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元号に賭ける

 森鷗外が宮内省帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任ぜられたのは、奇しくも大正天皇崩御の日のちょうど九年前、大正六年十二月二十五日だった。前年の五年四月十三日、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長を辞して以来、一年八カ月振りの官職復帰である。

 鷗外が親友の賀古鶴所(かこつるど)とともに山県有朋(やまがたありとも)を囲む歌会「常磐(ときわ)会」の幹事であったこと、山県の信頼が厚かったことはよく知られている。鷗外を帝室博物館総長兼図書頭に推挙したのは山県であった。

 この大正六年 (一九一七年〉は、世界史上では長く記憶にとどめられる事件が起きた年でもあった。ロシア革命が成就し、歴史上はじめて社会主義国家が誕生したのである。二月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー政権が生まれた。四月に帰国したレーニンはボルシェヴィキを率いて、さらにこれを転覆させて十月革命を成功させた。同盟国イギリスの要請をうけたわが国は、翌大正七年一月、居留民保護を口実にウラジオストックに軍艦を派遣。八月二日、政府はシベリア出兵を宣言した。第一次世界大戦が終結したのは、同じ年の十一月十一日。ドイツに革命が起こり社会民主党政権が樹立されたのは休戦三日前である。ロシア革命、帝政ドイツの崩壊と国際情勢は激しく変転した。国内でも七月二十三日に富山県魚津に始まった米騒動が全国に波及し、ロシア革命に刺激された労働争議が頻発していた。

 山県推挙による鷗外の図書頭(ずしょのかみ)就任の時期とのちの『元号考』への傾斜にある脈絡をみることができるのだが、その道筋はおいおい明らかにしていく。

 鷗外は大正六年十月三十日より史伝小説『北条霞亭(ほうじょうかてい)』を、東京日日・大阪毎日新聞で連載しはじめていたが、この連載は十二月二十六日で中断していた。

 鷗外の次女小堀杏奴(あんぬ)は休載の事情について、次のように説明している。

「連載中の一流新聞からおろされ、『帝国文学』という小誌に書き続けるうち、…… 」(『晩年の父』岩波文庫版・昭和五十六年刊)

 朝日の夏目漱石に比べ東京日日・大阪毎日の森鷗外の人気がもうひとつパッとしなかったのは事実である。しかし「東日をおろされた」といい切るよりも、帝室博物館総長兼図書頭就任のため自らの意志で新聞連載をおりた、とみるべきであろう。

『毎日新聞百年史』によると鷗外の史伝ものを連載したのは「朝日の夏目漱石への対抗策であった」とされている。大正五年元旦から『椙原品(すぎのはらしな)』『澀江抽齋(しぶえちゅうさい)』『伊沢蘭軒(らんけん)』、そして最後の『北条霞亭』で中断されるまでまる二年間続いた。

『百年史』には、のち元号誤報事件の主役の一人の東京日日主幹城戸元亮(きどもとすけ)の自叙小伝『碧山人(へきさんじん)』が引用されている。城戸は大正五年当時外事部長事務取扱で、連載小説の発注・継続には発言力があった。

「当初は宣伝も期待も大きかったが、連載すればするほど読者の反響が小さくなってゆき、やがて販売店から猛烈な反対がもち上がってきた。…… 私も内外の不評にはほとほと困ってしまいました。といっても今さら断わるわけにもいかず、そのまま二年に(わた)って掲載をつづけた」 (『碧山人』)

 東京日日としては連載をやめてほしかったが、文豪に対して「やめてほしい」とはいえない。鷗外が自らの意志で新聞連載を中断するのを待つしかなかった。

 なお鷗外は『北条霞亭』の続稿を翌大正七年二月から九年一月まで『帝国文学』に発表してこれを完結させている (ただし『北条霞亭』としては、ここまでとし、つづきは『霞亭生涯の末一年』と題され「アララギ」に発表)

 宮内省図書寮編修官五味均平によると「博士が始めて就任せられた当時は帝諡考(ていしこう)を図書寮に(おい)て編集するや否やが問題となっておったのであるが、就任せらるるや否や直ちに編集することに決定せられた」(「宮内省図書頭としての森博士」『新小説』大正十一年八月号) という。そして、図書頭就任六日目の十二月三十日、親友賀古(あて)に「老ぬれと馬に(むち)うち千里をも走らむとおもふ年立ちにけり(ヽヽヽヽヽ)」と書き送っているところなど、鷗外の積極的な意志の(あらわ)れとみる。

「いうまでもなく帝諡考は歴代の天皇の御神号の出発点を考察せるものであってこれに初めて着手したのは大正八年であった。編修官五人、属二十人という人員をもって、約八カ年間に完成の予定であったが、(つい)に一カ年半の歳月を(けみ)して完成したのである」(五味均平、前出)

帝諡考(ていしこう)』は天皇の(おくりな)についての考証である。明治天皇が正式に元号「明治」を諡号 (実は追号)としたのは、崩御(ほうぎょ)より三週間後の大正元年八月二十一日であった。生存中は今上天皇であり、崩御後三週間は大行天皇(先帝)と呼ばれていた。一世一元の制が敷かれる以前、つまり、明治天皇のひとつ前の孝明天皇は弘化(こうか)三年 (一八四六年)に践祚(せんそ)したが、在位二十年間に元号は弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と七回も代わった。天皇即位(践祚)と改元とは別立てになっていたのである。

 過去に元号を天皇の称号とする一世一元の例は、平安時代前期にみられただけである。『帝室制度史』によると、桓武(かんむ)天皇は延暦天子、平城(へいぜい)天皇は大同帝、嵯峨(さが)天皇は弘仁皇帝などと呼ばれた例がある。

 鷗外のまとめた『帝諡考』は上篇と下篇に分かれている。上篇は「天皇追号ノ種類」「漢風諡」「本朝ノ漢風諡」「国風諡」「諡ノ停廃」「院号及後号」「天皇号」の七項で、諡の分類と沿革の考証である。

『帝諡考』が宮内省図書寮より刊行されたのは大正十年三月だが、鷗外はそれより一年近く前に、すでに次の作業である『元号考』の探究に向かっていた。

 鷗外は大正九年四月二十八日賀古鶴所(かこつるど)宛書簡で、「明治」と「大正」の元号について否定的な見解を開陳するようになる。

「明治は支那の大理と云ふ国の年号にあり(もつとも)これは一作明統〈=一明統〉とあるゆゑ明治ではなかつたかも知れず、大正は安南人の立てた(えつ)といふ国の年号にあり又何も御幣(ごへい)をかつぐには及ばねど支那にては大いに正の字の年号を(きらひ)(さうらう)。『一而(イツニシテ)止ル』と申候。正の字をつけ滅びた例を一々挙げて居候。不調べの(いたり)と存候」(原文に句読点なし、仮名遣い片カナ、以下同じ)

「不調べの至と存候」と鷗外が吐き()てるように書きつけてから病床に()すまでの期間は決して長くない。

 大正十一年五月二十六日、死期を予感した鷗外は、賀古宛書簡でこう書いた。

「女、酒、烟草(たばこ)、宴会、皆絶対にやめてゐる。此上(このうへ)は役を退くこと(=略記号で再現できない)より外ない。しかしこれは僕の目下やつてゐる最大著述(中外元号考)に連繋してゐる。これをやめて一年長く呼吸してゐると、やめずに一年早く此世をおいとま申すとどつちがいいか考物(かんがへもの)である。又僕の命が著述気分をすてて延びるかどうか疑問である」

 私はこの「最大著述」という言葉に誇張はないと思っている。なぜ鷗外は『元号考』を「最大著述」と敢えていうか。敢えていうことの意味は、後に詳述するつもりである。いまはもう少し、鷗外の『元号考』に対する真剣味を、周囲の眼から語らせたい。弟子の一人であった小島政二郎は鷗外の「鬼気人に迫る」姿をこう描いている。

萎縮腎(ゐしゆくじん)()かると尿意を催すことが頻繁で寝たら最後朝まで熟睡してゐた先生も病ひには勝てず、この頃は夜半に目が醒める。

『目が醒めたのを幸ひ、そのまま起きて〈元号考〉の稿を次ぐことにしてゐる』

 先生はさう言はれた。鬼気人に迫るものがあつた。

『この上、病が進むと、足に浮腫(むくみ)が来る。それが最後だ』

 先生はいつもと同じ表情、同じ口調でそんなことを言はれた。いつもと同じと言つても、病気で顔が荒れてゐる。そのせゐで凄みが添つたのだらう。

 お通夜の晩、図書寮の方が、こんな話をされた。ある朝、図書寮の坂に掛かると、自分よりも十歩ばかり前を、ノロノロとまるで這ふやうにして坂を登つて行く老人がゐる。見ると、右の足を引き()るやうにして前に出し、次に左の足を同じやうに引き摩るやうにして前ヘ出す。気息(きそく)奄々(えんえん)といふ言葉を絵にしたら、こんなだらうと思ひながら、(たちま)ちその老人を追ひ抜かうとしてフトみると、何と、それが先生だつたといふのである。足に浮腫が来たのだ」(「森鷗外」『小島政二郎全集』第三巻)

 次の帝室博物館編修官神谷初之助の追悼文も、鷗外の強い執念を伝えている。

「先生は毎日サアベル軍服で月水金の日にやって来られる。その他の日は図書寮に行かれるのだが、毎日欠かさず、朝早くから夜皆が帰るまで居られるのには職員は弱らせられた。…… 最後に役所を引込まれた時には、もう非常に悪いのであって、普通の人間なら三カ月も四カ月も前から休んで居ったものであろう、晩年元号考の著作に従事せられて居ったが、『君、(これ)が僕の最後の仕事かもしれない』と云って居られたのを見ると余程自分でも弱くなったことを覚られて居ったようで、此業さえ半ばにして、去られたことは誠に残念である」(「帝室博物館長としての森先生」『新小説』大正十一年八月号)

 ところが、鷗外の研究家にとって『帝諡考』『元号考』の占める位置は極めて低い。

「鷗外の情熱は最後には考証学に傾注されたと断定する外ない」(岡崎義恵『鷗外と諦念』)とか「清澗{せいかん}の地にふさわしい純考証的な仕事」(唐木順三『鷗外の精神』)という評価に落ち着く。あるいは、こういうずるい言い回しに苦笑するのである。「この二書によって我々の感ずる興味の最たるものは、考証学者としての面目もさる事ながら、彼が一生の大文豪たり得た基礎工作の一面、漢籍方面の根本をそのまま展示して呉れたという事である」(瀧田貞治『修訂・鷗外書誌』)『元号考』は未完の稿本なので、『帝諡考』上篇にあたる部分がない。「大化」から「明治」「大正」までの二百四十余の元号の出典及び改元理由のただ(おびただ)しい文献的事実が列挙されているのみ。しかし、この『元号考』は未完でところどころ出典や改元理由が欠落しているが辞典の機能を十分に発揮できるものである。

 たとえば明治という元号は、江戸時代に限っても八回も候補に挙がっているが、採用されなかった、ということまで明らかにされている。

 死期が迫っていた鷗外が病床に就くのは大正十一年六月十五日である。はじめて額田晉(ぬかたすすむ)の診療を受けたのが六月二十九日、その日まで鷗外は自ら日記を書いていた。が、三十日以降、吉田増蔵に代筆させた。全日記を収録した『森鷗外全集』第三十五巻では、「二十九日。木。第十五日。額田晉診予。」の次に〔以下吉田増蔵氏代筆〕と一行挿入されている。「第十五日」というのは、出勤できなくなった日数のことで、日記の最後、七月五日の項は「五日。水。第二十一日……」となっている。

 ここに登場する吉田増蔵という人物は、鷗外とどういう関係にあるのだろう。遺言を筆記した賀古鶴所は、鷗外にとって「少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友」だったが、日記の代筆を頼まれた吉田増蔵にも、それなりのいわく因縁があるはずである。ところが、吉田が漢学者で宮内省編修官であったこと以外、鷗外研究の諸家はいずれも無関心なのである。人名辞典を調べてみたが、『漢学者総覧』(長沢規矩也監修) にようやく名前だけ掲載されていたが、それも経歴欄は空欄なのである。

 昭和十五年十二月一日付の中外商業新報の「園公墓誌銘の撰文者決る」という記事で、ようやくその名前をみつけた。

「……なお、西園寺(さいおんじ)公の経歴を万代の後に遺す墓誌銘については国葬委員の間で慎重選定中であったが、その銘は宮内省御用掛吉田増蔵氏に委嘱、目下氏が五、六百の字句を漢文として撰文中であり、書は内閣嘱託村田義雄氏を内定した」

 

 最後の元老といわれた西園寺公望(きんもち)の死にあたって、その墓誌銘を書くということに、吉田増蔵の特殊な立場の証明をみるほかはない。宮内庁人事課所蔵の『転免物故歴』を閲覧して、「本貫族籍・福岡県平民 勲位・正六位 生年月日・慶応二年十一月二十三日」で「明治四十二年、京都帝大支那哲学修業」、奈良女高師教授などを歴任、大正九年に宮内省図書寮編修官に任ぜられている、などの経歴はつかめた。鷗外が『元号考』に取り組んだ時期と、吉田が図書寮にきた時期が一致している。

 これが偶然の一致ではないと思われるのは、病床の鷗外が吉田に日記を代筆してもらう少し前、六月二十日の項に、留意しておきたい記述がある点だ。

「二十日。火。晴。第六日。呼吉田増蔵託事。五味均平至。佐田久太郎去。餽金(ききん)百円。」

 吉田に託した事、とはいったいなにか。

 鷗外の死の直後に『明星』(大正十一年九月号)は「森林太郎先生哀慕篇」と題した特集を組んだ。そのなかに「森先生に就いて」という吉田増蔵の一文がある。

「小生の先生を識りしは大正七年の冬にて先生に親炙(しんしゃ)せる時期極めて短かりしも、九年十月に図書寮に奉職してより、毎週火木土の三日は午餐の卓を共にし、先生の結論を聞くを得たるのみならず、下僚として時々調査物など申付られ、意見を交うる事もあり、殊に先生の易簀(えきさく)の二十日前より委嘱せられしことありて先生の邸中に起臥せる関係もあり、旁々(かたがた)先生晩年に於ける思想の一斑を窺うことを得申し候」

 この「易簀の二十日前より委嘱せられしこと」が六月二十日の「吉田増蔵託事」にあたる。易簀つまり鷗外が死去したのは七月九日午前七時だからである。

 十四年後の昭和十一年、吉田は再び鷗外の追悼を書いた。『文学』(昭和十一年六月号) の「特集鷗外研究」に寄せたものだが、鷗外の吉田に対する信頼はかなりのものだったことがわかる。いままで遺言といえば親友賀古鶴所宛のものしか知られていない。が、吉田宛にも遺言がなされていたことがここで初めて明らかにされた。

「其の病没せらるる数日前に自ら筆を執ることが出来ないので、夫人に口授して書かしめられた私に対しての遺言状がある。私は先生の没後に其の遺言を一見して先生の高誼(こうぎ)を感謝した。遺言中には和漢の漢籍数千巻の書目の(あらまし)を挙げ、終りに此の書籍は余が死したらば之を吉田増蔵に贈るべし。吉田君の外善く之を用うるものなく云々の旨が記されてあった。……遺書の寄贈は之を辞退することになったが、先生の期待は何とか之に()いたいと毎日祈念していた。…… 私は(かね)て先生の企望もあったので、病妻の没後四十九日仏事を終えてから(吉田の二度目の妻サキの死亡日は大正十一年五月六日である)先生の(めい)に従い先生の宅に寄寓し、先生の口述せらるる家系其の他伝記の材料たるべき事項を筆録し、又先生が(いよいよ)筆を執ることが出来なくなられてから終焉(しゅうえん)の日まで先生の命により先生の日記をも書き継いだ。先生の没せらるるに及んで先生が私のことを諸方面に吹嘘(すいきょ)して下さったことが追々と分かって来て、不肖の私にも()くも深き同情を(そそ)がれたのに私は其の当時それとも知らずに居ったことが、今更先生に対して相済まぬ次第であったと後悔の(ほぞ)()むばかりであった」

 吉田が「先生を識りしは大正七年の冬」であったが、翌八年三月二十七日の鷗外の日記に「吉田増蔵再至。出詩歌稿似我。知其号学軒。」とある。吉田は号を学軒と称したが、そのことを鷗外が初めて知るのは、吉田の漢詩をみてからだったことが、この記述からわかる。注目すべきは「出詩歌稿似我」である。残念ながら、この漢詩の内容を知ることはできないが、鷗外は吉田に自分と似た何かを感じていたにちがいない。

『帝諡考』『元号考』が収録されている『森鷗外全集』第二十巻 ( 岩波書店、昭和四十八年刊 ) の後記には「旧版全集に與謝野寛(よさのひろし)氏が書かれた編纂者の言葉」として『元号考』と吉田増蔵の関係について触れられている。その旧版全集に載せられた與謝野寛の解説を次に引く。

(元号考を)(ここ)に採録したるは、先生の遺嘱と我々の懇請とに()り、図書寮の吉田増蔵先生が非常なる努力を(もっ)て未成の三分を補修せられたるものである。されば正に先生と吉田先生との共撰と称すべきであるが、謙遜なる吉田先生は之を(がえん)ぜられないから、一言この事を附記して我々編者の感謝を表して置く。なお吉田先生は、『帝諡考』、『元号考』両篇の(いず)れに就いても、公余の時の乏しいため、多くの史料を(ことごと)く渉猟するに至らず、従って故先生の遺嘱に対し自ら満足するだけの完成を遂げ得なかった事を遺憾とする旨、茲に附記する事を求められた」

 鷗外が吉田に託した事とは未完の『元号考』を完成させることだったとみて間違いない。吉田はさすがに鷗外ではないから総括的な意味を記す『帝諡考』の上篇にあたる部分は書くことができなかったのだ。

 しかし、果たしてそれだけだろうか。

 吉田に託した最も肝腎なこと、それは次代の元号を選定することではなかったか。

 

 新元号「昭和」を諮詢(しじゆん)した枢密院全員審査委員会および本会議は、大正十五年十二月二十五日の午前六時四十五分から九時二十五分まで二時間四十分もかかった。

 外で待つ記者らには異常に手間取っているという印象を与えた。「光文」を急遽(きゅうきょ)「昭和」に替えたため、と信じるものはこの長さもひとつの傍証とした。

 ではその間いったい、何を審議していたのだろうか。時の首相若槻(わかつき)礼次郎の『古風庵回顧録』には、枢密院議長倉富勇三郎が「上治」という元号を提案したことになっていた。

 しかし、別の元号がこの段階で浮上することがありうるのだろうか。同様に「光文」を「昭和」に急遽、差し替えることなど可能なのだろうか。

 そのいずれもが不可能なことは、新元号が一定の準備期間を費やして選定されてきた経過をみるとわかるのだ。『昭和大礼記録』という本がある。縦横一メートルほどの桐箱に、四十一巻仕立(したて)で納められている。大正天皇崩御にともなって、元号を決めたり、即位の式典である大典などの公式行事記録である。しかし、この本は特別の許可がない限り閲覧できない。原本をみることが出来なかったが、元号選定の過程については、国立公文書館専門員石渡隆之の論文「公的記録上の『昭和』」(国立公文書館「北の丸」七号)に引用されているので、それを利用する。

『昭和大礼記録』(第一冊)には、元号選定の第一段階として、一木喜徳郎(いちききとくろう)宮内大臣(くないだいじん)の次の発言が収録されている。

「不幸にして万一不可諱(ふかき)に遭遇し、急遽の際、元号勘進のごとき重大なる事項において、いやしくも失態を(きた)すがごときことあらむか。誠に恐懼(きょうく)(いたり)なるをもって、政府においても、もとよりその用意あるべしといえども、宮内省においてもまたあらかじめ之が準備を整え、(ばん)遺漏無きを期せざるべからず」

 一木宮内大臣は新元号を政府にだけ任せておくのではなく、宮内省でも万一の場合に備えて用意しておくべき、と述べた。その結果「図書寮編修官吉田増蔵に内意を授け」た。第一章で触れた「私の秘密」に出演して、元号についての秘密を語ってみせた臨時帝室編修局編修官補中島利一郎ではない。

 

(電子文藝館編輯室注: 本編の収録された『天皇の影法師』初章「天皇崩御の朝に」に中島利一郎のこの箇所に触れた詳しい記事が含まれて、彼が選んだ「光文」元号が事前に新聞に漏洩したため急遽「昭和」と変更された旨の発言内容が、本編著者により否定されている。)

 

 一木宮内大臣は吉田増蔵に「左記の五項の範囲内に於て」元号選定にあたるように命じた。

「一、元号は、本邦はもとより言うを()たず。支那、朝鮮、南詔、交趾(ベトナム)等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号(しごう)、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるものなるべきこと。

 一、元号は、国家の一大理想を表徴するに足るものとなるべきこと。

 一、元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴(がじゅん)にして、その意義は深長なるべきこと。

 一、元号は、称呼上、音階調和を要すべきこと。

 一、元号は、その字面簡単平易なるべきこと」

 一木宮内大臣が掲げたこの五項は「元号とは何か」という正面からの問いを巧みに避けている。しかし元号がもたねばならぬ不可欠な条件をぬかりなく示していた。

 私はここで森鷗外の賀古鶴所宛書簡 (大正九年四月二十八日)を思い出す。

「明治は支那の大理と云ふ国の年号にあり(もつとも)これは一作明統〈=一明統〉とあるゆゑ明治ではなかったかも知れず、大正は安南人の立てた(えつ)といふ国の年号にあり又何も御幣をかつぐには及ばねど支那にては大いに正の字の年号を(きらひ)(さうらふ)。『一而(イツニシテ)止ル』と申候。正の字をつけ滅びた例を一々挙げて居候。不調べの(いたり)と存候」

 森鷗外は宮内省図書頭として『元号考』に打ち込んでいたが、中途で病床に臥した。死の間際までやりかけの『元号考』のことを気にしていた。『元号考』の作業は、新元号選定のための基礎データをつくることではなかったか。その疑問はしばらくおさめ先に進む。

「吉田編修官は、一木宮内大臣の意を体し、博く経史子集を渉猟し、先ず三十余の元号を撰出し、五項中の第一項に抵触せざるや否やを、多くの典籍に就きて精査推覈(すいかく)し、かつその他四項制限の範囲内に属するものを認むるものに限り、勘進第一案を作成せり」

 この第一案で提出された元号案は「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」の十種であった。

 いっぽう宮内省とは別に内閣でも元号選定作業が進められていた。

(これ)より先、若槻内閣総理大臣に於てもまた、万一の場合に際し万遺漏無きを期せむが為、内閣官房総務課事務嘱託国府種徳に内意を授け、元号の勘進を命ぜり」

 国府種徳は「大正」という元号を勘進した実績のある人物である。

「国府嘱託は、最も慎重なる精査を遂げ、左の元号勘進案を作成し、塚本内閣書記官長を経て之を若槻内閣総理大臣に提出したり」

 国府が提出した元号案は「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の五つだった。

 問題の「光文」はこの国府案に含まれていた。

 一木宮内大臣に提出した吉田増蔵の元号案は次第に絞られて「その半数を選択して、勘進第二案」がつくられた。第一案のうちから「昭和」「神和」「神化」「元化」「同和」が選ばれた。「昭和」の順位が第一案では三番目だったが第二案ではトップになっている。

「一木宮内大臣は、右勘進第二案に就きて、更に慎重なる考査を遂げ、第一昭和、第二神化、第三元化の三元号を撰定し吉田編修官に命じて勘進第三案を作成せしめたり。…… かくて一木宮内大臣は、右勘進第三案に就きて、内大臣伯爵牧野伸顕(のぶあき)、公爵西園寺公望の意見を求め、その賛同を得て、之を若槻内閣総理大臣に移牒(いちょう)せり」

 吉田案は宮内省ルートを通じて、三回もふるいにかけられ、最後に元老・西園寺公望のもとに辿り着く。それに比べ、国府案は若槻総理大臣に提出した一回分だけであった。

 松方正義公爵が大正十三年に死去した後は、それまで元老たちが集団で保ってきた諸々の権力が「最後の元老」である西園寺ただ一人の手に委譲されていた。それから二・二六事件が起きた昭和十一年まで、宮中のリーダーシップは西園寺の後見下にあり、安定していた。一木宮内大臣も牧野伸顕内大臣も、西園寺の息がかかっている。

 西園寺を経由して若槻総理大臣に辿り着いた吉田案は、実質的な承認済み、を意味した。

 従って、手続き上は吉田案と国府案は最終的に両天秤にかけられるが、その帰趨(きすう)ははじめから明らかだったといえよう。

「ここに於て若槻内閣総理大臣は、前記一木宮内大臣の移牒に係るもの及び国府嘱託の勘進案に基づき、一木宮内大臣と綿密なる商議を遂げ、かつ塚本内閣書記官長をして、慎重精査せしめたる結果、前記諸案中より、一元号案即ち昭和を撰定し、参考として、元化、同和の二案を添付することとせり」

 吉田の提出した第三案のうち「神化」が落ち、第二案の「同和」が参考のなかに浮上したが、「昭和」が本命であることに変わりはない。国府が提出した「立成、定業、光文、章明、協中」は参考の二案のなかにも含まれなかった。こうしてみるとはじめから国府案はダミーであった疑いが濃い。宮内省図書頭の職にあった鷗外は「大正」を批判していたが、その「大正」を作成した張本人、国府の権威は関係者の間でかなり低下していたとみていい。しかも、元号の具申に中心的な役割を果たした一木宮内大臣は鷗外と近い関係にあったから、なおさらのことといってよい。

 鷗外は大正九年一月二日の賀古宛書簡で、「東亜之光によれば一木喜徳郎は『専制でない少数者に治めさせ治めかたは道徳に本づく』と云つて居ます」と、彼の発言を尊重している様子がうかがえる。また、先に引用した「(大正の年号について)不調べの至と存候」とある同年四月二十八日付賀古宛書簡の前半でも「一木君に古社寺保存会にて此頃二度面会、社会問題に(つき)(うけたまはり)候、小生云、政府の経済は国庫を富ますこと(=難記号)のみ考ヘずに富の分配を謀ること必要なるべし、現制 (立憲政体)にて其働きは出来ぬものか、一木云、勿論出来ぬ筈なし、税法は(もと)より万事其考にてやれば可なり、成功出来ると思ふ云々」とある。その内容は、鷗外が晩年に情熱を傾けた「元号」とは別の、もうひとつの関心事にかかわっていたが、そのことで一木喜徳郎とのあいだで突っ込んだ議論のあったことをうかがわせる。これについてはのちに触れるつもりだが、いまは鷗外の官界人脈として、彼と一木とを結ぶ太い線を確認しておくにとどめる。従って一木宮内大臣には、鷗外の『元号考』の仕事が念頭にあったからこそ、鷗外の弟子「図書寮編修官吉田増蔵に内意を授け」、あえて五項目を掲げたことは、疑いえない。

 首相官邸の内閣記者会にいたバロン杉山が「光文」を入手できたのは、内閣側の国府案のなかに「光文」があったからだ。しかし、「光文」は、国府案の限界以上を出なかった。

 こうした元号選定のプロセスはいつごろまでに終了していたのだろうか。

 その点については、公的な記録や関係者の回想録では、十分に解き明かすことができない。

「昭和」を提出した吉田増蔵の周辺をあたるしかない。近親者の探索にはかなり手間どったが、幸いに、吉田の三度目の妻弥江子が北九州市小倉に健在であった。慶応二年(一八六六年) 生まれで、鬼籍に入ってから四十年以上たつ吉田の妻が六十九歳という若さであったことに戸惑った。二十代で後妻に入り吉田の晩年をみとったのである。彼女の所蔵する遺品をみせてもらうことにした。

 同郷の後輩にあたる中村亀蔵が書いた交友録ともいえる小冊子『羽搏(はばた)くもの』(非売品、昭和三十六年発行)があって、そのなかに「皇太子の御名の出典や、清書の御名を万葉集から撰んで献じたといった話も承った」とあり、ほかに「日本国、独逸(ドイツ)国、及び伊太利(イタリー)国条約締結に関する詔書」について「前夜遅く宮内省総務課長が見え、翌朝までに起案してほしいといわれ苦思彫心、一気呵成(いっきかせい)(そう)したという内輪話もされたのであった」などというエピソードが書きとめられている。

 皇太子の名前を考えるにあたって作成したと思われる「皇親略譜」が残っていた。親王の名称一覧で、恐らく重複を避けるためのデータであろう。

「吉田がふすまのような大きな紙に太い筆で『明仁』と書いたのを昨日のように思い出します。私が墨をすりました。冬なのに、明るい陽射しが畳の上に拡げられた和紙に白くまぶしく反射していました」

 と妻の弥江子は語ってくれた。昭和の元号については、正確な記憶がないようだが、宮内省専用便箋に筆でしたためた元号案の下書きが行李に何種類かあった。

「大正十五年二月」という日付のある宮内省専用箋には七十近い数の元号案が筆文字で列挙されている。スミで消してある文字もあるため、正確な数は数えられないが、「昭和」はこの段階ですでに入っている。また、『古風庵回顧録』のなかで倉富勇三郎枢密院議長が主張したという「上治」も混じっていた。「十五年七月」の日付のものは三十一に絞られている。「上治」は消えていた。

 一木宮内大臣が五項目の条件を挙げたあと「吉田編修官は…… 先ず三十余の元号を撰出し」そのなかから「第一案を作成せり」という経過はすでに紹介したが、吉田増蔵の下書きを見ても、そのことはうかがえる。従って、下書きに記された日付から考えて一木宮内大臣が吉田増蔵に五項目の条件を提示したのは大正十五年二月以前で、吉田が七十近い元号案のなかから「先ず三十余の元号を撰出」して一木宮内大臣に示したのは、七月以降のそう遅くない時期ということになる。

 中島利一郎の証言によると、元号案具申の指示は大正十五年十二月ごろで、しかも突然のことだったから十分な資料も手もとになく時間的な余裕のないままに「光文」を提出したのである。彼のいう真相は、こうした長い準備過程を経たものに比べると、いかにも軽い。もちろん中島が「光文」を推したという証言には、それなりの真実味があるし、虚偽を述べる理由は薄い。しかし中島発案の「光文」を吸収した国府案はかなり土壇場でつくられた即成案だったことになる。となると「『光文』が事前に漏れたため急遽『昭和』に変更された」など、もはや考えにくい。

 大正天皇崩御直後の枢密院会議が二時間四十分もかかった理由は、「上治」を論議したためでも、「光文」を変更したためでもなかった。「上治」は吉田編修官の元号案撰定過程で、第一案作成よりずっと以前の段階で落ちていた。「上治」が非公式に話題になった時期があったのかもしれない。若槻総理大臣は記憶ちがいで時期を混同して『古風庵回顧録』で言及したものと推測される。『倉富勇三郎日記』にも、崩御当日に「上治」を主張したという記載はない。

「光文」はかなり早い時期に落選していた。

 枢密院の議事録である『元号建定の件会議筆記——大正十五年十二月二十五日』には先に引用したように「……元号を昭和と定むることは、全会一致を以て之を可決せり。但し詔書案の文言に(つき)討議を重ねたる末、原案に修正を加うることとし是また全会一致を以て議決せり」とあるように、議事録をみると御下付案(ごかふあん)のなかの詔書案には、朱筆がかなり細かく入れられており、この修正にかなりの時間を要したことがうかがえる。

 御下付案というのは、天皇が元号を下付したという体裁をとるので、そう呼ぶが、すでにみてきたように元号の決定は、まず閣議で新元号の候補を決め、枢密院に諮詢(しじゅん)するが、その際に形式的にはいったん天皇に上奏し「聖裁を仰」いでから枢密院に(はか)るという手続きをとるのである。

 その御下付案のなかに次の詔書案が含まれていた。

(ちん)皇祖皇宗の威霊に頼り(ここ)に大統を()け一世一元の永制に(したが)い以て大号を定む(すなわ)ち大正十五年を改めて昭和元年とし十二月二十五日を以て改元の期と()す」

 この詔書案を枢密院全員審査会で、少し修正すべきだという意見が出たのであろう。結局、枢密院本会議で承認されたときは、こうなっていた。

「朕皇祖皇宗の威霊に頼り大統を承け万機を()ぶ茲に定制に遵い元号を建て大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す」

 訂正箇所はいくつかあるが、眼目は「十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す」と新元号のスタートした日をわかりやすくさせたことだろう。詔書案は五箇所も朱筆が入れられているので、少しずつ修正していった跡がうかがえる。枢密院会議が長時間かかった理由は外部からは謎めいてみえ、その思惑を詮索されてきたが、真相は意外なところにあった。

 

 吉田増蔵の提案した「昭和」は、『書経 (堯典(ぎょうてん)) 』の「克明俊徳、以親九族、九族既睦、平章()百姓、百姓昭()明()、協和()万邦、黍民於変時雍」から「昭」と「和」を取り出したものであった。ひとつの文脈から任意に二字を抽出するという作業は、意味の排除以外のなにものでもない。

 内閣側の国府種徳の提案した五つの元号案のうち、「章明」は「昭和」とまったく同じ出典だった。同じ出典から「昭和」も、「章明」も、作成できるのだ。そして一方は可となり、他方は不可となる。おかしな話である。

 一木宮内大臣の挙げた五項目の選定基準のうち第一項目を除いた他の四項目は、音諧調和や字画簡明などで、客観的な基準というより感覚的判断に支配されやすい。もちろん、「章」が十一画で「昭」は九画、と数えてみるのは客観的であることは否定しない。

 問題は天変地異が改元の理由になった時代とはちがう、合理主義の時代に元号に固執することの意味である。鷗外はこれに最後の情熱をふりそそいだ。宮内省図書頭(くないしょう・ずしょのかみ)という官職をただ務めるためだけで、彼は『元号考』にとり組んだのではなかった。その傍証はすでに掲げてきた。洋行体験のある一級の知識人をとらえて離さなかった心事は、元号のどこに隠されているのだろうか。

 吉田増蔵の語るエピソードのなかにこういう話がある。

「先生は平生(へいぜい)身を()すること極めて質素で、役所に於ける弁当は十銭の焼芋にて、半分は之を給仕に与え残余を自ら食せらるるのであるが、食堂とて至って狭き室にて焼芋を囓じりながら事務官、編修官を相手に色々の話しに花を咲かせるのである。或る時天とかいう問題に触れたので、私は儒学の天という字には自然界の天と宗教的の天と哲学的の天との三種の意義あることを説明した。此の問題に就いて哲学的の天、即ち道徳的の天を主張して、宗教的の天即ち神霊的の天に反対する人があったので、先生は(おもむ)ろに僕は矢張り神は有るものにして置きたいと言われた」(前出『文学』)

 図書寮の食堂で編修官らといっとき、軽い冗談を挟みながら雑談しているうちに、話題は一挙にシリアスなものに転じた。

「僕は矢張り神は有るものにして置きたい」

 鷗外が思わず呟いたこのひとことは、たぶん本音なのだろう。

『元号考』のため漢籍の山に埋もれながら考証に取り組んでいたときにそういっている。考証の作業は「万世一系」という虚構をつぶさにみつめることになるにもかかわらず、である。

 かつて五十歳の誕生日を目前にした鷗外は『かのやうに』(明治四十五年一月『中央公論』に発表)で「万世一系」の虚構に対するジレンマについて書いた。『かのやうに』の主人公五条秀麿(ひでまろ)は若き日の鷗外の分身である。

 五条秀麿は大学で歴史を専攻した後、ドイツに留学。帰国後は歴史家を志す。父親である五条子爵は必ずしも頑固な国家主義者でもなく、また古風な神道家(しんとうか)でもない。むしろ常識的な政治家として描かれている。ただ息子に対しては、神話と歴史とを結合して国民の信仰を崩さないことを望んでいる。一方秀麿は、神話が歴史でないということを言明することなしには、科学的な歴史の研究は不可能であると感じて、この間のジレンマに懊悩(おうのう)するのである。

 洋行帰りの息子は思う。

「まさかお父う様だつて、草昧(さうまい)の世に一国民の造つた神話を、その(まま)歴史だと信じてはゐられまいが、うかと神話が歴史でないと云ふことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入(はい)るやうに物質的思想が這入つて来て、船を沈没させずには置かないと思つてゐられるのではあるまいか」

 提出されているのは、神話と歴史、信仰と認識を峻別(しゅんべつ)した上で、なおかつそれらを統合する倫理基盤を築くことは可能か、という問いである。

 答は仮に置かれたにすぎない。

「祖先の霊があるかのやうに背後(うしろ)を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。……どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない」

 いかなる価値をも絶対化しないにしても、社会が秩序を必要としている以上、伝統的な価値が絶対の真理であるかのように振舞う他はない。『かのやうに』の主人公秀麿の国史に対する態度を、鷗外は秀麿の友人である綾小路(あやこうじ)にこういわせた。

「八方塞がりになつたら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない」

 秀麿と綾小路との対話は、鷗外の内面での相剋(そうこく)だった。「山の手の日曜日の寂しさ」のなかで、二人は「目と目を見合はせて、(やや)久しく黙つてゐる」ところで筆は置かれた。

 鷗外は"かのやうに" 振舞うことで、当座の安全弁を工夫した。しかし、それはあくまでも"当座" のまにあわせで、彼のかかえた相剋を解決するものではなかった。

「本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはつきりさせずには手が著けられない」と秀麿にいわせた『かのやうに』での鷗外と「矢張り神は有るものにして置きたい」といって『帝諡考』『元号考』を書いた立場は明らかにちがう。その間に存在したのは、乃木(のぎ)将軍の殉死と、それから始まる歴史小説から史伝ヘ向かう著作活動であった。

 陸軍大将乃木希典(まれすけ)が自宅で妻静子とともに自刃して果てたのは明治天皇大喪(たいそう)の当日、大正元年九月十三日であり、衝撃をうけた鷗外は五日後の十八日、『興津弥五右衛門の遺書』を脱稿している。

「乃木伝説の思想」(『歴史と体験』)で橋川文三は乃木殉死の意味をこう分析する。

「かれは明治国家の創出過程のみを信じ、そのシンボルとしての明治天皇にロヤルティをいだいた。一般的国家というものは乃木には存在せず、明治国家が成立したのちの制度やイデオロギーには何らの現実性をも感じられなかった。かれには『万世一系』や『家族国家』の理念は、それらと釣り合う形で形成された近代的日本国民というような抽象とともに、むしろ不可解であったかも知れない。……ある信念体系は必ずその中に死を含むという乃木の体験からすれば、信じうるものはイデオロギーとしての国家ではなく、そのうちに死を含みながら、シンボルとして実存する天皇のペルソナ以外のものではなかった。ペルソナの死は、乃木そのものの存在理由を解除した。日本国家という抽象体への忠誠の切り替え維持ということは、むしろ乃木の心中にいだかれた無数の死者の論理には存在しなかった。かれは、国家そのものを拒否する形で自刃したのである」

 明治国家の設計者たちは、明治国家を「明らかな人為の応急的制作物として意識していた」(橋川文三)が、後の世代は、ちがっていた。植民地化の危機にあった発展途上国明治日本はつねに『普請中』であった。文久二年(一八六二年)生まれの鷗外は設計者の世代に近い。乃木と鷗外は十三歳ちがう。また、自然主義作家として登場した田山花袋より九歳、島崎藤村より十歳年長である。

 鷗外は官僚エリートとして近代国家創出から完成へとかかわってきたのだ。だから明治国家は権威ではない。楽屋裏を知っているのである。彼にとって明治は新興勢力のつくった危うい国家であった。表からみれば堅固な城郭だが、裏からのぞくと随所に急いで打ちつけた釘のところどころが浮いている。

 以下のような感慨は、自然主義作家らのもつ不安感と、外見は似ていても内実は異なっている。

「今の時代では何事にも、Authorityと云ふやうなものがなくなった。古い物を糊張(のりばり)にして維持しようと思つても駄目である。Authorityを無理に弁護してをつても駄目である。或る物は崩れて行く。色々の物が崩れて行く」(『混沌』大正四年刊『妄人妄語』所収)

『混沌』で鷗外が"なくなつた" といったオーソリティは少なくとも乃木にとっては存在していた。しかし、主君である明治天皇の死とともに意味を失うものであった。しかし、一世代下の鷗外は乃木にはなれず、また下の世代である自然主義作家らのように明治の権威に反発することにアイデンティティをみつけるわけにもいかないのである。

 鷗外が乃木の殉死に触発されてわずか五日間で脱稿した『興津弥五右衛門の遺書』は、題名のとおり、なぜ自分が切腹することになったのかという仔細を書き綴った遺書の形式になっている。

 相役横田清兵衛と興津の二人は主君の命令で長崎に出張して「珍らしき品買ひ求め」にいく役を命じられた。目的地で興津は横田といい争いになり、刀を抜いて討ち殺してしまう。原因は些細なことだった。主君がお茶をわかすときにくべる香木を買おうとしたら、他と競り合いになった。香木は本木(もとき)末木(うらぎ)の二つあって、大金を投じて本木のほうを落札しようと興津は考えた。が、横田はそんなことに大金を投じるのは馬鹿らしい、という。

「一国一城を取るか遺るかと申す場合ならば」必死でねばるけれど、「高が四畳半の炉にくべらるる木の切れならずや」と横田がいう。興津はそうでないと主張した。「茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀(さいし)も総て虚礼なるべし」「主命たる以上は、人倫の道に(もと)り候事は格別、其事柄に立入り候批判がましき儀は無用なり」

『興津弥五右衛門の遺書』はあの怪談『番町皿屋敷』のように、皿一枚の値打ちと人間の命の重さをひきかえることのできるような、今日のヒューマニズムと呼ばれる感情からは想像しにくい世界の話を書いているように思える。それを鷗外はあえて書いてみることによって、乃木を理解しようとした。『興津弥五右衛門の遺書』は読みようによっては封建倫理の讃歌、形式主義への憧憬(しょうけい)ともうけとれる。しかし、周知のように『阿部一族』では、この封建社会の形式に個(自我)を対置させ、その結果自滅していく悲惨な人間像を描くことになった。個が許されない世界にのみ殉死が可能なことを、検証せざるをえなくなっていった。

 以後、二年間にわたり『ながし』『佐橋甚五郎』『護持院ケ原の敵討』『大塩平八郎』『堺事件』『曽我兄弟』と続く。

 鷗外はかつて『青年』(明治四十三~四十四年)のなかで、生き方の理想像として「利他的個人主義」(利己的個人主義の対立概念として用いられている)を提示していた。乃木の殉死はこの「利他的個人主義」を再確認させることになったと思われる。「利他的個人主義」は作中でこう説明された。

「個人主義は個人主義だが、ここに君の云ふ利己主義と利他主義との岐路がある。利己主義の側はニイチエの悪い一面が代表してゐる。例の権威を求める意志だ。人を倒して自分が大きくなるといふ思想だ。人と人とがお互にそいつを遣り合へば、無政府主義になる。そんなのを個人主義だとすれば、個人主義の悪いのは論を()たない。利他的個人主義はさうではない。我といふ城廓を竪く守つて、一歩も仮借(かしゃく)しないでゐて、人生のあらゆる事物を領略する。君には忠義を尽す。(しか)し国民としての我は、昔何もかもごちゃごちゃにしてゐた時代の所謂(いはゆる)臣妾(しんせふ)ではない。親には孝行を尽す。併し人の子としての我は、昔子を売ることも殺すことも出来た時代の奴隷ではない。忠義も孝行も、我の領略し得た人生の価値に過ぎない。日常の生活一切も、我の領略して行く人生の価値である。そんならその我といふものを棄てることが出来るか。犠牲にすることが出来るか。それも(たしか)に出来る。恋愛生活の最大の肯定が情死になるやうに、忠義生活の最大の肯定が戦死にもなる。生が万有を領略してしまヘば、個人は死ぬる。個人主義が万有主義になる」

 鷗外は乃木の殉死に遭遇し、今何を為すべきかを迫られた。乃木の選択に対し、鷗外の世代が選択を迫られた。

 明治という時代をつくった士族的ロヤルティを近代的自我で"割り算"できるのか、そんな難問をかかえて、鷗外は歴史のなかヘ向かう旅に出発した。鷗外は、それが自身の課題であると同時に、時代の要請であるということを意識せざるを得なかったにちがいない。

 利他的個人主義をつきつめていけば、人間の共同的存在というものの形式にゆきつくほかはないのである。国家・民族としての人間存在ということになるだろう。そして、国家という形式を支えるためには諸制度・諸法規とともに、共同的存在の証しのための「神話」が必要になる。明治国家の創業者らが考えついた「万世一系」や「家族国家」の理念がそれであった。

 しかし、鷗外がこの神話を信じていないのは当然である。彼自身は「万世一系」が虚構であることを世代的に知る立場だったからだ。彼は、乃木の殉死が君主としての天皇個人に対するもので明治国家に対するものではなかったことを、直観的に知った。乃木の殉死が出現したのは "近代"だが、あくまで封建的主従関係においてのみ可能な行為だったからだ。

 利他的個人主義は、国家のために死ぬことができるような個人主義でなければならないことになる。こういいかえてもいい。"近代的自我"にとって国家のために死を選ぶことが可能か。

 鷗外は恐らく次々とこうした自問の波におそわれた。しかし、作業手順としては、当面乃木の抱いた封建的忠誠心の型の探索に赴かねばならなかった。

 そして、そこにみたのは堅固な儒教倫理の世界であった。そこでの形式は単なる形式ではない、形式を超えた形式、というしかない。絶対的形式であった。

「茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀も総て虚礼なるべし」(『興津弥五右衛門の遺書』)という形式主義の世界。裏を返せば、茶儀も国家の大礼も、等しく必要であり、同時に等しく無用になりうるのである。

 鷗外は大正七年の元旦から十日まで『礼儀小言』という随筆を東京日日(大阪毎日は五日から十四日まで)に発表した。同紙には、大正五年に『澀江抽齋』『伊沢蘭軒』を発表している。

 この『礼儀小言』を書いていた時期は恐らく、前年大正六年の暮であろう。十二月二十五日に鷗外は臨時宮内省御用掛を辞して、宮内省帝室博物館総長兼図書頭に就任、高等官一等となった。東京日日に連載していた『北条霞亭』はこのため一時中断し、二月から九年一月まで続稿を『帝国文学』に発表することになる。

『北条霞亭』を中断して書いた『礼儀小言』は『澀江抽齋』『伊沢蘭軒』など一連の史伝の後に到達したひとつの境地にちがいない。

「今の人類の官能は意義と形式とを別々に引き離して()ようとする。そして形式の(うち)に幾多の厭悪(えんお)すべき疵瑕(しか)を発見する。荘重の変じて滑稽となるは此時である。(これ)は批評精神の醒覚(せいかく)に本づいてゐる。そして批評精神の醒覚は現代思潮の特徴である。批評精神が既に形式の疵瑕を発見する。荘重なる儀式は(たちま)見功者(みごうしや)の目に映ずる緞帳(どんちよう)芝居となる。(ここ)に於て此疵瑕を排除せむと欲する欲望が生ずる。此欲望は(やや)もすれば形式を破壊するにあらでは()まぬものである」

 鷗外は形式の破壊を嘆いている。では、形式主義がいいのか、という通俗的な反問をここでしてはならないと思う。

(かく)の如き礼は皆滅び尽して、これに代るものは成立してをらぬ」というとき、誰も反論できないからだ。

 鷗外は形骸(けいがい)化した儒教倫理が、もはや明治・大正の天皇制国家の内実ではないことを知り尽くしていた。批評精神が形式の疵瑕を発見するのは、時代の趨勢(すうせい)として認めざるをえない。「批評精神」を「個の自覚」あるいは「近代的自我の覚醒」という言葉に置きかえてみるとわかりやすい。封建倫理のもとでは「形式」が主で「批評精神」は従だが、「個の自覚」によって「批評精神」が主になれば「形式」は従となる。儒教的倫理大系は滅びていくしかない。

 では「形式」と「意義」とが一体となっている状態、これは何かというと一種の理想郷だろう。鷗外のつきつめた利他的個人主義が国家を掌中にしたならば、この理想郷が目前となる。その場合、鷗外は明治国家を超える近代国家を構想するか、あるいは宗教的国家を夢想しなくてはならない。

 ところで、この『礼儀小言』の書かれた時期について少し触れておく必要がある。大正六年はロシア革命の年だった。『礼儀小言』はその直後に書かれている。

 鷗外は大正七年、第一次世界大戦終結の日の二日後の十一月十三日に、奈良より賀古鶴所(かこつるど)宛に「帝王の存立せるは日本と英吉利(イギリス)とのみ」と天皇制国家の前途多難を危ぶみ、「幸か不幸か我々は実に非常なる時に遭逢(さうほう)したる者と奉存候(ぞんじたてまつりさうらふ)。老公などは定而(さだめし)御心痛()事と拝察(つかまつり)候。只今よりの政治上の局面は下す所の石の一つ一つが帝室の運命問題に関するを覚え候」と書き送った。老公とは元老山県有朋のことである。

 この時期に鷗外は天皇制国家のあるべき姿について、ひんぱんに賀古宛書簡で、意見を開陳している。また心ゆるすべき友に自分の見解をぶつけてもいる。先に引用した鷗外書簡にみえる一木喜徳郎の意見も、このような鷗外の関心のあらわれのひとつであった。

 そして、『帝諡考』は大正八年十月に『元号考』は十年四月に稿を起こした。

 大正九年二月二十二日の賀古鶴所宛書簡を引用する。

「我国にもシベリア兵を引込ませたいと云ふ者多く相成候。事によると丁度米国が初に成立したやうに露国が成立するかも知れず候。此辺は誰も予言は出来ぬこと(=難記号)と被存(ぞんじられ)候。()し成立するとしても米国を隣にして共和政治にならずに居る(ごと)く、新露国を隣にして労動(ママ)者国にならずに居られること勿論と存候」

 専制君主国家ロマノフ王朝が崩壊したのだ。千年にわたるギリシャ正教の歴史が一瞬のうちに粉々になった。鷗外の衝撃は相当のものだったはずで「労動(ママ)者国にならずに居られる」というのは希望的観測でそういわざるをえなかった。鷗外は「ならずに」済ませる方策を考えるしかなかった。

 彼の利他的個人主義は、共産主義と相容(あいい)れないものであった。政治思想的表現にすると「国体に順応したる集産主義(Collectivismusなり、即ち共産主義Communismusの反対なり)」(大正八年十二月二十四日付賀古宛書簡)という。この点について別の稿で鷗外が公的に表明した部分がある。彼の絶筆『古い手帳から』がそれである。

『古い手帳から』は『明星』大正十年十一月号から翌十一年七月死去の日まで同誌に九回にわたり連載されたものである。

 書き出しの「プラトンは何故に共産主義者とせられてゐるか」でわかるように、ロシア革命を意識して書かれたものとみてよい。「プラトン」からはじまり「カルル大帝」に至って絶筆となったが、当然筆は現代に及ぶはずであった。この『古い手帳から』に「プラトンの理想国」を共産主義にみたてて「自利の心を棄てさせ」ると決めつけている。そして、こう分類する。

「若し自利の心がないときは人の事業に励みがない。緊張がない。緊張がなくては発展がない。文化が滅びる。国家は私産を認め、結婚を認めて、(この)励み、此緊張を助成しなくてはならない。ここに共産主義が否定せられる。私産を認め、結婚を認めると、貧富幸不幸が生ずる。国家の制度は、此懸隔が大きくならぬやうに調節して行くべきである」

 鷗外は、国家を機能としてとらえていた。国家以外にその機能を果たすものがないのだ。しかし、その国家を支える儒教倫理は崩壊しかかっていた。教育勅語や「万世一系」思想がその空隙を埋め、別のロヤルティを育てていたが、鷗外にとって後者は権威のない人為的な間にあわせであった。

 古い形式は滅びつつあったが新しい明治国家の形式は、「応急の制作物」でしかない。どこか威厳が感じられないが、明治天皇というパーソナリティの幻想はあった。しかし、その"大木"なきあとの国家の形式は、鷗外が『礼儀小言』で嘆いたとおり、日々崩れていく趨勢にあった。国家が機能しなくてはならないと考える鷗外にとって、形式は確保する必要があった。

 かつて『かのやうに』で鷗外は五条秀麿にこういわせた。

「まさかお父う様だって、草昧(さうまい)の世に一国民の造つた神話を、その(まま)歴史だと信じてはゐられまいが、うかと神話が歴史でないと云ふことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入(はい)るやうに物質的思想が這入つて来て、船を沈没させずには置かないと思つてゐられるのではあるまいか」

 鷗外は「草昧の世に一国民の造つた神話を、その儘歴史だと信じてはゐ」ない。が、賀古宛書簡で、明治、大正の元号が、過去に他国で使用され、しかも、あまり感心できない先例だったことを述べている。「不調べの至と存候」と明治国家の楽屋裏のお粗末さに内心あきれかえっていた。『元号考』への情熱、すでに明らかである。

 吉田増蔵に最後に託した事とは、単に『元号考』という著述の完成ではない。そんな事務的な事柄ではなかった。天皇制国家の象徴である元号すらきちんと整備されていない国家を形式において"完成"させることであった。

 大正の次にくる元号は完全無欠である必要があった。『元号考』における鷗外の心境は唐木順三がいうような「清澗(せいかん)の地にふさわしい」ものであろうはずがない。鷗外は死の間際に「馬鹿馬鹿しい」といったという説があるが、その真相はともかく、ありうる話である。

 自分が信じていない天皇制国家を、形式において完成させなければならなかった。そのために最後の情熱をふりしぼる。立派にみえる天皇制国家の城郭の内側はベニヤ板でできていたことを鷗外は知っていた。国家を支えるために誠実に生きる一方で、死に臨み、その自分では信じていない国家(元号)を拒否すること、国家が与えた位階勲等を拒否するのも、別の誠実さであった。

「余ハ石見人(イハミノヒト)森林太郎トシテ死セント欲ス」は鷗外の誠実さであると同時に、哀しさでもあった。

 

 昭和十六年十二月八日、日本は「大東亜戦争」に突入した。「米国及び英国に対する宣戦の詔書」が布告されたが、吉田増蔵はその起草に加わっている。

 開戦の詔書案は昭和十六年十二月六日の政府大本営連絡会議で正式決定された。日米開戦を決めたのは十二月一日の御前会議であった。吉田の出番はそれからである。

 そのいきさつは木戸幸一内大臣の『木戸幸一日記』(下巻)が細かく記している。十二月一日「四時半、首相来室、宣戦詔書につき協議す」。五日、「十一時稲田内閣書記官来訪、宣戦の御詔書につき打合す」

 十二月六日の政府大本営連絡会議は午前十時から十二時までと、午後三時から六時半まで断続して開かれた。

『杉山メモ』(参謀本部編 )によるとこの日の主題は「対米最後通牒(つうちょう)に関する件」など五つで、「宣戦の詔書」は最後の五番目に挙げられていた。実際に審議の順番が回ってきたのも最後だった。だから、午前中の議題ではなく、午後三時から引き続き始まった会議の議題となった。

『木戸幸一日記』によると、この日の木戸内大臣は宣戦詔書であわただしい動きをみせる。

「十一時、稲田内閣書記官来庁、宣戦詔書につき相談あり。結語に皇道の大義を中外に宣揚云々とありしを帝国の光栄を保全に修正方希望す。十一時半、首相来室、右の件を打合す。同意を得たり」

 このあと、吉田増蔵が登場する。

「一時四十分、吉田御用掛を招く、詔書の打合を為す。二時二十分、稲田書記官来室、詔書につき協議す」

 政策の内容には、吉田は関与しない。詔書、勅語の修辞を担当するのが吉田に課せられた職務であった。そして吉田はその職務を忠実に果たした。

天佑(てんゆう)を保有し万世一系の皇祚(こうそ)()める大日本帝国天皇は(あきらか)に忠誠勇武なる(なんじ)有衆(ゆうしゅう)に示す。(ちん)(ここ)に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を(ふるっ)て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。(中略)事既に(ここ)に至る。帝国は今や自存自衛の為蹶然(けつぜん)()つて一切の障礙(しょうがい)を破砕するの外なきなり。皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘(かいこう)し、(すみやか)に禍恨を芟除(さんじょ)して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す」

(あきらか)に」という文字の使用に吉田の筆跡をみるのは、うがちすぎだろうか。

 この宣戦詔書には、国際法遵守のことが触れられなかったため、戦後、極東軍事裁判で俘虜(ふりょ)虐待の罪を問われて処刑されたBC級戦犯の悲劇を生じた。

 日清・日露戦争では、それぞれ「(いやしく)も国際法に(もと)らざる限り各々権能に応じて一切の手段を尽すに於て必ず遺漏なからむことを期せよ」(「清国に対する宣戦布告の詔」)(およ)そ国際条規の範囲に於て一切の手段を尽し遺算なからむことを期せよ」(「露国に対する宣戦布告の詔」)と、国際法遵守をうたっている。

 吉田の限界は、こうした内容面に影響を及ぼしうる力も見識も、持ち合わせていなかった点であろう。

 それにしてもなぜ、国際法遵守が抜けてしまったのか。

「米国及び英国に対する宣戦の詔書」に「朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ」という部分がある。日清・日露戦争の詔書ではそれぞれ「朕が百僚有司は(よろし)く朕が意を体し、陸上に海面に清国に対して交戦の事にしたがい、以て国家の目的を達するに努力すべし」「朕が百僚有司は宜く各々其の職務に(したが)い、其の権能に応じて国家の目的を達するに努力すべし」である。

 過去の戦争と新しい戦争のちがいは、「百僚有司」だけでなく「衆庶」までが「朕」に組み込まれた。「億兆一心」に「国家の総力を挙げ」ることが期待されている。総力戦の性格がはっきり出ているのだ。

 竹内好は『近代の超克』で、この詔書の特徴をこう指摘する。

「『自存自衛』の不必要な(あらゆる戦争が主観的には自衛行為である)強調があることをあわせて『一切の障礙を破砕する』その『障礙』には既存の法秩序もふくまれていると解することもできる。行為が法をつくるという考え方である。つまり戦争そのものが目的化されている。そのために…… 全体の文脈を通して、永久戦争の理念が感じとれる。戦争の究極目標は『東亜永遠の平和を確立』することであって、平和一般ではない。ここの文脈は世界制覇の予想をふくむものに読み取れる」

 終わりのない戦争、ということがこの詔書の思想である。途中で講和を考えるという発想が詔書のなかに表現されていない。勝つことは連合国を破ることであり、日本が世界の覇者となるまで永久に戦い続けなければならない。

 しかし、有名な山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官の「半年や一年なら存分にあばれてみせる」という発言は、緒戦の勝利の勢いで講和にもち込むという魂胆が戦争指導者らにあったことを示している。しかし「朕が百僚有司」であるふつうの人びとは、そういうホンネがこの詔書の裏に隠されていたことを知らないのである。永久に戦い続ける、と思っていた。

 戦争が始まると、開戦に付随する詔書がたてつづけに渙発(かんぱつ)された。修辞係吉田増蔵は病身であったが多忙をきわめた。

「開戦に際し陸海軍人に賜りたる勅語」、「布哇(ハワイ)方面の敵艦隊及び航空兵力撃破を嘉尚(かしょう)して連合艦隊司令長官山本五十六に下し給える勅語」、「第七十八帝国議会開院式の勅語」、「英国東洋艦隊主力の殲滅(せんめつ)を嘉尚する勅語」。

 吉田の妻弥江子によると、吉田はこのころに大量に吐血し、床に臥せっていた。過労が胃潰瘍(いかいよう)を悪化させたのである。

「その枕元にまで役所の人がきて、文面を読みあげて主人から意見を訊いていました」

 吉田が詔勅を書くときは斎戒沐浴(さいかいもくよく)して一週間想を練り、次の一週間に執筆し、次の一週間に用語の出典を調べるので、最小限三週間を要したという。かなりの重労働をしていたことになる。

「役人は学問がないので、即席にでもできると思っている」

 と郷里福岡県の中学校長中村亀蔵に当時語っている。

 日本が破滅への急坂を転げ落ちていく、その露払いともいうべき大東亜戦争開戦の詔書によって、吉田の死期は早められた。

 開戦から十一日目の昭和十六年十二月十九日、吉田は新宿・上落合の自宅で死ぬ。七十六歳だった。身長五尺そこそこの小躯(しょうく)で、甘いものが好物だった無冠の漢学者の死因は胃潰瘍だった。

 鷗外が国家の形式的完成を託した吉田増蔵だが、昭和という元号を作成しその使命を終えたのち、国家の実質的崩壊の人身御供(ひとみごくう)となったのはひとつの皮肉であった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/07/17

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猪瀬 直樹

イノセ ナオキ
いのせ なおき 作家・評論家 1946年 長野市生まれ。作家。『ミカドの肖像』 で1987年第18回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

掲載作は、「実質的な処女作」であり、1983(昭和58)年3月朝日新聞社刊『天皇の影法師』全四章の第三章に当たる。