遠眼鏡戯場観察(抄)
口 上
「歌舞伎の幾何学」の勧め ――ひと味違う歌舞伎の見方
大きな舞台に華やかな色彩。一九九四年四月歌舞伎座。夜の部は「
それ以来の歌舞伎見物であった。この時の歌舞伎は、いま、歌舞伎座の「初代松本白鸚十三回忌追善四月大歌舞伎」という
「歌舞伎」というのは何だろうか。
歌舞伎は
歌舞伎は、何故に、何処から、生まれ、何処へ行くのか。
歌舞伎は物語のひとつの表現形式である。
物語は、伝説であれファンタジーであれ、ドラマであれ、ノンフィクションであれ、「物を語る」人の心から生まれ、物語は別の人の心へ行く。
何故に。……生活感覚を伝えるために。非現実的な物語でも、いや非現実的であるがゆえに、時に真実を伝える。荒唐無稽は「物語」の本質的で、共通性のある性格である。
だとすれば、歌舞伎も、ほかの物語や芸能と同じように人の心から生まれ、別の人の心へ行く。
何故に。江戸庶民の生活感覚を伝えるために……。それも四〇〇年間伝えられ、衆知を集めて洗練されてきた表現方法で。
その方法が荒唐無稽であっても、いっこうに構わないと思う。むしろ「洗練された荒唐無稽」こそ、江戸庶民が幕府の権力に反発しながら歌舞伎を支えてきた生活感覚の原型ではなかったか。それこそが江戸の歌舞伎の魅力である。
しかも、それは、いまも歌舞伎の舞台で見ることができる。
時代物の華やかな錦絵のような華麗な舞台。心が浮き立つような伴奏音楽や竹本、常磐津、清元、長唄などの節回し、役者たちのメリハリのある演技、トンボなど大部屋役者の群舞、廻り舞台や大ゼリなど大道具のダイナミックな動き。
舞台を見ている時、観客としての私たちは何を、あるいは、何処を見れば「歌舞伎を見た」と言えるのか。そういうことが、いま私はいちばん気になって仕方がない。
一度見て、退屈し、一〇数年ぶりに見てから、病み付きになった歌舞伎の魅力。歌舞伎には当初上演された後、全く演じられなくなり何百年も埋もれていたものが、ある日魅力が再発見され、それ以来一〇〇年間も上演され続けるという演目がある。「
私の意識の中でも当初退屈に思えたものが、一〇数年埋もれていて「熊谷陣屋」で再認識されたのかもしれない。当初何が見えなかったのか。そして、いま、何が見えるのか。
もちろん、その間に特に歌舞伎に関心を寄せるような勉強をしたわけではない。強いて言えば当初の三〇歳から四〇歳半ばという時の流れと人生の経験があったことぐらいか。
歌舞伎を見るようになって、歌舞伎の本を読み漁るのだが、何せ長い歴史を誇る歌舞伎が相手だけに歌舞伎に関する本は、文字通り「やまほどある」のである。
しかし、一見歌舞伎とは何の関係もなさそうな本の中にも歌舞伎について触れられていることもある。そう思えば私にとって歌舞伎の本の「やま」は、ますます大きく、深くなる。
確かに歌舞伎の見巧者は大勢おられる。その一方で、歌舞伎の初心者はもっと大勢おられる。歌舞伎の歴史は約四〇〇年。多くの役者が歴史を飾ってきた。こうした役者についての役者論、演技論、舞台論は気の遠くなるほど書かれてきた。座付き作者についてもいろいろ書かれてきた。演劇としての歌舞伎はもちろん、芝居小屋(劇場)、大道具、小道具、衣裳、
歌舞伎を見始めて四年あまりにしかならない私はもちろん、初心者である。見巧者の方はいざしらず、初心者にとって、歌舞伎を見ていて、いろいろ疑問に思うことがたくさんある。ところが歌舞伎を見始めた時に便利に利用させてもらった、いわゆる歌舞伎の入門書では、飽き足らなくなっていることに私はある日気が付いた。歌舞伎の基礎用語、簡単な歴史、歴史に残る名優、当代役者のプロフィールや家系、主な演目の解説など、いずれも最初はおもしろく読ませていただいた。しかし、入門書、概説書では、歌舞伎は判らないことにも気付かされた。
古今東西の歌舞伎の本をできるだけ読む作業(多分死ぬまで読んでもすべてを読むことは無理だろう}は、歌舞伎鑑賞とあわせて私のライフワークにしたいとは思っているが、私の四〇年近い書物一般の乱読による直感で、いわゆる「歌舞伎の本」というグループとは違う「本の山」を崩してみるのもおもしろいと勝手に決めて、私の疑問の痒いところに手が届くような本に、なかなかぶち当たらないなら、いっそのことと、次のようなことを考えてしまったのである。つまり、自分のために、あるいは、私と同じような思いをしている人がいるとすれば、その人のために本を書くことにすればよい。
その私の思いとは、いずれ歌舞伎を観賞することになるが、その前に舞台で「見るべきものは見る」、つまり「観賞」の前提となる「観察」がしっかりしていないと、「観賞」なんて、まだまだおこがましいということだ。しかし、観察するにしても巧い観察の仕方があるだろうと思うが、そういうことの具体的な手ほどきをしてくれる本がない。
「観賞入門書」、つまり、「いろは」の「い」のレベルのような本ならたくさんあるし、いまも出版され続けている。しかし、「い」で満足するのは歌舞伎の知識がまったくない頃だけである。「いろは」の「ろ」や「は」になってくると、そういう本では飽き足らなくなるし、だからといって高度な役者論や演技論、演劇論などは、まだ歯が立たないという人にとってみると、歌舞伎観賞に役立つ本がないという、いわは中だるみのような状態になってしまう。歌舞伎座の金田栄一支配人が、かつて、おもしろいことを書いていた。「ある時、観劇歴も永く、歌舞伎好きで通っている方が『鏡獅子のウシロシテ』といっているのを聞き、『???』と思いましたが、『そうか、ノチジテ(後シテ)か』と気がつきました。」これは、能や狂言(歌舞伎には、能や狂言を元に歌舞伎化したものも多い)を知っていれば「
そういう歌舞伎ファンにとって、一種の空白状況を早めに埋めてみようと思い、この本を書いてみたいと思った。いきなり「観賞」ではなく「観察」の積み重ねが、本当の「鑑賞」に通じるのではないか。
そのために、この本では、私の問題意識として、次の三つのことにこだわることにした。
歌舞伎の中の「江戸」を「
(一)「江戸」と言うのは日本が近代化路線(それはいくつかの戦争を挟んで、いまも続いている)をとる前の時代であり、近代化路線が、いわば「江戸」を否定して始まったわけだが、その近代化路線は、いまいろいろな問題を抱えて苦慮している。いま江戸を再評価する動きが江戸ブームという形で表れている。江戸をタイムカプセルに入れたまま、劇的空間を作っているのが歌舞伎ではないか。まず、江戸の原型に近い形を歌舞伎の舞台に探すことは、多くの人にも関心があるのではないか。
(二)「観察」することが、やがて「観賞」から、さらに「鑑賞」することにつながる。
(三)「記号論」としての歌舞伎論は、渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』という名著がすでにあるので、私流の「幾何学」を使って、巧い「観察」ができないか。
ある時、歌舞伎座の二階席で歌舞伎を見た
その個展は会期が終われば作品も販売することになっていた。会場には絵を希望する人は歌舞伎座の受け付けに申し込むようにと注意書きがあった。
受け付けで聞いてみると、私のようなサラリーマンが簡単に買えるような値段ではなかった。でも「一期一会(絵)」の洒落ではないが、金額を超えて惹かれるものがあり、思い切って買うことにした。歌舞伎座の人にひとつだけ条件を申し出た。「私が時枝さんご本人に会いたいと言っていることを伝言してください」ということであった。ご本人が「嫌だ」と言われたらそれまでと思っていたところ、しばらくして時枝本人から私の自宅に電話がかかってきた。「会ってもよい」と言うことであった。
時枝は渋谷の私の職場まで会いにきてくださった。私が報道機関の人間だということでたくさんの資料や絵(小振りの色紙に描いた役者絵の数々)をバッグにつめて、バスに乗ってこられたと言うことであった。職場の喫茶コーナーで一時間あまりお話を伺った。幼いこどもの頃、母親に連れられてよく歌舞伎を見に行ったこと。一時、
大部屋の役者で来たこと。途中で名題試験を受けるように勧められたことがあったが、名題役者になるとそれまでのように舞台裏や舞台の袖で絵を描くことができにくくなることが試験を受けなかった理由だということだった。
確かに
「これは、もうひとつの歌舞伎なのではないか」その時、私はそう思った。観客から見えない「もうひとつの歌舞伎」を時枝は見ているのではないか。そう言えば「もうひとつの歌舞伎を見ている」時枝のような人たちはたくさんいるのではないか。舞台で役者衆の世話をする「
いや、客席だって座席の場所によって舞台や花道のうち、見えるものと見えないものがあるのではないか。同じ日の同じ舞台を見たといっても見る席によって、味わえる歌舞伎の味は異なるのではないか。ところが、見巧者とも言うべき歌舞伎評を書く人たちの文章を読んでいると、まるで神様のように、あるいは全体小説の作者のように、すべてが見えることを前提にして批評を書いているのではないかと思う。時枝の作品を見ていて印象に残り、さらに私のその後の歌舞伎観察にとって、ひとつのこだわりになったのはこのことだった。
こうした話を聞きながら私は、たくさんの作品や時枝の絵が表紙になった戦前の雑誌、「女形役者絵師」時枝のことを特集した雑誌など見せていただいた。「三階さん」(楽屋が三階にあることからこう呼ばれた)と呼ばれる大部屋の役者たちの群像とも言える、さまざまな姿を描いた作品が印象に残った。
時枝は「大部屋の仲間の役者たちの姿を描き残したい」と情熱を込めて語ってくれた。そして、「死ぬまでに作品集を出版したいので、尽力してもらえないか」と私に熱心に訴えた。絵画集ともなれば印刷にかなりの金をかけなければならないだろう。それだけに、ある程度の部数の売れ行きが見込めるなど、採算が合わなければ出版社は絵画集の刊行に二の足を踏むだろう。これはむずかしいなと正直に思った。ただ、時枝の熱意だけはきちっと受けとめておこうと決意した(かって、時枝は東京新聞社から作品集を出したことがあるが、この時、時枝は何故かそれを私には言わなかった)。
話を伺った後、私は時枝を送って渋谷のバス停まで一緒に歩いた。バスに乗った時枝を見送りながら、時枝が一〇年以上前に亡くなった私の父親の年令に極めて近いことに気付いた。なにか、この老優のためにできないか。緩やかな坂道を下って行くバスの後窓のガラスが夏の強い日差しを受けて、きらりと光った(その後、時枝は九九年一月久々の個展を東京・松屋銀座のギャラリーで開催した)。
その年、九六年九月、歌舞伎座で「
花道の両脇に埋め込まれたライトに明かりが点いた。「さあ芝翫が出てくるぞ」私は後を振り向いた。近くの席の誰もまだ後を振り向いたりなどしていない。「
芝翫の玉手御前は、実はこの時が初演であった。これについて芝翫自身は、次のように述べている。
「これも(玉手御前-注)祖父の五代目歌右衛門が得意とした役で、詳しいやり方も残されています。歌舞伎座での上演時には、なるべく忠実に祖父のやり方をなぞり、その上で、見ている方に分かりいいようにと自分の工夫を加味しました。『深々たる夜の道……』という竹本で玉手は花道を実家に向かってとぼとぼと歩いてきます。成駒屋型では引きちぎった片袖を頭巾代わりに被ります。俊徳丸が実家に匿われていると予想はしているものの、確証はない。本当にいるのか、いないのか、まま子に恋をしかけている自分を生まじめな父親はきっと怒っているだろう。玉手はそんなさまざまな煩悶を胸中に抱えて歩いています。だから後ろ姿には気をつかいました」(注は引用者)中村芝翫、聞き書き・小玉祥子『芝翫芸模様』)こうした芝翫の言葉を、舞台を見てからしばらくして私は読んだわけだが、初演ながらこれだけの思いを私に伝えていた芝翫の凄さを改めて感じた。
この時、私は舞台裏や袖という、観客が幾らお金を出しても得られない場所=視座で多くの役者たちを五〇年間も見続け、描き続けてきた時枝の「至福の時の繋がり」を想像せずにはいられなかった。
時枝と言えば、九七年九月の歌舞伎座の「
つまり、歌舞伎という大きな舞台では、鳥屋の中の芝翫と言い、花道のはずれでの時枝と言い、大名題役者だろうと、大部屋役者だろうと、役者が役になりきって演技をしていても、劇場にいる全ての観客が役者の演技の一部始終を見ることは不可能なのだ。二階の奥、三階、四階となればなおさらそうなるだろう。先ほどの本の中で芝翫はこう言っている。
「『まず芝居をたくさん見なさい。(略)ノートに取らないでじっくり見なさい。同じ舞台でも歌右衛門のおじさん、梅幸兄さん、雀右衛門さんのものと全部見て、それを覚えなさい。どんな役がきても大丈夫な役者になりなさい』それを福助は確実に実行しました。客席から見る。黒御簾で見る。舞台の横から見る。同じ舞台でもいろいろな場所から見る」息子・福助への助言だが、役者が先輩たちの演技をいろいろなところで見なければ学べないように、観客が座席から見えるものには限度があるのだ。
九七年一〇月の歌舞伎座「
歌舞伎は劇場で座る座席の場所によって、舞台の、何を、何処を見ようと心がけると、ひと味違って見えてくるのではないか、ということだ。逆に言えば、三階とか四階でしか見えない歌舞伎というものもあるのではないか。例えば、廻り舞台は上から見たほうが良く判るし、「
普通の歌舞伎入門書では、そういうことを教えてくれない。これは歌舞伎の見方としては損ではないか。見巧者の人たちも、今更という感じでそういうことを教えてくれないのではないか。この論考を当初「歌舞伎『座』の幾何学」(後に「座」だけではなく、歌舞伎全体を「幾何学」で見てみようということで「歌舞伎の幾何学」に変えた)と題して書き始めたのは、歌舞伎を見る劇場の座席に座って、きょうのこの席ではほかと違って何が見えるのか、あるいは何処を意識して見るとほかと違ったものが見えるのか、そういうことをあらかじめ知っておくと、「ちょっと得する歌舞伎見物になるぞ」という思いがあるからである。その私なりの方法論を「幾何学」を援用してやってみようと思った。
十一段目
「形」としての歌舞伎 ――様式美とリアリテイ
「コミさん」こと田中小実昌といえば作家で映画評論家として知られている。
飄々とした風格そのものが文体となっている田中小実昌の文学が大好きな私の所には、ダンボール二箱分のコミさんの本がある。コミさんの作品世界と言えば、生まれた呉(広島県)時代の話、「進駐軍」、あるいは「駐留軍」(要するにいまの在日米軍に日本が占領されていたころの呼称)の臨時雇いのような形で働いていた頃の話(これも呉とか横田とかの時代がある)、ストリップ劇場で幕間のコメディで舞台に出ていた頃の、踊り子との交流などの話、路線バスに乗ってフラフラと街を移動する話(これは、国内編と海外編がある)、さらにいまも熱心に通っている映画の試写会の話などに分かれると思う。そうしたさまざまな「コミさんワールド」に東大の哲学科中退で、いまも持ち歩く本の中には哲学書が多いという「哲学好き」という調味料が加わって、何とも言えない独特の味を醸し出すのである。
私も、ここ数年機会があって代休の日に映画の試写会を覗くことが多かったので、よく会場でコミさんの姿を見かけた。毛糸の丸い帽子に、夏なら半ズボン姿で、使い込まれたカバンを肩に掛けている、あのコミさん。愛読者というものは、意外とシャイなもので、何か切っ掛けでもないと声を掛けられるものではない。何度か声を掛けようとしながら、実現できずにいたが、ある時コミさんの新著『バンプダンプ』が発売された直後に、たまたま試写会でご一緒になったので、思い切って声を掛けて少し話をした。『バンプダンプ』という本が縦長の少し変形の本であること、最近は、小説などを書いてもなかなか本にならないんだよね、などとおっしゃった。そして『バンプダンプ』に署名をお願いしたら、何か書きましょうということで、お名前のほかに識語として「うしろから おされて」と書いてくださった。ところが、この「うしろから おされて」は、実は一九年前の七九年度上半期の直木賞(ちなみに受賞作は「浪曲師朝日丸の話」、「ミミのこと」)を取られた時に、書店で私が買い求めた署名本に書いてあった識語と同じだったのだ。
直木賞の時は、本人が意図していないにもかかわらず、後から押されるようにして、賞を受賞してしまったという感じが出ていて、おもしろいと思ったものだが、その後『ポロポロ』で谷崎賞を取ったりして、田中小実昌文学も評価が定着したと言えるのに、何年経っても、同じ識語を書くというコミさん。私は、呆れないとは言わないが、それ以上に、この飄々として老人(失礼、でもコミさんもとうに七〇歳は越えているが、印象はここ何十年と全然変わらないのだから、これも凄い人だと思う)の足元の確かさを感じてしまう。
そういえば、「うしろからおされ」続けたせいか、コミさんは前から見ると以前とほとんど変わらず老いを感じさせないが、試写会の後、先を歩くコミさんの最近の後姿に老いを感じるようになったのは、たぶんコミさんが、普通の人より後ろ姿を使いすぎたのかもしれない。
しかし、よく考えてみれば「コミさんワールド」には、歌舞伎で言う「
歌舞伎では、女形が立役より舞台の前に出ることは、原則としてないのである。ただひとつの例外が遊女の役だと言う。封建時代に生まれた歌舞伎は封建時代の様々な約束事をいまも残している。歌舞伎では「売り物買い物」の遊女だから舞台でも前に出すと言うのだ。封建的なことだが、否、価値観を超えて昔をそのまま残しているからこそ歌舞伎の劇場に一歩足を踏み入れると、「封建時代」という江戸時代に安心してタイムスリップできるのだ。しかし、女形が普通は立役より舞台の後に居るというのは、役者が全員男ばかりという歌舞伎の特性から、同じ男同志でも立役より少しでも本物の女性らしく、小さく見せたいという演出意図が根底にはあるのだと私は思う。その証拠に立役が座る時には、黒衣が役者の後に回って「合引」を役者の尻の下に入れて、座った立役の姿がそばに座っている女形より大きく見えるようにしているではないか。前の方で触れた歌舞伎役者絵師の中村時枝は「戦後、本当の日本女性は歌舞伎の舞台の中にしか居なくなった」というが、これが時枝一流のアフォリズムだとしても、男たちだけの劇団でリアルに女性を表現するということは、畢竟、「歌舞伎とは何なのだ」という演劇としての原点となる根源的な問い、つまり、約束事という幻想とリアリテイという客観性という根源的な矛盾の共存という問いを含んでいると思う。
おそらく初期の歌舞伎では、そうした役者のさまざまな個性(人品とか演技の持味など)がそれぞれ工夫され、伝えられ、長い歴史の過程で洗練されていく中で、仁とか型とか家の芸とかの概念が明確になって、歌舞伎の演劇としての特性が作り上げられてきたのではないか。
少し横道にそれたようだが、ここでは、そういう歌舞伎の「形」について、考えてみたい。
歌舞伎の「形」、つまり「様式美」には、大きなものでは二つあると思う。ひとつは「役者と演技」である。もうひとつは「装置」である。
まず、「演技」では、役者の本来の持味ともいうべき「仁」、役者の家代々に伝えられてきた演技の「型」(「家の芸」、芸の工夫の体系)、それに役者の技量ともいうべき「
四〇〇年間の歌舞伎の歴史の中で舞台に登場した人物は大勢いるが、それにもかかわらず、その多数の登場人物を分類すると一枚の表に納まってしまうと言う(渡辺保『歌舞伎』)。
これは、どういうことかと言うと「赤姫」に象徴されるように、姫君は誰でも皆赤い衣装を着ている。歌舞伎には登場人物の個性よりも、人間の原型の類型化の方が大事だという考え方がある。そういう考え方がすべての役柄について、貫かれているのが、歌舞伎の人間の本質的なとらえ方なのである。だから、大勢の登場人物も、類型化の表に納まってしまうのである。女形以外の立役、敵役、道化役などでも同じである。渡辺によれば、それは「ガラ(役柄)」と「ニン(仁)」で、分類が決まると言う。役柄は役者の身体的な特徴を規制する。背が高くて太った人は女形には向かない。背が低くて痩せていれば荒事には向かない。つまり、役者はまず「ガラ」で規制される。しかし「仁」は「潜在的後天的な可能性の身体」(渡辺)のことだと言う。だから、役者が努力して芸風で、身体の持味としての「仁」を作り上げることができると言う。
歌舞伎役者の名跡を継ぐ家系では、子供たちは幼い頃から舞台に馴染まされる。将来立役に向きそうだとか、女形に向きそうだとか、何も判らないうちから修業が始まる。親や先輩の役者たちは、どういう所で、子供たちの将来の向き不向きを判断するのかと言えば、まずは、ここで言う「ガラ」だろう。
九八年三月二七日に東京のホテルで「松尾芸能賞」の授賞式があった。今回で一九回という授賞式で「大賞」を受けたのは、中村雀右衛門であった。六代目大谷友右衛門の長男に生まれ、幼い頃から将来の立役を目指して育てられ、名子役として好評な子供時代を過ごしながら、戦争で兵隊に行き、戦後二七歳で女形に転身を勧められ、いわば「遅れてきた女形」として再スタートし、「仁」の形成に苦労に苦労を重ね、いまや立女形として歌舞伎を代表する女形になった七八歳の雀右衛門。
戦後、歌舞伎界に女形が少なくなり、歌舞伎の存立さえ危ぶまれた状況で、岳父となった七代目松本幸四郎に勧められた女形への道。結局、いまからみれば、七代目には雀右衛門の「仁」を見抜く力があったということだろう。
雀右衛門は受賞のインタビューの中で「数年前から心で女形になりきってもダメだということが判った。言葉ではうまく表現できないけれど、心の奥にある何かを演じきらないと、本当の演技にはならない」という趣旨の発言をしていた。『女形無限』の中でも雀右衛門が強調しているのは、幼い頃から女形になるよう修業してきた名跡の家系の普通の役者と二七歳で突然女形に転身した自分とでは、女形の修業が二〇年遅れているという強烈な意識であった。「歌舞伎の女形ですから、型があって、それは先輩が一から十まで教えてくださいます。しかし、その下敷きになっている女形の芸があって、その上に型が乗るわけですが、わたくしには土台となるべースがありませんでした」
「体当たりの芝居をすると、自然に女になってしまいます。それで、若いころはよく『女優みたいだ』というお叱りを受けたのだと思います」と言うことを、繰り返し書いている。いわば「遅れてきた女形」としての劣等感が雀右衛門の演技を一所懸命にしてしまい、それが逆に「女形」から「女優」へと、歌舞伎の「型」から遠ざかる結果を生み出してしまうと雀右衛門は言うのである。そういう意識と努力が、試行錯誤を経て、今日の雀右衛門の芸を完成させたと私は思う。
このように歌舞伎の女形はデフォルメされた役柄であって、舞台の大きさや大道具、衣装もすべて「男」向けにできているから、いくら「女らしく」演じても、女優が透けて見えては歌舞伎にならないわけである。
玉三郎は、歌舞伎の実力派の女形の中では、比較的若いし、顔も綺麗なのだが、私の個人的な意見では、若さと美貌という「女優」なら強力な武器も、こと歌舞伎に関するかぎり、場合によって武器どころか足枷になりかねないと思う。歌右衛門、雀右衛門、芝翫、鴈治郎あたりが、現在の立女形だろうが、それぞれ女形としての決め手となる役柄を持っている。遅れてきた歌舞伎ファンとしては健康が勝れない歌右衛門の舞台は、「
例えば、こういう「仁」は、「人」、「人柄」とも書くように人間の場合はまだ判りやすいが、「千本桜」の狐・忠信(源九郎狐)のように動物の格好をしたまま主役を演じることが多い役柄の場合の「仁」(つまり、動物としての「ニン」)は、どういう風に考えれば良いのだろうか。狐・忠信は九五年五月の菊五郎、九六年一二月、九八年七月の猿之助と、いずれも歌舞伎座で見た。狐といえば普通ならスリムな体型が思い浮かぶが、二人ともがっちりした体格であるから、本来は「ガラ」としては不向きなのかもしれないが、「ニン」としては、そういう違和感を感じなかった。特に猿之助は「外連」も含めて得意芸にしていて「千本桜」の「忠信編」は「猿之助十八番」として、通し上演をする。確かに狐・忠信は最後にちょっとだけ出てくる本物の「佐藤忠信」と「忠信実は源九郎狐」の両面を演じるわけだから「仁」としては忠信で良いのかもしれない。動物の化身もの、例えば「
一方、演技の「型」は、「忠臣蔵」の早野勘平に四つの型があるように、先祖や先輩の役者の演技の工夫が伝えられてきている。勘平役で言えば、「菊五郎型」、「團蔵型」、「鴈治郎型」、「延若型」である。例えば切腹する勘平の有名な「色に
「型」の集成とも言うべき「家の芸」には、次のようなものがある。
「歌舞伎十八番」(七代目團十郎) | 「勧進帳」、「鳴神」、「助六」、「矢の根」、「毛抜」、「暫」、「景清」、など。 |
「新歌舞伎十八番」(九代目團十郎) | 「鏡獅子」、「船弁慶」、「紅葉狩」、「地震加藤」、「腰越状」、「酒井の太鼓」、「高時」「釣狐」、「 |
「新古演劇十種」(六代目菊五郎) | 「 |
老舗の名品のように多種多様である。それぞれの括りの中には、互いに重複するものがある。例えば「釣狐」は「新歌舞伎十八番」、「澤潟十種」に含まれる。
「
「思い入れ」というのは、昔の台本(「台帳」と言った)には狂言作者が書き入れた「○印」で、表現されていた。ある場面での役者の心理状態を示す演技のことを「思い入れ」と言う。
以上の三つの要素を整理してみると、次のようになるのではないか。
「ある役柄」のリアリティ=「
江戸時代の歌舞伎は、自然光や蝋燭の明かりという薄暗さの中で、厚化粧をした役者が身体全体の表現として、ある役柄のリアリティを出すために、(1)身体の特徴による役柄の規制、(2)役柄ごとの表現の工夫の蓄積、(3)気持ちの演技、こういう工夫を重ねてきたものの結晶が、表現の「様式美」として洗練されてきたのだと思う。さらに言えば「様式美」にまで洗練された歌舞伎の演技の「連鎖」(伝統の蓄積)とでも、言えるかもしれない。
こうした表現の様式美を、劇場全体でささえているのが、装置の様式美ではないか。
私は、まだ京・大阪で上方歌舞伎は見たことがないが、上方と江戸では芸風も違えば、道具も違うと言う。歌舞伎の台本を見ていると、例えば「仮名手本忠臣蔵」では「いつものところに門口」とか「よきところに誂えの松の木」、「すべて〇〇〇の体」、「門の前のよきあたりに○○」、「○○よろしく」などとしか書いていない。
様式を重視する歌舞伎では、長い歴史の中で洗練されてきた装置の様式美が、言わずもがなになっていて、細かなことをいちいち言わなくても判るようになっている。逆に言えば、上方は上方で判るようになっていて、江戸は江戸で判るようになっているから、両方の役者が一緒になると、混乱したと言うが、最近では本来上方出身の役者も東京住まいがふえているからそういうことも少なくなったかもしれない。
一般の演劇では舞台は、それだけで舞台だが、歌舞伎の場合、平舞台と二重舞台の二重構造になっているのが特徴だろう。世話物の場合、「世話木戸」(いわば玄関)が置かれ、平舞台に薄べりが敷かれると、そこは座敷になる。世話木戸の下手は道路だけれど、上手は家の中なのである。その奥の座敷は二重の上で、同じ家で床の高さに高低差があるのは変だろうが、客席の観客から見れば、役者の動きが立体的に変化しておもしろいものだ。さらに、この世話木戸も次の展開で不要なら、木戸も薄べりも黒衣などによって、さっさと取り片付けられて、庭になってしまう。約束事と言ってしまえばそれまでだが、装置の約束事は、決まったところに決まったものがあったり、なかったりということで、舞台での役者の演技の安定感を引き出すのではないか。
先にも触れたが、装置、大道具で気が付く決まり事では、例えば二重舞台は高さが「七寸」刻みの四角形からできていることだ。それは二重に役者が上がる時に使う階段が、実は一段が「七寸」で、演技しながら上ったり、下りたりする時にちょうど良い高さが「七寸」なのだ。長い試行錯誤の末に、体験的に決められてきた大道具の約束事の安定感とそれが生み出す様式美。
いずれにせよ演技や装置の、こうした様式美は、「形」にこだわる歌舞伎の原点のひとつなのではないか。様式美とは、四〇〇年の歴史の中で、磨かれ、削ぎ落とされてきた歌舞伎の持つセンスであり、このセンスが結局は観客の側の共感というリアリティの獲得を担保してくれるということを、知りぬいているということではないだろうか。
大 詰
歌舞伎の「世界」 ――クローズアップ効果
歌舞伎というものを、「江戸」、「ウオッチング」、「幾何学」という三つの視点で見てきた私の、この本も無事「大詰」を迎えることができた。
「大詰」という言葉は、本来江戸歌舞伎では、一番目、時代物の最終幕のことを言い、二番目、世話物の最終幕は「
こうして見てくると、この本を書き始めた一年半前には、私には見えなかった「歌舞伎の世界」が私の前に広がっていることに気付く。
(一)それは、歌舞伎が江戸時代には技術的に不可能だった、一〇〇年ほど前に発明された映画が初めて可能にしたような役者を
(二)もうひとつ気が付いたのは舞台を始め、劇場と言う劇的な空間を「立体」として強調すること(これは表現を変えれば大道具を「クローズアップ」して見せると言っても良いかもしれない)に、非常にこだわった芸能だったのではないかと言うことである。
何故、歌舞伎の演出の基本が「クローズアップ」かを、これまで述べてきたことを私なりに整理してみたい。
まず、(一)私が歌舞伎の演出の中で「クローズアップ」と思うのは、役者の演技する(1)位置、(2)顔、(3)姿、(4)動作、の四つである。
(1) 位置のクローズアップ
歌舞伎役者は花道を出入りすることで、観客から見れば、役者が大きく見えたり、小さく見えたりする。花道は能の「橋掛り」から発展したと言う説があるが、橋掛りにはなくて花道にだけあるのは、花道は客席の中を、例え歩くだけの演技だとしても、役者にとっては、いわば「無防備」な形で劇的空間を作らなければならないと言うことだ。つまり、舞台なら背景があり、上手下手があるのだが、花道にはなにもない。足元に花道の板(「地」)があるだけで、天、左右、前後にはなにもなく、ただ役者の体があるばかりである。橋掛りには少なくとも板羽目の背景があり、左右には本舞台と出入口があり、観客は横にいるだけである。ところが歌舞伎の役者は「六法」(六方向)のうちの五方向から観客に見られている。例え江戸時代の劇場には自然光や蝋燭の光しか照明がなかったとしても、観客から見れば、花道では役者が「クローズアップ」されるように、大きくはっきり見えるのである。つまり、ごまかしがきかない。歌舞伎の演出では、花道を発達させることによって役者をそういう困難な状況に追い込むことで役者の芸の洗練を促したと思う。すでに触れたように、本舞台と違って、なにもない花道は、なにもないと言うことで逆に役者と観客の想像力の中で、街道になったり、川や海になったり、土手になったり、御殿や屋敷の廊下や座敷になったり、街になったり、此岸から彼岸を結ぶ観念の道になったりするのである。花道の役者は、観客の視線の傍で「見える演技をする」、観客の想像力の中で「見えないものを見えるようにする」ことが迫られる。
こういう困難な状況は、演出者の「思惑どおり」花道の芸を生み出した。「六法」がもっとも典型だろうが、もっと「普通の」、しかし歌舞伎独特の「歩き方」(戸板康二『わが歌舞伎』では、「歩く芸」として独立させている)は、戸板によれば「『歩く芸』が歌舞伎の演技の中で一つ流れを有つために、……少なくとも、花道といふ、舞台以外の舞台がなければ、これほど『歩く芸』はよき発達を見る事がなかったのではあるまいか」と言う。さらに花道は「
これは四角い本舞台だけで演技する、いわゆる「額縁演劇」では、創出不可能な劇的世界と言える。
そういう芸が、歌舞伎独特のものとして発展したのは全て、五方向から注がれる観客の視線の中で、クローズアップされた演技を見せなければいけないと言う、花道独特の役者の「位置」が生み出した劇的空間なのである。
(2) 顔のクローズアップ
これは、時として役者の顔に施される「隈取」や顔の表情を強調し、静止して見せる「見得」である。「隈取」のところでも述べたが、隈の色は、本来なら顔の皮膚の下に隠れていて見えない筈の、血管や筋肉を化粧という形で皮膚の上に固定させて、グロテスクさを強調しながら、役柄の感情や表情を「クローズアップ」させてみせる技法である。
「見得」は、服部幸雄『歌舞伎のキーワード』によれば、「演劇的時間の流れに一種の
確かに「見得」が「隈取」と違うのは、「隈取」が顔だけのクローズアップなのに対して「見得」は顔も含めた身体全体のクローズアップ効果を狙っているという点である。
よく役者の芸談を読んでいると「見得をきる」というのは誤りで、見得は「する」、「きめる」ものだとあるが、戸板によれば「きる」は「限る」と言うことではないかと述べている。「限る」とは「輪郭を際立たせる」と言うことではないかと言うのである。
舞台で役者が行なう見得は、場合によって、「かげを打つ」、つまり
(3) 姿のクローズアップ
見てきたように「見得」も役者の顔ばかりでなく姿のクローズアップだが、歌舞伎には姿をクローズアップするために、「遠見」と言う演出をする。ここで言う「遠見」はすでに述べた「面」としての「遠見」ではなく、もうひとつの「遠見」のことである。
舞台の奥行を出すために、遠くに見える人間の姿を子役にやらせる、あの「遠見」である。それなら
このように子役の「遠見」を使って役者の姿のクローズアップ効果(ズームイン、ズームアウト)を狙う演目としては、ほかに「新口村」の「梅川・忠兵衛」や「逆櫓」の「樋口と船頭」が知られている。
歌舞伎では舞台に複数の役者がいる時に台詞のやりとりのない場面で、役者が後を向いて静止している時がある。私はこれも一種のクローズアップ効果を狙った演出だと思う。つまり、舞台にいる役者のうち、観客に注目してほしい役者を際立たせるために、その場面では、いわば「不要な」役者への観客の関心を無くそうという狙いがある。そうすることによって台詞をやりとりしている役者だけを注目させようとする。いまと違って江戸時代の照明の乏しい舞台で主要なやりとりを強調するために、こうした演出方法をとったのではないかと思う。余談だが、津本陽『死生夢のごとし』という本を読んでいたら次のようた文章に出会った。(
つまり、クローズアップ効果を狙った演出は、私が主張する観客の視線と台詞をやりとりする役者で作る「三角形」を強調することに、ほかならないのである。
(4) 動作のクローズアップ
これは、すでに述べた姿のクローズアップと似ているように見えるが、実は違う。ここで私が注目したいのは、「三階さん」とか「
ちなみに「中二階」は女形のこと。江戸時代の劇場は二階建しか許されなかったので、実際の三階は表向き「本二階」と呼ばれ、二階は「中二階」と呼ばれた。一階は頭取、狂言作者、囃子方、大道具方、小道具方、衣装方、「稲荷町」の大部屋などの部屋。二階は女形の部屋、いちばん奥に立女形の部屋(個室)、次いで二枚目女形の部屋(個室)があった。そのほかの女形の大部屋(これを「中二階」と称し、名題下の女形に意味を限定して、こう呼ぶこともある)。三階は立役の部屋、いちばん突き当たりの座頭役者の部屋から序列で立役の部屋(いずれも個室)が続く。そして名題下の立役のいる大部屋(ここの立役を「三階さん」と呼んだ)で、この大部屋は舞台稽古以外の稽古をする場所も兼た。「稲荷町」は
ところで「名題」には三つ意味がある。(1)演目名のこと、「外題」とも言う。江戸は名題、上方は外題。(2)名題看板の略。大名題看板とそのほか個々の名題看板がある。(3)名題乗りの役者の略。大名題看板に舞台姿が描かれる役者のこと。いまも名題試験に受かった役者を名題役者と言い、そのほかを名題
なお「楽屋」は、もともと舞楽の「管方」(演奏者)の演奏場所兼支度部屋「
女形絵師・中村時枝が好んで群像を描く彼の仲間たちが活躍するのが、男の乱舞とも言うべき「トンボ」を含んだ集団演技。大名題の役者を中心に大部屋役者がからむ演技だが、これの見せ場は、主役よりも「三階さん」たちの息を飲むようなダイナミックな連続演技だろう。「新薄雪物語」(九六年六月歌舞伎座)や「蘭平物狂」(九五年一一月歌舞伎座)の立ち回りは、歌舞伎の魅力のひとつと言える。特に「新薄雪物語」は大きな配役が多く、主要な役者が出揃わないとなかなか上演できないだけに、上演される時には、主要な役者と共にそれぞれの弟子が舞台に集まるので、こうした「三階さん」による奴の乱舞も、人数が多いだけに、かなり見応えがある。ただなかなか配役が揃わないので上演回数が少ないのが残念である。
九八年五月の歌舞伎座恒例の「
二幕目・返しの「四天王寺山門の場」では、傘を巧みに使った立ち回りがいろいろ見られるが、舞台稽古でも実際の上演時間の二倍ぐらいの時間をかけて念入りに続けられたのは、その場面であった。揃いの音羽屋の傘と菊五郎格子の浴衣を着た一八人を相手に悟助(菊五郎)が天王寺普請小屋という修理中の山門の足場に乗ったり、降りたりしながら大立ち回りを演じるのだが、菊五郎との絡みは簡単に済んだ後、一八人の立ち回りは菊五郎を除いて、タテ師の指導を受けながら、傘を持ったままの「トンボ(筋斗)」という「宙返り」の演技をしたり、一〇本の傘を幾何学模様にして見せたりする稽古が何回も繰り返されていた。そして、私は実際の舞台を千秋楽の前日、つまり、稽古の日から、まる二五日後に拝見したが、実に見事な立ち回りで一連の動きが短い時間でスムーズに演じられていた。
その彼らが舞台に登場する時は「板付き」の「仕出し」だったり、「
主役級が着る「
「四天」が活躍する演目としては通称「蘭平物狂」の花四天の立ち回り、「京鹿子娘道成寺」で後ジテの蛇体と絡む鱗四天、通称「寺子屋」、通称「弁天小僧」の捕り手の黒四天、「道行・落人」や「道行・吉野山(または「道行初音旅」)などでお軽・勘平や静御前・忠信を阻む花四天などは、いまも舞台で比較的良く見かける。
「吉野山」では早見(あるいは逸見)藤太に引きつられて花道に登場する一〇人の「花四天」たちは最初桜の小枝を持っているが、本舞台で忠信相手に立ち回りをする時は、桜の小枝を組み合わせた大きな槍先にデフォルメされた槍を持って登場する。
「四天」たちは、よく「トンボ」返りという演技をする。主役に大勢の四天が絡む立ち回りは歌舞伎の魅力のひとつだが、下座音楽の「ドンタッポ」などに乗って、かどかど(節目)ではツケが打たれ、切られたり投げ飛ばされたりした者が体を一回転させる。「
実は私はこれも一種のクローズアップ効果だと考えている。つまり、立ち回りという活劇で、劇画なら空中で足を大きく開いたまま投げ飛ばされる様子をよく描いているが、昔の歌舞伎の演出でも、そういう効果を出そうとして、「トンボのV」を考えだしたのではないかと思う。何時頃から始まった演技か判らないが、これはまさに映画の演出方法ではないか。映画なら映像を止めてクローズアップさせることができるが、映像ではない歌舞伎の舞台で、こういう演技を考えだした人たちがいたことが素晴らしいと思う。
いくつか見てきた歌舞伎のクローズアップ効果を狙った演出は、江戸時代に技術的に不可能だった「映像効果」と同じものを観客の想像力に託する形で狙った、素晴らしい発想であり、それに応えていろいろ工夫をした役者や関係者のたゆまざる努力が実らせた歴史の果実だと言えるだろう。それだけに私は、こうした発想は歌舞伎の基本的な性格を示していて、重要なことだと思っている。
次に、(二)歌舞伎の舞台の原点としての「立体」志向も、大道具のクローズアップ効果としての「劇的空間づくり」の飽く無き工夫と言えるのではないか。
歌舞伎の舞台で大道具の屋体がそのまま、短時間のうちにせり上がるのは見ているだけで楽しい。次の場面への展開の様子をそのまま観客に見せるという演出は素晴らしい。
立体的に作られた屋体を瞬時に替えてしまうというのは、「廻り舞台」という装置も含めて歌舞伎独特のものである。「廻り舞台」もぐるりと廻る時に屋体の立体感をジックリ見せ付ける。
「がんどう返し」の「がんどう」と言うのは「
「廻り舞台」が横に大道具を動かすなら、「がんどう返し」は縦に大道具を動かす。これを「箱天神」と言うのは、非常に興味深い。「箱」と言う言葉には「立体」を強調する意味があるからである。「屋体崩し」は逆に大道具を一瞬のうちに崩してみせるが、こちらも立体的な積み木を崩すイメージがある。
立体的なものは、本来、平面的なものと違って組み立てる必要がある。組み立てる、あるいは組まれていたものを崩すということは、手間が掛かるはずである。それが、一瞬のうちに組上がってきたり、崩されたりすることは「居処替り」という舞台の展開を早くするばかりでなく、次の場面への観客の関心をいち早く引き付けようとすることである。
つまり、それは「見得」で役者の演技の「輸郭を際立たせる」とともに「大きく見せる」クローズアップ効果を狙ったように、大道具を縦や横に「鷹揚に」、ゆっくり動かしながら、短時間で替える様を見せることは、大道具の「大きさ」を観客に見せ付けることになる。歌舞伎の演出には小道具のところで触れたように、徳利や杯などを平気で大きなものに替えてしまう演出もある。舞台の役者や大道具は、途中で大きなものに替える訳にはいかないから化粧や演技で大きく見せたり、廻り舞台や居処替りで大道具を大きく見せたりするのではないか。それは江戸時代の薄暗い、いまのように明かりを自由に操作できないという「制約」の中で、必要に迫られて生み出された演出法なのかもしれない。しかし、それは役者として女性の登場を制限され、さらに若者の登場を制限され、「野郎歌舞伎」として成年男子による「女形」を生み出してきたように、クローズアップ効果を狙った演技や大道具の使い方は、映像にない「制約」を逆手にとって、工夫を重ねて四〇〇年も生き残ってきた歌舞伎の面目躍如たる特性として、特筆されて良いと思う。
そこには、歌舞伎の舞台を、近代演劇の多くが、いまも続けているように本舞台だけの四角い「額縁」のような平板な「小さな劇的空間」にとどめずに、劇場全体を立体感のある「大きな劇的空間」として、捉え直そうする、明確な意志を何時からか、持つようになったのではないだろうか。
わずか数年の観劇歴では「鑑賞」はまだ早い、暫らくは「観察」だということで「ウオッチング」に撤しているが、毎月歌舞伎座に通い、「双眼鏡」による観察を続けてきた結果が、「歌舞伎の世界」の基本的な性格(役者の演技、小道具、大道具などの演出)に「クローズアップ効果」があるのではないかということに到達したことは、私にはとても興味深い。
さて、私なりの結論。
歌舞伎「観察」の魅力は、江戸の庶民の間で培われた「荒唐無稽さ」(江戸庶民の生活感覚)のさまざまなバリエーションの「大から小まで」を、つまり雪のひとひらから小道具、役者の衣裳、演技、大道具、舞台機構までという劇的空間のすべてを、「幾何学」的手法を借りて双眼鏡のレンズを通じて追加体験することである。
それは明治維新以降いまも続く「近代化路線」の中で、ざっと一〇〇年間以上も「前近代的」、「封建的」という形で切り捨てられたままになっているが、江戸の庶民が権力に対抗して歌舞伎を守ってきた感覚は、近代的なものが行き詰まってきた現代にあって、例えばエネルギー観や自然観を「アイヌ民族」など世界の先住民族から学ぼうという視点と同じように、江戸庶民の杜会観や生活観=「ゆるり」とした生活感覚に象徴されると私は思う=を学ぼうということは大切なことではないだろうか。それはあたかも並木宗輔の「引窓」が一五〇年間埋もれたままであったものを再発見されて以来、一〇〇年以上も上演され続けているように、歌舞伎の舞台に盛り込まれた江戸庶民の生活感覚はしぶといものなのである。歌舞伎の舞台にはいまも、そういう荒唐無稽な魔物が潜んでいるのではないか。
歌舞伎では、役者も「家の芸」や「型」を大事にすることで、それぞれに伝えられてきた江戸の感覚を残そうとしてきたし、衣装や大道具・小道具まで、江戸の復元に努めてきた。歌舞伎の舞台は、いわば「活きた江戸庶民の生活の場」へのタイムスリップを可能にする世界なのだ。それは、舞台の隅から隅まで「ずいーと」細かくウオッチングすることで、私達、観客の目の前に浮かび上がってくる「別世界の魅惑」なのである。
それでは皆さん!「ゆるりと江戸へ(双方見合って、析の頭)ご一緒に」
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/04/26
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