吉田初三郎の空間 絵になるまちづくりへ -間の手法-
目 次
1.日本文化の型
日本文化の特徴に型がある。用意された型に入り、訓練や稽古によって型を修得し、そして型を破り境地へと達する。用意された型とは、長い時間を掛けて練りあげられた無駄のない動作や形式を示すが、境地へ達するためには、「型入り」、「型修め」、「型破り」といった三ステップを経ることになる。「型入り」は数個の型を身に付け演じ始めた段階、「型修め」は型全体を網羅的に修得する段階、「型破り」は身に付けた型を乗り越えて個人の自由でオリジナリティ溢れる表現を獲得する段階である。このような三ステップは、特に芸術、芸能、武道等に多く見られる。
室町時代に世阿弥が著した「風姿花伝」は、訓練や稽古によって段階的に能を身に付け、表現美の真髄である「花」から「花」へ向かう有様を時系列的に描く。幼少年期の愛らしさを活かす「時分の花」、青年期に一芸を会得する「当座の花」、そして壮年期に成熟した芸に到達して思いのままに自己表現できる「誠の花」である。「型入り」は「時分の花」に、「型修め」は「当座の花」に、「型破り」は「誠の花」に相当する。つまり、三ステップを経ながら、能楽師の全人格的行為である「花」の完成へ向かう。
型の三ステップは、能のような身体演技のみならず、絵画のような自己表現を作品へ投影する芸術領域にも見い出すことができる。デッサンの積み重ねによる形態の重さと質の表現、構図や色合い等複雑な要素を重ね合わせ統合した創作表現、そして誰にも真似のできないようなオリジナリティ溢れる創造的な自己表現となる三ステップである。
2.江戸風景画の成立と完成
浮世絵は、十八世紀中頃まで日本画の型である奥行きの乏しい平板的な画法から脱却できなかった。型を乗り越えたのは、西洋画の遠近法を学習し活用するようになってからである。洋風の遠近、陰影、色彩の技法を取り入れ、在来の日本画法と統合することにより、日本独自の風景画が生まれた。人物画の背景だった風景が、主体性を持ち風景画として独立し、江戸文化の重要な一形式になったのは葛飾北斎の功績が大きく、そして広重で完成した。
北斎は三十代後半から四十代にかけて、「近江八景」、「江戸八景」の各シリーズ、画題や落款の平仮名文字を横書きで表すシリーズ等を描いた。これらは、絵に縁取りを設け、主に遠近法や陰影効果を施すなど、木版画で日本風洋画を描く試みがなされている。こうして、北斎の傑作と言われる「冨嶽三十六景」が生みだされるに至る。冨嶽三十六景は、江戸、東海道、尾州等の自然にマッチングした形で生活する庶民や旅をする人々が描かれている。そして、様々な視点から組み込まれる富士山は、江戸の自然の象徴ともとれるが、当時のサークル的な富士講の隆盛を考えると、庶民生活に溶け込んだ神聖ながらも物見遊山の対象と捉えることができよう。江戸の美しい自然、その中で生き生きと働く人々、庶民生活に溶け込んだ富士山といった三要素を洋風画法と日本画法の統合手法で描くことによって江戸風景画が成立した。
広重は、二十五歳頃まで幕府の同心の職にあり、絵師と役人という二足のわらじを履いていた。三十三から三十五歳頃までに幕府の仕事で江戸と京都を往復する。彼の絵師としての成功は、東海道を実地見聞したことから始まった。傑作「東海道五拾三次」の創作である。東海道五拾三次は、広重が実際に東海道を歩き回り各場所の空間を体験し、そのときの鮮やかな印象を絵にしたものである。そのため、対象となる場所の特徴が詳細に描かれている。自然の姿や色彩、点景、人物の表情、木々の種類、季節の変化などが作品一枚一枚に美しいハーモニーとして描写されている。北斎の冨嶽三十六景が、洋風画法を意識し斬新な構図やレトリックな構図が多いのに比べ、東海道五拾三次は洋風画法を当たり前のようにこなしていて構図に無理がなく自然体で描かれている。また、北斎に比べると描写が細やかであり、色彩に富んでいるが、それらは旅のわびしさや哀愁をそこはかとなく匂わせる表現に通じる。広重において江戸風景画は完成された。
3.江戸風景画の間
江戸風景画の特徴は、場所が持つ性格と旅する人々の旅情やそこで生活する庶民の情感とをワン・カットに描写し、「名所」としての魅力を創造する点にある。「名所」を創作するには、まず図案としてふさわしい場所を「見立て」なければならない。そして必要な場面だけに絞り込み、不要な周辺風景は切り取り「見切る」ことになる。「見立て」と「見切る」が一連の「術」として働いた時に、「名所」創作の大きな第一歩が踏み出される。ここで、「術」とは魅力を創造するための技芸だが、絵師(広重)の全人格的行為である「花(江戸風景画の創造)」を完成へ向かわせる技芸と言えるだろう。
一場面の全体像を「見立て」て「見切る」ことをした後も、絵のテーマに沿って、構図、リズム、色合い等を組み立てなければならない。この場合に重要な手法が「
「東海道五拾三次之内・庄野」は、竹林を背景に庄野の坂道で突然のにわか雨に遭った旅人たちのざわめく瞬間を捉え情感深く描かれている。そこで、この作品の「間」を検討してみよう。ざわめきを表現する点景の中心は、逃げ惑う三人の旅人と対照的に平然と客を運ぶかごかきだが、旅人二人が雨と風へ向かって坂を下る、かごかき二人と旅人一人は雨と風に背を押されるように坂を登る。また、画面右下から左斜め上へ描かれた坂、雨と風で登り坂方向へ揺れる竹林の描写。これらの力のバランスの「間」が絶妙なため、動的構図がざわめきの一瞬を見事に表している。さらに、坂道の淡い藍色、竹林の水墨画の手法を取り入れた三層のモノトーン、墨を流したような天空といった配色の「間」がそこはかとない情感を演出する。このように、広重の江戸風景画は、様々な「間」をバランス感覚鋭く取り入れながら描ききった。
4.吉田初三郎の空間
大正の広重と自ら称した吉田初三郎は、江戸風景画を研究し乗り越えようとした。その開拓精神は、広重よりも北斎に近いかもしれない。また、作品内に必ず富士山を描く点も北斎に似ている。鳥瞰図法を用いた点、ならびに各地の名所図絵を数多く描いた点が広重と似かよる。前者は広重の「名所江戸百景・深川洲崎十万坪」の図法に、後者は「東海道五拾三次」、「木曾街道六拾九次」、「名所江戸百景」等の各作品群に比較される。また初三郎は、幕末から明治の前半に活躍した歌川(五雲亭)貞秀に影響を受けている。貞秀は、地図製作に携わったときの豊富な地理情報に基づき、主に景勝地を鳥瞰図法で緻密に描いた。
北斎も広重も風景画を描く視線は当時の庶民の眼の高さに置き、庶民生活や旅情をテーマにして、場所性、豊かな自然、活気や哀愁等を調和させた「名所」を描いた。日常の物語の一こまが対象であり、それを表す図法は物理的な人の眼の高さだった。これに対し初三郎は、工業化が進展する大正から昭和にかけて、拡大する鉄道や船舶等の商業資本から依頼を受け、対象になる観光地を描いた。このため、庶民の新たな眼の高さを模索した。この結果、江戸風景画のテーマとは大きく異なり、自然と人工物(鉄道・道路・港湾等)の調和から生みだされる観光地の新たな魅力をテーマにした。この場合、観光地とは旧「名所」の総体、各「名所」を繋ぐ交通網、これらを覆う山水等の融合だった。このテーマに基づき、鳥の眼の高さから眺めながら、広大な地域全体を把握し、空間の魅力を感知できる彼独自の図法をあみだした。初三郎は、北斎から広重で完成した江戸風景画の型を破ったのである。
鳥瞰図は図法上、三つの
初三郎の絵図は、彼独特の「間」で構成されている。例えば「中部日本観光鳥瞰図」を見てみよう。東海地区を中心に北は日光から南は大阪、太平洋側から日本海側の輪島まで組み入れた大パノラマ図である。これだけ大きな地域を描く場合、まず、正確な透視図法に則ることは不可能に近い。かといって、透視図法を活用しなければ冗長になり間が抜ける。そこで初三郎は、透視図法にそぐわない箇所を湾曲させる。つまり、彼の空間構成は、透視図法の直線で描く市街地、曲線で描く周辺の自然環境という対比があり、このときに、本来図法上は描き得ない地域を極端に湾曲させて図中に組み入れる。この湾曲させた部分が、平板的な市街地と緑豊かな周辺自然環境にリズムを与える。直線と曲線、そして湾曲線が「間」を生みだし、絵図に生命を注ぎ込む。「神戸鳥瞰図絵」では、湾曲させた神戸港に税関、ホテル、倉庫、検査所、メリケン波止場、行き交う船等の情報を集約させながら、鉄道を境に山側市街地と六甲山系を描く。この場合の「間」は、横に走る鉄道を中心に、湾曲する神戸港、直線の市街地、曲線の六甲山系で生み出される。秀逸なのは、湾曲させた神戸港に情報を集約して「間」の重みづけをし、リズムを創造した点である。
吉田初三郎は、北斎から広重で完成した江戸風景画の型を乗り越え、時代の要請に従い、鳥瞰図法に基づく地域全体絵図を創造した。そして、彼は「術」を駆使して、レトリック図法が作る「間」で構成されたオリジナルな空間を生み出した。
5.絵になるまちづくりへ
現在のまちづくりは、まず、市民がより良い生活を営むことを目指し、自治体が中心になり色々な施策を検討し、条例等に反映する。次に、施策に基づいた地域システム(情報通信、社会教育、新産業創造等のシステム)を構築する。さらに、地域システムが稼働するときに必要な物理的な空間(土地区画・建物・設備等)を創造する。そして、地域システムと物理的な空間を管理・運営する。つまり、まちづくりは、少なくとも四ステップを経て実現する。
しかし、現在のまちづくりは、大きな問題を抱えている。それは、計画時に、市民がまちづくりの全体像を把握できない点である。市町村単位の広い土地を考えてみよう。この場合、まちづくりの全体像は、現在どのように表されているだろうか。多くは、自治体が作る市町村の総合計画図書の中に、言葉、システム図、土地利用計画図(二次元の地図に、住居地域、商業地域、工業地域等の土地の利用区分を色分けしたもの)、エポックメイキング的な場所や建物等の透視図またはスケッチ等で示されている。つまり、全体像を把握しようとすると、これらを全て読みこなし、頭の中で繋ぎあわせなければならない。プロの地域政策家や都市計画家でも十分に把握できないのに、一般市民が理解できるはずがない。そして、まちづくりが完成すると、こんなはずではなかった・・・・・・ということになる。しかし、ここで疑問が生じる、何故、分かりやすい市町村全体の鳥瞰図を描かないのだろうかと。その理由は、案外簡単だ。平成十三年度の全国の市町村の平均面積は、約115平方キロメートルだが、これを841ミリメートル×594ミリメートルの定形地図(計画図書に添付するには大きいサイズ)として表すには、18000分の1以下の縮尺にする。この縮尺だと、建築物は描かれず、最小単位として番地毎の区画を表示することになる。もし、自治体が市町村全体の鳥瞰図を作ろうとすれば、正確さを重視し、地図に基づき、三つの消失点で透視図を描くだろう。しかし、面積が大きすぎて、図法上描くことができない。そこで、消失点の無い平行透視図法(各立体がそれぞれ平行な図法)を活用することになるが、正確に描くと元の地図とあまり代り映えのしない絵になってしまう。このような理由で、市町村全体を表す鳥瞰図は作成されないのである。
自治体は正確さを重視し、分かり難い計画図書を作る。これは、市民不在と見做されても仕方ないだろう。そこで、初三郎の絵図を見てみよう。緻密な透視図のように見えるが、正確な図法に則っていない。しかし、広大な土地がどのように魅力的に開発されるかを一目で分からせてくれる。「間」のとり方で、風景としての空間の魅力を引きだし、見る者のイマジネーションをかき立てる「術」が施されている。
地方分権が進む中、まちづくりの主体は、少しずつ市民へ移りつつある。市民が計画し、自治体や国は支援へ回る時代もすぐ其処まで来ている。だから、今こそ市民が、分かりやすさに重点を置く初三郎のレトリック図法を学び、魅力が溢れる「絵になるまちづくり」を先導しなければならない。
(参考文献)
1.日本文化の型
- (1)世阿弥作/野上豊一郎・西尾実校訂「風姿花伝」(1978)岩波書店
- (2)山崎正和編「日本の名著 世阿弥」(1983)中央公論社
- (3)湯浅泰雄「身体論」(1992)講談社
- (4)市川浩「身の構造」(1994)講談社
- (5)山本壽夫「芸能都市をめざして」(1994)儀礼文化学会
2.江戸風景画の成立と完成
- (1)瀬木慎一「画狂人北斎」(1973)講談社
- (2)後藤茂樹編「浮世絵体系八 北斎」(1975)集英社
- (3)鈴木棠三/朝倉治彦校註「江戸名所図絵 一・二・三・四・五・六」(1967・1968)角川書店
- (4)鈴木重三監修「太陽浮世絵シリーズ 広重」(1975)平凡社
3.江戸風景画の間
- (1)神代雄一郎「
間 ・日本建築の意匠」(2001)鹿島出版会 - (2)オギュスタン・ベルグ著/宮原信訳「空間の日本文化」(2001)筑摩書房
- (3)山本壽夫「地方分権時代の戦略的地域経営(Ⅱ)」(2002)日本ホスピタリティ・マネジメント学会
- (4)原色浮世絵大百科事典編集委員会編「原色浮世絵大百科事典 第九巻」(1977)大修館書店
- (5)後藤茂樹編「浮世絵体系十一 広重」(1975)集英社
4.吉田初三郎の空間
- (1)竹村民郎「大正文化」(1980)講談社
- (2)小山清男「別冊アトリエ 透視図法の基礎」(1973)アトリエ出版社
- (3)高岡市立博物館編「企画展 絵図にみる観光名所?吉田初三郎の世界?」(1995)高岡市立博物館
- (4)ラパン編集部「ラパン五月号 吉田初三郎に会いたい」(1999)ゼンリン
5.絵になるまちづくりへ
- (1)田村明「まちづくりの実践」(1999)岩波書店
- (2)池上惇・小暮恒雄・大和滋「現代のまちづくり」(2000)丸善株式会社
- (3)日端康雄「ミクロの都市計画と土地利用」(1988)学芸出版社
- (4)青山吉隆編「図説 都市地域計画」(2001)丸善株式会社
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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