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壺井榮二題

  手さげ袋 ─新さんのこと─

 香川県で壺井榮先生の追悼展が開かれたのは、没後一週間目の昭和四十二年(1967)七月一日から七月六日までで、主催は香川県立図書館、場所は丸亀町の宮脇書店の二階であった。初日に行って見ると正面に、晩年のひどく浮腫(むく)んだ壺井先生の写真が飾られ、その下に珍しい「手さげ袋」があった。

 その袋は先生が十八歳の時、十一歳の妹(しん)さんのために作ったもので、新さんが宝物のように大切にしているものだと説明されていた。

 当時の小学生は肩からかける布のカバンで通学していたが、カバンを持たない新さんは風呂敷で本やお弁当を包んで通学していた。

 修学旅行に行くことになった新さんの為におばあさんの古い帯でこの袋を作った。別名「きんちゃく袋」とも呼ばれるこの袋は、底に楕円型のボール紙を入れて形を整える。袋の正面に赤い絹糸で朝日を、黒い絹糸で山とカラスを二羽刺繍し、下は波でこれも黒糸である。反対側には崩した変体仮名で、

  あさひかげ赤くなりゆくよろこびの光の中になくからすかな 

                       坂手校 岩井新

 これは赤い絹糸で刺繍してあり、薄茶色の艶のある帯地に赤い刺繍が映えた可愛らしい袋である。

 十八歳の頃といえば先生は村の郵便局で働いていた。その時代の郵便局は局長の家の畳六畳の部屋で、座って事務をとっており、その部屋は浜辺の一本道に面し、風の強い日は近くの浜に打ち寄せる波の音が、バサッバサッと聞えてきたそうである。

 初任給五円で大正四年(1915)二月十六日から勤めることになったが、食事代を三円ひかれるので手取りは二円である。夜間の電報や電話の仕事があり住込みで、日曜日には局長宅の女中もするという条件で採用された。新さんの「手さげ袋」は眠い眼をこすりながら夜作ったのであろう。

 壺井先生が、わが家の貧しさを心に刻みつけたのは修学旅行の時である。

 昭和三十三年(1958)五月から翌年の十一月まで雑誌「明星」に連載した「お話の原っぱ」の中に「お金のねうち」という一文がある。

 私は貯金をして修学旅行に行く計画をたてていました。九歳頃から他家の子守りをして頂いたお小遣を貯めていたのです。修学旅行は夜航の船で坂手港から多度津に行き、汽車で琴平に出て金毘羅さんにお参りし、高松では栗林(りつりん)公園を見物し、高松から屋島まで電車です。島育ちの私たちには日帰りとはいえ、魅力あるコースなのです。小舟には乗り慣れて艪も漕げるが汽車や電車には乗ったことのない子供が大部分でした。修学旅行のお金を納める日、いざ蓋をあけて見ると私の貯金箱は空っぽになっていたのです。もちろんそれが何に使われたか、それがいかに止むにやまれぬ事情であったかを私は知っていました。だから私は病気の子を除いてクラスでただ一人修学旅行に行かなかったのです。もちろん記念写真も買えませんでした。旅費は全部で四十七銭でした。お米一升十五銭、お麦一升十銭の時代、それは明治四十三年(1910)今から四十八年前のことで、その時私は十一歳でした。

とある。壺井先生は自分の行けなかった修学旅行に新さんを行かせてあげたいと思ってこの袋をせっせと作ったのであろう。この「手さげ袋」は評判になり村の娘さんたちが次々真似したということである。新さんは祖母の古い帯で姉が縫い、虫除けに父の刻み煙草を入れて、母が納屋の屋根裏に大切にしまってあったものを、どんな思いで追悼展に出品したのであろうか。五十年近い歳月を経たにもかかわらず、袋は色褪せもせず型崩れもせず、まるで新品のように見えた。

 この「手さげ袋」の横に壺井先生から新さんにあてた、五月二十四日発信の最後の便りがあった。

 この間は遠い所をわざわざ来て下さってありがとうございました。あの時はバカになっていたのですけれど、あとから事情を聞いて感激しています。その後お体の方はいかがですか。お互いに大事にしましょう。一度郷里へ帰りたいと思っていますが、まだ無理のようです。 後略

 これが亡くなる一月前の便りである。このハガキの、この間というのはその年の一月十九日のことである。入院していた阿佐ヶ谷の河北病院で危篤状態になり、救急車で東大の中尾内科に運ばれ、危機を脱したのである。壺井先生には慢性肝炎、喘息、糖尿病、心臓病、尿崩症、プレドニン中毒症という六つの病気があり、どれも軽い症状ではなかった。

 「よくぞ今まで生きられたものですね。」と医者は驚き、

 「強靭な生命力に驚きます。奇跡です。」

と入院の度に愛読者の看護婦さんに握手を求められたそうである。

 昭和三十六年(1961)十月、軽井沢の山荘で急性喘息発作で倒れ、慶応病院に入院以来、亡くなるまでの五、六年は入退院を繰り返す生活が続いていた。

 一月十九日には親族は喪服の用意をして駆けつけたし、新聞社、出版社、藝能人からの花輪が壺井邸を取り囲んだりした。

 新さんは一睡もせず壺井先生の手足をさすり続けた。一週間後奇跡的に快方に向い、伊東の天城診療所へ転地療養するまでにこぎつけた。

 一方高松に戻った新さんは心労と看病疲れで寝込み、六月二十三日に先生の訃報がとどいても病床から起きられず、通夜にも告別式にも出席できなかった。私は通夜にも葬儀にも参加させて頂いたので、青山斎場における盛大な「文学葬」の模様をお話ししようと電話をすると、新さんは開口一番、

 「代われるものなら、代ってあげたかった。」

と、うめくように叫ばれた。私は受話器を握りしめて茫然と暫く立っていた。泪がとめどもなく溢れ落ちて止まらなかった。

 「先生だって新さんのことを案じつつ逝かれた筈です。新さんしっかりして下さい。」

 私は心の中で何度も同じことを呟いた。

 先生は十人きょうだいだったが、次々と亡くなり当時は七歳年下の新さんと、十四歳年下の貞枝さんの姉妹だけが残っていたと思う。貞枝さんは三人のお子さんに恵まれた幸福な主婦であったが、その時六十歳の新さんは孤独であり病身でもあった。

 新さんは小豆島で小学校に勤めていたが婚期を失し、四十歳の時壺井先生にすすめられて作家徳永直氏と結婚したが、僅か二ケ月で破局を迎えた。

 壺井先生はこの事で新さんに何となく負目を感じていたようである。

 徳永直氏は明治三十二年(一八九九)熊本に生まれた。小学校を出ると印刷工として働くが、ストで職を失い小さな工場を転々とする。その体験を『太陽のない街』という小説にして「戦旗」に発表、昭和四年(一九二九)三十歳で文壇に出た。以後『軍旗はためく一家』『八年制』を世に問い、戦後は『妻よ眠れ』『遙かなる山々』を発表した。『太陽のない街』は小林多喜二の『蟹工船』と並ぶプロレタリア文学の名作として、世界十数ケ国で出版された。『遙かなる山々』はソ連で特に高い評価を受け、『妻よ眠れ』は愛妻小説として世の妻たちの心をつかみ絶賛された。

 徳永直氏の妻は東北出身の小柄で色白の美人であったが、四人の子供を残して亡くなった。そのあとへ新さんは嫁ぐのだが、二ケ月で離婚と決まり、壺井先生は心労のあまり倒れ、「民報」に連載中の小説『遠い空』を中断している。その後ようやく健康を取り戻して二十二年(1947)八月号の「新日本文学」に『妻の座』の連載を始めたが、第一回だけ発表され、二十四年(1949)の二月まで持ち越された。理由はわからないが徳永直氏への配慮という風評もあった。

 しかし『妻の座』が発表されるや大反響を呼び、題名が流行語となり、新聞や法廷用語にも使われた。

 『妻の座』という小説を一口でいうと、顔形の美しい妻と仲睦まじく暮してきて急に死なれ、四人の子供を抱えた男やもめが、前妻とは反対の顔形は見栄えがせず、姿形は大柄な女を娶る。昭和二十一(1946)年八月といえば国中が物資不足で混乱していた時代である。料理も裁縫も達者でやりくり上手、小学校の教師であった後妻は子供たちとも巧く融け合って、家政婦としては満点だが、妻として馴染めず二ケ月で別れるという話である。

 この小説『妻の座』は後妻の姉は作家、相手の男性も作家、月下氷人も作家と三人三様に進歩的な有名人であったから、物見高い世間の好奇心の的になった。後妻の姉は身内だけに妹の女としての立場に弱気である。相手の気持ちにも労わりを込めて、(てい)よく妹を返す形に仕向けたのは、妹に足りぬ部分があったのだろう、この妹では無理かも知れぬなど、自分を相手の立場において理解しようとしている。にもかかわらず、相手の男性は見合をして納得して結婚しながら、

 「妹さんに欠点がある訳ではありません。二十一年間連れ添うた先の女房が心に()みついており、私の方で馴染めないのです。裁縫も料理も巧く家計のやりくりが上手ということだけで、男は女に惚れられないのです。」

と、苦しい言い訳をし、あげく泣いて謝ったりする。一方後妻の姉は式をあげながら一度も「妻の座」に座ることなく、遠い島へしょんぼり帰る妹が不憫で、欲しがっていたミシンを与えて力づけ妹を駅まで見送るが、万一を慮って神戸の姉に出迎えを頼んだりする。妹を送ったあとわが家にそのまま帰る気にならず、渋谷道玄坂をモンペの裾が切れる程()きながら歩く。ひたすら歩く、大粒の涙をこぼしながら。という筋書である。

 私はこの小説が女性の作家によって書かれたことに意義があると思う。ここには結婚の場における男女の立場の違いをまざまざと怒りをこめて書いている。しかもその怒りが、その作品の男性個人に向けられず、普遍的な男女間の問題として提起されている所に、この作品の文学としての価値もある。

 女性作家の妹は一生独身で暮すつもりで、生活設計をたてていたけれど、著名な作家が四人の子供を抱え、戦後の食糧難との戦いで仕事も手につかず、疲れ果てていると聞かされて、──私のような文学も政治も解らない島育ちの女でも、それをやっている人を助けてあげられるなら──という気持ちになる。

 「祝言は秋まで待って下さい。」

と頼んだけれど相手が急ぐというので八月の暑い最中に式を挙げる。

 「来て下さるということだけでありがたい。」

 そう言う相手の誠実そうな言葉に心を動かされて嫁いだその日から、四人の子供の炊事洗濯、家庭教師と二ケ月間働き続けたが、秋風が吹く頃になって、

 「女としての魅力がない。」

ということで帰される。理不尽としかいいようのない相手の仕打ちに『妻の座』の対応は生ぬるいと、全国の読者からのつきあげがあったという。

 そこで壺井先生は二十八年(1953)四月から十一月まで「婦人公論」に『岸打つ波』を連載して再びこの問題を取り上げた訳である。

 徳永直氏は三十一年(1956)八月号と九月号の「新潮」に『草いきれ』百枚を発表した。そして『草いきれ』の登場人物を『妻の座』と同名にし、自己弁護的な立場で、同じようなストーリーで対決したのである。

 それに対して壺井先生は「群像」十一月号に『虚構と虚像−草いきれに関して−』を書き更に「群像」十二月号に『徳永直氏へ』を発表した。文壇ではこれを「草いきれ論争」と名づけたが、内容は文学論争ではなく感情論争であった。進歩的な二人の作家の対決だから大いに盛りあがったのは事実である。

 壺井先生の場合は『妻の座』『岸打つ波』とともに結婚についての女性の立場を主題にしたものであり『妻の座』では結婚解消の場合の男性と女性の立場の違いを強調しているが、徳永直氏は、

 「草いきれは壺井さんへの応酬ではない。子持ちの男やもめの惨めさや辛さを世に訴えたかっただけ。」

と、逃げている。

 映画『二十四の瞳』の影響もあり、また時代の風潮も『妻の座』『岸打つ波』への追い風になったように感じられた。

 評論家の山本健吉氏も、

 「ああいった場合、男の側からの愚痴や弁明は文学たり得ないのではないか。」

と発言している。それに対し徳永直氏は、

 「僕はそうは思わない。子供を抱えた貧しい男達はもっと書いて呉れと言っている。『妻の座』や『岸打つ波』で受けた被害は自分だけでなく子供たちも受けているのだ。」

と半ば開き直り、半ば愚痴ぽく当時の新聞に語っている。

 徳永直氏は子供の成長を待って『草いきれ』を発表したようで、長男は大学に勤め、二人の娘は結婚、末娘は女優になるべく民芸の養成所に在籍ということだった。

 『妻の座』『岸打つ波』『草いきれ論争』で一番傷ついたのは壺井先生の妹新さんである。

 この『岸打つ波』に感激した私は壺井先生に手紙を書いた。それから知遇を得て帰省の度にお目にかかるようになった。

 確か三十一年(1956)の春だと思うが、私も同席している所で、県内の放送局の人が先生に、

 「『妻の座』をラジオで放送させて下さい。」

と申込んだことがある。壺井先生は、

 「あの作品は新潮社に版権がありますので、あちらへ申込んで下さい。」

といわれた。そのあとで私と二人きりになった時暗い表情になって、

 「今、妹が引田町に住んでいるので県内では放送して欲しくないの。」

 「でも本は読まれたでしょう。」

 「身内にもの書きがいると辛いといって肉親は読まないようです。私の場合身辺に題材を求めるからでしょう。それにあの妹は本を読むより手足を使って働く方が好きなんです。」

 その話を聞いてその時はそういうものかしらと思っていたが、後日新さんが高松に移転されてお宅に伺って見ると、壺井先生に関する記事はすべて切り抜いていたし、大変な読書家であることを知った。しかし新さんは壺井先生の前では、そういう素振りは見せずむしろ文学とは無縁の人のように振舞い続けた。壺井先生もそれに気づかぬ筈はないのに、そしらぬ顔をしてお互いに(いたわ)りあっているのを私は不思議に思いながら眺めていた。

 人間が生きて行く為の心の痛みを書くのが文学であり、作家として書かずにおれなかったのであろうが、壺井先生が妹の不幸を(あば)きたてた後ろめたさを常に抱いていたと感じたのは私の思い過ごしであろうか。

 いつか雑談中に聞かれたことがある。

 「貴女は将来年金が貰えるのでしょう。」

 「ええ、まあ食べるくらいは何とか貰えます。」

 「妹もあと半年で恩給(年金)がつくという八月に()めたので貰えないの。色々調べたけれど駄目でした。私が生きている間はともかく、あとのことが心配なんですよ。」

と、しみじみいわれたことがある。

 壺井先生は常々、

 「私の性格は父に似ておおらかでものに(こだわ)らないの。明日は明日の風が吹くという風に楽天的なんですよ。」

といっていたけれど、それは見せかけで新さんのことは心から心配していたのである。

 そんなことをあれこれ思い出して、壺井先生は新さんの将来を案じつつ亡くなられたという思いが私の心から離れなかった。

 風の便りで新さんが小豆島の「マリアの園」にいると聞いて伺ったことがある。

 温かい小春日和の日であった。新さんは車椅子で廊下に出て、日向ぼっこをしていた。

 色が白くなりよく肥えて菩薩のような穏やかなお顔で迎えて下さった。お部屋には珍しい山野草が飾られており、その横に「手さげ袋」があった。

 「新さんの宝物いつ見ても奇麗ですね。」

 「この袋が奇麗なのには訳があるんですよ。姉が作って呉れたのは大正六年(一九一七)でしょ。その二年後に東京で兄が世を去りました。弁護士を志して夜間小学校で教師をし、昼は明治大学へ通っていたのですが、過労で突然亡くなったので。三十一歳でした。父の自慢の息子でした。

 父はありし日の兄からの手紙を抱きしめて号泣し、あげく腑抜けのようになり食事も摂らなくなりました。私の母は気丈な人でした。大正四年(一九一五)に倒れその頃は半身不随でしたが、兄の遺した二人の男の子を引き取って育てるといいました。兄嫁は眼を患っており広島に帰ってマッサージ師になり一人前になったら子供を引き取るといったのです。母は兄の手紙を全部この袋に入れてどこかへ隠したのです。

 兄の手紙は焼いてしまったと嘘をついて父を怒らせました。でもそれで父は立ち直ったのです。この袋は納屋の屋根裏でソーメンの木箱の中で大切に保存されていたので奇麗なんですよ。

 この祖母の帯は江戸通いの千石船に乗っていた『播磨屋の勝蔵どん』といわれた祖父の結納の品とかで、西陣織と聞いています。この袋には家族の思い出が一杯詰っていますから、眠れぬ夜はこの袋を枕の下に敷くのです。

 すると祖母の子守唄が波の音と共に聞えてくるのです。

 ねんねころいち天満(てんま)(いち)

 大根(だいこ)揃えて船に積

 船に積んだら何処までいきゃる

 木津や難波(なにわ)の橋の下

 橋の下には鴎がござる

 鴎取りたや(なぎ)の日に

 幻聴か幻覚かわかりませんが、夢うつつのうちに直ぐ眠れるのです。だから私はこの袋をあの世に持って行くつもりです。」

 新さんはさりげなく淡々とそういった。

 そしてまもなく新さんは平成二年(1990)に八十四歳で亡くなった。あの袋も一緒に旅立ったことだろう。

   花一輪 ─壺井榮へ─

 私が壺井榮にはじめて出逢ったのは、昭和二十九年(1954)三月二十六日である。

 その前年の四月から十一月まで、壺井榮は婦人公論に『岸打つ波』を連載していた。感激した私は会いたいと思い、婦人公論編集部へ壺井榮の住所を問いあわせた。すると愛読者グループを作れば講師として派遣すると言って来た。早速友人を誘って高松支部を結成すると、編集長の山本英吉が訪れて、壺井榮先生は信州上林温泉にこもっているので、いずれ連絡がありますと言った。まもなく手紙で、

 「来春四月頃小豆島で『二十四の瞳』のロケがあるので帰ります。」

ということであった。翌年の三月二十六日、

 「今、高松の一丸旅館につきました。」

という電話があり、私は急いで駆けつけた。

 姪の真澄さんを、

 「私の薬箱持ちです。」

と笑いながら紹介した。真澄さんは地味な和服で挙措動作のしとやかな美しい人だった。

 その日の壺井榮は、琉球絣の着物をゆったりと着こなし、にこやかな話しぶりで、初対面の私も日向ぼっこをしているような温かさを感じた。

 翌日は婦人公論愛読者グループ高松支部の例会に出席して「もの書きの苦しさと楽しさ」についてユーモアたっぷりに話してくれた。会員は三十名なのに数倍の人が集った。人づてに聞いたのであろうが凄い人気に驚いた。

 その夜、小豆島から電話で、

 「明日二十四の瞳のロケを見に来て下さい。」

と誘われた。

 土庄港に船がつくとロケのバスが待っており、撮影現場まで便乗した。軍人墓地で墓詣りのシーンを撮る所だったが、曇天の為時間待ちをしていた。

 木下(恵介)監督と壺井榮は、晩年の大石先生の履くモンペ選びの為、雑貨店へ行くというので私もお供をして坂道を歩いていると、途中で自転車練習中の高峰秀子を見かけた。長身の若い男の人が自転車の後押しをしていたが、自転車は右に左によろめいている。

 「もっと肩の力を抜けばいいのに、必死でしがみついている。」

 木下監督は小声で呟いた。

 「昭和四、五年頃の女教師の髪形あれでいいですか。」

 突然、監督は高峰を指さして壺井榮に尋ねた。高峰は長い髪を後で一つに束ねている。

 「本職さん、どうですか。」

 壺井榮はいたずらっぽい口調で私に尋ねた。

 「後にまげをつけると老けますし、お芝居の舞台じゃないから、あれでもいいと思います。」

 「木下さん、本職さんがいいと言ってますよ。」

 「いや、どうも。」

 木下監督は私の方を振り向いてそう言った。小柄な監督の声は優しかったが、眸の輝きは人をたじろがせるものがある。人の心の中まで洞察するような眸だった。私はその眸にたじろいて、思わず言った。

 「本職と言われても、私と大石先生には十年以上の開きがあります。時代考証などとても」

 「そんなにむつかしく考えなくていいのよ。」

 壺井榮はえくぼを見せて笑った。

 雑貨店でのモンペ選びは、店の主人鹿島マサノさんが、てきぱきと選んで小柄な絣に決まった。マサノさんと壺井榮は、

 「榮さん。」

 「マサノさん。」

と、子ども時代のように呼び合っていた。

 壺井榮は大柄で色白くふくよかだったが小声で吶々と語り、マサノさんは小柄でやせて背丈は壺井榮の肩までしかないが、歯切れよく大声でまくしたてる、全く対照的な二人だが小学校時代からの親友とのことだった。

 そのあと、壺井榮の案内で向いが丘に登ることになった。丘の麓にある共同墓地に壺井榮の生家岩井家の墓があった。菜の花と金盞花が供えられ、線香の残り香が漂っていた。

 「きっと真澄が詣ったのよ。あの子姪だけど養女として今度入籍したの。私に万一のことがあってもあの子に印税が渡るの。」

 「真澄さんって優しい人ですね。まわりのお墓まで草むしりしてますよ。」

 「優しすぎて困るの。さっさと嫁に行きなさいと言っても、薬箱持つ人がいないとお母さんが困るでしょうって泣くの。私が病気ばかりしているから…。」

 詩人の父親と、もの書きの母親に囲まれて暮す真澄さんは大変だろうと思った。

 土塀と夏みかんの景色がよく似合う坂道を登ると、丘の頂上に生田春月の詩碑があった。

 「甲板にかかっている海図……」に始まる春月の碑を見上げて、

 「春月さんは昭和五年(1930)の五月十九日の夜、別府行きの船から播磨灘で投身したそうです。

 その頃は治安維持法で数多くの文学者が、発禁処分を受けたり投獄されたのです。詩は叛逆の精神から生まれると主張していた春月さんは、屏息して生きられなかったのでしょう。発見されたのは一月後の六月二十一日と聞いています。でも此の詩碑もまもなく麓の寺へ移されるとか、(壺井)繁治も私も此処がいいとがんばったのに、観光客の為に移すそうです。それなら相談しなければいいのよ。」

 えくぼの作家壺井榮がちらりと本心を覗かせた。私も此処がいいのにと心の中では呟いた。紺青の播磨灘をはるかに望む、この丘こそ孤独な詩人の鎮魂の場にふさわしいと思った。

 春月の詩碑は昭和十一年(1936)六月二十一日建立除幕式には、社会主義の先駆者石川三四郎、作家の加藤武雄、詩人の萩原朔太郎、望月百合子が出席している。地元では坂手村長の木下長松と詩人の河西新太郎が建立に奔走している。「春月之碑」の染筆は石川三四郎、銅板レリーフは人間国宝の高村豊周、陰碑文は加藤武雄である。壺井榮は、

 「私帰省の度に此処へ来るの、春月さんは三十八歳で亡くなりましたが、私はその時三十二歳、繁治は三十四歳でした。繁治はシンパ事件で獄中にいたのです。この丘に登ると昔のことが思い出されて暫く佇むの。この丘には蜜柑の木が多いから、四、五月頃は蜜柑の芳香が四方に漂って気分が爽快になるの。その頃が一番好きだけど、顔まで染まりそうな青葉の頃もいい。此処に来ると心が和むの。」

 そう言って、さもおいしそうに何度も深呼吸をくり返した。眼下の春の海はキラキラ輝いていた。

 (春月の詩碑は一度下に移されたが、昭和五十一年〈1976〉もとに戻り、今は壺井榮の文学碑と仲良く播磨灘を眺めている。)

そのあと「鹿島旅館」の二階にある海の見える部屋で、私がさし出した色紙に、

 「十七、八が二度候かよ、枯木に花が咲き候かよ。」

と、気軽く書いてくれた。

 「昔、島の若者が海へ出て行く時、親が止めると、十七、八は二度とないぞと言って出て行ったそうです。せっかく生きて来たのだから一生を生きるに価するように生きなければという意味もあって、私はこの言葉が好きなんです。」

 壺井榮の字は、技巧やたくらみがなくて人柄がにじみ出ているように温かい字である。

 それから十三年後の昭和四十二年(1967)八月九日昔と同じ二階の海の見える部屋で、私は壷井繁治と並んで海を眺めていた。夏の海の小波は音もなく輝き、岬が遠くに浮んで見えた。

 その日は、壺井榮の四十九日で、午前中、内海町主催の追悼式があり、式後昼食の為、この部屋に移った。

 壺井繁治は、「榮との四十三年の鎮魂歌を書くつもりです。榮は最後の時、四十三年のおつきあい有難う。そう言って僕の手を握りました。その後の皆仲良くは声にはなりませんでした。」

 私はそれを聞いた瞬間、涙が溢れ出た。涙はあとからあとから流れて止まらなかった。少し落ちついてから繁治に尋ねた。

 「今日の追悼式の間中考えていたのですが、大正十四年(1925)二月に銚子の日昇館へ呼んだのは結婚なさるつもりで呼ばれたのでしょう。そうでなければ、榮先生が二十六歳にもなって安定した仕事を放り出して家出する訳がありませんもの。」

 繁治は私の眸を凝視しながらこう言った。

 「あの時結婚しようと思って呼んだのではないのです。榮が僕の仲間の為に自分の金を惜し気もなく投げ出して呉れたので、すまないと思った。そして今後も僕に力を貸して欲しいと頼んだ。文学を志す僕にとっては榮のような日常的感覚を見失わない人間が必要だと気がついたのです。犬吠崎の浜辺で何日も二人で話し合い、二人で支え合って生きようと決めたんです。二月の海は寒かった筈なのに寒かったという記憶はない。」

 繁治は少し照れていた。

 それから数日後、信州からりんごの木箱が届いた。知り合ってから壺井榮は毎年りんごを産地から直送してくれた。

 「毎年壺井様のご依頼によりお送りしましたが、ご本人が逝去されましたので、ご供養の為送らせて頂きます。」

という手紙が同封されていた。壺井家からか、りんご園からのものか解りにくい文面であった。私はりんごを半分持って壺井榮の妹しんさんを尋ねた。しんさんは当時高松の昭和町に住んでいた。しんさんは、

 「満中陰志なら壺井からの挨拶状が入っている筈ですが、せっかく持って来て下さったのですから姉に供えてやって下さい。」

 そう言って奥の部屋へ案内してくれた。机の上に白布を敷き、額に入った小さな壺井榮の写真の前に(すすき)とりんどうが供えられていた。

 しんさんは、昔、榮と二人で「ねこじゃらし」や「蚊帳つり草」を探しに行き道に迷った思い出話のあと、思いついたように言った。

 「四十九日の日に、妹貞枝と話し合って島の家を手離すことにしたのです。妹と母の古タンスを整理していたら、大正十四年(1925)二月に書いた姉の『置手紙』が出て来ました。それには『奥むめおさんを頼って上京します。黙って行くが許して下さい。落ついたら連絡します。』とありました。宛名は両親、私、妹、マァーへとありました。当時私は十九歳、妹貞枝は十二歳、マァーは四歳でした。マァーは姪の真澄のことです。母は五十七歳でしたが十年前脳卒中で倒れ半身が不自由でした。六十七歳の父が母の面倒を見ていたのです。私は小学校へ姉は役場に務めて、二人で一家を支えていました。突然の姉の家出は病気の母には相当こたえたようで、姉が上京した年の十二月に亡くなりました。その後の暮し向きのことは神戸や京都の姉たちが助けてくれました。榮姉さんは思い切って上京してよかったと今では思っています。」

「その置手紙見せて下さいませんか。」

「熊谷の妹が持って帰りました。墨の字でしたがあわてて書いたのか乱筆でした。妹はこれは人様には見せられぬと言っておりました。」

 私は瞬間的に「置手紙」の話は本当だと思った。奥むめおは当時実在の人物である。しかし「置手紙」は恐らく公表されることはないと漠然と思った。

 壺井榮が生家に残した大切なものが外にもあったと知ったのは、時代が平成になってからである。

 壺井榮の文学碑建立は昭和四十五年(1970)九月二十三日、翌四十六年に壺井榮顕彰会が設立され、壺井榮賞を制定し壺井榮を顕彰することに決まり、県下の小、中、高生を対象に作文を募集した。第一回の授賞式が四十八年(1973)六月二十三日で、以来六月二十三日を「壺井榮忌」と定め、文学碑の前で授賞式を行うようになった。顕彰会設立にかかわった私は、この日には島を訪れ、文学碑に献花することにしている。

 平成になってからのことである。壷井榮忌に出席しての帰途、フェリーの中で、小豆島在住のK氏と会った。

 「毎年ご苦労さまです。」

と、K氏はねぎらって下さった。大阪へ商用で出張とのことであった。話はいつしか壺井榮の思い出話となった。K氏は、

 「大塚克三さんと榮さんのロマンスを、この頃母が老いのくりごとで、よく語ります。」

と笑った。K氏の話によると、

 大正十二年から十三年にかけて、坂手の奥内旅館に大塚克三は下宿していた。時々大阪へ帰るが小豆島滞在中はいつも絵を描いていたという。長身で長髪の好男子で、島の娘たちに騒がれていたらしい。年は二十七、八歳だった。

 K氏の家の裏木戸を開けるとすぐ目の前に奥内旅館はあった。K氏の家は旧家で蔵には江戸時代からの書物や、書画骨董の類が多く収められていた。大塚は足しげく通ってそれ等を見たり調べたりしていたようである。

 ある日のこと、大塚はK氏の母に浜辺で赤ん坊を抱いた若い女の後姿を描いた絵を見せた。

 「誰かわかりますか。」

 「ああ、榮さんでしょ。家へ裁縫を習いに来てます。でもその赤ん坊は姪ですよ。」

 「この人に渡してください。」

 そう言って「一九二三、四、克三」と鉛筆でサインして差し出した。遠くの村にある杏か桐の梢の枝の合間から、白い帆かけ船が見える小さな絵だったが、遠近法による構図の的確さと水彩画風な筆づかいの細かさは見事であった。

 「そんな大事な絵自分で渡して下さい。日曜の午後なら家へ来てますから。」

と。K氏の母は断ったという。

 その後の大正十三年の暮、別府へ絵を描きに行っている大塚を榮が追いかけて行ったという噂話が耳に入った。大塚の姉が正式に結婚の申入れをしたが、大塚本人の態度がはっきりしないとか、小さな港町のことだからすぐ噂になった。傷心の榮が上京したと聞いてK氏の母は胸を痛めたが、榮が遠い親戚の繁治と結婚したという朗報に、

 「喜んでお祝を送ったそうです。」

と、K氏は口をすぼめて笑った。

 大塚克三は大阪道頓堀中座前の「三亀」という芝居茶屋の次男として、明治二十九年(1896)八月生まれ、榮は三十二年(1899)八月五日生まれで三歳年下である。大塚の父は春嶺と号する日本画家で歴史画が得意であった。大塚克三も画家を志したが、高等小学校を卒業すると指物屋(さしものや)へ弟子入りさせられ、その後京都西陣の図案職人の見習い、更に東京で映画のタイトル画描きをしていたが「三亀」に呼び戻されて家業を手伝いながら、絵描きの夢は捨て切れず、小豆島を訪れて坂手の海や、段々畑、茅葺屋根に魅せられていたようである。

 榮の生家岩井家の古タンスの中に大塚がサインした榮の後姿の絵の外に、大阪の大塚からのハガキが五通、封書が一通、宛名のないハガキ一通が榮の手さげ袋の中に大切に保存されていた。この手さげ袋は榮の帯芯の残り布に大塚が紅い夾竹桃を油絵具で描き、榮が仕立てたものである。大塚は夾竹桃を好んで描いたという。

 大正十四年(1925)二月二十日に、繁治と榮が結婚したことを知った大塚は岩井家へ金二十円也の為替を送っている。

 「何か結婚祝いの品を買ってあげて下さい。」

という手紙が同封されていた。

 それから茫々五十年の歳月が流れた。昭和五十一年(1976)八月四日、大塚は一人で坂手を訪れかつての下宿先や、スケッチして歩いた東谷の集落を廻り、K氏の家で一泊した。

「八十歳になり仕事を止めたので、暇ですからまた参ります。」

 そう言って帰ったが、再び訪れることなく翌年の七月二十四日に世を去った。榮に遅れること十年と一月と一日である。享年八十一歳。

 平成七年発刊の『壺井榮伝』をまとめたのは榮の妹貞枝の夫であり、繁治の甥である戎居仁平治である。戎居仁平治は豊中市の大塚家を訪れ、克三の長男勝彦に会った。勝彦は、

 「父の死後アトリエの中から戦前戦後の壺井さんの本を沢山発見しました。蔵書として大切にしていたようです」と語った。

 大塚は大阪の中座を中心に大阪、京都、名古屋、東京と名のある劇場の舞台装置を四千以上手がけ、芝居の中で五十年暮し、数々の賞を受け『舞台装置大道具帳』という名著も残している。舞台装置という仕事が市民権を得、大塚克三の名がプログラムに印刷されるようになったのはいつ頃か解らないが、壺井榮は戦後になってよく芝居見物をしたという。

 昭和三十二年(1957)十一月、大阪の文楽座で宇野千代原作の『おはん』が上演された。榮は妹貞枝を同伴して劇場に入ると「吉田文五郎様」と宛名を書き結び文をして受付へ渡した。

 貞枝はプログラムに大塚克三の名を見て、

 「会いますか」と訊ねた。

 「会わない。」

 榮は冷たく言った。

 その後、新幹線が開通してからは、月に何回も大阪に通い芝居見物をしたという。戎居仁平治は『回想の壷井栄』の編集を手伝い乍ら繁治に訊ねた。

 「大塚さんのことに触れてもいいかい。壺井榮の胸に花一輪挿す思いで。」

 「それはいい、榮の代りに喜ぶ。」

 繁治は真顔で応えた。繁治の没後出版の『壺井榮伝』では花一輪どころか大きな花束を捧げている。

 平成十六年(2004)一月二日、戎居仁平治の長女発代さんから年賀の電話が入った。大きな花束にふれると、

「私と母はあの花束に反対したの。兄と父はあれでいいんだ。繁治のおおらかさが榮を育てたんだからですって、男の人って変ね。」

 六十八歳で独身の発代さんは、電話口で明るく笑った。壺井榮そっくりの笑い声だった。

 参考文献

  回想の壷井栄

  壷井栄伝

  壷井繁治全集

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/06/22

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薄井 八代子

ウスイ ヤヨコ
うすい やよこ 作家 1922年 香川県に生まれる。香川菊池寛賞。

掲載作は、2004(平成16)年6月高松市菊池寛記念館発行「文藝もず」第5号、および2007(平成19)年1月同館「文藝講座」に初出。