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スターダスト・レヴュー

 その日の演目はウェーバーの序曲とシューベルトの弦楽四重奏、二十分の休憩をはさんでメンデルスゾーンの交響曲という内容だった。

 オーケストラを聴くのは何年ぶりだろうと、飯村圭二(いいむらけいじ)は休憩時間のロビーでワインを飲みながら考えた。

 土曜日の午後たまたま通りすがったホールの玄関に「小谷直樹(こたになおき)凱旋記念コンサート」の看板を見つけ、矢も楯もたまらずにチケットを買った。タクトを振る小谷は表情も(おどろ)くほど変わっていた。十年の歳月というより、十年の経験のせいだろう。

 そういえば自分はたいして変わっていないな、と圭二は壁巻きの鏡を見ながら思った。

 休憩時間にワインを飲むという習慣は、クラシック・コンサートのお定まりで、ロビーに出たとたん圭二もべつだん飲みたくもないグラスを手に取っていた。

 それにしても、世の中は豊かになったものだ。数年前の好景気に便乗して、立派なコンサート・ホールが次々と落成した。当然それらを埋めるだけのスケジュールがあり、客もいることになる。文化というやつはけっこう金で買えるのだな、と思う。

 ワイングラスを片手に歓談する周囲の声が一瞬静まったと思う間に、圭二は背中を叩かれた。

「やあ。チケットを送ろうと思ったんだが、住所がわからなくて」

 コンサートの主役である小谷直樹が燕尾服のまま立っていて、圭二は再会を喜ぶより先にたじろいだ。

「あとで楽屋を訪ねるつもりだったんだが──俺のこと、よくわかったな」

「左の桟敷にいたじゃないか。ステージに入ったとたんにわかったさ」

と、小谷は長髪をかき上げて、あたりを(はばか)るように(ささや)いた。

「あの席、音が悪いだろう。次はメンデルスゾーンだから、あそこじゃラッパがやかましい。下におりてこいよ、席をとっておくから」

「いいよ。俺はおまえの棒振りを見にきたんだ。上の方が良く見える」

 小谷に会うつもりはなかった。もちろん楽屋を訪ねる気などない。周囲の視線にさらされて、さてこの場をどう切り抜けたものかと圭二は考えた。

「なあ、飯村。あとで打ち上げをやるから、顔を出してくれよ。関東響のメンバーも、古株は知っているだろう」

「いや、せっかくだが仕事があるんでね。また日を改めて」

「仕事って、いまどこにいるんだ」

「え? ──ああ、オーケストラじゃない。俺な、リタイアしちまったんだ」

 小谷は訊(き)き返そうとして口をとざした。リタイアという言葉にはあまりにも不穏(ふおん)な響きがある。音楽家は職人だ。

「音楽教室をやってるんだ。子供らにピアノを教えている」

 もう少しましな嘘はないものかと、言ってしまってから圭二は悔いた。四十歳という年齢を考えれば、もっともらしい嘘ではあるが。

「チェロは弾いていないのか」

「そういうわけじゃないが、もうオーケストラはうんざりでね。もともと向いていない。中央フィルをやめたのも、監督と揉めたんだ」

「そりゃおまえらしいけど……何だかもったいないね」

 ファンらしい婦人が捧げ持ってきたワインを受け取り、小谷は笑顔を(つくろ)って握手を返した。

「ところで、結婚は?」

「あいにく、まだチョンガーだ。おまえは?」

「向こうで結婚した。子供も二人いる」

「小学生にバイエルを教えているうちは、まず無理だな──おい、時間だぞ」

 小谷はロビーの時計を見上げ、気ぜわしげに名刺を押しつけた。しゃれた字体で「関東交響楽団音楽監督」とあり、裏には英語とドイツ語が並んでいた。

「あいにく名刺を切らしている。近いうちにこっちから連絡するよ」

実は名刺などこの十年、持ったことがなかった。

 小谷は行方不明の指揮者を探しにきた進行係に圭二を紹介すると、垢抜けた握手をして去って行った。

 シンフォニーは聴かずに、圭二はホールを出た。自分を紹介した小谷の言葉が妙に(こた)えた。

(彼、芸大の同期なんだ。正面のS席に替えてくれ)

 小谷の掌の汗ばんだ感触が、ありありと残っていた。

 

 四方を濠や神社や御所やシティ・ホテルの敷地に囲まれているせいで、赤坂は膨らむことのない盛り場だ。

 おそらく夜間飛行の空の高みから見おろせば、そこは真黒な森の中に蓋を開けた、小さな宝石箱のように輝いて見えることだろう。光の注ぎこむ唯一の道

が乃木坂から細く延びているが、それとて脇に何歩か入れば、うっそうとした木立の闇に呑まれる。

「スターダスト」はそんな赤坂の光と闇の境い目に、舷灯のように古調な看板を掲げている。

 飯村圭二の仕事は、小学生にバイエルを教えるほどまともではない。古いクラブでピアノを弾き、興が乗れば弾き語りに渋いジャズを唄い、求められればカラオケがわりに演歌の伴奏もする。

 指揮者とのほんのつまらぬ行きちがいからオーケストラを辞めて失業していたころ、アルバイトのつもりで始めた仕事が、いつしか本業になった。

 収入は楽団員よりもましだし、口よりもピアノの方が饒舌(じょうぜつ)な圭二にとって、そこは存外居心地のいい職場だった。ましてやタキシードが良く似合って、スタンダードナンバーをロマンチックに弾けるピアニストはそうそういない。圭二のピアノは「スターダスト」の売りになり、本職のチェロを忘れて十年が経った。

「スターダスト」は、ずいぶん昔に流行したサパー・クラブ──つまり銀座から流れてきた客とホステスが真夜中の食事をしながら恋のかけひきをする場所である。フロアにはランプシェードの灯るテーブルがゆったりとめぐらされており、窮屈なぐらいに育ってしまった棕櫚(しゅろ)の木が、グランド・ピアノのへこみを(おびや)かしている。

 沼のように暗いフロアから一段上がったところに、立派なマホガニーのカウンターがあり、おとなしい、初老のバーテンダーがシェーカーを振っている。

 ママ、というより、昔ふうにマダムと呼んだ方が全く似合う老店主は働き者で、ウェイターやコックに対しては少々口やかましい。若い彼らの腰が据わらぬのはそのせいなのだけれど、マダムはいっこうに気付かず、近ごろの子は辛抱がきかないと言っては嘆く。

 店も土地も、空室だらけの古マンションもマダムの持物だから、赤字経営にはちがいないのだが、さほどの切迫感はない。

 十年の時間が夢のように過ぎてしまったのも、たぶんそうした居心地の良さのせいなのだろう。

「おはようございまあす」と、いつに変わらぬ明るい声を上げて、ギタリストのマサルが階段を下りてきた。

「ねえ圭二さん。ピアノ、そろそろ調律しないとまずいですね。(ジー)の音、とばしてるでしょ」

「わかるか?」

 マサルは真赤な髪を顎で振り上げて、宝物のようにフェンダーのギターを拭き始める。みてくれはロック・バンドのようだが腕前は大したもので、勘もセンスも良い。アコースティック・ギター一本で圭二のピアノと遜色のないステージをこなせるギタリストは、二人とはいないだろう。ピアノとギターは三十分ごとに交替する。

 圭二のピアノに合わせてチューニングを済ませると、マサルは手品のように鮮やかなアドリブを弾いた。

「スタインウェイのグランド・ピアノも、こう音痴になっちまったんじゃかたなしだな」

 すっかり黄ばんだ鍵盤を拭い、圭二はFシャープと全く同じ音になってしまったGのキーを人差指の先で叩いた。

 十年前、アルバイトが本業になってしまった責任は、こいつにもある、と思う。

 圭二の生家は子供にチェロを習わせるほど豊かだったのだが、父が早死して一挙に没落した。杉並の豪邸から郊外のマンションに引越し、スタインウェイのグランド・ピアノは中古のアップライトに変わった。常識で考えればそのとき音楽家の道はあきらめるべきだったのだが、母は(こだわ)った。

 この店に立派なスタインウェイが置いてなかったら、アルバイトさえしなかったと思う。開店前に出勤して思うさまその音色を堪能した結果が、つまりこういうことだ。

 ウェイターが掃除をおえ、ランプシェードの灯をともして行く。

「ねえ、圭二さん。きょういい話があるんだけど」

「なんだ。エリに子供でもできたか」

「冗談やめてよ。実はね──」

 ある高名なジャズバンドにギターの欠員ができて、突然お声がかかったのだと、マサルは言った。

「へえ。そりゃすごいじゃないか。いよいよチャンス到来ってわけだな」

 マサルのことを良くは知らない。べつに知りたくもないのだが、妙に人なつこいこの青年は、少し(なま)りの残る言葉で、問わず語りに話しかけてくる。

 ほんの百メートル先にある「シェラザード」のエリと付き合っていることも、知っているのは圭二だけだろう。

「さて、時間だ」

 客がいようがいまいが、午後九時には店の名にちなんだ「スターダスト」のかけあいを始める。

 圭二のスタインウェイに合わせて、棕櫚の葉蔭のスツールに腰を下ろしたマサルのギターが、甘いスタンダード・ジャズの名曲を弾く。

 マダムは帳面を片付け、老バーテンは蝶ネクタイを確かめ、黒服のウェイターたちは銀盆を抱えてホールの隅に並ぶ。夜の(とばり)が下りて行く──。

 

 厨房を上って通用口をくぐると、沈丁花の植込に囲まれた小さな公園があった。

 滑り台は朽ちており、砂場は野良猫の便所になっているが、夜中には近くの店の従業員たちの格好の喫煙所になる。腰の据わらぬわりにはけっこう律義者が多いので、ベンチの前にはちゃんと水を張ったソースの空缶が置いてあり、ラーメンの食い殻が散らかることもない。

 その公園を横切った路地の奥に、圭二のアパートはあった。

 フィリピン人のバンドがすしづめで生活していた二間続きの部屋を、彼らの帰国と同時にまた借りした。今もアパートの住人はすべて外国人で、全く不特定多数の男女が出入りしている。不動産屋は、もう勝手にしろという感じで姿も見せないし、契約の更新もなければ、家賃もずっと据え置いたままだった。

 勤め先まで徒歩数十秒という立地の良さだから、休憩室のつもりで借りたものが、いつしか住居になってしまった。日は当たらず風も通らないひどい部屋だが、妹夫婦と母が同居している郊外の家よりは住み心地がいい。

 この生活は、もうどうしようもないほど自分の身丈に()まっているな、と感じるときがある。

 ──(けやき)の葉の散り始めた公園を横切ってアパートに戻ると、エリが来ていた。

「おじゃまさまァ」と、手鏡の中で化粧を直しながら言う。

「店は?」

「おちゃっぴきよ。あれ、あとさきまちがえちゃった。マサルとラーメン食べようと思って出てきたのに」

「俺でもいいか」

「べつに、いいけど──」と、エリは鏡の中でくすっと笑った。

「何だよ」

「圭二さん、やさしいね。マサルは作ってくれないよ」

「こんなもの、フタ開けて湯を入れるだけなのに、やさしいもくそもあるか」

 この女のことも良くは知らない。余り知りたくない気はする。目元のくっきりとした男好きのする顔立ちだが、店も住いも不定で、赤坂の夜をくらげのように漂っている。くらげとの面識は長いから、仮に知り合ったころ十代の家出娘であったにしろ、今は相当にしたたかな年齢になっているだろう。少なくともマサルよりはいくつも年上だ。取柄といえば、ちょっとびっくりするぐらいの、スタンダードやシャンソンを唄う。

 圭二はラーメンを二つ作って、ガラスのテーブルに置いた。

「ところでおまえ、前の旦那とは別れたのか」

「前の旦那って」

馬場(ばば)だよ。まわりが知らないとでも思ってるのか」

「べつに。籍入れてたわけじゃないんだし、私が食わせてたわけでもないもの。あんなの、ハイサヨナラでおわりよ」

「やくざ者がそれで済むのか? 向こうだって体面があるだろう。目の前でうろうろされてたんじゃたまらない」

「平気よ。馬場ちゃん、あれでけっこうやさしいから」

「まったくノーテンキなやつだな、おまえは」

 話題をそらせるように、エリは窓のない奥の間に(はし)の先を向けた。

「ねえねえ。一度きこうと思ってたんだけどさ。あれ、なに?」

 四畳半の半ばを、二段ベッドが占領している。上段は物置きで、下段はばんたび転がりこんでくる酔いどれホステスの寝床だ。

「あれは強制送還になったフィリピン・バンドが居抜きで置いていった。なかなか重宝してる。何なら使ってもいいぞ」

「そうじゃなくって、上の段に顔出してるものよ。ギターじゃないよね」

 チェロのケースが(ほこり)をかぶったまま眠っていた。

「セロ弾きのゴーシュと同じだ」

「へえ……圭二さん、そんなのも弾けるの」

「昔、ちょっとな」

「聴かせてよ」

 圭二はラーメンをくわえたまま首を振った。

「もう忘れちまったよ」

 一度だけ、エリを抱いたことがあった。五、六年も前のことだろうか、夜中に泣きながら転がりこんできて、せがまれるままに抱いた。まちがいというより、付き合いに近い。だからそんなことはお互い、夜が明けたとたんに忘れていた。

 しかし心のどこかに被いきれぬ記憶が残っていて、時おり圭二に老婆心を起こさせる。こんな女の世話を焼いていたら、きりがないとは思うのだが。

「で、おまえらどうするんだ。馬場とのことじゃないよ。おまえとマサルとは、これからどうするんだ」

 ごちそうさま、と流しに立って、エリは不満げに呟いた。

「やだ、圭二さんがお説教。どこかのおっさんみたい。あたしのこと、心配してくれるわけ?」

「おまえなんか心配じゃないよ。マサルの方だ」

「ひどい。何だかあたしがマサルの足引っぱってるみたい」

 おそらくマサルにもたらされたチャンスを知っているのだろう。それ以上は立ち入るまいと、圭二は口をつぐんだ。

「ねえ圭二さん。あたしね、あしたオーディションなんだ。あとでレッスンしてよ」

「またか。もうやめとけって。金払ってオーディション受けて、残念でしたまたどうぞ。そういう商売なんだよ、やつらは」

「こないだ、受かったよ」

「だから、採用決定しました、つきましては、だろ、そういう商売なんだって」

 赤坂に星の数ほどもある芸能プロダクションの大方はそんなものだ。オーディションの受験料が三万円、合格者の登録料が五十万円。しかし仕事など回ってきたためしはない。何年もそんなことをくり返していて、エリはまだ懲りない。早い話がプロ歌手の肩書きを、五十万円で買っているだけだ。

「ともかく、マサルのマンションで女房づらはするな。ヤサがないんなら、そのベッドを使え」

「くそじじい」

 タキシードを羽織って白髪の目立ち始めた髪を整え、圭二は部屋を出た。

 

 近ごろ区役所がおしゃれな街灯をつけてくれたおかげで、公園はステージのように明るくなった。陽気なウェイターやバンドマンが、ギターに合わせて影を踏んでいる。

 まるで芸能界の先輩にそうするような挨拶(あいさつ)に手を挙げて応えながら、圭二は沈丁花の垣根をまたいで「スターダスト」の通用口をくぐった。

狭い階段をマサルが昇ってきた。

「エリが来てるぞ。何なら一時間つないどこうか」

「え? ──ああ、いいですよそんなの。それより、圭二さんにお客さんが来てますけど」

「俺に、客が?」

「飯村圭二さんいますかって、何だか改まってました」

 とっさに、小谷直樹だと思った。関東響の古いメンバーの何人かは、自分がここにいることを知っている。あるいは実家に電話がかかれば、母は小谷を懐しがって、きっと店の所在を教えるだろう。

 店はがらんとしていた。カウンターに勤め帰りのアベックが一組いるきりで、赤いランプシェードが空席を照らしている。

 小谷は隅の席で手を挙げた。軽く会釈をしたなり、圭二はピアノの前に座った。

 ウェイターがブランデーを届けた。グラスを闇に向けてひとくち咽をしめらせ、圭二はノクターンを弾いた。いつもはキャバレロのように弾く曲を、アシュケナージのように弾いた。

 昔と少しも変わらぬ小谷の几帳面さと誠実さを背中に感じながら、やはりコンサートは最後まで聴いてくるべきだったと、圭二は後悔した。打ち上げにも顔を出してお茶を濁してくれば、まさかこんなところまで自分を追って来はすまい。

 Gの音をとばさねばならないのは辛かった。それがスタインウェイのエラーであることを、小谷は聴きとってくれるだろうか。

 三十分の後、振り返ったボックスに小谷の姿はなかった。ウェイターが、お客さんの忘れ物だと言って、角封筒を持ってきた。

 昼間圭二が聴くことを拒んだメンデルスゾーンの指揮譜(スコア)が入っていた。忘れ物ではあるまい。念入りな書き込みを入れた大切なスコアの欄外に、ホテルの電話番号が書かれていた。

 その夜、圭二は珍しく酔った。

 正体のなくなるほど酔っても手元が狂わないのは年の功で、むしろそんなときの圭二のピアノは、お里の堅さが消えて聴きやすい。

 

 日枝神社の並びの丘の上に建つホテルは、造作は古いが格調高い。かつて何ヵ月かラウンジでピアノを弾いたことがあったが、旧知の楽団員に見つかっていやな思いをした。

 翌日の午後、圭二は意味深な忘れ物を持って、ホテルのスイート・ルームに小谷直樹を訪ねた。

 寝室から女子供のドイツ語の会話が聴こえていた。

 小谷は構えている。まるで一晩中、圭二に言うべきことを考えてでもいたふうだ。

「向こうに置いてこようと思ったんだが、そうもいくまい。離れていると、男と女はだめになるから」

「おまえが来れば、鬼に金棒だよ。関東響はうまくなった。びっくりしたろう」

「ああ。いいスポンサーがついたからね。金をかければ音は良くなる」

言ったとたん、失言に気付いたように小谷の端正な顔が(かげ)った。

 そうだ。金をかければ音は良くなる。小谷家の三人の兄妹はみな大成功をした。弟はピアニスト、妹はヴァイオリン、ともに世界的なプレイヤーになった。

「実はな、飯村。節子(せつこ)のことなんだけど──」

 おいでなすった。圭二はなるたけ明るい表情を繕って、話題を受け止めた。

「この間テレビの衛星放送で見たよ。音楽祭でシベリウスを弾いていた。絶品だったね」

「ああ。ヴァイオリンは年が行くとうまくなるね。失恋した分、情感が出るのかな」

 真面目な嫌味を、小谷は笑いもせずに言った。節子はいくつになったのだろう、と圭二はテーブルの下で指を折った。小谷や自分たちと入れ替りに芸大に入ったのだから、三十六──もうそんな(とし)になるのだろうか。テレビで見た節子は美しく、別れたあのころとどこも変わってはいなかった。

 圭二のドロップ・アウトは節子がヨーロッパに留学していた間の出来事である。成田のロビーで物語のような抱擁をして以来、会ってはいない。

「節子のやつ、電話も手紙も梨のつぶてだったって。ああいう性格だから、からっとしたものだけどな」

 節子はわかりやすい女だった。さほど執拗な連絡を寄こしたわけではない。背を向けた恋人を追うことは、彼女のプライドが許さなかったのだろう。

「べつに冷たい女じゃないよ」

 と、小谷は妹をかばった。そんなことはわかっている。冷淡な女が、あれほど情熱的にシベリウスを弾くはずはなかった。

 きのうコンサート・ホールで出会ったとき、圭二が結婚しているのかどうかをまず確認した小谷の言葉が胸に(よみがえ)った。

「節ちゃんとは、どだい釣り合わないよ。俺はどう頑張ったって、ソリストになるほどの才能はない」

 正しくは、金がないというべきなのだろう。成田で別れの抱擁をしたとき、背中に回された節子のストラディバリウスの重みは応えた。一億円の楽器の重みだった。

「節ちゃんは、(ひと)りなのか」

 小谷は少し言いためらった。

「結婚はしたが、一年で別れた。相手はザルツブルグのチェリストで──」

「チェリスト?」

「ああ。バッハの無伴奏組曲を聴いたことがある。うまかったが、おまえよりはへたくそだったよ」

 将来を言いかわしていた圭二と節子は、ひと夏を軽井沢の小谷の別荘で過ごしたことがある。

 そのころ、二人はよくバッハを弾いたものだ。

「いいものを知っていれば、それ以下のもので満足するわけはない。わかるだろう」

「チェロのことだね」

 小谷は答えなかった。

 運ばれてきたルーム・サービスのコーヒーに口さえつけず、圭二は席を立った。戸口まで送りに出た小谷の顔は、言うべきことの何ひとつ言えぬ苦渋に(ゆが)んでいた。

「なあ、飯村。関東響にこないか。もういちど、やり直さないか」

「俺が? 冗談はよせよ。おまえ、音楽監督だろう。仕事には責任を持て」

「来月、節子が帰ってくる。関東響とコンサートをやるんだ。なあ、あいつのバックをいちど弾いてやってくれないか」

「十年の空白を甘く見るなよ。仕事には責任を持て」

「大丈夫さ。カムバックしたプレイヤーは何人も知っている」

「酒場の弾き語りからカムバックしたプレイヤーもか?」

 小谷は悲しい目をした。ドアを閉めかけて、圭二は捨てぜりふを吐いた。

「それに、バツイチはごめんだ。べつに不自由はしちゃいない」

 何でそんなことを言うのだろうと、圭二は廊下を歩きながら考えた。自分は()じくれている。

 オーケストラの指揮者と(いさか)い、弾き語りに身を()とし、恋人を捨てた。正当な理由は何ひとつなかった。

 歩道橋を渡ると、住みなれた町が圭二を迎えた。赤坂は秋のいろに染まり始めている。

 

「スターダスト」が突然の危機に見舞われたのは数日後のことだった。

 月末の給料を手にしたとたん、コックとウェイターが全員、何の前ぶれもなく店を辞めたのだ。

 マサルの門出を祝って、閉店後のフロアで祝杯を上げた。そのときはコックもウェイターも和やかに酔ったのに、翌日はキッチンもフロアも、もぬけのからになった。

「まったく、今の若い子ったら何を考えてるんだろう。義理も人情もありゃしないわ」

 マダムはドレスの裾をからげて掃除器を使いながら、さかんに愚痴をこぼす。

「悪いねえ、圭二さん。ちゃんとこの分、ギャラにつけるからね」

 こういうとき、勤続十年のピアニストは頼りがいがあった。見よう見まねで、コックの代りが務まる。

 とりあえずはピアニストがコックを兼ね、マダムとバーテンとでフロアを切り回すしか方法はなかった。

「何だか老人クラブみたいだね、ママ」

 と、バーテンが笑う。

「まったくだわ。四十と五十と六十。いっそお客も年齢制限しちゃおうか──圭二さん、足らないものは何でもコンビニで買ってきて。ともかく格好にしなきゃ」

 冷蔵庫を開けると、若いコックは多少の責任を感じていたものか、材料がぎっしりと詰まっていた。

 圭二は小さな窓から、フロアに顔を出した。

「ピザソース。どうしようかね、ママ。作り方がわからない」

「ええと、ケチャップにトマト・ピューレー。あとは何だっけ……できあいのを買ってきなよ。食材屋、知ってんだろ」

 苛立ってはいるが、マダムの顔にさほどの切実さはない。本当ならひとたまりもない事態だけれど、古い常連客ばかりのこの店なら何とかなる。

 マダムは郊外に病院を経営する医者の囲い者だという噂だが、十年間そのパトロンは店に現れたためしがなかった。

 一度だけ、東急ホテルのティールームでそれらしい人物を見かけた。いかにも病院長という感じの上品な老人で、向き合って朝食をとるマダムの手元には、ホテルのルーム・キーが置いてあった。マダムは圭二に気付いたとたん目を()らし、ルーム・キーをナフキンの下に隠した。それで圭二も、向かいの席の老人がパトロンであると知ったのだった。

 いずれにしろそういう男と女の関係は想像を越えている。

「ピザソースとキャビア。買ってくるよ」

「お金、たてかえといて。悪いね、圭二さん」

 看板を地上に担ぎ上げ、多少の買物をするために圭二は店を出た。途中、エプロンをつけたままであることに気付き、あわててはずした。

 一ツ木通りは月末の酔客で華やいでいた。

 馬場に出くわしたのは、テレビ局を通り過ぎた路上である。通りの向こう岸から「先生、先生」と呼びかけながら、馬場はガードレールを(また)いでやってきた。少し酔っている。

「よお、先生。ちょっと話があるんだがね」

 赤坂のやくざは何となくカタギと共存している感じで、いわゆるコワモテはいない。ことに圭二のような町の古顔に対して因縁をつけたり、悶着を起こしたりするようなことはない。昔から多くの組織が競合し、人口に対する占有率からすればおそらく東京一の赤坂では、それが彼らの伝統であり、永遠の礼儀である。

 お茶でも飲もうと親しげに言うのを、圭二は事情を説明して拒んだ。

「へえ。若い者ンがいっぺんにフケちまったってか。まったくしようのねえやつらだなあ。まあ、きょうび良くある話だがよ──ところで、先生。こんなことスッパリと訊くのはどんなもんかと思うんだが」

 と、馬場は街路樹の幹に顔を寄せて、何だか悪事でも持ちかけるように囁いた。

「スターダストでギター弾いてる、マサルってガキのことなんだが」

 恫喝(どうかつ)しているふうはまったくない。むしろ懇願するような口調で、馬場は(たず)ねた。

「エリとあいつは、どうなってんの?」

 煙草を勧めると、馬場はちょこんと頭を下げて受け取った。

「良くは知らない。だが、エリはあんたのこと避けてるようだけど」

「わかってるって。そんなこたァ百も承知なんだって。でもね、先生。あいつは二年も俺と一緒にいたから、逃げられましたじゃ若い者ンの手前、しめしがつかねえんだよ」

 通りすがる兄貴分に、オッスと頭を下げてから、馬場は路地に圭二を誘った。

「なあ先生。身内にゃ言えねえから、あんたに泣き入れていいか」

「ああ、いいよ。誰にも言わない」

 やくざはみな年齢不詳だが、こうして虚飾を捨てた顔を見れば、馬場は若い。三十四、五か。

「女をカタギに寝取られたってのァよ、最悪の面汚しなんだ。しかも町なかを二人してウロウロされてたんじゃ言いわけも思いつかねえ。俺なんかよ、ただでさえ懲役ボケなんて言われて、若い者ンからコケにされてんのによ、本当なら事務所のひとつも構えてなきゃならねえ齢なのによ──だからなおさらそういうことをキッチリやっとかにゃ、いよいよ安く見られちまうんだ」

「だから、どうするっていうんだ」

「そう、だからよ。何とかエリのやつを連れ戻して、詫び入れたから勘弁してやったと言やァ、馬場もなかなか(はら)が太え、ってことにもなるさ」

 未練があるようだ。話すほどに馬場の肥えた体は、萎えしぼんで行くようだった。

「それは、無理だな。エリはそっちのことを避けてるんだ。もう戻らないよ」

「そうかねえ」と、馬場はやり場のない怒りを吐き棄てるように、唾を吐いた。

「実はよ、先生。ゆんべ政兄イに呼ばれてどやされた。カタギに迷惑かけちゃならねえが、スジは通せって。俺が安く踏まれるのは、みんなが安く踏まれることなんだから、そういう始末はちゃんとつけろって。わかるよな、政兄イの言うことはいつだってまちがいねえんだ」

「だから、どうしろって広野(ひろの)さんは言うの」

「マサルってのはギター弾きなんだから、腕の一本もヘシ折るか、指とってこいって」

「まずいよ、それは。命を取るのと同じだ」

「だからそうしろってよ。ほら、やつらのやることにゃ、プロダクションのシノギなんかがからまるからな、余計ほっぽっとくわけにゃいかねえんだ。政兄イがきつく言うのも当たりめえなんだ」

 わかるような気がする。スジがどうしたということではなく、星の数ほどもある芸能プロダクションやプロモーターから、安く見られてはならないのだろう。

 馬場の目は一途だった。

「俺だってそんなことしたくねえからよ、だからエリに戻ってきて欲しいんだ。惚れたとかはれたとか、そんなんじゃねえんだよ。なあ先生、何とかエリのやつを説得してくれろ。脅しかけてんじゃねえよ、本当だよ先生。この通りだ」

 馬場はエリに惚れている。少し酔ってはいるが、ならばなおさら本音だろうと圭二は思った。

「わかるか先生。六年と六月(ろくげつ)だぜ。きょうびそんな懲役は帰って来ちゃいけねえんだ。それでも政兄イは昔のよしみで、何とか面倒みてくれてんだから」

「いっそカタギになってエリと所帯を持ったらどうだ。そこまで肚をくくれば、あいつだって少しは考えるんじゃないか」

「俺が? ──冗談よせよ。この通り指もねえし、彫物もへえってら。今さらつぶしがきくもんなら苦労はねえよ」

 つぶしがきかないという一言は、圭二の胸に重くのしかかった。

 

 その夜、圭二は厨房とステージとを忙しく行き来しながら、切実な馬場の目をいくども思い出した。

 最後の客を押し出すように帰し、看板を下げてしまうと、バーテンはソファにひっくり返ったなり高鼾(たかいびき)をかき始めた。

 厨房は嵐のあとのような散らかりようである。皿を洗い、デッキブラシで床を磨く。もともとがまめな性分で、こういう仕事は少しも苦にならなかった。

 鼻唄まじりに包丁まで研ぎだすと、マダムは疲れ切った顔をひしゃげて笑った。

「あんたは、根っから水商売むきだね」

「まあね。酒飲みだし、神経質だし、第一昼間の仕事はだめだよ、偏屈だから」

「偏屈。まあ、そう言やそうだけど──ねえ、圭二さん。いっそこの店やらないか」

「え? 俺が」

「マネージャーってことでさ。利益折半でどう?」

「利益が出れば、の話だな」

「生活は保証するよ。あたしももう齢だしさ、今度は応えたわ。人を使うのはうんざりだし、体もガタガタ」

「そんな話ならスーさんが先だろ」

 と、圭二は覗き窓からフロアを見た。バーテンはテーブルに足を投げ出して眠りこけていた。

「スーさんに金持たしたら、みんな馬と自転車に食われちまう。その点あんたなら堅いし。ねえ、考えといてよ。悪い話じゃないと思うけど」

 悪い話ではない。この店がやりようによっては儲かることを、圭二は良く知っている。余分なウェイターを四人も五人も雇っていたのはマダムの趣味で、利益はみな人件費に食われていた。

「考えてみるかなあ。俺も四十だもんな」

 このところ考えさせられることが多すぎると圭二は思った。四十という年齢の節目がそういうものなのかもしれない。

 マダムは化粧のはげた瞼をしばたたいて、色気のない大あくびをした。

「旦那の女房、くたばったんだってさ。籍入れるかってんだけど、何よ今さら。七十五の年よりのおしめ取り替えさそうってこんたんか。やだやだ」

「何年いっしょにいるの」

「三十年。いっしょじゃないけどね。ともかく三十年。考えてもみなよ圭二さん。あんたがまだ小学生のころだよ」

 厨房のドアにもたれて、マダムは眩ゆげにシャンデリアを見上げた。

「マサルちゃんも、まあうまいときに抜けたもんだ。あの子、目ェ持つよ、きっと」

 たしかにその通りだと思う。受け目と負い目は、けっこう目に見えるものだ。

 

 その明け方はひどく冷えた。

 公園を通り抜けてアパートに戻ると、エリは二段ベッドの下に体を丸めて眠っていた。

 首筋を毛布で被うと、思いがけぬ女の匂いが鼻をついた。

「おかえりなさい。──ねえ、マサル知らない?」

 マサルが町を出たことも、店をやめたこともエリは知らない。さて、取り残されたこの女をどうしたものかと圭二は考えた。

「みんなやめちまったんだ。マサルも一緒かもしれない」

 と、圭二は適当な嘘をついた。エリは少し考えるふうをした。

「……へえ。大変じゃん。あしたから手伝ってやろうかな。深夜だけ」

「ああ。頼むよ」

「あたし、ふられちゃったのね」

 エリはすっぴんの幼な顔を毛布から出して、おかしそうに笑った。

「圭二さんて、けっこう頼れるんだよね。さっき隣りのフィリピーナもそう言ってたよ。独身なのかって、真面目な顔できいてた」

 エリの飲み残した缶ビールを(あお)って圭二は生ぬるさに顔をしかめた。

「で、どうするんだよ、おまえ」

「ここにいさせてよ。家賃半分もつからさ」

 肩に巻かれたエリの腕を、圭二はふりほどいた。

「居候はかまわないが、荷物なんかどうなってるんだ」

「馬場んとこ。持ってきたいんだけど」

「じゃあ、俺が取ってきてやる」

 考えもせずに、圭二は言った。

 

 朝は、風の乾いた秋だった。

 弁慶堀や離宮の緑が一夜で色づいたように思えて、圭二は歩きながら何度も足を止めた。

 楽器を抱えて歩くのも十年ぶりだ。チェロは形も音色も感触も、秋の町に良く似合う。

 考えねばならぬことが多過ぎた。マサルのことエリのこと、馬場のこと、マダムとバーテンのこと。そして、小谷と節子のこと。

 いっぺんに問題を持ちかけられたような気がするが、実は別々の話ではあるまい。要するに「おまえ、どうするんだ」と、みんなが自分を問い詰めているのだ。四十という節目は、そういうものなのだろう。

 いま自分を取り巻いている雑音は、たとえばオーケストラのパート・スコアのようなもので、意を決して指揮台に上り、タクトを一振りすれば、ちゃんとしたシンフォニーが始まるような気がした。

 夜明けに抱いたエリの感触が、体に残っていた。以前に一度そうなったときには、はっきりと体だけの付き合いだと感じたが、けさのエリは妙に自分と似合った。エリが変わったのだろうか。

 いや、そうではあるまい。

 ──ホテルのラウンジに呼び出された小谷は、かたわらの楽器ケースを見るなり、さも嬉しそうに手を叩いた。

「オーディション、してくれるかな、監督」

「お安いご用だ。部屋へ行くか?」

「いや。おまえにピアノを付けてもらいたい。店に行こう。ポンコツだがスタインウェイも置いてあるし」

 小谷はいちど部屋に戻り、楽譜の詰まった鞄を提げて下りてきた。二人はホテルを出た。

 秋いろの坂道を下りながら、小谷はこれですべてが解決したかのように上機嫌だった。

「きのう、ザルツブルグに電話をした」

「世界の小谷節子に、か」

 小谷は指揮台の上で良くそうするように、長髪を両手でかき上げた。

「あいつ、帰国コンサートにドヴォルザークをリクエストしたよ」

「ドヴォルザーク?」

「チェロ協奏曲。おまえのために、って」

 節子の時計は止まっているのだろうか。いや、やはりあのころと同じように、二人の時計は違う時を刻み続けているのだろう。

 第三楽章の劇的な主題が耳に甦った。チェロの跳躍をオーケストラが追う。そして半ばには、チェロとヴァイオリンの美しいかけあいがあった。小谷がタクトを振り、ソロを弾く自分のかたわらで、そのとき節子はきっと、優雅に首をかしげ、白い(ひじ)を張って弓をたぐることだろう。

 歩道橋を渡って、小谷が赤坂の町に足を踏みこんだとき、圭二は暗い嫉妬を感じた。

 

「さて、課題曲は何にするか」

 スタインウェイの前に座ると、小谷は細い指を振って微笑んだ。

「グノーの瞑想曲(メディテイション)でどうだ。覚えているのはそのくらいしかない」

「メディテイション? ああ、アヴェ・マリアね」

 弓を構えながら、圭二は言った。

「はじめに断わっておくが、おまえ、十年ぶりに弓を持つチェリストに会ったことあるか」

「ないね。現実にはありえない」

「そのありえないチェリストがここにいるんだ」

「体で覚えたことは忘れやしないさ」

「そうかな。だが、俺の体は他のこともたくさん覚えたよ」

 小谷は答えるかわりに、伴奏を弾き始めた。端正な横顔は愕くほど節子に似ていた。

 思いのたけをこめて旋律を奏でると、衛星中継で見た節子の白い顔が、スポットライトの向こうの閉ざされた闇の中に浮かび上がった。

 ──せっちゃん。

 夢に見ぬ日は、一日もなかった。君はどうか知らないが、僕は十年の間ずっと、君を愛し続けてきたよ。

 ザルツブルグという町は知らない。観光案内のグラビアで見たら、中世そのままの美しい町で、君にはとても良く似合うと思った。

 何度会いに行こうとしたか知れない。だがそこは遠すぎるし、第一、僕には似合わない。

 美しく才能豊かな君は、兄さんの自慢で、高校生のころからずっと、僕らみんなのマドンナだった。だから僕と君が付き合い始めたとき、みんなは焼きもち半分にひどいことを言った。

 僕がソリストになりたくて、君や君の兄さんと仲良くしているとか、スタインウェイが弾きたくて君の家に出入りしているのだとか。僕は内気で変わり者だから、まわりに敵も多い。少しばかり成績が良かったから、彼らの(ねた)みを買ったのかもしれない。

 でも、彼らが言ったひどい噂は、あながちはずれてはいなかった。その他いろいろの楽団員のまま一生を終えたくはないと、僕が思っていたのは確かだ。

君は改まって金勘定などしたことはないだろうが、音楽家になるには医者になるよりもっと金がかかる。いや、そんなものとはたぶん、けたがちがう。何千万も何億もする楽器を買って、大学を出たらヨーロッパに何年も留学して偉い先生に師事する。それで初めて、ソロ・プレイヤーになる資格が生れる。努力や才能は、それから先の話だ。

 僕の家は芸術などとは全く無縁の成金だったから、そんなことは知らなかった。子供を音楽家にするのはステータスだと思って、僕にピアノとチェロを与えた。親父が早死して、ステータスもくそもなくなってしまったのだけれど、そのときすでに、僕には他に考えられる人生がなくなっていた。

 スタインウェイを弾くために君の家に出入りしたのは本当だ。君のお父さんやお母さんは、ただ勉強熱心な学生だと勘ちがいして、僕に好意をもってくれたらしいが。

 本当のことを言うと、君と恋をして結婚すれば、僕の未来は拓けると思っていた。つまり君に恋するより先に、僕は君の家に恋をしていた。

 ただし、君を愛したことに偽りはない。

 君は覚えているだろうか。外苑の銀杏並木のベンチに腰をかけ、日の()れるまで何時間も黙りこくって、あなたが好きですと言ったのは君の方だった。

 正直のところ、僕はあのとき感激するより先に、しめたと思った。そして君が僕の襟巻に鼻をうずめたとき、急に怖ろしくなった。

 僕も君を愛していたから、しめたと思った自分が怖くなったのだ。

 世の中は公平だけれど、僕らの世界に限っては神様の決めたカーストがあるのだと、そのとき僕は思った。それを踏み越えるためには、良心の(とが)めを必要とするのだから。

 僕はずっと背伸びを続け、爪先立っていた身長の分だけ、みんなに嫌われた。それを気に止めなかったのは、君と、君の家族だけだった。君の家や別荘に行くたび、僕は有難さとみじめさを、同時に味わっていた。

 だから成田のゲートで、家族の目も(はばか)らずに君が僕に抱きついて泣いたとき、僕は心に決めた。

 ずるい考えは、もう捨てよう、と。

 中央フィルをやめた理由を教えようか。

 定期演奏会で、僕はドヴォルザークを弾くことになっていた。ビッグチャンスだった。

 第三楽章の稽古をしていたとき、指揮者が突然タクトを投げつけて怒鳴ったのだ。

 ドント・ユーズ・ア・ヴァルガー・サウンド! 下品(ヴァルガー)な音を出すなと、僕は叱られたのだ。あの一言は忘れない。

 うまいへたは聴けばわかる。だが、音がエレガントかヴァルガーか、そんなこといったい誰がわかる?

 周囲の苦笑が僕には応えた。彼らの中で、ドヴォルザークを弾きこなすことができたのは、僕だけだった。それはみんなが認めていた。だのにみんなは、弓を叩いて笑うのだ。圭二は下品だ、と。

 せっちゃん、愚痴になるけど、聞いて下さい。

 僕はあのころ、誰よりも努力をしていたんだ。まるであのセロ弾きのゴーシュみたいに、夜の夜中まで、子供のころからずっと使っているオンボロのチェロを抱えて、指の皮が何枚もはがれ落ちるほど。

 譜面台には、いつも君の写真を置いていた。君を、心の底から愛していたから。

 中央フィルの定演でソロを弾けば、針の先を通すほどの万に一つのチャンスを掴まえることができると思った。有難さもみじめさも感じずに君を愛する方法は、ほかになかったんだ。あったというなら、教えて欲しい。

 毎晩毎晩、指のすりきれるまで練習をして、僕を笑ったやつらの十倍も二十倍もドヴォルザークを弾きこんで──それでも、僕の音は下品だった。

 僕は足元に落ちたタクトを拾い上げ、詫びるかわりに、指揮者の顔に向けて投げ返した。

 そうだ。テレビで、君のシベリウスを聴いたよ。すばらしかった。君は押しも押されもせぬ、世界の小谷節子だ。

 どうしたらあんなふうに感情を入れることができるのだろう。君は涙を流しながらシベリウスを弾いていた。あのヴァイオリンに心を動かされない人は、一人もいないだろう。

 ザルツブルグはもう冬だろうか。

 ヴァイオリンを抱え、石畳の道を歩いて行く君の姿が瞼にうかぶ。背筋をすっと伸ばし、少しの惑いもない、昔のままの歩様で。

 そして君はときどき意味もなく立ち止まって、遠くを見る。そんな美しい癖も、きっと昔のままだろう。

 せっちゃん。

 勝手ばかり言ってすまないけど、君を愛することは、もうやめる。

 赤坂も、それほど悪い町ではないから──。

 

 リフレインの途中で、小谷は指を止めた。

「Gが、フラットしてるね。伴奏ができない」

 圭二は弓をおろして息を抜いた。鍵盤の前で、小谷の背がうなだれていた。

「わかったか、小谷。十年ぶりのチェロなんて、こんなもんだ。ドヴォルザークどころか、メディテイションだってろくに弾けやしない」

 小谷はフラットしたGの音を、淋しげに人差指で叩いた。

「そうじゃない。どうしてそんなに暗い音を出すんだ」

「下品な音だろう」

 圭二は立ち上がって、小谷の背を弓の先で突いた。

「さあ、帰れよ。オーディションは終わりだ。残念でした、またどうぞ」

「何のために、こんなことをした」

「決まってるじゃないか。おまえの押し売りを断わるには、気の利いた方法だ」

「押し売り──ひどい言い方だな」

「今さらバツイチを押しつけようとしたり、聴きたくもないクラシックを聴かせようとしたり、押し売りだよ、おまえは」

 投げ渡されたコートを羽織ると、小谷は押し殺した怒りで唇を(ふる)わせた。

「すまなかった。だが、節子の気持はいいかげんじゃない。誤解しないでくれ」

「うまいチェリストなら他にいくらでもいる。目の前でシベリウスを弾いてやれば、誰だってイチコロだ」

 根の生えたように動かぬ小谷の腕を握って、圭二はフロアから連れ出した。

「あのな、小谷。俺、女がいるんだ。ちかぢか所帯を持とうと思ってる。ちょっと頭が足らんけど、若いし、バツイチでもない。それに仕事も忙しいしな。この店を任せられることになった」

 背を押されて、小谷は階段を昇って行った。

「じゃあな、飯村」

「じゃあ、お元気で。さいなら」

 一瞬の秋空を(ひるがえ)して、扉は閉ざされた。

 振り返れば、棕櫚の葉の茂るスポットライトの下で、スタインウェイは老婆のように黙りこくっていた。

 カウンターをくぐり、新しいブランデーの封を切る。咽を鳴らしてむせかえると、圭二はしばらくの間、拳を握って泣いた。

「さあて、と。どいつもこいつも、格好つけてやらなきゃな」

 久しぶりに弦に触れた指先が痛んだ。

 厨房に入り、灯りをつける。整頓された調理台の上に、研ぎ上げた牛刀が輝いていた。

 考えねばならぬことは多すぎるが、それほど難しくはない。チャンスを掴んだギタリストのこと。つぶしのきかない一途なやくざのこと。すっかり年老いたマダム。競馬狂いのバーテン。クラゲのように居場所の定まらぬ女。そして、しつこい押し売りたち。

 みんな勝手なスコアを弾いているが、肚をくくって指揮台に上り、タクトを振ればともかく音楽になる。それですべてが丸く収まる。

「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」

 牛刀を握って俎板(まないた)に掌を置いたとき、さて右にしようか左にしようかと、圭二は少し迷った。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/03/13

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浅田 次郎

アサダ ジロウ
あさだ じろう 小説家 1951年 東京生まれ。「鉄道員(ぽっぽや)」で第117回直木賞受賞。「中原の虹(全4巻)」で、2008年、第42回吉川英治文学賞受賞。第16代日本ペンクラブ会長。

掲載作は、「小説宝石」平成7年10月号初出、「見知らぬ妻へ」(光文社刊1998年5月初版)所載。

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