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お止橋 ――金毘羅物語――

 寛永十七年(一六四〇)二月のことである。

 讃岐の金毘羅大権現に仕える社人蔵太夫は、ある雪の朝、邸のある五条八幡宮の近くで、行き倒れたまま、凍えきっている二人の男を助けた。

 白髪の月代(さかやき)もおどろなその男たちは、長い流浪の果か幽鬼のようにやせて、すっかり体を痛めていた。

 邸に連れて帰り、薬草を煎じてのませると、気がついたが口をきく気力もなかった。

「ゆっくり養生するがよい。」

 ひとり者の蔵太夫は寝ついた男たちのために隣家の百姓女に世話を頼んだ。

 一月ほどたって歩けるようになった男たちは、蔵太夫に、

「野ざらしになる身をお助け頂き、お礼の申しあげようもございませぬ。行くあてもないわれら兄弟、どうかおそばにおいて、走り使いになりとお使いくださいませ。」

 と頼んだ。

 病みあがりの男たちの色こそ陽に焼けているが眉目(みめ)優れ鼻梁(はなすじ)高く整った顔や、身なりに似合ず礼儀正しい振舞いをみて蔵太夫が尋ねた。

「何か仔細あって旅に出たのか。」

「申し遅れました。わたしは阿波国祖谷(いや)の生れで松太郎、弟は権太郎と申し、平家の落武者の(すえ)でございますが……。」

 と伏目がちに、讃岐に流れてきて行き倒れるまでの経過を物語った。

 その話は数奇に満ちており、蔵太夫の涙を誘った。

 

 話は遠い昔にさかのぼる。一の谷の戦に敗れた平宗盛が、安徳天皇を奉じて海路讃岐の屋島から壇の浦へ落ちて行ったのは文治元年(一一八五)の二月である。

 この時、平教盛(のりもり)の二男国盛は、阿波の秘境祖谷へ潜行せよとの秘命を受けた。一行は童を含めて三十六名、その半ばは婦女子であった。源氏の眼をかすめるための蔭武者の一行か、再起を期しての潜行か、今となっては知るすべもないが、彼らは平家滅亡のあとも、ひっそりと秘境で生き続けた。

 歳月は流れて天正十三年(一五八五)五月、秀吉の命により阿波に移封された峰須賀家政は「太閤検地。」の実施にあたり、

「検地に反抗すれば、一郷も二郷も悉くなできりにすべし。」

 と、きびしい姿勢で臨んだ。

 それに抗して各地で土豪が一斉に蜂起した。

 祖谷でも度々会議が開かれた。全員が抗戦を主張する中で只一人国学者玉尾松右衛門が、

「領主の検地に反対するのは不利である、この地の特殊性を認めさせて検地に応じ、年貢を免じさせればよい。」

 と反対した。

 しかし、いきり立っている人々は耳を貸さず「抗戦。」を主張した。松右衛門は、

「僻地に住むわれらの排他性や料簡(りょうけん)の狭さが末代まで子孫に累を及ぼさぬよう、よく考えるべし。」

 理を尽くして説いたが、ついに抗戟と決まった。しばらく眼をとじて瞑想に更けっていた松右衛門は(せがれ)松之介を呼び、父祖伝来の越中国住人則重の名刀をわたし秘策をさずけた。

 松之介はその時二十才、文武両道に秀で(ひな)にはまれな美丈夫であった。

 彼は手兵百余名を連れて、鬱蒼たる樹海の中へ姿をかくした。

 蜂須賀の代官兼松惣右衛門が手兵三百名をひきいて阿波池田を出発したのは、天正十三年九月九日未明である。

 池田から祖谷のかずら橋まで山道八里(三二キロ)、更にそれから奥は、魔の谷と呼ばれる難所が果てしなく続くのである。

 周囲を高山に囲まれ、その外郭を吉野、祖谷、松尾の三河川が流れ、さながら城の外堀の役目を果たしている。

 陰暦九月も半ば近くなれば、祖谷は既に晩秋の色濃く、日中は澄みきった蒼空が高く、陽差しも暖いが、日暮れともなれば、霧が流れ視界もさだかでない。

 松之介は、鬱蒼たる原生林の間に本陣を置き、かがり火をたかせ、猿酒で士気を鼓舞し待機させた。

 山々の尾根に出した物見からの、のろしを合図に敵が近づくや、かねて用意の木材、岩石を敵の頭上から一挙に落した。

 眼下は千仞の谷である、辛うじて難を逃れた者には、竹ふすまが待ちうけ、弓矢が襲いかかった。

 地理に暗い代官は馬もろとも渓谷に落ちて討死し、僅かに生残った兵も、我先にと逃げ帰った。

 この知らせを聞いて家政は烈火の如く怒り、九月二十五日、自ら二千騎をひきいて、祖谷征伐に向った。

 奇襲で初戦に勝った祖谷勢も、蜂須賀の鉄砲隊には手向う術もなく総崩れとなった。

 松之介は形勢不利と悟るや、手兵を悉く深山幽谷に潜伏させた。この見事な退却ぶりに恐れをなした家政は、

「残党狩り。」

 を命じ、祖谷の男を老幼の別なく捕えては獄門にかけた。

 玉尾松右衛門は蜂須賀勢が邸に迫るや、

「死して祖谷を守らん。」  

 と柱に書き残して切腹して果てた。それは夕陽が峻嶺のもやに、円い虹を残して沈む晩秋の黄昏れであった、祖谷の女たちは、

「松右衛門様があれほど反対なさった戦を始めたばっかりに、今に祖谷は男のおらぬ山になる。」

 となげいた。

 この祖谷一揆(いやいっき)が一応おさまったのは天正十八年(一五九〇)で、実に六年間、祖谷の民は戦い続けた。

 その間に家政は、祖谷の隣村一宇村の土豪喜多六郎三郎を味方に抱き込み、祖谷の名主たちを説得させ鎮圧したのである。

 形の上で一応祖谷を平定した家政は、代官として渋谷安太夫をさし向け、政所(まんどころ)(庄屋)は喜多六郎三郎に命じた。

 両名は相談のうえ、祖谷は土佐との国境にあり、長宗我部の残党と土民が内通して謀反を起す恐れありとして、

「刀狩り。」

 を家政に願出たのである。

 元和三年(一六一七)十一月十一日、代官渋谷安太夫は、

「蜂須賀公が祖谷の名刀をご覧になる。」

 と(いつわ)って栗枝渡(くるすど)神社の境内に武器を悉く集めた。それは境内の真黄色に染まった銀杏の葉が、夕日に映える午後のことであった。

「これこそ父祖伝来の家宝なり。」

 と競って持参した名刀二七振を、

「借上げ。」

て一宮城(現徳島市)へ送り、

「召上げ代物(だいもつ)の儀は後日沙汰する。」

 といったまま元和五年(一六一九)になっても代銀は支払わなかった。  

 家宝を代官に詐取されたと気づいた名主たちは、十八名の代表者と六百七十余名の百姓を一宮へ送り、

「父祖伝来の家宝なれば、何とぞお返しくだされ。」

 と家政に直訴させた。

 家政は激怒して、代表者を鮎喰川原で磔刑にし、その一族も斬首、残りの者は誓紙を書かされ割竹で尻叩きのうえ釈放された。

 百姓たちは空腹と痛みによろめきながら、冷雨の中を吉野川にそって、ある者は杖にすがり、ある者は友に背負われて祖谷へ帰った。

 待ちうけた家族たちはむせび泣き、雨戸を閉じて三日間食を絶ち犠牲者の冥福を祈った。

 家政は更に追い討ちをかけるように、祖谷を藩の直轄領とし、一揆指導の名主は名子(なご)に落し、一揆で戦った百姓を下人(げにん)に落した。

 当時祖谷には三十六名のお土居と称する名主がいたが、その大半は名子に落された。

 名子は農奴であり、下人は人間失格で、牛馬同様売買される。

 名子は政所に対し年三人役、名主には年六十日労力奉仕をせねばならず、下人は無制限に夫役負担と定められた。

 下人に落された男は、生涯主家に飼われるが老残の身となると暇が出され、野ざらしの運命も覚悟しなければならぬ。

 また、下人と定められた女の多くは他国に売られるのである。

 この悪政は明治維新まで続いた。

 松太郎たちの祖父は国学者として長宗我部家に仕えた玉尾松右衛門で、父の松之介は祖谷一揆の先陣の指揮をとり、代官の首級をあげたため磔刑となった。

 更に代官と政所は、

「見せしめのため、玉尾一族は末代まで下人に落す。」

 と掟を定めた。

 松太郎兄弟は売買されて働くうち病となり暇を乞い、野ざらしを覚悟で金毘羅まで辿りついたのである。

 話を聞いて蔵太夫は、

「他国のことながら義憤を感ずる、蜂須賀公に神罰があたらぬのが不思議である。ともあれここで社人の見習いでもするがよい。」

 そういって名も「松太夫」「権太夫」と改めさせた。出自が出自だけに学問の心得もあり、特に書の才能に恵まれていたので、昼は金毘羅大権現のお守受所で「守札」を書き、夜は邸のある五条八幡宮で蔵太夫に神道、国学を学んだ。見よう見真似で奉幣、祝詞奏上、加持祈藤も憶え、

「さすがに血脈は争えぬ、立居振舞にも落つきがあり、わしよりも本物の社人に見える。」

 と蔵太夫は苦笑した。生来病弱であった蔵太夫はそれから間もない寛永十九年(一六四二)の五月のある日、孤独な生涯を終えた。

 死期を予知した蔵太夫は、松太夫兄弟を枕元に呼び、

「わしの死後も金毘羅大権現に仕えると共に五条八幡宮もよろしく頼むぞ、松太夫は性温厚ゆえ心配はないが、権大夫の多感な性質(さが)が気がかりでならぬ、無事に一生を終えたければ忍の一字を忘れぬようにせよ。」

 そういい残して世を去った。

 蔵太夫の死後、金毘羅大権現を総括する金光院の別当宥典は兄弟に、

「決して下知(げち)にそむきまじく候。」

 と誓書を書かせて、金毘羅三十番神社の社人に任じた。

 同時に兄弟は蔵太夫の遺志をつぎ五条八幡宮にも奉仕することになった。時に松太夫五十四才、権大夫五十二才であった。

 松太夫はその年、祖谷(いや)から妻をめとった。長年の艱苦にやせた顔がほころんだのは妻をむかえてからである。妻の名は雪といい、祖谷の名家阿佐家の娘で二十才を過ぎたばかり、おっとりとして申分のない女であった。

 まもなく男の子が生れ内記と名づけた。内記は色白く、眉目優れたうえに利発で、三才の時、修験者の読む般若心経や観音経を空んじ五才になると守札を書き、その字が巧みで人々は争って買い、

「内記様は桓武天皇様のお血筋をひく平家の末裔というぞ。」

「玉尾という姓は帝の末ゆえつけたそうな、この守札は格別ありがたいぞ。」 と噂しあった。松太夫はその噂を耳にすると、ふと内記の将来に不安を感じた。

「内記に守札を書かせるな、余り噂になると本人の将来のためよくない。」

 そう雪に注意すると、雪は弥勒菩薩のような顔に笑を浮かべて、

「苦労性なお人。」

 とおおらかに笑った。

 雪の生家阿佐家は祖谷では「お館。」と呼ばれ平教盛の二男国盛の末裔で、系図や赤旗も伝わっている。

 雪はこの館の姫として育ったので、人の噂を気にしないおおらかさがある。

 松太夫は祖父や父が平凡な人間であったら悲運は訪れなかったと思い、

「人間は世の片隅でそっと生きるのがよい、内記をここへ置くと人々が甘やかして困る。祖谷へでもあずけよう。」

 そういうと、雪が姉婿である大西丹後にあずけたいという。大西丹後は京都吉田神社の社人で当時京都で、

「和漢才学比類なし。」

 とうたわれた国学者であったから、松太夫も同意した。

 松太夫と同じ頃、祖谷からむかえた権太夫の妻は、産後の日立ちが悪く、親子もろとも世を去った。

 それから権太夫は酒びたりの日々を送るようになり、社への出仕も怠りがちになった。松太夫が、

「お前の気持が分らぬではないが、心が荒れては神職は勤まらぬぞ、酒はほどほどにせい。」

 といさめると、

「敬神の心もないのに形だけ神に仕える奴の気が知れぬ。」

 とうそぶくのだった。

 そこで松太夫は祖谷から末弟の三太郎を呼ぶことにした。三太郎も下人に落されているので金光院の名で買い取った。名も三右衛門と改め社人見習にさせると、それを待ちかねたように権太夫は修業と称して一年の半ばを旅で暮すようになった。

 三右衛門は権太夫不在の間は神社を守り、松太夫にもこまめによく仕えた。

 松太夫がある日、象頭山(ぞうずさん)中腹にある本殿境内から眼下を眺めていると、

「松太夫様、お山の風は冷とうございます。もうお入りなされませ。」

 振り向くと三右衛門であった。

 山上は日暮れが早く、西空の雲が淡紫色に染まり、麓から雲煙が湧き起って山頂を揺曳する。松太夫は西空を眺めながらつぶやくようにいった。

「三右衛門、祖谷の入日は美しかったのう。」

「はい、一瞬のうちに日が沈むせいか、あの異様なまでの赤い落日、今でもこの眸に焼きついておりまする。」

「あの落日を、もう一度眺めたいのう。」

「松太夫様も祖谷をなつかしいとお思いですか。」

「うむ、祖谷を出て六十余年になるが、わしの心の中にはいつも祖谷の風が吹いている。」

「わたくしは、こうして西空を眺めるたびに荒れ果てたであろう祖谷の邸を思い出しまする。」

 祖谷の邸は、山の斜面を利用して建てた頑丈な木組みの家であった。泉はないので毎朝空も水の面もまだ乳色に煙っている頃、切り立つような深い渓谷に降りて、渓流の水で全身を洗う「みそぎ。」を日課として育った兄弟は、そそり立つ樹木や聳える岩の間を鳥か獣のようにとびはねて毎日遊び暮した。

 四国山脈の尾根伝いに樹木の間を小猿のようにくぐりぬけて祖谷山の山頂に立つと、山また山の深い谷間を埋める白い雲の彼方に、紺青の空が拡がり、その空の彼方遠くに燧灘(ひうちなだ)が見える。

 幼い日の三兄弟は、やがて訪れる悲運も知らず、毎日この景色を眺めて語りあった。

「学問好きの上の兄上は国学者に、中の兄上は百姓がよい、わしは木地屋の聟になる。」

 と三太郎がいえば、

「三太郎、木地屋の聟になると若死するというぞ。」

 権太郎がからかうと、三太郎は、

「若死してもよい。木地屋の娘は美しいから。」

 眸を輝やかし頬を赤らめて言うのだった。

 だが、松太郎が十五才になるのを待ちかねて代官は松太郎を下人に落し、栗枝渡神社の市で牛馬同様「せり」にかけた。

 母が真心こめて作った太布の着物に鹿皮の「おんごり袴」をつけた松太郎は、虚無的な瞳で自分を「せり」あげる男たちを眺めていた。

 栗枝渡神社の境内の一隅には、

「安徳天皇御火葬跡。」

と伝えられる所があり、更にこの神社には安徳天皇の遺品を祀ってあるので、祖谷の者は、平家の末裔である松太郎に値をつけず、隣村の半田に住む土豪が、「二十両。」

 で松太郎を買った。

 二年後に権太郎も同じ邸に買いとられた。

 三太郎は祖谷の木地屋に頼んで買って貰った。子どもの頃からあこがれていた木地屋の邸に入った三太郎の喜びも束の間、木地屋の娘たちは下人の三太郎を人間扱いにしなかった。その上苛酷な仕事をあてがわれ耐えかねて邸を逃げ出しては次々.と売られ、三太郎は笑を忘れた人間になっていた。

「兄上が買い取ってくださらなかったら、わたしはこの世に生きていなかったかも知れませぬ、今ここにこうしておられるのは全く夢のようでございます。」

「ご先祖様がわれら兄弟をお守りくださったに違いない。一度墓前祭を致さねばと思うておる。」

「われらの今日の姿を母上にお見せできぬのが残念でなりませぬ。」

 三右衛門はぐっと下唇をかみしめた。三人の男の子を次々と下人に落された母は生きる力を失ったかのように、三太郎が下人に落されるとまもなくこの世を去った。

 

 その頃の金毘羅大権現は先の讃岐の藩主生駒一正の寄進により二百四十七石を神領としていたが、寛永十七年(一六四○)九月、時の藩主生駒高俊が家臣の内紛により封地没収一万石の堪忍料で出羽矢島に流されたので、次の藩主松平頼重は八十三石を加えて三百三十石を神領として寄進、幕府に朱印状を願い出て下付されたのは慶安厄年(一六四八)二月十四日である。

 金毘羅大権現を総括する金光院別当宥典は直ちに江戸に出府、将渾家光に朱印状下付の御礼を言上した。

 以来別当の代替りには「継目御礼」に、更に七年毎に代僧が参府することになった。

 この朱印状によって別当の任務は現在の金刀比羅宮の宮司と琴平町長を兼務する大役となった。

 別当は金光院という館に住み、神域内に真光院、万福院、普門院、神護院、尊勝院という五つの寺を持ち、金毘羅町の中心部に表役所を置き統治したのである。一門はお山侍と呼ばれ、寺僧、社人、表役人、儒者、奥医師など総数百五十余名であった。

 別当の格式は数万石の大名と対等で、江戸城では大広間御溜(おたまり)の間に控え、白書院二之間において御礼、御暇(おいとま)を言上、拝領物は柳の間で頂き、帰途は京都に立ちより天顔を拝することも許された。

 もともと金毘羅大権現は暦代皇室の崇敬厚く、後嵯峨天皇は康元元年(一二五六)勅令を以て祭儀を修め、後水尾天皇は寛永十六年(一六三九)大判金を御進納されるなど、事実上の勅願所ともいうべき社であったから、大名の参詣も多く、民衆もまた、

「一生に一度はお伊勢詣りと金毘羅詣り。」を念願としており、参詣人は絶えず、寄進も多い豊かな社であった。

 その噂を聞いて諸国から流れ者が集り、物乞いをしたり行き倒れたりする。

 松太夫は昔、蔵太夫に助けられた恩返しと思いこうした難民に手をさしのペるので、暮しはいつも火の車であった。見かねて権太夫が祖谷の薬草を売るようすすめた。

 松太夫が表役人に相談すると、

「金毘羅ではもうこれ以上店はふやせませぬ。米屋三十一軒、呉服屋十軒、醤油屋三軒、酒屋八軒、絞油五軒、縫箔一軒、桶屋十二軒、旅龍六十軒、これらの店は総て暦代別当殿の知人で今まで冥加銀を納めているので、これ以上店を出すことは禁じられておりまする。」

 この話を聞いて権太夫は、

「そんな馬鹿な話があるものか、金毘羅に薬草を売る店が一軒もないのだから店は必要なはず、別当殿に直接かけあいなされ。」

 と松太夫にすすめた。別当宥典は表役人から話を聞いていたらしく、

「神職にある者が商をするのは好ましくない。それ程生活に困るなら内記を呼び戻して学問所を開かせよ。」

 といった。

 内記が京都からもどって学問所を開いたのは寛文五年(一六六五)の春である。

 幼い頃、神童ともてはやされた内記が、京都で大西丹後に師事して十五年間、神道、国学、連歌、俳諧、画筆、蹴鞠などを学んで帰ったので、学問所を開くと、丸亀、高松両藩士の子弟が通い始め、門前市をなす有様であった。

 この年、内記は祖谷から母の姪蒔子を妻にむかえた。蒔子は十六才で、二十一才の内記と並ぶと内裏雛のように見えた。

 当時、讃岐では白鳥神社の神職猪熊千倉と石清水八幡宮の神職友安盛貞を「讃岐の碩学。」と呼んでいた。猪熊千倉は歌人でもあり、国学者でもあった。高松藩主松平頼重が二百石の朱印状を有する白鳥神社に京都からむかえたのが、寛文五年七月二十一日である。

 友安盛貞は承応元年(一六五二)仲春「讃岐大日記。」を著した学者で、この両名に次ぐ者は玉尾内記と噂された。

 内記が京都からもどってまもなく、高松藩主が三十番神社に参籠(さんろう)の旨連絡があった。

 金毘羅の縁起によると、金毘羅大権現が入定(にゅうじょう)した廓窟(かっくつ)の中に仏舎利と金写の法華経が()め置かれていると伝えられ、この法華経の守り神として三十番神が祀られ、その神祠が本殿の近くに建てられていた。これが三十番神社である。

 この社の創立は(つまび)らかではないが、慶長前より祀られており、正保二年(一六四五)九月二十六日、松平頼重上棟の社殿がある。

 参籠を終えた頼重は、金光院別当に、

「当社にあると承っておる、崇徳上皇ゆかりの書物を拝見したい。」

 と申し入れた。

 金毘羅大権現は大物主神を本殿にまつり、相殿には崇徳上皇の神霊が祀られている。

 頼重は参籠中、象頭山に揺曳する雲気の中に、上皇の怨霊を感じたようであった。

 別当が、

「上皇様崩御の翌年、御神霊を勧請(かんじょう)致しました由にて、その時から伝わる書物でござる。」

 そういって、書は世尊寺家経、画は高階隆兼の「なよたけ物語。」紙本一巻をさし出すと、

「後嵯峨帝の恋物語か。」

 頼重はそうつぶやくと、書物を手にとろうとしなかった。謫居の生活は淋しさの極みであったという崇徳上皇が「なよたけ物語。」で心を慰められたとは思えなかったのである。

 眼を転じた頼重は、緑色布地に白の織り出し花文の「伊勢物語 肖柏筆。」を見つけて、

「これも上皇ゆかりの書物でござるか。」

「さようでございまする。」

 別当がうやうやしく答えると、頼重は悲運の上皇が、つれづれに読まれた跡をなつかしむかのように、楮紙の「伊勢物語」をめくりながら尋ねた。

「これを書いた肖柏とは、如何なる人物でござるか。」

 別当は思いがけない質問にうろたえ、一座の者を見渡したが、誰も答えようとしなかった。

 その時である。はるか末席から内記が、

「恐れながらお答え申しあげたく存じまする。」

 と別当に伺いをたてた。別当はほっとして、

「直答申しあげよ。」

「はっ。」

 内記は進み出て一札すると、

「肖柏は、嘉吉三年(一四四三)中院通淳の子として生まれ、生来旅を好み、各地を歴訪し、応仁の乱後に、摂津の池田に隠栖し、永正十五年(一五一八)和泉の堺に転居致し、そこで没しておりまする。

 彼は連歌師にて「水無瀬三吟。」「湯山三吟。」は、宗祇、肖柏、宗長の作品と伝えられておりまする。また和歌は飛鳥井栄雅に学び「牡丹花千首。」三巻「肖相集。」が残っておりまする。」

 とよどみなく、すらすらと答えると。

 頼重が、名を尋ねた。

「玉尾内記にござりまする。」

 別当が答えると、

「大西丹後殿の弟子であったな。」

 頼重は、内記の噂をすでに聞き及んでいるようであった。

 この話を伝え聞いて、松太夫の一族は内記の学才が藩主の御前で披露できたと、手ばなしで喜こんだが、松太夫は苦りきって、

「いらざるさし出口を叩いて。」

 と内記をたしなめた。苦労人の松太夫には内記の恐れを知らぬ若さが危ぶまれてならなかった。

「内記をおだててはならぬぞ、われら一族の噂が高まれば、人々の羨望がいつ敵視に変るやも知れぬ、気をつけてくれい。」

 松太夫は一族の者を集めてそう注意した。この危惧は後日、事実となって現われるのである。

 

 寛文六年(一六六六)一月元旦、粉雪のちらつく、丸亀港に流人(るにん)を乗せた一隻の船がついた。

 一行を出迎えた、日蓮宗の団扇太鼓の群衆は一万余と伝えられている。

 流人は、上総興津妙覚寺の第二十代貫主、日尭上人と、武州雑司谷法明寺住職、日了上人で、両上人は、日蓮宗の一派である、不受不施派に属し、幕府よりくだされる寺領は、「仏法にいう、四恩の中の国主の仁恩に属するもので、宗教的意味のないものである。」

 として、寺領の受書の手形を拒絶し、

「上意違背の罪により、終世配流(はいる)。」

 を命ぜられたのである。

 両上人は、丸亀城内の一陋屋(ろうおく)に幽閉されたが、丸亀藩の冷遇ぶりは言語に絶し、外側はいかめしく、青竹矢来を張りめぐらしたが、内部は風が吹きぬけ、粉雪が上人の枕辺に舞いこむありさまであった。

 この冷遇ぶりが信者の同情を呼び、両上人も、この法難に法悦をさえ憶えて屈しなかったので、その高徳を慕って、全国各地から、

「金毘羅詣り。」

「四国遍路。」

 にことよせて、両上人の姿を拝まんとして集いよる信者の数は、日ましにふえたのである。とくに、日尭上人は備前の生れであったから、下津井から丸亀まで、毎日船で通う信者も多かった。

 丸亀と金毘羅はへだたること僅か三里(一二キロ)である。丸亀における両上人の噂はその日のうちに金毘羅でも噂になった。

 両上人配流のため、讃岐に不受不施派の信者が、急激にふえたので、危機を感じた高松藩では、その対策の一つとして、金光院別当宥典を退け、倅宥栄に法灯をつがせて、宗教活動をより活発にせよと命じた。

 宥栄は就任に際して、

「われ浅学非才にもかかわらず、山下の血脈により、金光院別当就任の栄に浴したのは、昨今、讃岐が騒がしくなったためである。即ち丸亀に、日尭、日了の両僧が配流された、彼らの属する、日蓮宗の一派である不受不施派は、国主の恩をおろそかにし、人心をまどわす邪宗である。がその信者は、それらの宗教を信じない者は謗法者で、その謗法者を看過すと同罪であるとして、あらゆる手段を用いて、目下他宗の者を折伏(しゃくぶく)しつつある。国禁の邪宗に、讃岐を席巻させてはならぬ、これよりは朝夕二回、国家安穏、五穀成就、万民安泰の祈祷をなし、更に日々法話、勤行(ごんぎょう)を行い、布教に力を入れ、讃岐一円は申すに及ばず、日本国中の民衆を、わが金毘羅大権現の信徒と致せ。」

 と檄をとばした。

 松太夫は気心の知れた宥典が、隠居を命ぜられたことが残念でならなかった。

 社人たちも、寺僧びいきの宥栄が別当となったので、将来に不安を招く者もあった。

「宗教というものは、各人の心まかせでよいのではないか、他宗を排斥したり、誹謗すればその報いを受けねばならぬ。」

「宗教をお上の力をかりて、押しつけるのはよくない。」

 と、宥栄のやり方を批判する社人もあった。

 松太夫は、

「宗教は、分り易く教えを説き、かつ悩み苦しむ民衆を救済することだ、これからの余生を、民衆の心のよりどころとなれる、金毘羅作りに賭けたい。」

 と一族の者たちに話をすると、三右衛門は木の扱いに慣れていたので、三尺(約一一四糎)の大木札を作り、能書家の内記に「海路安全。」「大漁祈願。」など雄渾な字を書かせ、護摩を焚いて祈願し、

「大漁祈願。」はこれを授ける社人の頭を、

「コツン!」

 と叩いて、

「大当りー」

 と叫ぶ、奇想天外な守札の授け方を考案した。この守札は人々の口から口へと伝わって、

「金毘羅さんの三尺護摩札!」

「金光院小僧の頭叩き!」

 と人気を拍した。

 「海路安全。」

 は船が難波したとき、この三尺の守札にすがって、命拾いをした漁師が、お礼の絵馬を奉納にきて、

「三尺護摩札は命札にもなる。」

 と話をしたので、漁師が争って買い求め、三右衛門は守札作りが間にあわぬと、悲鳴をあげるありさまであった。

 こうして、松太夫の悲願である、民衆に親しまれる金毘羅さんに、一歩、一歩近づいていった。

 権太夫は、社人になってから、一年の大半を旅に出て、神仏両道を修め、更に方位や、星の信仰にもとづく卜占、加持祈祷の術を修めていたので、祈祷を始めた。

 元来、讃岐は弘法大師の影響か、真言宗の信者が多く、昔ながらの民間信仰を根深く信じており、病気になると、三宝荒神(こうじん)や雨垂荒神のたたりと思いこみ、魔よけの祈祷を頼んでくる。

 権太夫は、こうした病人に、祈祷のあと、祖谷(いや)から取りよせた薬草を煎じて与えた。

 胃病には、雨子(あまこ)煎汁(せんじじる)、腹下しには鮎のうるかを、体の弱い者には、まむし酒を与えると、その効果がいちじるしく、権太夫の祈祷は霊験あらたかと人気を呼び、修験者たちの祈祷がさっぱり流行(はやら)なくなった。

 内記の学問所の人気、三右衛門の守札の人気に加えて、権太夫の加持祈祷と、松太夫一族に、一度に花が咲いたように、幸運が訪れた。

 ところが、権太夫に加持祈祷の客をさらわれた修験者たちは、

「社人権太夫儀、権現社に奉仕する際の勤めむき面白からず、とくに服忌令(量)に反することおびただし、厳重なる処罰ありたし。」

 と、表役所に訴え出たのである。

 権太夫は、犬を愛し、犬と寝食を共にしていたので、別当は、

「社人は、みそぎをし、身を潔めて神に奉仕する身でありながら、家畜と寝食を共にするとは不心得なり、当分の間、謹慎を命ずる。」

 旨を松太夫に伝えた。

 しかし、参詣人は相変ず権太夫の祈祷を求めて列をなすので、権太夫に代って、一族の者が加持祈祷をし、薬を与えていると、修験者や表役人が、解散せよと追い払った。

「病む身を、やっとのことで、ここまで辿りついたのじゃ、追い払われてたまるものか。」

 群衆は、追われると退散するが、暫くすると、また集まってくる。

 表役人はついに柵を設けて、竹槍を持ち群衆を追い払うので、事情を知らぬ一般の参詣人は、信仰の場で表役人が群衆を追う光景に驚き、噂となった。

 高松藩寺社奉行間宮九郎左衛門は、この噂を耳にし調査に訪れた。

 別当は、問題を重大視する高松藩寺社奉行を納得させるため、

「社人の加持祈祷おかまいなし。」

 を約束し、権太夫の謹慎を解いた。その返礼として松太夫は三右衛門の考案した大木札を売る権利を金光院にゆだねたので、事件は一応円満に解決したかに見えたが、修験者たちは憤懣やるかたなく、全員が連判のうえ、

「松太夫一族の窮民を煽動致すを、そのままに捨ておけば、やがては当山の一大事となりまする、早急にご英断ありたし。」

 と別当に迫った。別当は雨傘連判状の血判にうろたえて、

「当山の平和のために善処せよ。」

 と表役所に命じた。表役人と修験者たちは結託して「参詣遠慮。」の高札(こうさつ)を金光院前に建てたのである。

 すなわち

 これより上は、其の筋の命により、左の者の参詣不叶(かなはず)

  掟

 親の忌引    (百九十日、出家は半服)

 新膚(にいはだ)(五十日)

 妊者      (婦は五月過ては参詣不叶)

         (男は七月過ては参詣不叶)

 鹿射し者    (七十五日参詣不叶)

 猪射し者    (七日参詣不叶)

 狸射し者    (一昼夜参詣不叶)

 赤腹(下痢)  (三十日参詣不叶)

 う犯(ケモノへんに区=うばん)(三日参詣不叶)

 病める者    (病いゆるまで参詣不叶)

             金光院別当花押

 松太夫一族の仕える三十番神社は、金光院の上にあり、大権現の本殿と並立していたので、この高札によって、急に参詣人が少くなった。

 その反対に、金光院より下にある寺院への参詣人は急に多くなった。

 それを待ちかねていたかのように、寺僧、修験者たちは、総出で加持祈祷を始め、権太夫と同じ薬を与え始めたのである。

 更に、松太夫一族に、追い討ちをかけるように、

「権太夫の薬は、祖谷(いや)のまむし酒で、あんなものを飲んだら四つ足になるそうな。」

「権太夫の加持祈祷は妖術じゃそうな。」

 等々、悪意ある噂のため、権太夫たちに祈祷を依頼する者の足は、次第に遠のいた。

 一方、修験者や寺僧は、別当の援助に力を得て、社人に代り、神楽を舞うて、その上がり銭まで取り始めた。

「参詣遠慮。」の影響で、三十番神社の参詣人もとだえがちになり、収入が急減すると、社人たちは一人去り、二人去りして、残ったのは松太夫の一族だけとなった。

 松太夫は立腹する権太夫をなだめた。

「信仰心があって、社人になったのでなく、生活のために社人をしていたのだから、去った者をとがめるな。」

「わしの薬作りの秘法を盗んで、修験者側に寝返り、金もうけをしている人非人を放っておけというのか。」

「功徳となるなら、それでもよいではないか。」

 松太夫は、物事を荒立てぬようにと気を使ったが、年若い内記はいきりたった。

「参詣遠慮について、父上に一言の相談もないとは別当殿といえ越権ですぞ。」

「参詣遠慮は三十番神社のためでなく、金毘羅大権現の神域整理のためなのだ、文句を申すな。」

「いいえ、参詣遠慮はわれら社人を圧迫するためです。」

「内記、当山内で争を起せば、われら一族無事ですまぬぞ、寺僧の社人に対する圧迫は今始まったことではない。徳川幕府はキリスト教弾圧のため、仏教を保護して寺院に本末制度と檀家制度を厳守させているのだ、耐えねばならぬ。人間が生きるということは耐えることぞ。」

 松太夫は懸命になだめたが、内記も権太夫も納得せず、三右衛門やその倅を集めて相談している時、内記の門弟、奥田武一郎の父である、高松藩目付奥田大膳が内記を訪れて、

「このたび、わが藩公が京都の滋野井中納言殿を案内して、大槌、小槌の鰆網(さわらあみ)を見物される由にて、(それがし)接待役を命ぜられましたが、生来の粗骨者ゆえ、出迎え、その他についてお智恵を拝借致したい。」

 と申出たのである。

 滋野井中納言は、内記の師大西丹後の歌仲間で、内記もその人柄をよく知っていたので思いつくままに、中納言の好物などを教え、

「要するに、真心をもっておもてなしなさればよいのです。」

 といい添えた。

 数日後、奥田大膳が訪れて

「無事に大役を果たすことができました。藩公からも、ねぎらいの言葉を賜わり、面目を施しました。ついてはお礼のしるしまでに」

 と、初漁の鰆と神酒をさし出したので、権太夫もまじえて酒宴となった。

 五条八幡の境内には、一かかえもある桜の大樹があり、折から満開であった。

「桜花を眺めての酒宴とは、また風流な」                

 奥田大腰は相好を崩して喜こんだ。酒好きの権太夫は飲むと冗舌になって、

「金毘羅の表役人は田舎者揃いで、全く話が分り申さんわ。」

 日頃の憤懣を、この時とばかりぶちまけると、酒豪の大膳は眼を細め、ちびり、ちびりと盃を干しながら、

「さようなこともござるまい。」

 しきりに権太夫をなだめた。

 酒に強い内記は、あびるように飲んでも平然として、

「こう申しては失礼ながら、幕府の巡見使殿は好人物揃いでございますなあ、金毘羅の社領に浪人御座なく候、飢人も御座なく、酌取女、飯盛女もこれなく、という文句にだまされてお帰りなされた由なれど、現実の金毘羅は旅人の街として女郎屋も多く、歓楽地として、賑やかでござるが……もっとも、裏の手でもてなされ、口をつぐんでお帰りなされたのかも知れませぬが、あは……」

 と笑いながら、皮肉をいうと、奥田大膳は、

「まあ、そう固いこと申されるな、男が旅で一番欲しいものは酒と女、宮詣りや寺もうでは口実にすぎぬ、金毘羅は旅人で栄えている街、野暮なこと申されるな。」

「しかし、奥田殿、遊女の宿堅く禁止、相背けば重罪と、高松藩でも取締っておられるが。」

 内記がむきになって開き直ると、大膳は、

「いや参った。そう筋を通されると一言もござらぬ、某、酒に酔うとつい本音を吐く癖がござってな…あは……。」

 陽気に笑ってごまかすのを見て、権大夫は、

「奥田殿、某も酒を飲むと、本音を吐く癖がござってな、まあ酒の肴と思うてお聞きくだされい。」

 一 わが金毘羅大権現では、神社の疲弊を招く「参詣遠慮」を、われら社人には一言の相談もなく建てたので、三十番神社はさびれる一方でござる。

 二 神域に隣接した賭博場へ、寺僧や修験者、表役人までが、しきりに出入して、風紀は乱れる一方でござる。

 三 勘定奉行は御用立金とか申して、公金を京の公家や、公卿に高利で貸付けて、利子をかせいでおりまする。

 四 表役人は縁者を寺僧に採用するので、寺僧の臈次(ろうじ)は守られず、更に別当ゆかりの者に、商人株を持たせ、世襲専売にて商をさせるので、金毘羅領の諸物価は高騰し、領民は生活が苦しく、

  別当も三百石で足らずんば飩鉢(どんばち)もって托鉢(たくはつ)をせよ。

  魚問屋、藝妓、女郎の運上のこと。

  三太夫、あんまのような名をつけて上はそのまま下ばかりもむ。

 こんな落書が、金光院の白壁に、消しても消しても書かれるありさまでござる。

 五 二千余人の領民を有する、朱印地でありながら、物成に応じた飢饉、災害の救済方法が全然考慮されており申さぬ。

 六 三百三十石の社領米は、神事に使われず、別当以下、上から下まで、ぜいたく三昧、全くあきれ果てたことでござる。

 七 戒律きびしい真言宗でありながら、寺僧どもは魚肉はくらうは、女を抱くは、全くあいた口がふさがらぬとは、このことでござる。

 八 表役人も田舎者ばかりで全く不勉強、司法行政などの領有権が掌握できず、内紛が多うござる。

 と申立てたのである。

 奥田大膳は役目大事とばかり、この話を逐一藩の大目付大久保徹之介に報告したので、大目付は寺社奉行間宮九郎左衛門に調査を命じた。

 間宮は、早速、金光院を訪れ別当に面会を申入れると、別当の横には金光院きっての才人と噂されている勘定奉行管納孫右衛門が控えており、彼は、

「ことは重大にござりまする。幕府の耳にでも入りますれば手の打ちようもありませぬ。昨今の松太夫一族は暮し向きも苦しいとのこと故、当山の神楽銭や守札の売上げを、別当七、松太夫一族三の割合で分与することを条件に、この訴えを握りつぶさねばなりませぬ。」

 と別当に進言し、その日のうちに松太夫を金光院の白書院に呼び出し、別当が、

「永年の出仕(しゅっし)ご苦労であった。今後は神楽銭などを、金光院七、松太夫一族三の割合で分ち与える。」

 旨の念書を下付した。

 同席の高松藩寺社奉行間宮九郎左衛門からも、ねぎらわれて、松太夫は感激して帰ってきた。

 内記と権太夫は、その話を聞くと、苦りきった表情で

「臭いものには蓋をして、神楽銭の分配でごまかすとは、高松藩の目付も、寺社奉行も役に立たぬ男よ。」

 と嘲笑した。それを聞いて、松太夫は、

「ここで世話になっておりながら、別当殿や表役人の非をあげつろうてなんになる。内記の無分別をたしなめねばならぬ権太夫が、内記を煽動するとは、全くけしからぬ、また内記も少々の学問を鼻にかけ、金毘羅大権現の内政に口をはさむこと、以後はゆるさぬぞ。」

 言葉鋭く、たしなめた。

 

 その年の七月七日、七夕の行事として「蹴鞠。」が金光院で奉納された。

 内記は、京都で蹴鞠の飛鳥井流家元直伝の「解鞠(ときまり)」の技を身につけており、蹴鞠の名手とうたわれていたので、その日を楽しみにしていたが、何の連絡もなく無事奉納されたときき、残念でならなかった。

「解鞠はどなたがされたのですか。」

 と松太夫に尋ねると、

「わしも案内がない故よく分らぬが、別当殿は、最近久我流家元から、解鞠の秘伝をとくに伝授されたと承っておる故、別当殿がなされたのであろう。」

 と答えた。内記は頭に血がかけのぼるのを感じた。別当が久我流家元を選んだことは飛鳥井流直伝の内記に対する挑戦と受取ったのである。

 横から権太夫が、

「高松藩の目付に告口をしたことを、根に持ってお前をのけ者にしたのだ。こうした嫌がらせは、今後も続くにちがいない。覚悟しておけ。」

「告口をしたのは叔父上ではありませぬか。」

「お前も嫌味をいうたではないか、わしの考えでは、七対三の神楽銭の分与などあてにはならぬ、わしら一族を追い出して、坊主どもが丸もうけしたいというのが本音だろよ。」

 権太夫が、いまいましげにいうと、松太夫が苦りきった表情で、

「それもこれも、内記や権太夫の浅慮から出たことではないか、わしの長年の苦心も水泡に帰したという訳か。」

「父上、万一の時は京へ出て学問所でも開けば喰うにこと欠きませぬ、ご安心召され。」

 と内記がいうと、

「参詣遠慮のことといい、わしら一族も早く見切りをつけねば、今に飢え死にするぞ。」

 と権太夫がいった。

「宥栄殿はお若いゆえ、わしらの昔の苦労をご存知ないから、今更何を申しても無駄かもしれぬ。」

 松太夫が残念そうにいうと、

「生駒公が出羽に流された後幕府から朱印状を頂くまでの苦労話を知っているのは、兄者とわしと、先の別当宥典殿の三人じゃ、わしらも長生きしすぎて恥をかくのじゃ。」

 権太夫が自嘲的にいった。

 悪い時には悪いことが続くもので、その年の六月から七月にかけて讃岐一円に大雨が降り続き、人家や田畑が流された。

 そしてある夜、五条八幡宮に落雷があり、本殿及び松太夫一族の邸が全焼したのである。

 松太夫たちは五条八幡の社人も兼ねていたので、せめてご神体を安置する仮宮を建立したいと考えて奔走したが、資金のめどがつかないので金光院別当に、融資を願い出ると、

「五条村は天領である、八幡宮の再建は代官所を通じて、幕府の寺社奉行に願い出るべきである。また、邸は神楽銭を七対三で受取っている以上、援助はできぬ。」

 とにべなく断られた。

「弱り目にたたり目、泣き面に蜂か、これできれいさっぱり縁を切って出直すか。」 

 権太夫は相変らず毒舌を叩いていたが、内記はあせりを感じていた。五才と三才の子があり、更に妻は十月に三人目を出産の予定である。そのうえ落雷以来病みついた松太夫は、一日一日と老衰して行くので邸の再建も急がねばならない。

 内記の胸中を察して、三右衛門たちは寄進集めにかけずり廻ったが、水害の影響もあって思ったほどには集らなかった。

 やっとのことで家族のために雨露をしのぐ小屋を建てると、その一隅にご神体を安置してから、内記と権太夫は留守を三右衛門たちに頼んで、京へ勧進の旅に出かけた。それは七月晦日のことである。

 その時、内記が丸亀港まで見送りにきた子どもたちを、名残惜しげに抱きあげ、頬ずりして離さないので、権太夫は不吉に感じて、

「内記、もう止めよ、縁起が悪いぞ。」とたしなめた。

 京都へ出た内記と権太夫は、神祇宗家吉田家の総帥でもあり、内記の師でもある大西丹後に今までのいきさつを物語ると、大西丹後はあきれ果てたという表情で、

「別当が一族に商をさせたり、輩下に金貸しをやらせたり、また僧侶が獣肉を食し、女犯(にょぼん)の罪とか、それがまことなら、高松藩寺社奉行は一体何を致しておるのじゃ。」

 と立腹すると、内記と権太夫を伴って歌仲間の滋野井中納言を訪れ、

「中納言殿は、高松藩主松平頼重公とは、幼友だちと承っておりまする。これなる両名の話を何とぞお聞き頂きたい。」

 と頼んでくれた。中納言は内記たちの話を聞き終ると、

「いつぞやの春、瀬戸の海から金毘羅を眺めたことがある。松平公から金毘羅は桃源境のようによい所と承っているが、そこもと達の話によれば内紛があるとか、立場の違いでものの考え方も異る、軽はずみなことはなさらず和解されよ。」

 というと、大西丹後に向い、

「丹後殿、公卿は貧乏ゆえ、五条八幡の寄進には応じられぬ、許してたもれ。」

「めっそうもござりませぬ。田舎八幡の再建でご無心に参ったのではなく、(それがし)は隣接している金毘羅の堕落ぶりを監督なさらぬ、高松藩寺社奉行の怠慢さを、中納言殿を通じて松平公のお耳に入れて頂ければと存じて伺いました次第でございます。」

 大西丹後の言葉が終らぬうちに中納言は、右手を大きく左右に振っていった。

「そういう話はゆるしてたもれ。」

 中納言の逃腰な態度を見てとると、大西丹後は、

「突然に伺い、失礼(つかまつ)った。平におゆるしくだされい。」

 挨拶もそこそこに、内記と権太夫を伴い早々に退散した。

 その夜、大西丹後と内記、権太夫は徹夜で話し合った。丹後は、

「公家や公卿は鼻薬をかがさぬとものの役に立たぬものじゃ、気にすることはない、しかし松平公のお耳に入れた所で、寺僧の社人に対する圧迫はどうなるものでもない。これは単なる金毘展の問題でなく、もっと大きな問題なのだ。そもそも金毘羅大権現は天竺より垂迹(すいじゃく)の神なのだ。本地を調べれば誰にでも分る、先年、三十番神社の社人才太夫が金光院宥盛殿の横暴に耐えかね、宥盛殿を鉄砲で打ったが、時の藩主生駒一正公は、十分な調査もされず才太夫一族を斬首された。ところが生駒家はあの通り四代五十四年で改易された。神罰があたったのじゃ、今回のこともそうじゃ、恐らく高松藩では埒明かぬぞ、思いきって幕府の寺社奉行に訴え、ご政道のあやまりを正すべきじゃ。」

 と老の一徹で涙を浮べてかきくどいた。

「五条八幡の再建のことでは、幕府の寺社奉行殿にお目通りを願わねばならぬ、内記、この際思いきって、金毘羅の惰落ぶりを訴えるか。そして金光院殿に反省して貰いたいものじゃ。」

 権太夫がそういうと、内記は暫く考え込んでいたが、ややあって意を決したようにいった。

「徳川幕府のなされ方が気に入りませぬ、キリスト教弾圧の名のもとに、仏教ばかり保護し、神道については政教分離とは名ばかりで実が伴っておりませぬ、従来は朝廷の神祇官が与えていたものを、白川家と吉田家にゆだねたのも、われら社人と朝廷の結びつきを裂くためやも知れませぬ。そもそもわが大日本は神国なり、神武の昔にかえって今少し、われら社人に力を与えよと、正面からやりましょう。」

 それを聞くと大西丹後は、わが膝をはたと叩いて、

「よくぞ申した内記、讃岐に配流の両上人の例もある。幕府の権力に抗して一歩もひかぬあの信念こそ大切じゃ、丹後積年のうらみは、幕府権力と結びついた僧侶の横暴を許したことじゃ、われら社人に今少し力があれば、禁裏の帝もあれ程冷遇されまいものを。」

 そういうと大西丹後は、はらはらと落涙した。権太夫は内記の顔をじっと見つめながらいった。

「兄者の倅にしては内記、お前は骨があるのう気に入ったぞ、しかしお前には妻子がある。やるなら独身者のわしがやろう。」

「いえ、お年を召した叔父上一人に江戸への長旅はさせられませぬ、それに内記は己れの学んだ学問の総てを、この一事に賭ける所存でござれば……。」

「内記も権太夫殿も共に行かれよ、及ばずながら大西丹後、吉田神道の総力をあげて後盾になり申すぞ。」

「大西丹後殿が骨を拾うてくださるならば、安心じゃのう内記。」

 権太夫は内記の決心がにぶるのを恐れるのかしきりに内記の肩を叩いてはげました。

 内記と権太夫が心血をそそいで一通十一条の訴状をしたためて、京都を出発したのは、寛文十年(一六七〇)八月八日の早朝である。

 当時の幕府の寺社奉行は、小笠原山城守、加々爪甲斐守の両名であった。

 九月の月番、加々爪甲斐守は、高松藩主松平頼重あて、両者を対決させるよう、訴状に裏書きして送った。

 驚いた高松藩が、金光院の先の別当宥典と高松藩寺社奉行間宮九郎左衛門を、藩の船で出発させたのは九月五日である。

 船は七日夕方大坂へつき、大坂藩邸で宿泊、供揃いを整えて十日大坂を出発、江戸到着は九月二十一日であった。 

 両者の対決は九月二十七日と決められていたが、高齢の宥典が長旅の疲れで起きあがれず、十月九日まで延期された。

 その実、宥典の病気は口実で、幕閣の要人へ挨拶廻りをするためであった。

 十月九日は秋晴れの日であった。厚物咲の菊の香が漂う、加々爪甲斐守の役宅にある白洲に内記と権太夫は座っていた。

 七月末に讃岐を出発した内記と権大夫は、薄汚れた単衣姿で、姿形こそうらぶれはてていたが、胸の炎は赤々と燃えていた。

 一方、宥典は正面右側の廊下に座布団を与えられて座っていた。白羽二重の袷に紫の法衣、水晶の数珠をまさぐる姿は、数万石の大名と対等の品位を備えていたが、眸は何故か落つきがなかった。

 正面の加々爪甲斐守は激しい口調で両名に

「内紀、その方の父松太夫、並びにそれなる叔父権太夫は、今を去る三十余年前の寛永十九年、金光院別当に対し、一切下知にそむきまじくと誓書を出して社人となりしを忘れしか、更に慶安元年の金毘羅への朱印状下付に際し、下々まで異議なきよう連判を取った。

 その時も、松太夫及び権太夫は連判を致しておる。にもかかわらずこの度の主筋に対する非道の訴訟は断じて許すまじきことなり、

 更に汝等は、五条八幡再建を口実に、寄附を強要して、それを路銀に出府せし由、重々不屈なり。」

 と叱咤した。

 内記はきっと面をあげ、毅然としていった。

「恐れながら申しあげる。誓書を出したるも連判致せしも、松太夫と権太夫でござる、(それがし)は玉尾内記、その件に関係ござらぬ、某の訴状十一ヵ条について明確なるご返答を頂きたく存ずる。」

 加々爪甲斐守は、内記の朗々たる声に押され返答に窮し、内記をにらみすえた。

 その時宥典が、

「お奉行、愚僧より申し聞かせまする。」

 そういうと宥典は、両眼をとじ重々しく念仏を唱えてから、

「よく聞けよ内記、三百三十石は別当へのくだされもの故、何に使うてもよいのじゃ、神域の伐栽も当然認められておる。また法衣の僧が神前に祝詞を奏上するのも、天下平安のご祈祷ゆえ、許されておるのじゃ。」

「ならば承わる。三百三十石の社領米を、神事にお入れなさったことがござるか。そもそも、わが日の本は神国なるに、神事をおろそかにしてぜいたく三昧……」

「黙れ! 黙れ!」

 横あいから、加々爪甲斐守の怒声がとんだ。

「主たる別当殿へ対し、逆意を企てし()れ者奴、黙りおろう!」

 その声と同時に、六尺棒が内記の背でうなった。打ち据えられている内記に代って、

「われらの訴えは私怨に非ず、天下のご政道を正すためでござるぞう!」

 と権太夫が立ち上って叫んだ。

 しかしその悲痛な叫び声の終らぬうちに、権太夫はひったてられた。

 加々爪甲斐守は宥典をかえりみていった。

「両名の身柄は、金光院へお渡し申す。」

 宥典は、座布団をおり頭を深々とさげて一札すると、

「われら沙門の身、以後のことは、高松藩に一任致したく存じまする。」

「結構でござる。」

 加々爪甲斐守は大きくうなずき、内記に皮肉な一べつを送ると、

「これにて一件落着。」

 歯切れの悪い声を残して、立去る甲斐守の後姿を、内記はまなじりも裂けよとばかり、にらみつけた。

「己れ! 頭が高い。」

 六尺棒が、やせた内記の背に情容赦なく打ちおろされた。骨のきしむような痛みに耐えている内記の双眼から、熱い泪があふれ落ちた。それは無念の泪であった。

 それから二十日あまり、内記と権太夫は軍鶏(とうまる)駕寵におしこめられて、讃岐へついたのは十一月二日であった。

 

 金毘羅大権現より北へ半里(二キロ)の祓川の土堤に、その春は笹に花が咲き、実がなった。

「何ぞ不吉なことがあるぞ、六十年に一度咲くという笹に花が咲いた。」

 と里人たちが噂していると、それが不幸の前ぶれであったかのように、六月から七月にかけて大雨が降り、田畑や家が流された。

 そして、笹の葉が一斉に枯れた、寛文十年十一月十一日、金毘羅大権現の社人、玉尾松太夫の一族十三名が、金毘羅の町中を引廻しのうえ、処刑されることになった。

 当時、江戸の引廻しでも、行列の人数は二十五名に限られていたが、松太夫一族の引廻しは、何故か総勢六十余名の大行列であった。

 まず足軽十名の先払いに続いて、朱槍三名、次に松太夫一族が足軽両名に守られて進み、籠守、ひねり、鉄砲組が続いた。

 高松藩町奉行与力朝倉十左衛門は馬で、道具持、馬口取、草履取各々一名を従え、同じく与力柴坂金兵衛は、足軽頭の斉藤勘右衛門ら二十名、同じく足軽頭篠原市左衛門も、輩下二十名を従え、最後は横目吉田又八が続いた。

 近在からの見物人も多かった。時刻は日暮れに近く、晩秋の風は肌を刺すように冷たかった。

「あのお優しい松太夫様や、ご一族がなぜ処刑されるのだろう。」

「金光院を幕府に訴えたからだそうだ、しかしこの行列の物々しさはただごとではないぞ。」

「松太夫様とご内儀はお預中(あずかりちゅう)、食を断って死なれたそうな。」

「それでお見えにならぬのか、ほんにおいたわしいのう。」

 近在の女房たちは、ささやきあって泪をこぼした。

「おい、あれを見よ」

 百姓たちの視線は、内記の倅七之介(五才)と、権九郎(三才)が、二人一緒にしばられている馬の背にそそがれた。

「あの和子様だけでも助けたいのう。」

 老婆が、鼻水をすすりあげた。

「和子様の母様は、高松藩の牢屋で、男の子を産まれたが、その子がくびり殺されると、自分も舌を噛みきって、果てられたそうな。」

「あの花のように美しいお人がなあ。」

「高松藩では幕府へ訴え出られ面目がたたぬと怒って、勝つため、老中とやらへ、大金を運んだというぞ。」

「桑原、桑原、そんな話は止めておけ、お上の耳に入るとうるさいことになる。」

「人の口に戸はたてられぬ。宥典殿と一緒に江戸へ行った供侍が、酒に酔うて話したそうな、地獄の沙汰も金次第とな。」

「口止料として、大枚二両も頂いたとたしかにいうたぞ。」

 噂は風のように見物人の間に流れていった。

 当日処刑されたのは内記、権大夫、内記の倅七之介(五才)権九郎(三才)三右衛門とその倅伊之介、五郎右衛門、両名の倅である理兵衛、吉右衛門、松右衛門、吉兵衛と下僕の長吉、六助の十三名である。

 七之介と権九郎は白い狩衣姿で髪をみずらに結び、その気高さは安徳帝の再来かと人々を驚かせたという。

「童なれば先に。」

 という内記の願いにより、二人の童は一番に処刑と決まった。内記がよくいい聞かせたとみえ、童ながらも毅然として、礼儀正しく首の座につき、

「父上様、皆様ごきげんよう。」

 と挨拶をした。さすがに不憫と思った内記は声をしめらせ、

「父の最後の講義を聞きながら、母の待つ国へ参られよ。」

 と、日本書紀の神代巻を講じ始めた。

 幼い兄弟は、父をかえりみてかすかにほほえみ、父の声に和して日本書紀を誦していたが、一瞬白刃がひらめいて、河原へ小さな首が転々と転がった。

 群衆は一瞬かたずをのみ眼をとじた。

 やがてどこからともなく、

「人非人!」

「人でなし!」

 の声が湧き起り、竹矢来の彼方から小石が雨か霰の如く降りそそぎ、首斬りの足軽たちは石つぶてに眼を打たれ、よろめいて倒れた。

 朝倉十左衛門は馬上から、

「かまえ! 打て! 打て!」

 と狂気のように叱咤した。

 あわてた鉄砲隊は、群衆に向けて鉄砲を打ち放った。

 群衆は不意をうたれて、どよめきの声をあげつつ退いたが、石つぶてはなおも続いた。

「己れら! 叩き斬るぞ。」

 怒った朝倉十左衛門は竹矢来の彼方へ怒声をあびせた。

 その間に、内記の声に和して、日本書紀を誦していた一族の者は次々処刑された。

 最後に残った内記と権太夫に、朝倉十左衛門が、

「申したきことあれば申せ。」

 というと、内記は青ざめた顔をきっとあげ、

「われいまだ非もなき社人の死罪になりたるを聞かず、天人(てんひと)ともに許さざる高松藩主のこの所業、神々とくとご高覧あれ。」

 と叫ぶや自ら舌を噛みきって果てた。

 権太夫は朝倉十左衛門をはったとにらみすえ、

「高松藩主にしかと伝えよ。わが怨念のほど思い知らせてやるとな。」

 と叫んだ。その表情のすざましさに、朝倉十左衛門はたじろいだが、気をとり直して負けじとばかり大声をはりあげて、

「黙れ、疾れ者、大恩ある金光院殿を訴えたる人非人奴が!」

 叱咤する朝倉十左衛門を尻目に、権太夫は狂ったように叫び続けて息が絶えた。

 内記と権太夫の首は戌の刻、獄門にかけられた。その頃から篠つくような大雨となり、季節はずれの雷鳴が轟き、人々をおびえさせた。

 高松藩の足軽たちが、大雨を(しお)にひきあげると、夜陰にまぎれて村人たちがしのびより松太夫一族の供養をした。屍体はそのまま打捨ててあったが、十三人は優しく語りかけるように、より添って死んでいた。

 そして、その夜、彼等の魂が火の玉となって祖谷(いや)にとび、まばゆいばかりに輝いたと古老たちはいい伝えている。

 その夜のことである。激しい雨があがると月も星影もない祓川橋のあたりは、墨を流したような闇につつまれていた。

 高松藩町奉行与力朝倉十左衛門は、無事処刑を終えた報告に、金光院におもむき、清め酒を振舞われて、馬で金光院を出たのは深更であった。

 四名の供廻りと、祓川橋にさしかかると、先方から狐火のように、ぼうと霞んだ行列の灯が近づいてきた。

 供廻りは、四つ日印しの弓張堤灯を高くかかげた。こちらの身分を知らせるためであった。

 その一瞬、一陣の風が通りぬけ、狐火はふっと消えた。

「うむ。」

 十左衛門は低くうめくと落馬し、意識を失った。身体のどこにも傷はなかったが、意識はもどらず、

「病死。」

 として倅に家督はうけつがれたが、人々は。

「松太夫、権太夫のたたり。」

 と噂した。

 その翌年の秋のことである。高松藩寺社奉行間宮九郎左衛門は、金毘羅の「紅葉祭。」に招かれて、思わず時を過し、帰途についたのは日暮れであった。供廻りの者は、

「日が暮れると、祓川には狐火がともるというぞ、急がねば。」

 とささやきあって道を急いだ。

 祓川橋に近づくと、橋の上では白衣の一団が、団扇太鼓を叩いて、松太夫一族の霊を弔っているようであった。

 間宮九郎左衛門が橋にさしかかると、団扇太鼓の音が一段と激しくなった。

 馬が太鼓の音におびえたのか進まなくなった。

「そこのけ! 邪魔だ!」

 間宮は叱咤したが、白衣の一団は聞えぬ風で、百雷の轟きにも似た音をたて続けた。

 その時である。祓川橋の彼方に、点々と狐火が広がりぼうと霞んで見えた。

 そして、そこに朦朧たる人の姿が浮んだ、それは十三人の社人のおどろな姿であった。

「あっ……」

 間宮の体が馬上で大きくかしいだ。

「旦那様。」

 馬口取りが、間宮の体を支えた。間宮がわれにかえると狐火は消え、見なれた雑木林か黒々と続いていた。

 自宅に辿りついた間宮はそのまま床につきまもなく世を去った。

 高松藩主松平頼重は、信仰心が厚く生涯に十八回金毘羅に参詣し、藩士にも参詣を奨励したが、この事件のあと、高松藩士が祓川橋にさしかかると、狐火が見えたり、妖星がとぶなど異変が度重なって起きたので、寛文十一年(一六七一)の秋、この橋を「お止橋」として橋を渡らず、迂回するよう下知(げち)した。

 里人も、

   祓川には夜目が光る。

   松太、権太の目が光る。

 と恐れ、俚謡にまで歌われて、夜はこの橋を誰も通らなくなった。

 

 それから約二百年後の文久三年(一八六三)十月、高松藩では祓川橋より迂回する不便に耐えかねて、松太夫一族処刑の地に、

「松田宮。」

 という石の祠二つと一基の宝篋印塔を建てて供養したところ、以後は高松藩士が祓川橋を渡っても何のさわりもなくなったということである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/09/14

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薄井 八代子

ウスイ ヤヨコ
うすい やよこ 作家 1922年 香川県に生まれる。香川菊池寛賞。

掲載作は、第14回香川菊池寛賞受賞作。「文化高松」1978(昭和53)年8月創刊号に初出。

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