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お腹召しませ

 病み上がりの祖父と二人きりで、あばら家に暮らした記憶がある。

 私はすでに中学生であったから、記憶があるという言い方は不適切かもしれぬが、つまりそれくらい、抹消してしまいたい嫌な記憶なのであろう。その数ヶ月は夢のように(おぼ)ろである。

  家産が破れて一家は離散し、行き場を失っていた私を、結核病院から出てきた祖父が引き取った。よほど無理な退院であったのか、台所で煮炊きをするときのほかの祖父は、床に就いているか、()せた背を丸めて火鉢を抱えていた。

 その廃屋同然の家は私の生家であった。父が破産したあとに、なぜ住まうことができたのかはいまだに謎である。ともかく足掛け七年もの間、親類の家などを転々とさせられたあげく、私と祖父だけが生家に帰ったのであった。正しくは流転(るてん)していた私と療養をおえた祖父が、元の家に戻ったというべきであろうか。父母の所在は知らなかった。

 東京オリンピックを中に挟んでの七年である。町は様変わりしており、人々の暮らしや身なりも、まるで皮を脱いだように別物となっていた。そうした東京の町なかに、いかにもわけありの旧弊(きゅうへい)といった感じの屋敷が、()れ傾いて建っていた。電気製品はおろか、家具らしいものすらなかった。

 幼いころの(しつ)けのたまもので、落魄(らくはく)しでも妙に行儀だけよかった私は、祖父の枕元に(ひざ)を揃えて朝の挨拶をした。家から一歩出ると、ようやく夢から覚めた気分になった。そして学校をおえて家に戻ると、たちまち自分が誰であるかもわからなくなってしまうような、暗鬱(あんうつ)な気持ちになった。

 祖父については、明治三十年の酉の生まれというほかにほとんど知ることはない。江戸前の軽口を叩くわりには、肝心な話を何もせぬ人であった。もっとも事情が事情であるから、いささかでも現実味を帯びた話は、私たちの禁忌であったのだろう。祖父は未来と過去ばかりを語り、今というものをけっして口にしなかった。

 そうは言っても、七十を過ぎた病み上がりの祖父に語るべき未来はない。どうしたわけか祖父は、私が将来医者になるものだと勝手に決めつけており、長い療養生活で見てきた医学の有様や医師の尊厳を、あまり説得力のない江戸弁で精いっぱい教育的に語った。私自身は医者になりたいと思ったことなど一度もないので、むろんそれは祖父の妄想であった。

 私の家には、父や祖父の話は膝を揃えて黙って聞かねばならぬという武家の気風があった。 だから私は、祖父の誤解を訂正することができなかった。いったいに私はいまだもって、他人の誤解をそうと知りつつなおざりにする悪癖がある。それはたぶん、幼時の習慣に(ちな)むのであろう。

 祖父の語る未来に辟易(へきえき)する一方、過去の話は面白く聞いた。これもまた、自分の人生や家族については何ひとつ語らない。つまり、どうでもいい昔話である。

 テレビもラジオもない夜は長い。祖父は手作りの夕飯を私に食わせ、さっさと食器の洗い上げをおえると、子供の舌にはたいそうまずいお抹茶を一服、それが最高の賛沢だとばかりにふるまった。

 着物の(えり)(ととの)えて茶をたてる仕草はなかなか堂に入っていたが、しまいに必ず茶筅(ちゃせん)をずるりとなめる。これはまさか作法ではあるまいと、子供心にも呆れたものだ。

 そして、私を火鉢の向こう前に座らせる。長い祖父の話が始まる。興が乗って話の終わらぬときは、二服目の茶をひどくぞんざいに点{た}てた。

 昔話の多くは侍たちの物語であった。おそらく祖父が幼いころ、その父や祖父からでも聞いた話であろう。いや、話はとめどがなく、しかも実に面白かったから、その種の語り部たる古老が身近にいたのかもしれない。祖父の生年を考えれば、幼い日に侍の実見譚(じっけんたん)を聞くのは容易である。祖父の生まれるわずか三十年前に、日本はようやく明治維新を迎えたのであった。

 祖父は話しながら、しばしば力のない空咳をした。しかし居ずまいの良いせいで、胸の病を感じさせなかった。だから私も伝染を危惧したことはなかった。

 そんなときふと考えた。わが家が没落したのは、これが初めてではなかろう。それほど遠からぬ昔に、同じ憂き目を見た子供らがいたのではなかろうか。

「昔のお(さむれえ)てえのは、それほど潔いもんじゃあなかった。そこいらを映画だの本だので勘ちげえしちまったから、世界中を敵に回した戦争なんぞして、あげくの果てはこのざまだ」

 と、祖父は戦後の焼け跡で時間を止めてしまったような言い方をした。それは行方知れずの私の父母への、嫌味のようにも聞こえた。

 今を語ってはならず、語るべき未来もないとすれば、祖父が口にできる話はそれしかなかったのかもしれぬ。

 空咳がおさまると、祖父は潰れた胸から息を絞り出すようにして、火鉢の(おき)を吹いた。

 

           *

 

「いやはや、四十二の大厄も御大師様の功徳(くどく)にて息災に過ぎましたるところ、よもや三年を経ての後厄というわけでもござりますまい。ましてやその間、御留守居役様のお力添えをもちまして婿取りの儀も相済み、たちまち跡取りの嫡男(ちゃくなん)まで授かり申しました。まさしく、好事魔多しというはこのことでござりましょう」

 高津(たかつ)又兵衛(またべえ)はみちみち考えていた台詞をそつなく並べ、留守居役の顔色を窺った。

 又兵衛とは同じ高津の姓を持つ重臣で齢も同じ、ただし家禄には天地のちがいがある。枝分れしたのは関ヶ原の合戦より前だというし、その後は縁組の話なども聞かぬから、たまたま同じ姓を持つ他人といったほうが正しかろう。

「今さら親戚面をされても困る」

 留守居役は腕組みをしたまま、冷ややかに言った。

「のう、又兵衛。たしかにおぬしとは三年前、成田のお不動様に厄除(やくよけ)の祈願に参った。しかし それは、同い齢であるというほかに何の因果もあるまい。それとも何か、わしの払うた厄をおぬしがかわりに引受けたとでも申すか」

「いや、滅相もござりませぬ」

 留守居役は上目づかいに又兵衛を睨みつけ、ふと微笑をとざした。

「まあ、それは冗談としよう。だが、婿取りうんぬんは聞き捨てならぬ。おぬしもあのときには、身に余る果報じゃと喜んでおったではないか。その婿殿の不始末を、わしのせいだと言われてものう」

「いやいや、それは誤解でござりまする、拙者はただ―― 」

「ただ嫌味を言いに来たか。そうではあるまい。わしが勧めた婿なのだから、離縁をして累が及ばぬよう取り計ろうてほしい、というわけであろう」

 まさしく図星である。さすがは()れ者で知られる江戸定府(じょうふ)御留守居役だと、又兵衛は舌を巻いた。

 入婿の与十郎(よじゅうろう)が家督を継ぎ、又兵衛にかわって勘定方を務めるようになったのは二年前である。願ってもない良縁であった。又兵衛は父の代からの江戸定府であるから、国元からわざわざ婿を迎えるよりも無理はない。ましてや婿の実家は御公儀小納戸役を務める旗本である。これはまさしく御大師様の功徳だと思った。

 その与十郎が、あろうことか藩の公金に手を付け、知らぬ間に新吉原の女郎を身請(みう)けして逐電(ちくでん)した。

「いかに隠居の身とは申せ、一つ屋の下に起居しておって気付かなかったでは済むまい。ましてや事が起こってから離縁などと、虫がよすぎるわ」

「はい。まことに返す言葉もござりませぬ」

「なにゆえすぐに報せなんだ。与十郎が逐電しおってから、五日も経つというではないか。もはやわしの裁量でどうともなるものではない」

 又兵衛はひやりとして肩をすくめた。

 御殿様は在国の年で、江戸表の差配は留守居役に委ねられている。同じ定府役の(よし)みもあり、むろん当人の立場もあろうから、上司の御家老にも国表にも報せずにうまい手だてを講じてくれるものと高を括っていた。

「と、申しますと」

「昨日、奥方様にはありのままをお伝え申し上げた。中屋敷の若殿様にもな」

「よもや、でござりまするが――」

 これは脅しであろうと思うそばから、座ったまま腰が抜けてしまった。もういちど気を取り直して顔色を(うかが)う。江戸の生まれ育ちで国を知らぬ留守居役は、とかく人をからかって喜ぶ癖がある。しかしここまで(たち)の悪い脅しはするまい。

 一瞬の沈黙の間に、(のど)がひりついてしまった。又兵衛は白髪まじりの(びん)を撫で上げ、冷えた茶を(すす)りこんだ。

戯言(ざれごと)ではないぞ、又兵衛。わしにはわしの立場というものがあるゆえ、奥方様にだけはお伝えしておいたのだ。ところが、内々にことを済ませよとのお達しがあるかと思いきや、若殿様にもお報せせよ、御家老様以下の御重臣を集めよ、と相成った。誤算と申せばそうだが、わしの罪科(つみとが)ではあるまい。悪く思うな」

「で、いかように」

「奥方様、若殿様、御家老様、御番頭様、それとわしの五名で評定(ひょうじょう)をいたした結果――」

 いつものように気を持たせているのではあるまい。話しづらい結果なのだと又兵衛は思った。

「して、その結果は」

国表(くにおもて)に書状を送った。二百両といえば、穴埋めのしょうもない大金だ。しかも女郎を身請けしての逐電という仕儀が御公辺(ごこうへん)の耳に届けば、お家の大事に至らぬとも限らぬ。致し方あるまい」

 又兵衛はしどろもどろで言った。

「お待ち下されませ。かくなるうえは、拙者の家はいかようになりますのか」

「それは決まっておろうよ。入婿とは申せ与十郎は立派な当主だ。家禄召し上げのうえ所払い、まあそれ以上のお裁きはあるまいがね」

 庭の松枝(まつがえ)に油蟬がかまびすしい。汗を拭うと肚の底から吐気がこみ上げて、又兵衛は手拭で口を被った。

「高津様」

「その呼び方はやめよ。おぬしの口から聞きとうはない。よいか、又兵衛。同じ苗字を持つとは申せ、わしとおぬしは親類ではない」

「しかし、わが高津の家も枝葉とは申せ、御藩祖公以来の譜代(ふだい)の臣にてござりまする。それを、入婿の不始末にて放逐とは、余りのお仕打ちにござりましょう」

「ばかを申せ。入婿のなしたることなれば不始末ではないと申すか」

「いえ、不始末にはちがいござりませぬ。しかし――」

「しかしは通らぬ。与十郎は家督を継いだ当主であろう。追って沙汰する」

 立ち上がった留守居役の足元に、又兵衛は額をすりながらにじり寄った。道理は留守居役にあるのだ。五日の間、足を棒にして江戸市中を尋ね回り、与十郎の行方を追った。手順をたがえていたのかもしれぬ。それでも留守居役に頭を下げれば、事が内々に済むであろうと考えていた。

「のう、又兵衛」

 立ち去るかと見えて、留守居役は中庭に向いた座敷の障子を閉めた。又兵衛のかたわらに屈みこみ、耳元に顔を寄せて囁く。

「ひとつだけ手だてはある」

「何と」

 又兵衛は(かしら)をもたげた。

「与十郎と娘御との聞に、跡取りのやや子がおるな。それは幸いだ」

「はい、勇太郎(ゆうたろう)の名付け親は御留守居役様でござりまするな」

「それを申すな。おぬしと関りとうはない。ただし、わしとおぬしとは家格がちがうとは申せ幼なじみだ。学問所も道場も、ともに通うた」

「はい、はい、さようでござりますな」

 一縷(いちる)の光明が差した。いったいどのような手だてであろうと、又兵衛は(のど)を鳴らした。

「よいか。おぬしの家を残す唯一の手だてだぞ。気の利いた遺書を残して、腹を切れ。あとはわしが、勇太郎の後見ということで何とかする。それでともかく家は残る。よいな、又兵衛。この一件、罪科ことごとく(おの)が監督の不行届にて御座候。(よっ)て一命以て御殿様にお詫び奉り候。(こいねが)わくは、嫡子勇太郎をして家門相続を成さしめ、恥を(すす)ぎ、恩顧に報いんことを御願い奉り候――と、そのようなことを綿々と書き置けば、あとはわしが泣いてやる。腹を切れ、又兵衛」

 

「なるほど。さすがは御留守居役様でござりますのう。そのような手だては毛ばかりも思いつきませなんだ」

 灯芯(とうしん)を掻きながら、妻は顔色ひとつ変えずに言った。

「感心しておる場合ではあるまい。わしが腹を切って、家を勇太郎に残すという話だぞ」

 その勇太郎は、娘が乳を含ませている。妻と娘が荒れたのは、事が露見したその晩くらいのもので、その後はふしぎなくらい落ちつき払っていた。又兵衛は今さらのように、女という生き物の(はら)の太さに驚いた。

「父上は四十五でござりましょう」

 背を向けたまま、娘が言う。

「さよう。命を見限るにはちと早い」

「いえいえ、お祖父(じじ)様の享年は越しておいでです」

 むっとして、又兵衛は娘の背を睨みつけた。

「それがどうした」

「お気を悪うなさらず。そもそも男子は短命の家系と聞き及んでおります。さすれば父上も、せいぜいのところ五十年。(うたい)の文句ではござりませぬが、五年早うに身罷(みまか)られると思えば、むしろ死に処を得たと申せましょう」

 玉を磨くがごとく育てた、美しい一人娘である。言いぐさは腹立たしいが、この娘にろくでなしを(めあ)わせてしまったのは父の罪にちがいないと、又兵衛は返す言葉を呑みこんだ。

「これ、(きく)や。言葉が過ぎましょうぞ」

 たしなめるそばから、妻は娘にもまして淡白な声で言った。

「さよう申しましても、菊の申すところにも一理はござりますのう。このまま放っておけば、あなた様で二十二代――それも早死(はやじに)ゆえの代重ねではござりまするが、ともかく二百五十年も続いたわが高津のお家は、ついに浪人と成り果てまする。旦那様のご決心でその危急が救われるのであれば、まさしく男の死に処でござりましょう」

「これ、千世(ちせ)

 と、又兵衛は妻に向き直った。

「道理はわかるが、二十五年も添うた妻の言葉とは思えぬ。わしに死ねと申すか」

「はい」

 妻はあっさりと言った。

「二十五年も添うたがゆえに申し上げまする。お腹召しませ」

 しばらくの間、又兵衛は見ようによっては酷薄な感じのする妻の一重瞼(ひとえまぶた)を睨んでいた。そのうち怖くなって鉄漿(かね)を真黒に引いた口元を見つめた。

「叶うことならわたくしもお伴つかまつりとう存じますが、菊ひとりでは勇太郎の養育もままなりますまい。おひとりでお淋しゅうござりましょうが、お腹召しませ」

「さようなさりませ、お父上。後のことは菊と母上とで万端つかまつりますゆえ、ご安心下さい。お腹召しませ、父上」

 よその妻女を見るたびにかねがね考えていたのだが、どうもわが妻と娘にはやさしさが足らぬという気がする。それとも、おなごというものは外面(そとづら)内面(うちづら)を持つのであろうか。

 たしかに道理ではある。代々江戸屋敷の勘定方を務めておるのだから、物事の損得もわかる。そうはいうても、妻ならば娘ならば、も少し悲しげな顔で、ここは(ばん)()むを得ずお覚悟なされませ、というほどのことは言うて欲しい。それを、まるで物言う鳥のごとく声を揃えて、オハラメシマセはなかろう。

 又兵衛は憮然とした。武士なのだから、この際腹を切ることにやぶさかではない。

「相わかった。わしは腹を切るが――」

 そこまで言ったとき、妻と娘が晴れがましい顔をしたように思った。

「おぬしらも心得ちがいをしてはならぬぞ。よいか、わしは責めを覚えて腹を切るのだ。けっしてその結果として、家を保とうとするのではない」

 建前ではある。だが、その心構えは他者に対してもおのれに対しても必要であろう。商腹(あきないばら)では力が入らぬ。

「それはむろんのこと」

 妻が言い、娘が(うなず)いた。

「今の今というわけには参らぬな。死ぬと決まれば、やらねばならぬことはいくらもあるものだ」

 まさか常住(じょうじゅう)死身(しにみ)というわけではないが、日ごろから几帳面な又兵衛にはさほどの心残りはない。だが、その気性ゆえに泰然と構えてもおられぬ。

 妻子に送られて玄関の式台に立つと、軒端(のきば)に満月が()かっていた。時刻はまだ宵五つほどであろう。

 八十石取りの江戸詰藩士としては、分不相応に立派な屋敷であった。上屋敷の長屋住いでは(せがれ)の面目が立たぬと、与十郎の実家が付けてよこした。もっとも御家人の屋敷はみな幕府からの借家であるから、勝俣(かつまた)の家が金を使ったわけではなく、役職を利用して空家を手配しただけであろう。

「このような時刻に、どちらへ」

 妻の声は懐疑(かいぎ)を含んでいた。まるで切腹の決心を疑うているかのようである。

「逃げはせぬ。腹を切るからには、あの馬鹿息子を押しつけた旗本に文句のひとつも言いたい」

「それはようございますな。くれぐれも刃傷(にんじょう)沙汰(ざた)には及ばれませぬよう」

 妻は着物の袖にくるんで、刀を差し出した。

「提灯を持て」

 たちまち灯を()げて走り寄ってきたのは、これも与十郎の実家が伴に付けてよこした中間である。

「勝俣の屋敷を訪ねるが、嫌ならば伴をせずともよい」

 もとは勝俣の使用人である。丸五日の間、与十郎の行方を追って走り回ったあげく、旧主家への談判の伴をせよというのは酷であろう。

 しかし忠義者の老中間は、(しり)端折(ばしょ)りをしながらきっぱりと言った。

「若旦那様の不始末には、とことんお伴さしていただきやす。どうかお気違いなさらず」

 

「仔細はあえて聞かずとも、それなる久助(きゅうすけ)めがすでに注進いたしておるがの」 勝俣十内(じゅうない)は又兵衛を屋敷に上げようともせず、玄関先で言った。

 三河{みかわ}御譜代(ごふだい)三百石の家柄なのだから、居丈高(いたけだか)であるのは仕方がない。しかし寝巻に袴だけをつけて、詫びのひとつもお愛想もなく、玄関払いはなかろう。

「まことか、久助」

 肩越しに振り返って問い質せば、老中間は提灯を掲げて(うずくま)ったままうなだれるばかりである。みちみちの何やら言いたげな落ち着かぬそぶりは、そのご注進とやらの事実を言い出しかねていたのであろう。

 溜息をついて又兵衛は叱った。

「もとはご当家の使用人とは申せ、与十郎に付き(したご)うて参ったからには高津の者ぞ。それとも(うぬ)は密偵か」

 年中着たきりの法被(はっぴ)の袖でしきりに顔を(ぬぐ)っているのは、進退きわまって泣いているのであろうか。いや、情を移すべきではない。この蒸し暑い晩に、牛込から明神下まで早足で歩いてきたのだから、大汗をかいているだけだ。

「お責めなさるな、高津殿。いかに中間小者とは申せ、久助には久助の立場がござろう。」

「黙らっしゃい」 と、又兵衛は堪忍ならずに声をあららげた。

「拙者は与十郎に情けをかけ申した。不出来な侍であることは誰の目にも瞭然、しかし、さあればこそ教え甲斐もあるものと思い、心をこめて公私にわたり訓育いたし申した。もしこの三年のわが家の出来事が、久助の口から余すところなく伝わっておるのであれば、今さら何をなさらずとも頭ぐらい下げていただきたい。本来ならば変事を聞いて取るものも取りあえず、わが家に駆けつけるのが御実父殿ではござらぬのか」

 勝俣の両脇に控える若党が、気色ばんで片膝立った。 刃傷に及ぶわけにはいかぬ。又兵衛はいったん肩の力を抜き、豪壮な旗本屋敷の玄関を見渡した。

 宵五つを回っているというのに、門前にも玄関先にも、あかあかと高張提灯が掲げてある。 これはおそらく、いつ何どき高津が怒りまかせに打ちこんできてもいいようにという備えであろう。むろん若党も(たすき)掛けである。 なるほど、と又兵衛は得心した。

「つまるところ、与十郎を婿に出したときから、いずれはかような事件が生ずると、(はら)をくくってござったか。万一のときは注進せよと、久助めにも意を含ませておられたと。なるほど、それですべて読め申した。三百石取りのお旗本が、八十石の田舎侍に婿を出すなど、どうりで話がうますぎるわ」

 そればかりではない。思いがけぬほど多額の持参金に牛込の御家人屋敷、忠義者で万事にそつのない老中間まで付けてよこした。そこまで熨斗(のし)をつけて厄介払いをしたのだから、受けたおぬしに文句は言わせぬとばかりに、勝俣十内は悪びれる様子を見せなかった。

 旗本の面白を失わず、しかもこの一件に関らぬためには、こうして玄関の式台から睨みつけているほかはないのであろう。

 唐破風(からはふ)の屋根の形を、ありありと玉砂利の庭に切り落とす満月を見上げて、又兵衛は大きく息をついた。ともかく気を鎮めねばならぬ。もののはずみで刃傷沙汰に及んでは、斬っても斬られても命を棒に振ることになる。

「のう、勝俣様。ちと言葉が過ぎたが、拙者の思うところを述べさせていただきたい」

 十内は黙って肯いた。

「家格は比ぶるべくもなく、齢も一回り上のそなたに説教する無礼はお許し下されよ。拙者は、 与十郎の不出来に気付かなかったわけではござらぬ。馬鹿は承知で婿と定め申した。むろん、ご実家の威名も過分の持参金も、ご周旋(しゅうせん)いただいた家宅も有難かった。当藩御留守居役のお口添ならば、断るわけにはゆかぬこともたしかでござった。しかしながら、与十郎を婿と定めたるには、さような打算や義理にまさる拙者なりの理由がござった」

 話しながら又兵衛は、胸の底に(わだかま)っていた本心をようやく引きずり出したのだった。理不尽に対する憤りばかりが先に立っていたが、上司にも妻子にも、言いたくて言えなかった本心である。

「もともと良からぬ評判は耳にしておった。しかるに拙者は、いくどとなく与十郎を酒席に誘い、あるいは舟遊びや釣りに伴のうて、ひそかにその人格を見究めようといたした。いや、たしかに見究めたつもりでござった。かくなる仕儀と相成っても、拙者は与十郎が憎めぬ。どうしても世間がいうほどの不出来な侍とは思えぬ。血を分けたご実父殿ならばおわかりでござろう。二十歳ばかりの若者が、他人様のおほめに(あずか)るほど出来が良いというほうがおかしな話でござる。あれはたしかに、ご当家においては次男坊の冷飯食い、わが家に参ってからは入婿の養子のと言われていじけきっておった。しかし、その苦労を耐え忍んだのちは必ずや光り輝く玉にもなろうと、拙者は了簡いたし申した。家督を早々に譲り、お役目を申し送ったわけはただひとつ、部屋住み根性と入婿の腐心を、一日も早く捨て去ってほしいと思うたがゆえでござった。それさえ捨つれば与十郎は、地を這う虫が殻を破って立派な(はね)を拡げるがごとく、豹変するであろうと信じ申した」

 又兵衛の本心を聞くうちに、勝俣十内の表情からは力が消せた。

「もうよい、そちどもは下がれ」 そう言って若党らを遠ざけると、十内はやおら式台の上に膝を揃えて座った。

(さい)も与十郎の兄も嫁も、奥の間にて息を詰めておりますれば、玄関にてのご無礼をお許し下され。当家には当家の立場がござるゆえ」

 その先の言いわけは、聞かずとも知れ切っていた。

 当節、旗本御家人の窮状は目を被うばかりであるという。御禄は毎度お借上(かりあげ)と称して遅配され、しかも待ちに待ったあげくに渡される手形証文を高利の札差で割引き、日々を(しの)いでいる という。それも千石取りの大身ならば蓄えもあり、地方に采地も持つから何とかなる。小身であれば金はかからぬ。しかし三百石取りはいかにも苦しい。相応の体面を繕わねばならぬうえ、家族と家来衆、使用人まで算えれば、養う頭数は二十を下るまい。

 口にこそ出さぬが、肩を落とした十内の顔には、そうした苦衷がありありと書かれていた。 過分の持参金はどのようにして工面したのであろうと、又兵衛は今さらのように思った。

 幕府は御家人の口べらしに躍起である。ましてや与十郎の持ち逃げした二百両は大金であった。すなわち勝俣の家は、けっしてこの一件に関ってはならなかった。

「余分なことはおっしゃられるな。拙者はただ、真心を申し上げたかっただけでござる。誰かしらに言わねば気が済まぬとあらば、御実父殿に申し上げるほかはござるまい。ご無礼いたした」

 (きびす)を返そうとしたとたん、ばたりと大仰な音を立てて十内が式台に両手をついた。月かげが禿げ上がった月代(さかやき)を照らしていた。 これでよい。建前はともかく、御旗本が本音で頭を下げてくれたのだ。

 しかし、頭を垂れたまま絞り出す十内の声を聞いたとき、又兵衛の澄んだ心は(ささら)のごとくに荒れすさんだ。

「すでにお覚悟ありと存ずるが、又兵衛殿。つつがなく腹をお召しなされよ」

 

「おいおい、又兵衛。ほかの頼みごとならばともかく、そればかりは勘弁してくれ」

 まるで悪い冗談を聞いたかのように、寺岡(てらおか)は笑いながら言う。呵々大笑(かかたいしょう)が看板の豪傑だが、 笑いごとではあるまいと又兵衛は気色ばんだ。

「たしかに俺は藩随一の剣客を自負しておるよ。まだまだ若い者に負けはせぬよ。そのうえ貴公とは従兄弟(いとこ)という血縁もあるし、昵懇(じっこん)の仲でもござるよ。しかしのう、刎頸(ふんけい)の交りだといわれても困る。そればかりは困る」

「笑いながら困るやつがおるか。冗談ではないのだぞ」

 すまぬ、と詫びたものの、どうもこの男の顔は物事の真剣味に欠ける。笑顔が地顔なのだから仕方ないが。

 牛込の屋敷から明神下の勝俣家へ、さらに向島河岸の下屋敷に足を伸ばしたころには、時刻も九つを回っていた。満月は南の正中に懸かって、白く小さい。

 下屋敷の奥には、御殿様の御側室が暮らしている。いきおい上屋敷の奥方様や中屋敷の若殿様がお成りになることもなく、屋敷奉行の寺岡萬蔵(まんぞう)は呑気な用心棒のようなものであった。

 御役長屋は空部屋ばかりで、(すだ)く虫の音もわびしい。

「しかしのう、この夜更けに折入っての話と申すから、ない袖は振れぬと断るつもりでおったのだが、借金ではなくよもや切腹の介錯を頼まれるとは思いもせなんだわい。ははっ」

「笑うな、萬蔵」

 眉をひそめて叱ると、一瞬は真顔に戻るのだが、じきに目尻も口元も緩む。子供の時分からどこも変わらぬ。腕が立つばかりで頭の足らぬ男である。

「よいか、萬蔵。いまいちど説明する。おぬしにもわかるように言う」

「おおよ。わかるように言ってくれ」

「古来、切腹と申すは親しき者に介錯を(ゆだ)ねるのが作法と聞く」

「ははっ、そのようなこと、誰が決めた」

「黙って聞け。さような作法とあらば、わしにとって第一の親しき者は、おぬしをさしおいて他にはおるまい」

 さすがにこの理屈はわかるらしく、寺岡は着たきりの稽古着の腕を組んで、ううんと唸った。

「考え直してくれ、萬蔵」

「いま考えている」

 考えているふりをしているのはわかる。この男に物を考えよというのがどだい無理な話であった。ここは理を並べて押し切るほかはない。

「御留守居役様も腹を切れという。妻も娘も了簡した。与十郎の実家では、三百石取りの御旗本が頭を下げた。しかるに、わしが腹を切るのは世の総意である。によって、わしは腹を切るのだが、介錯人が必要であることに気付いた。腕が立って仲もよいとなれば、おぬししかおるまい。いや、これはわしだけがそう思うのではなく、誰に聞いてもわしの介錯人はおぬしだ」

「勝手に決めるな、又兵衛。誰に聞いたわけでもあるまい」

「聞かずともわかる。よいか、わしの介錯を務めたからというて、おぬしが何の罪を蒙るわけでもない。むしろさすがは刎頸の交りと讃えられるであろうよ。むろん、わしがこうして頼みこんだことは内緒にしておく。すなわちおぬしは、善意と友情により、介錯人を買うて出たのだ。それでよかろう」

 さして考えているわけではなかろうが、寺岡の唸り声はさらに深まった。今一息だと、又兵衛は語気を強めた。

「おたがい微禄ではあるがの、幼い時分から、おぬしは剣を執れば藩随一の達者、わしは読み書き算盤(そろばん)においては人後に落ちなかった。そのわしの不始末――いや正しくは婿の不始末をわがものとしてわしは腹を切り、おぬしが介錯をする。これは美談ではないか。士道地に堕ち、御公儀の先行きにも暗雲たれこめる昨今、赤穂義士以来の武士道の誉れとして世に喧伝(けんでん)されること疑いなしだ。さすれば、泣いて友を斬ったおぬしにも光明が差すというもの、御殿様はおぬしの働きを(よみ)してご褒美を下さり、御公儀幕閣から講武所の教授方に出仕せよとのお達しがあることは必定(ひつじょう)だぞ。まったく頭の働かぬやつだ。腹を切る者にここまで言わせるな」

 よもやそこまではあるまいと思いつつ、又兵衛は押しに押した。どう考えをめぐらせても、介錯人は寺岡をおいて他にはいない。

「関ヶ原の昔ならともかく、権現様が太平の世をお開きになってよりこのかた、切腹などはめったにあることではない。かの赤穂義士とて、その仕儀は腹など切らずに、三宝に手を延べたとたん介錯人が首を打ったと聞く。ましてやそののちは、三宝の上に刀も置かぬ扇子腹だ。さなる切腹の作法を考えれば、どうあってもおぬしに首を打ってもらわねばならぬ。それともおぬしは、わしに聞いたこともない一人腹を切れとでも申すか」

 押し切った、と又兵衛は思った。寺岡は目を閉じたまましきりに肯いている。

「では、善は急げだ。わしはこれより屋敷にとって返し、死仕度をする。古来、切腹の時刻は 明け六つの鐘が鳴る前の、未明がふさわしいと申すでな。同行いたすか。それとも、時刻を見計ろうて拙宅に参るか」

「待て、待て」と、立ち上がりかける又兵衛の膝に手を置いて、寺岡萬蔵はまこと思いがけぬことを言った。

「介錯をせいと言われても、あいにく俺は据物(すえもの)藁苞(わらづと)しか斬ったためしはない。士道の誉れも 義理も糞もあるかい」

「何と申す。わしは腹を切らねばならぬのだぞ」

「それは貴公の勝手だろうよ。潔く一人腹を切れ。ひとごろしを他人に頼むとは、馬鹿かおまえ」

 

「さしでがましゅうはござんすが、ひとこと言わしていただきとう存じます」

 灯の尽きてしまった提灯を舟べりにかざしたまま、久助がふいに言った。

 四十五の足はさすがにくたびれて、吾妻橋の(たもと)の舟宿を叩き起こし、外濠の船河原まで戻ることにした。そのほうが歩いて帰るよりよほど早い。死仕度もある。遺書も書かねばならぬ。

「ふむ。何なりと申せ。ただし妙な言いわけは許さぬぞ。(うぬ)の苦しい立場はわかっておる」

「いえ、言いわけじゃあござんせん。大旦那様よりいくらか飯を食った爺いの話をお聞き下さんし」

 小舟は月明の(いりうみ)を土手伝いに進み、柳橋の入合から濠に入った。潮のかげんであろうか、舟足はすこぶる速い。満月は西に(かたぶ)いているが、この分なら暗いうちに屋敷に戻り着けるであろう。

「あっしァ、十四から六十のこの齢まで、長えこと御武家奉公をいたしておりやすが、実は切腹なんて話ァ、芝居(しばや)のほかに聞いたためしもねえんで」

 言われてみればたしかにその通りである。切腹といえば武士の花道ではあるけれども、実際にどこで誰が腹を切ったという話は聞かぬ。

「そんなわけで、あっしァきょう一日、ずっと大旦那様のお伴をして、まさかまさかと思い続けておりやんした。何だかこう、芝居を見ているみてえな気がいたしやんした。したっけ、何だか歩くたんびに、だんだんそのまさかが本当(まぶ)になっちまって、このまんまだとやっぱし腹を召すってことになっちまうんじゃねえかって」

 なるほど、そういうふうに見えるのかもしれぬ。士分ではない者からすれば、腹切りなどという場面は、舞台のほかには有りえぬのであろう。

「あの、お気を悪くなさらねえで下さいましよ。ひとつっかねえ命をてめえで捨てるっての、 ばかばかしいたア思わねえんですかい。よしんばそうすることで誰が救われるにせよ、ばかを見るのはご本人おひとりで」

 腹は立たぬ。酒落ではないが、久助の言うところは単刀直入に過ぎた。まるで(はらわた)を摑まれたように、又兵衛は顔をしかめた。

「それとね、大旦那様。お家大切てえのはわかりやすけんど、そのお家には命があるわけじゃねえんだし、住まう人間の命あってこそのお家だと、あっしは思うんです。そう考えるてえと、正体(しょうてえ)のねえお家にふん(じば)られているみなさんのほうが、了簡ちげえをしていなすって、一等てめえ勝手をなすった与十郎様は、何だかまっとうな人間みてえな気がしねえでもねえんだが」

「ほう。与十郎めがまともと申すか」

「いえね、ふとそんな気がしただけでござんす。そりゃあ、お足をくすねたり、そのお足で女郎と逃げるなんざ、悪いことではござんすがね。まとも、ってえのァ、そのほうがいくらか人間らしいってえことでござんす」

 ことと次第によっては、無礼打ちに打ち果たされても仕方のない言いぐさである。舟べりを振り返ると、久助は灯のない提灯をかざしたまま、じっと川面に目を据えていた。

「さきほど勝俣のお屋敷で、大旦那様が与十郎様をおかばいになったとき、あっしァ有難くて涙が出ました。与十郎様は憎めぬ、世間のいうほど不出来な侍とは思えぬって。まるであっしの肚のうちを、大旦那様がかわっておっしゃって下すったようで」

 又兵衛はきつく目をつむった。冷飯食いの次男坊は、中間の背におぶさって育ったのかもしれぬ。そして、そのぬくもりの中に、武家の道義ではなく人間らしい生き方を学んだのかもしれぬ。

「大旦那様は与十郎様を、与十、与十、と呼んでらっしゃいやした」

「それがどうかしたか」

「お小せえ時分、勝俣の御家来衆も使用人どもも、みんなして与十様と呼んでましたもんで。まったく天真爛漫の、可愛らしいお子さんでござんした。なに、そんな昔の話じゃねえんです。ついこの間のことでござんすよ」

「与十も、いささかいたずらが過ぎたの」

 天真爛漫たる若侍の面影が瞼をよぎると、又兵衛の口元に笑みがこぼれた。久助は溜息まじりに言う。

「そのいたずらのせいで腹をお召しになるぐれえなら、お(さむれえ)をご返上なすったほうが、まだしもましってもんじゃあござんせんかね」

 

 臨死(しにのぞみ)勤而(つつしんで)奉言上(ごんじょうたてまつり)(そうろう) 。今般愚息不始末之一件、罪科(ことごと)ク拙者監督不行届(にて)御座候。出奔以来五日、(つかまえ)次第成敗致候也ト方々尽手(てをつくし)候処、(いまだ)行方杳不知(ようとしてしれず)斯成上(かくなるうえは)以拙者一命(せっしゃのいちめいをもって)、御殿様ニ御詫奉候ト思定(おもさだめ)候。(こいねがわく)ハ嫡子勇太郎之儀――

 

「もし、旦那様。遺書にて家名存続の件は申されぬほうがよろしいかと。露骨なる商腹(あきないばら)と勘繰られましょうぞ。お詫びの言葉のみ、あとは御留守居役様が意を汲んで下さりましょう。ここは申すべきことを忍んで以心伝心、どなたがお読みになられても潔しと感心なさる文面になされませ」

 妻は書きかけた遺書を文机から取り上げ、かわりの巻紙を置いた。

「母上様、さよう細かいことをおっしゃってらしたのでは、夜が明けてしまいまする。よほどの粗忽(そこつ)がないかぎり、御留守居役様がうまく運んで下さります。それに、遺書にまでとやかく口を出されたのでは、お腹を召されるお父上があまりにお気の毒」

 そう言って袖を(まぶた)にあてる娘のしぐさから、さほどの悲しみが感じられぬのは気のせいであろうか。いささかうんざりとしながら、又兵衛は三度目の遺書を書き始めた。

 屋敷に戻ると、奥の間の畳はすでに裏返され、白木綿が敷きつめられていた。ごていねいなことに、敷布の下には油紙まで挟みこまれていた。あの時刻から、いったいどこで手配したものか、浅黄(あさぎ)色の肩衣(かたぎぬ)までが揃えられており、妻子の手でたちまち死装束(しにしょうぞく)に着替えさせられた。

「遺書を書きおえられましたら、それなる茶漬と御酒を一合、お召し上がり下されませ」

「ほう。何から何まで手回しのよいことだな」

「腹がすぼんでおると、切先が通りにくいと申します。それに、御酒を召し上がりますれば血の出がよろしいと――」

「そのようなこと、誰に聞いたのだ」

「隣屋敷の御隠居様から。介錯を(うけたまわ)ってもよいと仰せでしたが、お頼みいたしましょうか」

 枯木のような隣家の隠居の姿を思いうかべれば、はや生きた心地がしない。知恵を授けてくれたのは有難いが、介錯は要らぬ節介であろう。

「あの爺様に介錯されるくらいなら、一人腹のほうがよほど楽だわい」

「それにいたしましても、たってのお頼みを無下(むげ)になさるとは、寺岡様も見損ないました。」

 見損のうたのは寺岡ばかりではないと、思わず口に出しかけて、又兵衛はあやうく言葉を呑み下した。畢竟(ひっきょう)、妻は他人である。

 しかし、ならば娘は何であるかというと、むろん他人ではないのだが、父よりも格段に母と近いのである。これが伜であればずいぶんと成り行きもちがうであろうと思う。

「千世。菊。おぬしらに言い遺すことは何もない。勇太郎のこと、くれぐれも宜しゅう頼んだぞ」

 振り向きもせずに又兵衛は言った。

「かしこまりました。お心おきのう、お腹召しませ」

「じじ様の大恩、勇太郎にはせいぜい言うて聞かせましょう。さすれば父上様、みごとにお腹召しませ」

 いちいち(かん)に障るのは、死にゆく者の(ひが)みであろうと、又兵衛は思うことにした。 ふしぎなほど悲しみはない。怖ろしくもない。一人腹に不安はあるが、腹は形ばかり皮一枚を切って、さっさと咽を突いてしまえばよかろう。それでも打首同然の扇子腹よりは、よほど潔いはずである。

 遺書を書きおえて、又兵衛は独りごちた。

「武士道というは、死ぬことと見つけたり、か。よくもいうてくれたものだな」

 その(おし)えはひとえに没我の精神とばかり思っていたが、いざおのれが死ぬる段になると、そのように高邁(こうまい)な思想などではなく、ただひたすらお家繁盛のために命の高売りをせよと諭しているような意味にとれてならなかった。

 ふと背後に人の気配を覚えて振り返ると、立ち去ったとばかり思っていた妻と娘が、襖の隙間から座敷を覗きこんでいた。

「そろそろ茶漬をお召し上がりになるかと思いまして」

「勇太郎にお別れをなさるのなら、連れて参りまするが」

 妻も娘も、思いつきのように言った。本当に腹を切るかどうか、見張っているのであろう。いや、切腹はわかりきったことなのだから、よく言うなら見届け、悪く考えるのなら暗い興味というところか。わが女房、わが娘とはいえ、実に嫌な性格だと思う。

 ああ、と又兵衛は天井を仰いで呻いた。今までついぞ考えずにいたが、もともと他人の与十郎はこの姑と女房にほとほと嫌気がさしていたのではなかろうか。

「物を食う気にはなれぬ。勇太郎には先ほど別れをいうた。さがっておれ」

 もしひとつしかない命を高売りするのが武士道なのであれば、与十郎はこのうえ望むべくもない命の高売りをしたことになりはすまいか。すなわち、主君を裏切り家を潰し、侍を捨ててもうひとつの人生を選ぶことが、与十郎の考えた武士道なのではないのか。

 妻と娘の足音が去ると、それを見計らうように庭先から忍び声が聴こえた。

「大旦那様、よろしゅうござんすか」

 いったい何用であろうと、又兵衛は(いぶか)しみながら廊下に出た。音立てぬようそっと雨戸を引く。ほんのりと明るんだ苔の庭に、久助が(かしず)いていた。

「間に合ってようござんした。何もおっしゃらずに、あっしの言うことを聞いておくんなさんし。なに、さほどお手間はおかけいたしゃせん。ちょいとそこいらまで」

 

「おい、久助。何がちょいとそこいらだ。ほれみよ、(しじみ)売りの小僧が腰を抜かしたではないか」

 捻じ上げるほどの強い力で又兵衛の腕を握り、久助は朝靄(あさもや)軽子坂(かるこざか)を駆け下

って行く。死装束の疾走に出くわした蜆売りは不憫(ふびん)である。

 履物もないが、幸いおろし立ての白足袋のおかげで足は痛まぬ。坂を下り切って外濠の通りに出たとたん、豆腐売りと鉢合わせた。これもたちまち振り分けに担いだ桶をくつがえして腰を抜かした。

 辻を右に折れ、一丁下れば牛込の船河原である。さすがに息が切れたとみえて、久助はようやく走るのをやめた。

「いったい、ぜんたい、何が、どうしたと、いうのだ」

 泡を噴きながら、又兵衛は訊ねた。さらに齢かさの久助は答えようにも声にならぬ。足ももつれているのに、腕の力だけは又兵衛を引きずるほどの強さであった。

「今すこし、今すこし」

 久助はそればかりを言い、やがてその声も駕籠舁(かごか)きの掛け声のようになった。わけがわからぬまま、しまいには落武者のように抱き合うて、土手柳の下を歩いた。

 外濠に江戸川が流れ入る橋の上まできて、久助は欄干に身を預けた。苦しげに顔を伏せたまま指を彼方に向ける。その指先をたどると、朝靄の立つ水面(みなも)に提灯の灯が浮いていた。

 死装束の袖で汗を拭い、又兵衛は目をしばたたいた。

「申しわけござんせん、大旦那様。与十郎様の居場所は知っておりゃんしたけど、どうにもこうにも、言うわけにはいかねえ。せめてお別れだけでもと、ようやくここまで連れて(めえ)りやしたが、今度は舟から降りて下さんねえ」

 (とどろ)く胸を抱えて又兵衛の足下に蹲ったまま、久助は言った。

「もうよい」

 又兵衛は橋の上を歩き出した。小舟はゆるゆると流れてゆく。靄の切れ間に出ると、岸に向かって両の掌を合わせる二つの人影が見えた。

「与十やあい、与十やあい」

 又兵衛は婿の名を呼びながら土手道を走った。地味な小袖を着た女は、堅気の女房に見えた。

「与十を、頼んだぞ。ばかな伜だがの、添いとげてくれよ」

 女は掌を合わせたまま、たしかに肯いてくれた。

「与十やあい、与十やあい」

 商人(あきんど)本多髷(ほんだまげ)が妙に似合う。(しま)合羽(かっぱ)手甲(てっこう)()めた旅姿であった。

 こみ上げる思いは何ひとつ声にならず、又兵衛は「与十、与十」と叫び続けた。

 小舟は提灯のあかりばかりを(しずく)のように残して、やがて朝靄の中に消えてしまった。それから又兵衛は、柳の幹にすがって泣くだけ泣いた。

 こらえ続けていた嘆きが、ついに(せき)を切ったわけではない。すべてを捨てて生きようとする与十郎が愛おしくてならなかった。

 ぬかるみを這い寄ってきた久助が、土手道にかしこまってうなだれた。

「大旦那様、どうぞご存分に」

 そのとたん、ベつだんまっとうに物を考えたわけではなく、まるで天から降り落ちてきたご託宣を口にでもするように、高津又兵衛は久助を叱りつけた。

「汝の忠義に仕置などできるものか。切腹はやめじゃ。千世も菊も勇太郎も、わしが立派に養うてやるわい」

 

       *

 

 ところで、この物語は私の創作である。向こう火鉢で茶を啜りながら祖父の語った昔話が、このように手のこんだ筋書であろうはずはない。つまり私は、記憶に残る祖父の話をふたつ繋ぎ合わせて、勝手な物語を作ったのである。

 そのひとつは、「切腹の場から逃げ出した侍が、死装束のまま未明の町なかを疾走し、蜆売りや豆腐売りを仰天させた話」である。けっこう長い事の顛末の、あらかたを忘れてしまったのはくやしいが、浅黄色の(かみしも)を翻して疾駆(しっく)する侍の姿だけは、わが目で見たように瞼に()きついていた。

 もうひとつは、「入婿の不始末で切腹を覚悟した御隠居が、大政奉還であやうく命を拾った話」である。これは物語の筋にほぼ沿っていて、ことに周囲から死ね死ねとせっつかれながら、肚の決まらぬうちに命拾いをするという経緯が面白かった。

 このふたつめの話には後日譚がある。祖父が幼かったころ、佃島(つくだじま)鉄砲洲(てっぽうず)を結ぶ渡しに八十を過ぎてなお矍鑠(かくしゃく)たる名物船頭がいて、客待ちの間に「御一新の命拾い」を子供らに話して聞かせたそうだ。

 つまり後日譚というよりも、その船頭の実体験を、幼い日の祖父が聞いたわけである。そもそも嘘かまことかはともかく、二人の老人の口を経て私に伝えられた話には相当の脚色がなされているにちがいないから、いっそのこと小説に仕立てたところで罰は当たるまい。

 高津又兵衛が明治の末まで生き永らえ、佃の渡で()()いでいたという落ちはなかなかだが、そこまで書くにはいささか照れ臭く、むろん筆の力も及ばぬ。せめてこのように出典を白状して、お茶を濁すほかはあるまい。

 祖父は未来と過去ばかりを語り、今というものをけっして口にしなかった。

 私が勝手に決めつけられた未来に腹を立て、「医者になんかならない。小説家になる」と宣言したときの、祖父の狼狽と落胆の表情はありありと覚えている。祖父はうろたえ、叱言(こごと)を並べ、それから「ああ、ああ」とどうしょうもない声をあげて、寝床に入ってしまった。

 言わでものことを言ったと、私は反省した。しばらく読書か勉強かをして、隣座敷の床に入ると、長いこといったい何を考えていたものやら、襖ごしに祖父が呟いた。

「まあ、孫なんだからわからんでもねえ」

 たぶん寝言ではなかったと思う。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2016/03/01

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浅田 次郎

アサダ ジロウ
あさだ じろう 小説家 1951年 東京生まれ。「鉄道員(ぽっぽや)」で第117回直木賞受賞。「中原の虹(全4巻)」で、2008年、第42回吉川英治文学賞受賞。第16代日本ペンクラブ会長。

掲載作は、「中央公論」2003年10月号初出。掲載作を含む短編作品集『お腹召しませ』(中央公論新社刊。2006年2月初版)所載。浅田文学の二本柱である時代小説と現代小説の「架橋」となるような、ひと味違う趣向が結末に仕掛けられている。

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