第七章
熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲乱れて、日に映へる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪へたり。梅の外には一木無く、処々に乱石の低く横はるのみにて、地は坦に氈を鋪きたるやうの芝生の園の中を、玉の砕けて迸り、練の裂けて翻る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗に霽れたる空を攅して、其頂に方りて懶げに懸れる雲は眠るに似たり。習との風もあらぬに花は頻に散りぬ。散る時に軽く舞ふを鶯は争ひて歌へり。
宮は母親と連立ちて入來りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几を据ゑたる木の下を指して緩く歩めり。彼の病は未だ快からぬにや、薄假粧したる顔色も散りたる葩のやうに衰へて、足の運も怠げに、動すれば頭の低るゝを、思出しては努めて梢を眺むるなりけり、彼の常として物案すれば必ず唇を咬むなり。彼は今頻に唇を咬みたりしが、
「御母さん、如何しませうねえ。」
いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、此時漸く娘に転りぬ。
「如何せうたつて、お前の心一つぢやないか。初発にお前が適きたいといふから、恁云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更………」
「それは然うだけれど、如何も貫一さんの事が気になつて。御父さんはもう貫一さんに話を爲すつたらうか、ねえ御母さん。」
「あゝ、もう為すつたらうとも。」
宮は又唇を咬みぬ。
「私は、御母さん。貫一さんに顔が合されないわね。だから若し適くのなら、もう逢はずに直と行つて了ひたいのだから、然云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ。」
聲は低くなりて、美しき目は湿へり。彼は忘れざるべし、其の涙を拭へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前が其程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。然う何時迄も気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当に如何とも確然極めなくては可けないよ。お前が可厭なものを無理にお出といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて…………。」
「可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……………。」
貫一が事は母の寝覚にも苦む処なれば、娘の其名を言ふ度に、犯せる罪をも歌はるゝ心地して、此良縁の喜ぶべきを思ひつゝも、有繋に胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父さんからお話があつて、貫一さんも其で得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合と云ふものだから、其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切が好いから、お前が心配して居るやうなものではないよ。是なり遇はずに行くなんて、其はお前却つて善くないから、矢張逢つて、丁と話をして、而して清く別れるのさ。此後とも末長く兄弟で往来をしなければならないのだもの。
いづれ今日か明日には御音信があつて、様子が解らうから、而したら還つて、早く支度に掛らなければ。」
宮は牀几に倚りて、半は聴き、半は思ひつゝ、膝に散来る葩を拾ひては、おのれの唇に代へて連に咬砕きぬ。鶯の聲の絶間を流の音は咽びて止まず。
宮は何心無く面を挙ると與に稍隔てたる木の間隠に男の漫行する姿を認めたり。彼は忽ち眼を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮る隙を縫ひつゝ、姑く其影を逐ひたりしが、遂に誰をや見出しけん、慌忙しく母親に咡けり。彼は急に牀几を離れて五六歩進行きしが、彼方よりも見付けて、逸早く呼びぬ。
「其処に御出でしたか。」
其聲は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉しく、恐れたる風情にて牀几の端に竦りつ。
「はい、唯今し方参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと。」
母は恁く挨拶しつゝ彼を迎へて立てり。宮は其方を見向きもやらで、彼の急足に近く音を聞けり。母子の前に顯れたる若き紳士は、其の誰なるやを説かずもあらなん、目覚しく大なる金剛石の指環を輝かせるよ。柄には緑色の玉を獅子頭に彫みて、象牙の如く螢潤に白き杖を携へたるが、其尾をもて低き梢の花を打落とし打落とし、
「今お留守へ行きまして、此処だといふのを聞いて追懸けて来た訳です。熱いぢやないですか。」
宮はやうやう面を向けて、さて淑に起ちて、恭しく礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、仍飽くまでも倨り高るを忘れざりき。其張りたる腮と、への字に結べる薄唇と、尤異き金縁の目鏡とは彼が尊大の風に尠からざる光彩を添ふるや疑無し。
「おや、然やうでございましたか、其はまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真に今日はお熱いくらゐでございます。まあ此へお掛遊ばして。」
母は牀几を払へば、宮は路を開きて傍に佇めり。
「貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰へるやうに──と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです、外国へ此方の塗物を売込む会社。是は去年中からの計画で、いよいよ此三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙しい体、何爲ろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌の朝立たなければならんのであります。」
「おや、それは急な事で。」
「貴方がたも一所にお立ちなさらんか。」
彼は宮の顔を偸視つ。宮は物言はん氣色もなくて又母の答へぬ。
「はい有難う存じます。」
「それとも未だ御在ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう、何の難は無い事です。地面を廣く取つて其中に風流な田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩遊びに来るです。」
「結構でございますね。」
「お宮さんは、何ですか、恁云ふ田舎の静な所が御好なの?」
宮は笑を含みて言はざるを、母は傍より、
「是はもう遊ぶ事なら嫌はございませんので。」
「はゝゝゝゝゝ誰も然うです。それでは以後盛にお遊びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも東京でも西京でも、好きな所へ行つて遊ぶです。船は御嫌ですか、はゝあ。船が平気だと、支那から亜米利加の方を見物旁今度旅行を爲て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山に行いた所で知れたもの、甚麼に贅沢を爲たからと云つて。
御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。此梅などは全で爲方が無い! 這麼若い野梅、薪のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。是で熱海の梅林も凄しい。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい、御馳走を爲ますよ。お宮さんは何が所好ですか、えゝ、一番所好なものは?」
彼は陰に宮と語らんことを望めるなり、宮は仍言はずして可羞しげに打笑めり。
「で、何日御帰でありますか。明朝一所に御発足にはなりませんか。此方に然う長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたら如何であります。」
「はい、有難うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内には音信がございます筈で、其音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい。」
「はゝあ、それぢや如何もな。」
唯継は例の倨りて天を睨むやうに打仰ぎて、杖の獅子頭を撫廻しつゝ、少時思案する体なりしが、やをら白羽二重のハンカチイフを取出して、片手に一揮揮るよと見れば鼻を拭へり。菫花の香は咽ばさるゝばかりに薫じ遍りぬ。
宮も母も其の鋭き匂に驚けるなり。
「あゝと、私是から少し散歩しやうと思ふのであります。是から出て、流に沿いて、田圃の方を。私未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分路程が有るから、貴方は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな、私一人で歩いても満らない。お宮さんは胃が不良のだから散歩は極めて藥、是から行つて見ませう、ねえ。」
彼は杖を取直してはや立たんとす。
「はい、有難うございます。お前お供をお爲かい。」
宮の遅ふを見て、唯継は故に座を起てり。
「さあ行つて見ませう、えゝ、胃病の藥です。然う因循して居ては可けない。」
衝と寄りて軽く宮の肩を拊ちぬ。宮は忽ち面を赤めて、如何にとも爲ん術を知らざらんやうに立惑ひて居たり。母の前をも憚らぬ男の馴々しさを、憎しとにはあらねど、己の仂なきやうに慙づるなりけり。
得も謂はれぬ其の仇無さの身に浸遍るに堪へざる思は、漫に唯継の目の中に顕れて異しき独笑となりぬ。此の仇無きいとしらしき、美しき娘の柔き手を携へて、人無き野道の長閑なるを語ひつゝ行かば、如何ばかり樂からんよと、彼ははや心も空になりて、
「さあ、行つて見ませう。御母さんから御許が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方、宜しいでありませう。」
母は宮の猶羞づるを見て、
「お前お出かい、如何お爲だえ。」
「貴方、お出かいなどゝ有仰つちや可けません。お出なさいと命令を爲すつて下さい。」
宮も母も思はず笑へり。唯継も後れじと笑へり。
又人の入來る気勢なるを宮は心着きて窺ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙しく蹈立つる足音なりき。
「ではお前お供をおしな。」
「さあ、行きませう。直其処までゞありますよ。」
宮は小き声して、
「御母さんも一処に御出なさいな。」
「私かい、まあお前お供をおしな。」
母親を伴ひては大いに風流ならず、頗る妙ならずと思へば、唯継は飽くまで之を防がんと、
「いや、御母さんには却つて御迷惑です。道が良くないから御母さんには迚も可けますまい。実際貴方には切つてお勧め申されない、御迷惑は知れて居る。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか。ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までゞ可いから附合つて下さい。貴方が可厭だつたら直に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ。」
此時忙しげに聞えし靴音ははや止みたり。人は出去りしにあらで、七八間彼方なる木蔭に足を停めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方の三人は誰も知らず。彳める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套を着て、肩には古りたる象皮の學校鞄を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。
再び靴音は高く響きぬ。其の驟なると近きとに驚きて、三人は始めて音する方を見遣りつ。
花の散りかゝる中を進来つゝ学生は帽を取りて、
「姨さん、参りましたよ。」
母子は動顛して殆ど人心地を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆れ果てたる目をば空しく瞪りて、少時は石の如く動かず。宮は、あはれ生きてあらんより忽ち消えて此土と成了らんことの、せめて心易さを思ひつゝ、其の淡白き唇を啖裂かんとすばかりに咬みて咬みて止まざりき。
想ふに彼等の驚愕と恐怖とは其の殺せし人の計らずも今生きて来れるに会へるが如きものならん。気も不覚なれば母は譫語のやうに言出せり。
「おや、お出なの。」
宮は些少なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀へる如く、木蔭に身を側めて、打過む呼吸を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩ひて、見るは苦しけれど、見ざるも辛き貫一の顔を、俯したる額越に窺ひては、又唯継の気色をも気遣へり。
唯継は彼等の心々に然ばかりの大波瀾ありとは知らざれば、聞及びたる鴫澤の食客の来れるよと、例の金剛石の手を見よがしに杖を立てゝ、誇りかに梢を仰ぐ腮を張れり。
貫一は今回の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既に此場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇と言はん、今は姑く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮めて、苦しき笑顔を作りて居たり。
「宮さんの病気は如何でございます。」
宮は耐りかねて竊にハンカチイフを咬緊めたり。
「あゝ、大きに良いので、もう二三日内には帰らうと思つてね。お前さん能く来られましたね、学校の方は?」
「教場に普請を為る所があるので、今日半日と明日明後日と休講になつたものですから。」
「おや、然うかい。」
唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過ちて野中の古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得爲ず、命の綱と危くも取縋りたる草の根を、鼠の来りて噛むに遭ふと云へる比喩に最能く似たり。如何に爲べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終に其の免るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。
「丁度宅から人が参りましてございますから、甚だ勝手がましうございますが、私等は是から宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが…………。」
「はゝあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな。」
「はい、話の模様に因りましては、然やう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……………。」
「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます、散歩は罷めて是から帰ります。帰つてお待申して居ますから、後に是非お出下さいよ。宜しいですか、お宮さん、それでは後に屹度お出なさいよ。誠に今日は残念でありますな。」
彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄来て、
「貴方、屹度後にお出なさいよ、えゝ。」
貫一は瞬き爲で視て居たり。宮は窮して彼に会釈さへ爲かねつ。娘気の可羞に恁くあるとのみ思へる唯継は、益寄添ひつゝ、舌怠きまでに語を和げて、
「宜しいですか、来なくては可けませんよ。私待つて居ますから。」
貫一の眼は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を睨着けたり。彼は懼れて傍目をも転らざりけれど、必ず然あるべきを想ひて独り心を慄かせしが、猶唯継の如何なることを言出でんも知られずと思へば、左にも右にも其場を繕ひぬ。母子の爲には幾許の幸なりけん、彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容れず、唯あくまでもいとしき宮に心を遺して行けり。
其後影を透すばかりに目戌れる貫一は我を忘れて姑く佇めり。両個は其心を測りかねて、言も出でず、息をさへ凝して、空しく早瀬の音の聒きを聴くのみなりけり。
旋て此方を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる面上に、多からんとすれども能はずと見ゆる微少の笑を洩して、
「宮さん、今の奴は此間の骨牌に来て居た金剛石だね。」
宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為して、折しも啼ける鶯の木の間を窺へり。貫一は此体を見て更に嗤笑ひつ。
「夜見たら其程でもなかつたが、昼間見ると実に気障な奴だね。而して如何だ! あの高慢ちきの面は!」
「貫一さん。」母は卒に呼びかけたり。
「はい。」
「お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は。」
「はい。」
「あゝ、そんなら可いけれど、不断のお前さんにも似合はない、那様人の悪口などを言ふものぢやありませんよ。」
「はい。」
「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にでも入つて、而して未だ御午餐前なのでせう。」
「いえ汽車の中で鮨を食べました。」
三人は倶に歩始めぬ。貫一は外套の肩を払はれて、後を捻向けば宮と面を合せたり。
「其処に花が粘いてゐたから取つたのよ。」
「それは難有う!!!」
第八章
打霞みたる空ながら、月の色は匂滴るゝやうにて、微白き海は縹渺として限を知らず、譬へば無邪氣なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れて此濱辺を逍遙せるは貫一と宮となりけり。
「僕は唯胸が一杯で、何も言ふことが出来ない。」
五歩六歩行きし後宮はやうやう言出でつ。
「堪忍して下さい。」
「何も今更謝ることは無いよ。一体今度の事は翁さん姨さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、其を聞けば可いのだから。」
「………………。」
「此地へ来るまでは、僕は十分信じて居つた、お前さんに限つて那様了簡のあるべき筈は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間で、知れ切つた話だ。
昨夜翁さんから悉しく話があつて、其上に頼むといふ御言だ。」
差含む涙に彼の声は顫ひぬ。
「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体は火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むが、此頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。
而して、言ふ事も有らうに、此頼を聴いてくれゝば洋行さして遣るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児でも、女房を売った銭で洋行せうとは思はん!」
貫一は蹈留りて、海に向ひて泣けり。宮は此時始めて彼に寄添ひて、気遣しげに其顔を差覗きぬ。
「堪忍して下さいよ。皆私が……何ぞ堪忍して下さい。」
貫一の手に縋りて、忽ち其肩に面を推当つると見れば、彼も泣音を洩すなりけり。波は漾々として遠く烟り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は墨のしたたりたるやうの影を作れり。
「それで僕は考へたのだ、是は一方には翁さんが僕を説いて、お前さんの方は姨さんが説得しやうと云ふので、無理に此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々と言つて聞いて居たけれど、宮さんは幾多でも剛情を張つて差支無いのだ、如何あつても可厭だとお前さんさへ言通せば、此縁談はそれで破れて了ふのだ。僕が傍に居ると智恵を付けて邪魔を爲ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜は夜一夜寐はしない、那様事は萬々有るまいけれど、種々言はれる爲に可厭と言はれない義理になつて、若や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家は学校へ出る積で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。
馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処に在る!! 僕は是程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知……知……知らなかつた。」
宮は可悲と可懼に襲はれて少しく声さへ立てゝ泣きぬ。
憤を抑ふる貫一の呼吸は漸く乱れたり。
「宮さん、お前は好くも僕を欺いたね。」
宮は覚えず慄けり。
「病氣と云つて此へ来たのは、富山と逢ふ爲だらう。」
「まあ、其ばつかりは…………。」
「おゝ、其ばつかりは?」
「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ、何ぼ何でも余り酷い事を。」
泣入る宮を尻目に掛けて。
「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。是が酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは爲んよ。
お前が得心せんものなら、此地へ来るに就いて僕に一言も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、其暇が無かつたなら、後から手紙を寄来すが可いぢやないか。出抜いて家を出るばかりか、何の便も爲ん処を見れば、始から富山と出会ふ手筈になつてゐたのだ。或は一所に来たのか知れはしない。宮さん。お前は奸婦だよ。姦通したも同じだよ。」
「那様酷いことを、貫一さん、余りだわ、余りだわ。」
彼は正体も無く泣頽れつゝ、寄らんとするを貫一は突退けて、
「操を破れば奸婦ぢやあるまいか。」
「何時私が操を破つて?」
「幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見て居るものかい! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、其夫を出抜いて、他所の男と湯治に来てゐたら、姦通して居ないといふ證拠が何処に在る。」
「然う言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、其は全く貫一さんの邪推よ。私等が此地に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ。」
「何で富山が後から尋ねて来たのだ。」
宮は其唇に釘打たれたるやうに再び言は出でざりき。貫一は、恁く詰責せる間に彼の必ず過を悔ゐ、罪を詫びて、其身は未か命までも己の欲する儘ならんことを誓ふべしと信じたりしなり。設し信ぜざりけんも、心陰に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりも然せる気色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変を、貫一はなかなか信しからず覚ゆるまでに呆れたり。
宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛みし人は芥の如く我を悪めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤は彼の胸を劈きて、幾と身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖ひて、此熱腸を冷さんとも思へり。忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪へずして尻居に僵れたり。
宮は見るより驚く遑もあらず、諸共に砂に塗れて掻抱けば、閉ぢたる眼より乱落つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨ひて、迫れる息は凄しく波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後より取縋り、抱緊め、撼動して、戦く聲を励せば、励す声は更に戦きぬ。
「如何して、貫一さん、如何したのよう!」
貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇に拭ひたり。
「吁、宮さん恁して二人が一処に居るのも今夜限だ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言ふのも今夜限だよ。一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思つてくれ。」
宮は挫ぐばかりに貫一に取着きて、物狂しう咽入りぬ。
「那様悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が澤山あるのだけれど、余り言難い事ばかりだから、口ヘは出さないけれど、唯一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ──私は生涯忘れはしないわ。」
「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた。」
「だから、私は決して見棄てはしないわ。」
「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい。」
「だから、私は考へてゐる事があるのだから、最少し辛抱して其を──私の心を見て下さいな。屹度貴方の事を忘れない證拠を私は見せるわ。」
「えゝ、狼狽へて行らんことを言ふな、食ふに窮つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処の一人娘ぢやないか、而して婿まで極つてゐるのぢやないか。其婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。而もお前は其婿を生涯忘れないほどに思つて居ると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰かなければならんのだ。天下に是くらゐ理の解らん話が有らうか。如何考へても、嫁に帰くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。
婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決して此二件の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、這麼事に遠慮も何も要るものか。」
「私が悪いのだから堪忍して下さい。」
「それぢや婿が不足なのだね。」
「貫一さん、それは余りだわ、那様に疑ふのなら、私は甚麼事でもして、而して證拠を見せるわ。」
「婿に不足は無い? それぢや富山は財があるからか、して見ると此結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、此結婚はお前も承知をしたのだね、えゝ?
翁さん姨さんに迫られて、余儀無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方は幾許もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適つて見る気は有るのかい」
貫一の眼は其全身の力を聚めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戌れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息したり。
「宜しい、もう宜しい。お前の心は能く解つた。」
今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按じつゝも、彼は乱るゝ胸を寛うせんが為に、強ひて目を放ちて海の方を眺めたりしが、仍得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍に在らずして、六七間後なる波打際に面を掩ひて泣けるなり。
可悩しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬベく立ち迷へるに、淼淼たる海の端の白く頽れて波と打寄せたる、艶に哀を尽せる風情に、貫一は憤をも恨をも忘れて、少時は画を看る如き心地もしつ。更に、此美しき人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。
「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」
彼は頭を低れて足の向ふまゝに汀の方へ進行きしが、泣く泣く歩来れる宮と互に知らで行合ひたり。
「宮さん、何を泣くのだ。お前は些とも泣くことは無いぢやないか。空涙!」
「どうせ然うよ。」
殆ど聞得べからざるまでに其声は涙に乱れたり。
「宮さん、お前に限つては然云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢや依様お前の心は慾だね、財なのだね。如何に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相は尽きないかい。
好い出世をして、然ぞ榮耀も出来て、お前はそれで可からうけれど、財に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂はうか、口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺して──驚くことは無い! ──いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺へてお前を人に奪られるのを手出しも為ずに見てゐる僕の心地は、甚麼だと思ふ、甚麼だと思ふよ!
自分さへ好ければ他は如何ならうともお前は管はんのかい。一体貫一はお前の何だよ、何だと思ふのだよ。鴫澤の家には厄介者の居候でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾になつた覚は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物にしたのだね。平生お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意で、本当の愛情は無かつたのだ。然うとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛して居た。お前の外には何の楽も無いほどにお前の事を思つて居た。其程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前は如何しても棄てる気かい。
それは無論金力の点では、僕と富山とは比較にはならない。彼方は屈指の財産家、僕は固より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財で買へるものぢやないよ、幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来ん此の愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全く此の愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。
己の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有つてゐる貫一を棄てゝ、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧ろ害になり易い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、如何いふ心得なのだ。然し財といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千萬人に勝れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分陋い事を為るのだ。其を考へれば、お前が偶然気の変つたのも、或は無理は無いのだらう、からして僕は其は咎めない。但もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、其の財が──富山の財産がお前の夫婦間に何程の効力があるのかと謂ふことを。
雀が米を食ふのは僅十粒か二十粒だ。俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫澤の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前にひもじい思を為せるやうな、那様意気地の無い男でもない。若し間違つて、其の十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕は是……是程までにお前の事を思つてゐる!」
貫一は雫する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁く、それは立派な生活をして、栄耀も出来やうし、楽も出来やう、けれども那箇の財産は決して息子の嫁のために費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招れて行く人もあれば、自分の妻子を車に載せて、其を自分が挽いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁けば、家内も多ければ人出入も、劇しゝ、從つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。其中へ入つて、気を傷めながら愛しても居らん夫を持つて、それでお前は何の楽に生きてゐるのだ。然して勤めて居れば、末には那の財産がお前の物になるのかい。富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふ所は今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。設んば那の財産がお前の自由になるとした所で、女の身に何十萬と云ふ金が如何なる、何十萬の金を女の身で面白く費へるかい、雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼るで、女の宝とするのは其夫ではないか。何百萬円の財が有らうと、其夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
聞けば彼富山の父と云ふものは、内に二人外に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方那様真似をして、妻は些の床の置物にされて、謂はゞ棄てられて居るのだ。棄てられて居ながら其愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦ばかりで楽は無いと謂つて可い。お前の嫁く唯継だつて、固より所望でお前を迎ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、其が長く続くものか、財が有るから好きな真似も出来る。他の楽に気が移つて、直にお前の恋は冷されて了ふのは判つて居る。其時になつてのお前の心地を考へて御覧、那の富山の財産が其苦を拯ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつて居ても、お前はそれで楽かい、満足かい。
僕が人にお前を奪られる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変をした憎いお前ぢやあるけれど、猶且可哀さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
僕に飽きて富山に惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派な所へ嫁くといふ其ばかりに迷はされて居るのだから、其は過つてゐる、其は実に過つてゐる、愛情の無い結婚は究竟自他の後悔だよ。今夜此場のお前の分別一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一も不便だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直してくれないか。
七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか、男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨いとは更に思はんのに、宮さん、お前は如何したのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛くは思はんのかい。」
彼は危きを拯はんとする如く犇と宮に取着きて、匂滴るゝ頸元に沸ゆる涙を濺ぎつゝ、蘆の枯葉の風に揉るゝやうに身を顫せり。宮も離れじと抱緊めて諸共に顫ひつゝ、貫一が臂を咬みて咽泣に泣けり。
「嗚呼、私は如何したら可からう! 若し私が彼方へ嫁つたら、貫一さんは如何するの、それを聞かして下さいな。」
木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然お前は嫁く気だね! 是迄に僕が言つても聴いてくれんのだね。ちえゝ、腸の腐つた女! 姦婦!!」
其声と與に貫一は脚を挙げて宮の弱腰を礑と踢たり。地響して横様に転びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまゝ砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為ず弱々と僵れたるを、なほ憎さげに見遣りつゝ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了ふのだ。学問も何ももう廃だ。此恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、其顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁さん姨さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あつて貫一は此儘長の御暇を致しますから、随分お達者で御機嫌よろしう……宮さん、お前から好く然う言つておくれ、よ、若し貫一は如何したとお訊ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方知れずになつて了つたと……………………。」
宮は矢庭に蹶起きて、立たんと為れば脚の痛に脆くも倒れて効無きを、漸く這寄りて貫一の脚に縋付き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方これから何……何処へ行くのよ。」
貫一は有繋に驚けり、宮が衣の披けて雪可羞しく露せる膝頭は、夥しく血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我をしたか。」
寄らんとするを宮は支へて、
「えゝ、這麼事は管はないから、貴方は何処へ行くのよ。話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから。」
「話が有れば此で聞かう。」
「此ぢや私は可厭よ。」
「えゝ、何の話が有るものか。さあ此を放さないか。」
「私は放さない。」
「剛情張ると蹴飛すぞ。」
「蹴られても可いわ。」
貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。
「貫一さん。」
貫一ははや幾間を急行きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷に幾度か仆れんとしつゝも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺した事がある。」
遂に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯声を頼に彼の名を呼ぶのみ。漸く朧になれる貫一が影の一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶して猶呼続けつ。旋て其の黒き影の岡の頂に立てるは、此方を目戌れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遥に来りぬ。
「宮さん!」
「あ、あ、あ、貫一さん!」
首を延べて眗せども、目を瞪りて眺むれども、声せし後は黒き影の掻消す如く失せて、其かと思ひし木立の寂しげに動かず。波は悲しき音を寄せて一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋しき貫一の名を呼びたりき。
(明治三十年一月=明治三十六年一月 前編は明治三十年一月一日より二月二十三日まで「読売新聞」に連載。)