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私のシネマ宣言 映像が女性で輝くとき~人生の転機に立つ〜(抄)

 第一回東京国際映画祭は一九八五年の五月末に行なわれたが、国際映画祭として、その歴史と規模において世界一を誇るのはカンヌ国際映画祭である。そのカンヌ映画祭が毎年、五月中旬に行なわれているのと重複を避けるためにか、第二回東京映画祭の期間は初夏から初秋へと移され、八七年九月末に開催が決まった。この第一回から第二回までの約二年半は、私にとって大きな転換期ともいうべき歳月だった。人生を変えるような出来事がつぎつぎに起きたのである。

 私の父高野與作は、一九八一年六月十四日、腹部大動脈瘤破裂のため八十二歳で死んだ。とつぜんの父の死を私はなんの心の準備もないままに迎えた。私の若いころ、父は出張が多くいつも留守だったし、父が家でのんびり過ごすころになると、今度は私が外国留学や仕事で留守がちになった。私は父とゆっくり話しあった記憶がない。

 それでも岩波ホールの運営について、ときどき父の意見を聞いた。「いくらよい仕事をしても赤字ばかりでは仕方がない。五円でもよいから黒字にする努力が必要だ」と言った父のことばはいつも頭に残っていて、六年目にわずかながら岩波ホールが黒字になったときは、ほんとうにうれしかった。

 もっと父のことを知りたいと願うようになった矢先の父の急死である。葬儀のとき、私は父の友人の弔辞で、父が私の想像以上に立派な仕事をした人間であることを知った。住職がつけた父の戒名は「黒龍院釋作城居士」である。これは戦前から敗戦まで、旧満州の鉄道建設に従事していた父が、黒龍江の岸辺、黒河に鉄道が達したとき、まるで荒野に城を築いたようにうれしかったと話していたからだという。

 私はなにげなく聞きながしていた父の話を急に思い出した。

「敗戦直後、関東軍司令官から、水豊ダム、鞍山の製鋼所、撫順炭鉱や重要鉄道施設の爆破、鉄道関係図面の焼却が命令されたが、それを阻止した。たとえ死んでもそんなことはやるべきではない。エンジニアは建設するもので、決して破壊をしてはならない」

 父の青春のすべては、満州の鉄道づくりに捧げられたのだ。その鉄道に乗って黒龍江のほとり、黒河の地に立ってみたい、父が一生でいちばんうれしく感じた場所に、私も立ってみたい。こうした思いに私はとりつかれてしまった。

 黒河は中国とソ連の国境の町、日本人は近寄ることのできない場所である。それでも黒河の土を踏み、父を弔いたいという私の心に芽生えた夢を、私は断ち切ることができなかった。ところが、その夢が四年後に実現した。私と長姉岩波淳子に黒龍江省から招待状が届いたのである。私たちが希望した行程、大連から大石橋、瀋陽、撫順、吉林、ハルビン、チチハルを経て黒河までの六千キロを、父が建設した鉄道に乗って旅をしてもよい、しかも、旧知のハルビン医科大学名誉校長于維漢先生が、全行程を案内してくださるという願ってもない好条件だった。

 一九八五年六月九日、第一回東京映画祭が無事に終わり、私は二週間ぶりに帰宅した。国際女性映画週間の予想以上の成功に私は満足だった。しかし、そのすばらしい余韻を味わっている暇もない。私はあわてて中国行きの支度にとりかかった。五日後の六月十四日、父の四回目の命日を済ませると、私は中国民航で成田から北京へと向かった。いま、生まれ育った中国東北地方へと旅立つ。この思いは私を異常なまでに興奮させた。

 中国旅行は万事順調だった。七月七日、念願の黒河の地に立った姉と私は、野で摘んだ花束に父の好物だった菊正宗をたっぷりかけて河に流し、父の死を弔った。すっかり満ちたりた気分になった私は、さあ、これからもっとがんばろうと決意して帰国したのだが、そんな私に新潮社の大門武二氏が、この中国旅行をまとめた『黒龍江への旅』という本を書くようにと勧めてくださった。

 それはごく簡単な作業のように思われた。私の胸のなかには書きたいことが山のようにあったし、資料も充分すぎるほどそろっていた。しかし、筆をとり原稿にとりかかった矢先の九月末、母が病に倒れたのである。

 心臓発作ではないか。私は救急車で日本医科大学付属病院の集中治療室に母をかつぎこんだ。幸い心臓発作ではなかったが、三日後に胆嚢炎と診断された。小指大の石が動いて胆道が詰まったのだという。この九十年間、胆嚢に石があるなど夢にも思わなかったと母は言う。若ければ簡単に手術ができるが、私は、母に痛い思いをさせたくない。ただただ薬で治ることを祈る毎日だった。本を書こうという気持ちは吹き飛んでいた。いちばんに読んでもらいたい母が危篤なのである。

 無事、胆嚢炎を散らして、母が集中治療室から老人科の病室に移ったのは、入院して十五日目だった。だが、ほっとする間もなく背中に床ずれのようなものができた。一大事とばかり、私は母の背中をさすったりたたいたりした。それがヘルペスであることがわかったのは一週間後である。右胸から背中にかけて帯状ヘルペスができたのだ。ヘルペスはとても痛いという。それをたたかれながら、母は一度も「痛い」とは言わなかった。

 ヘルペスは命に別条ない。でも、治るのに一カ月はかかるという医師のことばに、私たち家族は「がんばってね」と身動きのできない母をただ励ますばかりだった。しかし、食欲を失った母はみるみるうちにやせていった。それでもがんばり通せたのは、母が立派な体格をしていたからであろう。母の身長からすると五十二キロぐらいが標準のようだが、母の体重はそれより二十キロもオーバーしていた。だが、古くからの主治医の武見太郎先生は、「あなたは若いころから太っていた。人間だれでも最後には自分の肉を食べて生きのびるのだから、無理なダイエットはしないほうがよい」とよく母に言っていた。武見先生の言われた通り、母は自分の体で生きのびた。二カ月後に退院したとき、母は五十キロ台の体重になっていた。

 一命をとりとめた母の帰宅を私は喜ぶべきだが、絶対安静が続いたせいか、母は手洗いにも立てない完全な寝たきり老人になっていた。リハビリのために養護施設に母を入れるか、自宅療養にするかの二者択一を迫られたとき、私は迷わず自宅療養を選んだ。二十四時間の看護のため、家政婦さんにも来てもらった。しかし、老人問題は女性問題といわれるように、私には母の看護と仕事の両立がつらかった。妻や娘、あるいはお嫁さんがいたらどんなに助かるだろうと、つくづくまわりの男性がうらやましかった。

 百円と百万円を間違えるようになったらおしまいだ、九十歳なのだから静かに寝かせてあげたら、と言う人もいた。だが母は、入院までは家をとりしきっていたのだ。私には諦めがつかなかった。

 また、歩けなくなった、起きてご飯が食べられなくなった、と問題はいろいろあるが、いちばん困ったのは、病院でおむつを使っていたために、おむつなしの生活ができなくなったことである。明治生まれの女性は、とりわけそういうことにこだわる。誇り高い母にとっておむつは致命的だと思うのだが、それも私にはどうすることもできない。

 私は出勤前、眠っている母を起こしていちいち注文をつけ、夜中に帰宅するとまた眠っている母をゆり起こし、医者や家政婦のことばを言って聞かせた。「お母さま、ぼけないで」と叫びながら、私は悲しくて涙をこぼした。しかし母は頑固におし黙り、白い目で私を見上げるばかりだった。

 母の病気で困っていたちょうどそのころ、私は羽田澄子監督の「痴呆性老人の世界」(八六)を見た。それはいわゆるボケ老人を収容する病院のドキュメンタリー映画だが、そこにはいろいろな症状の老人たちが出てくる。もうぼけてしまったと思われていた老女たちが、家族や周囲の人々の深い理解や愛情で記憶を取り戻す一方、ぼけたぼけたといわれることによってさらに病状が悪化する。そんな様子を見事にとらえた作品だった。

 耳が遠くなったために会話がわからず、それが痴呆だと誤解されてしまうこと、記憶が薄れるのは現在であって、過去は鮮明に残っていること、またその鮮明な過去から、現在の忘れられた記憶がよみがえることがある。つまり一見ぼけて何もわからなくなっているように見えても、いきいきとした豊かな感情は残っているのだから、老人たちの人間としての尊厳を大切にしなければならないことを私は学んだのである。画面にはっきり映し出された・説得より納得・という文字に私ははっとした。

 私が今まで一生懸命やってきたことはなんだったのか。医師、看護婦、家政婦、手伝いと、母の面倒をみてくれる人たちの意見をそのままに、母を説得ばかりしていた。朝早く、夜遅く、眠っている母を無理やり起こしては、まわりの人が私に訴えたことばかりをくり返し母に言っていたのである。ああしてはだめ、こうしてはだめ、ああしなさい、こうしなさいと。

 母は私のことばに一度も納得したことがないのではないか。私は一度も母の意見や希望を聞いたことがなかったのではないか。たいへんなことをしていた。母の気持ちを私はゆっくりと聞かなければならない。・説得より納得・という文字は、私の心に深く刻みついた。

 その翌日から私は母との付きあい方を変えた。仕事はなるべく自宅でできるように岩波ホールのスタッフの人たちに都合してもらい、母の看病は私が自分でするようにした。母とゆっくり話しあい、母のペースに合わせて母の望むことを知ろうとした。私の言うことがわからないときは、紙に書いた。はじめ母は足腰が痛いといって体を動かしたがらなかった。私が体にさわるのもいやがった。しかし、私は「ごめんなさい」と謝りながら、母の手足をさすることから始めた。そして次第に背中や腰をさすった。食事も私がつくった。母はなかなか口を開けてくれなかったが、「私が一生懸命つくりましたから、まずいでしょうけれど食べてください」とくり返し頼んだ。半日頼んでいたら、母は「食べてあげる」と言って口を開けた。

 次は、熱い湯で絞ったタオルで体を拭くことに成功した。大病でやせたとはいえ、母の体は九十歳の老人とは思えぬほど肉づきがよく、色白で美しかった。しかし、その背骨は折れ曲がり、骨の一部が直角にとび出ていた。

 私は、子どものころ住んでいた大連のことを思い出した。生後間もない私を抱いた母は、人力車の事故で車からほうり出されたとき、私をかばうために背骨を傷めた。それをカリエスと医師に誤診され、長い期間ギプス生活を強要されて、母の腰はすっかり曲がってしまった。若いころはそれでも不自由はなかったが、七十歳を過ぎると、後遺症で歩けなくなった。こんな体で母は長いあいだ、私の帰りを明け方まで待ち、私の面倒をみてくれていたのだ。私の身代わりになって健康を失った母の、こんなおそろしい状態を少しも知らなかった私、痛がる母をどなっていた私、私は心から母に対して申しわけなく思った。今度は私が母のために働く番である。「かわいそうに、痛いでしょう」と私はとび出した腰の骨をそっと拭いた。母がやっと口をきいた。「少しも痛くありません」

 驚いたことに一週間もすると、母は起き上がって自分で用をたし、食事もとるようになった。私が心を入れかえただけで、母は元気になった。

 ある日、岩波ホールから帰った私は、家政婦さんからこんな報告を受けた。母がベッドのまわりをはいずってリハビリに励んでいたというのである。「私が死ぬと悦子が一人になってかわいそうだ」と言いながら。

 私はこのことばを聞いてまた目がさめた。父が死に、母が病に倒れたから、私はがんばろうと思った。しかし、私の体からは「お母さまのためにがんばっているのよ」と、金銭的にもたいへん、肉体的にもたいへんという恩着せがましい匂いがプンプンただよっていたのではないだろうか。病身の母は日ごろから、九十歳まで生きれば何も思い残すことはない、もう父のもとに行ってもよいとよく言っていた。だから、母の生きる理由はただ一つ、一人残される私があわれということだ。老骨に鞭打ってがんばっているのは母のほうだった。それなのに私は少しもそれを理解せず、母をどなったり無視したりしていた。そんな憎らしい娘のために、母が生きる理由も希望もなくしたのは当然である。私はいまさらながら母の強い愛を知り、子を思う親の気持ちがありがたかった。そして、私はこうして母の世話ができることを、神から授かった私の幸運と考えるようになったのである。

 それまで私は、岩波ホールで上映したエキプ・ド・シネマ作品のおかげで、さまざまな勉強をしてきた。世界の国々にたくさんの友だちもできた。それだけでも充分なのに、今度はこうして上映作品によって母を助け、私自身も幸福になることになったのである。

「痴呆性老人の世界」は一九八六年五月に岩波ホールで封切られ、大きな反響を呼んだ。いまでも貴重な老人問題の映画として、全国的にくり返し上映されている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/01/29

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高野 悦子

タカノ エツコ
たかの えつこ 岩波ホール総支配人、エッセイスト。1929年5月29日~2013年2月9日。旧満洲(現中国東北部)生まれ。1968年、岩波ホール創立と同時に総支配人に就任。1985年より東京国際女性映画祭ジェネラルプロデューサーを務めている。2004年、文化功労者。主な著書は「シネマ人間紀行」、「黒龍江への旅」、「母―老いに負けなかった人生」など。

掲載作は「私のシネマ宣言 映像が女性で輝くとき」(1992年9月朝日新聞社刊)より「人生の転機に立つ」を抄録。

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