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八十路生きていく

   月見草に思う

 那珂川を吹く風は川面をたわむれ、石のほてりをあおいでいた。七月初めの暑い午後、涼しげなすかし模様の影を揺らす草の中で、懐かしい月見草を探した。

 丸い小石の上を三十分も歩いたろうか。名も知らぬ草ばかりが並んでいる。探しあぐねる私たちをよそに、やたら高く伸びたよもぎの葉先が、重なり合って形よくなびいていた。

 もう二十数年になるが、宇都宮大学に自転車で通い続けた次男が、ある日、荷掛けに月見草をつけてきた。その花は庭の紅葉の下に根づき、花穂が伸びつきるまで、闇に向かって開いていた。時おり私は、勉強部屋の息子たちを呼び、蕾に手を貸して、咲く瞬間を見せたりもした。後に月見草でにぎわった庭は、狭い家の改築で消えてしまったが――。

 子供たちの教育費の捻出。主人の脳血栓との闘い……。長い歳月は、振り返えることすら煩わしく思える日々であった。それでも、遠く離れた大学の息子たちに夢中で小包を送ったり、時々、千円札をしのばせたりした。小包が到着したといういとおしい返信のことなどが、ほのぼのとよみがえってくる。そして今、ようやく川辺の月見草を追うゆとりがでてきたのである。

 梅雨の明けるころ、鬼怒に架かる宮岡橋周辺で月見草が咲く、と知人から聞いた。私は車で出かけ、橋を渡らずに左へ折れてみた。雑草の茂る堤防の傾斜には足場もなく、川淵の石も見えない。

 ふと気づくと、堤の中ほどに月見草らしき一茎の野の花が立っている。根もと近くから手折り、細長いがくに守られた蕾の集まりをかざしてみたが、半信半疑である。何しろ二十数年も思うことなく、目にもしなかったのだから――。

 気がかりな野草を車にのせて長い橋を渡り、彼岸におりた。

 私は小石の上をぎこちなく歩き、遥かに広がる河川敷を見渡した。ウグイスが近くの梢から節回しよく呼びかけてくる。カラスは連れ立って大声を上げ、川の流れに逆らいながら飛んで行った。葦の群生の傍らに、月見草らしいのが立っていた。桐の花のような小さい紫をつけたつるに絡まれている。野草の名に疎い私たちは、悔いを残して帰途についた。道端には忘れな草が二つ三つあでやかに咲いて、心を引くのだった。

 しゃきっと水の揚がった野の花は、家の玄関で訪れる人の判定を待っている。

 「これ、月見草ね。裏の線路のふちにたくさん出てるわ」と、知人があっさり一言。私は一挙に落ち込む。「月見草とは違うね」と言う親しい友は、事の次第を聞くや引っ返し、植物図鑑と本物の宵待草を携えて来てくれた。近くの小料理屋さんの庭先のものだそうだが、並べてみてもわからない。嫁は、河原の花を明るい所から暗がりへ移したり、がくを指でつついたりと、たいそう工夫している。

 そして、夜も更けるころだった。手を合わせるような格好で、黄色い花弁がのぞき始めたのである。家族全員の歓声を受けて、四つの花びらはサアッと開いた。雄しべから雌しべに渡りついた花粉が、揺れてきらきらと光っている。

 数日後、息子が私を驚かせた。宮岡橋を囲んでいた月見草を、回り道して両腕いっぱいに抱えて来たのである。咲きがらを摘まれ、大きな(かめ)に盛られて夕闇を待つその姿は、みずみずしく、見事だった。薄暗くした玄関で、次々と咲いてゆく。月見草の黄はほんのりと明るく、趣深いものがある。あの鬼怒の清流の月見草も、夜のしじまの中で、今宵もかすかな音を立てて開き続けていることだろう。

 富士に似合うと言われた月見草。こんなに懐かしい花に会えて心が和むのも、人の情けがあればこそである。坂道を走って下るようなこれからの年月を、温かい情に包まれながら大切に歩いていきたい。

 鬼怒にも、那珂川にも、月見草はよく似合う。

   心のページ

 鴨居の溝に、私の似顔絵が挿してある。私の部屋に入った友人は、絵を見上げながら、机に手をかけて膝を折る。

 「よく似ていますこと。お孫さん、お上手ね」

 私は苦笑する。

 小鼻からハの字にくっきり立てた皺は、彫刻そのものである。長めの顔に二重瞼を描いてくれたが、しっかりと烏の足跡がついている。髪型は引っ詰めである。エプロンの不規則な縞模様も、正確に描写されていた。そして絵の右端に、「H2、1、20、(まい)」というサインがある。

 この絵は、私と同じ真岡市に住む次男の娘(当時六年生)からの誕生祝いであった。皺の辺りを見つめる私に、

 「おばあちゃんの女学生時代、あとで描いてあげるね」

 と、慰めてくれた。

 「顔」の(つくり)は「頁」である。一日を一ページに換算すると、古希を迎える私は二万五千余のページを繰ったことになる。繰られたページの重なるごとに、その生き様が「顔」を形成していくのかもしれない。

 主人は、脳血栓との長い闘病生活の果てに、二年前、鬼籍に入った。今は、過去を振り返ることが煩わしくさえ思えることがある。本人の辛苦は言うまでもないが、私や同居の息子、嫁らにしても、十八年という介護の日々は長かった。

 しかし孫は違う。私の似顔絵を描いた舞が、中学生になったころである。学校帰りに、我が家に回って告げたのだった。

 「おじいちゃんの車あったよ。学校の近くに」

 亡夫の車は、弔いを終えた数か月後、知り合いの自動車工場で、廃車にしてもらったのである。スクラップ置き場が、孫の通う中学校の手前にあった。

 舞は、車の窓ガラスに額を押し当てて中を覗いたらしい。ハンドルも座席も寸分違わないという。

 大人たちは息を呑んだ。

大前(おおさき)神社のお守りがそのままついてるよ」

 私はこらえきれずに、両方の掌で顔を覆ってしまった。笑顔を作ろうとする息子の顔が不自然に歪む。下を向く嫁の肩は、微かな嗚咽と共に小さく震える。

 薄暮の道を祖母の家に急ぐ少女の姿が見えてくる。斜めに掛けた鞄の重みに、右肩は沈んでいる――。

 この車は、舞にとっては忘れ難いものなのだろう。

 習字、エレクトーン、スイミング教室への舞の送迎を、亡夫は欠かさなかった。各教室の時間割に合わせて、次男の家に出かける。ふかし芋や、おにぎり、お好み焼きなど、手作りのお八つを右手に抱えて、駐車場へ向かうのが常だった。

 言語障害と左半身麻痺に苦しみながらも、オートマチックの車を丁寧に運転し、無事故を誇るおじいちやんだった。

 だが、容赦なく病魔は襲った。救いようのない進行した胃癌が発覚したのである。手術を受けて七か月後、再び入院することになった。その前日の夕暮れ、背広に着替えてお八つを抱え、立ち上がるや否や、崩れるように、床に腰をつけてしまった。

 以来、舞の習い事の送迎はおろか、自らの力で立ち上がることすら叶わなくなったのである。

 平成四年二月十四日であった。

 エレクトーン教室の帰途、舞はマフラーを頭から巻いたまま、我が家の台所に入ってきた。

 カレーの香りが立ちこめていた。嫁がゆずった席に着いて、スプーンを二、三回口に運ぶと、

「あーっ!」と、叫んだ。香辛料に惑わされて、大切な用事を忘れていたらしい。今しがた台所の入り口に下ろしたバッグから、紙袋を取り出した。

 舞の手もとからカカオが匂う。透明なパックに収められた大小さまざまの手作りチョコレート五個を、卓上に並べた。

 私、次に嫁、葵(内孫)と、大きい順におもむろに手渡されたが、数が合わない。かなり小さいのと、ひときわ大きいのが残っている。気を揉む息子が舞に問いかけた。

 「大きいのは、だれの?」

 「おじいちゃんの!」

 最小のチョコを息子に渡した舞は、ウイスキー入りの特製のバレンタインチョコレートを握って仏間に走って行った。

 胸の奥底で不意を突かれ、息子は「参った……」の後、二の句が継げない。私はあふれ出る涙を抑えることができず、食卓に顔を伏せた。

 中廊下を抜けて流れてくるかすかな鉦の()が、亡父の影をいざなう。

 心から泣けた今日の「ページ」は、清らかに繰られていくだろう。

   ひかえめな花

 この花は野の菊――花に近づくと菊の香りは淡く、野原の匂いがする。信楽(しがらき)の瓶に盛られた野菊は、七、八十本はあるだろうか。薄暗い玄関がほんのりと明るむ。

 清楚な花の群れを息子が写そうとする。希少な野菊のみをカメラに収めたくて、私はその場から離れる。息子は少し気取って、薄紫の花に焦点を合わせていた。

 十月十六日(平成四年)の昼下がりである。野菊にかかれ、追い求める私は、毎日お掃除をして下さる池田さんを道案内にして、嫁の車に乗った。

 息子は仕事の都合で家に残る。右手の指先だけ小さく振って、娘を見送る恰好は恨めしそうに見えた。

 池田さんの住まいは、わが家から四キロほどの集落にあるが、少しくねって青谷(あおや)の山裾に向かう。

 路傍の花に黄色い蝶の舞う景色が遠ざかるまで、孫は車の窓を開けていた。

 既に稲刈りは終わっている。稲はコンバインの魔力で脱穀され、べージュの茎と葉が田圃に整然と伏せられている。わらは畜産農家からの需要があり、また、そのまま田を(うな)えば、堆肥になるそうだ。ゆえに「木の葉さらい」がお役御免になったと、窓外を眺めて池田さんは語る。

 私達は青谷山麓の砂利道に降り立った。嫁は平地を選んだり、水たまりを避けたりして、駐車に骨折っている。孫と私は、青空にズック靴を鳴らし、立ち止まっては野菊を探す。

 「もう遅いんですよね」

 池田さんが野菊を手にして寄って来た。頂には終焉を迎える花が芯を突き上げている。傍らの一輪は、「しべ」をくっきりと浮かせ、細い花弁を一ひらずつ外側に丸めていた。その風情は()いた(まげ)を思わせる。

 伊東左千夫の『野菊の墓』に読み耽った少女の日が彷彿する。

 「おばあちゃん、あった!」

 孫が見つけた。雑草の茂みに、薄紫の花をつけて二、三本の野菊が、(なだ)れかかっているのを。その花に、赤とんぼが羽を透かして、寄りつ離れつ飛び交っていた。

 私は、携えてきたビニール袋を三角に立てて、堀の水を汲み入れ、手折った野菊を浸しておいた。

 吾亦紅(われもこう)も見えた。葦や花すすきの間にひっそりと生き、素知らぬふりで秋空に球形の花をかざしている。小枝の先に一個ずつ乗っている小豆色の花に、遠い母ら(おもかげ)が重なる。

 花に近寄る私は、左足を淀みに取られたが、葦に(すが)って危うく助かった。

 野菊が花園のように見えてきた。蝶が羽を合わせて、花に静止する。

 来た道と異なるこの農道は、風情を変え、新鮮である。

 堀に面した堤に群生すゐ野菊は、昨夜までの秋雨に洗われて、緑も紫も冴えている。

 みんな両膝を地面に当て、横に並んで野菊を採った。嫁は、膝をつけたまま背を傾けて、赤子の手を花に触らせている。

 私は痛む腰を上げて、画中の情景さながらの彼女達に見入った。青谷の森へ、一羽の鳥が空近く鳴きながら飛んでいった。突然、嫁が悲鳴をあげた。堀の向こう側の穴に、蛇が尻尾をちらりと見せて消え去ったのである。茶色の細い蛇だった。

 野菊のなえ草は、五月の田植え時、土手の雑草と一緒に刈り採られたのだろう。二番生えが青々と茎立って、いま薄紫に咲き()めている。ノコンギク、ノジギク、ヨメナ、シロヨメナ、ヤマシロギク。名までひかえめなこの花に、私はこよなく心惹かれる。

   お盆様

 八月に入ると、生家の庭が心に映る。そこは、現在の家から徒歩で二、三分の所であるが、とうに人手に渡っている。玄関に向いての飛び石の並びや、その枚数をも覚えている。石の合間に生きる雑草の類まで浮き彫りとなるのである。

 「お盆様」が近付くと、庭に聳える松の根元にござを敷き、真鍮の仏具を磨いたことを思い出す。畳屋さんが表を替える際、黒い縁を付けて庭先で拵えてくれたそのござは、ほのかに藺草(いぐさ)の香る敷物であった。

 兄、私、弟の三人が母から仏具磨きを仰せつかったのだが、いつの間にか兄と弟の姿は消えていた。遠くから二人の戯れ合う声が聞こえる。「お前も早く来い」と私を呼ぶ。しかし、女児であるせいか、私は母のささやかなる信頼を簡単には裏切れなかった。

 当地のお盆は月遅れである。八月七日の「はかなぎ」には、仏具磨き終了後、母と一緒に親類に当たる寺の墓地に赴いたものだった。草刈り鎌や箒、たわしを携えてのことである。新品と取り換えられた青竹の花筒などを、しかるべき場所にて焼却した記憶がある。

 迎え盆の日、墓から盆提灯へ灯を移し、絶やさないようにと気を遣いながら渡る施無畏(せむい)橋。菩提寺の山門の前を流れる川に架かる橋である。その欄干に手を添えるとき、いつも心洗われる思いがした。精霊を迎えるからでもあるだろうが、橋の力によるところも大きかったのかもしれない。「施無畏」とは、仏の力が衆生(しゅじょう)、つまり「生きとし生ける一切のもの」の様々な畏怖を取り除いてくれることだという。

 十四日ともなれば、昨今同様、初盆の家に盆礼に伺うのが常である。

「お静かなお盆でおめでとうございます」

 当時の私は母に倣って深々と首を垂れるばかりであった。だが、これは本来、初盆の礼で使う言葉ではないらしい。親や本家筋を訪れる際の、正月にも似た祝辞のようである。生きた御霊を供養する盆礼もあるというのだから、日本の文化は本当に奥が深い。

 昔は「口減らし」という言葉をよく耳にした。〈家計が苦しいので、家族を他へ奉公にやるなどして養う人数を減らすこと〉と辞書にある。奉公に出された者たちも、盆と正月には「やぶ入り」とやらで実家に帰省することがかなう。七十数年前、我が家は裁縫所であった。お針子が百人くらいおり、約一割は住み込みだった。今でも八月になると、当時の彼女たちの満身の笑みが浮かんでくる。

 今年一月、私は八十路に入った。いつの間にか兄と弟の姿は消えている。二人とも同じ事業に携わり、盛衰を見たのち鬼籍に入った。お盆が来ると、遠くから二人の戯れ合う声が聞こえる気がする。だが、「お前も早く来い」と言っているのではあるまい。むしろ私は、兄と弟の分まで、もう少しここにいたいと思っている。

   我がふるさと――ボウジンボウ

 嫁は、市内(真岡市)の次男の家に、けんちんを届けに行った。

 私は、それが夕食に間に合わなかったのを悔いている。

「お母さん、帰りにお月さま見てきてね……」

 孫娘(五歳十一か月)が、母親に頼んでいる。それは十時ごろだったろうか。

 九月九日――十五夜であるが、近くの五行(ごぎょう)川辺りに出ても、月は見られない。

 ()いて髪のように光る(すすき)の穂も、堤になびいていなかった。

 以来、私は十三夜をひどく気にしていた。それは、「片見月はするものでない」と、言い伝えられているからだ。十三夜を省略しないように、との戒めであろう。

 十一月五日の夕暮れ、台所からまな板を小刻みに打つ音が聞こえ、やがてけんちんの匂いが居間まで漂ってきた。私はその汁に、地粉(地できの小麦粉)の水団(すいとん)をちぎって入れるのが好きだ。

 当地では、それを「おつけ団子」などと言って親しんでいる。戦時中は常食とされ、近ごろは、私を含めてお年寄りの嗜好品と思われる向きもある。

 ところが、我が家族は、下の孫娘(三歳九か月)に至るまで「水団入りけんちん汁」を堪能している。

 私は、嫁が丹念に調理した前記のけんちん汁に、おつけ団子をと、いそいそ台所へ向かった。だが、それはかなわなかった……。

 嫁はお盆に、けんちんや暖かい新米飯、熟れた柿の実三個などを並べていた。それにしても芒の三本は何処(いずこ)のものだろう。

 ――夜九時ごろ、私は十三夜の月を見上げた。家の前を南北に走る道路のほぼ真上に、くっきりと輝いていた。

 幼いとき、本気で見入った月面の兎の餅つき……今宵も老いた我が両眼に、その影と思しきものが(わび)しく映っている。

 昔は、十五夜、十三夜によく月見団子を拵えた。

 そして、月の見える縁側に、里芋や大根などもお供えした。

 近間の少年たちは、十五夜を待って稲わらを束ね、棒のように「ボウジンボウ」を作る。芋がらを芯に入れると、音がいいと言われたものである。

 その棒で家々の庭の地面を叩いて歩く。歌を唱えながら。

  ボウジンボウあたれ

  三角ばたけのソバあたれ

  大麦小麦よくあたれ(大豆も小豆もよくあたれ)

 歌詞は、地域によって多少異なるようだ。少年たちのさんざめきが近寄ると、各家ではお菓子やお金の包みを用意する。

 かくして彼らは一か所に集い、頂戴したものをすべて平等に分けたのである。

<ボウジンボウは、稲わらの持つ(じゅ)力で、土の中に生きる農作物に害をなすものを叩いて追い出し、その無事生育、そして豊作を祈る意味を持つ>

 と、県(栃木県)発行の本にある。

 長男と次男、そして、友垣の吠えるが如き独特の旋律が、入り乱れて我が胸に迫ってくる……。

 五十路に近い長男と次男は、嬉しげに覚えているという。次男と十歳離れる三男は、知らない、と笑っていた。

 現在、近郷の二宮町の一部地区では、中秋の名月の夜に行われているらしい。

 歳月は矢のように流れている――古希を超える私には、あたかも電流のようである。

 そこに、置き忘れてはならないもの、()くしてはならないものがある。それは、祖先からの継承していくべき教えであり、心のふるさととなる歴史ではなかろうか。

   長男と次男からの手紙

 郵便はがきが七円で、封書には十五円切手が貼ってあった。どちらにも「郵便番号をお忘れなく」と、小さく横判が押してある。昭和四十六年に、我が家に届いた長男と次男からの便りを探し出した。四十七年のものは僅かであって、五月十七日消印のはがきは十円に騰がっていた。

 昭和四十六年、長男が岩手大学(工学部)大学院に進級し、次男が、宇都宮大学(工学部)卒業後、名古屋大学(文学部)に入学した年であった。

 長四角の周囲から、茶っぽくぼけて煤けた手紙が、私に語りかけてくる。

<前略、奨学金の第一回の支給日は四月中だと思っていました。ところが厚生課で聞くと、五月中旬ごろ四、五月分が一緒に支給されるとのことでした。家庭教師のお金が入るのが四月末です。今お金が殆ど無いので四月下旬の色々のコンパを乗り切れそうにありません。五月中旬に奨学金が支給されたら絶対返却します。一万円都合つけて早急に送金お願いします。

 淑寛君の住所わかり次第知らせて下さい。 お体お大切に。

                          草々

 母へ。                 四月二十一日 克寛より>

(註)克寛は長男で淑寛は次男。二十二年前に、盛岡から着いたはがきの写しである。

 <愛する母へ

 下駄の鼻緒がボロボロになっていて、黒いビニールテープでぐるぐる巻いて使っておりました。小包の千円と下駄は何より嬉しく拝受しました。なお、食べ物用引き出しがいっぱいになったことは勿論でございます。

 健康状態はすごく良好です。六月三日、授業が終えてから真岡に帰る予定です。着くのは深夜です。十三日にまた名古屋に来て、七月五日(この日まで授業がある)に再度真岡に帰るつもりです。

 自転車が、暖かくなったせいか調子を取り戻し、ガタガタいっていたのがなおりました。こちらに来てまだ一か月ぐらいしか過ぎていないのに、二年も家に帰っていないような気がしてなりません。時々家にいるころの夢をみます。「カレーライスが食べたいよ」の寝言で、目が覚めました。

 さようなら             五月二十七日 淑寛より>

 二十二歳にして初めて家を離れた次男の、赤裸裸な手紙と細かい文字のはがきである。

 四十七年五月十七日の便りには、「二十四歳近くなって、親から仕送りしてもらう自分が情けなく、済まないと思っている……」とあった。ちなみに、当時の国立大学の月謝は千円だった。だが、私はそれを半期ごとに工面するのであった。

 八年の学生生活を終えた次男は、真岡市内に学習塾を開いた。かくして、慶応大学に学ぶ弟の学費を、一か月も欠かさず援助してくれたのである。そのころ既に主人は脳血栓を患い、休職中(教員)だった。

 二十余年経った今もなお、母子の絆は変わらない。

   カシミアのマフラー

 私は、病院通いもそのほかの用足しも、すべて嫁の車でこなしている。

 そのおかげで、同年輩(七十六歳)の友人よりは少々薄着でいられる。

 二、三年前に、私は年甲斐もなく黒のロングコートを買い求めた。だが、あまり着用していない。これは、既製の安価なものである。ある友人は、十数万もするカシミアのコートを羽織っており、まことに軽そうで暖かそうだ。

 暮れに、私は近くの小間物店で、二人の孫娘(小学一年生と三年生)に、パッチン止めとカチューシャを買ってあげた。

 四辻を行く彼女たちの足音は、膝を病む老婆のそれとはうらはらに、実に軽快に跳ねていた。

 おりしもセール中とのことで、景品として私は黒いマフラーをいただいた。ふっくらと綾に織られたものだった。

 マフラーを抱え、四辻を帰る私の足音は、心なしか軽やかになり、離れた二人を顧みるほどであった。

 私は常時、黒のタートルネックのセーターに黒っぽいカーーディガンを着けている。ゆえに、セーターを選ぶ際には、ネックのぐあいを研究してから自分のものにするようにしている。それは、実に微妙なのである。

 ――すぐさま、私はマフラーを襟に巻き、房の部分の片端を背に垂らして悦に入っていた。

 そして冒頭の病院通いも、そのほかの用足しにも襟もとに回して暖を取っている。

 ふるさとの五行の川辺を散歩するときも然りである。以来、コートの類は不要となった。

 私は、七十数年前の寒中に、この地(真岡市)に生をうけている。今年(平成十一年)も、その日を祝して三人の息子夫婦から、お小遣いを頂戴した。

 なぜか、市内在住の次男が、

「プレゼントは、もう少し待っててくれ」

 と、再三言ってくる。

 何と、「黒のカシミアのマフラー」をSデパートに注文してあるとのことである。「ロロピアーナ」というイタリア製のブランドものらしい。

 まもなく、次男からその包みを渡され、私は恭しくブラウンの和紙風の箱を開いた。柔らかい薄紙から(おもむ)ろに取り出し、ネックに当てて、中廊下の壁に掛かる姿見の前に立った。

 身も心も芯まであたたまり、さらに軽い。

 やがて老躯は、鏡の向こうにぼけてかすんでしまった。その後も、おりにふれ私はカシミアのマフラーをさすっては、感触はおろか、内に潜む情けに浸っている。また、その布が耳許を掠めるとき、奥の方から何か囁きかけてくるように思えてならない。

 かのラベルが見え隠れするとき、私は面映ゆくて照れてしまう。

 ともあれ、このマフラーは外出用であることは言うまでもなく、私の命と共に大切にしていきたい。

 次男の服装は黒を基調としている。とはいえ、決して高価なものを身に着けてはいない。むしろ、お買い得品を掘り出してくるようだ。

 シャツ類は、押しなべて千九百八十円であり、たまに奮発しても二千九百八十円である。

 彼がある日、身形(みなり)を整え、しゃれた帽子を被ってきた。

「あら、素敵な帽子ね」

「これ、三百円だよ!」

 みんなは仰天した。

 私は今、改めて黒いカシミアのマフラーの値打ちを、心にかみしめている。

   蛍 籠

 水のきれいな川辺に蛍が光ると闇いた。私の住む真岡市から、十キロほど離れた山里で見たと、友がいう。わずか二つ三つが、淡い曲線を描いて暗闇を点していたそうだ。

 私は無性に蛍籠が編みたくなった。

 「梅雨の合間に田圃で麦わらを」と、近郷の知人に頼んでみた。麦はコンバインが処理し、わらは短くなって田に伏せられているらしい。それで、ご近所で取って置きのものを、貰ってきてくださった。

 六十年ぶりに麦わらを手にし、嬉しさに指先が震えている。わらを十文字に交差し、更に一本のせて編み始めた。昔取った杵柄というほどの技でもないが、楽しい作業であった。だが、管のような茎を差し込み、継ぎ足していくとき苦労した。七十歳ともなれば、目も弱っているので仕方がない。

 不出来ながらも、どうにか格好がついてきた。終わりに両端の三本ずつを鎖編みにして取っ手にした。わらは五十本くらいあったろうか。よく見れば、その表面には繊細な筋が縦に入っている。さわやかに自然が香り、心は和んだ。

 私は、麦わらの尽きるまで編みつづけた。大小さまざまの蛍籠を前にして、懐かしさのあまり胸が詰まった。しかし、かざして見たときがっかりした。この粗い編み目では蛍に逃げられる。「もしや麦の種類が違うのでは?」とも考えた。私は大麦と小麦のどちらのわらで編んだのか覚えがない。だが、昔は麦の種類など気にしなかったのだから、わらのせいではない。腕が悪いのだ。

 子供のころ、わらは身近にあった。季節になると、近間の田圃に大きく結わかれて立っていた。切り口を揃えた麦わらを輪ゴムで束ねて、引き出しにそっとしまったこともあった。そして編む前に、さすってみたり、割れないように湿しておいたりもした。

 幼馴染みの「まあちゃん」や「とっちゃん」と、指先をこまめに交わし、蛍籠を競って編んだものだった。形はそれぞれ違っても、わらはみんな真珠のように光っていた。底に敷かれた蛍草の葉も滴るように青かった。

 ――まあちゃんととっちゃんが、今は無き我が生家の庭で戯れている。三人は裏庭に流れる堀の草むらに、青白く明滅する蛍を追っている。竹ぼうきをふるう浴衣の袖が舞う。

 思い出も、私のまなうらで涙に濡れている。

 当時は、表通りを往還といった。私は(くだん)の幼馴染みと往還を突っ切り、家々の間を縫って行屋川縁(ぎょうやがわべり)へも蛍狩りにでた。彼岸には、山門に続く広い墓地があり、居並ぶ墓石におののいて、霊域を抜けるまで川下に走った。

 そのときの蛍籠を揺らす音、浴衣の裾にがさつくうちわ、そして子らのさんざめきが、聞こえてくるような錯覚をおぽえる。

 昔、軒下から往還へと、側溝の面をまたいで縁台が置いてあるのをよく見かけた。そこには分厚い将棋盤が据えられていた。近所のおじさんたちが、真剣な面持ちで駒を差した。私には、傍らに立っている野次馬の叫びとしぐさが、奇妙に思えてならなかった。

 名入れの手拭いを()いだ単衣(ひとえ)を着けて、腕まくり、縁台に片膝立てた様――夏の夕べの風物詩は消えた。蛍籠、蛍狩りとともに――。

 科学の進歩は避けられない。だが、人は自然の中で生まれ、育ち、今、自然を守るべき存在となった。

 私には、二十一世紀に蛍狩りをする子らの浴衣姿が見える。

   芝の折り戸の……

 拙文「親守唄」が、地元新聞に掲載されて二日めのことでした。見知らぬご婦人から、一葉のはがきが届きました。年齢八十二歳と認めてあります。

 内容は、親守唄に非ずして、子守唄の歌詞についてです。拙文中にある「芝の折り戸の……」の六文字に続く歌詞不明、との件を読まれたからでありました。

 七十数年前……三、四歳の私は母の膝の上に在り、その子守唄をよく耳にしておりました。

 更なることに、今は無き生家の八畳間の鴨居に挟まれた水彩の額が、思い出の中で追いうちをかけてくるように思われてなりません。山水画のせいもあるのでしょうか。

 以来我が身には、母の温もりと一緒に、その出だしの六文字が沁みついているのです。そして、直ぐ後に続く忘却の彼方にある歌詞に、焦がれるのでありました。

<「芝の折り戸の……」

 此の子守唄の出だし六文字は、今もって私の胸をうずかせます。

 それは、我が生来の追憶としての最も遠くはかないものでもあるのです。

 折に触れ、歌詞を調べたりしましたが……その子守唄は実在せず、架空のものらしいです。

 それでもその唄を私だけのものとして口ずさみ、涙しています。>

 これは親守唄の件であります。ちなみに、冒頭のご婦人は、奇しくも旧制真岡女学校の二年先輩であることが分かりました。

  芝の祈り戸の賤が家に

  翁と媼が住まいける

  翁は山へ芝刈りに

  媼は川へ洗濯に……

 葉書には、かような歌詞の続きが記されてありました。

「芝の折り戸の……」

 この六文字に続く七十数年来の疑問符が、ようやくにして、しかもスムーズに取り剥がされたようでした。新たな知識を得た喜びというよりも、「覚醒」と呼ぶべき感がありました。そして私は、名状しがたい胸の震えを覚えるのでした。

 六文字の中の折り戸のことでありますが……私は芝の折り戸なるものを、ふるさとの川、五行辺りに下り立つ堤のような箇所と、長らく思い込んでおりました。

 泥土のくねる狭い堤での……履き物にこびりつく感触までがよみがえります。はたまた吾子の汚れものの濯ぎ等々が重なり合って、彷彿とします。

 Tさんが教えてくださった折り戸の向こうは、賤が家です。

 しかしながら、私の折り戸は、数々の忘れ得ぬことどもが重なり合い、ひしめくふるさとの川、五行の堤に外なりませんでした。いずれにせよ、それは限りなく哀しく、いとおしいものであります。

 現実の歌詞とは大きく異なろうとも、今の解釈のままで、いいのではないかと思えてきます。

 母の膝の上に在る幼子のままでいるためにも――。

   蝋 梅(ろうばい)

 七十歳にして「ろう梅」を知った。

 老梅と書くのであろうと、わが身に重ねてこの花がいとおしく思えた。

 買い物から戻って、玄関の重いドアを開けると、蝋細工のような黄の花の匂いが私を迎えた。

 (黄梅かしら)

 自分なりに納得して、ラッピングされたままの小枝数本を、かざしたり、顔近く寄せたりと親しんでいた。

 真珠のような蕾が、分岐したか細かい枝に輝いて、先端にいくほど粒は小さく、黄色は深い。

 かつて絡んだ蔓草がそのまま枯れて、一部分が花に懸かり、「ろ」の字を描いて趣を添えている。

 私は、買い求めてきた品々を部屋に散らかして、高貴な花の香に酔っていた。それにしても、どなたからの贈りものであろうか、と考えていた。

 ――「庭先に寒々と咲いた花」との電話連絡が、Kさんから入った。「蝋梅」と字まで教えてくださった。一月半ばの夕暮れだった。

 しかし、電話中、Kさんは、お話をはしょって途中でお切りになった。なぜだろう……。

 Kさんとは、同じ真岡市に住みながら面識がない。だが、今年(平成六年)初めて賀状を頂いている。私の随筆について、ねんごろに書き添えてあった。地元の同人誌を読まれたようだ。私は、拙文の掲載されている日本随筆家協会発行の、『月刊ずいひつ』を三冊お贈りした。

 翌日、いきつけの美容院を訪ねた。ドアの握りに手を掛けながら、手入れの行き届いた中庭を振り向いた。全くの偶然であった。

 裸木に蝋梅の小花がうつむき加減に咲いている。近寄るほどに香りは高く、細長い花びらの狭間から青空が透けていた。

 霜柱の持ち上げた薄い大地が、私の履き物の裏側につれだって、懐かしい。

 手の届くような低木の上部の枝に、あたかも、蓑虫の袋が四つ、五つ並んで垂れているように見えた。中には蝋梅の種が入っていた。

 私は、帰りがけにその一つを頂戴して、バッグに収めた。

 ――夜、Kさんからお電話があった。

 あの時、ご主人の喉に痰が絡んで、話をはしょってしまった、とのことであった。

「窒息死を防がねばなりませんので……」

 Kさんの声は温かく、私の胸の奥底を突いた。

 意識不明のご主人を、主治医のご指導のもとに、四年間も看護を続けておられるそうだ。まだ還暦を越えたばかりのご主人を……。

 私はバッグにしまい込み、忘れかけていた蝋梅の実を取り出した。蓑をまとって、数個の種がきつそうに寄り合っていた。その一粒の堅い尖端が黒っぽく覗いて、弾けそうだった。

 よく見ると、その陰に、尺取り虫の形態をした二ミリほどの白い虫が、蠢いている。

 大自然から剥ぎ取られ、袋小路のような暗闇に忍んでいたこの虫を、そして種を――私はどうしようかと、思いあぐねている。

   小物入れと遊ぶ

 その日は、私は黒地に白い麻の葉模様の巻きスカートを着けていた。

 十数年前の、手製のものである。

 「おばあちゃんのスカートとおんなじね」

 孫娘(間ななく五歳)は、深紅の地に、白い線が、緑と紫で淡く()けた麻の葉模様の小物入れを、私の膝元へ近づけてきた。

 少しずつであっても、このような孫の成長は微笑ましく、心に深く刻まれた。

 町内(真岡市寿町)の婦人部役員七名は、九月十五日の敬老の日に向けて、千代紙を貼り合わせ、小物人れを作った。

 作業場は通りに面している我が家であった。地元の独居老人、十数名にお届けするものだった。

 役員のKさんが、浅草の(株)田中和紙から、セットを取り寄せてくださったのである。ニセット入りの安価に、役員一同、驚喜した。

 婦人会の集いで経験されたSさんのご指導であったが、一番年(かさ)の私は、いちばん飲み込みが悪かった。

 ――その完成品は、言葉では表現しにくい形状をなしている。

 正確には、蓋を含めて十面体である。側面は、上下、交互に並ぶニ等辺三角形八面からなり、蓋と底面は、十一センチ角の正方形である。

 側面を作る板紙を、折り目どおりに曲げていくと、不思議なことに、蓋と底面が四十五度ずれた正方形になる。

 図解できないのが口惜しい。ぎこちない説明文も、恥ずかしい。

 ――蓋は、ボール紙に、一、ニミリのウレタンを敷いて、たっぷり糊を引いた千代紙で包む。

 木製のつまみは鉄砲玉のようで、中心の穴に、結び目を付けた紫の絹紐を通している。

 千代紙には、(みやび)な麻の葉、鹿の子、菊水、紗綾形などの日本の伝統模様が、赤を基調として描かれている。

 裏地、下紙の色はすべて真っ赤である。

 散らし、新聞紙を下敷きにして、千代紙に糊を付けながら、役員七名は口をそろえて、「ちっちゃいころ、母が作ってくれた着せ替え人形、思い出すわ……」と、目を細めた。

 明くる朝、私は、Kさんに二セット入りを、十五個注文していただいた。

 ――初めの一個は、完成までに、ゆうに一時間かかったが、三十個が終える日には、五十分で二個の小物入れが仕上がった。しかも、上がりは垢抜けて、艶やかだった。

 あの方に……そしてお孫さんにもと、思いは馳せて、在庫は常に寂しく、零に近い。

 次回の注文は、二セット入りを二十五個と、私は小物入れ製作に、ひたすら熱中した。

 「平安時代を思わせる」などとおっしゃって、押し頂くそのお姿が、私の心を動かすのだ。また、「小物入れの佇まいに、お部屋が華やぐ。そっと、ガラスケースに納め、人形と同居させた」とのお言葉に、私は恐縮するばかりであった。

 ここに、前記の二セット入りの価格を、「三百八十五円也」と公表させていただくことにする。つまり、一個百九十二円五十銭である。

 同じ材料で、同じ人間が拵えるのであるが、その都度、同じようには仕上がらない……。だが、糊を付けながら、千代紙を貼りながら、わずかずつでも、私は何かを発見する。

 尺八の修業の教えに、「首振り三年、ころ八年」という名言がある。

 私の小物入れ作りは、「折り込み三年、のり八年」というところであろうか――。

   ふるさとの川辺に在りて

 いま、私は散歩コースの終点近くに立っています。ここは五行の水面を東西に架ける長瀬橋の少し手前です。私はこの辺りで、来た道をよく振り返ります。あたかも人生の来し方を顧みるように……。

 往路では右手で触れていたガードレールに、いまは左手の指先があたります。

 ――その流れくだる水の道は、遠い日(小学生のころ)に写生した葦や笹の葉の茂る水際を浮かび上がらせます。

 浅黄色に点在する藻草の群れをも映し出してくれますが、なぜか「白っぽい」と言われたその小っちやな花だけは、私の記憶の中で咲くことはありません。

 母の手作りのキャラコのシュミーズを着けて、幼馴染の家の裏手に立って、「ビアズミに行こうよ」と叫んだものでした。「ミズアビ」の逆さ言葉でもあったようです。

 腰に挟んで両手で支えた目新しい浮き袋は、友人の羨望の的でありました。それは品川税務署勤務の、いわゆる単身赴任の父のお土産でもあったのです。しかし、幼くして死別した父の面影は薄くはかないものでした。

 私は、兄と弟の間に在り、よく遊びの中で泣かされました。

 兄は時おり、

 「みっちゃんは、長瀬の土手で泣いていたので拾ってきたんだよ」

 と、からかいました。

 こんな戯れ言を気にした時期もありました。してみると、私のふるさとは、真岡なれども五行の堤なのでしょうか?

 ちなみに、兄と弟は平成五年と六年に続いて他界しています。

 やがて、私にも人の子の母となる日が訪れました。

 こうして拙筆を走らせておりますと、前記の我が兄弟の在りし日が、我が息子たちと重なってしまいます。

――想い起こせば、堤のくねった坂道を下り立って、息子の汚れものを振り洗いすることも間々ありました。錆びたブリキのバケツはいつも山盛りです。<流れ水は三寸>という言葉が慣用された時代でありました。

 屈み込んだまま、私は川底の小砂利を円形に掻き上げ、くぼみを付けて、メダカを呼び寄せたりしました。背中の我が子は、足を躍らせて私の腰を打ちながらはしゃいだものでした。その喚声が昨日のことのように耳許を掠めます。

 また、割烹着の裾で小砂利の水気を拭き取り、背中の子に手渡すと、

 「チッチャボーン」

 と、思いきり投げて母子共々、波紋を楽しんでいたこともありました。

 その負ぶい紐たるや、父親の擦り切れた人絹(じんけん)の、絞りの三尺帯でした。これぞ、正しくスキンシップに外なりません。

 そして早春の茅花(つばな)……花穂を指で摘まんで引っ張ると、軽い音と共に気持ちよくすうっと抜けました。

 かすかな甘みをと、背中の我が子へ、それを与えた当時が懐かしくよみがえります。

 ただひたむきに生きてきた私の思いは、果てしなく流れいく五行の川面を、漂っています。

 今や護岸工事で、堤は近代風に整備されていますが、何時いかなることがあろうとも、我が心のふるさと……この川辺には、私の思い出が確と刻み込んであります。

 ふるさとに父や母はおらずとも、その思い出は水際の葦や笹の葉に重なり合って潜んでいるのです。

   いのち

 中学二年生の孫娘が市内の施設まで宿泊訓練に出かけている。日程は四泊五日である。その間も、私は従来通り遅くも午前四時には起床していたが、二階の寝室から降りる際、柱に手を掛け、毎日彼女の空き部屋を一瞥するようになっていた。

 南向きにお座りしている縫いぐるみが二体そろって、

 「もうすぐ帰って来るんでしょう?おばあちゃん」

と、笑いながら私を諭しているようである。

 それでも、壁面を這うクモに気づけば「朝グモ」の天候に関する諺を思い出し、むりやり彼女の無事に結び付けようとするのであった。日頃は中学生の反抗期に困惑しているにも関わらず、全くの祖母馬鹿である。

 三月十七日、午後七時頃のことであった。孫娘と同年代の芳賀郡内の中学二年生二人が交通事故に遭い、いのちを散らした。酒を飲んだ男性が九十キロの猛スピードで暴走した果ての出来事であった。更なることに、男性はそのままその場を走り去った。いわゆるひき逃げである。

 「体はまだ温かいのに、いくら名前を呼んでも答えてくれない」

 情報番組の特集で涕泣されるお母様――。

 女生徒の葬儀に参列した同級生のご家族と、電話でお話しする機会があった。被害者のお母様の様子を、

 「自分が立っているのか座っているのかも分からないような状態で……」

と、泣きながら伝えて下さった。あまりに悲痛な表現に、私も声を震わせずにはいられなかった。

 テレビ画面一杯に映る二人の乙女の笑顔。柔道部に在籍していた彼女たちは、赤いジャージを身に着けて、無限の可能性を内に秘めたままそこにいる。若さと生の輝きが鮮やかだった。

 花は咲き、そして散る。人は生まれ、やがて死ぬ。「死によって終わる自分の有限性を引き受け、不安のうちに決意することによって、本来の自分を回復する」――ドイツの著名な哲学者の言葉をどこかで読んだ。これは、逃れられない時間の「たが」があるからこそ、人は今一瞬を大切に生きようとする、という意味なのだと私は勝手に解釈している。

 しかしながら、二人の女生徒にかけられた「たが」は、あまりにも短かった。わずか十四歳にして、身も心も無垢のまま彼女たちは旅立ってしまった。

 目を閉じると、二人の天女の姿が浮かぶ。風にたなびいているのは柔道着ではなく羽衣である。だが、つぶさに見ようと幾度試みても、二人の優しい笑みは涙にかすんでしまう。

 「ただいまあ」――疲れ切った声とともに孫娘が帰ってきた。普段の自分なら、ただただ安堵するばかりであったろう。しかし、今日は帰らぬ乙女たちを思わずにはいられなかった。

   お節料理を拵える

 暮れにお節料理を作りながら、いつも思います。<来年も健やかにして、これを作ることができるでしょうか>……と。

「来年のことを言えば鬼が笑う」

 そんな在り来たりの諺が脳裏を過ぎります。

 お陰を以て、二〇〇七年の来る年も昆布巻きは台所の卓上に輝き、きんとんはこんもりと皆の箸先を待ち受けているようです。

 思えば、幼くして母を亡くした私ですから、見よう見まねでのお節ということになるのでしょう。唯々、心を込め、研究して拵え続けました。

 今年も三十日の午後あたりから、嫁のまな板を叩く音が台所から中廊下を抜けてきます。

「おばちゃん、今年はお節料理教えてね!」

 次男の娘のたっての願いで、先ずは昆布巻きから始めました。うれしくはあるものの、知らぬ間の孫娘の成長に、私は微妙な心持ちを味わいました。

 <年中よろ「こぶ」ように>と口ずさんだりして…。そして、にしん、ゴボウ、人参を包み込むようにして干瓢で結わきます。黒豆は、前夜から煮汁に浸した豆の中に、錆びた釘を二、三本入れておきます。翌日それをそのまま煮込みます。昔よりも早く煮上がるのはなぜなのでしょう。五穀豊穣を願ってのごまめ等々、まだまだ不勉強の私には分からない箇所が多々あります。何せ見よう見まねですから……。すはすやなますは、胃もたれを抑えてくれます。先人の深い英知には唯感服するのみです。

 ――お重に詰め合わせたお節料理を、我が家では北側のガラス戸を少々開けて重ねて置きます。私は幾度その蓋を開けたことでしょう。嫁と顔を見合わせ、にんまりとしながら。

 大晦日の夜、長男、次男も我が実家に集うのを常としています。そして私は、あられもなく彼らが携える手土産の紙袋を覗いています。

 昔ながらのお節料理を作り、味わいを伝えること、これも文化の伝承と呼べるのではないかと、ささやかなる矜持を感じた次第です。

   曾 孫

 次男一家は市内に住んでいます。ここは、私たちの古里真岡(栃木県)であり、次男一家とは比較的近間です。

 その孫息子に、一昨年の十一月、赤ん坊が誕生しました。つまり「曾孫」です。私は、広辞苑で「曾孫」なる文字を知りました。

 珍しくもあり、また、いとおしさも加わり、大人たちは、「むうたん」「むうたん」と、叫びながら後を追ったりして、己を癒しているようです。正式名は、「歩夢(あゆむ)」です。ちなみにその父親、孫息子は、「夢寛(ゆめひろ)」と言います。

 彼はまだ喋ることはできませんが、訪れを告げようとして、玄関の据へ片足を掛けたり下ろしたりしてから、私の部屋に入ってきます。そして、私と、炬燵板を挟んでにんまりと向き合います。

 「僕は、これからいたずらしますよ!」

 体を張って、そう彼は宣言しているのです。次に、炬燵板の右端に置いてある鉛筆や、ボールペンを放ります。その都度、私の顔を見てから行動に移すのです。

 リモコンをやたらとテレビの画面に当てがう姿は、結構さまになっています。

 このような時、どう指導すべきかと悩んだりする老婆ですが、本来ならばそのたびごとに咎めるべきでありましょうか。

 私の子育てのころと重ねるのは不可能と言っても過言ではないほど、環境は異なっています。小学校の教員をしていた酒豪の夫に仕えての、男子三人の育児は並たいていのことではありませんでした。私は洋裁の内職に明け暮れていました。

 それはもう、子らの「おやつ」もままならない状態でした。特別、食欲旺盛な次男に、お握りをせがまれた時のことでした。

 「お母ちゃん!この海苔固いよ……」

 今にも泣き出しそうな表情でした。ようやくにして買い求めたものでしたのに……。五十数年前のその声は、今となっても脳裏を鮮明に過ぎります。

 「光陰矢の如し」とは申せ、八十路に乗った私は、過去の十年くらいの歳月が抜け落ちているように思われてならないのは何故でしょう。曾孫を目の前にして――。

 彼は、買い物袋を探し当てると、素知らぬ顔をして、菓子折などを入れています。そして、振り返りつつ、私に「バイバイ」をして玄関の方へ消え去ります。

 「むうたん」の純粋さに惹かれ、心和ませられる昨今ですが、この幼子の成長を末永く見守りたいという欲望も首をもたげてきます。こんな思いを遂げるには、さらなる節制が必要でしょう。

 わずか一年半の命が、老婆に生きる希望を与えてくれています。

   ただいま

 県立高校合格発表の朝のことである。学習塾を経営する我が家では、九時ごろまでに恒例の合格お握り二個組を百五十個(計三百個)ほど拵えて、生徒たちを待ち受けている。

 それは、午前十時の発表直後である。当然、益子(ましこ)二宮(にのみや)上三川(かみのかわ)教室の分も含めて用意する。二、三日前に知人から三升釜を二個、そしてガスボンベも前もって借りておく。

 ――彼は受かったかな? 彼女はどうかな?

 丑三つ時から、我が眼は冴えている。

 私はついでに起きてしまい、階下に降りる。嫁は、既に台所にて準備おさおさ怠りなしである。

 毎年手伝ってくださる近隣の友人Aさん、Bさんも、割烹着の後ろ紐を結びながら台所に入ってこられる。それぞれ独特の面だちである。

 そそっかしい私の握りは早い。嫁は海苔を焙ったりくるんだりと、これまた懸命である。

 教室の前に止まる先生たちの車の開閉音が、妙に急しい。各教室の室長は、お握り、そして飲みものや菓子類を、腰を屈めて段ボールに詰め込んでいる。我が教え子を思う熱っぽい雰囲気が漂っている。そして、こんな声がする。

 「少し余計に持っていってもいいですか?」

 握れども握れども荒町教室の分は、一向に大笊にたまらない。

 十時を少し回るや、両指でVサインを高らかにかざし、中廊下を抜けて台所に来る生徒たちが続く。

 「おめでとう」「おめでとう」の声が交錯し、賑やいでいる。お握りを射止めると、ニパック目を抱える男子生徒もいた。息子も満面に笑みをたたえて全員と握手をしている。

 時に、

 「ただいま!」

 との塾生の声がした。

 今日、S君の二度めの来塾である。廊下の中ほどで、やや誇らしげに叫んでいる。一度めの来塾では、同じ中学の友人と会えなかったようだ。帰り際に、その数名と出会い、再度の来塾となったらしい。当然ながら友人にはからかわれていたが、彼自身はまんざらでもないようである。

 毎年三月、大きく歳の差のある若者たちと、こうして喜びを、時には悲しみを一つにする。今年の受験生と私の年齢の隔たりは、七十近くを数える。しかし、彼ら、彼女らは、この老婆のお握りを、「美味しい」と言いながら喜んで食してくれる。これほど至福の刻を過ごせる八十四歳が、この世にどれだけいるであろうか。

 「合格お握り」を握り初めて二十数年になるが、それはいつの間にか私の使命となっていた。勿論、この手が動かなくなるまで続けるつもりである。

 そう思いつつ一つを手にした時、掌中のお握りは、三角形の底辺も角もぼけてかすんでしまっていた。それは、かすかに立ちのぼる白い湯気のせいだけではなかった。

   白い干瓢

  九月十日の早朝でした。栃木県名産の干瓢のテレビ放映がありました。

 本県出身の作曲家船村徹氏が、生産者と共演しているようです。私は身を乗り出して懸命に見入りました。船村氏は、作曲家らしく、藝術的に話を進めておられます。

 画面には白い干瓢が干されて紐状に垂れ、時おり翻っていました。

 遠い日……なぜか長男は、干瓢の味噌汁が好きでした。

 青物の乏しい日、干瓢を水に浸し塩揉みをして湯がいてから、刻んで汁に放したものです。

 ――干瓢の卵とじ……それは来客用のみでした。そして稲荷鮨を結わいたり、海苔巻き鮨の芯に入れたり……と、干瓢は必須のものでありました。

 運動会、遠足には、近くのお豆腐屋さんに油揚げの口を開けてもらいました。更なることに、

 「みっちゃん、干瓢あっけ?」

 と、声をかけていただき、有り難く頂戴しては、白い香りをよく聞きました。

 そんなこんなで、私が鮨作りに没頭している時でした。

 「お母ちゃん、朝飯も作ってよ!」

 それは当然のことでありましょう。長男には海苔巻き鮨の切り端というわけにはいきませんし……。今にして深い反省が脳裏を過ぎります。

 長男は、現在小山市(栃木県)在住です。九月十一日で六十歳の誕生日を迎えます。

 帰省する際は、試作品らしいトマトやブルーベリーなどをもいで土産として持ってきます。いずれも狭い庭端で収穫したものでありましょう。

 長男ゆえに、彼には随分と苦労を掛けたように覚えます。

 次回帰省した折には……黙して干瓢の味噌汁を、出してみたいと思うのです。そこから、昔の家族の会話も展くことでありましょう。

 船村氏も、大きくうなずいてくださるかもしれません。

   白 露

 とうに立秋は過ぎています。今年(二〇〇二年)は残暑が厳しいせいか、私も二、三日前、食べ物を見るのも厭になってしまったほどでした。いわゆる、夏ばてでしょうか?

 九月八日は「白露」とやらで、雑草の葉の面に小さな露がのっていました。ここは、私の早朝散歩となっている、ふるさとの川のほとりです。

 雑草は、地下から水分を吸い上げ、その内の余分のものを葉の表面に露としてのせる……と、はからずもテレビが報じておりました。それが、すなわち白露であることも――。

 中央の葉脈を、白く少々くぼませて、そこへ白露が降りていました。直径五、六ミリの真ん丸のものでした。しかし白露たるや、その朝によって大きさも異なり、また探しても皆無のことが多いのです。してみると、日々の気温に左右されるのでしょうか。不勉強の自分が、今にして悔やまれてなりません。

 私は、この美しい熟語「白露」を広辞苑で調べました。

 <しらつゆ。二十四節気の一つ。太陽の黄経が百六十五度の時。秋分前の十五日、すなわち太陽暦の九月八日頃に当たり、この頃から秋気がようやく加わる。玄鳥帰。鴻雁来。>

 別の資料には、玄鳥帰とは「つばめかえる」であり、鴻雁来は「こうがんきたる」と、ありました。

 かくして私は、語源を理解するのに、たいそう難儀したのであります。

 翌朝、白露は、表面のざらつく繊毛のある葉の面に輝いておりました。直径二、三ミリの小粒のものです。

 近くには、ピンクの小花が集まるネジバナも見えますが、白露の降りる気配はありません。それでも触れると限りなく冷たさを感じます。

 ――私の今の秘境は、白露の降りる葉の面、ブラス大自然であります。ミリメートルの微細な世界が、老婆の胸を躍らせてくれます。

   茂木路を走る

 五月も終わりに近いころ、茂木の知人から筍の缶詰を頂いた。缶詰という先入観で、しばらく開けずじまいだったが、冷蔵庫の中を整理してお煮しめを思いつく。缶を開けるやびっくり。水に漬かった取り立ての風合いそのままの筍が、ぞろぞろと飛び出してきた。

 お煮しめを満喫しながら、整缶したという茂木農協に電話した。

 ――翌日、出不精で車に弱い私が、中川(茂木町)まで出かけることになった。

 閑寂とした山間を、息子の車は我が道を行くかのごとく独走する。道すがら、雑草の中に、あざみらしき紫を見た。

 駐車場の広がる、山中にはそぐわない近代的な工場。行き交う人々に明るく挨拶され、一瞬戸惑った。

 にこやかな事務員さんから、筍の缶詰、干し椎茸、ゆず芥子など、手作りのものの素朴な説明を受けると、私たちは不思議に納得してしまう。山ほど買えた満足感と一緒に、箱ごと勧めて下さる源太饅頭を頬ばった。地できのお味噌も予約し、車に乗り込む。

 帰途に着く私の脳裏を、かの紫が過ぎる。

 突然、息子が「あっ!」と歓声を上げ、急ブレーキを掛けた。車が止まるより早く、彼は畦に立っていた。白い葉脈の走る濃緑の葉は切れ込みがとげになっている。化粧刷毛のような紅紫のあざみの花が目に映える。

 息子は痛そうに十数本を抱えてきた。水を好むのだろうか、あざみは田植えの跡も美しい畔に群生しているようだ。

 じっとしていられずに、私も車を降りた。

 息子の足音に驚き、「トプン」と堀に逃げ込む蛙の水音が愛くるしい。心は遠い日に舞い戻った。

 ――大型車のエンジン音が間近に聞こえる。道の辺に紫を探し右往左往している私たちを、進路を阻まれたトラックが止まって待ってくれたのである。恥ずかしさと感激のあまり、深々と頭を下げ、再び車上の人となる。

 

 「山の入り口にも見える!」

 息子はまたもやブレーキをかけ、山裾で薪を束ねる中年男性に駐車の許可を求めた。「あいよ」と、遅れて返ってくるその響きに、心が和んだ。

 深い緑の中、凛然としたあざみの紫は、心なしか愁いを抱いて、畔のそれよりも冴えて見える。

 後部座席を占領したものの、あざみはぐんなりして走り続ける。息子もハンドルを握ったまま、ぐんなりの度合いを案じ、何度も振り返るのだった。虫さされや、ひっかき傷だらけの彼の両腕を、私は胸いっぱいになりながら見つめていた。

 萎えたあざみを車から下ろし、氷水を使い、家族全員で水揚げをした。

 あざみは徐々に水をすい上げ、元気になった。

 一本一本眺めながら、大きな瓶に投げ入れにする。

 訪れる友入たちは挨拶もせず、あざみの深い葉に触れてみたり、ねばっとするがくを指で挟んでみたりして、懐かしんでいるようである。

 何にせよ、葉と花のコントラストは格別美しく、粗末な玄関に気品さえ漂わせてくれるのだった。

 四、五日が経った。あざみはまだ元気である。その健気な姿を見るときに、あのなだらかな稜線が蘇る。青い空、蛇行する道、そして出会い……。

 茂木路の五月の緑は限りなく深く、道端の雑草すら輝いている。こんな近間で、午後のひとときのさわやかな風景に浸ることができるのだ。

 自然と、温かい人の情けに触れ、私は命長らえる思いであった。

   生きていく

 遠い日のことである。女学校を終えて何年か経っていた。高台の公園を降りたところで、偶然ある友人と出会った。

 「この本、面白いわよ」

 難しげな本を示し、彼女は私をのぞき込んだ。

 三木清の『人生論ノート』である。タイトルだけでやや気圧されたが、それを面白いと語る彼女に対する羨望や妬みもあり、とりあえずページを繰らせてもらった。

 「死について」「懐疑について」「虚栄について」……目次は分かるものの、内容を読もうとすると、散在する難解な言葉が邪魔をする。結局負けを認めざるを得なかった。

 だが、分からぬながらも何かを啓発されたのか、以来、あまり読書をしなかった私も様々な本に目を通すようになった。

 今、プランター一杯に野菊が(すが)しく繁っている。見る度に「政男」と「民子」の純愛が甦り、胸が震える。また、テレビに北朝鮮の工作船が映し出されれば、脈絡も無く(いにしえ)のカニを獲る労働者たちの闘争が浮かんでくる。『或る女』のモデルとその娘は戦後までこの真岡に在住していて、私は彼女たちの謦咳(けいがい)に接したこともあった。

 誰にもこういう経験はあるだろうが、若き日の読書の貯金が未だに残っていたのかと、自分なりに満足している。

 息子にインターネットで『人生論ノート』の文庫本を取り寄せてもらった。件の友人に勧められた後、一度は通読したはずなのだが、記憶はすっかり抜け落ちている。その上、今読んでもやはり難しい。だが、それでも理解できる表現がそこかしこにあった。

〈機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、(中略)おのずから外に表れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。〉

――「幸福について」より

 以前、「老人の幸福はその思い出に尽きる」と書いた。しかし、ただ自分の思い出にふけるだけでは他人を幸せにするまでには至らないように思う。三木清より遥かに長く生きているというのに、私は真の幸福を得られなかったのかもしれない。今さら気づいて地団駄を踏もうとも、地面から痛みが跳ね返ってくるばかりである。そして、なおも光陰は矢の如く走り、ただ過去だけが積もっていく。

 しかしながら、終盤近く、「希望について」にこうあった。

〈希望に生きる者はつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味している。〉

 もはや使い古された言い回しだろうが、私には充分新鮮な表現だった。八十に達した老婆に希望という言葉は似合うまい。だが、それでも私は持ってみようと思う。希望に生きる老人がどれほど輝けるのか、自身で確かめてみたいと思う。

 すでに黄泉へと旅立った友人の「面白いわよ」の意味を、六十数年を要して、どうやら今理解できたようだ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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渡辺 通枝

ワタナベ ミチエ
わたなべ みちえ 随筆家 1923年 栃木県真岡に生まれる。日本随筆家協会賞。

掲載作は、2003(平成15)年12月、日本随筆家協会刊『白露』ほか『心のページ』『ぐるっと回って』『文箱』『私の記念日』等の自著から自選の20編である。

著者のその他の作品