再生
あのウサマ・ビンラディンが地方記者である私の身近にいた。ましてや能登半島で死んでいた、だなんて。
序
十月も半ばに入ったその日、自宅マンションに帰ると、わが家の雌の
すっかり忘れていた謎の男から久しぶりに新しい電話がかかったのは、その翌朝である。自宅にかかった電話の受話器を耳に当てると、男はこう切り出した。
「覚えてるかいね。支局長。いや、デスクさん。あのウサマ・ビンラディンのこと。確かに、彼は能登金剛の
相変わらず、くぐもった、かすれた声が私の耳元に大きく迫った。
そういえば、最近、編集局内をノッシノッシと歩く気になる記者が一人いる。年は四十前後か。大柄でがっちりとし、頭は坊主刈りで目がどこまでも澄んでいる。(私自身、会ったことはないが)昔の西郷どん=西郷隆盛=を思わせる風貌の持ち主である。仮に彼の名前をNとしておこう。彼はニューヨークの貿易センタービルに民間機が衝突した際、燃え盛る火の手をものともせず顔から手足まで全身、灰だらけとなり現場に駆け付けたことで知られる。
謎の男の「あんたはんのごくごく周辺にいるんじゃないか」の言葉に、私は、Nの、あの苦労を苦労とはしない、おおらかな底抜けに明るく、ユーモアに満ちた笑顔を思い浮かべていた。どこか、米大統領ブッシュに向かってジ・ハード(聖戦)を唱え続けたビンの風貌とも重なりあう。ビンの若いころは、恐らく、こんなふうだったろう。これは私の欲目かもしれない。局内の通信社電でピンポーン、と緊急報が流れるつど、誰にも増して耳がそばだち、目が輝き表情が一段と険しくなるのも彼である。
例えば、そのNが謎の男の言う、ウサマ・ビンラディンの相棒だったとしたなら。とはいえ、彼は戦場同然と化した未曾有のテロ現場で日本人記者として取材に飛び回ったこと以外、ビンとの接点など、あり得ないのではないか。ビンとの人間的つながりもないはずだ。私は今度こそ、謎の男の言には慎重にならざるを得ないと自身に言い聞かせ、それでもしばらくNの動向を見守ることにした。それとも。もしかして、彼はビンとニューヨークで密かに接触していたのだろうか。ずっと以前からの同志だったのか。いやいや、それこそ奇想天外な発想で誰からも一笑にふされることをあえて覚悟して言おう。私の心には時折、N本人が実は本物のウサマ・ビンラディンではないのか。そんな予感さえ走る。
実は今、ありもしないこのような荒唐無稽な構想ばかりが意識の中を走り回り、頭が混乱してしまっている。後半の完結まではなおしばらくの時間がほしい。こんなわけで、ここでは前編だけを収録することとした。なぜなら、各地で相変わらず国際テロが続発するなか、N記者のウサマ・ビンラディン説をぶち上げるには、あまりに反響が大きすぎ、日本はおろか、世界中がカオス(混沌)の海に沈む可能性さえあるからだ。
(平成十六年秋。イガミのごん太)
1
髭を剃ったウサマ・ビンラディンの眠るような遺体が石川県能登金剛の
これより少し前には、ちょうどテレビでビンラディンの声明がカタールの衛星放送・アルジャジーラを通じ世界中に流れていた折も折だけに、事実としたら思いもかけない遺体発見である。声明の中で彼は「聖なるイスラム教徒よ。ジ・ハード(聖戦)に立ち上がれ」と呼びかけている。十一月八日の新聞各紙の中にはビンラディンの目撃情報を流す新聞まで出ていた。そのビンラディンの死体が日本で見つかっただなんて。一体、誰が信じることだろう。
怪電話が新聞社本社の特報デスク席に座る私あてにもたらされたのは、忘れもしない風の強い日の午後のことだった。受話器を取ると男はくぐもった、作り声をさらに潜め「あっ。支局長やないか。あっちこっち探してやっとこせ、この電話番号を教えてもろた。あんたは、とても信じんとは思うけんど、これからおれっち、あんたに話すことはホントやケ。あのウサマ・ビンラディンが能登で死んだんやて。おいや。誰もが“そんなダラ(馬鹿)なことあってなるかいや”って信じへんだろが、記者さんの中でいつだって真剣に、馬鹿正直に受け止めてくれるのは、おそらくあんたはんだけ。そう信じて電話したんだ」
私はかつて能登半島の七尾で記者生活をしていた。この声には、確かにどこかで聞き覚えがある。男は「今は、おれんちの名前思い出してもろわん方がよかて。そのうち分かるかて。この話は、あくまであんたさんと私の間だけのことにしといてほしい。新聞には書かんといて。また電話するから。あんたさんなりに、突拍子もない仮説を立てることかて大切だ、そう思うんちゃ。あんたさんの胸の奥深くにだけ入れといてくれりゃあ、それでいいっちゃ」とだけ続け、電話を切った。
そういえば、昨夜帰宅して米国のアフガン空爆について妻の砂子と話していた時、砂子が両手で顎に頬杖をして「ウサマ・ビンラディンって。もしかしたら……かもね」といつもの調子で語尾だけを上げた。「“かもね”だって? それ、どういうこと」と問い質すと、砂子は「あのねえ。あなたたちマスコミって、ほんとに駄目なんだから。特に新聞記者のおじさんたちはビンラディン、ビンラディンってうるさいけれど。彼はもう、この世にはいない。死んでいるのじゃないかしら。アタシ、女の直感でそう思う。アルジャジーラから流れる声明だって。事前に用意されていたものが作為的に流されている。ただ、それだけじゃないかって。ニューヨークの世界国際貿易センタービルのツインタワーに民間機を空中衝突させて破壊してしまうなんて。それだけのことが出来るんだったら、死後の世界をデザインするなんてこと、彼にしたら訳ないんじゃないかしら。そんな気がしてならないの」と答えた。
男からの不意の電話は、夫婦の間でそうした会話をした翌日のことだけに私は、どこかに符号の一致があるような、不気味な気がしてならなかった。男の声には確かに聞き覚えがある。
私は十七、八年前、七尾に在任中、地元新聞が水田地帯に美しく円状に描かれたミステリーサークルをUFO(未確認飛行物体)の仕業にして、さも本当らしく報道した、ある事件を思い出していた。あの時に地元紙の朝刊1面にカラーの写真と同時に報道されるや「支局長さん。へんなもんに惑わされんといてや。ミステリーサークルだなんて。あろうはずないがいや。誰が考えてみてもおかしいやないかて。あんたさんとこの新聞だけは、おかしなこと書かんといてな。よく調べてから報道してもろわんと」と言って電話してきた男がいる。その男の口調に何となく似ている。
ミステリーサークルは結局のところ、子どもたちが収穫前の稲田に入ってぐるぐると足で踏み付け面白半分に作ったいたずらと分かった、あの時、電話してきた男とはとうとうそれっきり、一度も顔を合わせず仕舞いになったのではなかったか。でも、一体誰なのだろうか。
男のくぐもった声といえば、その後の大垣支局長時代にも聞いた覚えがある。少年グループによる長良川・木曽川リンチ殺人事件の端緒となった男二人の血まみれ死体が長良川河川敷で発見された、その日の朝だった。
忘れもしない。あの朝は支局の電話が早朝から再三鳴り、当時、二階の支局長住宅で籠の鳥同然に家族で暮らしていた私と砂子が交互に出ると、そのつど切れてしまうという不思議な状態が繰り返し続き、そのうち何回目かに、しばらくの沈黙のあと男の声で?やあー、久しぶりやないか。長良川河川敷に死体が落ちとるぜ。支局長。はよ、せんと。嘘やないわいね」とせきたてられた。私は、受話器を置くや支局員をポケベルで呼び出し「へんなたれ込みが今入った。
男の言葉は事実だった。これが日本中を震撼させた少年グループによる長良川・木曽川リンチ大量殺人事件の始まりとなったのである。
声の主が同一であるなら、男からの電話はいつも核心をついている。一体誰なのか。そんな過去を反芻していると私は、男の話を一笑にふす気にはとてもなれなかった。ビンラディンが既にこの世にいないことは十分あり得ることだ、とも思った。では彼はいつ、どうして日本に来たのか。日本ではどこにいたのだろう。それからというもの、私はアフガンの戦火の成り行きに神経をとがらせ、ニュース原稿をチェックしながら、ただひたすら男からの電話を待つ日々が続いたのだった。
男からの電話は、それから十日ほどしてあった。既に反タリバン勢力の北部同盟によりカブールが制圧され、あるテレビはビンラディンの家族が潜んでいたという屋敷跡まで映し出して報道していた。タリバン制圧とはいえ、戦局はますます混迷の度を深めタリバンのリーダーであるオマル氏とビンラディンは南方のカンダハル方面に逃げ、依然として健在である、そんなニュースを各マスコミとも流していた。電話はそんな一連の流れの中でも、ある重要な節目に私あてにあった。私は内心、男の声に震えが止まらなかった。
電話はデスク席からやっと解放され、満員のJR列車に乗り帰宅途中の私あてにかかった。仕事用の携帯電話なのでいつ重要な連絡が入るかもしれず、私はオンにしたまま満員電車に乗っていた。着信音はいきなり大きなメロディーを奏で始め、それも『天国と地獄』を流し出し私は人目を避けつつ慌てて携帯を背広のポケットから取り出したが、既に切れていた。携帯電話は最寄りの尾張一宮駅に下車しプラットホームを歩き出すと同時にまた鳴り始めた。
「とうとうマザリシャリフ陥落後は、カブールを経てカンダハルまで来てしまったみたいやね。ほやろ。オマルとビンラディンは山岳方面に逃げたって言うとるけど、中東の何たらゆうた、そうそうカタールのアルジャジーラちゅうテレビ局によれば、ビンラディンだけは既に国外に脱出したとも伝えているちゅう。そんやんけ」
男はそこまで一気に話すとごくりと唾をのみ込んだ。一瞬、震えているように思われた。
私は携帯を握りしめたまま「それが何やて言うんだ。それだけでは分からへんて」とつい大阪弁の訛りに似た能登方言を思い出し空に声を投げ捨てるように言った。
「だから何でもいいから、あんたはんが若いころ記者生活を過ごした三重県志摩半島の
男はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。私はなぜ、男はあれほどまでに確信に満ちた声で迫るのか不思議でしかたなかった。
翌日。久しぶりの休みに私は疲れ切った心身を癒そうと自宅マンション近くの地蔵寺境内にまで足を延ばした。ハラハラと晩秋の風に散ってゆく銀杏の葉たち。黄葉でも一枚一枚に濃淡の妙が見てとれる。ジュウタンの如く大地に横たわる無数の落ち葉たち。今度はカサコソと、音を立て一陣の風と一緒に大地を転がるようにして流れてゆく。そのさまは砂浜の白砂たちが満ち潮で一気に押し寄せてくる、そんな情景に似ていた。ハートの形をした銀杏の葉。私はそうした葉たちの中に、あのウサマ・ビンラディンの魂が宿っている、そんな突拍子もないことを考えていた。
境内を出て森伝いに歩く。私は途中、何度も大地にうづくまると、鮮やかに染まった落ち葉の一枚ずつを拾い集めた。毎年、晩秋になると、どうしても落ち葉を拾ってしまい、文庫本の挿絵がわりとする。
その日の夜から翌未明にかけ、私と砂子は自宅マンションのベランダに立ち、東の夜空に昇った“しし座”から流れ星が放射状に散る『しし座流星群』を見ていた。この流星群は、毎年十一月になると星空に現れ、ほぼ三十三年ごとに出現が多くなるとかで、ことしがその年になる。科学的には三十三年周期で太陽を回るテンペル・タットルすい星が軌道に撒き散らした宇宙の塵が地球の大気に飛び込んで発光する現象らしい。
午前二時過ぎ。砂子は「おぉ寒」と言って体を震わせながら毛布を体に巻いたままで、私も厚手のパジャマを着込んだまま二人で空を見続けた。そこには
私たちは見守るうち宇宙の神秘に
翌朝、朝刊を開くと米軍が追跡している国際テロ組織の指導者ウサマ・ビンラディンに関する情報が二転三転していると報じられていた。妻子とアフガニスタンから出国したのでは、との発言をタリバン政権の駐パキスタン大使がその後になって否定した。さらに、ビンラディンが追い詰められていることは確かでアフガニスタン南部または南東部の山岳地帯に潜伏し、数日以内に拘束もしくは殺害が可能とのテレビニュースまであり、情報が混乱しているのがよく分かった。私は毎日、デスク席に洪水となって流れてくるアフガン原稿を処理しながら、これら原稿の中身と照らし合わせても「数日以内に拘束もしくは殺害」はあり得ないと思った。どの原稿も予測の域を出ず確証に乏しい点は、デスクワークをしながら誰よりも痛切に感じるのだった。
そんなことよりも、このところはあの謎の男の言葉が気になってしかたがない。私は新聞記者の直感から、このままだと真実が闇に流されてしまう。贋者のウサマ・ビンラディンが米国防総省と米軍の手によって引き回されかねない。それだけに、一刻も早く男の言う渡鹿野島に行って何か端緒を得なければと思い、はやる気持ちを抑えるのに必死だった。
渡鹿野島といえば、つい砂子のことが思い出される。私たちは、かつて志摩半島の通信部(当時、阿児町鵜方にあった)を拠点に半島全域を管内に、三年五カ月に及び地方記者生活をしたことがある。砂子とは駆け落ち結婚だった。在任中、砂子からは渡鹿野島が古くから“女護が島”と呼ばれたためもあってか、休みのたびごとに島に行くことをせがまれ、何度も足を運んだ記憶がある。
2
渡鹿野島を訪れたのは、年内の特報デスク席からやっと解放され、その年も押し迫った、南国・志摩にしては珍しく寒い日だった。それまでの間、自社特派員電はじめ外電など“ウサマ・ビンラディン氏捕捉”の報がいつ飛び込んでくるやもしれず、デスク席に座る身として、自身の中のもう一人がその時が一体いつになるのか、心のどこかで備えの構えをしつつ不意の報に
事実、十二月に入ると、「アフガニスタン東部のトラボラ地区で米軍と反タリバン勢力の進撃が続き、ウサマ・ビンラディン氏の捕捉も間近い」とか、「米軍特殊部隊はビ氏がトラボラに潜伏している、との確かな情報を得、反タリバン勢力とともに爆弾投下をして身柄拘束に全力をあげ包囲網は狭まりつつある」「アルカイダとトラボラ地区をとうとう制圧した」といったニュースが矢継ぎ早に流され(主にNHKニュースが多かったが)、私はそのつどデスク席でこうした情報をメモに書きとどめるのに追われた。
この間、十二月七日には、十一月中旬にカンダハルで米中枢同時テロ発生当時の様子につきアラビア語で話すビンラディンを収録した映像も世界を駆け巡った。映像はジャララバードの民家住宅で押収され、ビンラディンはこの中で自信たっぷりの表情で「私は同時多発テロが、ほとんど計算どおりに運ぶという自信があった」と語り、米国は「これこそビ氏が首謀者であったことを証明するものだ」と強調。情報合戦の様相さえ呈していた。
ビンラディンの最新映像はこの後も、暮れになってカタールの衛星通信アルジャジーラを通じ世界各国に流された。ビンラディンは、この中で「米国のアフガン空爆は、米国のイスラム社会に対する憎しみの証明だ」と断罪し、各マスコミとも解説欄などで「今回の映像は、これまでにメディアに載った二回に比べ、逃亡生活の疲れからか頬がこけ、かなりやつれが見られる。収録は、おそらく先月下旬から今月上旬にかけてだろう。ビンラディンの
私が久しぶりに島の土を踏んだのは、ちまたが既に正月気分に染まりかけていた十二月二十九日のことだった。手元の手帳を開くと、ビンラディンの最新映像をカタールのアルジャジーラが流したのが、それよりも二日前の二十七日、その一日前にはNHKがニュース番組でビンラディンの潜伏・逃亡・死亡説につき特集を組んで放映していた。新聞、テレビは相変わらずアフガニスタン東部のトラボラ地区を中心に米軍がアルカイダの捕捉作戦を繰り広げ、潜んでいそうな洞穴を中心にビンラディンの捜索をしらみつぶしにしており、数日以内にも捕捉か、などと報じていた。
私は電話の男の正体が何かは分からないままその日、ポンポン舟で島に渡った。渡りはしたものの、この島がビンラディンと関係があるなど一体誰が思うだろうか。雲をつかむような話を承知で私は、ただ一人、頼りになりそうな女を訪ねることにした。
女は、京子といった。彼女には今から十年ほど前、大垣支局にいたころ、島を訪れ初めて知り合い夜を徹して、この世のことを話しあったことがある。彼女は当時、三十歳前後。島で自らの体を男たちに売って働いていたが、私はその粋で汚れのない気持ちに惚れ込んだことを覚えている。
私と京子はあの日、時の過ぎるのも忘れて普賢岳の噴火やら、アメリカ西海岸とヨーロッパの大洪水、松本のサリン殺傷、阪神大震災、東京・地下鉄のサリン無差別殺人と次から次に起きる事件について語りあった。彼女の口から鉄砲玉のように吐き出される言葉の数々がついきのうのように胎内から脳天に向かって突き上がってくる。
「普賢岳やろ。溶岩流が流れてきても人間がこれに対抗することなんて、でけへん。実際にでけへんやったろ。科学の力で抵抗できるのならいいが、そんなこと到底無理や。阪神大震災。ほかに北海道地震やろ。今度は富士山やな。富士山が大爆発するでえ。富士のあとは阿蘇が噴火する。何人もが死んで血でいっぱいの修羅場になるんや。だけれど、全部は死なない。地球の人間を見えない手が間引きするんや。ただそれだけのことや……。
それからオウム真理教、一体全体どれだけの家族がトラブルに巻き込まれ犠牲となり泣かされてきたことか。あたい、ああいうの許せない。警察は、ああいうのこそ、バッサリと
あたいですか。男と別れたり、いろいろあって友だちに誘われ高知からこの島に来た。生きるために島で働くようになってからは、そうなの。ずうっと独身なんだ。五月二十二日が来ればコールガールの専業丸七年になる。だから、この日は絶対休みにするよ。
人間、こ・こ・ろが美しければ、どこまでも生きてゆける。あたい、心だけは、これからも磨いて清らかなままで生きてゆくから。体が男をつかんだ分だけ、こ・こ・ろきれいになってやる」
京子は、さらに次のようにも付け足した。
「あんたさんとは、何だか“赤い糸”で結ばれている気ィーがしてならねえ。あたい、あと四年たったら、遊女をやめて何かをやろうっ、て。真剣にそう思うとる。この島には、あたいみたいな女が国内外から流れ流れて二百人ほど来ている。三分の二が日本人で、残りは外国人。イスラムからもブルカを脱いだ女たちが来てるんだから。ほんとだよっ」
私は、京子の人懐っこそうに話す表情を思い出しながら、ウサマ・ビンラディンとの手がかりといえば、このブルカを脱いで島に来た女たち以外にはない、と確信し何よりもまず彼女をこの島で探すことから始めることにした。しかし、あの時、彼女はあと四年したら何か別の仕事をしたい?と話していた。島には既にいないかもしれない。
島では、まず渡し場で舟券を扱う五十がらみの女に「京子」の存在を聞いてみた。女はオラっ、知らねえよ、という顔をしながらも心当たりがあるのか、「いるのかいねえのだか知らねえが、だったら町ん中にある居酒屋『愛』で聞いて見な」と流し目を送ってきた。そういえば、京子とはあの夜、少しだけ外に出ようよ、と誘われカウンター越しに話が出来る小さな店を訪れた。暖簾には『愛』の刺繍が施され、あの時、青地に浮かぶ深紅の“愛”が単に個人的なものではなく島を訪れる人々に対する、いやそれどころか、人間全体に対する限りない優しさのように感じられた。
彼女は、そこでとびっきり辛い唐辛子が上に乗った特製のタイソーメンを食べながら、あんたもちょっとだけ食べてみな、と無理やり口の中にタイソーメンを押し込んできた。京子はあの時、うまいだろっ、と相づちを求め「あたい、毎日、タイソーメン食べて体ん中、焼いて消毒してるんや。自分の体は、自分で守らんと、ね。でもお客さんと一緒に、こうして食べた、だなんて、初めてなんだから。ありがたいと思うといてな」と嬉しいことを言った。
私は数年前のたった一度の出会いを思い浮かべながら海岸伝いに漁師町を歩きながら京子にはきっと会える、と自らに暗示をかけていた。あんたとは“赤い糸”で結ばれているんやから。声にならないつぶやきが波の飛沫とともに大きく耳に迫ってくるのだった。
海沿いに光の中を歩いていると、砂子とともに過ごした青春時代が蘇ってくる。ミニスカートに八重歯を光らせ、長髪を腰まで靡かせ大股で胸を張って歩くのが彼女の癖だった。あのころ、この島のことを教えてくれた年老いた女の言葉が忘れられない。
「あのな。この島さ。漁師たちが親のない、ててなし児を育ててなはったんや。それで身勝手な親たちに捨てられたおなごたちは、日頃はまどろ網を引いたり、砂浜で稽古海女として島の海女さんたちにもかわいがられ、遊んだりしてるんだけどな。それでも年月がたちゃあ、たくましく立派に育っていくわさ。十七、八になると、丈夫に女として育ててもろうたあかしに、湾内に船と一緒に停泊中の旅人さんに我も我もと、はちきれそうな体さ、売るんだ。旅人さん、ゆうても港に停泊する気イのいい船乗りさんばっかしや。ここの島は的矢湾に浮かぶ風待ち港ゆうてな。湾が入り込んでおり、台風の通過する時には、かっこうの避難港でな。何日も停泊した時にゃ。女たちは、生きているあかしに船から船をワタリガニのように渡り歩いたもんやて。
ほいでなあ。その晩はなあ。ごはんに味噌汁、こしらえはって。旅人さんの衣服にほつれがあれば、それを縫うてやってな。針師まで兼ねたんや。蟹のように船から船を走るように渡り歩き、針師を兼ねた。だから志摩のハシリガネとも呼ばれた。ほやからこの島さ、おなごたちにとっちゃあ、神さま、仏さまやて。女たち一人ひとりの心かて自然に、よお、なるわさ。女を守る。だから“女護が島”って言われるんや」
女はこうも続けた。
「それから、“
私は遠い昔に思いをはせ水平線に目を移しいったん足を止め、そこで大きく深呼吸をした。海からの風に当たるのは何年ぶりになるのだろうか。
男からの携帯電話が鳴ったのは、その時だった。私は胸騒ぎを覚え、見えない男が背後に幻となって迫り来る、そんな気持ちを抑え周りの様子を伺いながら電話口に出た。
男からの電話は「ことしは大変な年だった。同時多発テロで罪のない何千もの人々が亡くなり、家族が悲しみのどん底に落ちた。でもソ連の侵入など戦禍が続いたアフガンでは過去二十年に二百五十万人もが死に、七百万人が難民となった。地雷を踏んで足をなくした人々も数え知れない。こういう現実を世界の人々があらためて知った、という点では歴史に残る年ではないか」といった内容だった。
最後に男は例の調子で「あのなあー。ワ・タ・カ・ノ行ったら、あんたさんも知ってるキョウコという女に会うといい。彼女なら、ビンラディンの行方について貴重な手がかりが得られるかもしれんよ」と声を落とした。
私はひどく
ふと視線を上げると、穏やかな海の向こうの水平線を二羽のカモメが何事もないようにスイスイと泳ぐようにして飛んでいた。風が少し出てきた。私も、あのカモメと同じようにこの地上で生きている。妙に感傷めいた想念が意識の底から沸き上がってきた。
私は今、なぜ取りつかれた如く幻のウサマ・ビンラディンを追いかけているのだろうか。いや、追わねばならないのか。追いかけたところで何になるというのか。徒労のようではあるが、どうしても追っかけたい。それは理屈を通り越した、自身の底から噴き上がる血の流れといってもいいものだった。
歩きながら、もしかしたら私自身がもう一人のビンラディンで『魔の9・11同時多発テロ』は、前世に私が起こし私自身がその洗礼を受けようとしている、そんな不思議な錯覚にさえとらわれるのだった。
3
渡し場から海沿いに夕陽が照らす光の粉を浴びてだんだら坂を七、八分歩くと前方に『愛』の暖簾が見えてきた。道の両側に面した喫茶店三、四軒から六十歳前後の女たちが驚いたように店の外に飛び出し「オハヨウ。あんたはん、早いね。とびっきり、いい
オハヨウ、の物言いが芸能界みたいで何だか島全体が、ひとつのステージのように感じられる。私は舞台を歩く俳優気取りで「オハヨウ」と答えながら『愛』の店先まで近づいた。店先にはなぜか大提灯がぶら下がっており、灯は既にともされ、その部分だけが夕陽の陽射しと解けあうように幻想的な風情を醸しだしていた。私は観音開きとなった入り口ドアを押すようにして開き、店内に入った。 「いらっしゃい」の声に出迎えられ顔を上げると、そこにはカウンター内で働く男と女がそれぞれ一人と、客の女一人がいた。ビールにサザエの壺焼き、それにアッパッパ(ヒオウギ貝)も、とカウンターに座るや告げると、横に座っていた客の女が私の袖を引っ張るようにし「あんた。お久しぶり。元気でいたかいね。あたいだって、ば。あたい」と上目越しに声をかけてきた。私は声に誘われ女をよく見ないまま「元気でいたわいね」と答えた。かつてどこかで聞いたことのある抑揚に懐かしさが込み上げてきた。
訛りをそのまま声に出して返すと私はハッと思い当たり、女の顔をまじまじと見た。年のころは三十七、八歳ぐらい。女は私を忘れたの、と言いたげに豊かな視線を投げかけてきた。幸せそうな顔だ。
「あたい。あたいの顔。あんた忘れたの。ほんまに。冷たい人やわ」
この口調には確かに聞き覚えがある。と同時に、女とひと夜を過ごした島での鮮やかなひとときが思い出されてきた。四十数年の人生の中でたった一晩しか会っていない女、その京子を抑揚のある話しぶりから思い出した瞬間でもあった。
私は興奮を抑え、言葉をつないだ。
「もしかしたら、あなたはキョウコ。京子さんですか。ちょっと、この島に急に来たくなったもので……」
女は既にかなり酒を飲んでいたらしく右手を上げ、私の言葉を制するように「いいの。いいの。いいんだよぉー」と話し出した。
「あんた。ほんとはあたいに会いに来たんだろう。顔にそうかいてある。アリガトッ。聞いてるんだから」
京子は何を聞いているのだろう。私は耳をそばだてた。
「あたいねえ。あの日、あんたに約束したんだった。あと四年たったら遊女をやめるって。お金どっさりためて、ほんとにやめたよ。それからどうしたと思う。恐らく、あんたには想像もつかないんだろうけど。でもね。あたいが、その道を選んだきっかけは、あの夜あんたが作ってくれたんだ」
「あたいとあんたは、あの夜、とことん人間の愚かさや世の中のことについて思いのままを話しあったんだっけ。オウムが何さ。アサハラが何さ。普賢岳がどうしたっていうの。そのうちに富士山が大噴火する、って。この世の中、人も自然も、すべての生き物が公平なんだから。政治の世界も含め、権力をかさにきた、程度の低い同じヤツラばかりが得してたまるかってんだ。世界には飢えと貧困、戦争で苦しんでいる何の罪もない子どもや女たちが数え知れないほどいる。オレたちは、このままでいいのか、だってさ。あんたはあたいにそう教えてくれた」
京子の言葉を耳に私は彼女の世界に次第に入ってゆく自分を感じ、目の前のビールをごくりと飲み干した。京子は「サザエの壺焼き、アッパッパもおいしかったろ。車エビかて、ここのは最高なんやから。はよ、食べなよ。焼き上がったばかりやから。あったかいうちに食べんと。あっ。そうそう。あのなぁ。きょうは、ほれから、海女さんのてこね寿司も用意しといたからな」と会話を折りながら、さらに話し続け、私は彼女の口元にあらためて視線を移した。
外の提灯が窓越しに刻々と赤くなるさまが、もうひとつの生き物となって私たちを見守っている。そこには、もしかしたら、あのウサマ・ビンラディンの魂が宿っている、そんな感覚が一刹那、私の脳裏を
「あたい、四年後に、どうしたと思う。いったん、古里の能登半島の門前ゆうところに帰ったんや。そこには、かあーかがいて。それまであたいの仕送りで生活してたんや。そういえば、あんたはんも七尾で七年間も記者生活をしぃーはったんやな。初めて会った時、あたいの関西訛りの能登弁にあんたはん、ほんまに驚いてはった。奇跡だ、奇跡だゆうて。能登の女にこんなところで会えただなんて。盛んに感激してはった。だったら、知ってるやろ。?能登はやさしや土までも、ってことば。優しいとこなんやて。あそこは。でも働くとこが限られていてな」
今度は語りかけるようにして京子は私の目をのぞき込んできた。門前でしばらく母子水入らずの生活をした彼女は、まもなく七尾市の和倉温泉B館で一年ほど仲居として働いたという。
「でもね。あんたと話をした時の火魂というか。忘れられなくって、あの燃えるような感情を抑えることが出来んかったんよ。何を思ってか、アフガンでは多くの難民が苦しんでいる、ちゅうて。そんな話を和倉で住む男友だちから聞いて。そういえば、島でもブルカを脱いでアフガンから来ていた女たちから同じことを聞かされていた。ならっ、行っちゃおうと思って。アフガンに行ったんや」
京子によれば、アフガンではカブール中心部の住宅街一角にある鉄筋五階建てアパート一室の美容院に住み込みで働き、現地法人のNGO(非政府組織)にも所属した。美容院の鉄扉には看板ひとつなかったが、女性たちはクチコミで聞きつけ訪れたという。美容液やカーラーなどを市場で仕入れ、現地女性の指導でヘアカットやパーマを見よう見まねで覚えていった。非合法で店を開いていたため最初のうちはノックの音にいつもびくついていたが、そのうちタリバン政権も暗黙の了解をしていると知ったという。
滞在中は美容師をしながら、食料や物資の提供、医師や病院の手配などに奔走し、飢えや貧困と闘う難民の支援と救済に追われる日々だったという。しかし京子はウサマ・ビンラディンについてどころか、九月十一日に米国ニューヨークの世界貿易センタービルが民間機の衝突で破壊された同時多発テロに関しては、ひと言も語らなかった。私はその日、京子の話すことだけに耳を傾けた。ビンラディンや同時テロについては、ひと言も触れず夜遅く地元漁師に直接頼んだチャーター船で島を離れたのだった。
その夜は、近鉄鵜方駅近くのビジネスホテルに泊まり翌日、一宮の自宅に戻ると携帯が鳴った。
「ご苦労さん、いい按配やった。そのうちにキョウコから手紙が届くはずやから」
男はそれだけを言って一方的に切った。男はなぜ、京子と私が再会したことまで知っているのだろう。
4
ウサマ・ビンラディンの消息に対する報道は年の瀬とはいえ、相変わらず洪水のように各紙面に溢れかえっていた。私はデスク席で各紙の紙面を這うような目で追い、夥しい活字の中にビンラディン(新聞によってはビンラーデン表現も)の六字を執拗に追い続けた。
私が渡鹿野島に行く前の十二月二十七日付Y紙は朝刊で社説の横に『どこに消えた?』と特集を組み二十二日、中国中央テレビとの会見で、パキスタンのムシャラフ大統領が「すべての洞くつを爆撃した作戦の結果、多分、彼は死亡した」と述べた。以来、彼の死亡説が急速に浮上したと報じる半面、「一方で、ムシャラフ大統領が死亡説を強調したのは、パキスタンへの逃亡説をうち消すための煙幕だったのではないか」とも報じた。
さらにY紙はパキスタンのウルドゥー語紙『ジャング』が複数の外交筋、情報筋の話として、ビンラデンの行方について、「十三日前後にトラボラを離れ、一般には知られていないルートでイランに脱出した」と報じているとし、イタリアの国営放送RAIもカシミール逃亡説を、このほかチェチェンに逃げたのではないかとの説もある、と一体全体どれを信じてよいのかさっぱり分からないといった紙面展開だった。
そればかりか、ブッシュ大統領とラムズフェルド国防長官は、トラボラ地区での洞くつ捜索が「春までかかる」と長期化するとの見通しを示し、捜索部隊の大規模増強を承認した、との記述まである。特集記事は南アジアに詳しい米国の国際政治コンサルタント、マンスール・イジャーズ氏の「ビンラデンは偽装工作の名人。死んだと見せかけて第三国への逃亡の機を伺っているだろう」とのトラボラ潜伏説で締めくくられていた。あらゆるケースが考えられるため今後ビンラディンがどういう形で姿を現そうが、新聞社として特集を組み打つべき手は打っておくべきだ、との意図がありありと感じられるのだった。
私は何かに怯えて逃げを打つような紙面を前に、マスコミは、まだ誰一人として、ビンラディンが日本に来て既に死亡したなどとは思っていない。そうつぶやきつつ、自らに誓うように天を仰ぎウンと密かにうなづいた。
ウサマ・ビンラディンの動向と同時テロ発生に関する記事は、その後少しずつ減ってきてはいるものの正月に入ってからも相変わらず土砂降りの如く各マスコミを賑わせ続けた。「米 15歳、故意に突入 ビンラディン氏に共感 手書きメモ『テロを支持』」(M紙、7日付夕刊)「米軍 トラボラ捜索終了へビンラディン氏所在つかめず」(同、8日付)「潜伏情報転々 米戦術『限界』 軍事行動3カ月・捕そく難航」(Y紙、8日付)……
これらの中で私の胸を締め付けたのが、米フロリダ州タンバ市で十五歳の少年の操縦する小型機が高層ビルに故意に衝突した自殺行為である。
新聞各紙はこぞって「少年の衣服のポケットから遺書とみなしてよい手書きのメモが発見され、その中に同時多発テロを支持していた、との記述がある。米軍は小型機が無許可で離陸し操縦しているとの一報にF15戦闘機二機を緊急発進させたが、激突には間に合わなかった」とし、“操縦の15歳 友人少ない優等生”の見出し付きで「十五歳の少年がウサマ・ビンラディン氏に共感を抱いていたことは、米社会に衝撃を与えている。同時多発テロに刺激を受けて同じような騒ぎを起こす可能性のあることが、現実に示されたからだ」(M紙)などと解説している。
この少年のニュースを除けば、どの紙面も大方は推定される似たり寄ったりの内容ばかりで中身のない情報ばかりが日一日と確実に積み上げられていった。ただ、そんな紙面の中で、このところは各紙とも対テロ戦争の次の標的としてソマリアをあげる声がちょくちょく見られ、米軍の方向転換がじわじわ進んでいる事実も浮かび上がっている。
この点については、どのマスコミも「かつてのアフガニスタン同様、事実上無政府状態にあるソマリアが、ウサマ・ビンラディン氏のテロ組織アルカイダの拠点を依然抱え、今後、アフガンを追われたアルカイダの組織再編のかなめになる可能性がある」と報道。こうした時、記者たるもの所詮は単なる軍部の広報機関になり下がってしまうものなのか―と思うと私には、それが悔しくてならなかった。
そんなある日、地元夕刊紙・名古屋タイムズに二段見出しで遠慮がちに掲載されたちいさな記事が私の心を揺り動かした。見出しは「ビンラディン海路逃走か パ経由イエメンかソマリア」というものでワシントン共同発の記事の内容は次のようなものだった。
--米ABCテレビは十四日、米中央情報局(CIA)の分析結果として、米軍が追跡しているウサマ・ビンラディン氏がアフガニスタン国外に脱出したと報じた。CIAはビンラディン氏は海路で第三国に逃走した可能性が高いと分析しているという。パキスタンを経由してアルカイダとのかかわりがあるソマリア、イエメンに渡ったとの可能性が指摘されている。
ABCによると、CIAの専門家はビンラディン氏が昨年十二月上旬までアフガン東部トラボラの洞くつに潜伏し、その後同国を脱出したとの分析結果をまとめ、先週テネットCIA長官に報告した。またアフガンで拘束したテロ組織アルカイダの兵士が尋問の中で、ビンラディン氏がトラボラの潜伏先で、指揮権を部下に委譲したと証言しているという。
さらに十五日からアフガンなど南アジア歴訪に出発するパウエル米国務長官は同日、ABCテレビで「ビンラディン氏の所在は分からない」と語っている。米NBCテレビも同日、ビンラディン氏はアフガン国内か同国との国境沿いのパキスタンに逃れたと伝えている。
情報は依然、錯綜し報道されればされるほど混迷の度を深めていった。各マスコミともキャッチした情報を右往左往して垂れ流している。ただ私には、海路逃走したという、その表現が胸の奥深くに激流となって残っている。日は一日一日と流れていった。ビンラディンは、謎の男が言うように、この日本のどこかで既に死んでいるのだろうか。日本へ海路入り込むとすれば、昨年の『9・11』以降なのか。それともそれ以前だろうか。いずれにせよ、すべてを仕組んだうえで日本に入って来たのか。おそらく、こんな突拍子もないことを考えているのは、私だけかもしれない。それでも、もしかしたら、これが真実かもしれない。
そんな想念を巡らしながら私はただひたすらに男と京子からの連絡を待った。
5
京子から愛知県一宮市の私の住むマンション三階の自宅に一通の手紙が舞い込んだのは成人の日を過ぎたあと、一月十五日。火曜日のことだった。帰宅すると、いつものように砂子の「手紙よ」の落ち着き払った枯れたひと言に、せきたてられるように自室に入り、私は机に視線を注いだ。そこには女もののピンクの封筒が一通置かれ、手紙そのものが私に何かを語りかけるように鎮座していた。
裏返すと「渡鹿野島にて 京子・1月13日」とボールペンで記されていた。手紙を手に少し震えながら愛用の赤い挟みで封を切る。私は便箋何枚にもびっしりと書かれた文面を目で追い始めた。
「前略。
あたいです。お元気でしょうか。つい先日、あなたとこの島で何年ぶりかでお会いしたあと、あたいはお正月休みで能登の門前へ帰り母としばらく過ごし、七日に島へ戻ってきました。あなたもご存じのとおり、日本海の荒波は太平洋岸に比べいっそう厳しいもので、白い波が花の飛沫となって空を染めて舞う姿は、それこそ見事でした。浜辺の砂がひと足ごとにキュッ、キュッと泣く鳴き砂の浜にも行って参りました。
波の花のひとひらひとひらに、そして熱く燃える砂の一粒にさえ、あたいらの知らない世界がある、そう思うと不思議な気持ちにかられました。愛するビンが、あの片言の日本語で波の中からあたいに話しかけてくる。そんな気さえしたのです。
ビンと聞けば、あなたは恐らく耳をそばだてるに違いありません。ビンのことはこれから順次、書き留めていきたく思うのです。
ところで、あなたは熊野灘を眼下に海女さんが一年を通じて
あたいにとって、渡鹿野島は第二の古里も同然です。あたいは、この島でせっせと自らの肉体を切り刻んで悲しい男たちに売り、稼いだお金で家を建てわずかな土地も購入しました。以前にも話したとおり、一週間に二日の休みはしっかり取り、自宅で愛猫の“こすも・ここ”と水入らずに過ごすのが、せめてもの慰めでした。こすも・ここは白猫で名前は女一人、雌猫の一匹だって
あなたと初めてお会いし四年たったところで、あたいはあなたに宣言したとおり、それまでの世界から足を洗うことに決め、しばらく和倉温泉のB館で仲居として働き、このあと一人でアフガンに渡りました。先日も話したとおりアフガンでは現地のNGOに所属しながら、タリバン政権下のカブールにあるちいさな美容院に住み込みで働いていました。カブールにはちいさな銭湯まであり、楽しみといったら一週間に一、二度その湯に浸かることでした。
旧ソ連軍の侵入と撤退、イスラム政権の成立、さらにはイスラム同士の部族間の内戦……と、過去二十年にも及ぶ終わりのない争いに、鳥が翼を根こそぎ剥がれたように傷ついた人々。あたいは、仕事の合間には地雷を踏み手や足どころか、肉親までをも失った数え知れないアフガンの人たちの食料補給や衣料援助、医療の手助けなどに努めました。これも前にお話ししたかもしれません。
ビンに初めて会ったのは、そんなある日のことでした。彼はあたいの店に整髪に訪れ、あたいに「アナタ ニホンジンデショ」と話しかけてきましたが、その時こそ運命の一瞬となってしまったのでした。どこで覚えたのか、彼は片言の日本語を話すことが出来たのです。あとで知りましたが、彼は大変な努力家で衛星放送などで日本語を学んでいたのでした。
ビンと会ってからあたいの人生は激変しました。彼は、あたいに国際情勢からイスラム文化まで何から何までを教えてくれ、気が付くと男女の関係を結ぶ間柄にまでなっていたのです。ビンの熱い炎のような体で全身が射抜かれると、あたいの体が愉悦で逆立ち、たまらない歓喜に酔いしれたのでした。あたいはビンに深い性愛を感じながら人間はみな同じ、世界のどこにいても変わらない、と。男と女のほんとうの性の営みこそが美しく大切なのだ、とつくづく思いました。
それから春が来て。穏やかな日和が嘘みたいな、そんなある日、ビンは声を震わせ、あたいにとうとう、こう打ち明けました。
ワタシ、アメリカ ユルセナイ。イスラムセカイ アメリカニヨッテ ハカイサレツツアル。オオクノアメリカジン コロシテヤル。ワタシタチ ジュンキョウシャ ナッテミセル、と。
それまでもビンの口から多くを聞いていた私はビンの気持ちが分かるような気持ちがしました。でもまさかアメリカ繁栄の象徴ともいえる世界貿易センタービルに民間機を自爆衝突させ何千人もの犠牲者まで出してしまうなんて。そこまでは、とても考えてはいなかった。ビンは、あの時こうも言いました。
キョウコサンハ モドリナサイ。ニッポンヘカエリナサイ。ボクモキット ニッポン、ワタカノシマ アトデユクカラ。サキニイッテイテクダサイ。
信じられないでしょうが、これは本当の話なのです。あたいはビンに言われるまま島に帰り、今度は居酒屋『愛』の従業員として働き始めました。ビンは約束どおり昨年夏になり何の前触れもなく島にやって来ました。ビンは何かに怯えているようで『マテバワカル ソノウチニワカル』が口癖でした。
ビンは、ずっとあたいの家に滞在したままでテレビから流れるニュースを特に気にしていたようでした。話しかけてもあまり何も言わず、アフガンから持ち込んだパソコンで夢中でいろいろな人と連絡を取りあっていたようでした。何の意味かは分かりません。でも盛んにアルカイダ、アルカイダとよく独り言をつぶやいていました。
そしてあの同時多発テロがNHKのニュース画面に流れた時、ビンは盛んに手をたたいていました。あまりの狂喜に気持ちが悪くなり、あたいはビンの心を落ち着かせよう、と一週間後にそれまでも苦しくなるつど足を運んでいた赤目四十八滝に彼を誘い出しました。ビンはあたいが見せた滝の写真に感動したのか、すなおに付いて来たのです。
赤目の巨木や清流、赤く染まりかけた紅葉は何も言いませんでしたが、ビンの高ぶった気持ちを鎮めるのには役立ったようです。
その日、あたいとビンは渡鹿野島対岸の阿児町国府の岸壁に事前に待たせた地元タクシーで近鉄鵜方駅まで出ました。近鉄列車で桑名、名張経由で赤目口まで出、ここからバスに乗り赤目四十八滝を訪れたのでした。
四十八滝の登山道口から、くねくねと蛇行したゴロタ道を歩いていくと、まもなく滝の池だまりのような場所に着き、二人でしばらく休むことにしました。布のように長く帯を引く滝を目の前に、池をはさんだ対岸で頑丈そうな丸太で作られたベンチに仲良く座り、一景に心を寄せあいました。背後の、どす黒い樹木と巨岩をカンバスに白い流れが夥しい糸となって音を立て、水底にどんどん吸い込まれてゆき、滝壺が白く泡立っているのがよく分かりました。
宙天では葉という葉が赤く色づき、アクセントのように湖上高く浮かび、浮世絵さながらの色彩感を放ち水の音だけが、いつ果てるともしれません。あたいは耳を傾け人間どもの穢れを闇の向こうにどんどんと押し流し、消し去ってくれることを心の中でひたすらに願ったのです。あたいとビンには、こうした滝の瀬こそ薬なのだ。水があれほど黒く見えたことも初めてでした。まるで墨汁の海に二人がのみ込まれてゆく、そんな感じでした。
四十八滝では至る所、風が遠慮がちに頬をなぶり無言の妖精となって消え去ってゆきました。空を仰ぐと、そこには薄墨色の漆黒が広がり、その下で、これから少しずつ赤く染まってゆく木々の梢や葉が、周りを照らしながらじっと静観し冬の到来を待っていました。時折、瀬音に乗り、こどもの声ばかりが大きく聞こえてきます。大人の声はどんなに大きくとも自然界には同化しないのに。不思議です。と同時にアフガンに住む子らの声なき叫びが、この赤目の森にまで音聴となって迫ってくるのでした。
やがてあたいはいても立ってもおられずビンの手を取ると、一目散に走るように速足で歩き始めました。行者滝、霊蛇滝、不動滝とあたいとビンは手をつないで順々に滝越えをしてゆきました。不動滝を過ぎ、しばらくすると赤い橋に差しかかり、あたいはここで愛用のサングラスをかけてみました。岩を落ちるせせらぎの向こう側には、どこまでも深い紅葉が見てとれ、目を凝らすと、緑だったはずの葉に黄が被さり、年老いて黄緑色になったのがあります。葉身はおろか葉脈にまで赤が混ざり、全体が橙や黒ずんだ焦げ茶に変色し、精も根も尽き果てた、そんな木々も見受けられました。
秋の渓谷は日没後、急速に暗くなり危険です。早めに下山するよ--。
女性アナウンスの声が木立ちを伝ってどこからか、繰り返し流れていました。乙女滝の横辺りに差しかかり水面に目をやると、そこにはどこまでも透き通った水が棲みついていて、その流れに身を任せるようにゆったりとくつろぐアマゴなど十数匹の魚が見えました。ビンの目から涙があふれ出たのは、この時でした。屏風岩、八畳岩、護魔の窟、天狗柱岩と、あたいもビンも無心になってなおも何かを振り払うように歩き続けました。陰陽滝までたどり着くと、それまでのさらさらと心地好い瀬音が一変し、ゴオーゴオーと吠えるように聞こえてきました。
『この先、六百メートル、百畳岩に茶店あります。荷担滝迄約一・四キロ』の看板が目に入ったところで、これ以上前に進んだら漆黒の夕闇に溶かされはぐれてしまう。そう思って、Uターンすることにしました。帰り道は、頂上の山の端が赤らみオレンジがかって見えたのもほんのいっときで夜ばかりが、急速な勢いでどんどんと更けてゆきました。瀬音が獣の唸り声となって、あたいとビンの体を容赦なく射続けました。二人とも立ちくらみそうになりながらも渓谷沿いに黒い階段状の急な登山道を一歩一歩逃げるように歩いて行ったのです。
ただ黙々と、ひたすらに逃げるビンの顔からは、それでも心底何かに懺悔したい、そんな償いの表情が読み取れたのです。ビンが何か重大な過ちを冒している。あたいは、この瞬間、そう確信しました。
ビンとの旅は書くほどに哀しくなり忘れるわけには参りません。笑ってこのまま読んでください。赤目四十八滝を訪れてから二週間ほどしたあと、今度はビンを復興途中の阪神大震災の被災現場に案内しました。瓦礫の山と化した同時テロの惨状も、大震災の被災現場も、どこかに似たところがある、そう思ったからです。二人はここでも手を握りあったまま歩き続けました。被災直後、一面の焼け野原となった長田区から新長田町、三宮、さらには外国人の眠る
話は変わりますが、ビンは、あたいに連れられあちこちと回るうち自分に一番合った格好の死に場所を、あたいの故郷である能登半島と決めたようです。赤目から神戸、さらにはあたいがかつて少しだけ働いたことのある琵琶湖畔の大津の雄琴温泉、そして根尾村の
ビンが能登半島に来てから自死に至るまでの詳しい話は、もうしばらく期間をおき、世の中が落ち着いてからにしようかと思っています。遠く糸を手繰れば、あの夜、あたいの元を訪れたあなたさまの存在があればこそ、あたいはその後、アフガンに渡り、一人の女性としてビンという最愛の男と知りあうことが出来ました。すべての結果は、まだどう判断してよいものか、それは分かりません。でもビンの犯罪-もし事実だとすれば-で罪のない多くの人々とその家族が血を流し、哀しみのどん底に突き落とされたことだけは疑いようもありません。あたいは、ここにビンに代わってお詫びをしなければ、と思っています。それでは、また」
京子からの手紙を握り締めたまま、私は、ウサマ・ビンラディンと彼女との繋がりの深さを思い知った。
6
京子から届いた手紙を読んでからというもの、私は自身の体の脳天から足の爪先にまで夥しいほどのウサマ・ビンラディンの因子が蠢き回り潜んでいるかのような錯覚にとらわれた。デスク席に座り各地から送られてくる原稿をチェックする間にも、目の前のテレビでアナウンサーが「ビンラディン」のひと言を発すれば、そのつど全神経を集中させて聞き入りメモを取った。またデスク席にうずたかく積まれた各新聞とて同じで、ビンラディンの活字を追って目をさらにする日々が続いた。
それにしても、謎の男はどこでどうしているのか。このところは、沈黙したままだ。男には、まだ会ったことすらない。いや実は既に何度か会ってはいるが、本人が正体を隠しているだけなのかもしれない。京子の手紙にも、男の存在を示す記述はない。ただ一人「和倉温泉に住む男」とある。それがあの“作り声の男”なのだろうか。京子と男との接点は一体、どこにあるのか。私は二人のことを交互に思い出しながら日々のデスクワークに追われた。
新聞、テレビからはビンラディンの活字や名前が少しずつ減り、代わりにニュースの内容も印パ関係や米軍により拘束されたアルカイダ兵の扱いなどに移りつつあった。あれだけ騒がれていたビンラディンのことより、今は東京で開かれるアフガン復興会議の方がより重要だ、という各マスコミの視点がデスク席からは一目瞭然で分かるのだった。
その日(正しくは一月十九日夜だが)、私の両の目に無視出来ない活字が飛び込んできた。それは終列車に近い夜遅い帰宅でJR列車に乗り、名古屋から尾張一宮に向かう途中の車内でのことだった。ふと隣の乗客が手にしていたスポーツ紙に視線を向けると、そこからは偶然にも「ビンラディン氏透析出来ず死亡か」の見出しが飛び込んできたのだった。えっ、嘘だ。そんなはずはないのだが。ともあれ、どこかで確認する必要がある。
いずれにせよ、つい先ほどまでデスク席に座っていた編集局内の感触では、ビンラディンが死んだ、などといった緊迫した空気は全くない。本当にビンラディン死亡と捕捉のニュースが伝われば、編集局内は大騒ぎになるはずだ。ビンラディンの死が事実としたなら、これはもう号外ものである。何かの間違いだと確信めいたものはあるものの、体内を一瞬寒いものが走ったのも事実だ。私は尾張一宮駅で降りると、あわてて、駅構内の売店に駆け込み夕刊紙を手当たり次第に購入し一ページずつ慎重にチェックしていった。「ビンラディン死亡 パ大統領が見解」「重い腎臓病 空爆で治療不十分」。ある地元夕刊紙にも、こんな見出しが三段扱いで躍りワシントン発の通信社電は「パキスタンのムシャラフ大統領は十八日、米CNNテレビとのインタビューで、米軍が追跡しているウサマ・ビンラディン氏が既に病死した可能性が高いとの見方を明らかにした。大統領は彼(ビンラディン氏)は腎臓病を患っており率直に言って病死したと思うと述べ、同氏が米軍のアフガニスタン攻撃により、十分な医療を受けていないとの見解を示した」といった内容だった。
記事はその一方で「ビンラディン氏が死亡していなければ、まだアフガン国内に潜伏しているとの見解を示した」とも補っておりムシャラフ大統領はビンラディン氏がアフガンにふたつの人工透析装置を持ち込んでいる-としたうえで「ひとつはビンラディン氏専用に使用されていた。テレビが放映した彼の写真ではかなり衰弱していたと語った」との記述も。最初はギクリとしたが、読んでいくうち、あくまで憶測の域を出ない報道に私は内心、胸をなで下ろした。
だからといって私にはビンラディンが本当に重い腎臓病だったのなら、なぜこれまでにそうした報道がなされなかったのか。ムシャラフ大統領なら同時テロ以前から互いに少しは面識があったはずで腎臓を患っていれば知っていたはずだのに、なぜ、今になってなのか。その発言の裏には誰にも知られたくない何かが隠されている。そんな気がしてならなかった。さらにムシャラフ大統領といえば、昨年暮れに中国中央テレビとの会見で「すべての洞くつを爆撃した作戦の結果、多分、彼は死亡した」と爆撃死亡説を唱えていた。それがなぜ腎臓病死亡説に変わってしまったのか。
京子から私あてに届いた手紙にも腎臓病に苦しんでいた、という表現はどこにも見当たらない。やはりムシャラフ大統領だけが、彼の居所と真相を内密に知り、世論操作で世界を牽制しようとしているのかもしれない。反タリバン勢力や北部同盟、米軍によるカブールやカンダハルの制圧後、案外、ビンラディンだけがほとぼりが覚めるまで、どこかで秘密裏に軟禁状態にされているのかもしれない。それとも米軍の矛先が別の国に移り、世論もそれとともに消え失せるまで、彼を一時、どこかに匿っているのだろうか。頭の中ばかりが、グルグルと際限もなく堂々巡りしている。自らの思考回路が靄の中に入ってゆく自分に苛立ちさえ感じるのだった。
一月二十日。私は久しぶりに休みを取り、静かな気持ちで一読者の立場で自宅で新聞を広げている。今ではすっかり読者の間に根付いた日曜版の「世界と日本 大図解シリーズ」に目を通している。特集は、このところの世界の動きもあり、テーマを『増え続けるイスラム』に絞って展開されている。既にこれまでのデスクワークでも二週間前のカラー面の試刷りの段階から何度もくどいほど目にしてきた紙面でもある。
私は、わが子に再会するほどの愛着を込めた視線であらためて読み返していった。前文は「米国がテロ行為の犯人と名指ししたアフガニスタン国内のイスラム過激派は米軍の攻撃によって壊滅状態となりましたが、事件は世界の目をイスラム社会に集めました。世界でのイスラム教徒の数は増大するばかりで、いまや10億人を超え、人口の5人に1人となっています。イスラム諸国の現状を図解するとともに、イスラム教徒膨脹の背景を探ります」といった内容だ。
次に解説記事に目を通す。
--イスラムは、他の宗教に比べると、信徒の日々のかかわりが密といえる宗教だ。イスラムの基本的宗教行為は五つあって(五行と一般に呼ばれる)、それらは信仰告白、礼拝、
気が付くと、私はいつの間にか、読者の目を離れデスク長の目で活字を追っていた。
イスラムとは? イスラム(正しくはイスラーム)とは、「帰服する」「平和にする」というアラビア語のサリマという動詞から派生した名詞。全宇宙を創造した神(アッラー)に帰依することによって、心の平安を得ることを意味する。ムスリムは「神に従事する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒を意味する語として定着した。
さらに『根はひとつ「世界三大宗教」』の説明書きは、アダムとイブに始まる人類を木の幹になぞらえ、やがてモーゼ、イエスキリスト、ムハンマドの出現によりユダヤ、キリスト、イスラム教に枝別れしてゆく図解入りで「キリスト教徒とユダヤ教徒は“啓典の民”と呼ばれ、本来はイスラム教徒と同じ信仰を持つとされる。イスラムでは“啓典の民”は唯一神と最後の審判の日を信じ、善行を積めば天国に行くことができるとかんがえられている」とあった。
この日は、あすから始まるアフガニスタン復興支援会議の前夜祭が東京都内のホテルで開かれ、テレビ画面から流れるニュースではアフガニスタン暫定行政機構のカルザイ議長(首相)の顔が何度も大写しにされ、私に迫った。カルザイ議長は記者団の質問に対して次のように答えた。
「ウサマ・ビンラディン氏が死んだか生きているかについて情報はない。彼がどこにいようと捜索は続ける」と。
私は、その言葉を繰り返し自らに言い聞かせ、国際世論がこのままビンラディン氏の存在を闇に葬り去ってしまうことのないように、と願った。その意味ではカルザイ氏の「捜索を続ける」という言葉はまだまだ彼との接触点があるようで頼もしくも感じられた。ビンラディンが生きていればこそ、償いも出来れば世界平和への舵取りも進むのではないか。いやいや、たとえ死んだにせよ、ビンラディンの心にしっかりと根を張る火魂が生きている限り、世界の宗教や人々は緊張しながら、この世を生きてゆかねばならないだろう。ふと、そんなことを考えるうち私は自室デスクに上半身うつぶせとなり、このところの睡眠不足もあり寝息を立てている自身に気が付き、あらためて身を起こした。
日も時も、何もかもが新しい未知の世界へ突き進んでいるようだった。ビンラディンがここにいれば、彼とて一人の人間として同じ思いをするに違いない。私は、あれやこれやと思案するうち、ビンラディンに会いたい衝動にかられ疲れた体を横たえながらも寝入った。
再び寝入っているところを起こされたのは、鳴り止まないで続いた一本の電話だった。受話器を耳に当てると、くぐもった男の声が耳に大きく迫った。
「京子からの手紙読んだかいね。大体は、ああいうことなんや。ただ、まだ、まだやて。支局長さん。いやデスク長さん。これからやて。あんたはんが気付いていないことがあるんやて。何か今から分かったら、そりゃ。混乱しちゃって大変やがいね。分からんままの方がいいかて。何も追求なんかせんとき。デスク長は一線の記者あがりやから、じっと我慢するなんて嫌かしらんけど。ここんところは、じっとしとき。きっと自然に分かる日がくるんやから」
電話の声は、むしろ弾み、これまでのような周りに対する警戒心が少しだけ和らいだ気がした。それにしても、どうして電話番号を知ったのだろう。わが家は職業柄からもマル秘扱いで登録し、電話番号簿にも載ってはいないはずなのに。それとも男の影が私に、いつもどこかで張り付いている。もしかしたら、もう一人の私が、この世の中に存在しているのだろうか。私はいつしか深い眠りに落ちていった。
7
波のような透明な“かぜ”たちが私の体に絡みつき、いったんはしがみつきながらも吹き抜けていった。
私は一本の道をどこまでも歩いてゆく。冬には珍しい氷雨の中を傘もささず正面を見据えたまま足を一歩一歩前に運んでいた。
「ねえ。ウサマ・ビンラディンさん。あなたは今、一体どこにいるのですか」
声にならない声に何者かは分からないが影のような存在が「まだ教えられない」と、耳元に囁いてきたような気がする。
私はまた口を開き、今度はどんよりと曇った空中に向かって言葉を投げるように話しかけた。
「なぜ、民間機を世界貿易センターになど衝突させたのですか。罪もない多くの人たちが亡くなりました」
「……」
「なぜなのですか」
「それは」
氷雨は、いつの間にか小雪に変わっていた。私は見えない世界に向かって半ば挑戦的な口調で続けた。
「それに、ジ・ハードって。一体何なのですか」
雪の音に交じり、ビンラディンに代わって謎の男の声が聞こえてきた。口から出るひと言ひと言が雪を伝って音になった。
「お宅の新聞によれば、ジ・ハードとは、本来は『神の道において努力する』という意味です。関連してイスラムのための闘争、イスラムを擁護するための戦争として『聖戦』という意味でも用いられます。この宗教義務の戦いの中で亡くなったものは『
私は質問の内容を変えた。
「ところで“ビン”さん。京子という女性をご存知ですか」
男がビンに代わって答えた。
「ウン。知ってる。最後は彼女のおかげで憧れだった日本の土を踏めた。島の多くの女性たちにも会えたし秋の紅葉も拝めた。渡鹿野島、赤目四十八滝、琵琶湖畔、根尾村……、最後に能登半島と、知らぬ間に日本の香りが体中に染み付き、随分よくしてもらいました」
「日本には本当に来たんですか」
一瞬、雨の中で男の眼が光り、その影が黙ってうなづいたように見えた。
男は姿を見せないまま私に向かって話し始めた。聞こえてはこない声。それは幻聴に似たもので、たぶん私の耳にだけしか届いていないのだろう。その口調は、知らぬ間に関西訛りに能登方言が交じっていた。ビンに男が乗り移っている。
「わっしゃなあ。旧ソ連軍の侵攻や部族対立でこの二十年ちゅうもん、戦争に明け暮れ、国土の全域が地雷の海と化してしもうたアフガンを何としても再生させとうて。な。それからパレスチナでも罪のない多くの人々がイスラエルの報復という名の空爆で殺されてきた。パレスチナの人たちがやむにやまれず自爆テロの仕返しをする気持ちがよおー、わかるんやて。
ほいでなあー、なぜこんなにかわいそな悲劇が続くかというとな。やはり国際社会の秩序にいつもアメリカがしゃしゃり出てくる。だからだ、と思うてな。わしかて戦争のない社会が好きやて。なんもテロのことばかり思うてなんか、いやはんかて。
イスラムでしていけないこと。あんたはんとこの新聞でも書いてあったとおり、自殺、殺人、盗み、嘘をつく、人を陥れる、人を傷つける、飲酒、姦通、ばくち、それに利子を取るのだっていけないんだ。おいらぁ、これらのこたぁーぜえーんぶ分かってる。分かってるがアメリカが憎うて。ムスリムの中には自分たちのやることはジ・ハードだから。ジ・ハードなんや、と自らに信じて強硬手段に出るんやて。ニューヨークの事件かて同じや。
亡くなった多くの人々には、ほんに悪い。そう思うとる。あの同時テロが起きたからこそ、米国はじめ全世界がテロ組織・アルカイダの温床とされるアフガンに目を向けることになったんや。でもアメリカのブッシュは欧州諸国やロシア、日本にテロは許せない-と正義のツラして、とうとうアフガンへの空爆にまで踏み切ってしもうた。こんな暴挙が許されていいかいな。ほやろ。それでも救いは、アメリカの中にだって報復空爆に断固反対する人が意外と多かった、ちゅうそんな現実やった。
それにしてもアメリカちゅう国はなぜ、何にでも介入してくるんか。そのおかげで、どれだけの人間が血底を彷徨うとるか。あんたはんかて。新聞記者なんだから、おいらの言うとること分かるだろ」
私は黙って歩き続けた。
歩きながらウサマ・ビンラディンのアフガンでの生活はどんなものだったのだろう、とふと思ったりした。
イスラムの一日は日の出の一時間半前から十分前までファジュルと呼ばれる早朝の礼拝で始まる。次いで昼過ぎのズフル、遅い午後のアスル、日没後のマグリブと続き、就寝前のイシャーウと一日に計五回の定時礼拝をこなして終わる。日本では考えられない信仰心の厚さといってよい。アラビア半島生まれのビンとて同じように日々、一日五回の礼拝を続けてきたに違いない。
『してはいけない』ことのほかに『食べてはいけないもの』も多い。豚肉(ハム・ベーコン・ソーセージ含む)、血を抜いていない肉、病気で死んだ動物、アルコールの含まれた料理、サラミ、ラード、酒、肉食獣、ヘビ……。ビンもこれらは一口も食べてはいないのだろうか。酒のない人生なんて。私には考えられないことなのだが。
謎の男からの電話で私はビンラディンへの関心を深めれば深めるほど、イスラム社会に傾倒していった。イスラムでは姦通が禁じられている代わりに、四人までの妻帯が認められている。これは預言者ムハンマドの時代に、戦死した男性の未亡人を救済するために正当化されたという。ただ夫は複数の妻を愛情や経済支援で平等に扱わなければならない。京子はビンにとって、どんな立場の女だったのだろう。
気が付くと、男の声は知らぬ間に風に乗って消え、私はただ一人“寂しい橋”を渡るように、どこまでも続く海岸線を歩いていた。私は今、つくづく思う。昨年の八月、前任の文化芸能局から二年ぶりに古巣の編集局に舞い戻ってまもなく九月十一日にはニューヨークとワシントンで同時多発テロが発生した。それまで一体誰が、これほどの事件を予想したことだろう。評論家たちは、ブッシュとビンラディンの相剋を文明の戦いだとも評している。だが私にはそうは思えない。民族も含め人間一人ひとりの中に沈潜する憎しみとか争い、さらには自分だけがよければ、といった独りよがり、こうしたものがないまぜになって神の淘汰の中で躍らされている。ただそれだけのような気がしてならない。
そのあかしに過去を振り返るなら、人間は絶えず互いに殺しあってここまでの道程を歩んできた、そう言ってもいいだろう。そのうちに見えざる手が人類を滅ぼす日が来るかもしれない。私は、そんなことを思い、ふと足を止めた。遠くを見つめると、そこには霞か靄か、それとも異次元の世界なのか。水平線のかなたで何かが蠢いている、そんな気がし、今度は冬の夜空を仰いでいた。何千、何万、いや無限の生がそこで生きているかもしれない。南東の空高く、ひときわ明るく輝くのが木星。ほぼ横に並んでオリオン座、その上方におうし座、そして土星……が光っている。天体には知らない世界が、きっとあるだろう。そういうことからすれば、ビンの存在など、けし粒にも足らぬ存在かもしれない。私は急にビンが根尾に立つ樹齢千五百年近い
「ブッシュもアルカイダも、罪なき人々の話もよいけれど。淡墨桜と会って、ビンはどういう表情でしたか」
男は目を細めて語り始めた。
「淡墨桜ゆうたら、あんたはん、かつては“淡墨記者”と呼ばれたあんたはんの専売特許やんか。あんたは、あの時、県と業者の不正を暴こうと取材に飛び回り、とうとう暴き、権力は音を立てて崩れ去った。ほんまよーお、やった。志摩半島から岐阜へ転勤してまもなく、長良川が安八町で決壊するなど大事件が続発したころやったが、あんたは忙しい合間に、よおぅ淡墨桜んとこに通うたもんやった。根っこの部分に民家があるから老樹の寿命を縮めてしまう、ちゅうて県文化課を通じ文化庁とかけあい、民家が移転したりする“事件”もあった。淡墨桜の保護に命をかけた作家の宇野千代さんにも、よおぅ、かわいがられたもんやて。彼女の提言に桜の保存に情熱を注いだ知事が県庁汚職で司直の手にかかった時にゃあ『淡墨桜が泣いていた』って書き出しで。多くの人が複雑な気持ちで泣いて記事を読んだもんやて。
ビンには、な。京子さんの口からこうした話をしたそうや。お化けのような幹を張る淡墨桜はものこそ言わないけど、世の中のすべてを見ている、と。宇野さんもおっしゃっていた。『わたしは雨の日の、この花が好き。薄墨色の花びらは、しょぼしょぼと雨に濡れてこそ、いっそう、妖艶でいとおしくなる』と。このことは、あんたはんが一番よおーく知ってることやないか」
「それでビンは」
「ビンは黙って桜の幹を眺めるばかりやった。この老樹の幹や枝から、銀の小粒の涙にも似、微かに薄墨色に染まった花が生まれるだなんて、とても信じられないちゅう顔してはった。ただ、そこに立っていると不思議に心身が落ち着き、争いのない平和な世界に誘い込まれてゆく、そんな気がすると言やはってた。京子も満足そうにうなづいている姿をよお、覚えとる。
ビンと京子は、それから琵琶湖畔の大津市雄琴温泉に足を延ばし、十一月の上旬に能登半島の七尾に入ったそうやて。なんだか、あんたはんが記者として歩いてきたところばかりになってしもうた。京子は、あんたが新聞記者として、どんな道を歩いてきたのか、ただそれを自分の目でも確かめたい、その一心でビンとの旅を続けた、そう思えてしかたがのうて」
私は話を聞きながら、静かにうなづいた。話を聞くうち、これまで歩いてきた海岸線が、いつの間にか、それまでの熊野灘に面した射光の眩いリアス式海岸から、波の花が舞う日本海側に、と変わっていた。つい足元を見ると、そこには海砂が大きく迫り、ひと足ごとにキュッキュッと哀愁を帯びた音を奏でるのだった。音愁は、若いころともにつるんで駆け落ちし志摩で砂子と過ごした日々と重なり、今度は眼前に、真珠筏が浮かぶ鏡のような海、あの真珠のふるさと
気が付くと海砂の泣く声が、あの核を入れたあとに
何かに押しつぶされる。逃げ惑ううちに視界が拓け、そこにはいつもと変わりのない砂子の顔があった。あらあらっ、また何かあったの。もう、あなたって。いつもこうなのだから。寝ぼけてなんかいないで早く起きてよ。今、何時だと思ってるの。何だか知らないけれど。あなた叫んでいたよ。ビンラディンはどこだ、ビンはどこへ行った! って。
私は夢の中でこうしてウサマ・ビンラディンと一緒に歩いた。未だに夢か幻でなく、現実のものに思われてしかたないのだった。
8
夢の中でウサマ・ビンラディンと京子のことをまるで親しい同胞のように能登方言交じりで語った男は、一体全体誰なのか。男は私がかつて地方記者として歩いた道を十分過ぎるほど知っている。
男のあのだらりとした抑揚で人に預けるような、くぐもった密やかな作り声とは能登半島の七尾で起きたミステリーサークル騒ぎの時に初めて出会った。その後は大垣でもある朝、突然電話が入り、長良川・木曽川リンチ殺人事件の発生を教えてくれた。大津時代には少女連れ去りが近江八幡で起きるや、もしかしたら犯人の車は京都ナンバーのソアラではないか-と目撃情報をいち早く知らせてくれ、これがヒントになり朝刊社会面トップの記事に結び付いた。
まだある。尾張一宮では、当時の市長Kがそのうちきっと知事選挙に出馬するはずだ、確かな筋の情報だから十分にあり得る-と連絡してくれ、そのとおりとなった。不思議に重大な時ばかりに男の声が私の耳元に現れた。もしかしたら、能登で出会い苦楽をともに語りあった友人たちのうちの一人ではないか-とも思うが、だったらなぜ電話ばかりで私の前に現れるのか。声音も、そのつど多少、変えている。それよりも能登の男に大垣や近江八幡、一宮の事件発生まで分かるはずがないではないか。
そんなことを考えるうち、私は男の存在以前に私の精神構造というか思考回路の中に、世にも不思議な得たいの知れない異次元が潜んでおり、重要なこととなると、それこそ共鳴音となって電話のベルを鳴らせ私に『急』を教えてくれているのではないだろうか、とそんな突飛なことまで考えるのだった。
ウサマ・ビンラディンの消息は依然何も分からないまま時は日一日と流れてゆく。同時テロが発生して、しばらくは新聞の発言欄にも、新聞はなぜ「ビンラディン氏」などと「氏」をつけるのか、とか戦禍と地雷、貧困、病、干ばつに苦しむアフガニスタンに米国はなぜ、報復空爆をするのか、許せない、といった投稿が多く寄せられたが、発言欄担当の先輩記者によると、このところはこうした投稿も減りつつあるという。
私はその後も毎日、相変わらずデスク席に押し寄せる夥しい量の原稿チェックに追われた。そんなある日、社会部のニュースデスクが私の元に「出来たら、この原稿を夕刊特報面で使ってほしい。何だか胸にキューンときちゃって」と訪れた。目をとおすと、ことしに入り、全国各都市での公開が始まったイラン・フランス合作映画『カンダハール』の主演女優ニルファー・パズィラさんがこのほど東京を訪れた際のインタビュー記事だった。
--カブールで生まれ、ことし二十八歳。現役のフリージャーナリストでもあるニルファーさん。彼女は、旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻に伴う共産政権の迫害で十六歳の時に家族とともに出国しカナダに渡り、オタワの大学でジャーナリズムを専攻した。三年前、カブールの友人から自殺をほのめかす手紙を受け取り、アフガンに不法入国したが再会を果たせなかった。一方でその友は女性の就職を禁じたタリバン政権下で職まで追われていた。
ニルファーさんはインタビューに、こう答えていた。
「カンダハールの撮影は一昨年、イランのアフガン国境で行われました。村には五千人のアフガン難民がおり、現地で多くの女性たちとも会いましたが、夫や両親、兄弟、姉妹を失っていない女性をただ一人として思い出すことが出来ません。人々は旧ソ連軍やイスラム武装勢力に家を破壊され、飢えていました……」
「タリバン政権が女性に強制した頭からつま先までを覆う伝統衣装・ブルカの着用には強い抵抗を感じました。ブルカはこの国で抑圧の象徴でした。それでも、もし女性たちが自ら納得してブルカを選び顔を隠すのなら尊重されるべきです。服装の政治化が抑圧を生むのです。たとえミニスカートでも着用の強制は抑圧です」
「私は自分で着てみて、なぜ女性たちがブルカを羽織るのか理解し始めました。それは一種の安心感からです。特に治安の悪いアフガンでは。この安心感は偽りですが、それでもそれにすがる女性たちの気持ちはよく理解出来ました。私は、今回成立した政権が正しい政権であることを切に願います。アフガンが世界から目覚めることを。私は世界が、特にジャーナリストにはアフガンで何が起きたのかを忘れてほしくないのです」
インタビュー記事はニルファーさんが、こうした体験を振り返り「戦争はもうたくさん」「アフガンの悪夢を忘れないで」と訴える内容だった。
映画『カンダハール』そのものは、主人公ナファス(ダリ語で“呼吸”の意)がカンダハルに住む妹を訪ねるという内容だが、そこに登場するのは現に貧困と戦禍に耐え忍ぶ夥しい数の難民たちで、彼らのこうした素顔こそが忘れられてはならないことだ。私は地雷を踏んだり空爆で足をもぎ取られ、なおかつ逞しく生きる難民に思いを馳せつつ自らの胸に、そう言い聞かせていた。
それにしても考えようによっては良くも悪くも今回のアフガン復興のきっかけを作った、あのウサマ・ビンラディンは今、どこでどうしているのか。謎の男の言うとおり、彼が既に日本の地で自決した、となると同時テロ発生後にアルジャジーラが流した最新ビデオ映像の数々は一体、何だったのか。単なる虚像を流しただけのことなのか。それとも、すべてビンラディンが生前、仕組んだ罠なのか。あれやこれやと考えデスク席で新聞各紙をチェックするうち、私はことしの一月二十三日付夕刊各紙の社会面軟派に少し気になるちいさなベタ記事があるのに気が付いた。
それは昨年十月十二日に名古屋空港総合案内所に「きょうのマニラ行き旅客機にタリバン武装勢力の一味が乗っている」と電話をかけノースウエスト便の出発を一時間二十分遅らせた男に対するもので、名地裁は「テロに対する恐怖心を利用した悪質な犯行だ」として懲役一年四カ月の実刑判決を下したというものだった。ビンが京子を訪ね渡鹿野島に来たのが夏だから、それこそ三、四カ月あとの事件である。
フィリピンには実際にタリバンの残党ともいえるイスラム武装組織「アブ・サヤフ」が存在しているという現実がある。最近になって米国もタリバン残党勢力の一掃を目指しフィリピン政府に介入していることからも明らかだ。だとしたなら、もしかして。それより前にビンがマニラ経由で空路、日本へ侵入したことだって十分にあり得る。
ビンといえば、カタールからの衛星放送・アルジャジーラの報道で一九〇センチの長身でやさ男、そして口髭がすっかり定着してしまっている。が、実は中肉中背で画面から世界に流れた映像とは似て非なる風貌だったりして、国籍もマニラで、そういう形のパスポートを所有していれば日本への入国なぞ、簡単に出来るのではないか。あれだけのテロを起こしたのがビンとしたなら、別人をビン本人に仕立て上げ、自分は影武者となることなど彼にとってはわけないのでは-と疑念はますます膨らんだ。
そして。十二月二十四日になり、海外では今回のテロがインドネシアにまで飛び火、同国の捜査当局がビンラディンのテロ組織アルカイダと関係が深いとされるイスラム導師アブ・バカール・バアシルの事情聴取に踏み切った。反米爆弾テロ事件を計画していた、とされるイスラム過激派組織の中心人物と見られるためだが、バアシル氏はアルカイダなどとの関係を全面否定。その一方で「ビンラディン氏はイスラム世界を代表して傲慢な米国と戦っている」とも称賛しているという。
バアシル氏が率いるムジャヒディン評議会の会員は五万人を超え、過激なメンバーも多い。確たる証拠がないまま身柄拘束に出れば、反発は必至との予測まである。各メディアの報道を見る限り、ビンラディンが今どこにいるのか、との調査取材以前の動きに右往左往しているのが現実だ。ビンラディンが既に日本で自決したなぞ、思い浮かべたことのない人の方が大半のようでもある。世界中がイスラム過激派に浮き足立つ中、私にとっては、それよりも、もしビンラディンが本当に死んだとしたのなら、彼の死にざまはどうだったのか。その最期を教えてほしい-と渡鹿野島に住む京子に手紙を出したのだった。
9
京子から手紙が届いたのは、それから一週間ほどたった雪の降る静かな日だった。
「あたいは、今泣いてます。ビンのことを密かに偲んで毎日、お祈りをしています。むろん一日五回の礼拝も欠かしません」で始まる文面からは滔々と流れ出る泉のような力強さを感じた。いつもの言葉を空気中に投げ捨てるような能登方言まじりの口調とは、とても思えない文体だった。
「前略。お変わりございませんか。
あたいがビンと能登を訪れたのは十一月の三日。文化の日でした。ちょうど二十九年前、砂子さんが阿児町鵜方の志摩通信部内であなたと暮らし始めたのも文化の日でした。あたいの心の中には、どこかであなたの真似をしよう、そんな気持ちがパチパチと音を立てていたのも事実なのです。
最初にあなたにお会いした時、あたいの全身にビ、ビ、ビッとくるものがありました。あなたとはいろーんなことを話しあいました。話すうち、それまでに何人もの男たちに捨てられ生みの子とさえ引き裂かれた、そんなあたいの中の火魂とでもいうものが少しずつスパークしてくるのを感じたのです。ヨシッ、これからは世の中のためになる女になってやるんだ、と。
そんなわけで、あたいは当時、戦禍の中のアフガニスタンに渡り、そこでは日本人から成る現地のNGOに身を投じたのでした。タリバン政権下でアフガンには至るところ地雷が埋められ、あげくに二十年前から果てなく続く戦乱の中、情報が途絶え慢性的な貧困と飢え、医療、食糧不足、さらには干ばつ被害が蔓延していました。
前にもあなたにお話ししたように、それでもあたいはアフガンのカブールでは地下組織といってもよい秘密の美容店で働くうち、ヒョッコリ店を訪れたビンと知りあったのでした。でもビンはテレビで報道されているような長身でも何でもありません。むしろ小柄な方でしょう。髪の毛も長髪ですがあのように口髭などは蓄えてはいません。むしろ、少しストイックで男の色けとか艶が仄かに感じられる風貌でした。
そんなわけでカブールで過ごすうち、ビンはあたいの住むアパートをたびたび訪れ、二人は男女の仲に急速にのめり込んでいったのでした。ビンは、いつも天を突くように逞しく、あたいはビンによってどんどん鮎のように跳ねて若返ってゆく、そんな歓喜の世界に浸ったのでした。ビンには妻子が何人かいる様子でした。でも妻が何人、子はどこにいるか、だの家族のことにはいっさい触れませんでした。
アフガンでのビンはカブールを拠点にカンダハルやジャララバード、ペシャワル、トラボラにも再三、足を延ばしているようでした。ほかにレバノン、シリア、アテネ、イラク、カイロ、ローマ、ロンドン、ドイツ、アムステルダム……と世界中を飛び回っていました。行く時は、いつも十人ほど従えていました。中でもトラボラ地区は険しい山脈の中に無数の洞穴やトンネルが入り組んでいます。一九七九年から一九八九年にかけ旧ソ連軍と地元ゲリラ勢力が戦ったアフガン戦争時にはムジャヒデンと呼ばれるイスラム戦士らがソ連軍の空爆に耐えに耐え抜いてゲリラ戦の拠点にしたところです。
そんなある日のことでした。ビンはつたない日本語であたいに『ニホンニ ハヤクカエレ カエルンダ ワタシ キット ユキマスカラ』と何度も繰り返したのです。それからビンはこうも言いました。『コレカラ ニューヨークトワシントンデ タイヘンナコト オキル シカケオエタラ ニホンユキマス』と。さらに、こうも言ったのです。『ソノゴニ エイセイホウソウ・アルジャジーラカラ ナガサレル ワタシノエイゾウハ アヤマッタモノデス コノテンダケハ イツカ セカイノヒトビトニ ツタエテオキタイノデス スベテ ワタシガ コクサイシャカイニ シクンダモノデス』と。
あたいはビンに言われたとおり、志摩半島の渡鹿野島に帰ったのでした。島にはあたいの持ち家もあります。あたいは懐かしさで胸がいっぱいになったのでした。あたいがAと知りあったのは、そんなある日のことでした。何でもあなたが書いた短編小説の中に登場する“あたい”が気に入ったと言って。わざわざ、あたいに会いに来てくれたのでした。Aはその小説『一宮銀ながし』を手に島を訪れ、島の人たちに聞いて回るうち小説に登場する主人公“りか”が実は“あたい”らしいと知り、島の置屋を訪れたのでした。置屋から「あんたを訪ねて来てるよ」と連絡を受けたあたいは、既に娼婦をしていなかったこともあり、Aを自宅に招き入れたのでした。あなたによく似たおひとでした。ほいでなあー、あのなあ、ほやわいね、あぁ、おとろしい-といった調子でまるで志摩の海女さんたちみたいな口調でした。Aはわっしゃ、彼が好きなもんで。彼とあなたがどんな人生を歩んできたか、を聞きとうて、な、だって。
あんたのことを彼、彼ちゅうて。あなたにそれほどに熱中した男なら心配ない、あたいはそうビンのことについても馴れ初めから、これまでのことまで一部始終を話したのでした。アフガンでは、この二十年の間に二百五十万人が死に、七百万人が難民となりケガをしたりして、苦しんできました。どれだけ多くの人々が地雷を踏み手足を失ったことか、と話すと涙ぐんでいました」
京子からの手紙はなお、延々と続いた。謎の男が手紙の中で『A』として徐々にベールを脱ぎ始めたのは、この時が初めてだった。私は文面に釘付けとなり、さらに活字を追い続けた。
「Aとあれやこれや話すうち、あたいの気持ちは動揺しました。それからというもの、どういうわけか、ビンの存在とあなたがだぶってしまい……あたいの古里がAと同じ能登半島ということもあり、あなたのことを逆にあれやこれやと聞きました。Aは、あなたについて能登をこよなく愛してくれた支局長さんやった、と話していました。それからこれぞっ、て言う時にゃあ、声音を変えて、支局長に何度か電話もしたもんやった-とも。
でも、支局長は俺の存在など事件発生のつど、垂れ込んでくる不思議な男ぐらいにしか思ってないんじゃないかな。面識はあるから、もし会えば俺のこと、ピーンとくるはずだ。転勤の挨拶状も二、三年ほど前までなら、そのつどもろうとった。ほやから新聞社の連絡先は、その気になればいつやって探せるわいね、とも話していました。
Aは以前にもこの島を訪れたそうですが、その時には男と女のセックスの最中に非行少年から、女に入った電話の一部始終を聞いてしまい、こりゃ大変や、て大垣にいたあなたのところまであわてて匿名で電話したって、そのように言っていました。何でも女の男友だちが長良川河畔で殺人を犯し遺体を放置したまま逃げてる。そんなような内容だったので何はともあれっ、て。支局へ電話したのだっ、て。そういうことでした。
能登のことを互いに話しあううち、何だかあたいとAは同志のような気がしてきて。Aは七尾の男で、あなたが七尾にいたころ、よう歌ったもんやっ、て。それで、こんな歌をあたいも一緒に歌いました。あなたは覚えておいでですか。
かわいがられた
思い出だけを
抱いて別れる
七尾の港
能登の海鳥
泣かずにおくれ
泣けば 出船が辛いじゃないか
深いなさけの
夜霧に濡れて
泊まり重ねて
七尾の港
能登の島山
さよならさらば
せめて 心で呼ぼうじゃないか
Aと歌ううち、あたいの目からは、なぜか涙があふれ出し、あなたは今ごろ、どこでどうしているんやっ、て。そんなことばかりが思い出されて。この島を飛び出し、アフガンに夢を馳せビンと出会ったのもあなたとの出会いがあったればこそ、です。これが恋心だとしたら。あなたと離れよう、あなたを忘れなければ、としたのかもしれません。
そんなことを思うてたら、Aが昨年暮れになり、あなたが島へ来るから居酒屋『愛』で待っていてやって-と連絡が入り、思わぬ再会が出来ました。でも、あなたと会った時には既に何もかもが終わっていたのです」
威儀を正したような文面に、私は思わず背筋を伸ばし大きく深呼吸をした。
「実を言いますと、Aとは、それからも再三密会しました。ビンがアフガンから、あたいを訪ねて来た時には既に夫婦以上の関係にあったのです。ビンもあたいに、男がいるとは気付いていたようです。ビンとは渡鹿野島でしばらく一緒に暮らし、その後に赤目四十八滝や琵琶湖、淡墨桜を見て回ったのでした。
ビンの決意は日本に来た時、既に固まっていたようで毎日、アラーの神にお参りをするビンを横目にあたいはふるさとの能登半島に一緒に行くことを勧めたのです。能登では七尾の和倉温泉に漬かり、能登島水族館を見て回るなどしました。門前では日本海からの厳しい風を遮る能登の間垣を見たり、鳴き砂の浜に行ったりし、運命のその日は門前から能登金剛にまで車を飛ばし、関野鼻のヤセの断崖に並んで立ちました。
あたいとビンは、あの時、同じ人間としていろいろな話を片言の日本語と英語で話しあいました。既に夫婦の契りを交わしていたAはあたいの昔からの知人だと偽り車の運転を買って出てくれました。アメリカがイスラムに介入し過ぎた結果が多くの不幸を生んだ。ブッシュも、ビンも悪い。何人の人々が親や子、兄弟、恋人を失ったことか。あたいは独り言のように海を見つめて話しました。ビンはただ黙ったままでしたが、いきなり大声を出しました。
「ジッ、ハード コレモ セイセン ジュンキョウデス ボクハ コノウツクシイクニ・ニッポンデ ツグナイノココロデ シンデユキマス」
天を突くような声。ビンならではの気迫が周りの冷気を引き裂きました。と、その刹那、彼はヤセの断崖から大きく足を踏み出し約五〇メートル下の荒波に真っ逆さまに落ちてゆきました。あたいとAは、その後、男が断崖から身投げするところを見かけた―と事実だけを地元
手紙を置き自宅マンションから戸外を見ると、そこにはいつの間にか白一色の雪景色が広がっていた。あの雪の中からウサマ・ビンラディンはにこりと笑いながら、私と京子、Aのことを思っているのかもしれない。少なくとも私の記憶の中にあるビンラディンは、そういう男であった。
10
京子から届いた手紙を読み終えてからというもの、私は全身から抜け落ちた力を維持するのに苦労した。もはや、あのウサマ・ビンラディンが生きているとか、まだどこかに潜んでいる、などどうでもよくなった。
新聞各紙は相変わらず、エルサレムでイスラム原理主義組織・ハマスに属する女子大生が自爆テロをしたとか、パキスタンで何者かが米紙記者を誘拐、キューバのグンタナモ米軍基地に拘束されているアルカイダメンバーの処遇改善を要求している、などと報じている。
そんな中、一月二十八日付夕刊紙の中に「ビンラディン氏ら生存 米副大統領見解」というベタ記事が目に飛びこんだ。私は、もう終わったことだ、と思いながらも活字に目を通した。それによると、副大統領は米FOXテレビのインタビューに答えウサマ・ビンラディン氏とタリバンの最高指導者オマル氏がいずれも生存しており、アフガニスタンとパキスタン近くの国境付近に潜んでいるとの見方をしている、と報じている。
記事はさらに「副大統領は確証はないとしながらも、仮にビンラディン氏が死んでいれば、アルカイダ内部などから同氏の死や組織の将来についてさまざまな情報が漏れてくるはずだと指摘している」とも付け加え、関心は衰えてはいないなっ、と思った。
私は今、自問自答している。
ウサマ・ビンラディンのこの世での存在が一体、よかったのかどうか、と。彼がもし本当に同時テロの首謀者としたなら、何千人もの命を奪ったことは許せない。だがアフガニスタンに、これだけ世界の多くの目を向けさせ復興への道を開いた、そのきっかけを生んだ男といえないこともない。
もし、ビンラディンが日本で自殺したという、この物語が真実だとすれば、日本とビンラディンとの接点は京子とAにしかない。京子は誰よりも起伏の激しい女だが彼女がビンを男として魅力を感じ、彼もまた京子を女として大切にしてきたことも事実だ。そしてAはといえば、いつも地方記者である私の実像を追いかけるうちに、京子を知り、ビンまでも知った。とうとうヤセの断崖から日本海に身を投げるビンの最期までをも見届けた。
だが、こうした事実は永遠に闇に葬り去られるだろう。京子たちの通報に警察はその後現場一帯を捜索し、近くの増穂浦の岩場に打ち寄せられている遺体を発見し収容した。ヤセの断崖は自殺が多発する場所であることから、警察は国籍不明の外国人による自殺と断定し、記者発表ひとつされなかった。いや、たとえされたところで記者たちも書かなかったに違いない。
いつだったか、私が七尾支局長で在任中、交通事故を苦にした一家が五人もろとも、ロープで身を結びあってヤセの断崖から飛び下り自殺したことがある。極端なことをいえば、こうした社会性がある時を除けば、たとえ自殺の一人や二人が出たところで、警察も新聞記者も「またか」という感傷に陥るだけで、慣れっこになってしまっている。ヤセの断崖は、そういう所なのだ。
さて、ことしに入りウサマ・ビンラディンの存在は、彼に関する社会、特報、外報各部から出稿される記事量が少なくなるに従い、私のデスク席からも日に日に離れ、遠のきつつある。ましてや、ビンは既に死んでいる-との情報を胸に秘める私には記事の大半がそらぞらしく空虚なものに感じられてしかたなかった。
それでも新聞によっては「同時テロは西欧文明に敵意を抱くモハメド・アタたち学生中心によるハンブルクグループが中心だった」とか、「貿易センタービルに突っ込んだ二機目を操縦したとされるマルワン・アルシェヒと、ペンシルバニア州の山中に墜落したユナイテッド機を操縦したとされるジアド・ジャラはそれぞれ別のドイツの町から移ってきている。誰かがメンバーを集めた可能性が高い。接点と見られているのは、ハンブルク駅に近いアルクッズ・モスクだ。アタはここで入会誓約書めいた遺書を書いている」(A紙)などと気になる紙面展開も見られた。
その記事はさらに「しかし関係者の取材拒否は厳しく、アタがいつからモスクに通いはじめ、だれと会って何をしていたのかはわからない。モスクは開かれた祈りの場であり、イスラム教徒ならだれでも入ることができる。説教者や指導者はいるが、教会の神父や牧師、寺の住職のような存在はない。英国の穏健派イスラム施設ムスリム・カレッジ代表のザキ・パダウイによると、過激派のオルグは各地のモスクを訪れて一本釣りをしているという」と続け、興味ある内容だった。
私は紙面に目を通しながら、ウサマ・ビンラディンがある時期、米国の公開ビデオの中で「アタがグループを統括していた」と話していたのを思い出し、同時に何かで耳にした「アタは一九九六年から二年間、アフガニスタンにいた」との証言が脳裏に蘇った。だとしたら、ビンラディンはアタたちにどこで、どんな指示をしたのだろう。それとも、ビンラディンは彼らと元々つながっていたパイプから犯人に仕立て上げられ、自身もこうした国際世論に反発することなく「これでよし」としたのだろうか。実は潔癖だったかもしれない。そうはいっても今さらどうにもならないのだが。
私は昨年九月十一日に同時テロが発生して以降、なぜかウサマ・ビンラディンという魔物に取りつかれる如く、この半年間を生きてきた。ビンの存在をいつも胸に、出来たら彼にはそのまま生きていてほしく思った。彼が生き抜き、私たちに語りかけてくる、その言葉を知りたかった。それでもビンラディンが能登の海に消え去ったことは、それなりに意味があった、そう思えるようになった。
それからA。彼の存在は、デスク席に座る私をいつも助けてくれた。今となれば「あっ、そうか」と二、三人、頭に浮かぶ顔はあるが、それ以上は追及しないでおこう。あらたな事件発生で、また
平成十四年一月三十日深夜から三十一日未明にかけて。私は長い旅を終えた旅人の心境でウサマ・ビンラディン本人に会い、あれやこれやと質問する自分を夢見ていた。
質問内容は米国防総省が昨年暮れに公開したビデオテープについて、である。
「あなたの故郷、サウジアラビアからあなたを訪ねてきたイスラム教指導者の長老たちは、あなたが最初にして最も素晴らしく偉大な行いをした。これはアラーの導きでありジ・ハードのたまものだと言っているが」
私は最初の質問をこのようにぶつけると、ビンラディンは次のように口を開いた。
「アラーに感謝している。サウジのモスクでの評判もよければよいが」
次いで私は、こんな質問をしてみた。
「同時多発テロは行為そのものがジ・ハードであり、世界貿易センターで犠牲となった人々は罪なき人ではない、との声もあるが」
ビンラディンはここで言葉に詰まったように黙りこくり、私の顔を哀願するように見つめてきた。そのまなざしは苦渋に満ちている。能登の海に身投げする瞬間、彼はこんな顔をしたのだろうか。
私はなおも口を開いた。
「同時多発テロ以前には、たくさんの人々があなたを疑い、従うのはわずかだった。今や、たくさんの人々があなたに加わるであろう。現実にサウジ民衆の反米感情は強まっている。米国からの圧力と世論の板ばさみとなったサウジ政府は、厳しい弾圧を避けつつ自宅軟禁で口封じをするなど巧妙な対応を取る必要がある-との報道もあるが」
ビンラディンは、ここで初めて涙を浮かべ「すべてのイスラムの地から米国を追放しなければ」とちいさく口ずさんだ。
--我は見る、彼ら(イスラム教徒)が鋭い刃に立ち向かい……困難に直面し、団結するのを……やみが我らに訪れ、我らが鋭い歯にかまれるとき、我は言う……『我らの家は地にあふれ、暴君が自由に徘徊している』と……戦場から剣の輝きと馬が消える……今、嗚咽のかなたに、我らは太鼓と律動を聞く……彼らは暴君の城さいに押し寄せ叫ぶ。『お前たちが我らの地を去るまで攻撃をやめない』と。
私の心に巣くったウサマ・ビンラディン。それは、ごく普通の男だった。翌二月一日。ふたつの惑星が地球に近づき、あと一週間で確実に地球を急襲し、この世が終わる。そんなNASA(米航空宇宙局)からのニュースが世界を駆け巡った。私は愚かな人間社会を見えざる何かが破壊しにきた、そこには同時多発テロで犠牲になった人々、そしてビンラディンの多重の涙があると直感し、目を空に転じた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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