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恩赦のいたずら

  ――『天皇の影法師』より――

 「昭和」という元号がスタートしてまもなく、長谷川如是閑(にょぜかん)が昭和二年(1927)一月四日付の東京朝日新聞で「君主の交代による改元はもう昔の意味を失った」と論じた。こういう常識論はきわめて健康なもので、日々の暮らしのなかから合理的な精神を身につけた庶民の常識を高級に代弁したものとみてよい。

 元号が合理主義で片付けられるものならことは簡単である。すでに江戸時代にも新井白石(はくせき)が元号に対して『折たく柴の記』で、合理的な思考方法に基づいた意見を述べている。林信篤(のぶあつ)が「正徳」の元号の「正」の字を不吉として改元を提案したことを記し、元号の文字に罪はない、そんなことをいうなら、古来年号に用いられた文字に一字として不祥事に遭わなかったものはないと反論していた。

 しかし、こうした合理主義で片付かない問題が元号なのではないか。少なくとも、(森)鷗外にとって、元号は合理的存在として限定しえなかった。国家は、ネイティブアメリカンのきらびやかな羽根飾りや刺青(いれずみ)を肌に刻み込むのに似て、独自の装飾品をまとっている。それぞれの羽根飾りや刺青も、一定の形式を備えていなければならない。そのひとつが元号とみてもいいだろう。鷗外は国家の形式的完成という命題のひとつに元号を()いていた。

 あの大喪(たいそう)という盛大な儀式も、さまざまな様式が混在していたとはいえ全体としては形式の極致であった。その儀式のなかで、人びとは新しい元号を確認しつつ、時代の節目を自覚する。

 京都日出新聞(昭和二年二月十日付)に載った「外人の見たる大喪儀」(無署名記事)は「今日の慌しさと明日の戦とが忘れられた葬場殿の森厳」という見出しであった。

「新宿御苑の葬場殿の神々しさ、(それ)は実に過去の堅忍不抜と現在の雄々しき力とを結びつける連鎖だったのである……(タイム)の如く永久不滅の基礎の上にうち建てられた日本は日とともに進み新しき材料、新なる思想にすばらしく立派な型を与えつつ、しかもなお光輝ある過去のうちに深く埋められておるコーナー・ストーンのあることを忘れないのである」

 時代のある節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその消滅を弔う祭儀として突然訪れて、洪水のように過去を洗い流しながら、よりいっそう過去を心に刻ませる。国家的祭儀という同一平面で人びとは悲しみはなくても悲嘆を装い、喜ばしいことはなくても狂喜し、地殻変動のようにためられたエネルギーを放出する。国家の、生きもののような不可解な生理のひとつが、わが国の場合「天皇崩御」に集中的に現れていた。

 改元と大喪。そして、ここに恩赦を加えその三つが重なり合いながらひとつの浄化作用を営むのである。

 葉山御用邸で大正天皇が崩御した直後に開かれた臨時閣議は元号案とは別にいち早く恩赦の準備を決定していた。

 東京朝日新聞(昭和元年〈1926〉十二月二十六日付夕刊)は「葉山特派員電話」としてその第一報を載せた。「政府は二十五日午前葉山御用邸における臨時閣議において大行(たいこう)天皇崩御に伴って大赦減刑を賜らんことを奉請するに決し、その具体案は法制局と司法省とにおいて作製せしむることに決した」

 恩赦の勅令が官報号外をもって公布されたのは、大喪当日の昭和二年(1927)二月七日であった。

 文化人類学者青木保は一九八二年四月四日から二十一日間にわたって繰り広げられたタイ王朝の二百年記念祭を見聞した報告を綴っている(朝日新聞。昭和五十七年七月十五日付夕刊)。五十年前に大正天皇大喪をみた外国人の立場に、彼は立つことになる。

「この大祝典は現プレム政権が、国家の統合をはかるために行ったもので、王と王室の存在を生けるシンボルとして用い、タイの国力を誇示するという点では確かに世俗権力の冷徹な計算が働いているとしても、その生けるシンボルとその祝祭のパフォーマンスはそれ自体が目的と化して、世俗権力の思惑を超えた次元に巨大な見世物としての国家を成立させたかに思われた。

 それにしても、祝祭に沸く王都と、さらに昨今の世界の国家の動きをみて感じることは、国家にとっての祭儀の意味である。祭儀に費やされる莫大なエネルギーと消費は、現代の国家にとっても依然として必要不可欠の要素である。祭儀を通して国家は日常では感じられないまさに生きものとしての存在を誇示する。こうした祭儀の極端な形の一つがこのような大祝祭であり、いま一つは戦争である。いずれの場合も国家が興奮しエネルギーの高揚をみせ、その生きものとしての姿を(あら)わにする。マルビナス/フォークランド島をめぐる莫大な蕩尽(とうじん)と人身供犠(くぎ)といった、日常世界の論理では信じ難いことが起こるのも、戦争という国家の祭儀があるが故である。

 ……国家とは祭儀による大消尽によってのみ生きるかのようである。現代において国家を必要とするのは、この個人主義と利得中心のコンピュータ的世界にあって、国家が何よりも個と利をこえ、理性と計算に逆らって、生産に反する理不尽な大蕩尽を行いつくすマシーンであるからではないのかと思わずにはいられない。国家は祭儀を通して(よみがえ)り、そして消尽しつくす。現代文明の技術的理性が緻密な計算と計量によって構築する世界を、祭儀という生産的な蕩尽によって打ち壊すところに国家の存在意義があるかのようだ。この被虐的な快楽を味わう点に、人間がいまだに国家という枠にしがみつく最大の理由があるのではないか、とさえ感じられるのである」

 ここでひとつだけ見落とされているのが、生きものとしての国家が恩赦という自浄作用を備えているという点であろう。

 

 元号が日本で最初に消滅したのは沖縄であった。

 米軍が沖縄を占領し、軍政を布告(ニミッツ布告)したのは一九四五年(昭和二十年)四月で、日本の無条件降伏より四カ月余り前のことである。米軍当局は四月五日付で「米軍占領下の南西諸島およびその近海住民に告ぐ」と題する布告第一号を発し、「日本の侵略力破壊および日本帝国を統括する軍閥の破壊上必要なる」ため、この地域に軍政をしくと宣言していた。つづいて布告第二号で「日本帝国旗を掲揚し、あるいはその国家を唱」することを禁じた。当然のことだが軍政当局のあらゆる行政指令の日付は元号でなく西暦が使用された。米軍の直接統治の方法は日本人から、「国家」という帽子を、まずはじめに脱がせることから始められたのは象徴的なことといえよう。その後の本土の間接統治との大きな差である。そして沖縄を、天皇との関係でみるとき、昭和二十年(1945)四月五日から昭和四十七(1972)年五月十五日の復帰の日まで、明治憲法の「神聖ニシテ侵スベカラズ」の天皇はいうにおよばず、戦後の「象徴」天皇すら存在しなかったのである。沖縄にとって四月五日は、まさに「天皇崩御」の日であったといっていい。では本土にとって、八月十五日はどんな日だったのだろうか。

 沖縄は米軍との攻防で徹底的に破壊しつくされたが、本土では主要都市部はともかく、まだ徹底抗戦を呼号する余力があると信じられていた地方もあった。

 昭和二十年八月十五日、島根県松江市の最高気温は三一・六度、蒸し暑い一日だった。

 十二時少し前、市内御手船場(おてせんば)町の軍需工場では従業員三百名が道路に出て整列し、玉音放送の始まるのを待っていた。この工場はもともとは船舶用エンジンを製造する民間工場だったが、(くれ)海軍工廠(こうしょう)の徴用工場となり、特攻機秋水の部品をつくっていた。神州八七〇二工場という名称である。従業員の半数近くは学徒動員の松江中学五年生だった。整列した従業員らの前の台のうえにラジオが鎮座まします、という具合に置かれていた。

 放送が始まったが、ザーザーと雑音ばかりで、声がほとんど聞きとれない。何かいっているのはわかる。その程度なのだ。

 玉音放送が終わると、上村弥太郎専務(後・上村海運社長、七十四歳)は従業員にこう挨拶した。

「皆さん、いまの陛下のお言葉は雑音が多くてよくわからなかった。もったいなくも(おそ)れおおいことだが私が想像するには、ソ連も参戦したことでありますし、なお乾坤一擲(けんこんいってき)、精進せよ、とのこととおおせであります。陛下の大御心(おおみこころ)に従って、ここで万歳三唱致します」

 上村が音頭をとった「天皇陛下万歳」は町内にこだました。散会したところ、取材にきていた島根新聞記者がビックリして上村専務を追って事務所に走ってきた。ここで新聞記者は、五、六枚のザラ紙に走り書きした「終戦の詔勅」を上村にみせる。このとき上村が咄嗟(とっさ)に思ったことは「エライことをした。陛下のお言葉をまちがえて伝えてしまった」ということだった。あわてて食堂に駆けつけ、そこで全従業員をもう一度招集して勅語を奉読した。読みながら、事態の意味が次第に実感として彼の胸にこみ上げてきた。上村は泣き出し、途中から声にならない。いまも上村はこの話をするとき、目に涙を浮かべる。生涯最大の痛恨事というだけでなく、うら悲しい体験でもあった。

 ただちに、工場を一週間臨時休業する旨を述べて部屋に戻ると、松江中学の動員学徒が五人ばかり彼のもとに押しかけてきて「こんなことで屈服するわけにいかない、戦おう」といってなかなか帰らなかった。「万歳三唱」が町内に響き渡ったことが上村には気にかかって仕方なかった。実際に、工場から「天皇陛下万歳」が聞こえたから、敗戦ではないと信じていた者も多かったのである。

 八月十五日の玉音放送が聞きとりにくかったことは、これまでに何度も語られている。松江も例外ではなかった。しかし、単に録音の悪さや電波のせいだけではない心理的な要因が、松江ではより大きく作用していた。日本が戦争に負けたという事実を追認することには抵抗があった。それは松江がほとんど戦災らしい戦災にあっていなかったこととも無関係ではない。あのラフカディオ・ハーンが好んだ松江の古い街並みはその面影をまだ残していた。

 空襲がなかった松江市でも、しかし、いつ焼夷弾(しょういだん)が雨あられとなって降るかもしれないという危機感はあった。七月二十八日には、近郊の玉造(たまつくり)温泉付近で列車が襲撃されている。宍道(しんじ)湖岸の旭水上飛行隊、といっても水上艇が数機の一個小隊の小さな基地だが、ここが四十数機のグラマン編隊に襲われ全滅。ついでに近くを進行中の列車も機銃掃射をうけた。たまたま乗りあわせた石橋貞吉記者の空襲体験記が七月三十日付の島根新聞に載っている。

「誰いうとなく座席の下にかくれろという。思い思いに座席を外して下にもぐり込んだ。相当な人数なので辛うじて低い姿をとっているに過ぎない。私は窓際の紳士と二人で座席を頭の上に支えた。爆音が近づく。息づまる瞬間、ダダダダ……と機銃の音、頭のそばでバッと火花が散る。本能的に身をかわしたが、その時眼鏡がふっ飛んだのと、(てのひら)に傷を受けたことを意識する。見ると私と一緒に座席を支えていた紳士が顔面(あけ)に染めて倒れている」

 石橋記者のリポートは「立派に物をいったぞ日頃の訓練 心得た待避の時機と場所」という見出しがつく。検閲を意識してのことであろう。この石橋記者とは、昭和五十八年、文化勲章を受章した文藝評論家山本健吉である。

 松江市でも七月に入ると建物疎開が始まっていた。空襲により発生する火災を最小限に喰いとめるための間引きである。疎開の決まった家には日の丸のついた疎開告示票が張られ、指定されると一週間以内に立ち退かねばならなかった。

 建物疎開による家屋撤去作業は玉音放送のあった八月十五日午後にも続行されていた。このことは県当局の勇み足として戦後の県議会で問題になるが、松江地方にとって、敗戦がいかに唐突であったかを物語ってもいる。

 昭和十六年(1941)十二月八日の開戦詔書には、永久戦争の理念が盛り込まれていた。戦争末期にも本土決戦・一億玉砕のスローガンが前面に押し出されていたから、松江に限らず二十年(1945)八月十五日の玉音放送で日本が無条件降伏したという事実を十分に受けとめきれなかった日本人は少なくなかった。

『記録・自決と玉砕−皇国に殉じた人々』(安田武・福島鋳郎編)によると、敗戦に殉じて自決した日本人は、八月十五日からわずか半月の間に三百二十三人に達している。自決した人たちにとって八月十五日とは、どんな日だったのだろうか。なぜ自決の道を選んだのだろうか。

 すでに前章(「元号に賭ける——鷗外の執着と増蔵の死」すでに当「電子文藝館」に展示。)で触れたように、今次の大戦は開戦詔書によって、終わりのない戦争として(たん)がひらかれた。途中で講和を考えるという発想はない。日本が世界の覇者となるまで永久に戦いつづける決意が、天皇の名のもとに発せられている。

 自決した彼らは、天皇を頂点とする国家の枠組みに自らの生を重ねていたにちがいない。「降伏する天皇」というイメージなど結び得なかった彼らには、無条件降伏を受け入れてしまえば、「天皇の存在の否定」は時間の問題であった。その意味で無条件降伏はまさに「天皇崩御」であり、自決は殉死であったにちがいない。二代にわたる「天皇崩御」より殉死者の数が圧倒的に多いのは、この戦争が全国民を巻き込んだ国家的祭儀であったことも暗示している。

 いっぽう、殉死を選ぶよりも「天皇崩御」を否定して蹶起(けっき)した人たちがいた。

 日本の無条件降伏に反対し徹底抗戦を叫んだ事件としては宮城録音盤事件が有名である。すでに『日本のいちばん長い日』(大宅壮一編著)として全貌はほぼ明らかにされ、テレビドラマや映画にもなった。八月十五日の玉音放送を阻止しようとする陸軍や近衛師団の一部青年将校の反乱だが、敗戦の日の十五日には終幕を迎えている。徹底抗戦を叫んで尊攘同志会と鶴鳴(かくめい)荘に属する反対派十二名が八月十五日から東京・愛宕山(あたごやま)に立てこもり二十二日に手榴弾(しゅりゅうだん)で全員自決した愛宕山事件もよく知られている。しかし、これとても蹶起は八月十五日でなければならなかった。

 島根県松江市で県庁焼打事件が勃発したのは奇妙なことに、八月二十四日未明であった。この事件は取締当局によって松江騒擾(そうじょう)事件と名付けられた。松江騒擾事件については、『日本近代史辞典』(京大国史研究室編)にわずかに記述がみられるが、その詳細はほとんど解明されていない。

 この事件は単なる示威行為として県庁を焼き打ちしたものではない。事件の首謀者らは民間人であり、島根県松江市という一地方で決行されたとはいえ、全国的規模の騒乱を前提として計画された、大日本帝国最後のクーデターなのである。

 県庁焼打事件は全国一斉蜂起をめざしたが東京はじめ各地に伝播、波及することなく消え去った。事件がほとんど注目されることなく消え去ったのは松江という遠方で起きたことや、もはや唐突とも思える時間的ズレによるが、当時の報道管制も考慮されねばならない。二十年八月二十五日付朝日新聞は、ベタ記事七行で「島根県庁舎焼く」とわずかに報じたにすぎない。

「二十四日午前二時頃、島根県庁(松江市殿町)本館から出火、無風にもかかわらず火の廻り早く重要書類等取出す(ひま)なく本館二階建のべ千九百六十坪を全焼。同五時鎮火した。なお死傷者各一名を出した」

 これで全部である。失火なのか放火なのかについては報じていない。もちろんその背景にも触れていない。

 クーデターを起こした皇国義勇軍が撒いた檄文(げきぶん)は最近になって、地元の山陰中央新報社に届けられた。

「このビラの持主は松江市のAさん。Aさん自身は当時軍隊にいたが、家族が拾って保存していたという。同種のビラはこの事件の公判などに証拠資料として登場したとみられるが、現在は不明。Aさん所有のものが現存する唯一のものかもしれない」(山陰中央新報。昭和五十五年〈1980〉八月十九日付

 檄文はA4判のワラ半紙にガリ版で刷ったもので、油が汚いところや滲んだところが目立ち、字も不揃いである。

 

   布 告

 大日本は神国なり

 絶対神に(まし)ます

  陛下に降伏なし

 今次の詔書は絶対 陛下の大御心に非ず

      (中略)

  降伏は死なり

 戦へば必ず勝つ

 県民諸氏!! 我軍に協力し断乎抗戦せよ

 協力せず売国奴的行為に出づる者は厳罰に処すべし

                   皇国義勇軍

 

 「陛下に降伏なし」「降伏は死なり」という布告の文面は、三段論法をもち出すまでもなく「降伏した天皇は生きていない」とならざるをえない。

 関係者は即座に逮捕され、第一審の松江地裁で判決が言い渡されたのは、事件から四カ月後の昭和二十年十二月二十四日であった。占領軍の目を意識した速決裁判といっていい。

 ▽岡崎功、無期懲役(求刑は死刑、以下カツコ内求刑) ▽長谷川文明、懲役十年(十五年) ▽森脇昭吉、八年(無期懲役) ▽波多野安彦、七年(十五年) ▽藤井良三郎、五年(十二年) ▽北村武、和泉未富、五年以上十年以下(同) ▽高木重夫、二年六月(十年) ▽白波瀬登、二年ただし五年間執行猶予(十年)▽宇佐昭一、二年ただし五年間執行猶予(六年)他。

 この事件は戦時特別法のため控訴審がなく弁護側、検察側双方とも直ちに大審院(最高裁にあたる)に上告した。

 二十一年(1946)九月十七日大審院第三刑事部梶田年裁判長は、弁護側の上告を「理由なし」として棄却した。これにより、岡崎は無期懲役が確定した。検察側の上告は長谷川ら七人について認められる。量刑が軽すぎるという理由であった。昭和二十一年十一月三日公布の日本国憲法が施行されたのは周知のように翌二十二年(1947)五月三日のことである。その前日の五月二日、大日本帝国憲法下最後の判決が大審院で言い渡された。大審院最後の審判こそ、この「松江騒擾事件」の判決であった。改めて一審より重い刑が科された。

 ▽長谷川文明、懲役十二年(一審では十年、以下カツコ内は一審判決) ▽波多野安彦、十年(七年) ▽森脇昭吉、十年(八年) ▽藤井良三郎、七年(五年) ▽高木重夫、五年(二年六月) ▽白波瀬登、三年(二年、執行猶予五年) ▽宇佐昭一、二年(二年、執行猶予五年)。

 

 事件のサブ・リーダー、長谷川文明(当時二十四歳)は昭和十六年に師範学校を卒業し、四年間国民学校に勤務した後、二十年四月、武内神社(松江市)の社掌になっていた。

 長谷川が武内神社の社掌となったころ、リーダーの岡崎功も武内神社に出入りしていた。宮司の息子と岡崎は「勤皇まことむすび」の松江分会で親しかったためである。また行動隊長格の波多野安彦もやはり同じ時期に武内神社に出仕(しゅっし)としてつかえるようになっていた。

 長谷川が主宰する短歌の会には、のちに波多野の妻となるスミヨもいた。このころ長谷川は影山正治の大東塾(だいとうじゅく)系の影響下にあり、岡崎と系譜は異なるが互いにその存在を知る。八月十五日までの残り時間はすでに少ない。むろん、この時点で彼らはまだ日本の敗戦を予期していない。

 岡崎が東京・巣鴨拘置所を釈放され帰郷したのは十九年(1944)九月であった。岡崎は松江中学卒業後、昭和十四年から十六年にかけて満州の三井物産奉天支店に勤務、十七年帰郷し、僧になる目的で立正大学専門部に入学。「勤皇まことむすび」の影響を受け、東条暗殺を企てた。当時の心境は岡崎功『回想録』(二十一年十一月十九日付松江地裁第一審公判中に記した「陳述記」が原本)では、こうつづられている。

「当時軍首脳部は、天皇をだまし、国民をだまして、聖戦の名のもとに、日本を勝つあてもない戦争へひきずり込んでいた。……事実を事実として陛下に奏上し、かつ国民に知らせるのが指導者の責任であるのに、真の戦況、政治の実状、空襲の被害を、陛下及び国民に隠蔽して、その責任を果さずにおいて、唯声を大きくして挙国一致を叫んだとて、何で挙国一致できるものか。何で総力戦が遂行できるものか。政治力の貧困は前線に於いてさえ陸海軍の協力を欠いている状態ではないか。(いわん)や国内に於て……こうして私は軍部の絶対権力に対して同志と共に捨身の抵抗を志した。これが、日本をアジアの民を無益な戦争の惨禍から救う唯一の方法と信じたからであった」

 岡崎は早大の配属将校から手榴弾二個と短銃一丁をもらいうけ東条暗殺の好機を待つが事前に計画が露見し、東京憲兵隊本部に連行されたのは十八年七月。未決拘留一年と少し、十九年九月に懲役二年(執行猶予三年)の判決を受けた。

 執行猶予で帰郷した岡崎を、当然地元の憲兵隊は要注意人物としてマークしていた。彼は松江の勤労動員署のイスをみつける。

 この勤労動員署で、岡崎は大東亜戦争の内実をみることになる。先に引用した『回想録』はこの動員署の体験が重ねられていた。

 岡崎は、宿直していたある朝、役所の玄関をどんどん叩く音で眼が醒める。雪が三十センチほど積もり一面銀世界である。雪明かりのなかに一人の男が立っていた。用件を訊くと、男は岡崎にこう哀訴した。

「一昨日徴用令状が来ました。しかし、家内は病気で寝ていますし、乳呑み児を看るものもいません。それゆえ、徴用をやめさせて戴きたいのです」

 徴用官に事情を話してみたらどうか、というと、すでにダメだと断わられているという。岡崎は男から徴用令状を受け取りその場で破りすてた。徴用を一律にやるのでなく、個々の事情を考慮して弾力的にやるべきである旨を署長に具申すると、「お前は戦争に協力しないのか」とどなられた。抗弁しながら、次のようなやりとりになった。「庇理屈をいうな。要員は底をついている。仕方ないじゃないか。他にやり方があるわけがない」「いえ、あります」「ならば一週間以内に呉海軍工廠へ行く女子挺身隊(ていしんたい)員七十五名を選定せよ」

 岡崎は丹念に身上調査簿をめくっているうちに、あることに気づく。裁判所長や検事正や有力企業の社長などの娘はなぜか動員されずに残っている。岡崎の人選は、これで決まった。そして地元島根新聞の記者に情報をリークした。翌日の紙面は「県民よ、これに続け、検事正令嬢など自ら志願して呉海軍工廠へ」。

 署長にこっぴどく叱られた。検事局から呼び出しがあり、「長官の家庭もいろいろ事情がある」と威嚇された。

 七十五名の女子挺身隊が呉に向けて出発する二日前、岡崎は大阪出張を命ぜられる。

「私が大阪から急ぎ松江に帰ってみると、呉海軍工廠行きの女子挺身隊員は既に出発してしまっており、小原裁判所長、岡本検事正らの娘は一様に取り止めになっている」(前出『回想録』

 彼は辞表を叩きつけ、その足で大日本言論報国会島根支部に行く。

 長谷川文明は、波多野安彦らとともに武内神社の社務所に集合して玉音放送を聞いたが、そのときの心理状態をいま回想していう。

「あの時、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏したということの解説があった後に陛下の詔勅を聞いたなら少しちがっていたと思う。だが、実際は雑音でよくわからない。だけど敗戦ということは何となくわかった。陛下の涙声交じりのお声を聞くうちに気持が決まってしまった」

 長谷川と波多野は、岡崎のいる言論報国会島根支部に急ぎ駆けつけた。

 すでに、岡崎は決意していた。彼の歌集『火雲』を引く。

  三千年侵されざりし国むなし  吾が身もともに征きて死なばや

 言論報国会島根支部の事務所は母衣(ほろ)町の弁護士和田珍頼の一室を使用していた。また、別に殿町(市内中心部)深田屋旅館の別館二階十畳の間を根城にしていた。ここには事件でともに蹶起するはずの県立農業技術員養成所の森脇昭吉、白波瀬登もきていた。深田屋は交通の便がいいこともあったが県の翼賛青壮年団の団長で仁多(にた)郡に屋敷をもつ桜井三郎右衛門の常宿でもあり、一種のセンター機能を果たしていた。

 桜井三郎右衛門(のち県農協中央会長、七十八歳)は、事件後一カ月以上経てから逮捕され、半月ほど拘留されたが不起訴となり無罪放免となる。当時の桜井は四十一歳であり、岡崎らを背後で操っていた黒幕とみられていた。彼は田部(たなべ)長右衛門、糸原武太郎とともに島根県の三大地主の一人で、現在も三千町歩の山林を所有する。

 桜井の場合は、有力者としての分別が働いていた。仁多郡の屋敷で玉音放送を聞くとすぐに松江市の連隊本部に駆けつけ、連隊長に面会した。顔馴染みである。その連隊長の真意を知ることが先決、という判断である。しかし連隊長は「すっかりサジをなげていた」。桜井が敗戦を確認するのはこの時点である。岡崎らの不穏な動きは知っていたが、急速に気分が萎えていく。

 八月十七日、十八日と美保航空隊基地から松江上空に飛来した海軍機は徹底抗戦を訴えるビラを撒いた。

 岡崎は徹底抗戦の一斉蜂起があると信じていた。まず在京の同志と連絡をとることが先決であるとの判断で上京を決意する。しかし、要注意人物の岡崎の動きを警察当局はマークしていたので、上京は阻止される。県警察部の特高課長は、岡崎に注意した。

「君に上京されると島根県警察の手落ちになるんで、取りやめてもらいたい。どうしても行くのならいま君を検束しなければならない」

 深田屋別館や和田珍頼の事務所には特高が日常的に出入りするという状況だったが、岡崎の上京をやめさせたことで油断していたのだろう。岡崎のかわりに波多野安彦が上京したのは気づかなかった。

 波多野は十七日に松江を発った。波多野が上京している間、岡崎と長谷川は蜂起計画の具体案を練り、ぎりぎりまで軍との連繋を画策するのである。

 波多野は一昼夜汽車に揺られて焼野原の東京に着いた。眼前に拡がる空襲のツメ跡をみても、日本には戦闘の余力がないと感じないのである。生まれて初めての上京であったから戦前との落差を感じる余裕はなかった。彼は中野の防空壕にいた国学院大学教授松永(もとき)の門下生西三千春を訪ねる。

 地下壕の入口にトタン板がかぶせてあり、そのうえに雑草が積まれていた。炎天下の昼下がりだったことが波多野には強く印象に残っている。

 西が波多野に東京の情勢を伝えたが、その内容は次のようなものであった。

「一、最後の御前会議で、阿南(あなみ)陸相、豊田軍需相、梅津参謀総長は徹底抗戦を主張したが、鈴木首相と米内(よない)海相は無条件降伏で、三対二となったので平沼枢密院議長を味方に入れようやく三対三とした。結論は翌日に持ち越されてなかなかきまらず、陛下が退席する際に鈴木首相は取り縋るようにして『ご聖断を』と絶叫したので陛下はポツダム宣言を受諾したのだ。

 二、近衛師団では詔勅は『陛下のご真意なりや』と蹶起した。

 三、横浜工専の学生が佐々木大尉の(もと)に集まり首相官邸を襲撃した。

 四、飯島与志雄ら尊攘同志会の同志は木戸内大臣邸を襲撃し、目下愛宕山に籠城中。

 五、霞ケ浦航空隊は健在で抗戦中」

 波多野は、西から霞ケ浦航空隊が撒いた徹底抗戦のビラをみせられる。

 帰り際に西は波多野にこういって見送った。「島根だけで軽挙妄動するなよ。やるときは全国一斉蜂起だ。必ず霞ケ浦から飛行機で迎えに行くからな」

 東京駅はしかし、大混乱だった。復員や買い出しの人びとでごった返していて切符の窓口も改札も機能していない。波多野は窓からようやく乗り込んだ。新聞紙を敷いて座席の下にもぐり込み、飲まず食わずでまた一昼夜汽車に揺られた。一刻も早く報告しなければと、ようやく京都を過ぎ汽車が空いてきたところで武内神社の長谷川に電報を打った。山陰路に入ると太古からの緑の山々が連なる懐かしい風景が眼前に拡がる。いよいよ到着である。松江駅のひとつ手前の馬潟(まかた)駅(現在の東松江駅)駅頭に長谷川が待っていた。無賃乗車の波多野は入場券を買ってもらい改札を出る。松江には上京する前と少しも変わらない日常性が支配していた。この東京と松江の秩序の決定的な落差も波多野には特別な違和感を与えていないのは不思議な気がする。

 八月二十二日付の島根新聞は一面トップで「連合軍・我本土に第一次進駐 厚木・相模・東京湾へ 二十六日より開始」と報じた。

 岡崎らはこの報道記事によって、蹶起予定日の決定を迫られた。もはや東京からの指令を待っていられない。

 二十二日の夜、岡崎は徹底抗戦のビラを撒いた美保航空隊基地に向かった。着いてみると飛行場はガランとしていて誰もいない。既に解散した後だった。だが、飛行機のもつ機動性は全国一斉蜂起には不可欠である。仕方なく米子の陸軍飛行隊と連結しょうと考えた。

「早朝馬潟まで行く漁船に便乗して、馬潟桟橋に着いた。馬潟駅で米子まで行く切符を求めたが制限されて到底入りそうもないから松江に電話をかけて、誰でもよいから米子行の切符を買って持ってきて貰いたい、と依頼すると、二番の汽車で長谷川君が来てくれた。私は切符を受け取ると、満員で乗れそうもない汽車の最後尾の鉄梯子(てつばしご)に飛びついて米子駅に向かった」(『回想録』

 しかし、陸軍飛行隊の飛行機は飛べないように部品をはずしてあった。もはや一刻の猶予もない。松江に戻ったのは二十三日の夕刻になっていた。岡崎は長谷川ら幹部数人と謀って二十四日未明の蹶起を決めた。襲撃場所も県庁、県知事と検事正、電話局、島根新聞社、大野火薬店、発電所、放送局と最終的に決めた。そこまで決まると岡崎はかねてより協力を依頼してあった憲兵隊に向かう。宿直の曹長が薄暗い部屋にポツネンと腰をかけていただけである。武器の貸与を依頼すると、

「自分の一存ではできない。隊長の官舎までいっしょにいってくれ」

 憲兵隊長は、以前に岡崎が蹶起を打ち明けたときは「ともに起つことはできないが武器の貸与なら可能だ」といっていた。ところが、今度は「勝つ見込みはあるのか」とか「成算があるのか」という。八月十五日と八月二十三日では応対が随分ちがっていた。もう熱が冷めているのである。

 連合軍の進駐を二日後にひかえた八月二十四日を蹶起の日とし、松江を起点とした全国一斉蜂起に思いを馳せた岡崎らの行動は、本土決戦の構図の上からはけっして唐突なものではなかった。「三千年侵されざりし国」に乗り込んでくるマッカーサーを頂点とする連合軍を迎撃し「征きて死なばや」とする岡崎らにとって、八月二十四日という日付はぎりぎりの選択だったにちがいない。

 すでに午後九時半を回り蹶起の時刻までいくばくもない。仕方ないと悟った岡崎は、ひとつだけ条件をのませた。

「武器を断念するかわり、我々が蹶起した場合、邪魔をしないでもらいたい」

 この約束は守られるのだが、蹶起を事前に知っていたこの憲兵隊長の責任はその後問われていない。

「憲兵隊長の家を出て事務所に帰ると既に同志は参集して盛んに気勢をあげている。私は事務所の神棚から御霊代(みたましろ)を下ろし、最後の礼拝を終ると、それを白絹に包み、波多野君の背に負わせ、警察に気付かれないように、同志を一人一人順次去らしめ、殿町の空家に集合せしめた。私は古志原部隊に連絡済であると聞いていたが、念のためもう一度部隊に向けて電話をかけた。しかし部隊からは何の応答も得られない。万事休す。私は天を仰いで嘆息せざるを得なかった」(『回想録』

 美保海軍航空隊も、米子陸軍飛行隊も、古志原一〇一部隊も、憲兵隊もすべて参加せず、従って民間人だけでしかも武器弾薬はない。岡崎はかなり精力的に軍の蹶起を働きかけており、「古志原の部隊は確実に一個中隊つかんでいた」(長谷川の証言)ほどだった。憲兵隊もかなり色よい返事だった。軍隊は最終的には中央の指令系統に従う。松江という一地方に駐屯していても、その地方の風土とは別の意識をもった他所者(よそもの)なのである。岡崎らは孤立して、大日本帝国最後のクーデタ一に向かって邁進(まいしん)していった。

 その夜、月光が冴える松江城外護国神社に集まった同志は岡崎の二十六歳を最年長とした五十三名。大半は二十歳前後の若者で、女子も二十名近く含まれていた。彼らは自らを「皇国義勇軍」と名乗った。

 

 岡崎らの蹶起までの動きは、水面下とはいえ、あわただしく活発であった。憲兵隊は蹶起を事前に打ち明けられ協力依頼されていたし、桜井三郎右衛門を中心とした翼賛青壮年団幹部も積極的な協力こそしなかったがアジトを提供する形で事実上黙認していた。一連の工作は松江市を中心とした狭い限定された地域で行われている。県の行政及び取締当局や情報に敏感なジャーナリズムは、彼らの準備活動を含め、こうした情勢をどうとらえていたのだろうか。彼ら自身の職業意識が敗戦という局面でどういう働き方をしたか。その両面を同時にみつめる必要があるだろう。

 当時の県庁首脳部の職制は、官選知事のもとに内政部長、経済第一部長、経済第二部長、警察部長という布陣であった。いずれも内務省から派遣された中央官僚である。警察部は部長の下に警務課長、特高課長、経済保安課長、刑事課長、勤労課長、警防課長がいたが、通常、特高課長を除くと地元出身の叩きあげで固められている。松江市内の日常的取締当局としては松江警察署があった。

 ジャーナリズムは島根新聞社(現・山陰中央新報)が市内中心部殿町にあり競争紙はない。これとは別に郊外床几(しょうぎ)山上にNHK松江放送局があった。かつて元号問題で告訴事件を引き起こした松陽新報と山陰新聞の二紙が競合し活発な取材活動を繰り拡げていたが、一県一紙の国策に迫られ、十六年(1941)十二月二十八日に合併し島根新聞という名称に切り換わっている。

 戦局が悪化するにつれ徴用で手薄になった島根新聞に、東京など大都市からの疎開組がかなり流れ込んでいた。すでに触れた石橋記者(山本健吉)はその一人であった。編集局長の鈴木恒治(元社会党委員長鈴木茂三郎の実弟)も読売新聞からの出向組だった。

 県当局の幹部も中央から派遣されていたが、ジャーナリストにも地元出身者以外の比重が高かったことは留意しておくべきであろう。

 当時県警察部警防課長兼警務課長だった西村国次郎(七十八歳)は、事件後の二十一年(1946)九月に『島根県庁焼打事件懺悔(ざんげ)覚書』(以下『懺悔覚書』)を記した。岡崎らが出所した二十七年(1952)に警察関係者に配布されている。『懺悔覚書』は、その名のとおり、当局がなぜ事件を阻止できなかったかということを反省しつつ克明に内部の動向を綴った資料である。

 西村は「まえがき」で島根県庁焼打事件を「一代の失敗、一生の恨事(こんじ)」と書く。そして次のような分析をするのだ。

「元来、終戦時の平静さは何によってもたらされたものであろうか。もとよりご聖断に対する承詔必謹的な国民感情に基づく処もあるが、然しそれよりも、むしろ当局の戦局の真相を知る者や、また空襲の苛烈悲惨さを身をもって体験した戦災者などは、既に我が国に勝算のないことを予想していた為に、無条件降伏となっても、新なる憤激も、衝動も、今更に起こらなかったということが、より大なる原因であったと思う。かような観点からすれば、格別の戦災というほどの戦災もなく、また比較的生活物資も豊かである上に、大本営発表以外に何も知らないで、唯々最後の勝利を確信していた島根地方などにおいてこそ、まさに何事かが起こるのが当然であったといわねばならなかった」

 当時の県知事(十八年八月着任)は山田武雄(後・奉公協会理事、八十七歳)である。山田は二十年の沖縄決戦の敗北後急速に戦局展望について希望を失っていた。以来「日本は敗けるゾ」と口にするようになった。内政部長鈴木菊男(五十二年九月東宮大夫を退官、七十六歳)は十九年の着任以来、南方における司政官時代の体験を語り、やはり「日本は敗北だ」というのが口癖で軍部や政府の施策を罵倒(ばとう)していた。また二十年(1945)四月までいた前警察部長は十九年六月に赴任してきたが、前職は神奈川県特高課長だった。東条内閣の失政と民心の離反、和平待望と勝利の見込薄、軍の派閥対立と陸海軍の抗争など、おりに触れて中央における情勢を断片的に話すのであった。

 西村はその感想を「実に不思議なことを聞くものだという気持」であったと記す。彼自身もまた、職務の関係で広島師団参謀部や中部軍司令部の参謀と親しくなり、戦局の見通しなどについて語ることがあった。このうちある将校は、二十年四月にそっとこう耳うちした。

「戦争の施策はすべて九月までを目標にしてやらねばならない。もしそれ以上長く日時を要する事柄は恐らく戦時の役に立たない」

 西村はこのとき、勝利か全滅かの二途しか考えられず、後者の意味に解した。無条件降伏など夢想だにしたことがなかった。

 叩きあげの一介の警察課長西村の位置は、為政者と庶民のちょうど中間にあった。情報としては第一級のものが彼の耳に入る。それを彼は松江に住む一人の庶民として驚きまた悩むしかない。彼は「無条件降伏」など思いもつかず日本は全滅するかあるいは指導的地位にいる男子はすべて死刑になると信じていた。こういう思いは、玉音放送を聞きちがえた上村弥太郎とも似ている。彼も敗戦なら「一億玉砕で皆死ぬものと思っていた」が、いっぽう漠然と神風が吹くかもしれないと考えていた。

 西村の想いは、敗戦を機に殉死の道を選んだ三百二十三人の人たちや、八月二十四日に蹶起した岡崎たちと紙一重のものであり、天皇を頂点とする国家の枠組みに自らの生を重ねていた人たちのものでもあったろう。

 八月十五日が近づく。情報は少しずつ漏れていく。

 十九年に神戸から疎開して島根新聞記者になった地元出身の小田川八郎(六十六歳)は八月十四日に敗戦を知った。石油の代用品として松根油の生産が奨励され県下各地でその増産がはかられたが、彼はその取材でこの日も郡部にでかけた。帰途、宍道(しんじ)駅で汽車を待っていたところ、彼の背後で二人の県会議員がヒソヒソ話をしている。聞き耳を立てるとこういっていた。

「田部さん(長右衛門・翼賛代議士、島根新聞社長だが名誉職的立場にいた)が "戦争より重大なこと" で上京するらしい。そうなると、勇ましいのがおるからたいへんなことにならんだろうか」

 小田川記者はさっそく社に戻り鈴木編集局長に伝えた。鈴木局長は田部社長に電話をした。情報は正しいことがわかる。各記者が予定稿の談話をとるよう手配された。その一人が、軍需工場の上村弥太郎専務を取材に訪れたのである。だが、敗戦を玉音放送前に伝えるわけにはいかず「万歳三唱」の成行きになってしまった。

 小田川記者と同僚の西尾忠良記者(六十四歳)も地元出身だった。新興キネマのシナリオライターを経て満州日日新聞東京支局から十八年に疎開して松江に戻っていた。県政担当の西尾は八月十五日の県庁取材の帰り、県庁の真向かいにある翼賛青壮年団本部に立ち寄った。しばしば取材に訪れていたことから、ここに出入りしていた岡崎とは旧知の間柄でもあった。顔馴染みのある幹部がチラリと漏らした言葉を彼は敏感に察知した。その幹部は敗戦について、このままじゃ納得できない、ということの説明に「いまにわかるさ」といったのだ。そのとき「岡崎のことだな」とピンときた。西尾は岡崎を探すのだが、みつからない。勘を働かせて憲兵隊本部に行く。

「隊長、右翼が県庁を襲撃する話があるんだけれど……」

 ヤマカンで挑発してみた。机に向かい忙しそうにペンを動かしていた憲兵隊長は一瞬手を休めジロッと西尾を一瞥した。脈ありとみた。西尾はかまわず続けた。

「岡崎功一派が蹶起するというんですがね」

「そんなことあるものか。とんでもない情報をもってきて変なことを流されたりしたら迷惑だ」

 憲兵隊長は椅子を正面に向け直していった。否定しながらも、こちらの話に応じているところから、「やはり」と西尾は確信をもつ。社に戻り鈴木局長に報告した。鈴木局長は「警察部にいってくる」といい残して席を立った。約一時間ほどして戻ってきた鈴木局長は西尾を応接室に呼んでいった。

「特高が一応内偵しているとはいっていたがキミ、楽観的だったゾ。裏もとれん話だし。ま、も少し掘り下げてみてくれないか」

 鈴木局長自身も楽観的だったのである。

『懺悔覚書』によると、「田舎者に何ができるか」という軽蔑感が警察部内にあったという。

 西村が敗戦を知るのは十三日であった。情報局から二十年四月に赴任してきた鹿土源太郎警察部長(後・弁護士、七十六歳)が各課長を部長室に集合させた。

「君たち、大変なことになったよ」

 といきなりいい、無条件降伏の秘密電報を受けたことを報告した。「大変なことになった」と独り言のように繰り返していた。

 西村はただ呆然として足下がグラグラと揺れ奈落の底にスウーッと落ち込むような思いがした。涙がとめどなく流れた。ハンカチを出して涙を拭おうとしたら、感情が激してのどがクックッと鳴ってとめようがない。

 長い沈黙の後、ようやく治安対策についての協議が始まった。そうして次の五点について申し合わせた。

 一、特高警察は軍隊及び右翼の視察を徹底すること。

 二、警務課では降伏発表の場合は、直ちに警察官に対して訓諭を出す準備をしておくこと。

 三、以前から招集してあった八月十五日午前の各署特高主任者会議は予定通り開催して右翼方面の視察励行の打ち合わせを行うこと。

 四、刑事警察においては終戦時の混乱に乗ずる犯罪の予防対策を考察樹立しておくこと。

 五、建物疎開は降伏発表の時期の予測がつかないから、疎開作業は継続すること。

 なお、この時点で、西村は降伏発表まで相当期間があるとみていた。

 八月十五日になり、正式に降伏発表があった後、治安対策の課長会議が開かれないので西村は不安になった。少し以前から県当局の指揮系統が少しずつ乱れていたことも、西村には気にかかることだった。

 敗戦が明らかになった十三日、山田知事は建物疎開(警察部の管轄)の即時中止を希望したが、鹿土警察部長は、「もし、疎開を中止すると県民が敗戦を予想して不祥事を起こすかもしれない」と拒否している。

 鹿土警察部長と和田才市特高課長の間もしっくりしていなかった。ふつう特高課長は本省のエリートコースの者が就くポストだが、和田は地元出身の叩き上げで、上司の鹿土部長と同年配だった。平素から「特高は一段と高いところから警察はもちろん県政を批判すべきものである」といってあたり(はばか)らず葉巻をくゆらせ、コートを着用したまま部長室に入り、ハナから椅子に腰かけて用談するなどの態度が顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。部長とは建物疎開の実施方法をめぐって対立したこともあり、両者はかなり感情的になっていた。和田特高課長は西村に平気でこういったりもした。

「もう警察部長には何事もいわない。ただいわれたことをハイハイといっておけばいいのだよ」

 山田知事は八月十六日と十七日の両日、県下各方面の市町村長をはじめ指導的立場にある人びとを終戦処理のため県会議事堂に招集した。

 翼壮団長だった桜井三郎右衛門は当時の記憶を反芻(はんすう)しながらいう。

「あのときの県幹部の態度は、やたらに腹立たしくさせるものだった。とくに内務省から派遣されたなんとかいう官僚はだいぶ反発を買っていたのを覚えている」

 その内務官僚は『懺悔覚書』ではむしろ評価されている。これは立場のちがいにもよるだろう。その部分を引用する。

「その際たまたま知事を訪問されていた佐藤彰三事務官(伊国駐在であって終戦直前帰国した方)も臨席されて海外から眺めた日本と終戦の意義というような内容のお話があった。佐藤さんは開口一番『今回の終戦は非常にありがたい御聖断であって、今日となっては降伏以外に日本民族の再生する道はない。此の御決定は陛下なればこそ出来得たのであってわれわれ国民は涙とともに感謝しなければならない……』と冒頭して、海外から祖国日本を眺めたとき、いかに日本の実力が貧弱であったかということや、また日本が戦争末期から採用した特攻戦法は、すでに出し遅れであることなどを具体的に明快に説き来り説き去って、陛下の御心労を恐懼(きょうく)し、承詔必謹の態度を強調して結論とされた。私は佐藤さんのお話の最初の一節に非常に感激して釈然として、心から御聖断に対して感謝の念が湧き出るような気持になった。然し参会した人々の中から種々の意見や、また憤激の言葉が吐き出された」

『懺悔覚書』には佐藤発言に対する翼壮最高幹部つまり桜井であるが、その発言が載っている。

「今まで戦争遂行を主張し、且つ指導してきたわれわれとしては、いかに御聖断に基づくものとはいいながら一夜の間に、今度は戦争をやめて落着いて家業に励め、というようなことはどうしてもいわれない」

 また別の幹部は激しい口調で知事にとびかかりそうな勢いで、こう発言している。

「われわれは官吏のように、政府命令によって掌を返す如くに節を曲げることは出来ない。われわれがいままで如何(いか)に戦争遂行に苦労したかを考えて貰いたい。われわれ青年はこのまま座視することは断じて出来ない。もしまた今回の御聖断となるまでの間において君側(くんそく)(かん)の策動があったとも思われぬでもない……」

 この発言はそのまま岡崎の発言としてもおかしくはない。ほぼこれと同じ主旨の演説を二十四日未明の蹶起の際、護国神社境内でやっているからだ。翼壮団長の桜井にしても、別の幹部にしても、ことを事務的に処理しようとする官僚に心情的についていけない。情報を独占していた官僚には敗戦は、彼らほど唐突ではない。そのことがもろもろのいきさつとともに反官感情を呼び醒まし、はては「君側の奸の陰謀」という形で不信を表明し自ら納得する。佐藤事務官に対して「それだけわかっていたのならなぜもっと……」「いまさらなにを……」という気持になるのは当然であろう。西村のように少しずつ上層部から漏れる情報が躯に滲み込んでいたら、違和感は少なかった。

『懺悔覚書』によると、このとき知事はこう答えている。

「○○君、君の心情はよくわかる。然し君でも俺でも、そこらに転がっている "石ころ" にも劣る小さな存在ではないか。われわれの苦労が何だッ。陛下の御心中を拝察すればわれわれには何もいうことはないではないか……」

 このひと言で会場は水を打った如く静かになって重苦しい沈黙が支配する。やがて、みな悲痛な面持で散会した、と記録されている。

「陛下の御心中を……」のひと言が切り札となってそれぞれが不満を鬱積させて帰ったわけである。このあたりの経緯は非常に日本的というしかない。

 山田知事は回想してポツリといった。

「急行列車に急にとまれといったって、無理なんだよ」

 彼自身、玉音放送のあと県庁職員を集め詔書を読み始めたとき、「しのびがたきをしのび」というところで泣いてしまった。

 山田も桜井も官民の差はあったが、四十、五十歳という分別盛りの年代である。やらねばならぬ煩瑣な事柄を多く抱えていた。わだかまりは青年層にアモルフな形で沈澱していく。

 

 八月二十四日午前一時ごろ、護国神社の拝殿左側の椎の木陰に一同を集め、岡崎功はおごそかな口調で最後の演説をした。

「……未だ戦うに足る兵力を擁しながら降伏するということは日本の国体を最も危くするものである。日本の歴史上で最も悲惨であった延元の敗北は、かしこくも後醍醐天皇を吉野の河に剣を按じて沈ませ奉り、楠正成(くすのきまさしげ)公を湊川(みなとがわ)に討死させた。けれども、この時の大悲劇が後世の人の胸を打って尊皇討幕の思想を復興し、明治維新の原動力となったのである。このことを思えば八月十五日の悲劇も、またわれわれの死と共に後世の日本精神復興のよすがとなるに違いない」

 女子隊員のすすり泣きの声が聞こえた。このあと波多野が東京の状況を報告し、つづいて長谷川が、それぞれの襲撃目標、部隊編成を指示した。

 一 知事官舎、岡崎功ほか五名。

 二、検事正官舎、高木重夫ほか三名。

 三、島根県庁、森脇昭吉ほか三名。

 四、松江郵便局、藤井良三郎ほか二名。

 五、中国配電、長谷川文明ほか四名。

 六、島根新聞社、白波瀬登ほか四名。

 七、大野火薬店、波多野安彦ほか二名。

 八、森脇幹栄ほか女子隊員十五名は分担して檄文配布。

 各目的達成後、松江放送局に結集しここを占拠してラジオにて断乎抗戦を全国民に訴える。なお一般市民にはいたずらに危害を加えてはならないが、妨害するものは殺害しても目的を達成せよ。一斉蜂起の時刻は午前二時四十分とする。

 時計は午前一時を回った。まずもんぺ姿の女子隊員が檄文配布のため二人一組になって下山していった。男子隊員はカーキ色の国防服にゲートルを巻き、長谷川と森脇が日本刀を手にし藤井がダイナマイトを抱えていたほかは武器らしい武器がない。岡崎のギリギリまでの画策も不調に終わっていた。岡崎は意を決して数人を引き連れ、彼の母校松江中学の銃器庫に忍び込み、三八式歩兵銃に銃剣各十五丁を取り出した。弾丸はない。護国神社に戻り武器を分け与えると、いよいよ決行である。各班は三々五々山を下った。

 一番近いのは城のすぐ南隣にある県庁で、城の北側の護国神社から小走りに歩いてものの五分とかからない。他の襲撃箇所も市内の中心部がほとんどだから十分から二十分足らず、例外は中国配電の発電所で、城から南西に四キロ余り、最後の終結地床几山のNHK松江放送局も南東に五キロほどの距離がある。

 森脇を班長とする県庁襲撃隊は午前二時には、もう県庁構内に忍び込んでいた。が思わぬハプニングが発生し計画全体が狂ってしまう。森脇隊の一人が警邏(けいら)中の松江署員に目撃されたのだ。この隊員は結局近くの防空壕に飛び込んで身を隠しおおせた。が、森脇は一刻も猶予できないと判断。残りの二人の隊員を連れて構内車庫に飛び込み、消防車のガソリンを抜いて(わら)に浸し、二手に分かれて庁舎内に侵入し放火した。火は廊下を走った。またたく間に木造二階建の県庁舎は黒煙を噴き始めた。

 森脇ら県庁襲撃隊は、時刻は二十分以上早すぎたものの放火に成功したので、目立たないように城山を抜けて放送局に向かおうとした。県庁舎北側の千鳥橋を渡り、城に通ずるつづら折りの石段を昇りかけたところ、あわてて駆け降りてくる男とバッタリ出会った。石段の上の茶店二松亭の主人曽田完(当時三十六歳)で、彼は目前の火事にビックリして半ズボンに地下足袋姿で出てきたのだった。

 森脇は無我夢中で日本刀の(さや)をはらい切りつけた。刀は右掌をかすめただけだが、よろめいた曽田をめがけて銃剣を構えていた隊員の北村武が腹部を思いきり突いた。森脇らが駆け抜けた後、曽田は石段を這い上がり茶店の玄関の前でこと切れた。

 午前二時二十分、山田知事は枕元の警察電話のけたたましいベルの音で目を醒ました。「県庁が火事だ」という報告で十六、十七日の会議のいきさつからすぐに「これは異変だ」とピンときたという。大急ぎでゲートルを巻き国民服を着て無意識のうちにステッキを手にして飛び出した。同時に彼の妻は裏口あたりでガタンという物音を聞いている。知事官舎襲撃隊の岡崎らは一足遅かったのだ。山田知事はお堀端を県庁に向かって走った。もし曲者(くせもの)が襲ってきたらステッキで応戦するつもりだった。岡崎が知事官舎内に侵入したとき、すでに山田知事は燃え盛る県庁舎を眼前にしていた。

 島根新聞の小田川記者は少し遅れて現場に着いたが、すぐに県庁舎脇の「ご真影」を安置した奉安殿前でこぼれる涙を拭おうともせず仁王立ちのまま、茫然自失の山田知事をみつけている。

 小田川記者も茫然自失。群衆もみなそんな感じだったと、そのときの光景をこう証言する。

「県庁はただ音もなく粛々と燃えていてその静けさは不気味なほどだった。真っ赤な炎が遠巻きに見守る群衆の影をかえって黒々と映し出してい、その黒い群衆はしわぶきひとつないほど静かでした。消火作業を率先してやろうという者もいない。ただ、黙ってみている。火勢はどんどん強くなっていく。日本はどうなるんだろうと思いました。みな同じ気持だったんでしょう」

 西尾記者も駆けつけていたが、ある予感が彼をとらえた。きびすを返すと人波に逆行しながら島根新聞社に急いだ。

 途中憲兵隊長と行きちがうのを素早く視線にとらえた。

「やっぱりやりましたね」思わず声をかけた。憲兵隊長は黙ってジロリと視線を投げ返し走り去った。「いまさらどこに行こうというのか」と西尾は思った。島根新聞社に着くと、予感があたっていた。活字箱がひっくり返され数万本にのぼるおびただしい活字が床に散乱していた。

 島根新聞は、このため三十一日までタブロイド判で発行せざるを得なくなる。

 県庁焼打が予定より二十分以上早かったため、岡崎ら知事襲撃隊も高木ら検事正襲撃隊も不成功に終わった。知事も検事正もー足早く警察電話で呼び出された後だったからだ。郵便局の電信・電話施設をダイナマイトで破壊するはずの藤井良三郎隊は導火線を燃やしただけ。ダイナマイトは不発だった。町はずれの大野火薬店に出向いた波多野らは地理不案内でもたもたしている間に県庁の炎がみえ、人々が戸外に出始めたので断念して放送局に向かった。一番遠い発電所に向かった長谷川らも、途中で県庁に向かう人波とすれちがった。日発火力発電所に着いたのは午前三時。抜刀した長谷川らは宿直者を起こしスイッチを止めさせた。隣接の中配変電所の送電線用ケーブルを日本刀の据物切(すえものぎ)り二太刀で切り落とした。このため市内は三時間半にわたって停電になった。

 長谷川らは急いで放送局に向かった。床几山はすでに軍隊に包囲されていた。「ここで自決しよう」という若い隊員を押しとどめて家に帰した。長谷川は連日連夜の準備活動の疲れが出て雑木林の草むらに横になっているうちに睡魔に襲われ、そのまま夕方まで寝てしまう。

 床几山の放送局には長谷川隊を除く岡崎ら全員が集結し、金沢武夫放送局長に「蹶起趣意書」の全面放送を迫ったが拒否された。そのうちに放送局は武装警官隊と松江連隊計約七十名に包囲されてしまった。

 やむをえず、岡崎は自分の命と引き換えに皇国義勇軍全員の罪を問わない、という条件で投降する。

 義勇軍は松江署まで、武装のまま手錠もかけられず連行され剣道場にいったん収容される。岡崎は別室で和田特高課長らと全員の処遇について話し合いに入った。特高課長は、

「検事正が、首謀者一人の命と交換に他の暴徒を釈放するわけにはいかない、といっているので、先の約束は撤回する」

 と通告してきた。岡崎は、憤然として抗議したが、もはや敵の手中にありいかんともしがたいことを知っていた。

「同志に相談をさせて欲しい」

 といい、剣道場に戻った。

 戻ってみると、食事を終えて車座になっている同志たちは緊張がほぐれてホッとしているのが明らかにわかるのだった。十八歳から二十歳ぐらいの彼らは(あどけ)ない少年の面影を顔面いっぱいに取り戻している。

 岡崎にとって最も苦しい選択はこのときであったろう。放送局で包囲されている間なら「突っ込めッ」ともいえたが、もはや「死ね」と命ずることもできない。といって「全員取り調べを受けてくれ」ともいえない。ここで自ら命を絶って約束通りに全員を解放させてもらうしかないと悟った。

「取り調べを堂々と受けてくれ。釈放されたあかつきには日本の再建のために頑張って欲しい。こういう結果を招いて済まなかった」

 というと懐中から、よろい通しを素早く取り出し腹に刺した。腹を切るとき、バリバリと紙を裂くような音がして一度ヘソの下で浮き上がった。岡崎は同じ傷口にもう一度、よろい通しを刺した。特高課長と放送局長はあわてて駆け寄ろうとしたが、日本刀をつかんだ波多野が目を血走らせて立ち向かう。真っ赤な血が床の上に飛び散っている。岡崎は波多野を制しながら「天皇陛下万歳」と叫び、よろい通しを今度は首筋に突き立てその場に伏した。

「『ワァッ』『ウワァッ』と号泣、喧騒する大声がするので驚いて現場へ飛んで行ってみると、剣道場の板場で首魁(しゅかい)その人がうつ伏せとなって居り、その傍らには日本刀が投げ出されており、また真赤な血潮が流れ出ている。同室の犯人たちは手をあげて号泣している。うつ伏せとなった首魁その人の両側には特高課長と放送局長が棒立ちになって居るのをみる」(『懺悔覚書』

 岡崎は意識不明のまま直ちに松江日赤病院に運び込まれ危うく一命をとりとめた。

 裁判の結果は、先に記した通りである。しかし実際に無期懲役を言い渡されたリーダーの岡崎功が刑に服したのは、六年七カ月にすぎない。昭和二十七年には出所しているのだ。第一審の懲役十年では量刑が軽すぎるとして、大審院で懲役十二年を言い渡されたサブ・リーダーの長谷川文明、同じく懲役七年を十年にのばされた行動隊長格の波多野安彦もやはり、六年で出所した。

 恩赦による減刑令の対象に二度もなったからである。ひとつは昭和二十一年十一月三日に公布された「第二次大戦終結恩赦及び日本国憲法公布恩赦における減刑令の修正」、別のひとつは昭和二十七年四月二十八日公布の「平和条約発効・講和恩赦」である。

 恩赦には大赦、特赦、減刑、復権の四種類があり、このうち大赦がもっとも重大な意味をもつ。大赦は、公訴権を消滅させることができる。大赦が適用されると、係争中の裁判でも「なかったこと」になる。岡崎らの蹶起は、昭和二十七年四月二十八日公布の「平和条約発効・講和恩赦」による大赦令によって、「なかったこと」にされてしまったのである。

 死を()して全国的規模のクーデターを計画した青年たちの企ては、あえなく(つい)えたばかりでなく粛々と刑に服することも許されず、娑婆(しゃば)に押し出されてしまった。恩赦の悪戯(いたずら)によって。彼らの心情から察するに、さぞや無念なことだったろう。

 

 この不可解な作用を発する恩赦(特に大赦)とは、いったいなんだろう。

 明治に法体系が確立されて以降、大赦令が発動されたのは、わずか七回である。

  大日本帝国憲法発布 明治二十二年二月十一日

  明治天皇大喪    大正元年九月二十六日

  大正天皇大喪    昭和二年二月七日

  第二次大戦終結   昭和二十年十月十七日

  日本国憲法発    昭和二十一年十一月三日

  講和成立      昭和二十七年四月二十八日

  国際連合加盟    昭和三十一年十二月十九日

 明治憲法下では、閣議が恩赦を奏請する相手は天皇である。恩赦は主権者である君主の恩恵的行為として行われるのが建前であった。大正天皇の崩御にともなって昭和二年二月七日に発布された恩赦では、不敬罪に問われ大審院で審議中の大本(おおもと)教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、治安維持法違反の堺利彦(さかいとしひこ)らが大赦令の対象となっている。不敬罪に問われている人物が、まさにその天皇の名によって罪が(ゆる)されるという、君主の恩恵的行為の典型である。

 主権在民の新憲法下にあっても、恩赦は「行政権によって国家刑罰権の全部または一部を放棄する行為で、三権分立主義の例外をなし、行政権が司法権に干渉する結果となる制度であるが行政権の行使について、主権者である国民の代表機関である国会に対し責任を負う内閣の行う行為」(平田友三法務省保護局前恩赦課長)である。わかりやすくいうと、国会での承認の必要がない閣議決定のみの一片の政令で司法権に干渉できるのが今日の恩赦なのである(いっせいに行われる政令恩赦とは別に個別恩赦があり、これは個人個人についてその都度恩赦を行うのが相当であるかどうか審査した上で行われる。個別恩赦の決定は、中央更生保護審査会が法務大臣に対し恩赦の申し出をした者に対してで、たとえば帝銀事件の平沢貞通が申請していたケース)。

 当然のことながら、君主の恩恵的な行為という要素はなくなっているが、次のように恩赦の自浄作用に対する期待が消えたわけではない。

「恩赦は、刑罰権に対する国家の反省に出発する。刑罰が果たして国民生活の安定、秩序の維持に役立っているか否かを省み、生きた人間社会の内の不合理が、もし、刑罰に由来していると結論される場合においては、国家は自ら恥じて、これを(もたら)した原因たる刑罰を除去しなければならない。それは単なる恩恵に(あら)ずして、国家の当然の義務である」(鈴木寿一「恩赦」、団藤重光編『法律実務講座』

 過去七回にわたって大赦令は発動されているが、そのきっかけには共通したものをみることができた。明治天皇大喪と大正天皇大喪は、主権者である天皇の崩御にともなって国をあげて悲しみにひたるとともに、先帝の遺徳をしのんでのことである。明治憲法発布の際は、近代国家としての法的な礎を確立したことにともなうものであった。日本国憲法発布から講和、国連加盟までの一連の恩赦は、敗戦を契機にして憲法の根本的な改正にはじまり、国の独立、国際社会への復帰という国家再生の節目に対してであった。

 では、新憲法下での大喪に際して大赦令が発動されるとすれば、その理論的な根拠はどうなるのだろうか。

 それというのも、過去二回は天皇主権が憲法に(うた)われていた時代のことだが、いまは主権在民ということになっている。明治憲法下において、恩赦は国家の慶弔に際して行われ、天皇の恩恵的行為とされてきた。しかし、いまはちがう。現行法体系のもとで、いかなる解釈をとりうるだろうか。

 そのひとつの根拠として挙げられているのは、金森徳次郎国務大臣が日本国憲法制定の際に、貴族院帝国憲法改正案委員会において説明した内容である。

「……刑罰というものの効果が、ある特別なる段階に於きまして、例えば国家に非常にお目出たいことがあるというようなこと、悲しむべきことがあるというような場合に於きましては、人心に対するその非常な刺激が現実の刑罰に代わって十分に目的を達し得る場合もあろうと思います。そういう場合を調節する何等かの手段がなければならないのであります」(清水伸著『逐条日本国憲法審議録』第一巻

 もっとも近い例では沖縄復帰恩赦(特赦と減刑のみ)での前尾繁三郎法相の記者団に対する談話がある。

「本日、沖縄県民はじめ国民全体が久しく待望していた沖縄の本土復帰が実現したが……戦後を脱却してわが国の平和と繁栄を期する点において、平和条約の発動、国連への加盟等とともに重要な意義を有する国家的慶事であり、まことに喜びに堪えない。‥…この際不幸にして罪を犯し、刑に処せられた者もその社会活動の障害を除き…」

 やや苦しい弁明だが、いちおう、戦後処理(社会変動)という文脈をちらつかせることが沖縄復帰恩赦では可能だった。金森も前尾も「国家的慶事」という機会には、恩赦の意味があるというのだ。しかし、その国家的慶事も、第二次世界大戦終結、新憲法、講和条約、国連加盟など、いずれも社会変動とそれにともなう法令改廃があったから、「慶事」としての意味をもつのである。

 では大喪は、国家的慶弔だが、社会変動なのか。新憲法下の解釈においては「君主(天皇)の恩恵」という恩恵思想は成り立たない、と誰でもが信じやすい。

 しかし、法務省保護局平田友三前恩赦課長は、次のような解釈も成り立たないことはないと答えた。

「もし天皇が亡くなった場合、世の中はあげて哀しみに浸るだろう。そして新天皇が即位したら今度は喜びが国中に満ちあふれる。国民が、この一連のできごとに心が大きく揺さぶられることは確かだから、社会変動といえないこともない」

 そして参考として、この一節を示した。

「国家的慶弔あればとて、国家が国民生活の安定を確保し、社会の秩序を維持すべき責を免るるいわれはなく、その責を果す手段としての刑罰権を(みだ)りに放擲(ほうてき)するの無謀を許すべきでない。畢竟(ひっきょう)、国家的慶弔は恩赦の合理的根拠とはなり得ない。ただ、その国家的慶弔が()いて前述の社会的変動を齎す(てい)のものであるときは、おのずから別問題である」(前出『法律実務講座』

 以上の見解は、第二次世界大戦終結にともなう恩赦についてあてはまる可能性がありそうだから、ことは厄介なのだ。

 第二次大戦終結恩赦は、GHQの指示であった。その際の大赦令では、治安維持法などで検挙されていた政治犯の釈放のほか、陸・海軍刑法に規定する罪、国防保安法の罪、軍機保護法の罪、兵役違反の罪、言論・出版・結社等臨時取締法違反の罪、宗教団体法違反の罪、国家総動員法違反の罪等、六十一項目にわたる罪名を掲げて、罪に問われたものを赦している。

 当時、日本政府は敗戦による人心の動揺を収める意味からも、恩赦という自浄作用をすすんで国家意思として行おうとしていたのだが、GHQに先取りされてしまう。

 東久邇(ひがしくに)内閣(昭和二十年八月十七日−十月五日)が天皇の名において大赦令を発布しょうとした事情を当事者は、こう回想している。

「十月五日(金)……大赦令は鈴木前総理から申送りがあったので、私は、しばしば司法大臣に早く実施するように催促した。しかし、司法官吏の官僚式な事務手続に暇をとって、その実施はどうしても十月末になるということだった。また、大赦令の実施について、陸軍からも尚早であるという強い反対があった。復員がひと通りすむまで待ってくれ、という理由だった。

 もっとも必要なことは、天皇の名で重刑に処せられた人々を、連合国の指令で釈放するのではなく、天皇の名でゆるすことである。これは国民の精神上の問題であるということである。この私の考えが実施されなかったことは、私にとって実に残念であったが、これは、私が総理として政治的経験がなかったことと、私の無力をつくづく感じた」(東久邇稔彦(なるひこ)『一皇族の戦争日記』

 大赦令を発動する主導権争いがGHQの勝利に終わったのは当然といえた。このとき国家の司祭は、天皇でも総理大臣でもなく、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥だったからである。

 とすれば、第二次大戦終結恩赦は、明治天皇大喪、大正天皇大喪につづく、明治憲法の規定する「神聖ニシテ侵」すことの出来なかった昭和天皇の大喪、すなわち「天皇崩御」にともなう三度目の恩赦ではなかったか。

 このGHQによって発令された恩赦の恩恵的行為をまっさきに受けたものは、第二次大戦終結恩赦が発令された二カ月後に「人間宣言」を発し、さっさと神聖な衣を脱ぎすて再生してみせた天皇自身だったのである。この「天皇崩御」にともなう恩赦の自浄作用は、憲法発布、講和、国連加盟等の節目をへて、戦後社会のすみずみにまでゆきわたっていった。

 恩赦の恩恵が社会全体にゆっくりと浸透してゆくなかで、まっさきにその恩恵に浴してしまった人びとには、恩赦の不可解な作用にほんろうされた岡崎らの無念さは、わかるまい。岡崎らがその無念さになお執着するとき、戦後社会は彼らにどんな生き方を強いることになったのだろうか。

 

 松江で蹶起した皇国義勇軍の五十三名の人たちの行方は、ほとんどわからずじまいだった。行動隊長格の波多野安彦はかなりの人たちの現在の状況を知っているようだった。「彼らの平穏な生活を乱したくない」というかつての同志への配慮からか、ついに所在を明かさなかった。ようやく探しあてた藤井良三郎は松江の郊外に二階建の居をかまえていたが、取材に応じてはくれなかった。充足した日々を送っているからだろう。恩赦の恩恵に浴した人びとなのである。

 ところが、事件の首謀者の三人の戦後の生き方をみると、彼らにとって恩赦はけっして恩恵的な行為ではなかったようだ。

 三人とも事件後、刑務所時代を除くと接触は皆無である。松江市に住む岡崎功と波多野安彦ですらコミュニケーションはない。同じ市内に住むことは互いに知ってはいる。狭い市内のことだから、互いのなりわいも、むろん知っている。その程度であるからましてや、出所後上京した長谷川文明の消息はまったく知らない。

 そもそも彼ら首謀者三人が知り合うのは、事件の半年ほど前にすぎなかった。その後、八月十五日を前後して急速に接近し、二十四日の発火点に至る。従って、のちにバラバラになったとしてもおかしくはない。しかし、彼ら三人とも「大東亜戦争」の終焉(しゅうえん)を認めなかった。認めたくなかったという心情を、それぞれが今日になっても持続している点では共通しているのだ。にもかかわらず、互いにコミュニケーションがない。奇妙といえば奇妙である。

『日本歴史の旅』(全七巻、奈良本辰也・邦光史郎監修)の第七巻『神話コース』に「神魂(かもす)神社」の項がある。神魂神社は日本最古の神社で、その起源は「出雲国造(いずものくにのみやつこ)の祖天穂日命(アメホヒノミコト)がこの地に天降(あまくだ)り、伊邪那美命(イザナミノミコト)(まつ)るために創建したと伝えている」。松江市郊外の丘陵地にあり、本殿は出雲大社と比べると規模は小さいが、約七百年前の改築といわれ、丸太の太い柱、直線的な屋根の勾配、高床式の外観は素朴な充実感をみなぎらせている。この神魂神社の項で、唐突にこういう記述が挿入されている。

「長い参道の途中で、三々五々下校する高校生と、たびたびすれ違った。その一人一人がまったく一面識もない筆者に、礼儀正しく挨拶するのには驚いた。聞けば、神魂神社の社地に立つ高校の生徒で、惟神(かむながら)の道に基づき、教育勅語にのっとった教育を施されているとのことだ。この地方の人にとっては、日常の光景であろうことに少々度胆をぬかれて、白木の鳥居をくぐつた」

 この高校こそ事件のリーダー岡崎功が理事長をしている淞南学園・松江日大高校なのである。『日本歴史の旅』の筆者が度胆を抜かれた事情は「礼儀正しく挨拶する」という描写だけではわかりにくい。その高校生たちは、力一杯腹に力を入れて「オツス」と叫ぶような挨拶をする。神魂神社は人里離れているが、隣接した丘陵の松林のなかの校舎で営まれる学校数育もまた時代離れしたものなのだ。

 毎朝行われる朝会は、まず東方遥拝(ようはい)、「君が代」斉唱、教育勅語斉唱から始まる。国旗掲揚台には日の丸がはためき、校舎の玄関脇には「三島由紀夫烈士、森田必勝烈士顕彰の碑」があるという具合だ。各教室には教育勅語が貼ってある。寮の食堂では食事の前に全員揃って合掌し、次の文句を(そら)んじる。

(はし)とらば あめつちみおやの おんめぐみ 君と親との恩を味わえ」

 復古調の教育といえばそれまでだが、その徹底ぶりは他に例をみない。

 岡崎理事長自ら教壇に立ち日本史の授業を行うが、使用する教科書は独自編集の分厚い上下本二冊であり、その内容は戦前の「国史」に近い。生徒は全員卒業するまでに教育勅語をソラでいえるようになっている。

 毎月、一日と十五日は祀りという行事があり、敷地内の岩屋で早朝七時から祝詞(のりと)があげられる。詠むのは岡崎その人である。職員生徒が声を揃えて繰り返す。

 大柄な体躯の岡崎が少し背を丸めた姿勢で一心不乱に手を合わせる。次第にリズムが速くなり、厳粛な宗教的な雰囲気が(みなぎ)る。

 夏だった。風がそよぎ、あたり一面蝉時雨(せみしぐれ)。祝詞の合唱が松林のなかに吸い込まれていく。あの八月十五日、そこで時間が停まっているのだ。化石になった「大日本帝国」がそこに在った。

 岡崎はいまも惟神の道一途に生きている。

 波多野安彦は大東産業という看板のあるマンションの一室にいた。二十坪ばかりの事務所には若い衆がたむろしており、波多野から受けた印象は「親分」である。若い衆にあれこれ指図している妻スミヨは、かつての皇国義勇軍の女子隊員でいまは、「(あね)さん」という見立てになる。

 波多野は、いま産業廃棄物処理業を営んでおり、大東産業の「事業計画書」は次のように記されている。

「産業廃棄物処理業が必要欠くべからざるものであり、廃棄物を衛生的に処理し生活環境を清潔にし、公衆衛生の向上を図り、また生活環境の保全を目的とし、昭和五十二年六月二十三日、大東産業有限会社を設立し、公害対策研究所を開設し、法に基づく許認可を受けて産業廃棄物処理事業に着手した。以来焼却炉を一基設置し、主に島根県東部の事業所から排出される産業廃棄物の処理を行なってきた。当地方における産業廃棄物は主に汚泥、廃プラスチック、廃タイヤ等であるが、当社処理工場の建設を待ちかねたように、処理依頼が相次ぎ開設一年を満たずして月間五十トンを超えるまでとなった」

 波多野が親分然としているのは、彼の前歴のせいである。出所後、彼は新生日本同盟島根支部を結成し行動右翼になった。事件当時、行動隊長格の波多野はカッと熱しやすい性格の持ち主だった。ビクついた同志にナイフをつきつけ、「やるのかやらんのか」と迫ったことが公判記録に残っている。そのとき彼は身長百五十五センチ足らず、体重は五十キロなかった。いまは七十キロに近い少し肥満した躯にチョビ髭をたくわえ深々とソファに坐っているところなど貫禄十分である。その貫禄はカーキ色のトラックに日の丸のマークをつけ、迷彩色のユニフォームを着せた若い衆の前に立たせたらサマになると思われる。そして見事に挑発してみせるだろう。そういう姿が想像できるのだ。

 実際彼は十年ほど前まで反共行動右翼として日教組大会や、広島八・六集会のデモ行進にトラックとともに殴り込みをかけたりしていた。しかし、多くの右翼が総会屋と紙一重、というよりその区別がつかない現実と同様、なんとなく親分というなりわいになる。波多野はある恐喝事件に巻き込まれ、連座して再び入獄し出所後足を洗った。その経緯は省くが、彼の熱しやすい性格と人の良さが災いを招いたようだ。波多野は述懐する。

「ゴミゴミした東京では神国再生は不可能。ご託を並べる観念右翼もダメだ。テロリストとして生きた自分が、この松江を基盤にして行動で信念を示していくつもりだった」

 先祖代々幡屋神社の宮司の家に育った彼自身、いまも幡屋神社の禰宜(ねぎ)であり島根県大原郡の社家に代々伝わる無形文化財・出雲国大原神職神楽の伝承者でもある。

 波多野が二十七年の出所後、手始めに取り組んだのは天皇への「献米運動」であった。「(ちん)はたらふく食ってるゾ」に対抗し、いまこそひと握りの米を各戸から集め一俵にして、皇居に送ろうというのである。

 彼にとって、天皇はいまだに神だった。神々の国出雲の神官の末裔(まつえい)として当然のことと信じている。しかし、古代への思いが高度経済成長の戦後的時間を経過していくなかで、もっとも戦後的な反共行動右翼という行動様式に(から)めとられていった。右翼が企業献金以外でどうメシを喰うのか、という原点に波多野が戻ろうとしたとき、高度経済成長が生み出した公害により生じたニーズに気づいた。岡崎が八月十五日に時間を固定し戦後つまり高度経済成長が生み出した風俗に背を向けたのに対し、波多野は肥大するその風俗に(まみ)れ直線的にかかわろうとした。彼の情熱のしからしめるところだが、いっぽうでしたたかな世渡りも心得ている。

 当時のサブ・リーダー長谷川文明は意外なところに姿を現す。昭和五十六年七月一日から一週間、東京・晴海(はるみ)で開かれた東京軽印刷展(東京軽印刷工業会主催、通産省後援)のある小さなコーナーで和文タイプライターを駆使しながら楽譜の版下を作成していた。長谷川が開発した新しいシステムは、このとき初めて公開された。

 楽譜印刷のシステム化は、十五世紀のグーテンベルクによる活版印刷の登場以来の課題であったといっても大げさではない。その課題を長谷川は和文タイプライターの使用によって解決した。

 いままでの楽譜は活版の場合、熟練した職人が五線紙のうえに手作業で音符活字を捺印(なついん)する。楽譜組版の機械化はほとんど進んでいないのが実情である。世界で初めて和文タイプライターを使用しての楽譜の組版が可能、と判断できたのは、彼の職業的熟練による。出所後すぐ上京した彼が二年前の停年まで勤めていたのは印刷会社であった。

 しかし、熟練だけでは慧眼(けいがん)は養えない。西洋に和文タイプライターが無かったから、楽譜をタイプライターで組むという発想が育たなかった、ということもできる。日本人であることの偶然が、新しい発見に寄与した。彼が過剰に日本人であることについて考え続けたことと、彼の発明は密接不可分の関係にある。

 長谷川は、和文タイプライターで楽譜を作成するについてまず音譜活字の版下の設計をした。つづいて楽譜組版のマニュアルを執筆し、ようやくその草稿を書きあげた。その「あとがき」を読むと、彼が固執していたものが何であったか、知ることができるのだ。

「わが師保田与重郎は、その著書『明治の精神』で『東洋の芸術を全幅に〈世界〉と信じた岡倉天心は、ベートヴェンを初めてきいた夜、〈芸術に於てヨーロッパがアジアに勝った唯一のもの〉と嘆息している』と述べられた。この保田先生の文章で若い頃の小生は西洋音楽に沈殿することを決定づけられた。以来六百枚のレコードを買い総べての曲のスコアを買い求めて聴くことを決意した。この時にはじめて、希望するスコアの入手がなかなか困難であることを知った。スコアは、ポピュラーで売行の良さそうなものが優先され市販されるような印象を受ける。これは出版社の採算、営業の結果であるから、それが解決されれば……。自分の手でスコアの組版ができないものかと考え、その考えが温存されて長い年月の末に音符活字の設計と楽譜組版マニュアルの著述へと発展したのであった」

 岡倉天心は浮薄な文明開化の風潮のなかで日本固有の伝統美がないがしろにされることに抵抗し、その再認識を訴えた明治の偉人である。美は文明の普遍的価値と信じていたが、西欧帝国主義国家がアジア各地で美の破壊者として君臨していることを見聞し西欧文明の虚偽を知る。アジアは多様な文明をもつ。「西洋の栄光はアジアの屈辱」(『東洋の覚醒』)であるなら「アジアは一つ」(『東洋の理想』)でなければならないと、アジアの固有の文化価値を世界史的見地から主張した。その天心が、ベートーヴェンに嘆息する。芸術の最高のものがインドや中国や日本にある、と主張してはばからなかった天心が「嘆息している」のである。長谷川は保田の『明治の精神』のその一箇所が鮮烈な印象として躯の芯に残ったまま戦後を生きてきた。

 保田の『明治の精神』には不思議な興奮と悲哀と頽廃が宿されている。長谷川が引用した "ベートーヴェンに天心が嘆息する" 文脈ほこんなふうに連なっていく。

「……乃木希典(のぎまれすけ)や伊藤博文の悲しみは僕らの口にした小学唱歌のような、文明開化の謳歌やそれへの覚悟を描いたそのなかにあるあのような郷愁に似た悲しみであった。しかもそこに明治の偉大な人物の負目とせねばならぬ悲しみがあった。僕らは日本の小学唱歌を口にした昔を思う度に、それを誦しつつ死地の戦いに行った人々を思い出した。今日の死地への遠征にさえ、僕らの口にのぼる歌は恐らくあのふるさとの小学唱歌であろう。……『さびしい浪人の心』を嘆息した天心の、奔放な世界体系も、博文の負目とした悲しみの実体につねに迫られていた。……日本の兵士たちは『梅干の歌』や『電燈』の歌、これらの小学唱歌を歌い、離れて遠き満州の悲調をくりかえしたのである」(『明治の精神』

 小学唱歌の心象には日本の風景がある。その風景は「あの茫漠として侘びしく悲しい日本のどこにもある橋」(『日本の橋』保田与重郎)のたたずまいであったりする。その心象をぶちこわすように巨大なギリシャ神殿やベートーヴェンの大音響つまり西欧文明がそびえ立つ。小さな和文タイプライターをかかえた長谷川の姿がその風景のなかにポツンとある——。

 三人の生き方をみると、事件が地方で起きたから地方的かというと必ずしもそうとはいい切れないことがわかる。事件の脇役である西村国次郎や山田武雄(元知事)らの存在もその証しになっている。

 私が出雲市の西村宅を訪れた日、彼はちょうどこれから書く、発表のあてのない自伝のレジュメをつくりあげたところだった。その自伝のタイトルは「天皇に関する私のイメージの推移を顧みる」。私は思わず、少し耳の遠いこの実直そうな元警察官とどこかで出逢ったことがあるような気がした。

 山田元知事は事件のツメ腹を切らされて、二十年九月十二日に辞表を提出させられていた。以来三十七年、山田の戦後は辛いものだった。料亭の支配人、美術関係の不動産屋顧問、いまはいちおう財団法人奉公協会(開店休業中)の理事という肩書をもつが、いわゆる味をしめたという戦後体験は一度もない。八十七歳のいまは平凡なサラリーマンの長男家族と横浜市郊外の住宅街でひっそりと暮らしている。山田に辞表を請求したのは古井喜実(よしみ)内務事務次官(当時。後・衆議院議員、法相)だった。自民党ハト派の古井は永年勤続議員として表彰される栄誉を得ており、対照的な後半生となった。

「ぼくは岡崎さんを(うら)んではいないんです」

 と山田はポツリ、ポツリと語り始めた。彼は自分の処世を狭い悔恨に押し込めず、日本という国家の宿命のなかでとらえようとしていた。中江兆民(ちょうみん)の弟子で中国山脈の山寺に独り住む仙人のような男に、飯を運び話を聞きにいくのが、少年時代の一番の楽しみだったと山田は懐かしそうに回想する。長い旅路の果てでようやく重い荷をおろしたような安堵感が、遠方をみつめる山田のゆるい視線からもれていた。

 事件で森脇昭吉らに刺殺された曽田完の遺族は「もう忘れているから」とドアを固く閉ざした。傷痕はいまも残っている。運命の皮肉といおうか、大正天皇大喪儀の翌日、昭和二年二月九日に生まれたため名前に「昭」の字を冠した森脇は、恩赦の栄に浴することなく事件の翌年、肉腫(にくしゅ)のため獄死していた。

「陛下に降伏なし」「降伏は死なり」という檄文を撒いた岡崎、波多野、長谷川の三人のリーダーらにとって「降伏した天皇は生きていない」はずだった。が、「生きて」いたのだ。死ぬはずの彼らは恩赦で娑婆に出されてしまった。彼らのとまどいがそれぞれ三様の角度からの天皇への新しいアプローチとなっているような気がする。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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猪瀬 直樹

イノセ ナオキ
いのせ なおき 作家・評論家 1946年 長野市生まれ。作家。『ミカドの肖像』 で1987年第18回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

掲載作は、「実質的な処女作」であり、1983(昭和58)年3月、朝日新聞社刊『天皇の影法師』全4章の第4章に当たる。すでに掲載の、第3章に当たる「元号に賭ける-鷗外の執着と増蔵の死」とも併せ読まれたい。