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道なかばの記

 今朝も、ふるさとの川、五行の(ふち)を歩いてきました。ほんの一刻(いっとき)ですが、数年来、この「早朝散歩」に励んでおります。喜寿もとうに見送って、まだ体を働かせるのが楽しみです。

 それでも雨の朝がたは、降る雨足も足もとにも気づかいます。思い静かな散歩の叶うか…と、ふと案じられたりしまして。

 道のりの終点(はて)は、流れを渡す長瀬橋のすこし手前です。永劫ともきこえて(せき)飛沫(しぶ)く五行川の瀬音が、律動的(リズミカル)に、しかも粛然と響いています。

 私は、いつも、堤の(みね)に沿って架かるガードレールに、息を調えるように、両手先をつけます。その姿勢で、何とはなし常日頃から気にかけた数の、「三十三」を一から順に唱えます。三十三という数が「吉を招く」……かと思うままに、です。

 ガードレールは焦げ茶色に光った鋼鉄です、「三十三」までゆっくりと、日によって口ばやに数えてゆく間、指先だけで触れていて、冷たさに、はッと堪えることもあります。

 同じその場所で、また、私は双のたなごころを返し、清々とした大気をゆったりと吸い込んでは吐きます。これも、三十三回。遠い日の、女学生のむかしの体操の時間が、つい昨日のことのように甦ってきます。口をむっと閉じて呼吸(いき)をしていた友だち、あるいは口を微かにあけ黒髪の頭を胸一杯に反らしていた女友達の顔、顔、がなんとも懐かしくて笑えてきます。

 なぜ、ガードレールに……。

 季の移ろいに日の光を弛みなく撥ねる金属質に触れていますと——自然のさなかにこの私が在って、命の喜びや尊さをなにがなし、息を吸うようにして実感できるのです。

 堰の余韻にひたりながら、また(きびす)を返して歩いて戻りますうち、ほの暗い五行の川面を滑って群れ泳ぐカルガモの、鈍い、でも、はつはつとした声音に放心の虚をつかれることもあります。

 また、白鷺がただ一羽で、私のようなものの足音にも用心しながら白銀の流れを()ける姿も目にします。胸の内へ、すうっと真っ白く澄んでゆく心地です。それでも鷺の行方に心惹かれるまま振り向きますと、一点の柔らかな白鷺は向う堤の草萌えの裾に立ち、小首を傾げて私の方へ視線をおくっておりました。

 川向うの細道を隔てて、(こだか)(もり)が、こんもりと寺院を囲っています。深い緑の常盤木(ときわぎ)は川面に影をおとして静かに揺れています。

 おッと、と…。心ならず足元の草など踏みつけてしまい、(かが)みこんで草の葉をいたわることもあります。()れて萎えた細い葉先。それがもう今朝は、履物のまぢかで淡く紅葉していました。

 川沿い道から通りに出ようとしたときです。炎の燃える音が撥ね、散歩の折りによくお会いする初老の、と謂うのは私よりまだまだお若い、おじいちゃん(がお)が、対岸の焚き火にあおられ、オレンジ色に映えました。失礼ながら、童顔で。親しみが持てて。ほの暗い早朝のことで今日までははっきり見えてなかった翁顔(おきながお)でした。焚き火だ焚き火だ、落ち葉焚き──と、私は、小声で。

 時折、浅瀬の小石が揺れ動いているのを見かけます。

 ——七十年も経つ今、ここで泳ぎ戯れた幼い細身の弟の下帯姿が、流れに浮かびます。こんなとき、ふるさとの散歩道、私の秘境は、ことごとく涙にぼやけてかすんでしまいます。

 

 進学を諦め、女学校を終えた私は、足利銀行真岡支店に就職しました。母はその際、身元保証人を探し当てるのに難儀したようでした。当時の保証人は「国税を多額に納付される方二人」と限られていたのです。

 「命の次に大切なお金をお預かりする機関」——支店長からは、髪形から服装に至るまで、それはもう厳しく注意されました。上司からも、繰り返して。こわいほどでした。

 今は「遠き日」の想い出ですが、それでも就職して程なく母が他界の折りには、そういう上司の方々から、生涯忘れられぬご恩も戴きました。

 「母の弔いを終えた数日後、銀行の窓口にいる私の目の前に、突きつけるように数枚の書き付け(請求書)が届いた。母宛のものだった。声を呑んで……私の心はおののいた。

 いたたまれぬ母の死の悲しみからのがれようと、忌引きを一日返上して出勤したのであったが……。

 こんな私を支店長代理が察知され、支店長と相談されたらしく、書き付けの合計額をその場で立て替えてくださったのである。十九円七十銭の月給は、翌月から欠けることになるが、私には上司お二人のご厚意がうれしく、心から感謝した。」

 『心のページ』と題した本に、そんなふうに私は書き留めてもおきました。

 母は生前、お針匠をして暮らしを立てておりました。常時、針子さんを百人もお預かりしていたようです。

 けれど収入源は仕立て代のみ、月謝の徴収などはあり得ぬご時世でしたから、暮らし向きには追われ続けていたようです。

 尋常小学校六年生のときでした。旧制女学校の入試へ、課外勉強に私は夢中でした。ところが受け持ちの先生から突然呼び出されました。受験を断念するようにとの母の伝言を受けたのです。

 私は、あの五行川に合流する行屋川(通称、寺川)のほとりを、泣きながら走りました。ランドセルは音を立て、足音と重なって背を叩きます。

 母の叔父に当たる菩提寺の方丈が、緋の衣を着けたまま山門から現れ、「施無畏橋」を渡ろうとしています。

 「これで、試験を受けなさい」

 方丈から銀貨が手渡されました。立ちすくみ、烈しく震えながら私は銀貨を握った手のひらを、夢見るようにまた開くのでした。

 おおよその経緯(こと)は読めました。

 母は、私が取り乱すのを案じ、日ごろ相談にのっていただく方丈にお話ししての上で、受け持ちの先生に「進学断念の説得」をお願いしたのでしょう。あげく母の苦境を熟知していた方丈が、いたたまれずに自ら施して下さったのです。

 心も幼い私の受けた衝撃は、けれど、かなりのものでした。あれが自暴自棄というのでしょう、数日は勉強も手につかなかった。「上位合格」奮発の夢は、かくて一時期失せたも同じでした。なんと愚かな、私が母親に不機嫌だったことは、言うまでもありません。

 当時の受験生は、クラス四、五十人のところ、十人くらいであったと記憶しています。近郷からの受験生は、村長の娘さんや大地主のお嬢さんが主でした。当然ながらその類いでない私は、支払う月謝の重みを痛感しつつ、勉強に運動(卓球部)に人一倍精を出しました。

 ああ月謝……と、今でも夢に絶句します。その時期になると、いつも袴姿の事務員さんが、月謝未納者を、手製のボール紙のメガホンで声高らかに読み上げるのです。運動会で檄を飛ばすかのごとく、今でも胸に傷の痛むようにその名が連呼されるのでした。

 いつもは前日のうちに母に渡していた月謝袋でしたが、一度だけ、朝の登校まぎわに手渡したことがあります。あのときの、母の沈痛な面持ちは──。目前に立ち竦む、あれは紛れもない、若くして夫に先立たれ、艱苦(かんく)の日々に喘いでいた一未亡人の顔でした。

「後から届けますね」

 強いて微笑み、一言だけ母声を洩らして私を学校に送り出しました。

 今はもう無い生家の記憶を辿るとき、どの部屋を思い描いても、あの母の顔が浮かんできて離れません。母は、今もなお闇の中でまぼろしの生家を優しい足取りで彷徨(さまよ)っているのです。

 忘れもしない、あの日、夕方近く八木岡おばやん(二人雇っていましたので、地名を載せて呼んでいました)がそれを届けてくれました。五円の月謝は、きっと、母が懸命の金策のお蔭であったでしょう。

 ちょううど私は、女学校の裏門の流し場で、友達と声高にはしゃぎながら運動に疲れた足を洗っておりました。名前を呼ばれ、おばやんが何の用できてくれたかは、すぐ察しました。それなのに幼稚で未熟だった私は、大事なものを届けてくれたおばやんの顔を見ても、出し遅れた月謝という羞恥心しかなくて、友人達の視線からひたすら身を縮めて堪えるばかりでした…、思えばたった一度きりのことでしたのに。

 こうした私の女学生生活が終えて間もなく、母は、ある日、倒れました。

 朦朧としたまま、母は「袖丈……身丈……頭が痛い……」と譫言(うわこと)を言い、両手は宙を彷徨(さまよ)うようにして兄を捜し求めていました。奇しくも兄は、県北の勤務先からちょうど帰省していたのです。

 兄に限らず、母を見つめる者は皆、これから起ころうとしている事実をどう事実として受け止めるか、途方に暮れていました。打撃は、あたかも数十年前から定められていた必然であるかのように、つよい不安とかなしみをうち連れて、さも静かに私達を襲ったのです。

 母亡き後、幼かった弟はどれほど寂しかったでありましょう。食事の世話などは私がしてあげるしかなく、ところが銀行勤めは、閉店後の出納がぴたりと合わない限り、家に帰れません。どれほど幼い者にひもじい思いをさせたことでしょう。

 晩年、彼岸や盆に帰省のつど、その弟が、「ふるさと真岡に帰って暮らしたいなあ」と語っていました。私もその日の到来を心待ちに待ちましたが。

 以来、芋の煮転がしや蒸し芋の湯気を吹く弟の口元が、よく目に浮かんでは消えます。手作りの料理を抱えて弟の宅へ届けてやるのが姉らしい夢でした。彼の連れ合いも、幸いにして真岡市近在の出です。

 弟夫婦の次女、私の可愛い姪の一人は、会津飯盛山の山主飯盛家に嫁いでいます。会津藩旗本の末裔に当たる私や弟の喜びは一入(ひとしお)でした。

 ——平成五年十二月四日、晴れがましく、私は『第二十八回日本随筆家協会賞』を受賞しました。そして翌々日、実弟の死に遭遇しました。居間で、出来たばかりのその受賞時の写真を賑やかに家族で見回していた折りも折り、でした、突如私一人が瞬時の暗闇に包まれ、胸締めつけられ、痛烈な痛みが切り裂くように頭を走りました。……と、動転のひまもなく、けたたましい電話のベル。弟の勤める会計事務所からでした。この事務所は兄の経営下にありまして、当年六十七歳の弟は、事務所の自分の椅子に凭れかかり、そのまま寝入ったかのように逝った……とのことで。

 あれこそ、喜びと悲しみのむごいほど同居した日々でした。葬儀当日、取り乱した私の在りようは、それはもう、後々の語り草になった程でした。

 兄が抱えの運転手に漏れ聞いた話では、もう一つの不動産会社が経営不振のため、弟は日々金策に奔走していたようでした。兄は努力し、初老にして不動産鑑定士の資格を取得しました。ところが、それがかえって災いも為したのです。平成六年九月に不動産会社の負債を埋めきれず、会計事務所までが破産しました。私も、我が家にしては大金を倒されました。

 兄はそんなこんながストレスになったからでしょうか、脳血栓でその翌年十二月に先に世を去っていました。最期、意識定まらぬ中、私の必死の呼びかけに一瞬満面をほころばせたかと見えましたが、そのまま兄は声なき慟哭とも形容すべき表情に一変しました。それが最期でした。

 「血を分けた兄妹」「兄妹は他人の始まり」——どちらもよく耳にする言葉ですが、私は、断然、前者を選びます。ふるさとの川、五行の縁を兄妹三人でまた歩きたい…と、そんな夢のような衝動に今も駆られますが、時は再び帰ることはありません。

 それでももし可能であるなら、三人で一列横隊となり、あの五行の瀬音に伴奏されながら遠い日の思いを限りなく語りたいものです。「土手」を彩るシドミをもぎ、咲き競う野アザミの紫に、その棘に、思わず三人して頬を寄せあったあのころが陶然と目の奥に浮かびます。精一杯両手を伸ばして、できるものなら情景もろとも掬い取りたい気持ちです。

 今、この辺りは文明の利器により整備され、堤の上下を遊歩道が南北に走っています。けれど永久不変の蒼い地平は、みんなの「ふるさとの思い」を限りなく抱きかかえてくれています、変わりなく。兄も弟も、帰省してくるつど、実家での談笑の渦を抜け出しては、こっそりと川っ(ぷち)をよく歩いていたのでした。

 

 家族に賑やかに囲まれていても、なお、孤独感に襲われることが私にも間々あります。ところが家に誰がいなくてもとくべつ寂しくはない。どういうことでしょう。

 南向きのガラス戸越しに、楓の鉢が一メートルほどの丈を立てて紅葉しています。ご近所の植木をこよなくお好きな方が貸して下さって、二、三日が経ちました。旅先の景色を生まれてこのかた、めっつたに見ない私です。外階段の上り口に舞い散る楓の紅を愛でて息を凝らしている私です。つかのまですが楓は、朝日の光と物言うように、尖った葉先をきらめかせています。私の紅葉狩りはこれで充分、居ながらに自然の懐へ旅立っているも同じです。満たされています。とにもかくにも、私は今いるこの狭い居間の大好きな老婆です。

 ここは、私。ここが、私。このささやかな空間が、また私の無限空間なのです。

 日頃私は、家業(学習塾経営)の事務を執るかたわら、拙い随筆を書いています。手持ちぶさたの時は、白いタオルを二つに裂いて、雑巾を刺しています。やはり「気になる数」の三十三枚を目指します。そして、高く積み重ね、ほくそ笑んでおります。

 

 近在に聞こえた酒豪の夫(教員)に仕えての三人の男の子育ては、精根尽きるほどの厳しい歳月でした。長男は岩手大学(工学部)大学院、次男は宇都宮大学(工学部)卒業後、名古屋大学(文学部)、三男は慶應義塾大学(商学部)を、それぞれ終えました。次男の、二十キロもある宇都宮大学への欠かさぬ自転車通学は、いまも語り草になっています。宝のような頼もしい三人の息子たちは、健在です。優しく賢い佳い嫁たちのお蔭であるのは言うまでもありません。思わず、うんうんと頷いてしまいます。

 けれどまた、私の無上の楽しみ喜びは、亡き母の血筋と言うべき「針」です。針を持たない日は皆無です。

 すむしの舐めたセーター類や、息子のスーツなどの(つくろ)いに、気はいつも(はや)っています。編み地の場合は同じ毛糸を探します。スーツなら、ズボンの縫い(しろ)から織り糸を引き抜き、(ねんご)ろにそれで傷みをかがります。

 古く廃れたスカートを、四角、或いは長四角に切り揃え、繋ぎ合わせて押し縫いを施します。ロングスカートに仕立てるそれなりの布地にしようと、我を忘れます。やがて古い布地は、すっかり現代風なスカートに蘇生します。

 この頃は、若い人むけの既製品にも似た工夫が見られます。私のは、いわゆる廃物利用そのものですが、図に乗ってあれもこれもと手がけ、かれこれ、もう十数枚に。

 

「おばちゃん、片目になってからの方が、すべてにおいてがんばってるね。」

 次男が言いました。言われてみれば、その通りでしょうか。

 私は、ある日家の中廊下で転倒し、昨年(2000年)のお盆をまたいで入院治療しましたが、左目は光を失いました。

 それでも「針」の功徳と「おばちゃん」の根気から、衣紋掛けにつり下がる一着また一着の手作りスカートを、撫でてはひとり悦に入り、身に着けては姿見の前に立つこともしきりです。時にその裾を両指でつまみ、ポーズします。

「あなた、おいくつですか?」

 自分で放つ自分への揶揄の輪唱が、女学生だった昔の我が声音で耳の奥に聞こえてきます。

 

 近頃私は、一攫千金に非ずして「一刻千金」という言葉を愛で楽しんで散歩していますが、八十路を超えようと、女は、生命(いのち)ある限り、女であることを忘れたくないと思います。衣裳に心を配ること、お洒落においても、です。

 同年の友人と、過日電話で話しました。彼女は、ご主人の遺産相続という大層な難事が片付いたばかりでした。

「私、これから、おしゃれするの!」

 思わず息をのみました、が、

「私も……」

 と、心からなにかに感謝し、呟きました。

 

─了─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/17

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渡辺 通枝

ワタナベ ミチエ
わたなべ みちえ 随筆家 1923年 栃木県真岡に生まれる。日本随筆家協会賞。

本編「道なかばの記」は、2001(平成13)年12月書き下ろし初出。