8畳ほどのワンルームの部屋になっていた。ソファーベッドに小さなテーブル、楽譜台と本棚に並んだ楽譜が彼女の生活をしのばせていた。
その部屋は5階で通りに面していたから、ノートルダム寺院の向かいのセーヌ岸から1つ中の通りだったけれど、窓からノートルダム寺院の塔が見えてノートルダムの鐘の音がよく聞こえた。
私が留学生として滞在許可書を最初に申請したときの住所が、ブシェリー通りの5番地だった。
ソルボンヌ大学のクラス分け試験の教官が、まだフランス語が初心者だった私の住所を見て「いいところに住んでいるわね」と言ってくれたことだけを覚えている。
当時、大統領だったミッテラン大統領の私邸も近くにあった。ミッテランは社会党なので左派だが、住むところもセーヌの左だといわれたっけ。
確かにいつセーヌ岸に出ても観光客でノートルダム寺院の前の広場は賑わっていた。ノートルダム寺院のざわめきが夜遅くまで続いていたからこそ、ほとんど友達がいないパリでホームシックにかからなかったのかもしれない。
今、思い出してみると左岸らしい生活というのはここでしか経験していない。ここの住人がパリに戻ってきた後、引っ越した先はミラボー橋まで歩いていける場所だったが、窓から見えるエッフェル塔ははるか遠くだった。15区は外国人にとって住みやすいかもしれないが、パリらしいエスプリは稀薄だった。
その頃は、パリ初心者だったからこの環境の素晴らしさが十分活用できなかった。ところがここ数年、映画評論家の故・田山力哉と親しくなり、彼の定宿であるホテル・アゴラサンジェルマンに主人と共に時々訪ねるようになってから、いかに素晴らしいところだったかを再確認した。
その住まいのすぐ裏手のサン・ジェルマン通りのモーベル・ムチュアリテ駅には朝市が立ち活気にあふれ、本屋も店もレストランも相変わらず営業していたし、10年前と変わらず若者でいっぱいだった。
確か田山力哉が泊まっていた部屋からも、ノートルダム寺院が見えたはずだ。
パリにやってくること20数年、その間にこのホテル・アゴラサンジェルマンは経営者も代わり、星の数が増えた分宿泊料も上がったというがそれでも、このホテルから離れられなかったというのは、どこに行くにも便利で、歩いて映画館にも行けるこの環境だからこそだろう。
もし文豪ビクトル・ユーゴーの書いた『ノートルダムのせむし男』がなかったら、パリのセーヌ河に浮かぶシテ島にそびえ立つノートルダム寺院は、今日こんなにも観光名所として有名にならなかったに違いない。
のちにバレエになり映画化され、さらにディズニーのアニメにもなった。アメリカ版のエスメラルダの声は、ハリウッドの人気女優デミ・ムーアが吹替えていてぴったりだった気がするが、バレエではエスメラルダといえばタンバリンを持ってジプシーの魅惑的な踊りを舞うことで印象深い。
ところでビクトル・ユーゴーのもうひとつの代表作『レ・ミゼラブル』のほうも小説だけでなく、映画化され、ミュージカルにもなっている。こちらはフランス革命の時のバスティーユが舞台だ。今でもロンドンのコヴェント・ガーデンから近いパレス・シアターではロングラン中である。
『ノートルダムのせむし男』の原題『ノートルダム・ド・パリ』とはズバリ! ノートルダム寺院のことだけど、ノートルダムと名の付くところはノートルダム・デ・ロレット、ノートルダム・デ・シャンなどパリ市内にいくつもある。シテ島にあるこのノートルダム寺院でなくほかのノートルダムの名が付く教会を見て
「これがせむし男が住んでいたノートルダムだ」
と感激するオノボリさん旅行者も多いらしい。私だって最初、「どうしてノートルダムという教会が多いのだろう」と感じたくらいだもの。
ノートルダム寺院は、ゴシック建築の最高傑作とされている。現在のような建築がなされたのは1163年頃のこと。完成までに200年近い歳月が流れた。
そしてビクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』が発表されたのは1863年のこと。その頃のノートルダム寺院は、観光スポットではなかった。ところがこの小説はパリ市民に支持され、その後大修復がなされ現在に至っている。
文豪ビクトル・ユーゴーだけでなく彼の娘、アデル・ユーゴーも、その情熱的な一生をフランソワ・トリュフォーが監督し、『アデルの恋の物語』(1975)という映画になっている。
『アデルの恋の物語』の主役アデル役に大抜擢されたのは、当時、あまり名前を知られていなかったコメディ・フランセーズ出身の新人だった。彼女はこの1作でニューヨーク批評家賞を受賞するなど、一気に世界に知られる女優になった。彼女の名前はイザベル・アジャーニ。今や押しも押されもせぬフランス№1女優で、アメリカ映画にも多く出演している。
フランスの女優は実在の人物を演じるのが好きらしく、イザベル・アジャーニも自らプロデュースして彫刻家ロダンの恋人『カミーユ・クローデル』(1988 ブルーノ・ニュイッテン)に主演している。
何匹ものネコと共に暮らすカミーユ・クローデルのアトリエに大雨続きの時、セーヌ河から水があふれ、アトリエも水浸しになってしまう。きっとノートルダム寺院とそう離れていないところだろう。
私がビクトル・ユーゴー原作のバレエを見たのは1996年、バスティーユのオペラ座でのこと。この年のオペラ座のプログラムにローラン・プティ振付の『ノートルダム・ド・パリ』が発表されたとき、はたしてカジモドは誰が踊るのだろうと思案にくれた。だってバレエは映画や演劇とは違う。映画や演劇では汚くても醜くても、それが強い何かを表現していれば、評価されるけれどバレエは、まず美しいことが絶対必要条件なのだから。
しかしカジモドの容貌はどうみてもスターのバレエダンサーからかけ離れている。
そのカジモド役に挑戦したのは、オペラ座のプリンシパル、ニコラ・ル・リッシュだった。彼はオペラ座のプリンシパルダンサーの中でもダンス・ノーブルの気品あふれるダンサーだ。今までに『ジゼル』のアルブレヒト王子や『くるみ割り人形』など、クラシック・バレエの王子役が似合うダンサーで、彼の魅力はそれだけでなく、マリー=クロード・ピエトラガラとのコンテンポラリーでの共演など、コンテンポラリーでも才能を見せている。
いつもの二枚目役の彼からはほど遠い役柄だったが、見事に演じきった。NHK衛星放送でも『ノートルダム・ド・パリ』が放送されたが、それはやはりニコラ・ル・リッシュが踊るカジモドだった。
現在のパリ・オペラ座のエトワールの中で、ニコラ・ル・リッシュがいちばんダンス・ノーブルを継承するダンサーだと思っている。そのニコラ・ル・リッシュが挑戦したバレエで忘れられない作品のひとつが、ローラン・プティの『若者と死』である。
こちらの原作はジャン・コクトーで、映画『ホワイトナイツ/白夜』(1985 ティラー・ハックスフォード)でも、冒頭にミハイル・バリシニコフが踊っているので、バレエファン以外の人の記憶に残っているかもしれない。
ラスト、首吊り自殺をしてしまう男のバックに、シトロエンとネオンの輝くエッフェル塔、そしてパリの街が見える。
1998年に日本で予定されていたニコラ・ル・リッシュの公演で『若者と死』が観れるのではと秘かに期待していただけに、公演が延期された時は、がっかりした。
ノートルダム寺院はどこから見ると、いちばん眺めがいいか。
もちろんセーヌ河の遊覧船に乗ってみるのも素敵だろう。特に季節がよくなるとセーヌ岸はトップレスで日光浴する女性の姿も見かけられる。
世界一のレストランはノートルダムがメインディッシュ
ノートルダム寺院を眺めるおすすめの場所のひとつにレストラン、ツール・ダルジャンがある。こちらはずいぶん高くつくが……。最近3つ星から2つ星に降格したとはいえ、16世紀から続く世界一のフランス・レストラン。鴨料理で有名な店だ。セーヌ河の岸辺の石造りの建物の最上階にある。屋上はヘリコプターでやってくる客のためのヘリポートになっている。はたしてどういう人が利用するのやら?
一流レストランの食事はまず予約から始まる。バブルのころならいざ知らず、今なら一か月前ならだいじょうぶなはずだけど……。
もちろん予約の時に必ず「窓側を」と言うこと。
男性はネクタイ着用が義務付けられているけれど、もしネクタイやジャケットを忘れたときは、断られるかというとそうではない。ちゃんと店が用意したジャケットを貸してくれる。
まず、玄関にはドアボーイと呼ぶには年齢がいき過ぎたおじさんが、マント姿で立っている。すぐ屋上のレストランへ連れていかれるかというと、しばし1階のロビーで待たされる。
ここには、今までこのレストランで食事をした世界中の有名人の写真が飾られている。昭和天皇の在りし日の姿、そして直筆のサインもあった。
専用エレベーターで最上階のレストランへ。メニューをもらってびっくりしてはいけないのは、女性用のメニューには値段が入っていないこと。女性が値段を気にしないようにというフランス流の気配りなのだそうだが、慣れていないのでかえってこっちが気を使ってしまう。でも日本人の場合、グループの中でフランス語のできる女性がいると、サービス係がすかさず値段入りのメニューを持ってくる。
料理の注文を取りにきたボーイにワインを頼もうとすると、
「ワインはソムリエに」
とたしなめられる。もちろんアペリティフにビールを頼もうなんてしたら「そんなものフランス・レストランにない」と、再度たしなめられる。
このレストランの特別鴨料理は、昼食では370フラン(約8000円)のコースになっている。コースはオードブルと鴨料理、そしてデザート。
ある時期、コースのオードブルがキャビア入りのスフレ、デザートはイチゴたっぷりのケーキと選択の余地がなかったが、つい最近行ってみたらデザートも5種類の中から選べた。
特にパイナップル風味のブランマンジェは、パイナップルの苦さが全くなくてまろやかでおいしかった。
ツール・ダルジャンから見下ろすセーヌ河の眺めや、ここからしか見られないノートルダム寺院の風景も素晴らしかった。それに加えて極上のサービス。
オーナーのクロードは必ずひとつひとつのテーブルを回り挨拶する。常連客なら長いこと話し込み、フランス語のわからぬ日本人の団体の席でも「ボンジュール、メルシイ」と頭を下げる。経営者の
ある時は姑がはるばる長野からパリまでやってきた。挨拶にきたクロードに
「今日は姑の81歳の誕生日なんです。生まれて初めてこのレストランに来て感激しています」と言うと、姑を見て
「目の前にいる女性は、私には20代にしか見えません」とお世辞を言い、鴨のオレンジソースの缶詰を2つバースデイプレゼントにくれた。さすが! 1582年から続いているサービスはだてじゃない。
ここで名物料理の鴨を注文すると、食べた鴨のナンバーが書かれたカードがプレゼントされた。1997年4月に食べた時は860480番だった。これは1890年から数えた番号。残念ながらいまだ私はツール・ダルジャンからライトアップされたノートルダム寺院を見たことがないけれど、昼間でも十分、ノートルダム寺院の風景を堪能できた。
もし予約が取れて窓側の席でなかったとしても、諦めるのはまだ早い。デザートのころになってもう一度、周りを見回してみる。窓側の席が空いていたらチャンス。その時は
「デザートは、ノートルダムを見ながら食べたいの」
と甘えてみること。きっとその要求に応えてくれるはず。
ノートルダム寺院は映画でもパリの顔として登場することが多い。地方からパリにやってきた登場人物がまず目にするのがノートルダム寺院だ。
それはヌーベル・ヴァーグと言われたジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)でもそうだし、クロード・ルルーシュの『愛と哀しみのボレロ』でもそうだった。映画の時代設定が現代に変わって、田舎から鳥を土産にパリにやってくるおじさんが車の中から、ノートルダムを見て驚いている。
「自分はモンマルトル人だ」と豪語するジャン=ジャック・ベネックスでさえ『ロザリンとライオン』(1989)では、サーカスのライオン使いを目指す少女(イザベル・パスコ)がパリにやってきた時、ノートルダム寺院の前に佇ませている。
ノートルダム寺院のあるシテ島は、今でも石造りの建物が並んでいて豪壮な感じがするが、シテ島を右岸に渡ると、20世紀に誕生したモダンな建物に出会える。それはレアール地区の建物。そのひとつがポンピドー・センターで映画によく登場する。
映画の宝庫ポンピドー・センター
まず外観から意表をつくポンピドー・センターだが、1977年に開館して20周年を迎えたところ。というのにもう修復工事が始まっていた。フランスの現代建築は結構、もろいものなのだろうか。
ここは、パリ市の図書館にもなっていて夜遅くまで学生たちで賑わっている。外国の雑誌や新聞なども置いてあり、日本版「マリ・クレール」が読めるのはとても助かる。
この建物の中には現代美術が集められているが、また同時に日本のフィルムセンターにあたるシネマティークがある。
1997年3月から9月までは日本映画特集を行っており200本もの日本映画が上映されたが、小津安二郎やカンヌ映画祭の受賞者である黒澤明、今村昌平、大島渚らのすでに海外で高い評価を受けた作品だけでなく、最近作られた橋口亮輔の『渚のシンドバット』(1996)や篠崎誠の『おかえり』(1996)、東陽一の『絵の中の僕の村』(1996)、北野武(ビートたけし)の『ソナチネ』(1993)や『キッズ・リターン』(1996)なども上映されている。ポンピドー・センターの休館日を除いて1日に3回上映、入れ替え制で午後2時30分、5時30分、8時30分の3回で毎回違ったプログラムだが、1日に内田吐夢の『大菩薩峠』3部作が見られる機会には、なかなか日本でも出会えない。料金は大人27フラン、学生料金もある。
最終回の上映で、それが内田吐夢の『飢餓海峡』(1965)だったりすると終映は夜11時を過ぎてしまうが、それでも超満員の客が帰らないのだからうらやましい限りだ。
このポンピドー・センターは外が見えるエスカレーターで上に昇っていくと、パリの風景が見えて楽しい。ここの図書館で勉強するソフィー・マルソーを主人公にした『スチューデント』(1988 クロード・ピノトー)という映画があった。
16世紀、17世紀の建物が残るマレ地区と、ポンピドー・センターをはじめ、現代建築のレアールが隣り合っている現代のパリ。レアールは以前はパリの胃袋といわれる市場だった。
娼婦役のシャーリー・マクレーンと警察官ジャック・レモンの洒落た恋物語、ビリー・ワイルダーの『あなただけ今晩は』(1963)では、冒頭シーンでレアールが、かつてパリ市民の胃袋を満たす所だった風景が映されていた。
最近のフランス映画でこの界隈を描いたものに『ポンヌフの恋人』(1991 レオス・カラックス)がある。ポンヌフとはフランス語で「新しい橋」なのだが、実際にはいちばん古い橋になってしまった。
撮影は本当のポンヌフを使うことはできなかったが、ポンヌフに近いレアール地区でロケーションが行われた。主人公のジュリエット・ビノシュが、喫茶店でお茶を飲んでいるシーンで、何軒かレアールの喫茶店が出てきた。最初に男のコーヒーカップに眠り薬を注ぐ店が「オ・ペール・トランキル」というカフェだった。ポンピドー・センターの隣の噴水も映画に登場した。
映画の中では革命200周年のパリ祭の光景がふんだんに出てくる。
しかしポンヌフの撮影は、映画の撮影が思いのほか長期にわたったためパリでロケをすることが不可能になって、南フランスのモンペリエ郊外に大がかりのセットを組んで行われた。
その時、現地で美術助手を募集したところ、採用されたモンペリエ大学の文学専攻の女子大生がいた。彼女は『ポンヌフの恋人』の撮影で生まれて初めてパリの石畳を踏む。
そしてパリの魅力と映画の魅力の虜になる。
そして自分がシナリオを書き、国立映画センターのフランス興行前貸金委員会に提出する。その時委員長をしていたジャンヌ・モローはそのシナリオを絶賛し、彼女は自分が生まれ育った地方を舞台に1本の映画を撮り上げた。
96年のクリスマス、フランスで公開された映画は大ヒットし、セザール賞の長編新人監督賞を受賞する。
それがアダモの歌う「雪が降る」がなつかしい『クリスマスに雪はふるの?』(1996)。
監督をしたのがサンドリーヌ・ヴェッセ。彼女は映画学校の出身でなければ、映画少女でもなかった。今パリで、次回作の準備中だ。
『ポンヌフの恋人』のドニ・ラヴァンが演じた主人公が、足にケガをしたのはポンヌフから道なりに続くセバストポル通りだった。
レアール周辺はここ20年で一新したが、今もその頃の雰囲気を残しているのは古い教会と、オ・ピエ・ド・コーション(豚のしっぽ)という24時間ノンストップのフランス・レストランくらいだろうか。
プロのバレリーナが通うセンター・マレ
ポンピドー・センターからレアールに背中を向けて東側に歩いていくと、パリの中でも古い街が並ぶマレ地区にぶつかる。カフェ・ド・ラ・ガールは直訳すれば駅の喫茶店なのだけれど、鉄骨とガラスでできたポンピドー・センターの裏側にある。最先端の建物と正反対のフランス革命以前の建物。
もちろん今では喫茶店でもなければ、ここから列車が発車するのでもない。
ジェラール・ドパルデューやミュウミュウ、ミッシェル・ブラン、コリューシュなど現代のフランス映画界、演劇界には欠かせない実力派俳優を生み出した劇場であると同時に、古くから知られるバレエスタジオ、センター・マレのあるところ。
日本から文化庁の在外研修でフランスに留学するダンサーの何人もが、ここのクラスで研鑽を積んだ。
NHKの『世界・わが心の旅 エディット・ピアフ』で上月晃がかつて自分が暮らし、レビューショーに主演したパリを訪れ、自分とエディット・ピアフのゆかりのある場所を歩くというドキュメンタリーを偶然見た。
その中でも上月がセンター・マレにやってきてアメリカ人ウェインのクラスをのぞき、そこで踊る日本人を見つめ、かつての自分と二重映しにするというシーンがあった。『赤い航路』(1992 ロマン・ポランスキー)の主人公の女性がダンスを習っていたのもこのセンター・マレで、実際の撮影もこの場所で行われた。
パリに10年以上住み、ウェインのレッスンの伴奏を務めている小林純子によると、よく映画やテレビの撮影をしているという。
ところでフランス名物のひとつにストライキがある。一度始まるや1、2日で終わらないところがラテン系の気の長さか……。
パリの交通機関が長期のストライキに入ったとき、ブローニュに住む小林純子がどうやってマレ地区のスタジオまで通ってきたかというと、ともかくセーヌ河まで出て、セーヌの乗合船で通勤したという。
市立劇場とシャトレー劇場
パリの市政をあずかるパリ市庁舎があるのもこのマレ地区。ここは2つの劇場が向かい合っている。パリ市立劇場とシャトレー劇場だ。
シャトレー劇場は、昔からバレエの劇場だった。セルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団がパリで初演したのもこのシャトレー劇場だった。そのあたりのことが映画『アンナ・パブロワ』(1983 エミーリ・ロチャヌー)に描かれていた。シャトレー劇場の2階のロビーから見えるノートルダム寺院の夜景が素晴らしいことは、この劇場を訪れた人にしかわからないが、この映画の中では本当にシャトレー劇場でロケをしていて、2階でディアギレフが談笑しているシーンで窓の向こうにノートルダム寺院が輝いていた。
時は1917年、シャトレー劇場は大騒ぎになっていた。
ロシア貴族出身の今世紀最大の興行師、セルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の公演だった。そこにはアンナ・パブロワもいれば、若きニジンスキーの姿もあった。
その作品は『パラード』、羽根のついた馬とともにサーカス芸人たちが戯れている。この舞台画はピカソによって描かれた。音楽はエリック・サティだった。
パブロ・ピカソの幻の舞台画は久しく眠りについていたが、眠りからさめた『パラード』は日本で見ることができた。東京都近代美術館のポンピドー・コレクションの中に含まれていた。
日本で『パラード』と対面することができ、時の流れで真紅の色は少々色あせていたが、犬も馬も天使も酒を酌み交わすサーカスの人々も、想像とは違って穏やかな色合いだった。当時はもっと刺激的な輝きを放っていたかもしれないが、私はそこに人間と動物が、一緒になって戯れている穏やかさを感じた。
1881年、スペインのアンダルシア地方マラガで絵画教師ホセ・ブラスコの息子として生まれたパブロ・ピカソは、バルセロナの美術学校で学び、1901年、パリで初個展を開き、青の時代が始まる。
1917年ピカソはロシア・バレエ団バレリーナのオルガ・コクロバァと出会う。そしてその翌年、彼女と結婚した。
ピカソはその後、ジャン・コクトーが戯曲化した『アンティゴーヌ』の美術をはじめ、『ル・トルコンヌ』の舞台装置や、『メルキュール』、『ル・トラン・ブルー』などのバレエ美術を担当した。そうなると『パラード』が取り持ったピカソとバレエの結びつきが、いかに強かったかがわかる。30代半ばという仕事盛りにピカソはバレエ美術でも大活躍した。
現在でもシャトレー劇場ではダンスがさかんだ。
毎年ウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルト・バレエ団が、パリではこの劇場で公演するのが恒例になっている。そしてフランスの日本年にあたる1997年は12月に歌舞伎公演があり人間国宝の中村富十郎が『二人椀久』などを上演した。
そして目の前にある市立劇場では、世界各国のコンテンポラリー演劇やダンス、コンサートをレパートリーにして今年で20周年。日本の舞踏集団山海塾や1997年のオペラ座に作品提供をしたマギー・マラン、そしてピナ・バウシュらの公演で知られるが、今年ももちろんピナ・バウシュ、オペラ座のマリー=クロード・ピエトラガラの『ドント・ルックバック』などで知られるカロリン・カールソン、ヤン・ファーブルのコンテンポラリー・ダンスもある。
日本で知られているものとしては、クルベリ・バレエ団が『眠れる森の美女』の公演を行うが、何といっても驚くのは、シーズンの幕開けの文楽だ。
この市立劇場に隣接するカフェの名前がカフェ・サラ・ベルナール。20世紀初めに活躍したサラ・ベルナールの名前を取っている。実は市立劇場は25年前までサラ・ベルナール劇場と呼ばれ、オペレッタを主に上演していた劇場だった、という。
そのことを1960年代からパリを中心にバレエ活動を続けている東京バレエ団出身の吉田矩夫から教えてもらった。彼はモーリス・ベジャール・バレエ団のほかローラン・プティ・バレエ団でも活躍したが、今から30年前にはレピュブリック広場の近くにアルハンブラ劇場というローラン・プティ・バレエ団の劇場があったという。レピュブリック広場といえばマルセル・カルネの『天井桟敷の人々』の舞台となった泥棒大通り。ローラン・プティがレピュブリックを本拠地にしていたころ、さぞかし賑やかでエキサイティングしていたことだろう。今レピュブリック広場に行くとアメリカ資本のホテルがどーんと大きな顔をしている。昔を知る人には寂しい光景だろう。
市立劇場とシャトレー劇場、この2つの劇場からシテ島を越えて左岸に戻るとサン・ミッシェル。
サン・ミッシェル界隈は若者が集うプレイスポットで映画館も多いが本屋も多いのが、カルチェラタンと呼ばれる由来だろうか。
人が大勢集まる場所だけに、一度テロなどが起こると格好の場所になるのが残念なところ。サン・ミッシェル通りの本屋の隣にあった映画館は、本屋がテロにあった巻き添えをくって何年もの間閉館していた。三船敏郎も出ていた『千利休 本覺坊遺文』(1989 熊井啓)を上映していた映画館だ。
サン・ミッシェル脇からノートルダム寺院に向かうセーヌ河の岸辺には、ブキニストと呼ばれる古本屋をはじめ、専門書店が軒を連ねている。この界隈は本当に本屋が多い。その中でサン・ミッシェル通りからノートルダム寺院に向かい、ソルボンヌ大学へ続くサン・ジャック通りを越えたところに、一軒の英語専門の書店がある。
私にはあまり馴染みがないがその名を「シェイクスピア&カンパニー」という。
また、ユシェット座という小さな劇場は延々とイヨネスコの『
ブシェリー通りに住んでいた頃、私も『授業』を見たが、その時は東京・渋谷のジャンジャンで今は亡き中村伸郎の『授業』を見ていたので、フランス語などおかまいなしでも理解できた。生徒役の女優のギンガムチェックのスカートはちょっといただけなかったが、小劇場の雰囲気は十分に楽しめた。
映画館もロードショーではなく、毎日プログラムが変わる小さな映画館がいくつもあるのがサン・ミッシェル界隈の特徴で、中には塚本晋也の『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』(1992)をレイトショーで1年以上も上映し続けている骨のある映画館もある。実際に私が見にいった時も、終映は深夜の0時過ぎ。しかしサン・ミッシェルの街はまだ宵の口だ。
○ モンマルトルわが街
芸術家を育み続ける坂道と石段の街
「どこに住んでいるの」と男は尋ねた。
女は、
「ラマルク通りよ、パリの18区の……」
と答えた。
さらに女は続けた。
「昔、この通りにひとりのロシア人が偽名を使って住んでいたの。その男の本名はレーニンといったの」と。
このやりとりはクロード・ルルーシュの『男と女』の中でアヌーク・エーメとジャン=ルイ・トランティニアンのものである。
自分が住んでいるラマルク通りが、こういうふうに映画に登場していることは、引っ越してから仏文学者の窪川英水氏に教えられた。
女流監督クレール・ドゥニが1994年に撮った『パリ18区、夜。』が、1997年になってようやく東京で公開された。原題は『私は眠くない』。映画の中で老婦が言うセリフからつけられたもの。1984年にパリ18区で実際に起きた、ひとり暮らしの老人を連続して襲った強盗殺人事件がこの物語の軸をなしている。
映画はオンボロ車に乗って、若い女がパリにやってくるところから始まる。ヒロインがパリに着いて最初に食事を取るカフェがラマルク通り68番地、地下鉄12番線ラマルク・コウリャンクール駅前の喫茶店だった。
私たちはかれこれもう10年近く、この街に住んでいることになる。
白亜のサクレクール寺院がそびえるモンマルトルの丘の7合目辺りといえばわかりやすいかもしれない。絵でいえばモーリス・ユトリロが描いた世界だ。番地の数が少なくなればなるほどサクレクール寺院に続く坂道を登っていかなくてはならない。2番地まで行くと、そこはユトリロが住んでいたアパルトマンだった。
映画エッセイストの秦早穂子が、昔宿泊していたホテルがラマルク通りにあったことを彼女の本で読んだ。1958年当時利用した、親切な女主人が経営していたホテルだそうだが、それから2年後女主人は彼女の財産目当てに結婚をしたイタリア人に拳銃で撃たれ死亡したという。サクレクール寺院に行く途中に前を通ってみたが、パリ市内には珍しい一軒家風の建物で、よく見ると「エルミタージュ・ホテル」と小さく書かれた看板を見つけた。今もホテルのままだった。玄関から中に足を踏み入れたが、ドアを入った左手のサロンの壁に『白鳥の湖』を踊る踊り子の油絵が飾ってあった。
パリの中で、いつか住んでみたいと思っていた街がモンマルトルだった。画家のゴッホやユトリロ、音楽家のエリック・サティら芸術家が愛した街。
そして画家たちが好んで描いた街モンマルトル。
モーリス・ユトリロ(1883~1955)が一時、住んでいたのが、今私が住んでいるラマルク通りを登りきった行き止まり、2番地の建物だった。
ユトリロの母の名は、シュザンヌ・バラドン。お針子からサーカスの空中ブランコ乗りになり怪我をして、その後画家ルノワールらのモデルとなった恋多き女性だ。
ユトリロの父がいったい誰なのかは、未だ謎。
雪の降り積もったモンマルトルの坂道、白亜のサクレクール寺院。ユトリロといえば、必ずモンマルトルの風景が目に浮かぶ。それらの絵は最も精力的にユトリロが活動していた1908年から1915年「白の時代」と呼ばれた時代に描かれたものが多い。
大酒飲みのユトリロは一時、精神病院にも入院している。ヴァンセンヌの森に近いピクピュスの病院を看守の目をごまかしては脱走し、モンパルナスを徘徊した。
そしてモンパルナスを根城にしていたイタリア人画家とめぐり逢う。それがモジリアニだった。ふたりの酔っ払いはおおいに酒を酌み交わした。
晩年、ユトリロは住み慣れたモンマルトルを離れ、パリの西ヴェジネに豪邸を構えた。
それはレジオン・ドヌール勲章をもらってから7年後の1935年。母の勧めで結婚したバツイチのリュシー・ヴァロールと犬たちに囲まれた生活。
今でもユトリロが描いたモンマルトルの風景は変わりがない。サクレクール寺院には観光客があふれテルトル広場の似顔絵書きの人数は増えたけど、ノルヴァン通りのパン屋さんは朝早くからパンを焼いている。
一度はモンマルトルを離れたユトリロも、今ではラマルク通りとシャンソニエ・ラ・パン・アジルに隣接するサン・ヴァンサン墓地に眠っている。そしてラマルク通りと交差するコウリャンクール通りに住んでいたマルセル・カルネも、同じ墓地に眠っている。
モンマルトルの魅力は死しても、色あせないのだろうか。
モンマルトルを舞台にした映画をどれだけ観てきただろう。『巴里祭』で花売り娘のアナベラが雨に濡れ、ニューヨークからやってきたオードリー・ヘップバーンが『パリの恋人』で歌いながらかっ歩し、ルネ・クレールが『巴里の屋根の下』で描いた人情厚く庶民的な街。1902年に建てられた石造りの7階建てのわがアパルトマンには、20世帯ほどの住人が住んでいるけれど日本人は私たちだけ。わが家からモンマルトルの象徴サクレクール寺院までは丘を登って数分だ。もちろん朝に晩に、教会の鐘の音が聞こえる。うさぎ小屋と呼ばれるシャンソニエ・ラパン・アジルを通って、パリでただひとつ残るぶどう畑を越して、サクレクール寺院に着く。寺院の前からはパリの街が一望できる。昼間は観光客や似顔絵描きでいっぱいのテルトル広場も、午前中は人もまばらできままに散歩ができる。
ある日、ドアのブザーが鳴った。聞き慣れない日本人の声。
聞いてみると、1920年代にこのアパルトマンに住んでいた、今は亡き父の想い出を求めて旅する婦人だった。
当時の父が書き記した手紙の中からゆかりの場所を歩き、最後にたどり着いたのがモンマルトルのラマルク通り。父が住んでいたという建物の前に佇んでいたら、中から「日本人がいるから」と声をかけられたので、予想外の偶然に嬉しくなり思わずブザーを鳴らしたという。その手紙を読んでみたら、部屋の造りからすると、私たちが住んでいる部屋のようだ。
半世紀以上も前に、パリで日本人が過ごした部屋に住んでいたなんて、こういう偶然も世の中にはあるものなのだ。
映画のというよりもプッチーニのオペラで有名な『ラ・ボエム』。
このヒロインのミミが住んでいたのもモンマルトル。モンスニ通り18番地にあったミミの家は1925年に取り壊されてしまったが、1927年に建てられたアパルトマンは健在であり、建物の外壁に当時の風景の彫刻がなされている。古い写真を見ると当時は急な坂道のようだったが、ミミの家の前は石段に変わっていた。モンマルトル名物の石段にもそれぞれの歴史があるようだ。フィンランド出身の映画監督アキ・カウリスマキが撮った『ラ・ヴィ・ド・ボエーム』(1992)というのはパリを舞台にした映画で、オペラの『ラ・ボエム』を下敷きにしているが、北欧きってのブラック・コメディの鬼才だけに、映画のストーリーもおかしくて、そしてはかなく哀しい。画家の主人公たちがモンマルトルに住んでいるのがわかるのは、カッコをつけてミミに部屋を貸してあげて、自分は「友達の家に行くから」と泊まった場所が、モンマルトルの墓地だったから。
『男と女』でアヌーク・エーメが演じたヒロインはラマルク通りの14番地に住んでいる設定になっていた。
実際に坂を上がっていったら確かに14番地は『男と女』に出てきたのと同じ建物だった。自殺した歌手のダリダも生前近くに住んでいたし、今でもジャン・マレー、ファブリス・ルキーニ、リシャール・ベリ、映画監督のジャン=ジャック・ベネックスら映画人が何人も住んでいるのは、かつてパテ映画のスタジオがモンマルトルにあったからかもしれない。
ラマルク駅を出ると、右手に花屋と両側に2軒のカフェ、階段の中腹で石造りのアパルトマンが並んでいる。『恋人たちのアパルトマン』、『アパートメント』(1995)そして日本映画の『エロティックな関係』(1992)にまでこの駅が登場していた。
ヒロイン宮沢りえがビートたけしとファッションショーに行く時、待ち合わせをしたのがこの駅だった。あの頃のりえちゃんは、はつらつとしてモンマルトルの階段を駆け上がっていった。
最近でモンマルトルの雰囲気がいちばん出ているのは『アパートメント』で主人公が待ち合わせたのは、ラマルク駅から石段を下りたところにあるフランス・レストラン。ここには、何度も足を運んでいる。このレストランの前はアトリエ・モンマルトルという、まだ完成して10年もたっていない建物だが、この中には女流画家三岸節子のアトリエもある。
特に『アパートメント』は、プロデューサーも監督もモンマルトルの住人とあって、ふんだんにモンマルトルでロケをしている。ロマーヌ・ボーランジェが住んでいると見せかけるアパートメントもモンマルトルの石段の中腹にあるし、ロマーヌとモニカ・ベルッチが仲よく散歩するのもモンマルトルの道だ。
ロマーヌ・ボーランジェは女性監督マルティーヌ・デュゴウソンの『ミナ』(1993)でモンマルトルに住む若い画家の役を演じていた。この時、ミナの仲良しの女の子が好きになるピアニストがピアノを弾いていた店は、テルトル広場に近いノルヴァン通りのレストラン。裏表紙の絵の中央の店だ。
私にとってこの通りに住むジャン・マレーに会うのが、パリの楽しみのひとつ。80歳半ばのジャン・マレーは『美女と野獣』(1946 ジャン・コクトー)のイメージとは随分かけ離れてしまったが、今はライオン丸みたいなダンディーなおじさまだ。
『ミナ』でテーマ曲として何度となく流れてきたのが、モンマルトルの歌姫ダリダが歌う「18歳の彼」。この曲はフランス語の歌詞の意味を知らずにメロディとフランス語の響きに酔ったほうがいい。フランス語の意味を知ると年上女の愚かな恋になってしまうから……。それもかわいい女だけれど。
まるで映画のシーンの中で暮らしているような環境。住み着いて9年。今では駅前の喫茶店のひげの親父の家族も、クリーニング屋の若旦那も靴屋のお兄ちゃんも、かどのパン屋のおばさんもみんな顔見知りになった。
映画館の数は前に住んでいたシャンゼリゼ界隈よりずっと減ったけれど、モンマルトルの丘にただひとつ残る風車小屋のふもとに、1928年以来続いているスタジオ28という名画座がある。映画館の中は開館以来の貴重な写真が飾られ、ハリウッドのように俳優の足型が置かれている。ジャンヌ・モローの足型もあったが、とても小さい足だった。老夫婦の経営する映画館は、毎週月曜日はお休みだし、毎年7月14日のパリ祭が過ぎると9月までしっかり夏休みで閉まってしまう。といういかにもフランスならではの映画館だ。もしも私の夢を叶えてくれるなら夏休みの間だけ、私に日本映画を上映させてもらいたい。
ラマルク通りのアパルトマンが、私たちのパリの最初で最後のお城になるのか、それともこれから先何回かパリのアパルトマンを買い換えるのかはわからない。またいつか日本に引き揚げてしまうかもしれないけれど、人生をあとで振り返ったときに、きっとモンマルトルの日々が強烈な思い出になるような気がする。
『ジゼル』が踊るモンマルトル墓地
ロマンティック・バレエの傑作、パリ・オペラ座で生まれた『ジゼル』は映画にもなっている。『ホワイトナイト/白夜』や『愛と喝采の日々』(1977 ハーバート・ロス)で知られるダンサーのミハイル・バリシニコフが主演した『ダンサー』(1987ハーバート・ロス)は『ジゼル』の公演のためにイタリアにやってきたコール・ド・バレエ(群舞)のひとりの少女と主人公アルブレヒト王子を演じる花形ダンサーのラブストーリーで、舞台の『ジゼル』と、ストーリーとして展開されるジゼルのようなヒロインの悲恋物語のダブル・ストーリーになっている。
物語の発案はロマン派の詩人テオフィル・ゴーティエ。美しい少女ジゼルは、身分を隠したアルブレヒト王子に恋をする。しかし王子には婚約者が……。恋をしたまま死んだ少女は、
この『ジゼル』が初演されたのが1814年、もちろんパリ・オペラ座である。オペラ座といってもオペラ・ガルニエではない。『ジゼル』初演の9年前に『ラ・シルフィード』がやはりオペラ座で初演された。背中に羽根を付けた妖精。可愛らしいバレリーナにぴったりの役柄だった。
『ジゼル』には1803年生まれのアドルフ・アダンが音楽をつけた。
余談だが『愛と喝采の日々』は、原題を『ターニングポイント』といい、ふたりの女の物語である。同じバレエ団でかつてライバルとして活躍したふたり。ひとりは全てを捨ててバレエにかけた。そしてもうひとりシャーリー・マクレーン演じるヒロインは、バレエを捨てて家庭を持った。ある日彼女が住む田舎町に、ニューヨークから旅公演でバレエ団がやってくる。かつての仲間たちの公演を観に行った彼女は、バレリーナ志望の娘をニューヨークに出そうと考える。娘はロシアからやってきたダンサー(ミハイル・バルシニコフ)と恋に落ちる。
『愛と喝采の日々』にはこれでもかこれでもかとバレエの名作が出てくる。『ドン・キホーテ』、『海賊』、『眠れる森の美女』……。クラシック・バレエがどんなものか知りたいならこの1作を見ることをお薦めする。
『ジゼル』の作曲家アドルフ・アダンの墓と、パリ・オペラ座の踊り子たちを好んで描いたエドガー・ドガの墓が同じ通りに向かい合って建っていると、この通りをモンマルトル墓地のオペラ通りと呼びたくなってしまう。
アダン家の墓の隣には大きな木が茂っている。昼でもアダンの墓をカメラに収めようとするとフラッシュをたかなくてはならない。まるで『ジゼル』第2幕のウィリーたちが踊る墓地のシーンのようだ。
アドルフ・アダンという作曲家は『海賊』という作品も創っているが、一般に知られているのは『ジゼル』だけ。でもたったひとつでも後世に残せるなんて素晴らしい。
アドルフ・アダンはパリに生まれ、父ルイも作曲家であり、指揮者、ピアニスト。そしてパリ高等音楽院で教えていた。モンマルトル墓地にあるアダン家の古めかしい墓をみても、アダン家がパリに根を生やしていたことがうかがわれる。
父の教え子の中にはフェルディナン・エロルドもいる。フェルディナン・エロルドは『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』の英国ロイヤル・バレエ団版の作曲者として知られている。1789年、フランス革命と同じ年に初演されたこの作品は、当時のパリの世相とは全くといっていいほど正反対、本当にのどかなバレエだ。
そんな父親の影響でアドルフ・アダンが音楽院に入学したのは1821年のことだった。
アドルフ・アダンは50余年の人生の中で、80あまりもの舞台音楽を作曲した。その中でバレエ音楽は14である。アダンの作曲したバレエ音楽の中で、『ジゼル』は6番目に作曲されたものである。
今までにいくつものバレエ団で『ジゼル』を見てきたが、第2幕のウィリー(妖精)になったジゼルが眠る墓地のシーンになると、私は必ずこのモンマルトルの墓地のアダン家の墓の辺りを思いめぐらす。だいたい、舞台は荒れ果てた墓地。その下手や奥にジゼルの墓が立っている。時はすでに真夜中で真っ暗。
アダンが眠るところは、モンマルトル墓地の中でも奥の方にあり、墓の近くには大木が繁っている。残念ながら私はこの墓が何年に建てられたものかわからないが、もしかするとアドルフ・アダンが『ジゼル』を作曲した時、すでに彼の家の墓はここにあったとも充分に考えられる。とすると自然とこの辺りが『ジゼル』の舞台の墓地とオーバーラップしてくる。
私はモンマルトルの図書館で1冊の本を見つけた。それはセルジュ・リファールが書いた『ジゼル』だった。私はこの本にざっと目を通しただけだが、初演当時のリハーサルのエピソードなどもあって興味深く、もし私にこの本を訳すだけの実力と時間の余裕があるのならば、ぜひともこの本を日本語にしたいと思っている。
なぜか不思議にこの『ジゼル』は、エトワールたちの引退公演で踊られることが多い。1974年に谷バレエ団の谷桃子が引退したときに踊ったのも、この『ジゼル』だった。そして1996年オペラ座のエトワール、モニク・ルディエールが定年で長年踊りなれたオペラ座を去る時に選んだのも『ジゼル』のコンテンポラリー版、マッツ・エック振付のものだった。なぜエトワールたちは、最後に『ジゼル』を選ぶのだろう。
異邦人の墓
20世紀のバレエ史に欠かせない存在といえばニジンスキーだろう。ディアギレフの元を離れパリを去り、ロンドンで客死したはずのニジンスキーの墓が、モンマルトル墓地にあるのは少し意外かもしれない。しかし、その墓碑に刻まれた文字の中にセルジュ・リファールの名前を見つけるとディアギレフがニジンスキーを抹殺しても、パリはダンサー、ニジンスキーを見捨てたりはしなかった。パリこそ、ニジンスキーが眠るにふさわしい所という気がしてくる。
なにしろセルジュ・リファールはロシア・バレエ団がフランスに残した遺産なのだから。
バスラフ・ニジンスキーは1889年7月28日ロシアのキエフの町でダンサーの両親の元に生まれ、1898年、サンクトペテルブルグにあった帝室バレエ学校でイタリアからやってきたバレエ教師エンリコ・チェケッティの指導を受け、アンナ・パブロワと同じ道を進む。そして数々のバレエ作品を生み出したディアギレフと出会う。
しかし伝説のダンサーの踊り手としての寿命は驚くほど短かった。ディアギレフから離れて南米に渡ったニジンスキーは精神を病み、その後1953年6月16日ロンドンで死亡。
ここで日本人の墓を見つけることができた。それは、画家の荻須高徳(1901~1981)。円柱型の墓碑の元にはパレット、そこには5本の筆が添えられている。「OGUISS」と文字が刻まれているので日本人とは気づかない人もいるかもしれない。モンマルトル墓地の玄関に貼られている地図には、アルファベットで目ぼしい有名人の墓の場所が記されているが、名前と職業とおおよその場所だけ。死んだものは国籍など必要としないのだろう。ただモンマルトルを愛した画家のひとりとして、荻須高徳は長年暮らしたシャンピオネット通りのアトリエから近い、モンマルトルの墓地で眠り続ける。また作曲家の牧野縑の墓もモンマルトル墓地にあるという。
モンマルトルの丘のふもとにはピガールというパリ一の歓楽街がある。この辺りは夜ともなれば、新宿歌舞伎町のような賑わいをみせる。
このピガールの目印といえば、ロートレックなどの絵に出てくる赤い風車のムーランルージュというキャバレーがある。
この赤い風車のすぐ裏に、ローラン・プティがディレクターをしていたマルセイユのバレエ学校に移ったオペラ座のバレエダンサー、レイモン・フランケッティが現役引退後、夫婦で教えていたスタジオがある。ここは、昔から多くの日本人ダンサーたちがレッスンに通ったところだ。日本バレエ協会の島田廣会長も通ったというのだから、その歴史は長い。
赤い風車の左隣はハンバーガーショップになっていて、このスタジオに通うダンサーたちの待ち合わせ場所になっているのだが、島田会長が今は亡き奥様・服部知恵子と汗を流したときは『シラノ』というカフェだったという。
そのピガール広場に1、2年前までナルシスという店があった。そのカフェに一度も入ったことがない。でもその店のことを私が覚えているのは、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)に出てきたからだ。
ジャン=ピエール・レオが演じたアントワール・ドワネル少年が悪さを重ねて、とうとう警察に突き出され少年院に連れていかれる。トラックの後ろに乗せられた少年は車の窓から住み慣れた街を見つめている。その時、彼の目に映ったのがピガール広場のナルシスというカフェだった。
だからナルシスをピガール広場の目印にしていたのに、この夏、広場を散歩したらこの店が閉められていた。またひとつヌーベル・ヴァーグの舞台になった場所が消えてしまったのは寂しかったが、ここから数分歩いたところに一軒のフランス・レストランがある。
店の名前は
映画でのレストラン内部はスタジオ撮影だが、店の外で雪を投げ合ったりするシーンはここで撮られたらしい。
実際にこの店に行ってみたが、大通りから1つ入ったところなので、閑静なところ。夏は歩道にまでテーブルがでていて、冬を舞台にした映画の雰囲気とは少し違っていたが、内部の左側に回り階段があったりするところが映画の雰囲気と変わらない。
ここで食事をしてみたが、コースメニューで68フランとなかなか手頃。サラダやパテのオードブル、ステーキや羊の肉などのメインにチーズかデザートが付いてこの値段なのだから、大食漢のフランス人の胃袋と懐を必ずや満足させることだろう。
ところでハーフボトルのボジョレーワインを注文したのに、ボーイが持ってきたのはフルボトル。間違えたのかな、と思ったら「半分まで飲んでください」とのこと。でもボトルに半分の線が引いてあるわけでもない。
酒が進めば、半分の予定が1本になってしまうのだろう。なかなか上手な商売……。でも昼間だったので、お会計の時にワインはボトルの半分以上残っていましたが。
ピガール広場から坂を降りていくとサン・ジョルジュ劇場という小さな劇場がある。ごく普通の目立たない劇場だが、ここもトリュフォーの映画の舞台となった劇場だ。そしてこのサン・ジョルジュ通りで1834年1月19日エドガー・ドガが生まれた。
カトリーヌ・ドヌーブとジェラール・ドパルデューが共演した『終電車』(1981)でここはモンマルトル劇場と呼ばれていた。
第二次世界大戦下のパリ。ユダヤ人の夫ルカを劇場の地下室にかくまいながらドイツ軍の目をかいくぐって芝居を続ける
ドヌーブは誰にも知られず地下に降り、夫の指示を受けながら芝居を演出していく。幕が開けば舞台から聞こえてくる声を地下でじっと聞いている夫・ルカ。俳優が妻にまんざらでないことも、妻も同じような感情を持っていることを感じながら、消えたはずの夫は地下でじっと息をひそめて暮らす。
ラスト、けがを負って病院のベッドに横たわるドパルデューと看護婦姿のドヌーブ、これが映画の登場人物の現実かと思ったら、それは映画の中の芝居のラストだった。
カーテンコール。そのとき客席の誰かが叫ぶ「ルカがいる!」と。拍手の嵐を背に舞台に上がるルカの手を取る妻である女優。3人が並んだカーテンコール。片手で夫の手を握り、もう片方の手で愛人の手をしっかり握っている。なんてフランスの女はしたたかなのだろう。自分の愛に対して真剣なのだろう、これが大人の愛なのだろうか、と感心したりもした。
このときまで大根役者という印象しかなかったドパルデューの名演ぶりに、いかにトリュフォーが愛を描く魔術師であるかを感じずにはいられなかった。
カトリーヌ・ドヌーブというと何歳になってもデビュー作『シェルブールの雨傘』(1964 ジャック・ドゥミ)の可憐なイメージがついて離れないが、このときばかりは座長役者の貫禄十分だった。
これもトリュフォーという映画監督の魔力なのだろうか。
また『終電車』の魅力はテーマ曲にもあった。
「サンジャンの恋人」というシャンソンは、ちょうど映画の舞台となった時代に流行ったシャンソンだった。
歌詞を読んでみた。字幕に書かれたとおりの愛の歌だった。美しい恋人を思う歌。
トリュフォーは自分が少年時代を過ごした街を映像にすることが多い。
楽しい思い出がいっぱいある街じゃないのに……。家族の愛に見守られることなく決して幸せじゃなかった少年時代。盗みを働いたり家出をしたりしていた孤独な不良少年が、何人かの心優しき大人たちに出会わなかったら……ピガールの街で客引きをするチンピラにでもなっていたのだろうか。
ピガール広場からナルシスは消えてしまったけれど、この界隈を歩いていてわんぱく少年にすれ違うと、アントワーヌ・ドワネルに見えて仕方がない。1984年10月21日、フランスワ・トリュフォーはガンで長くない一生を終えた。恋人だった女優ファニー・アルダンは、彼の子供を身ごもっていた。そのファニー・アルダンも最近『ペダル・ドゥース』(1995 ガブリエル・アギオン)、『リデュキュール』(1996 パトリス・ルコント)など立て続けに出演、セザール賞の主演女優賞に輝いただけでなく、舞台でも大活躍。ブロードウェイで大ヒットした『マスタークラス』にロマン・ポランスキー監督の演出で主演、見事プリマドンナ、マリア・カラスを演じきっている。
フランソワ・トリュフォーのお墓は、ピガールから近いモンマルトルの墓地にある。『逃げ去る恋』(1978)を観ていたら、成人したアントワーヌ・ドワネル(もちろん、ジャン=ピエール・レオ)が死んだ母の恋人に偶然会って、母の墓に連れていかれる。それがモンマルトルの墓地だった。この映画の撮影から6年後、自分がこの墓地に眠ることになることを彼は知っていたのだろうか。トリュフォーの墓はただ棺をかたどった黒い石に名前と1932年~1984年と刻まれただけのシンプルな墓だけど、亡くなって12年たつ今も花が絶えることがない。まだ多くの人の心の中で生き続けているに違いない。さすが愛を描かせたらフランス一といわれた監督だけのことはある。
ところでモンマルトルと日本は奇妙な縁のある場所だ。
1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝わったことは小学生のとき、社会の授業で習った。このザビエルらによってイエズス会が誕生した場所が、モンマルトルのイヴァンヌ・ル・タック通りの9番地なのだ。ゴッホら芸術家が住んでいた洗濯船と呼ばれるアトリエからも、赤い風車のムーランルージュからもすぐのところだ。
サクレクール寺院は数多くの映画の舞台になっている。もちろん日本映画の中でも、この界隈は出てくる。『バースデイプレゼント』(1995)では和久井映見が演じた全日空のスチュワーデスを好きになったガイドの岸谷五朗が、画家と偽ってモンマルトル界隈をかっ歩している。
そしてフランスを代表する映画監督のフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』でもジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(1986)でも、サクレクール寺院は出てくる。だいたいこの監督たちはサクレクールの鐘の音が聞こえるところに住んでいるのだ。自分の家から半径1キロ以内で、映画が撮れるなんて、フランスの映画の状況が本当にうらやましい。
特にクリシー広場にオフィスを構えていたジャン=ジャック・ベネックスは、『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』で主人公のふたり(ジャン=ユーグ・アングラード、ベアトリス・ダル)が地下鉄ローマ(ROME)駅から地上に出たところで、まず迎えてくれるのがサクレクール寺院というシーンを撮っている。デビュー作『ディーバ』(1982)でも、サンラザール駅からモンマルトル界隈を描いていた。
アラン・ドロンと『愛の囁き』をデュエットした歌手ダリダが、自殺して10年が過ぎた。モンマルトルを愛した彼女の碑が建てられた。ダリダの墓もモンマルトル墓地にあり、等身大の銅像のダリダは今も美しい、この墓にも花が絶えることがない。
モンマルトルのこの辺りが映画の撮影によく使われている理由のひとつは、モンスニ通りの隣、フランクール通りにかつてパテ映画の撮影所があったからだろう。今は撮影所は閉められてしまったが、パテ映画の撮影所の門はそのままになっている。その門を入ると、パテ映画の関係者で亡くなった人の名前が碑に刻まれている。現在、映画の撮影はブローニュにあるスタジオ・ビランクールなどで行われることが多い。
そして撮影所は現在、国立
もちろん映画学校を卒業したからといって、全ての卒業生が映画の世界に進むわけではない。TVやCMの世界に進む者も多い。
また映画学校を卒業していなければ、映画監督として成功できない、ということはない。それは『フィフス・エレメント』(1997)、『レオン』(1994)などでハリウッドに進出したリュック・ベッソンの成功ぶりを見てもわかるだろう。
ルノワールと言う名前は画家として有名だが、映画監督のジャン・ルノワールはその息子、優性遺伝の典型だが、『友だちの恋人』(1987 エリック・ロメール)に主演していたソフィー・ルノワールはオーギュスト・ルノワールのひ孫だ。
オーギュスト・ルノワールは、モンマルトルを舞台にした絵を描き、ジャン・ルノワールはモンマルトルの映画を残している。ソフィー・ルノワールが来日したときにそのモンマルトルに隣接する「17区にアパルトマンを買った」と言っていた。モンマルトルのよさは代々に渡って堪能していくものらしい。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/04/23
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