別離 上巻(抄)
自 序
廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を抜き、一巻に
先に著した『獨り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた、また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて来てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、
また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆ど名残なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適当なことであると私は
本書の装幀一切は石井柏亭氏を煩はした。写真は一昨年の初夏に撮つたものである、この一巻に収められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。
歌の掲載の順序は歌の出来た時の順序に従うた。
左様なら、過ぎ行くものよ、これを期として我等はもう永久に逢ふまい。
明治四十三年四月六日 著者
上巻
自 明治三十七年四月
至 同 四十一年三月
水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる
なにとなきさびしさ覚え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なりやまざくら花
行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
朝の
阿蘇の
母恋しかかるゆふべのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
春は来ぬ老いにし父の
怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に
君が背戸や
秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
別れ来て船にのぼれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
秋風は
白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の静けさに似て
思ひ
秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人恋しけれ
この家は男ばかりの
木の蔭や悲しさに吹く笛の
秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
秋の雲柿と
幹に
机のうへ植木の鉢の黒土に
秋の灯や壁にかかれる古帽子
富士よゆるせ今宵は何の
日が歩むかの
悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
山ざくら花のつぼみの花となる
淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ
うらこひしさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人
ぬれ
春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ
町はづれきたなき
植木屋の無口のをとこ
船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と
春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
ただひとり小野の樹に
わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
ゆく春の月のひかりのさみどりの
雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
眼とづればこころしづかに
鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
椎の樹の暮れゆく蔭の
春来ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
町はづれ
われはいま暮れなむとする雲を見る街は
淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと
人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の
街の声うしろに
春の夜や
春の夜の月のあはきに厨の戸
日は寂し
見よ秋の日のもと木草ひそまりていま
うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
うつろなる秋のあめつち白日のうつろの光ひたあふれつつ
秋真昼青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
落日や街の塔の
啼きもせぬ白羽の鳥よ
さらばとてさと見合せし
別れてしそのたまゆらよ
いま
窓ちかき秋の
酒の香の恋しき日なり
見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の
をちこちに乱れて汽笛鳴りかはすああ
海の声断えむとしてはまた起る地に人は
人といふものあり海の
山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを
遠山の
秋の夜やこよひは君の
世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
君
いと遠き笛を聴くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
君は知らじ君の
落葉
静けさや君が
相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ
一葉だに揺れず
旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて
山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の
立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな (日野にて)
家につづく有明白き
あぶら
戸をくれば
霧ふるや細目にあけし
霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
野の坂の春の木立の葉がくれに古き
なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く (五首高尾山にて)
思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
山静けし
春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木の芽ふく山
汽車過ぎし小野の停車
日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
大河よ無限に走れ秋の日の照る国ばらを海に
松の実や楓の花や
けふもまたこころの
海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ
青海はにほひぬ宮の古ばしら
はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅びと (山口の瑠璃光寺にて)
桃
あをあをと月無き夜を満ちきたりまたひきてゆく大海の潮 (日本海を見て)
旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながら
ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて
白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を (南日向を巡りて)
潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ
わが涙いま
椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る (都井岬にて)
あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば
船はてて
山聳ゆ海よこたはるその
南国の港のほこり遊君の美なるを見よと帆はさんざめく
大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの
大隅の海を走るや乗合の
落日や白く光りて飛魚のとぶ声しげし秋風の海
港口
帆柱ぞ
かたかたとかたき音して秋
風ひたと落ちて
山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ
夕さればいつしか雲は
秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の
(以下七首阿蘇にて)
山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る
ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし
麓野の国にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
むらむらと中ぞら
秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて
海の上の空に風吹き
やや赤む暮雲を遠き
落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に来ず
夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを
雲は燃え日は落つ船の旅びとの
水に
津の国は酒の国なり
杯を口にふくめば
白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山 (四天王寺に登りて)
山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも (箕面山にて)
泣真似の上手なりける
われ車に友は柱に一語二語酔語かはして別れ去りにけり
酔うて入り酔うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで
住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の声
秋雨の
火事の火の光り宿して夜の雲は赤う
町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな (紀の国青岸にて)
ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな
紀の川は海に
麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し
一の
鉦鉦のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の
旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ来る (葛城山にて)
鐘おほき古りし町かな折しもあれ
鐘断えず麓におこる
雲やゆくわが地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして (二首法隆寺にて)
秋真昼ふるき
みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く (伊賀を越ゆ)
草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
──旅の歌をはり──
舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや酔ひしかも
とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒
灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君断えず酌ぐ
くるくると
酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
女ども手うちはやして
こは
あな
睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
酔ひはててはただ小をんなの帯に咲く緋の
酔ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし
ああ酔ひぬ月が
君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや
渇きはて咽喉は灰めく酔ざめに前髪の子がむく林檎かな
酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや
石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり
もの見れば焼かむとぞおもふもの見れば
黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに
君泣くか相むかひゐて
かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕 (四首病床)
死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
日の
女ありき、われと共に
恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく
春や
岡を越え眞白き春の
海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
海死せりいづくともなき遠き
ああ
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ
いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
声あげてわれ泣く海の
わだつみの
忍びかに
君笑めば海はにほへり春の日の
わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに
こころまよふ照る日の海へ中ぞらへうれひねむれる君が
眼をとぢつ君樹によりて海を聴くその遠き
砂濱の丘をくだりて
ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
君さらに笑みてものいふ
このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ来にけり
松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ
闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて
空の日に
海を見て世にみなし児のわが
かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
ものおほく言はずあちゆきこちらゆきふたりは哀し貝をひろへる
浪の寄る真黒き
鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
夕やみの磯に火を
春の海ほのかにふるふ
ことあらば
君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
君よ
わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
海岸の松青き村はうらがなし君にすすめむ葡萄酒の無し
わがうたふかなしき歌やきこえけむゆふべ渚に君も出で来ぬ
くちづけの終りしあとのよこ顔にうちむかふ昼の寂しかりけり
いかなれば恋のはじめに
伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや
「木の香にや」「いな海ならむ
幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ
いづくにか
海なつかし君等みどりのこのそこにともに
海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く
海あをし青一しづく日の
春のそら白鳥まへり
春の河うす黄に濁り音もなう潮満つる海の朝凪に入る
月つひに吸はれぬ
手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ
白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
真昼時青海死にぬ巌かげにちさき貝あり
夕ぐれの海の愁ひのしたたりに
蒼ざめし額にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
海明り
ふと袖に見いでし人の
ひもすがら断えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
渚なる木の間ゆきゆき摘みためし君とわが手の四五の菜の花
くちつけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る
春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る
──以上──
窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす
鐘鳴り出づ
琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
大ぞらの神よいましがいとし児の二人恋して歌うたふ見よ
君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
──以下・割愛──
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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