南島紀行(下)─ ふたりの又吉さん ─
沖縄には、芥川賞受賞作家が4人+1人いる、と思っている。大城立裕(「カクテル・パーティー」)、東峰夫(「オキナワの少年」)、又吉栄喜(「豚の報い」)、目取真俊(「水滴」)。さらに、厳密には沖縄出身ではないが、父親が沖縄県名護市、母親が加計呂麻島(鹿児島県の奄美群島)の出身ということで、私にとって沖縄に所縁があるように思える大阪出身の又吉直樹(「火花」)が連想されてしまう。又吉直樹さんには、いずれ父の地、沖縄を舞台に作品を書いて欲しいと思っている。私にとって、「ふたりの又吉さん」というイメージには、親近感がある。ふたりの又吉さんの内、ここでは、沖縄・浦添市在住の又吉栄喜さん(以下、敬称略)について、コンパクトながら私の思いを論じておきたい。
又吉栄喜作品は、1980年、すばる賞を受賞した「ギンネム屋敷」(沖縄戦から8年後、米軍占領期の浦添市が舞台)や16年後、1996年、芥川賞を受賞した「豚の報い」(後に、崔洋一監督によって映画化される。隠喩となっている豚のもたらす厄を落とそうと、「神の島」と言われる離島に渡る4人の男女の物語)などをリアルタイムで読んだ後、いくつかの作品を読んでいるが、最近は、又吉直樹に「押されて(?)」又吉栄喜は、私にとっても関心の影が薄くなっていたように思う。と思ったら、今回は、那覇のパーティー会場で、直接、お目にかかる機会が得られた。
「少年の頃、家の半径二キロ内に琉球王国発祥のグスク(城)、戦時中の防空壕、沖縄有数の闘牛場、広大な珊瑚礁の海、東洋一の米軍補給基地、Aサイン(米軍営業許可)バー街、戦争の痕跡をカムフラージュするために米軍機が種をまいた(という)ギンネムの林などがあり、私の原風景を形成しました」(「時空超えた沖縄」まえがき)
「ギンネム」とは、沖縄に多い帰化植物の一種。豆科。沖縄では、焦土と化した戦後、土壌流出防止と緑の回復手段として、県内のあちこちに植えられたという。樹高が3~5メートル、幹の直径は3~5センチ程度のものが多いという。
又吉栄喜は、1947年7月生まれ、同年1月生まれの私より学年は一つ下だが、同世代。今回「時空超えた沖縄」という又吉栄喜作品としては初めてのエッセイ集を読んで感じるところが多かったので、その思いを書き留めておきたい、と思う。
まず、又吉栄喜の小説を読んできて同世代として私が感じる親近感がある。これは、小説よりも、今回初めて読んだエッセイ集で、より強く感じた。又吉の子ども(特に、小学生)時代の体験が、私とも重なる部分と重ならない部分があることのおもしろさではないか、と思った。
「時空」のうち、空間としての沖縄は、私には今回含めて3回の沖縄行きの経験しかないのでは、馴染みが少ないのは、当然だろう。「時間」の方は、全くの同時代人。東京という都市に住み続けた少年の私と浦添市という那覇市の北側に隣接する郊外都市に住み続けた少年との違いは、子どもたちの遊びの思い出から推量すると、思ったほど違ってはいないようだ。もちろん、南国沖縄の浦添市の植生、動物たち、近間に控える東シナ海という海は、東京育ちの少年には、願っても願えない「宝もの」であろう。少年たちが遊んだメンコやビー玉は、乏しい小遣いを貯めて買いためては、友だち同士で勝負をして、取ったり取られたり。少年たちは沖縄の方言でメンコを「パッチー」、ビー玉を「タマグァー」と言っていたという。ビー玉の「タマグァー」は、東京の少年には判らないが、メンコの「パッチー」は、東京の少年たちにも判るだろう。東京では「パッチン」(あるいは、「ペッタン」)と言っていたのではなかったか。これなら、擬音が呼び名になったようだから、「時空を超えて」東京の少年の私にも、今でも判る(メンコは、時空の違いごとに、各地、時代で名称が違う)。
大晦日に東シナ海に面した崖の上に立ち、崖下から吹き上がる風を利用して正月の凧を揚げる冒険は、今更ながら、羨ましい限りだ。東京の少年は、せいぜい広い空き地を求めて、凧揚げに挑むしかやりようがなかった。雑誌の新年号を待ちわびる思いは、まったく同じだ。「月遅れ号」(そもそも、雑誌は、新刊でも船便の所為か都会よりは毎号一ヶ月ほど遅れていた、という。「月遅れ号」は、二ヶ月遅れだが、価格は、半値以下。そういえば、昔の本には、定価とは別に、「地方価格」というのがあった)というのは、都会では体験できなかったが、遅れによる雑誌への期待感という楽しみは、又吉栄喜の筆致から、踊るように伝わってくる。
「小学生の頃、仲間と水に潜り、珊瑚礁の割れ目に食い込んだ頭蓋骨に触るという肝試しをした」、「小学一、二年生の頃には、石垣に石を積んだつもりなのに、よく見たら頭蓋骨を積んでいたとか」という体験には、圧倒される。私が育った東京では、小学生の頃、防空壕や焼けただれた廃ビルなどが町の影のような形で、まだ、市街地にも残されてはいたが、そういうところに入ったり、上ったりしても、直接、頭蓋骨に触るというような「戦争体験」はない。又吉のエッセイ執筆の時期は、2000年前後が多く、特に、小学生時代の体験を綴ったものが多いが、2010年になると、「無常な時間や人々の生活が知らず知らずのうちに『戦争』を消していくのだろうか」という記述に変わってくる。又吉少年にくっきりと焼き付けられていたはずの原風景(「空間」)としての戦争体験が、「時間」によって、消されてしまうのだろうか。「遊び回った時に感じた驚異、興奮、崇高さが私の中から消えてしまうという無念な思いに苛まれました」。
又吉の人生では、25歳になった1972年は、沖縄復帰の年だ。沖縄の少年たちは、そこまではアメリカの軍政下での生活(アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ)を強いられていた。「少年時代、一心不乱に遊んだ『原風景』が現在にもつうじる普遍性を帯びている、人間の問題にも通底すると考えるようになり、……」。その時々の「時間」は、まだ、私にも共有できるチャンスはあるが、「空間」は、切り離されていて、共有できない。1971年、NHKの記者となり、初任地として大阪に赴任した私は、翌年、1972年の沖縄復帰の取材で、大阪・大正区の沖縄出身者たちが比較的大勢住んでいる町に「復帰」の受け止め方を取材に行ったことがある。
日本本土の沖縄への差別は、こういう「異空間」を生きざるをえなかった私たちヤマトゥンチューが知らず知らずのうちに、身につけてしまった差別感から生じているのかもしれない。同世代だからこそ、強く感じる。何枚かのドル札をポケットに突っ込んでいる「若豚」というあだ名をつけられた少年。又吉少年は、「十セントの小遣いしかもらえなかった」。金を持つ少年と普通の少年というだけでなく、もっと普遍的な根っこを描いた象徴的な場面として、私は、このページを読んだ。
自然の豊かさ。「沖縄の港にはほとんど珊瑚礁の割れ目から船が入ってくる」という。「沖縄では海を、島の周りを囲むものではなく、島のひろがったもの、延長線上のものと考えているふしがある。無限ととらえる」。都会暮らしが続く私の周りには無限となるような空間はないように思われる。それに、初めての70歳代に突入し、私もこの後、「時間」も無尽蔵にあるとは思えない年齢になってきた。
古希の祝いをしてもらったゆえではないが、「人生七十古来稀」の有名な詩句の直前の一行(ほとんど知られていない)との対句に改めて魅かれる。
「酒債尋常行処有
人生七十古来稀」(杜甫の漢詩「曲江」より)
さて、残された時間を大事にしながら、又吉栄喜作品を読み解く。「時空超えた沖縄」には、小説のような文体との違いが、際立つ。小説読みとしてだけでなく、エッセイも読むと、私は、同時代異空間の文学として、又吉栄喜作品が生み出す本土と沖縄の、私にとっての「共通点」と合わせて「格差」の、それでいて、それぞれの共存を改めて感じる。そこから沖縄文学への私の理解が改めて始まるように思える。初めてのエッセイ集といえども、掲載されている文章も新しいものばかりではない。20年ほど前にあちこちに書いた文章が多い。それも小学生時代の体験を書いているものが目立つが、それでいて、短編小説の素材(エッセンス)が原石のままゴロゴロしているように感じられるのが、とても興味深い。異空間に育った同世代の共通性と相違の対比のおもしろさ。
最後に又吉栄喜文学の「空間」のきわめつけは、次のような文章だろうから、書きつけておく。
「しぶしぶ暑い砂浜を歩き回り、貝殻を探した。あの頃、せいぜい二キロ四方しか歩き回っていないが、広い世界の中から毎日、何かを見つけたような気がする」「浦添は小さな市だが、足元を深く掘りおこせば、幾重にも重なった時間が見え、考えしだいでは、小宇宙と化す。不思議な空間になる」(いずれも、「時空超えた沖縄」)
私は、以前から、「井の中の蛙『こそ』大海を『知る』」という意識を持っている。井の中を知り尽くした蛙は、井の中にいながら、大海という井の外の普遍的な世界を想像することができる力を持つようになる。井の中、足元、己の内(つまり、定点へのこだわり)を徹底して知ることこそが、普遍的なものを理解できるような想像力を持つようになる(伝統芸能や伝統技術の名人の言の奥深さ!)。逆に言えば、井の中を知り尽くせないようでは、井の外の普遍を想像もできない、と思うのである。「定点」にこだわった作家として、私が即座に思い出すのは、例えば、次の3人である。二キロ四方に世界があることに気付いた又吉栄喜の「浦添(沖縄)」、路地にこだわった中上健次の「新宮(和歌山)」、己の中に小宇宙があると主張した立松和平の「宇都宮(栃木)」。又吉にとって、中上の路地や立松の小宇宙と同じような役割を果たした空間が沖縄・浦添の二キロ四方だったのだろう。
「空間」こそ違え、この3人の作家は、生年を比べれば、同世代だと判る。1946年から47年生まれ。彼らの間の個人的な交流は知らないが、同じ「時間」(同時代史)を共有しながら、それぞれ独自の文学世界(「空間」)を構築していったように思えてならない。リアルな同時代文学として、彼らを比較し、見直すことが必要かもしれない。
追記:沖縄の芥川賞作家の一人、1960年生まれの目取真俊さんには、お会いできなかったが、7月半ば、首都圏で講演会(「沖縄・辺野古の闘いを語る」)が開かれるので、話を伺いに行きたいと思っている。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2018/06/05
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