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巴里に死す

  原作 芹沢光治良

      脚本・演出 高野悦子



    登場人物

        宮 村 … 佐田啓二

          石 沢 … 森 雅之

            築 城

              万里子・伸 子(同一)… 香川京子

                鞠 子(声)

                  赤ん坊

                    安 藤 … 中村伸郎

                      岡 田

                        斉 藤



                        マルセル未亡人(仏人)

                          保姆レイノー ( 〃 )

                            ブランド教授 ( 〃 )



                            結婚披露宴の来賓、友人、仲人夫妻等。



                            教会へ行く男女、洗礼をうける女の子(仏人)



                          場面

                              Tホテルの前(雨)

                                同・二階のロビー

                                  自動車の中 (雨)

                                    石沢、階下の書斉

                                      築城、廊下の電話



                                      巴里ミケランジユ街の建物

                                        同・三階の一室

                                          同・隣室

                                            同・廊下

                                              同・窓外



                                              この「巴里に死す」の原作は、私が巴里留学中、幾度も読み返えし、愛読したものなので、是非テレビ、ドラマに脚色してみたく、帰国後早速、芹沢先生にお話しましたところ、御快諾を得ましたので、不取敢(とりあえず)まとめてみました。

                                                読み返えしてみると、至らぬところが多多ございますが、それはコンテを作る時に推敲し、訂正することにして、このまゝお目にかけます。何分、はじめての仕事なので、お気付きのところを御教示下さいますれば幸甚に存じます。

                                                  尚、主役の伸子、万里子は、香川京子さんが扮して下さるので、そのことも芹沢先生に申上げ、香川さんの伸子で先生にお目を通していたゞきました。

                                                                                            悦 子



                                                      時、一九五〇年代から、一九三〇年代に遡る。

                                                        所、東京と巴里。



                                                    〈1〉タイトル

                                                        タイトルバツクは白。それに黒い活字で題名、スタツフ、キヤスト。

                                                          激しい雨音に混つて、細く、長く、甲高く、それが直線のようになつて、吸い込まれてゆく金属性の音。

                                                            音―全く止む。



                                                          〈2〉Tホテルの前(夜)

                                                                春。

                                                                  鳥瞰に近い俯瞰。

                                                                    春雨が玄関前の黒い自動車を、音もなく濡らしている。

                                                                      音楽――。

                                                                        黒い洋傘、黒い服、黒い礼装の男女が、若い新婚の二人に花束を渡し、自動車に乗せる。

                                                                          仲人らしい夫婦や、見送りの男女が、傘のうちで手をふる。

                                                                            新婚の自動車、春雨の中を静かに辷り出す。



                                                                        〈3〉同・ホテルのロビー(夜)

                                                                              受付の卓上の硯箱や署名帳、案内状、名刺などを片付けるモーニングの男達の手。

                                                                                黒い板に、白字の『宮村家、築城家、結婚披露宴会場』の立札が、片隅に寄せられ、裏に返える。



                                                                            〈4〉同・廊下(夜)

                                                                                  挨拶を交わしたり、話し乍ら出て行く盛装の来賓が見える場所。

                                                                                    新婦の父、医科大学、物療科主任教授の宮村博士が、作家らしい一人の来賓を追つて来る。

                                                                                    宮村「石沢さん」

                                                                                      石沢「(ふり返えり)あゝ、どうも、御馳走になりました」

                                                                                        宮村「いや、粗末なことで、時に娘のことでお願いがあるんですが」

                                                                                          石沢「お嬢さん? 万里子さんのことで」

                                                                                            宮村「そうです、新婚旅行から帰る前に、作家であられるあなたの御意見を聞かせていたゞきたいので、一度お伺いしたいんですが」

                                                                                              石沢「(不審気に宮村を見るが)私は何時でも結構です」

                                                                                                宮村「じや明日の午後は如何でしよう」

                                                                                                  石沢「どうぞ、お待ちしております」

                                                                                                      立話する宮村に挨拶して行く来賓もある。



                                                                                                  〈5〉走る自動車の中(夜)

                                                                                                        花束に埋まる新郎、新婦。

                                                                                                          新郎の築城は、大学の研究室で社会学の助手をしている。

                                                                                                            新婦の万里子は、巴里の生れ、屈託のない明るさを持つた聰明な一人娘。

                                                                                                              築城、微笑して何か万里子に言いかけるが、止める。

                                                                                                                絶えず、窓ガラスの水滴を拭つている運転台の二つのワイパー。



                                                                                                            〈6〉石沢の書斉(午後)

                                                                                                                  壁一杯の本棚に詰つた洋書や書籍。卓上にも乱雑に積み上げてある。

                                                                                                                    石沢が、宮村を案内して来て、椅子をすゝめる。

                                                                                                                    宮村「(立つたまゝ)私は人の体ばかり診ていて、人間の感情や心理を的確に判断する自信がないので、あなたを煩わすわけですが‥‥‥(風呂敷を解いて、紙包を取り出す)」

                                                                                                                      石沢「(紙包に見入る)」

                                                                                                                        宮村「実は、これをあなたに読んでいたゞいて、娘に渡すべきものか、それとも、永久に娘には見せない方がよいものか、判断していたゞこうと思いまして」

                                                                                                                          石沢「(紙包と宮村を見較べる)」

                                                                                                                            宮村「娘の結婚前から判断に迷つて、苦しんでいたんですが、昨晩、お顔を見たとたん貴方にお願いすべきだと思いましてね」

                                                                                                                              石沢「(紙包を取り上げると、厳重に赤い封蠟がしてある)開けて、拝見してもよろしいですか」

                                                                                                                                宮村「いや、私が帰つてから読んで下さい。何しろ二十年も見ないのですから(てれくさそうな微笑)若い頃の、過失や悔恨を封じてあるのです。こゝで開けられるのは辛い」

                                                                                                                                  石沢「(紙包に眼を寄せ)巴里の文房具店のマークが入つてますな」

                                                                                                                                    宮村「巴里で封をしたまゝです。貴方のように、人間の感情や心理を常に凝視している方の診察に従つて、処理すれば安心ですから」

                                                                                                                                      石沢「責任重大ですな(笑う)」



                                                                                                                                    〈7〉同じ部屋(夜)

                                                                                                                                          卓上のスタンドの灯がつく。

                                                                                                                                            あたりは暗く、外に人影はない。石沢が赤い封蠟を丁寧にこわし、紙袋の中から、部厚い三冊のノートを取り出す。

                                                                                                                                              その頃から宮村の声が入る。



                                                                                                                                            声 「‥‥‥御承知のように、万里子の母の伸子が亡くなつたのが巴里でしたから、亡くなる時、娘が大きくなつたら読ませてやつて下さい。私には、読まないでくれ、万里子が母を求めるようになつたら渡して欲しい‥‥‥と、くれぐれも頼んで息を引きとつたのです。あの病気は、息を引きとるまで頭脳が明晰ですから、最後の日まで書いてあります」

                                                                                                                                                三冊のノートの表紙には、無造作に、一、二、三としてあり、ところどころの頁に写真も貼つてある。

                                                                                                                                                  その第一頁に『わが娘に書き遺す。これを書くことが今の私の生活である』としてある。

                                                                                                                                                    宮村の声はつゞく。

                                                                                                                                                    声 「これを私が読んだことは、伸子の遺志に逆らうことになるのですが、読まずにいられなくなりましてね。それに、せめて巴里にいる間だけでも、伸子を身近に感じていたくつて、淋しくなると、このノートを読みました。私も若かつたものですから」

                                                                                                                                                        石沢、くい入るように読みはじめる。

                                                                                                                                                      石沢「‥‥‥巴里十六区、ミケランジユ街二十六と‥‥‥(抽出しから、古い巴里の地図を出して見入る)」

                                                                                                                                                          色も褪せ、折目のところどころが切れている地図。それをよせて、石沢の指先が動く。

                                                                                                                                                                                     (深いO・L)



                                                                                                                                                        〈8〉巴里・ミケランジユ街(昼)

                                                                                                                                                              五階建、近代的な大建築物の表。

                                                                                                                                                                入口に二十六の、黒に白の番地札。



                                                                                                                                                            〈9〉同・三階の一室(昼)

                                                                                                                                                                  二十余年前、宮村夫妻が下宿した部屋である。

                                                                                                                                                                    部屋には、誰もいない。

                                                                                                                                                                      この家は、画家、マルセル未亡人の住居で、部屋にも廊下にも、亡き主人の遺作の画が、壁を埋めるほど掛けてある。

                                                                                                                                                                        窓から、青葉の繁つたマロニエの街路樹が見えている。

                                                                                                                                                                          初夏――。

                                                                                                                                                                            扉をノツクして、小包を三つ抱えたマルセル未亡人が入つて来る。

                                                                                                                                                                            マルセル「(仏語)マダム、宮村‥‥‥」

                                                                                                                                                                                すると、隣室から綺麗な女の声で、

                                                                                                                                                                                声 「(仏語)はい」



                                                                                                                                                                              〈10〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                    隣室には二つのベツドがあり、窓際の本棚には日仏独の医書が一杯詰つている。

                                                                                                                                                                                      その上に、若き日の宮村、妻の伸子、それにユルム街のキユリー研究所の門前で写した宮村と伸子の写真が飾つてある。

                                                                                                                                                                                        窓際で、体温を計つていた伸子、驚いてふり返り、体温器をかくす。――

                                                                                                                                                                                          万里子よりは三つ四つ年上であるが、生写しである。

                                                                                                                                                                                            扉を開けて、夫人が入つて来る。

                                                                                                                                                                                              以下、仏人との会話は凡て仏語。

                                                                                                                                                                                              マルセル「日本から、小包が着きましたよ」

                                                                                                                                                                                                伸子「あら、すみません(思わず、日本語で言い)主人の本ですわ、毎日、待ち兼ねていたようです」

                                                                                                                                                                                                  マルセル「(小包を卓上に置く)」

                                                                                                                                                                                                    伸子「今朝、マロニエの若葉が、一度にひらいているのでびつくりしました」

                                                                                                                                                                                                      マルセル「パリには四季がありませんからね(窓を覗き)今に白い花が一時に咲きますよ」



                                                                                                                                                                                                    〈11〉街に聳えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                          若葉が風にゆらぐ。



                                                                                                                                                                                                      〈12〉元の隣室(夕方)

                                                                                                                                                                                                            卓上で、三つの本の小包を開けている宮村の手。

                                                                                                                                                                                                            宮村「(日附を見て)随分この小包は遅れたね」

                                                                                                                                                                                                                本は、すべて宮村が日本で使つていた古いものばかり。その一冊の頁の間から、厳重に封をした白いものが落ちる。

                                                                                                                                                                                                                伸子「(気付き)何か落ちましたよ」

                                                                                                                                                                                                                  宮村「‥‥‥?(拾い上げて、無造作に封を切ると、四五通の既に開封した古い手紙が出て来る)」

                                                                                                                                                                                                                    伸子「(見ている)」

                                                                                                                                                                                                                      宮村「(狼狽して、直ぐポケツトに入れる)」

                                                                                                                                                                                                                        伸子「何ですの」

                                                                                                                                                                                                                          宮村「別に、何でもないものだよ(本を取り上げ)こいつが今日届いたことは有難いな、ちゆう、ちゆう、たこ、かい、な」

                                                                                                                                                                                                                              全部の本を抱えて、窓際の卓子へ持つて行く。

                                                                                                                                                                                                                                伸子、その宮村の素振りを訝し気に見ている。

                                                                                                                                                                                                                                  宮村、ポケツトの手紙を抽出しの奥深くに(しま)((ママ))、スタンドの灯をつけて、本の頁を操る。

                                                                                                                                                                                                                                  宮村「今夜はこれで徹夜か(時計を見て)伸子、食事を頂いて来ようか」

                                                                                                                                                                                                                                    伸子「えゝ」



                                                                                                                                                                                                                                  〈13〉同・廊下(夜)

                                                                                                                                                                                                                                        宮村と伸子が部屋から出て来る。

                                                                                                                                                                                                                                          廊下の電話が鳴る。

                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(受話器をとつて)もしもし、えゝ、四六、 一五です(急に日本語になつて)僕だよ、宮村だよ‥‥‥八時‥‥‥? いゝとも斉藤君も一緒にかね、えゝどうぞ、じや(電話を切り、伸子に)岡田君だよ」

                                                                                                                                                                                                                                            伸子「いらつしやるんですか」

                                                                                                                                                                                                                                              宮村「うん」

                                                                                                                                                                                                                                                伸子「お断りになればよろしいのに」

                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「そうもいかんよ」

                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「でも今夜は御勉強でしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「あれは、今夜に限つたことではないんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                          食堂の扉を開けて入ると、マルセル夫人の声がする。

                                                                                                                                                                                                                                                            電話の横の、大きな掛時計が鈍い音で八時を打つ。



                                                                                                                                                                                                                                                        〈14〉同・宮村の一室(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                              宮村と、外交官の岡田、外交官補の斉藤が話している。

                                                                                                                                                                                                                                                                伸子が、日本茶を配つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                斉藤「(無遠慮に)日本茶は有難いですな。ついでに奥さん、和服を着てみせて下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「あら、こちらへ来てから一度も着たことがないんですのよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                    斉藤「そうですか、奥さんが和服でお相手をして下さると寛ろげるんですがね(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「どうぞ、ごゆつくり」

                                                                                                                                                                                                                                                                          会釈して隣室へ入つて行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                      〈15〉同・隣室(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子、卓上に積み上げられたさつきの本に手を触れるが、不図(ふと)気付いて、抽出しから宮村の(しま)((ママ))た手紙の束を取り出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                              封書の裏には、見事な筆蹟で『青木(まり)子』としてある。

                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(はつとして見入る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                  何れも同一の差出人、青木鞠子である。

                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(手紙を読もうとするが、止める)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                      隣室の談笑はつゞいていたが、突然、宮村が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(驚くが、咄嗟に)あなた、この手紙、私いただいておきますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「(一瞬、顔色を変えてためらうが)あゝ、いいとも」

                                                                                                                                                                                                                                                                                            書棚の本を一冊抜き取つて出て行く。

                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(見送る――何故か胸騒ぎがする)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                手紙から、写真が出て来る。裏には、『巴里の下宿の庭で、下宿のお嬢さんと共に、鞠子』としてある。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                  表に返えして見ると、寂しそうに澄んだ眼、うすい唇、すらりとした容姿。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(くい入るように見入る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                      鞠子の写真が、一枚二枚、三枚四枚、五枚と数を増して、卓上一杯に()((ママ))がる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                        隣室から、斉藤の下品な笑声がしている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村の声「伸子、伸子‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村の声「伸子!」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(気付き)はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村の声「茶をいれてくれないか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      手紙を急いで洋服簞笥の小箱に入れ、隣室へ入つて行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈16〉窓から見えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        白い花を、青樹一杯に咲かせている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈17〉宮村の一室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          体温器を口にくわえた伸子が、椅子に凭れてマロニエの花を見ている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            廊下で電話のベルが鳴つて、マルセル夫人の声がする。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            夫人の声「マダム、宮村‥‥‥キユリー研究所から電話ですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(口の体温器を卓上に置いて)はい、宮村からですか‥‥‥?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  出て行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈18〉同・廊下(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子、来て電話口に出る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      マルセル夫人、自分の部屋へ入つて行く。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「えつ、伸子です。今夜は研究所でお泊りになるんですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村の声「十二時頃にすめば帰るよ、先に寝ていなさい。それから伸子、あの手紙のことは繰返して言つたように気にかけないでくれよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「えゝ、判つてます」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村の声「じや最愛の伸子へ、チユツ!(電話を切る音)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(暫く考えていたが、受話器を置く)」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            〈19〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子、入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    洋服簞笥の小箱から、例の鞠子の手紙を取り出し、ベツドにかけて、一通を黙読する。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      白無地の便箋に、細字がぎつしり詰つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        その便箋に、鞠子の下宿の写真がダブつて読みはじめる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        鞠子の声「巴里へ着いて、もう一ケ月過ぎました。毎朝、大使館へお手紙が着いていないかと見に参ります。到着した日に、二つ待つていてくれた他には、いつも失望して帰ります。昨日から私、ラテン語をはじめました。フランス語がまだものにならないのにと、お笑いになるかも知れませんが、いつか貴方のお仕事の助手となる時の準備ですの。フランス語の方は、この前お送り下さつたモーパツサンの短篇集が、もう二つで終ります。さて、父のことで御心慮を煩わしていることゝ思いますが、私達が愛し合つていると言うことが、父の時代の人には、惚れると言う言葉しか知らないのです。愛すると言うことが、お互に精神的な精進として、完全な人間となつて、運命を共にする必死の努力であることを、父は知らないのです。愛する故によい娘になり、よい人間になりましよう。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            私は貴方を想うことで生き甲斐を感じ、勉強して自分を磨いているのだと、父にも識つて貰わなくては。そして、貴方に相応しい立派な女性になるように努力する以外に、今の私には貴方を愛する方法がありません‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(突然)やめて!」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                手紙をベツドの上に投げ出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子の声「あの人は、何故私と結婚したのだろう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    その時、ゆれるカーテンの方から宮村の声がする。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村の声「そのことは、見合の席で石崎の小父様に言つただろう、君も側にいたではないか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子の声「あの時は私、あがつてしまつて、貴方が何を仰有つたか覚えていません」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村の手が、ぐるつと椅子を廻して、深く腰をかける。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「それに僕は、彼女のことは、君に話さない方がよいと思つていた。然し、今は、話すことが、すつかり彼女を胸から洗うためにも必要かも知れん」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子は、宮村の前の椅子に腰をかけて、

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「えゝ、傾聴しますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「僕はあの手紙の鞠子さんに会わなければ、人間に精神がある、魂があると言うことに気付かなかつたかも知れない」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「人間を生理的にばかり見て、医学的に研究していると、人間の肉体ばかり目について、精神なんて忘れてしまうのだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「鞠子さんは、僕が唯物的な考えになることを心配して、読んだ書物の話をしたり、音楽や絵画について、よく僕に説明したものだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(蒼白になつて、息づかいも荒い)私は貴方と結婚するまで、人に愛されたことも、愛したこともありませんからよく判りませんが、どうしてそんなに立派な方と結婚なさらなかつたのです」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「それは前にも言つた通り、学資の都合で、僕の巴里へ来るのが三年も遅れた為、お父さんに孝行がしたくなつたんだろう。経済学を専攻してる人と、この巴里で婚約して日本へ帰つたんだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「五年も愛し合つていて、そんなものですか、恋愛つて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「責任は僕にあるんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「どんな責任があるんですの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「(黙る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「お腹の中では、未だに愛していらつしやるのでしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「そんなことなら、何も打明けて話をしやしないよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「判るものですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「伸子!」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(泣く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    ベツドの上の手紙の側につゝ伏している伸子。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      部屋には誰もいない。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        扉をノツクする音。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「(はつとして顔を上げ)はい‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル夫人が扉を開けて顔を出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル「フランス語を教える娘さんが、いくらノツクしても返事がないと言うので、案じて来たんですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「あら、もう帰られたのですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                マルセル「えゝ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「ちつとも知りませんでしたわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「お顔の色が悪いが、どこかお悪いのですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「いゝえ(手紙を片付ける)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        マルセル「(つくづく見て)本当にお悪いですよ、お気をおつけになつて‥‥‥(扉を閉めて出て行く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(鏡に写して見る。いつか涙が溢れる)」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        〈20〉窓から見えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              白い花が風に舞つて散つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                日曜日の教会の鐘が鳴る。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            〈21〉同・並木道(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  俯瞰。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    散る花吹雪の中を、教会へ行く人達が通る。その中に、洗礼を受ける女の子が、白い服を着飾つて、家族の者と楽し気に行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈22〉宮村の隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        窓寄りの卓子で、宮村が日本から着いた書籍を読んでいる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子が、疲れ切つた様子で帰つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(ふり返えり)どこへ行つていたんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(答えず、ベツドに腰を掛ける)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「(やゝ荒々しく)尋ねたら返事をしなさい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「ラ・フオンテーヌ通の家を訪ねて来たんです」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「ラ・フオンテーヌ?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「えゝ、鞠子さんがいらしつた家です」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「(驚いて)どうして君は、そんなところを訪ねたのだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「もしそこにいらつしやるんなら、宮村の妻として、お目にかゝつておいた方がいゝと思つて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(思わず)馬鹿!」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(宮村を見て)えゝ、私は馬鹿な女です」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「(立上り)君は、あれほど話したのに、僕が、信じられないのか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「でも鞠子さんは、未だ巴里にいらつしやるような気がしたんですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「それで、鞠子さんはその下宿にいたのか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「君は鞠子さんに会えたのか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「鞠子さんは日本へ帰つて式を挙げた、それ以来、僕は鞠子さんとは会つていない。どうして君は、僕の言うこと判ろうとしないのだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「明日から、毎日巴里中を探し廻るといゝ、どこかで鞠子さんに会えるかも知れないよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  そのまゝ、机に向つて調らべ物をはじめる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村、本を閉じたり開いたり、ペンにインクをつけたりするが、気が静まらない。不図、振り返えると、伸子がべツドに片手をかけて倒れている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「(驚いて)どうしたんだ伸子」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        急いで駈け寄つて見ると、貧血を起している。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈23〉同・廊下(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村、来て、手帖を見乍ら電話のダイアルを廻わす。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(仏語)あ、もしもし、ブランド教授のお宅ですか、あゝ先生ですか、宮村です、キユリー研究所の宮村です。どうも突然電話しまして‥‥‥実は、妻の様子が、私では腑に落ち兼ねるのです。一度御診察を願えないでしようか‥‥‥はい、はい、ミケランジユ街二十六、マルセル未亡人宅です」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              電話を切つて、急いで部屋に戻る。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          〈24〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                ベツドの中に伸子が寝ている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  側に宮村と、五十年配のブランド教授がいる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    教授、診察を終つて、

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    教授「(早い仏語で)肺尖が悪いんだね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「はい、検温は毎日やらせているんですが」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        教授「それに、妊娠していられるようだが、知つてましたか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(驚き)妊娠‥‥‥? そうでしたか‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            教授「今動かすのは無理だが、一度精密検査をやりましよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                教授「貧血は、一時の過労からだから、心配はいらんようですな」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    鞄から注射器を出して、伸子の腕に注射する。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                〈25〉窓から見えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      花も散り、葉が赤く蝕んで巻いている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈26〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        外出着の伸子を、労るように連れて来た宮村、椅子にかけさせる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村も、前の椅子に掛けて、

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「ブランド博士は、母体を保護すると言う見地から、妊娠を中絶した方がよかろうと言う意見なんだよ。それには早い程よいと言つて、心配して下さるんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「中絶と言つても、たいした手術ではなし、安心して博士にお委せして置けばいゝのだし、病院も博士がお世話下さるそうだし」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「胸の方も危険な程悪いのではないが、出産するまで待つたら、進む恐れがあるからね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(ハンカチを押えていたが、流れる涙をふいて)私、そんな卑怯な真似は出来ません」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「何が卑怯だ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「子供を殺して、自分が助かろうなんて思いません」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「ねえ、お産をさせて下さい。譬えお産をすることで私が死ぬようなことになつても‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「ねえ、あなた、私の我儘を通うさせて、子供の為に命を捧げることは、母としての喜びですもの‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「それに、出産したから私が死ぬとは決まつていないんですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「(立上り)判つたよ、よく先生方とも相談してみるよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「お願い、きつとよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村、窓近くに来て、凝つと外を眺める。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              教会の鐘に混つて、子供達の遊んでいる声が聞えて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村、書棚に挟んだ巴里の絵葉書を二三枚取つて、

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「石崎の小父様に、この間のお礼を出して置くよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「えゝ、私からも宜敷く言つたと書き添えて下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「あゝ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        絵葉書にペンを走らせる。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈27〉窓から見えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          すつかり落葉して、太い幹に無数の小枝が美しく伸びている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      〈28〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            ベツドの中の伸子、体温を計り、温度表に書き込む。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              その横に、また読み返したのか、鞠子の手紙と写真が置いてある。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                ノツクの音がして、

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                マルセルの声「あたし」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「どうぞ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「(入つて来て)キユリー研究所にいらつしやる安藤さんが見えたんだが、どうします? 今、臥つていると申上げたんだけど」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「どうぞお通しして下さい。私、直ぐ着換えます」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        マルセル「そう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            扉を閉めて出て行く。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子、洋服簞笥の側に寄る。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          〈29〉同・一室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                扉を開けて、安藤が入つて来る。――既に五十を過ぎた年配で、やはりキユリー研究所にいる九州医大出の山口の開業医。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                安藤「(隣室の扉をノツクして)奥さん、入つてもかまいませんか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子の声「はい、どうぞ」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                〈30〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      安藤が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        着換えをすませた伸子が出迎える。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        安藤「明日は、愈々日本へ帰るのでね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「あら、明日ですの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            安藤「それで一寸御挨拶に寄つたんですよ、宮村君とは研究所ですませて来ました」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「お名残惜しいですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                安藤「また来ますよ、美容術の方も中途半端だから(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「でもお上手になられたと伺いましたわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    安藤「(笑つて)いやいや、やつてみると仲々難しいものですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        花瓶の後に廻り、顔に見立てゝ、器用な手つきでマツサージする。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「(笑つて)お上手ですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          安藤「これを覚えるのに、先づ三月ですな、病院の女中に、帰つたら美容院を出してやると、約束して来たもんだから」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「先生が、身を以つて体験してお帰りになるなんて、御親切ですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              安藤「(ベツドの側に落ちた鞠子の写真を拾い上げ)ほう、この御婦人を御存知ですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「(狼狽するが)えゝ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  安藤「(写真の裏をかえしたりして)日本へ帰つてから、もう一年にもなるかな」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「私、余り存じ上げてないんですけど、大変優れた方ですつてね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      安藤「立派ですね、僕が独身だつたら結婚を申込んでますよ(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「そんなに立派な方ですか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          安藤「女としてで悪ければ人間として、若いのに、あれだけの才能を持つた人は稀ですね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「そうですか‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              安藤「基礎的な学問がみつちりしてあるんですな、それでいて女らしさを忘れない、男から見れば理想の婦人ですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  安藤「僕も二三回しか会つてないが、随分、啓蒙されましたね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(自分に言う如く)勉強して、誰でも人様から、そのよう言つて頂けるようにならなくちやいけませんわね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      安藤「然し、どうしてこの写真が此処に‥‥‥(部屋を見廻し、不図気付き、伸子を見て)どうぞおしまい下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「(眼を外らせて)はい」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      〈31〉窓から見えるマロニエ(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            葉のないマロニエに、雨がしとしとと降りそゝぐ。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              その向う側に、虹のように鈍い街灯の輪。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          〈32〉宮村の一室(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村が、隣室から持ち出した卓子で、何か一心に調らべ物をしている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  やがて、洋服のポケツトから小銭をざらざら取り出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    廊下の時計が十一時を打つ。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                〈33〉同・隣室(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      ベツドの中の伸子、白い毛糸で赤ん坊の靴下を編んでいる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(金の音に)あなた、お金なら此処にもありますよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          隣室の扉を開けて、宮村が顏を出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「何も金の勘定をしてやしないよ。もう十一時だよ、何故寝ないのだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(手を止めず)あなたこそ、おやすみになればいゝのに」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「僕が起きているのは、仕事の一部なんだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「私、とても気分がいゝんですもの、今に、貴方のいゝ助手になりますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「(窓を開け、体温器を伸子に渡す)仕様がないね、言うことを聞かなくて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(受取つて脇に挟み)これでも貴方のように、高いところから物事を見ようと努力してますのよ(毛糸の玉が落ちて転がる)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「(拾う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「私、物心がついてからのことをずつと考えてましたの、すると、ちつともいゝところのない女ですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「どうして?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「とても嫉妬深いようですし」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「大なり小なり、誰しも持つているものだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「父の責任よ。母を泣かせてばかりいたから、男つて、みんな父のような人だと思い込ませてしまつて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「そう言うタイプの人は何処にもいるよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「それに、本当の愛情だつて、貴方と一緒になるまでは、よく判らなかつたんですもの、こんなことで、子供が育てられるのかと思つたら、ぞつとしましたわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「(体温計を受取つて調らべ)有難い、熱はないね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「そうでしよう、もう完全よ(冗談らしく言つて笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「ブランド博士にね、妊娠中絶のことで君の意見を話したら、流石にハラキリの国の女性だと、ひどく感動しておられたよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「あの時は私、真剣でしたもの。でもよかつたわ、先生方も私の願いを叶えて下すつて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「だから、母体を大切にしなきや。かけがえがないんだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「えゝ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「さ、早くおやすみ。休養、食事、運動、検温、君は固く守ると約束した筈だ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「えゝ、判つてます、でも今が一番倖せな時のような気がしますわ(お腹のあたりに手をやり)私の中の貴方が、いつも元気ずけてくれますの、その為にも一生懸命勉強しなくては‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「誰だつて絶えず磨かなくてはね。それに、倖せはお互の努力で築き上げるものだよ。さ、おやすみ、電気を消すよ?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「あなたは?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「うん、僕も寝るよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              立つて、スタンドのスイツチを切る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                部屋が一時に暗くなる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村、隣室へ行き、扉を閉める。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈34〉窓から見えるマロニエ(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    葉のない木立越しに、珍らしく朝の陽が窓辺に射し込んでいる。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                〈35〉廊下の電話(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      大きな紙箱を側に置いた宮村が、電話している。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「(仏語)はい、これから妻と伺いますから、病室の方を宜敷くお願いします。少し早いようですが、先生にキユリー研究所の宮村だと言   つて頂けば判ります。はい、はい、どうぞ宜敷く‥‥‥えゝ、えゝ」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈36〉同・隣室(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子がスカーフを巻き、オーバーを着て、温かくしている。側にマルセル夫人が付添つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          マルセル「(不図気付き)あら、あのお写真を入れるのを忘れてましたよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              書棚の上の、宮村と伸子の並んだ写真を取つて、スーツケースに入れる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                大きな紙箱を抱えた宮村が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「流石は出産奨励のフランスだよ、何もかも揃つているんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    紙箱を開けると、おしめ、肌着、洋服、靴下、その他細々としたものや、赤ん坊の蒲団、毛布まで入つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(覗き込んで)まあ‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「これがおしめ、これが肌着、洋服、靴下まで入つているだろう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「ほんと、心配して色々集めなくてもよかつたんですね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「寝台や乳母車も必要な時は、安く買えるよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「そうですか(軽く咳込む)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「(紙箱の蓋をして)さ、早く行こうか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                マルセル「(宮村に)お産がすんだら、直ぐ知り合いの保姆さんを頼みますからね。気のおけない良い娘さんですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「色々お世話をかけました」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「そんな御心配はいりません」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        三人、荷物を持つて、部屋を出て行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈37〉窓から見えるマロニエ(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          マロニエの伸びた小枝を、鈍い街灯が照らしている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            クリスマイブの教会の鐘が、しきりに鳴り響いている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        〈38〉宮村の一室(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              机の上に、小さなクリスマスツリーが飾つてある。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          〈39〉同・廊下(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                廊下の卓上にもクリスマスツリーが飾つてあり、何本かの色蠟燭に灯がついている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村と、マルセル夫人がその側で立ち話している。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「出産の予定日は一月早々なのですが、伸子の胸の方がどうも思わしくないのです」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「それは困りましたね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「教授は、設備の完全な、親切な医者の経営している託児所へ赤ん坊を預けることだと、二三紹介して下さつたのですが、伸子はどうしても自分で育てると言つて(き(マ)()}んのです」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        マルセル「母親として無理のないことですわ、ではこうしたら如何でしょう、一先づ退院されたら、マダムは、元の部屋で、あなたはこちらの部屋に、赤ちやんは私の部屋の隣りに、壁紙も新しく、消毒もさせて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「そんなにお宅を占領してしまつては」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル「いゝんですよ、私も子供を育てた経験はあるし、昼間は保姆さんがうまくやつてくれるだろうし、何事も神様の思召しと思つて。それに、亡くなつた主人も胸を患つていたんですから、私は病院の看護婦長位いの資格はありますよ(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「(感謝のこもつた眼差しで、マルセル夫人を見詰める)」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            〈40〉窓から見たマロニエ(声)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  深い靄の中に、マロニエの幹と小枝が黒く浮かび出ている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈41〉宮村の一室(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    壁に新しいカレンダーが掛けてある。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      日付は、一月二十日になつている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        扉の外で賑やかな声がして、伸子と、荷物を持つた宮村、それに白ずくめの赤ん坊を抱いた保姆のレイノーと、マルセル夫人が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村、荷物を置くと、保姆から赤ん坊を受取つて、窓辺に抱いて行く。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子、嬉しそうに覗き込んで、後からつゞく。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル「(保姆に)ではあなた、一寸部屋のベツドを見てあげて下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              保姆「はい(スーツケースを持つて、隣室へ入つてゆく)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  マルセル夫人は廊下へ出て行くが、直ぐ消毒液の入つた容器を持つて来て、隣室へ入つてゆく。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「ね、伸子、今日は大使館と巴里の区役所へ出産届を出しに行かなくちやならないが、何としようね、この赤ん坊先生の名を」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(椅子に深くかけ)あら、あなたが考えて下さるものとばかり思つていて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「どうも苦手でね、卑俗な名前ばかりで駄目だ。君に委せるよ(笑つて赤ん坊を覗き込む)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「マリコつて、どうでしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(はつと、歪んだような顔を上げて、伸子を見る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「日本から遠く、万里の地で生れた記念にもなりますし、万里と書いてマリ子と読めばいいし‥‥‥フランス人からは、マリーと呼んで貰える便利もありますもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「それに、青木鞠子さんのように、立派な精神と理智とを兼ね備えた娘になるようにも」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「君は本気で言つているのか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「もしお気持を悪くなすつたのなら、私の言葉が足りないんですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「後で悔いることはなかろうね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「えゝ、生れる前から考えていた名前ですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「万里子、万里子、そう呼ぶだけでも、私まで磨き上げられるようで(につこりする)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「君が本気でそう言うのなら」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  其処へ保姆が来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  保姆「どうぞ奥さん、おやすみになつて下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「そうだ、今日からはよく眠ること、よく休養すること、よく食べ、そして風邪をひかぬことだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「熱も、三十六度の線は絶対に上げぬこと」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村、赤ん坊を保姆に渡す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「その代り、私にも一つお願いがあるの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「何んだね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「お乳がはるから、自分のお乳で育てることを許して頂きたいの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「そんな我儘を言つては困るな」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「これは我儘でなく、母性愛としてのお願い」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「ね、母性愛と言うが、本能的な母の愛情を、理性的な愛情にまで高めないといけないよ。君はもう、君自身ではなくて赤ん坊の母だ。母乳で育てゝ貰いたいとは、僕の持論だが、今は君の体を恢復させることが急務なんだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(顔色を変え)そんなに私の健康はいけないのでしようか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「将来に悔を残さぬ為にだよ、赤ん坊は立派に人工栄養で育てられるから。君は一日も早く健康体になることだ、それが君の赤ん坊に対する義務だよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「えゝ、判りましたわ」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈42〉同・隣室(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル夫人が、スーツケースのものや荷物を、(しま)((ママ))べきところへ片付けている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      マルセル「さ、お手をお洗いになつて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            言われるまゝに、消毒液で手を洗う。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              赤ん坊を抱いた保姆が、開いた扉の外から声をかける。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              保姆「あちらのお部屋が温くしてあるそうですから、赤ちやんはそちらへお連れします」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「もう連れてゆくの?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  保姆「お乳の時間ですから」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「そう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      保姆「(去る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「(入つて来て)じや大使館と区役所へ行つて来るよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「早く帰つて下さいね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「あゝ(マルセル夫人に)じやお願いします」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              マルセル「行つていらつしやい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「(出て行く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(ベツドに腰をかける)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「赤ちやんは、生れた時、三キロ半もあつたそうですね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「えゝ、とても健康児ですよ。初め、病院へ着くと、先生方は私の健康上から、直ぐ手術にかゝるおつもりらしかつたの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        マルセル「(側へ寄つて来る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「でも、月が満ちて、自然に生れるまでお待ち願つたの、胎児は大丈夫保証すると仰有つたけど、万一(きずつ)けたらと、そればつかりが恐しくつて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル「よかつたですね、すべて神様のお恵みですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「本当に、病院では神様にお縋りばかりしていました」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                マルセル「(壁を見て)あすこへ、お掛けして置きましたよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(見ると、壁に聖母マリヤの額がかけてある)まあ、マリヤ様‥‥‥(額を見詰める)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      マリヤの額を次第に拡大して――。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                (深いO・L)



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈43〉同じ部屋(夜)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子がベツドの中で、三冊目のノートを書き綴つている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子の声「万里子よ、この手記も私自身のために書きつけていたが、もう、お前のために書かなければならないような気がする。お前にかける希望以外に、私にはまだ未来が残されているのであろうか‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            ノツクの音。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(驚いて、ノートをベツドの中に隠し)はい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「(入るなり、壁の寒暖計を見て)どう、今夜は?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「とつてもいゝわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「(枕許の体温表を見る)本当? これ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「本当よ、いつも三十六度台ですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「これならいゝね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「ね、一度、万里子を抱いてもいい、手も消毒するし、マスクも掛けるから」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「いゝだろう、抱きなさいよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「うれしいわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「(出て行く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(手を消毒液で洗う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「(万里子を抱いて来る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(マスクを掛けて抱き取る)こんなに大きくなつて‥‥‥あら、笑つてるわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「早いもんだね、もう笑うんだから」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「お乳をやつては駄目かしら」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「伸子、それだけはよしなさい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「えゝ(凝つと万里子に見入る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「君にそつくりだよ、眼も鼻も」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「そうかしら」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「今度は僕も君に教えられたよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「あら、何を?」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「万里子を、君の言う通りの方法で産んでよかつたと思うよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「随分我儘を言つて、貴方を困らせたわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「医者は科学的な処理しか考えないからね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「特にあの病院の先生方は、何事も現在に基礎をおいて仰有るでしょう? 私は、未来を考えて、子供に重点をおくものですから――。先生方のお考えは西洋的で、私のは東洋‥‥‥ねえ、そうでしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「そうだよ、東西二つの理論ありだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「だから、先生方に、一時の昂奮からではなく反対が出来て、よかつたと思つてますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「確かに、あの時も、九ケ月そこそこで出産していたら、万里子はそんなになつてない」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(万里子に頬ずりして)よかつたわねえ万里子‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          万里子、急に泣き出す。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(驚いて)どうしたのでしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「(気付き)おしめだよ、おしめだよ(慌てて抱き取り部屋から連れ出してゆく)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「(淋しそうに、マスクを外して見送る)」



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            〈44〉窓から見えるマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  マロニエの小枝にも、そろそろ青葉の芽がほころびはじめている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈45〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子が、時々咳き込み乍ら、ベツドの中でノートを書いている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子の声「四月二日、万里子よ、巴里で迎える二度目の春が来たと言うのに、悲しや、母さんは今朝も喀痰に赤いものが混つている。熱も七度四分、宮村が安心するように、六度台の熱線ばかり書いてもいられなくなつた。宮村は既にそれを知つているのであろうか、今朝も研究室へ出掛ける時に『人間の最も不幸な病気をなくすためには、患者の一人ひとりが殉教者になつたつもりで、生活をかけて闘う覚悟がいる』と言つた。親子三人、ともに暮し乍ら、まるで他人のように部屋をわかれているのも、宮村は『忍耐の中にのみ幸福がある』と言う。私は宮村の高さまで、自分を高められるのはいつの日であろうか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子は尚も書きつづける。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子の声「万里子よ、私は、愛情というものが自然に発生するのではなく、創るものだと言うことを、つい先頃発見した。母と子の愛情さえ、苦しんで創るもの、まして夫婦の愛情は、生涯精進して最後に授けられるものであると言うことに気がついた」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            尚も、ノートの上を走る伸子のペン先――。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子の声「私はお前にはかけがえのない母である。その母の愛情が、太陽の光のようにお前に必要な時であるのに――。早く健康を取り戻して、病気の感染の心配がなくなつた時‥‥‥(激しく咳き込む)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子、ハンカチで口を拭う。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  白いハンカチを赤く染めているようである。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子、書くのを止めて、静かに眼をつむり、仰向きに寝る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「(呟くように)神様、せめて子供をつれて、日本へ帰る日まで、私をお召しになりませんように‥‥‥万里子のためにも、宮村のためにも、私は、どんな辛い闘病生活でも耐えぬきます。神様、どうぞそれまで、お恵み下さい‥‥‥(眼に光るものがある)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        それを見(おろ)すかの如く、聖母マリヤの額。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    〈46〉窓から見たマロニエ(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          マロニエの葉が、黒く、樹々一杯に繁り、夏の陽射しがぎらぎらと照りつけている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            七月十四日、フランス革命記念日、巴里祭の当日――。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              向いの建物の窓には、色紐や金銀のモール、三色旗などが飾り立てゝあり、近くの森の広場に急造したメリーゴーラウンドから、絶えず音楽や子供の声が流れている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                それをかき消すように、街角に出来た屋台の音楽隊のジヤズが炸裂叫騒する。かと思えば、古風なワルツのアコーデイオンが波のようにうねりを伝えて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  窓下の鋪道の靴音しきり、すでに町をあげて巴里祭は始つている。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              〈47〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子はベツドの中で寝ている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      静かに扉を開けて宮村が入つて来て、伸子の寝息をうかがい、そのまゝ足音を忍ばせて出て行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈48〉同・一室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        隣室から出て来た宮村、窓辺によつて外を眺める。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          万里子を抱いた保姆が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「(ふり返えり)万里子は、あれから少しは眠りましたか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            保姆「いゝえ、表の音楽に合わせて、手足をばたばたさせて、笑つていらつしやいます」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「七月十四日、万里子には初めての巴里祭だ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                保姆「不思議なお祭でしよう、何を誰に言おうとおかまいなしの日なんですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「伝統的な風流とでも言うのかな」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    保姆「本当に若い者にとつては出会がしらの巴里ですの、恋の巴里とも言うんですつて(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「町は楽しそうだな」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        保姆「誰とでも一日中踊り歩くんですもの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「避暑に行けず、巴里に居残つたやけも手伝うのかな(笑う)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            保姆「(笑つて)そうかも知れませんわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「お母さんはよくやすんでいるから、玄関まで降りて、万里子に表の騒ぎを見せてやりましようか」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                保姆「はい、そうですね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    二人、万里子を覗き込み乍ら部屋を出て行く。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                〈49〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      寝ている伸子、夢でも見ているのか、(うな)されている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「‥‥‥あら、誰か、万里子の首に、虫が、虫が‥‥‥早く、誰か、取つてやつて‥‥‥(蒲団をはねて、起き上る)あなた、あなた、万里   子に大きな虫が‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          ベツドから降り、跣のまゝふらふらと部屋を出て行く。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      〈50〉同・廊下(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「万里子、万里子‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            壁伝いに来て、部屋の扉の把手に手をかけるが、廻すだけの気力もないのか、そのまゝ其処に倒れてしまう。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              物音に、マルセル夫人が出て来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              マルセル「(驚いて)どうしたのですマダム、しつかりして下さい。しつかりして‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「(ぐつたりとしている)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    階段を昇る足音がして、入口から宮村が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「(驚き)どうかしましたか(側へ駈け寄る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈51〉同・隣室(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         伸子を抱えた宮村、ベツドに寝かせ、急いで手を消毒すると、机の抽出しから聴診器を取り出し、胸を開けて診察する。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          扉の側に、マルセル夫人が案じ気に立つていたが、水枕を取りにゆく。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村、注射器を出し、薬を取つて、伸子の腕に注射する。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              そして、眼を調らべ、脈をとり、足の爪を調らべる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              マルセル「(水枕を変え)如何です」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「(額に手を当てたまゝ)大丈夫のようです(凝つと伸子を見守る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(やゝして眼を開く)あら、あなたですの、綺麗な花畑にいましたの、沈丁花が一杯咲いてゝ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「夢を見てたんだろう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(あたりを見て)今日は巴里祭ですのね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「外は賑やかだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「そうでしようね。あなた、見て来て下さい」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「僕はいゝよ、去年見たから」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「でも、病人の側ばかりにいては退屈でしよう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「馬鹿な、僕がいたいのは君の側だよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「(凝つと見て)うれしいわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「少しやすみなさい。部屋を暗くするから(カーテンを引きに行く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「いゝのよ、そのまゝで、とても気分がいゝんですもの。ねえ‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「何んだよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「あなたにお願いがありますの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「なんでもきいてあげるよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮子「これね‥‥‥(枕許から、白いリボンを十字にかけた三冊のノートを取り出す)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「‥‥‥(覗きこむ)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「これを、万里子が結婚するような年令になつたら渡して下さい。あなたがお読みになつては嫌ですよ。いろんなことを、何もかも偽らずに、正直に書きましたの‥‥‥あなた、読まないと約束して」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    宮村「いゝとも、然し、そんなことを僕に頼むのは、まだ早いだろう」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「いゝえ、さつきも、神様のお使いが、私をお召しに来ていらつしやいました〕

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        宮村「‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「あなたに無理ばかり言つて、何一つお酬いすることも出来ず、悪い妻でしたわね。それが一番つらい‥‥‥(泣く)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            宮村「(伸子の手を執り)そんなことを伸子、言うもんじやないよ(涙ぐむ)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「でも私は倖せでした、貴方のような方を主人に持てゝ‥‥‥万里子も倖せですわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「伸子、諦めてはいけないよ、最後の最後の時まで頑張るんだ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「えゝ、でも、その時が遂々(とうとう)来ました」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      また一段と、戸外の音楽が高くなる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        花火の音――。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「あら、花火が‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          宮村「去年も、セーヌの畔りで見た花火は、夜空を一面に彩つて、綺麗だつたね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            伸子「(につこりする)あなた」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              宮村「何んだね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「あなたの研究論文は、もう発表になりましたの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「うん、もうじき、フランスとドイツの医学雑誌に出るよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「よかつたわ(手を出す)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「有難う(手を握る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          其処へ、マルセル夫人が知らせたのか、万里子を抱いた保姆が入つて来る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(見て)あら万里子‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            保姆「(万里子に顔を見せて)ほらお母様ですよ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「マドモアゼル、レイノー、あなたには、いろいろお世話になつて」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                保姆「あら、ちつとも行届きませんのに」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「お礼の申しようもありませんわ(枕許の小箱から真珠のブローチを出して)これ、記念に貰つて下さいな(渡す)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    保姆「まあ、私に‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「万里子が日本に帰つても、文通して、いつまでも見守つてやつてほしいの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        保姆「えゝ、きつといたしますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「お願いね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            保姆「えゝ(涙を浮かべる)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「それからマルセルの小母様‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                マルセル「(側に寄る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「こんなに可愛がつていたゞいたのに、私、もういけないの」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    マルセル「マダム、そんな気の弱いことで‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「御恩は忘れませんわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        マルセル「(ハンカチで顔をおゝう)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「(枕許の小箱から、ダイヤの指輪のサツクを出して見せ)これ、私達の結婚記念の指輪ですの、私だと思つて頂けたら嬉しいわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            マルセル「まあ、マダム‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              伸子「私、宮村と巴里へ着いた時、何て魅惑的な都会でしよう、こんな美しいところで死ぬことが出来たらと、不図思つたことがありますの、しかも巴里祭の日に‥‥‥満足して死んでいつたと思つて下さいね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                宮村「(思わず)伸子‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  伸子「あなた‥‥‥万里子をお願しますわ」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    保姆「(万里子を近ずける)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      伸子「(小さな可愛いゝ手を握りしめる)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        万里子「(ベソをかく)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          伸子「まあ、そんな顔をして‥‥‥大きくなつたら、私の手記を読んで、母さんを偲んで頂戴ね」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              また花火の音がして、戸外の音楽がひとしきり高まる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                一同、声もなく、伸子を見守る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                伸子「あなた‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  宮村「(手を握る)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    伸子「‥‥‥さようなら」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      宮村「伸子、僕は医者であり乍ら、君を救うことが出来なかつたとは‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        伸子「(首を横にふつて、静かに眼を閉じる)」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            一同、ハンカチで口を押えて見守る。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              巴里祭の音楽、ますます高潮。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                壁のマリヤの額が、レースのカーテン越しに、西陽を受けて神々しい。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            〈52〉石沢の書斉(朝)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  既に、卓上のスタンドは消えている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    石沢、三冊のノートの手記を読み終り、頁を閉じる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      そして、立上ると窓を開け、朝の外気を胸一杯に吸う。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  〈53〉築城の新居(昼)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        廊下の電話に、新婚旅行から帰つたばかりの万里子が出ている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        万里子「‥‥‥石沢先生、私は母が巴里で亡くなつたことは、いつ知つたのか記憶がございませんの。でも、子供の時から、実母は遠い国にいるとぼんやり感じていたようですわ。お渡し下さいました母の手記、えゝ、全部読みました。御自分の亡い後は、青木鞠子さん、現在の野川鞠子さんを頼れと、せつなく書いてありますが、只今の私の母は、父にとりましても、あの遺書の中の鞠子さんのようで、婦人としても立派でございますから、私は只今の母を、継母だと感じたことは一度もございませんの。でも母が、巴里で私のことをあれ程までに案じ、闘病されていたことは勿体なくて、有難いことだと思います。でも、先生、人はそれぞれ、その時代と共に成長して行くものなんですわね。母の時代、私の時代、そしてこれからの時代‥‥‥」

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            万里子の声は尚もつづくが、終りの音楽が高まり、電話する万里子の声を全く消してしまう。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    (終) 1962.2.23



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            This page was created on 2016/04/11

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            背景色の色

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                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            • 標準モード

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            高野 悦子

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            タカノ エツコ
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            たかの えつこ 岩波ホール総支配人、エッセイスト。1929年5月29日~2013年2月9日。旧満洲(現中国東北部)生まれ。1968年、岩波ホール創立と同時に総支配人に就任。1985年より東京国際女性映画祭ジェネラルプロデューサーを務めている。2004年、文化功労者。主な著書は「シネマ人間紀行」、「黒龍江への旅」、「母―老いに負けなかった人生」など。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            掲載作は芹沢光治良原作で、1962(昭和37)年、エコー社より刊行。なお、文中に差別的な言葉があるが、歴史的な作品であるのでそのままとした。