芸能都市論

1 祭りと芸術

 芸能の始まりは、神祭りと深い関係を持つ。そこで、まず西欧の祭りと芸術の関係を調べ、次に日本の祭りと芸能の関係について述べることにする。

 西欧の場合、祭りと芸術の関係は、ディオニュソス神の祭祀を執行する円形劇場が古代ギリシャのアテナイ市に作られた紀元前6世紀まで辿ることができる。これは、都市の集落的性質を色濃く反映するものであり、収穫祭から発生して後に芸術へ向かうギリシャ悲劇の誕生過程を表している。つまり、ギリシャ悲劇は、ディオニュソスの祭りから生じ、紀元前5世紀にアテナイ市に出現した三大悲劇詩人である、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの各作品を原作として、円形劇場で演じられた劇を指すことになる。祭りから発生した祭祀における所作が形式化し、その所作の形式に魅力が宿され観客を呼び、さらに観客を楽しませるために劇作家が生まれ、所作の形式は芸術へと変化を遂げた。

 一方、日本の場合、古代農耕民が稲作の収穫量を左右する自然神を祭る際に、山・海・河などから自然神を呼び寄せて祭祀を行った。この神祭りの所作に「まひ(舞い)」と「をどり(踊り)」があった。舞いは旋回運動で静かな神の一面を表し、踊りは跳躍運動で荒々しい神の他面を表した。これらの祭りは、後に武力民が支配する宮中へ入り、所作は洗練されていく。舞いは、神の鎮魂儀礼へと変化し、神楽・田楽・猿楽を生み、14世紀に観阿弥と世阿弥の出現によって、猿楽をベースに総合芸術としての能を完成する。踊りは、伊勢踊りや念仏踊りなどを経て、17世紀初めに出雲のおくにが登場することにより歌舞伎へ発展するが、現在の歌舞伎のような形を整え始めたのは、18世紀に現れた近松門左衛門などの劇作家による「道行き」を人形浄瑠璃が演じ、歌舞伎がその人形浄瑠璃の作・演出・衣装などを取入れたことによる。

 

 

1-1 西欧の芸術

1-1-1 アポロとディオニュソス

 ディオニュソスの祭りと悲劇に関する研究において、哲学者ニーチェの著書「悲劇の誕生」は、ギリシャ芸術をテーマとして、祭りから発生した悲劇を前提に、芸術をアポロ的芸術とディオニュソス的芸術に分けて考察した点に特徴を有する(1)。本書は、出版した19世紀当時、ニーチェが専攻した古典文献学を逸脱した著作として学界で黙殺されたが、芸術を新たな視点から考察した内容として20世紀に再評価を得ることとなった。

 特にニーチェの所説によれば、アポロとディオニュソスは、次の表3-1(割愛)に表す内容となる。

 

 ① アポロ的芸術は、客観性が強く、調和と秩序に基づく理性的な美を求めるものである。

 ② ディオニュソス的芸術は、主観性が強く、渾沌や激情のもとに感性的な美を求めるものである。

 ③ アポロ的芸術の基底にはディオニュソス的芸術が存在する。演劇を例にとれば、祭りにおいてディオニュソス神の苦悩を表すだけだった激情の合唱(ロゴス)が、アイスキュロスなどの劇作家の出現によって、劇という秩序あるものとなりアポロ的芸術へ移行した。

 

 上記のニーチェの考え方において、アポロ的芸術とディオニュソス的芸術が弁証法的に統合されるとする哲学的見解がある。それは、アポロとディオニュソスを対立する概念として捉えたための見解であった。しかし、対立する概念は、それら概念を規定する環境が変化すると、対立した概念でなくなることが多々ある。そこで私は、ディオニュソス的芸術からアポロ的芸術へ移行するプロセスは、弁証法よりも現在の生物学や物理学などで見出された自己組織化のメカニズムが適合すると考えたい。自己組織化のメカニズムから、そのプロセスを考察すると、次の内容を表すことができる(2)。

 

 (a) 渾沌としたカオスの中で、芸術に関わる各要素が様々な動きを生じて衝突し交合しながら、新たなディオニュソス的芸術を生み出す。

 (b) それらの各要素は、一つにまとまろうとする協同現象を生じて調和し秩序化することによって、安定したアポロ的な芸術を生む。

 (c) 安定したアポロ的な芸術は、時間が経過すると再びカオスへ向かい拡散し、拡散した各要素は、また新たなディオニュソス的芸術を生む。

 (d) 上記(a)から(c)が時間の経過とともに繰り返される。

 

 自己組織化のメカニズムから考察すると、ディオニュソス的芸術からアポロ的芸術への移行プロセスは、ニーチェの見解を一歩発展させ、再びカオスへ向かいディオニュソス的芸術を生むといった、神羅万象の生成流転になぞらえた芸術移行プロセスとして見出すことができる。

 

1-1-2 ドローメノンからドラマへ

 古代ギリシャの研究者であるジェーン・エレン・ハリソンによれば、当初、アテナイのアゴラ(広場)で開催されたディオニュソスの祭りは、ドローメノン(行事、為されたこと)であり、信女が神に祭礼を捧げて農作物の収穫を祝い、豊饒を祈願するものであった(3)。年代を重ねるうちに、ドローメノンを見物する「観客」が発生する。観客の発生は、見る者と見られる者の相対的な関係を生み、ドローメノンは観客を意識するようになり、質や形態は少しずつ変化していった。同時に、ドローメノンを執行する場所と観客の見る場所が定まるようになる。その場所は当初のアゴラから移り、人々は石畳の円形劇場を作り出した。最初のディオニュソのための円形劇場はアテナイに作られた。その円形劇場では、ディオニュソス神の苦悩を表現する合唱が営まれた。円形劇場という閉ざされた空間の中で、合唱する側とそれを観る側の掛け合いが濃密な空間を生み出すようになる。その濃密な両者の掛け合いを増幅するためのドラマトゥルギー(作劇術)を創作するアイスキュロスなどの劇作家が出現した。そして円形劇場の空間は、ドラマトゥルギーによって演じる側と観る側が最高潮に達する劇的空間へと変化を遂げる。ここに「悲劇」が誕生し、ドローメノンがドラマへと変化したのである。

 以上のハリソンの所説から次の内容を考察することができる。

 

 ① ドローメノンは、観客の出現により、演じる側と観る側の相互依存関係を生んだ。

 ② この相互依存関係に基づき形成された空間が円形劇場である。

 ③ ドラマトゥルギーは、空間と深い関係があり、円形劇場という閉ざされた空間の中で、演じる側と観る側の相互依存関係を最高潮に達するための術である。

 ④ ドラマトゥルギーによって、円形劇場内の空間は最高潮の劇性を持つことになる。そして、ドローメノンはドラマへと変化した。

 

 上記考察から、神祭りの所作は、観客の出現、演じる側と観る側を包含する空間の構築、そして劇作家による作劇術、の各要素が整うことによって、芸術へ変化したことが分かる。

 

1-2 日本の芸能

1-2-1 芸能の立脚点

 日本において、芸術は明治期に移入された語彙であり、啓蒙思想家の西周がリベラル・アートを訳し、当初、「藝術」という訳語を適用した。今日では、アートの訳語として芸術が用いられている。そこで、「藝術」以前を考察すると、次の内容を表すことができる。

 

(1)祭祀と芸能

 古事記および日本書紀によれば、神は海(常世)から来て山へ登り、山から里、そして田へ下る。この神とは、農耕の神を意味し、民に五穀豊饒をもたらす畏敬すべき自然神であり、古代ギリシャにおけるディオニュソスの神に相当する。記紀では、国造りをしていた少彦名神(スクナヒコナノカミ)が常世へ去り、海上から新たな大物主神(オオモノヌシノカミ)となって現れ、奈良県の三輪山へ登り、鎮座し、大神神社(オオミワジンジヤ)の祭神となる(4)。そして、毎年、大物主神は里へ下り、稲作に豊饒をもたらすが、一度怒ると疫病などを呼ぶ崇り神ともなる畏敬すべき神である。このような畏敬すべき神々を奉祭する祭祀は、神と人を媒介する巫女の託宣から始まった。文献上、巫女が神と人の媒介となった始まりは、大物主神を大田田根子が祭ったことにある(5)。大田田根子は男性だったが、その後、女性が神と人の媒介となり巫女となった。また、巫女の託宣は旋回運動をともない行われた(6)。時を経て次第に旋回運動は、初源的な舞を生じることになる。舞は神楽を生み、神楽は田楽や猿楽を生じる。そして、猿楽や田楽は、観阿弥・世阿弥の出現によって能へと昇華した。このように、神の奉祭儀礼から芸能が生じた。

 

(2)鎮魂と芸能

 折口信夫、あるいは梅原猛などの所説が表すように、日本の古典芸能の底流には、「怨霊」と「鎮魂」が存在する(7)。そこで、特に鎮魂に焦点を絞り、芸能の発生や創造を考察しよう。鎮魂におけるタマフリとは、神の持つパワーを呼び寄せること、そして付着することを意味する。つまり、祭りの本義は、神の持つパワーを呼び寄せて田へ付着し、豊饒を願うことにあった。後に宮中へ入り、天皇即位時に服属した国々(各部族が支配していた地域)が天皇へ国魂を付着する祭り、あるいは健康を害した貴人に新たな魂を付着し、健康を取り戻す祭りなどへ変化した。例えば、天皇即位の一環として為される大嘗祭(ダイジョウサイ)は、天皇が日本を司る天皇霊を身に付ける祭りと考えられている(8)。天皇が大嘗宮正殿へ入り、伊勢神宮の方向へ向かい、神と共食することによって天皇霊を身に付けるときに、大嘗宮正殿の周囲では踏襲された部族が隼人舞や久米舞などを舞った。これは、服属儀礼としての舞であるとともに、天皇に自国の国魂を付着し天皇霊をパワーアップするタマフリの舞であった。

 タマフリを構造分解すると猿女命(サルメノミコト)と物部氏の鎮魂に分けることができる(9)。猿女命のタマフリは、その根源を天鈿女命(アメノウズメノミコト)の舞に持つ。天鈿女命の舞は、天照大神が天石窟へ隠れたときに、手に矛を持ち神懸かりする採りもの舞であり、神=魂を呼び寄せる鎮魂であった。また、物部氏は軍事と神事を司る氏族であった。物部氏は三種の神器の一つである剣を軍事の象徴とし、各国々から象徴である剣を差し出させることによって服属を誓わせ、それらの剣を奈良県天理市に鎮座する物部の社となる石上神宮(イソノカミジングウ)の神倉へ保管した。そして、貴人が病気で倒れたときに、剣を使い舞うことによって、その貴人に新たな魂を付着し健康を取り戻す鎮魂の業を行った。つまり、猿女命と物部氏のタマフリが統合し、魂を呼び寄せ付着するといった魂更新の祭事が完成した。また、奈良時代に海上交通を担う安曇氏(アズミシ)が中国から日本へ伝来した鎮魂は、タマシズメと呼ばれる(10)。タマシズメは、魂の発散を防止し魂を鎮める祭事である。タマシズメは平安時代以降に重要視されるようになり、タマフリと統合した。このように、魂を呼び寄せ、付着し、発散を防止するといった一連の祭事が完成した。そして、猿女命・物部氏・安曇氏の各鎮魂を執行する所作が歌舞を生じ、音曲が加わることにより古典芸能が生まれた。

 鎮魂において、タマフリはディオニュソスに相当する陶酔の祭りであり、タマシズメはアポロに相当する調和を重んじる祭りであった。そこで、自己組織化のメカニズムからタマフリとタマシズメに関わる芸能の創造を考察すると、次の内容について表すことができる。

 

 ① リピドーであるタマフリは渾沌としたカオスの中の祭りであるため、タマフリに関わる各要素が様々な動きを生じて衝突し交合しながら魂の更新を行い、新たなタマフリに関係する芸能を生み出す。

 ② タマシズメは、タマフリに関わる各要素に協同現象を生じさせ、調和し秩序化して更新した魂を安定するための祭りであり、タマシズメの祭りからまた芸能を生じる。

 ③ 安定した魂は、時間が経過すると再びカオスへ向かい拡散し、拡散した各要素は、また新たなタマフリの祭りを必要とする。

 ④ 上記①から③が時間の経過とともに繰り返される。

 

 つまり、タマフリとタマシズメは生成流転のメカニズムとして捉えることが可能であり、このプロセスにおいて、次々に芸能が創造されることになる。

 

(3)拝殿と芸能

 折口信夫の所説によれば、神の奉斎儀礼である所作は毎年繰り返し行われ、物真似芸を基本とする田楽や猿楽へ変化した(11)。ディオニュソスの祭りが、観客の発生やドラマトゥルギーによって、ドローメノンからドラマへ変化したように、日本の神の奉斎儀礼にも同様の要因が生じた。そして、所作から芸能へ変化したと考えることができる。神の奉祭儀礼に観客の場が明確に出来上がるのは、神社に拝殿を生じたときである。それまでは、神が宿る岩や木、そして山などを自然の中で拝礼していた。奈良県桜井市に鎮座する大神神社は、そびえ立つ三輪山を御神体とし本殿を持たない。この祭祀形態は、人々が自然神である山を拝殿から直接拝礼するため、神社の初源的形態とみなされる。それは、自然神の奉祭が岩・木・山などを御神体として祭るために、本殿を必要としないことに基づいている。主に神社本殿は、武力民が農耕民を踏襲した後、武力民の人的神を祭るために建てられた。武力民は農耕技術を持たなかったため、農耕民を従える際に、対象地域の農耕民の代表者となる村主(スグリ)を支配・管理することにより、農耕民全体を支配するといった間接支配体制を敷いた。このため、武力民は農耕神を取り除くことができずに、農耕神の上に武力神を置く形式をとった。例えば、京都の上賀茂神社は、賀茂別雷命(カモノワケイカズチノミコト)を祭神として本殿に祭るが、元来は神社背後の神山を御神体としており、神山には農耕神が降り立つ降臨石と呼ばれる磐座(イワクラ)が存在する(12)。また、奈良の春日大社は、元来背後の御蓋山を御神体としており、武力神としての藤原氏を祭神として祭る本殿の横から、祭礼のときに農耕神である御蓋山の神をお迎えし、一定期間留める磐境(イワサカ)が発見された(13)。

 以上より、一つの神社に農耕神と武力神の混在併存化を見出すことができる。そして、拝殿の成立年代は本殿よりも古いことが理解できる。特に拝殿は、巫女が執行する農耕神の奉祭に際し、氏子達が共祭する空間であり、後年、氏子以外の人々も観客として加わり、祭りを共有する空間となった。巫女の奉祭は、①神を山から呼び寄せる舞(神下し)、②呼び寄せた神のパワーを田へ付着する舞(神遊び)、そして③一定期間の祭りが終了するときに神を山へ返す舞(神上げ)、といった三ステップから構成される。これら巫女の奉祭の所作から物真似芸が発生し、物真似芸を職業として演じるワザヲギが生まれた。物真似芸は、拝殿の観客とワザヲギの掛け合い、呼応によって研ぎ澄まされ、ドローメノンからドラマへ変化し、神楽舞・田楽・猿楽などの芸能を生じた。つまり、日本においても西欧と同様に、観客の発生、演じる側と観る側を包含する空間の構築、の各要素が現れた。しかし、劇作家とその作劇術は、中世以降に出現することになる。このため、神祭りの所作は、中世頃まで型を重要視する芸能の域に留まることとなった。

 

1-2-2 芸能の型

(1)型の三ステップ

 所作から生じた芸能は、神楽・田楽・猿楽等を作り出す。エポックメイキングとして、南北朝時代に出現した猿楽集団観世一座を率いる観阿弥が、物真似芸の色合いが濃かった猿楽に優美な舞を持つ田楽的要素や曲舞等の新たな演出を加えたことにより、一般の観客のみならず足利将軍家の心をも捉えることとなった。観世流の猿楽は新たな潮流となり、瞬く間に芸能の主座を占めるようになる。室町時代、世阿弥は、父観阿弥から受け継いだ猿楽を、当時公家や武家間で重んじられた幽玄美を中心に置きながら演出し直した。その演出は、猿楽を構成する言葉・所作・謡い・舞など全ての要素に渡り執り行われ、新たな猿楽、すなわち能を生み出した。後に、彼は自らの一生を能の完成へ捧げることになる。つまり、アイスキュロスなどの劇作家に相当する人物が出現したのであり、この時点から能は総合芸術としての地位を築くことになった。その集大成が彼の著書「風姿花伝」に記されている。

 風姿花伝は、能の修業と心構え・物真似の本質・上演における課題と対応・能の歴史・能楽者の生き方・能の創作・花の本質から構成されるが、特筆すべきは、物真似から始まり花へ向かう芸能の体得方法にある(14)。この観点から、世阿弥の所説を参考にして、「型」について考察すると次の内容を表すことができる。

 

 ① 型とは、長年時間をかけて練り上げてきた無駄のない動作や形式であるが、その背景に風土や歴史の重層的な基盤を持つ。

 ② 一般に、型は演者にとってア・プリオリに存在し、型へ入り訓練や稽古を重ねて型を習得し、そして型を破り境地へ達する。型のプロセスを時系列的に述べると、数種類の型を身に付けて演じ始める「型入り」、型全体を網羅的に習得してある程度自由に演じることができる「型修め」、身に付けた型を乗り越えて個人のオリジナルな演技を自在に演じることができる「型破り」の順番となる(15)。

 ③ 世阿弥の所説に基づく型の習得プロセスは、幼少時代の愛らしさを表す「時分の花」、青年期に一芸を会得する「当座の花」、壮年期に成熟した芸へ達して思いのままに自己表現できる「誠の花」である。

 ④ 上記の①~③から、型の三ステップとして、「時分の花」に相当する「型入り」、「当座の花」に相当する「型修め」、「誠の花」に相当する「型破り」を表すことができる。そして、この三ステップを経ることによって、全人格的行為としての「花」の完成へ向かい、達人の境地へ到達するようになる。

 ⑤「花」の完成へ向かい達人となる人材は、真の芸術家である。この時点において、芸能は芸術へ移行する。

 

 さて、上記の型の三ステップにおいて、第一ステップの「型入り」および第二ステップの「型修め」は、訓練や稽古によって十分に型を身に付けることに他ならない。つまり、第二ステップまでは、芸能が持つ恒久的な構造を誰もが享受できることになる。しかし、第三ステップの場合、型を破るための個人の努力と才能が必要となり、特に個人のオリジナリティが従来の型を超えなければならない。それは、技を自在に操り、個人の創造的な感情の自己表現がオリジナルに溢れ、観るもの全てを魅了する「花」を完成させた芸術家の境地ということになる。

 

(2)型の持つ創造性

 人が芸能の型を身に付ける過程において、次のことを示すことができる。第一に、自分自身の視座が明確化することから、自分なりにモノの本質を見極める能力が備わる。第二に、個人の創造的な感情の自己表現を見出すことができるようになる。第一が成立する根拠は、個人が型を身に付けるに際し、型が風土的・歴史的に形成されたため、長い年月をかけて作られた社会的規範を身に付けることになるからである。第二が成立する根拠は、型は非効率的であるがために創造性を生む。その理由は、脳の発達の観点から考察することができる。後天的に創造能力を高めるためには、脳の発達や複雑性を高めることが重要である。脳の発達とは、感覚を通じてインプットされた外部情報が、脳を構成する各脳神経細胞(ニューロン)へ伝達されることによって、脳の神経細胞間にネットワーク網が形成されて起こる現象である。つまり、外部情報は電気的インパルスとなって脳神経細胞を振動させ、その振動が次々に脳神経細胞へ伝達されることによって、各脳神経細胞間に情報伝達のためのネットワークが形成される(16)。このネットワークが複雑であればあるほど個人の創造性に深い影響を与えることになる。単に視覚を通じて得る知識情報よりも、五感を使い身体全体を通じて獲得した非効率的な型を経た情報は、自ずと情報量・質ともに大きな差を生じることになる。このため、型の習得にともない複雑な脳のネットワークが形成されることから、後天的に創造能力を高めるために必要な身体環境を整えることができると考えられる。

 

 

2 芸能都市の輪郭

2-1 専門芸術家と素人芸術家

2-1-1 古典芸能の課題

 前記のように、芸能の型の第三ステップまでを経ることのできる芸術家は、限られた人材であり、人々の憧れであり、目標となる。この最高レベルの芸術家を専門芸術家と呼ぶことにする。専門芸術家とは、能・歌舞伎・舞踏・文楽、茶・生け花・書・絵画・古典落語・相撲などの各芸能分野における達人を指す。これに対し、芸能の習得に邁進し、自分なりにモノの本質を見極め、自己の表現を見出すことによって日々の生活を豊かにし、自己実現を図ろうとする人々が存在する。彼等は、主に型の第一ステップから第二ステップまでを習得する人々であり、芸能の標準レベルまでの段階に存在する。そこで、これらの人々を素人芸術家と呼ぶことにする。素人芸術家は一般市民であり、多くの場合、彼等は他に本業を持ち、日々の生活の余暇時間を芸能の習得に当てる。しかし、専門芸術家と比べると、素人芸術家の人数は圧倒的に多く、芸能を底辺から支えていることが理解される。このため、専門芸術家は、芸能の衰退を防ぎ、より発展するように、常に市民の賛同を得、底辺の拡大を目指して、社会変化に則した新たなプレゼンテーションを行わなければならない。

 古典芸能にも栄枯盛衰があり、社会変化に対応できなかったり、社会ニーズにそぐわない分野は、その使命を終えることになる。この点、歌舞伎役者は本来の歌舞伎の他に、現代劇やオペラの舞台、映画やテレビドラマなどへ進出し幅広い活躍をしながら、特に歌舞伎独特の大きな芸を披露することで、歌舞伎の型の習得や歴史的重みを観客や聴衆へ伝えている。このため、歌舞伎役者は、歌舞伎とそれ以外の芸能分野の両方の活躍が相互に掛け合うことで、歌舞伎界の人気獲得の相乗効果を上げている。しかし、舞台観客の人気は獲得するが、素人芸術家の底辺拡大にはあまり繋がっていないようである。それは、歌舞伎役者の育成の選択基準が、名取り襲名は血族に限られているからであり、一般人が稽古をいくら積んでも主役になれないシステムが存在するからである。もっとも、今日の女形の代表格である坂東玉三郎のように、歌舞伎界とあまり縁を持たなかった人材が襲名することもあるが、これは例外といえるだろう。歌舞伎に限らず多くの古典芸能は、代々血族が襲名を重ねてきたために、素人芸術家の底辺拡大へ繋がらなかったといえるだろう。

 

2-1-2 芸能の革新と新たな息吹

(1)相撲の革新性

 相撲は、日本古来の芸能である。折口信夫によれば、相撲の原点は草相撲にある(17)。

 それは、稲作に深く関係する。稲作を行うには、まず、土地を開墾しなければならない。しかし、古代人は、土地を開墾すると、その土地に宿る精霊が怒ると考えた。このため、他の神を連れてきて精霊の怒りを鎮めることにした。この考え方を儀礼化し、小男を土地の精霊、大男を他の神と見立て、小男が大男にあしらわれる儀式を行った。これが、草相撲の始まりと考えられている。その後、宮中に入り相撲節会(スマイノセチエ)を形成し国家の儀式となり、武家社会へ伝わり現代の相撲へ変化を遂げた。今日、相撲は素人芸術家の底辺拡大について革新に継ぐ革新を行っている。これまで、角界を支える素人芸術家の多くは、中学・高校・大学の相撲部であった。学生横綱や地方における大会の覇者達がこぞって角界入りした。大関豊山、横綱輪島、大関朝潮、横綱旭富士、大関武双山などそうそうたるメンバーである。しかし社会変化とともに、今日、若年者が相撲を取るために褌一つになることを嫌がるようになり、また、学校の校庭にあった相撲土俵も姿を消し、同時に中学や高校の相撲部の部員数が低下した。このため、大学の相撲部も同様の状況となり、素人芸術家の輩出力が弱体化した。そのため、相撲協会は素人芸術家獲得の舞台を世界へ求めた。前提としてフランスやイタリアなどの相撲興業の成功と、主に昭和40年代に活躍したハワイ出身の高見山、そして彼に続くハワイ出身力士達の存在が大きい。相撲協会のねらいは的中し、東アジアやヨーロッパから入門者が相次ぎ、今日の横綱・大関・関脇などの大役を担う人材が出現した。特にモンゴルから多く入門するが、これはモンゴル相撲が日本の相撲に類似する型を持つことから、モンゴル相撲出身力士は、日本の相撲に馴染みやすく、結果として今日活躍が目覚ましい。さらに、モンゴル人は日本人と見間違う風体であるため、日本人の相撲観戦者に違和感を抱くものが少ない。いうなれば角界は、新たにモンゴル国という素人芸術家集団を得たことになる。

 

(2)新たな芸能の出現

 古典芸能から発展した新たな芸能に漫画・アニメーションがある。元来は平安時代末期から鎌倉時代にかけて描かれた鳥獣戯画を初源とする。鳥獣戯画の平板的な図法は、江戸期まで続くが、この型を破る人物が出現した。江戸末期に活躍した浮世絵師葛飾北斎である。北斎は積極的に西欧の透視図法を取り入れ、絵に奥行きを与え、そして、北斎漫画を描いた(18)。北斎の図法をさらに洗練・発展させた人物は安藤広重である。広重は、東海道中の物語性に富む場所にスポットを当て、旅人の旅情とそこで生活する庶民の情感を風景とともにワン・カットで描写し、名所図会を描いた。広重の図法は、ワン・カットに全ての要素を凝縮する点にあり、そのための手法として構図・リズム・色合いの空間的・時間的・心理的距離間を測り、観る側に訴えかける間(ま)を創り出した(19)。北斎と広重により、江戸風景画は完成した。明治から大正になると、吉田初三郎が現れ、鳥瞰図を駆使して自然と人工物(鉄道・道路・港湾など)の総体としての観光地を描いた。

 そして、第一次世界大戦後にウォルト・ディズニーのアニメーションが日本で上演されたことをきっかけに、日本漫画の潮流が生まれる。当時大阪大学医学部学生だった手塚治虫は、ディズニーのアニメ―ションを観て第二次世界大戦後に漫画家になった。手塚漫画は、科学技術を中心とするストーリー漫画と呼ばれるが、その特徴は原作が小説のように確立していて絵とマッチングしていること、北斎や広重の透視図法や初三郎の鳥瞰図法を漫画に取り入れ、さらにディズニーのアニメーションの動きを二次元画像に取り入れ、それぞれを統合していることにある。手塚漫画は今までの漫画の型を破ったのである。そして、日本が戦後の焼け跡から復興を果たす際に、子供たちの心の拠り所となり、手塚漫画が連載されていた雑誌漫画少年を中心に数多くの素人芸術家が育成された。その中から、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫などの専門芸術家が輩出される。また、他の芸術分野で専門芸術家となった筒井康隆、篠山紀信、横尾忠則なども存在する。一方で、手塚漫画の型を破るべく、さいとうたかお、白土三平、影丸穰也などが写実的な表現を取り入れた劇画を創り出した。手塚漫画と劇画は、現在統合され漫画として一つのものになっている。また、日本のアニメーションの発展は、手塚が昭和30年代に虫プロダクションを設立し、テレビ初の連載アニメ鉄腕アトムを放映したことに起因する。アニメーターも手塚の元から多く輩出されるとともに、各映画会社においても育成され、日本アニメを支え発展させつつ、今日全盛期を迎えている。そして、日本の漫画・アニメーションは、多くの国々から評価を受け、読者や観客とともに素人芸術家を次々に生んでいる。

 

2-2 ホスピタリティ空間

2-2-1 地域活性化とまちづくり

 現在、地方は人口減少、高い高齢化率、経済の低下などから疲弊している。この地方の危機を解消するためには、新たな地域活性化やまちづくりを行わなければならない。その対応策として、芸能を中心に置いた地域活性化やまちづくりを見出すことができる。芸能を中心に置く理由は、芸能が各地域に存在するものであり、地域に根差した文化であることに起因している。地方が地域活性化やまちづくりを行うには、その中心に各地域の固有性を形成する地域資源を位置づけることが肝要である。地域資源とは地域の文化である。このため、芸能は地域資源と見なされ、地域活性化やまちづくりの大きな要素となり得るのである。

 芸能を地域の文化と見なした場合、芸能は、風土的文化、歴史的文化、開発的文化といった三形式の文化要素から構成されている(20)。風土的文化は、地域の自然環境であり、また、自然環境を基盤に営まれた人々の生活から生み出された習わしや方言などである。歴史的文化は、時代ごとに生じた重要な事柄が文化として地域に積層したものである。開発的文化は、地域に創造しようとする新たな文化であり、また、文化として成立してからあまり時間を経ていないものである。これら文化要素は、普段、地域に眠っているものであり、地域住民が有効な手立てを持って地域活性化やまちづくりへ活用するときに、初めて起きて活動し始める。その有効な手立てとは、芸能の特性に見合う方法を用いた手立てであることが重要となる。

 そこで、前記2-1-2において、相撲および漫画・アニメーションを事例として、芸能の新陳代謝や新たな芸能が生み出されたプロセスを示した。その内容から、芸能を中心に置いた地域活性化やまちづくりは、次の内容を前提とすることが重要である。

 

 ① 芸能がイノベーションを行い、世界のニーズを掘り起こし、類似する型を持った海外の芸能とのリンケージを行うこと。

 ② 古典芸能をベースに、新たな視座を持った人材が新たな芸能を創造すること。

 

 上記①および②の内容は、芸能が生成流転する方法論と考えることができる。それは、新たな視座を持った人材の出現にともない、彼のプロデュースによって地域に眠る芸能が世界のニーズに触れたり、類似する型を持った海外の芸能とリンクしたりすると、地域の芸能を構成する三形式の文化要素が相互に掛け合い、新たな芸能を創造するからである。そして、漫画やアニメーションの事例に見られるように、新たな芸能は地域の事業や産業を活性化し、素人芸術家を育成することへ繋がる。この場合、重要なことは、他の地域との交流や先進的なヒト・コト・モノ・情報などの往来を活発化すること、ITを活用してグローバリゼーションとの掛け合いを展開することである。

 

2-2-2 ホスピタリティ空間

 芸能に基づき地域活性化やまちづくりを行う場合、芸能の型を中心に新たな空間を創造する。その空間について、次の内容を示すことができる。創造的な感情の自己表現を演じる演者とそれを観る観客が、非効率的な型を両者間の保障とし、自己と他者の相互依存関係や均衡関係を形成することで濃密な掛け合い空間を生み出す(21)。この掛け合い空間をホスピタリティ空間と呼ぶことにする。ホスピタリティ空間は、ギリシャにおいては円形劇場となり、日本では神社拝殿・能楽堂・相撲土俵・歌舞伎座・文楽館などを生み出した。現代においては、エンターテイメント施設やコンベンション施設なども生み出している。ここで重要なことは、施設ありきといった考え方ではなく、生成される空間が尊重されなければならないという視点である。そのためには、まず、芸能の型に基づく濃密な掛け合い空間としてのホスピタリティ空間を生み出す。次に、このホスピタリティ空間を地域活性化やまちづくりの中心に位置づける。そして、地域の固有性に則して、ホスピタリティ空間が地域に必要な施設へと昇華するのである。

 

 

(注)

(1)参考文献〔15〕を参考。

(2)参考文献〔11〕94-128頁を参考。

(3)参考文献〔9〕101-108頁を参考。

(4)参考文献〔2〕51-53頁、〔7〕53-54頁を参考。

(5)参考文献〔2〕122-124頁を参考。

(6)参考文献〔1〕16-20頁を参考。

(7)参考文献〔3〕135-150頁を参考。

(8)参考文献〔5〕177-178頁を参考。

(9)参考文献〔5〕192頁を参考。

(10)参考文献〔5〕192頁を参考。

(11)参考文献〔4〕186-187頁を参考。

(12)参考文献〔16〕100-105頁を参考。

(13)参考文献〔14〕第32図33図を参考。

(14)参考文献〔12〕を参考。

(15)参考文献〔18〕54-55頁、〔19〕97頁を参考。

(16)参考文献〔13〕103-119頁を参考。

(17)参考文献〔6〕455-457頁を参考。

(18)参考文献〔8〕を参考。

(19)参考文献〔10〕12-21頁、〔19〕98-99頁を参考。

(20) 参考文献〔20] 93頁を参考。

(21)参考文献〔17〕32-43頁を参考。

 

〔参考文献〕

〔1〕池田弥三郎(1966)「芸能」岩崎美術社.

〔2〕宇治谷猛(1988)「日本書紀(上)」講談社.

〔3〕梅原猛(1985)「日本学事始」集英社.

〔4〕折口信夫(1976)「折口信夫全集第1巻(古代研究国文学編)」中央公論社.

〔5〕折口信夫(1976)「折口信夫全集第3巻(古代研究民族学編2)」中央公論社.

〔6〕折口信夫(1976)「折口信夫全集17巻(芸能史論編1)」中央公論社.

〔7〕倉野憲司校注(1963)「古事記」岩波書店.

〔8〕後藤茂樹編(1975)「浮世絵体系八北斎」集英社.

〔9〕ジェーン・エレン・ハリゾン著/佐々木理訳「古代芸術と祭式」筑摩書房.

〔10〕神代雄一郎(2001)「間、日本建築の意匠」鹿島出版会.

〔11〕スチュアート・カウフマン著/米沢富美子監訳「自己組織化と進化の理論」日本経済新聞社.

〔12〕世阿弥作/野上豊一郎・西尾実校訂(1978)「風姿花伝」岩波書店.

〔13〕都甲潔・江崎秀・林健司(1999)「自己組織化とは何か」講談社.

〔14〕奈良県教育委員会編(1977)「春日大社本社本殿四棟外九棟中門・東御廊西及び北御廊・捻廊・幣殿・直会殿・移殿・摂社若宮神社拝舎・細殿及び神楽殿修理工事報告書」

〔15〕ニーチェ著/秋山英夫訳(1966)「悲劇の誕生」岩波書店.

〔16〕三宅和朗(2001)「古代の神社と祭り」吉川弘文館.

〔17〕山崎正和(1990)「演技する精神」中央公論社.

〔18〕山本壽夫(1994)「芸能都市をめざして」儀礼文化学会.

〔19〕山本壽夫(2002)「吉田初三郎の空間絵になるまちづくりへ一間の手法一」平凡社.

〔20〕山本壽夫(2002)「地方分権時代の戦略的地域経営(Ⅱ)」HOSPITALITY、第9号、日本ホスピタリテイマネジメント学会.

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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山本 壽夫

ヤマモト ヒサオ
やまもと ひさお 芸能都市の研究者。博士(学術)。1953年生まれ。主要著書は『独創都市の形成とマネジメント』(2007)。主要論文は「安土桃山時代に確立した日本芸術の特質およびホスピタリティ~能楽および茶道における日本文化の混在併存~」(2014)。

掲載作は、『独創都市の形成とマネジメント』(2007年、東京リーガルマインド刊)よりの抄録である。