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南島紀行(上)─ 三度目の沖縄行:「平和の日」─

ボーイング767—300ERジェット機が、那覇空港に着陸した。250人余りの客席は、ほぼ満席だった。2018年5月18日、午後。天気は晴れ。気温は28度だった。

 

沖縄の地にジェット機の車輪がついた衝撃が体に響く。その瞬間、私の思いは、1971年の沖縄へタイムスリップする。当時の沖縄は、まだ、アメリカの軍政下にあった。アメリカによる沖縄統治(占領)は、1945年から72年5月まで27年間続いた。ちなみにアメリカを主体とした連合国軍による日本の占領は、1945年から52年までの7年間。20年もの格差がある。沖縄の表現で「アメリカゆー」と呼ばれた。「高等弁務官」というアメリカの陸軍中将が歴代、権力のトップであった。今の沖縄の基地の現況を見るとアメリカによる「軍政」は、未だに継続しているように思える。少なくとも、日本政府はそれを「放置」しているではないか。当時、日本からの渡航は、パスポート代わりに沖縄渡航専用の身分証明書(「五七の桐花紋」の紋章入り、「日本政府総理府」発行)が必要であった。那覇空港も当時は米軍管理(72年復帰後は、原則、民間と自衛隊共用に変わった)。当時、道路では、車は右側を走っていた。通貨はドルだった。

 

4月からの就職を前に行った、1971年1月の沖縄は、気温が25度の日もあり、本土とは種類が違うが、濃いピンクの寒緋桜(カンヒザクラ)が咲いていた。寒緋桜の濃い色に南国の濃密さを感じた。この時、私は、10日間ほど沖縄に滞在し、大学時代の友人の案内で、南は、糸満の摩文仁(まぶに)丘(日本陸軍指令部があった。県民を巻き込んだ沖縄戦終焉の地)から北は、国頭村(くにがみそん)辺戸(へど)岬(沖縄本島最北端)まで回った。途中、沖縄の米軍基地、沖縄戦の傷跡の地などを見た。首里城城址は当時、琉球大学になっていて、観ることができなかったが、今帰仁城(なきじんぐすく)(沖縄本島北部の本部半島の今帰仁村)など、いくつかの古い城址を訪れたのを覚えている。当時は、高速道路もなく、私も運転免許証もなかったのでバスなどを乗り継いで移動した。

 

2000年7月の九州・沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)の前年1999年。私は新聞協会の在京地方部長会のメンバーとして、新聞各社の地方部長と一緒に沖縄名護市のサミット会場(万国津梁館や関連施設)を視察した。20世紀最後のサミット、日本で初めて地方開催されたサミット(当時の首相は森喜朗)であった。1999年11月、当時の稲嶺恵一沖縄県知事は、普天間(ふてんま)基地の「移設先」として、辺野古(へのこ)の地名を挙げていた。私たちは、当時の岸本建男名護市長と会見した後、市の職員の案内で、辺野古の候補地周辺を視察した。サンゴやジュゴンの海・大浦湾も遠望した記憶がある。

 

2018年5月。日本ペンクラブは、「平和の日」の集いを沖縄で開いた。私は、「平和委員会」のメンバーではないが、沖縄で初めて開催される「平和の日」の集いには関心があり、一般会員ツアーとして自発的に参加した。集いの前日は、バスツアーが企画され、辺野古、チビチリガマ、嘉手納基地などを沖縄の地元紙の一つ「琉球新報」幹部が同行・解説付という懇切な対応で実施された。

 

私は、さらにツアーの前日、独自に、大学時代からの友人の案内で、普天間基地の全景が見える宜野湾(ぎのわん)市の嘉数(かかず)高台公園展望台に上った。100段はあるという石段を登り、さらに展望台まで20段ほど階段を登る。確かに普天間基地は市街地の中にあった。基地のスポット(駐機場)には、米軍機オスプレイが多数駐まっていたが、金曜日の夕方とあって、視察中に発着する場面は見られなかった。この時間帯、南国は、まだ、十分に明るい。嘉数高台は、沖縄戦当時は、「第七〇高地(こうち)」という激戦地(1945年4月)であった。展望台の近く、少し下ったところに日本軍が戦闘に使用した分厚い鉄筋コンクリート製の「トーチカ」(防御陣地)が米軍の攻撃で半壊した姿のままで、今も残されている。反戦平和を訴えかけてくる。沖縄戦の戦傷のモニュメントの近くに普天間基地はあった。

 

19日のバスツアーが始まる前、午前6時半の朝食を済ませて、早めにタクシーで首里城を訪れた。1971年、復帰前に那覇に来た時には、守礼門(1958年再建)だけ見学した、と記憶する。本格的に復元された城壁が見事な今の首里城は初めてだ。首里城は上り下りの急な坂が多い。山城構造の城郭である。首里城址は、沖縄戦当時は、日本陸軍の司令部があったことから、米軍は、徹底して破壊した、という。戦後も、城址は琉球大学用地に使われた。沖縄県民にとって、首里城復元は、長年の夢だった。1979年、琉球大学の移転に伴い、首里城は復元されることになり、1992年以降、今のような首里城公園となった。首里城は、14世紀末頃、築城されたと推定されている。石門などが遺構として認定されていて、世界遺産にも登録されている。

 

午前8時過ぎ、正殿前御庭まで登る。8時半からの正殿の開場式では、職員が琉球王国時代の衣装を着て、銅鑼を叩いて合図をした。時間がなく、私は正殿の中には入らなかった。代わりに、タクシーに乗り、対馬丸記念館に立ち寄った。1944年、沖縄から九州本土へ学童集団疎開しようとした子どもたちを乗せた対馬丸という貨物船は、事実上戦場となっている海域を航行中、米海軍の潜水艦に撃沈され、ほとんどの子どもたちは亡くなってしまった。生存者の証言などを記録する記念館である。事件後、60年経って、やっと作られた記念館であった。

 

19日のツアーでは、那覇のホテル(離島航路の発着港である泊港に近い)を発ち、高速道路(沖縄自動車道)を北上した。道路沿いの小高い丘陵地には、住宅などの間にあちこちで「亀甲墓(かめこうばか)」と呼ばれるコンクリート製の沖縄独特の大きな墳墓も見える。名護市で高速道路を降りる。名護市では、辺野古(へのこ)新基地反対派の人たちが交代で座り込み・抗議をしているテント小屋前で、名護市の稲嶺進・前市長、山城博治沖縄平和運動センター議長らから辺野古候補地をめぐる最近の動きなどについて説明を受けた。キャンプシュワブの出入口の横にある工事用車両の出入り口近くだ。珊瑚礁が豊富な浅瀬の海岸である新基地建設予定地には、軟弱な地盤の箇所も確認されたというのに、護岸工事が強行されていて、トラックが出入りする搬入口前の国道は渋滞がひどくなる。私たちがいた時も、渋滞していた。地域住民の生活の足、路線バスもコースを変更されるという記事が地元紙に載っていたが、これは、いかにも権力主導の工事らしい強引さだろう。反対派の抗議行動は、工事現場の海側でもカヌーや船に乗って、連日続けられているという。近いうちに(6、7月にも)、護岸の内側には、貴重な珊瑚や魚類を生殺し(生きたまま殺す)にする形で土砂が投入されるのではないかということで、現地では、警戒と緊張感が日に日に高まっているのをひしひしと感じた。

 

バスは名護市から南下し、途中立ち寄りながら那覇へ戻るコースをとる。チビチリガマ(「ガマ」は、天然の洞窟のこと。「チビチリ」は、「尻切れ」の意味。洞内を流れる水の行方が判らないので「尻切れ」という)は、読谷村(よみたんそん)(沖縄本島中部。日本の村の中で、最も人口が多い、という)にあるガマで、沖縄戦の1945年4月、83人の住民たちが集団自決(自死)をしたり、ふたりが竹槍で米軍に対抗して殺されたりして85人が亡くなったという悲劇の地だ。犠牲者の6割が、18歳以下だったという。中には、生後3ヶ月の乳児もいた。非戦闘員の住民の集団自死は、軍国主義が強制した死であった。

 

読谷村から南下して嘉手納町へ。巨大な米軍の嘉手納基地(行政は、嘉手納飛行場という)に近い県道沿いには、「道の駅かでな」が建っていて、4階の展望場からは、真ん前に極東最大の空軍基地(総面積20平方キロ。東京の羽田空港の約2倍)の全景が見える。ここも、土曜日とあって、午後5時から5時半までの30分間に発着する軍用機などは少なかったので、騒音被害の実態は、残念ながら私には体験できなかった。

 

さて、20日、宜野湾市の「沖縄コンベンションセンター」で開催された日本ペンクラブ主催の第34回「平和の日」の集いは、「人 生きゆく島 沖縄と文学」というタイトルで開かれた。会場には800人が集まった。こちらは平和委員会の報告に委ねて、私は、「集い」終了後、宿泊している那覇のホテルで開かれた懇親会で紹介されたパネリスト(沖縄側の参加者は、作家の又吉栄喜、大城貞俊、詩人の八重洋一郎)の内、又吉栄喜(以下、敬称略)について、別稿にて書いておきたい。

 

「平和の日」の集いのバスが出る前、ホテルを出て、国際通りに近い壺屋地区という琉球の焼き物(壺屋焼)を作っている陶芸家たちが集まり住んでいる地域に行ってきた。17世紀後半に当時の王の命令で3カ所の窯がここに統合された、という。通りの店は、午前10時か10時半開店だったので、開店まで、通りの裏側に残る住宅街の路地(スージグヮー)を歩いてみた。傾斜地に朱色の屋根瓦の住宅。中には古い民家もある。その間を緑の葉が茂った塀が続く。一方通行も多い迷路のように繋がる道の端には、白や赤などの南国の花が咲き乱れている。幼い子が父親と遊んでいた。車も入り込めないような路地は、幼い子どもには走り回っても安全なのだろう。焦土化した那覇でも壺屋地区は戦禍が比較的少なかったので、古い街筋が残った、という。首里城の急坂とは違う、職人街の緩い坂の路地は、那覇という一つの街の裏表を観るような気がした。

 

2018年5月26日、東京の国会議事堂前にいる。沖縄から戻り、普天間基地の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設反対の大規模な市民集会に参加した。「(ちゅ)ら海壊すな 土砂で埋めるな 5・26国会包囲行動」(「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会主催)という。「辺野古新基地建設に反対する国会包囲行動」には、主催者発表で約1万人が集まった。首都圏の新聞には、集会の記事は見当たらないようだったが、翌27日の琉球新報の記事によれば、「新基地建設の埋め立て海域では護岸工事が進展し、6月にも土砂投入が行われる可能性が指摘されている。(略)議事堂正門前では市民団体や野党国会議員らがマイクを握り、建設に反対する民意を無視して工事を進める政府に異を唱えた。市民も「美ら海埋めるな」などと書かれた青いプラカードを掲げたり、手作りの横断幕やのぼりを掲げたりと思い思いに抗議の意思を示した」という。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2018/06/05

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大原 雄

オオハラ ユウ
おおはら ゆう ジャーナリスト・評論家。1947年 東京に生まれる。『ゆるりと江戸へ ~遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)~』(1999年 現代企画室刊)がある。→ホームページ「大原 雄の歌舞伎めでぃあ」。