巡査の居る風景
――一九二三年の一つのスケッチ――
一
町角には飮食店の屋臺が五つ六つかたまつて盛に白い湯氣を立てゝ居た。赤黑くカチ/\に固くなつた乳房を汚れた
署から歸らうとして巡査の趙敎英は電車を待ちながら、それをぼんやり眺めて居た。彼の前を急いで二人の淺黃服を着た支那人が、天秤棒をかついで過ぎて行つた。彼等の籠の中には賣れ殘りの大根が白く光つて居た。そろ/\潮の樣に人混みが出初める頃であつた。薄氷を張つた樣な暮方の空の下で、
趙敎英は寒さうに鼻をすゝつて首を縮めると、制服の
電車に乘ると、職業上無料の彼はいつもの樣に運轉手臺に立つて、兩手を
「オイ、其の人を。」と、中學生は
「其人を中へ入れないんなら、俺もいやだよ。」――(勿論、其の運轉手も朝鮮人であるからなのだ。)――そして當惑した運轉手と巡査との顏を面白さうに見比べながら其處に立續けたのであつた…………。彼は今も此の中學生の目付を思ひ出して不愉快に思つた。
電車の中は混んで居た。スケートをぶら下げた學生。鼻を眞赤にした會社員風の男、買物包をかゝへた奥さん。子供を尻にのせた
しばらくすると、突然其の中から何か言ひ爭ふ聲が聞えて來た。乘客の視線は一齊に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な
――
――
――だから、ヨボさんいふてるやないか、
――どつちでも同じことだ。ヨボなんて、
――ヨボなんていやへん。ヨボさんといふたんや、
女には何にも分らないのだ。そして怪げんさうな顏付をして、他の人逹の諒解を得ようとするかの樣にあたりを見まはして、
――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいふてやつたのに何をおこつてんのや。
車内には所々失笑の聲が起つた。靑年はもう諦めて了つて、默つて此の無智な女を
其の日の午後、府會議員の選擧演說を監視するため、彼は同じ署の高木といふ日本人の巡査と共に會場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演說についで、たつた一人の鮮人候補の演說が初まつた。商業會議所の頭もやつたことのある、内地人の間にも相當人望のある此の
――私は今、
すると
彼は今これを思ひ出した。そしてその候補を此の靑年と比べて見た。それからもう一度日本といふ國を考へて見た。朝鮮といふ民族を考へて見た。自分といふものも考へて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに歸らうとして居る妻と一人の子供のことを思ひ浮べた。
事實彼の氣持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの
では、何故怖いのだ? 何故だ?
その答として、彼は靑白い顏をした彼の妻子を擧げる。彼が自分の職業を失つたとしたら、彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違ひない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
彼は
電車は昌慶苑前で下りた。
橫町では强いアセチリンの光に、肺病やみの
角を一つ曲ると、突然彼は向ふから來た一人の男にお辭儀をされた。彼も一つ
――一寸お尋ね致しますが。――と、その人は彼に非常に丁寧な言葉で、××氏――總督府の高官――の住居を尋ねたのだ。(××氏の所へ行くなら此の人も高官かもしれない。)紳士にそんな丁寧な言葉をかけられたことのない彼は、一寸まごつきながらその××氏の住居を敎へた。彼の返事をきくと、もう一度丁寧に頭を下げて敎へられた方に曲つて行つた………………。
と、その時だつた。彼はある一つの大發見をして愕然として了つたのだ。
――俺は、俺は今知らない中に
――あの日本の紳士に丁寧な扱ひを受けたことによつて極く少しではあるけれども喜ばされて居たのだ。丁度子供が大人に少しでも
――これは俺一人の問題ではない。俺逹の民族は昔からこんな性質を持つやうに歷史的に訓練されて來て居るんだ――。
ふと橫を見ると男が道傍にしやがんで小便をして居るのだ。彼は何げなく「立小便」することを知らない此の半島の人逹の風習を考へて見た。
――此の一寸した習慣の中にも永遠に卑屈なるべき俺逹の精神がひそんで居るのかも知れぬ。――彼はそんなことを、ぼんやり考へて見た。
二
銅色の太陽は其凍つた十二月の軌道を通つて、震へながら赤く禿げた山々に落ちて行つた。北漢山は灰色の空に靑白く
每朝、數人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切つた蔦の蔓をつかんだまゝ死んで居た。
ある者は紫色の斑點のついた顏をあふむけて、眠さうに倒れて居た。
漢江の氷の上では、爺さん逹が氷に穴をあけて、長い
雪は餘り降らなかつた。路はカチ/\に凍り固まつて了つた。其路の上を色々な足が滑つたり、轉んだりして歩いて行つた。
朝鮮人の船の樣な
一九二三年。冬が汚なく凍つて居た。
支那人の阿片と
でも朝方だけは
其處には色々な女が集つて居た。金東蓮もさうした女の一人であつた。彼女はまだ新米で友逹がなかつた。たゞ彼女と仲がよかつたのは福美といふ女だけだつた。姓は誰も知らなかつた。其の女はいつもひどく靑い顏を――彼女逹はみんなさうだが、殊に――して居た。
「あの人は中々えらい人なんだよ。」とその女のことを隣の婆さんが彼女逹に話して居た。併し、どう、えらいのだか誰も知らなかつたし、彼女も又言はうとはしなかつた。そして每日きまつて四時頃になると腕をまくつて注射をした。
東蓮には、どうして、此の女にそんな金がはひるか不思議だつた。そこである時、聞いて見た。すると彼女は悲しさうに笑ひながら言つた。
――お前なんか、まだ新米だから、私みたいに稼げるもんか。――
三
漢江人道橋の上を、砲車がカラ/\と勢よく駈けて行つた。永登浦の砂の上で、龍山師團の兵士逹の劍尖が靑い氷を映して寒々と冬日に光つた。夜每々々に演習の夜營が砂上に張られて、
高等普通學校の校庭では、新しく内地から赴任した校長が、おごそかに從順の德を說いて居た。(今迄居た内地の中學校で、彼が校規の一つとして、獨立自尊の精神を說いたことを、幾分くすぐつたく思ひ浮べながら。)
普通學校の日本歷史の時間、若い敎師は幾分困惑しながら、遠慮がちに征韓の役を話した。
――かうして、秀吉は朝鮮に攻め入つたのです。――
だが、兒童逹の間からはまるで何處か、ほかの國の話しでゝもあるやうな風に鈍い反響が鸚鵡がへしに響いてくるだけなのだ。
――さうして秀吉は朝鮮に攻め入つたのです。
――さうして秀吉は朝鮮に攻め入つたのです。
× × ×
其の午後は冷たく晴れて居た。
枯れた褐色の
南大門驛の前には群衆が風にふかれて、立並んで居た。彼等は一樣に驛の入口に眼を注いで居た。自働車は勢よくその降車口に馳けつけて出迎への高官逹を吐き出した。
――總督のお歸りなんだよ。
――總督が東京から歸られたんだよ。
警官は、
其時厚い黑い外套に包まれて肥滿した總督の人なつこい童顏が降車口から現はれた。すると出迎への役人逹は一齊に機械の樣に頭を下げた。總督は鷹揚にそれに
すると其の時だつた。突然群集の中から白衣にハンティングを着けた男が躍り出したかと思ふと、
今度は轟然たる音響と共に彈丸が後の車の硝子を破壞して斜めに車内を橫ぎつて炸裂した。と氣のついた二臺の自働車は急に速力を增して、疾驅し去つた。
一瞬間、群集は呆然として、此の事件を眺めた。が、次の瞬間に、警官逹は本能的に此の暴漢のまはりに馳せつけた。が、兇漢はまだピストルを持つて居る。彼等は兇漢と睨みあつた。兇漢は廿四五の瘦形の靑年だつた。彼もピストルを握りしめたまゝ血走つた眼でしばらく警官の方を睨んで居た。が突然帽子をとつて甃石に力一杯たゝきつけて、カラ/\と自棄的に笑ひ出すと、いきなり手にした武器を群集の中に抛り投げた。群集はさつと
彼の腕を捕へて居た趙敎英はとてもその眼付きに堪へられなかつた。その犯人の眼は明らかにものを言つて居るのだ。敎英は日頃感じて居る、あの壓迫感が二十倍もの重みで、自分を押しつけるのを感じた。
捕はれたものは誰だ。
捕へたものは誰だ。
四
客を引く女が四五人、
――あんた、どう? 一寸。
――駄目、々々。――男はズボンのポケットに手を入れて振つて見せて笑つた。毛絲の頭巾を帽子の上から冠つたその靑年の顏が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、靜まりかへつた空氣の中に、何處からか壁の破れる音がピンと響いて來るのだ。
× × ×
――私? 何でもないのさ、亭主が死んで身寄りがなくつて、外に仕事がなければ仕方がないぢやないか。
――亭主つて、何をしてたんだ。
――
淫賣婦の金東蓮の部屋では、
――で、
――此の秋さ。まるで突然だつた。
――何だ。病氣か?
――病氣でも何でもない、地震さ。震災で、ポツクリやられたんだよ。
男は手を伸ばすと、酒の瓶を摑んでごくりと一口飮み込んだ。
――ぢやあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行つてたのか。
――あゝ、夏にね。何でも少し商賈の用があるつて、友逹と一緒に、それも、すぐ歸るつて東京へ行つたんだよ。そしたら、すぐ、あれだらう。そしてそれつきり歸つてこないんだよ。
男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顏を見た。と、暫くの沈默の後、彼は突然銳く云つた。
――オイ、ぢやあ、何も知らないんだな。
――エ? 何を。
――お前の亭主は
一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲團にくるまつて暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おど/\と逃げまどつて居る
「あんまりしやべつちやいけないぜ。こはいんだよ。」と去り際に云つた男の言葉も頭の何處かでかすかに思ひ出された。
數時間の後、やつと夜の明けた灰色の舖道を東蓮は狂ほしく駈けまはつて居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
――みんな知つてるかい? 地震の時のことを。
彼女は大聲をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであつた。彼女の髮は亂れ、眼は血走り、それに此の寒さに寢衣一枚だつた。通行人はその姿に呆れかへつて彼女のまはりに集つて來た。
――それでね、奴等はみんなで、それを隱して居るんだよ。ほんとに奴等は。
到頭、巡査が來て彼女をつかまへた。
――オイ、靜かにせんか、靜かに。
彼女はその巡査に武者振りつくと、急に悲しさがこみ上げて來て、淚をポロ/\落しながら叫んだ。
――何だ、お前だつて、同じ朝鮮人のくせに、お前だつて、お前だつて、………
彼女が刑務所に行つて了つてからも、S門外の橫町では、相變らず眞黑な生活が腐つた狀態のまゝ續けられて行つた。
寒いといふより、痛かつた。身體の中で心臟の外はみんな凍死して了つて居る樣な氣持だつた。道傍には捨てられた魚の
凡てが變らなかつた。
每日四時頃になると、東蓮の友逹だつた福美がいつもの樣に靑い腕をまくつて注射をした。さういふ時だけ彼女は何處かに居なくなつた東蓮のことをかすかに思ひ出すのだつた。それから夜がくると、きまつて、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油のきれた車輪の軋る樣な音を立てゝ流して行つた。
明け方になると、まだ暗い中に、よく
――おつかない星だな、――
彼はまだ暗い空を見上げて、さう云つた。それからポケットに手をつゝこんで金を探して見た。
――ふん。おつかねえ星だな。
も一度無意味に繰返すと、彼は又
五
趙敎英はぼんやりと、暗い舊アメリカ領事館の前を歩いて居た。彼は考へるともなく、昨夜來の事を考へて居た。
………昨夜家に歸つてから、又急に署長から呼び出しがあつたのだ。彼は急いで署に行くと、恐る/\署長室に
彼は默つてその紙切れを受けとつて表に出た。それから(家には歸らないで)灯の中を暫くさまよつて、其の金を握つたまゝふら/\と、S門外の
彼は今それを遠い昔のことの樣に思ひ出した。
うすい霧が低く這つて居た。街燈の光が街路樹の枝を通して、縞になつて舖道に落ちた。
「一體、どうしろと云ふのだ。」と、彼は濁つた頭の奧で、何だか他人のことでも考へる樣に考へた。
「彼等はどうなるのだ。」妻子の靑白い顏が目前にちらつき初めた。
と、ふと彼は、彼の知つて居る裏通りのある二階屋の一室のことを思ひ浮べた。
其處には粗末な椅子が五六脚と、手製のテーブルが一つ置いてある。テーブルの上には
「京城――上海――東京」「……………………」………………………。
彼はぼんやりとこんな有樣を畫いて見た。そして自分自身の慘めさをそれに比べて見た。
「どうにかしなくてはいけないのだ。とにかく。」
氣がつくと何時の間にか殖產銀行の橫に來て居た。冷たい扉を閉した此の大きな石造建築の柱の陰にはチゲの群がその
「オイ、オイ。」彼は煙草臭い彼等の中に身を投ずると、その中の一人を搖り起さうとした。
「………………」何か譯の分らぬことをいひながら、其のチゲは
「お前は、お前たちは。」突然何とも知れぬ妙な感激が彼の中に湧いて來た。彼は一つ身を
「お前たちは、お前たちは。此の半島は………此の民族は………」
(五・三)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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