嗚呼思ひ出せばもウ五十年の昔となツた。見なさる通り今こそ頭に雪を戴き、額に此様な波を寄せ、貌の光沢も失せ、肉も落ち、力も抜け、声もしはがれた梅干老爺であるが、是でも一度は若い時もあツたので、人生行路の踏始若盛の時分には種々面白い事もあツたので、其中で初めて慕はしいと思ふ人の出来たのは、左様さ、丁度十四の春であツたが、あれが多分初恋とでも謂ふのであらうか、まア其事を話すとしよう。
丁度時は四月の半、ある夜母が自分と姉に向ツて言ふには、今度清水の叔父様がお雪さんを連れて宅へ泊りに入らツしやるが、お雪さんは江戸育で、此処等辺の田舎者とは違ひ、起居もしとやかで、挨拶も沈着いた様子の宜い子だから、其方たちも無作法な事をして不束者、田舎者と笑はれぬ様によく気を着けるがよいと言はれた。其から又其お雪といふ娘が如何様に心立がやさしく、気立がすなほで、如何様に姿が風流で眉目容が美しからうと賞めちぎツて話された。幼少のうちは何事も物珍らしく思はれるが、殊に草深い田舎に住んで居ると、見る物も聞く物も少ない故一寸した事も大層面白く思はれる者で、母が彼様に賞めちぎる娘、たをやかな江戸の人、其人と話をする時には言葉使ひに気を着けねばならぬといふ、其大した江戸の人はまア如何な人なのであらうか? 早く遇ひたい者、見たい者、定めし面白い話もあらう、と自分の小さな胸の中に先づ物珍らしい心が起ツて、毎日此事をのみ姉と言ひかはして、珍客の来る日を待ツて居た。其中に愈前の日となると数ならぬ下女はしたまでが、「江戸のお客さま、お客さま。」と何となく浮立ツて居た。況して祖母や姉なぞは、まして自分は一日を千秋と思ツて居た。
当日は自分は手習が済むと八つ半から槍の稽古に往ツたが、妙な者で、気も魂も弓には入らず唯心の中で、「もウ来たらうか?」を繰返して居た。稽古が済むと、脱兎何のそのといふ勢ひでいきなり稽古場を飛び出したが、途中で父の組下の烏山勘左衛門に出遇ツた。
勘左衛門は至ツてへうきんな男故、自分は甚だ好きであツて、何時も途中などで出遇ふ時には好い同行者だと喜んで、冗談を言ひながら一所に歩くのが常であツた。今日も勘左衛門は自分を見ると何時もの伝で、「お坊様今お歸りですか?」と莞爾したが、自分は「うむ」と言ツた許り、ふり向きもせず突ツこくる様に通り披けたが、勘左衛門は吃驚して口を開いて、自分の背を見送ツて居たかと思ふと、今でも其貌が見えるやうで。
自分は中の口から奥へ這入ツて四辺の様子に気を着けて見たが来客の様子はまだなかツた、扨はまだなのかと稽古着の儘で姉の室へ往ツて如何したのだらうと噂をして居た。暫くするとばたばたばたといふ足音がして部屋の外から下女の声で、
「お嬢さま、お嬢さま! お客さまが、江戸の。
自分はいきなり飛び出さうとした、「静に!」姉に言はれて左様だツけと、静に玄関の方へ往ツて而してお雪といふ娘を見た。
此時娘は、叔父の後に続いて伴の女中をつれてしとやかに玄関を上ツて来た。娘は、成程、母の賞めた通り誠に美しい娘だ、脊はすらりと高く、色はくツきりと白く、目はぱツちりと清しく、真当の美人だ。黛を施し、紅粉を用ひ、盛んに粧を凝らして後、始めて美人と見られるのは其は真成の美人ではない、飾らず装はず天真の儘で、其で美しいのが真の美人だ。此時の娘の身装は旅姿の儘で、清楚とした装で飾気の気もなかツたが、天然の麗質は四辺を払ツて自然と人を照す許りであつた。其に如何様に容貌が美しくても、気象が無下に卑しい時は、如何も風采のない者であるが、娘は見るからが其風采の中に温良貞淑の風を存して居て、何処となく気高く、如何なる高貴の姫君といふとも恥かしからぬ風であツた。
其に田舎者は如何程容貌が美しくても、如何程身装が立派であツても、彼一種言ひ難き意気といふか、しなやかといふか、風流といふか? 彼一種たをやかな風を缺くものであるが、娘は其風をも備へて居た。清水の叔父は自分の父の弟で、祖母には第二番目の子だ、其故娘は自分と同じやうに祖母の孫で、加之も最愛の孫であツたさうな。其夜一同客座敷へ集まツて四方山の話を始めたが、何れも肉身の寄合であるから誰に遠慮といふ事もなく其話と言ツては藩中の有様、江戸の話、親類知己の身の上話、又は各自の小児の噂などで、左のみ面白い話でもないが、然し其中には肉身の情と骨肉の愛とが現はれて居て、歎息する事もあれば、口を開いて大笑をする事もあツて近頃珍らしい楽しみであツた。祖母はお雪や此処へといふ様な風に、目附で娘を傍へ招いて、種々な事を尋ねたり語ツたりして居たが、其声の中には最愛可愛といふ意味の声が絶えず響いて居た様に思はれた。而して祖母は娘が少さかツた時の様に今も尚抱いたり、撫でたり、さすツたりしたいといふ風で、始終娘の貌を莞爾々々とさも楽しさうに見て居たが、娘も今は十八の立派な娘故、流石にさうもなり兼ねたか、唯肩に手を掛けて、「ほんに立派な娘におなりだの、」と言ツたのみであツた。自分は祖母が自分を愛する様に此娘を愛して居る様子、と自分が祖母を慕ふ様に娘が祖母を慕ツて居る様子、とを見て何となく心嬉しく思ツた。
其翌日の事で自分は手習から帰るや否や、「娘は如何したかな?」と見ると姉の室で召伴れて来た女中と姉と三人で何やら本を見て居たが、自分を見て莞爾したので自分も其笑ひ貌に誘出されて何故ともなく莞爾した。自分は是から剣術の稽吉があるから、直に稽古着を着て、稽古袴を穿いて、竹刀の先へ面小手を挟んで、肩に担いで部屋を出たが、心で思ツた、此勇しい姿、活溌といはうか雄壮といはうか、其活溌な雄壮な風と自分が稽古に精を出すのとを娘に見せてやらうと思ツた。其から武者修行に出る宮本無三四の事を思ひ出しながら、姉の部屋へ這入ツたが、此小さな無三四は狡滑にも姉に向ツて、何食はぬ貌で、「叔父さんは?」と問ねた。姉は何とか対へて居たが自分は其様な事は聞きもせず、見ぬふりで娘の方をちらりと見て、其なり室を出て仕舞ふと後から笑ひ声が聞えた。自分の噂だなと嬉しく思ツたが、今更考へると、なんの左様でもなかツたのであらう。晩方から親類、縁者、叔父の朋友、大勢集まツて来たが、中には女客もあツた故母を初め娘も、姉も自分も其席に連ツた。其中に燭台の花を飾ツて酒宴が始まると、客の求めで娘は筑紫琴を調べたが如何して、中々絲竹の道にもすぐれた者で、其爪音の面白さ、自分は無論能くは分らなかツたが、調が済むと竝居る人達が口を極めて賞めそやした。娘は賞められて恥かしがり、此席に連ツて居るのを寧ろ憂い事と思ツて居るらしく、話もせず、人から物を言ひかけられると、言葉少に答をする許り、始終下を向いて居た。が其風は如何にも柔和でしとやかで、微塵非難をする廉も無く、何となく奥床しいので、自分は余念もなく其風に見とれて居た。
自分の父は武辺にも賢こく又至ツて厳格な人で、夏冬共に朝はお城の六つの鐘がボーンと一つ響くと、其二つ目を聞かぬ間にもウ起上ツて朝飯までは、兵書に眼をさらすと謂ふ人であツた。其故自分にも晨寝はさせず、常に武藝を励む様にと教訓された。
自分は有難い事には父のお蔭で弓馬槍剣は勿論、武士の表道具といふ藝道は何一つ稽古に往かぬ者はなかツたが、其中で自分の最も好いた者はといふと弓で、百歩を隔てて柳葉を射たといふ養由基、又大炊殿の夜合戦に兄の兜の星を射削ツて、敵軍の膽を冷させたといふ鎮西八郎の技倆、其技倆に達しようと、自分は毎日朝飯までは裏庭へ出て捲藁を射て励んで居た。
今日も今日とて裏庭へ出て、目指す的と捲藁を狙ツて矢数幾十本かを試したので、少し疲れを覚えて来た故、暫時一息を入れて居ると冷々として心地よい朝風が汗ばんで来た貌や、体や、力の張ツて来た右の腕へひやりひやりと当るのが実に心持のよい事であツた。誰でも飢ゑた時渇いた時には食物や水が甘い者であらうが、其時の朝風は実に其食物や水よりも遥に心持よく、自分は気が清々として来た。自分は弓杖を突いて……といふのも凄じいが所謂弓杖を突いて、四辺に敵も居ないのに、立木を敵と見廻して儼然として威張ツて居た。突然二つの影法師が自分の頭上を越えて目の前に現はれた、自分はふり返ツて娘と姉とを見た。
娘は足を止めて、感心に御精が出ますこと、と賞めさうな風で莞爾して清しい目を自分に注いで居た。自分は目礼をして、弓を投棄てて姉の傍へ往ツた。
「大層御精が出ますことねエ。」果して娘が賞めた。
「どうしてあなた。叱られて許り居ます、精を出しませんから。
娘が折角賞めたものを、姉が余計な口をさし入れた、自分は不平に思ツた、然し姉は流右に姉で、情のあツた者で、弟の賞められたのが嬉しかツたと見えて、莞爾して、「それでもあなた、出来ない癖に大変に好きで。」といふのを枕に置いて自分を賞め始めた。前の言葉とは矛盾したが、其処が女の癖で、頓着は無かツた。自分が幾歳の時四書をあげて、幾歳の時五経をあげて、馬を能く乗ツて、剣術が好きで、槍が如何で、弓が斯うでと、姉が自分の事を賞めたてるのを、娘は笑ひながら自分の方を見詰めて、其話を聴いて居たが、聴終ツてから、
「真成に感心ですねエ、お少さいのに。
此一言は心から出たので、自分は賞められて嬉しく思ツた。的の黒星を射抜いて、えらいと人に賞められたよりは、此人に賞められたのを嬉しいと思ツた。
「庭の方へ往ツて見ませう。秀さんもお出で。
姉と娘との間に立ツて、自分は外庭の方へ廻ツて往ツたが、見附けた。向うの垣根の外に露を含んで、さも美しく、旭光に映じて咲いて居た卯の花を見附けた。
「お姉さま、お姉さま、江戸のお姉さま! 御覧なさい。此花はね、私が植ゑたのですぜ、植ゑたてには枯れかゝツたけれど、やツと骨折ツて育てたのです、綺麗でせう?
「おやまア綺麗! 花もお好きなの? 武藝もお好き?
ト言ツて白い手を軽く自分の肩へ掛けて、一寸揺ツてそして頭を撫でたが、不思議にも、其手が触ると自分の胸はさわぎ出した。が其を見られまいと急いで、
「花は白い方が綺麗ですねエ、赤ツぽいのよりか。
「さうですね、淡白して居て。赤いのは何故おきらひ?
「何故ツて? 赤いなア平家の旗色で、白いなア源氏ですもの、源氏の方が強いから、だから……
愚にも附かぬ事を言ひながら、内庭と外庭の間の枝折戸の辺まで近附いた。と見ると花壇に五六本の白牡丹が今を盛りと咲いて居た。其花の下に飼猫の「コロ」が朝日を一杯背中に受けて、つくねんとうづくまツて居た。日向ぼこりをして居るのか、居睡をして居るのか? 「牡丹花下の睡猫は心舞蝶に在」、といふ油断のならぬ猫の空睡。此処へ花の露を慕ツて翩々と蝶が飛んで来たが、やがて翼を花に休めて、露に心を奪はれて余念もない様子であツた。油断を見すました大敵、然し憎気のないへうきん者め、前足を縮めて身構をしたが、そら、飛びかゝツた。蝶は飛退いたが、周章てて、狼狽いて、地下をひらひらと飛び廻ツて居た。が、あはや「コロ」の爪にかゝりさうになツた。
「あらまア! 彼様ないたづらを。」と娘は走せよツて、
「およし可哀さうに。
娘はしなやかに身を屈めて、「コロ」を押へながら蝶を逃がした。其から「コロ」を抱きあげてそしてやさしい手でくるくると「コロ」の頭を撫でまはした。「コロ」は叱られたと思ツたか、目を閉ぢ、身を縮め、首をすぼめて小さくなツた其風の可愛らしさ。娘は其身の貌を「コロ」の貌から二三寸離して、しげしげと見て居たが、其清しい目の中には如何様に優しい情が籠ツて居たらう。「もう蟲なんかを捕るのではないよ、」と言ツて、其美しい薔薇色の頬を猫の額へ押当て、真珠の様な美しい歯を現してゆツたりと微笑ツたが、其莞爾した風は如何様にあどけなく、如何様に可愛らしい風であツたらう! 自分は猫を羨しく思ツて余念なく見とれて居た。娘は頬の辺にまだ微笑のほのめいて居る貌を一寸ふり上げて自分の顔を見たが、其笑貌の中には、「何故其様に人の貌を見て」と尋ぬる様な風が有ツたので、あるひはなかツたかも知れぬが、自分はあツた様に思ツたので、はツと貌を赤らめて、周章てて裏庭へ逃出して仕舞ツた。が恥しい様な、嬉しい様な、妙な感情が心に起ツて何となく胸が騷がれた。
其日の七つ下りに自分は馬の稽古から帰ツて来て、又何時もの様に娘の居る座敷へ往ツて見ようと思ツたが、はてまア不思議! 恥しい様な怖い様な気がして、往きたくもあるが往きたくもなく、如何した者かと迷ひ出して、男らしくないと癇癪を起して、其処で往くまいと決心して誓まで立てたが、扨人情は妙な者で、とんと誰か来て引張る様で、自然と自分の体が動き出して、知らぬ間に娘の居る座敷の前まで来た。唐紙は開いて居た。自分は座敷の方を向きもしなかツたが、其で居て、もウ娘が自分を見たなと知ツて居たので、態と用ありさうに早足で前を通り過ぎ、其癖隣座敷の縁側で立止まツて、柱へつかまツて庭を見て居た。すると娘の居る座敷で誰か立上る様な音がしたが、直其音が近附いて来た。自分の胸はときめいた、注意はもウ其音一つに集ツて仕舞ツて心は目の前に其人の像を描いて居た、其人の像はありありと目の前に見えるのに、其人は自分の背へ立ツて、いたづらな、自分の頚毛を引張ツて、
「秀さん、好い物をあげるから入らツしやい。
「好い物?」好い物とは嬉しい、と思ひながら、嬉しさに殆んど夢中になり、後に続いて座敷へ這入ると紙へくるんだ物をくれた。開けて見るとあたり前の菓子が嬉しい人から貰ツた物、馬鹿な事さ、何となく尊く思はれた、破さない様に、丁寧に、静と撫でる様に紙へくるんで袂へ仕舞ふのを、娘はぢツと見て居たが莞爾して、
「秀さん好い物を拵えて上げませう。
「どうぞ。
娘は幾枚となく半紙をとり出して、
「そら宜うございますか、是が何になるとお思ひなさる、是がね」ゆツたりした調子で話し始めた。「是は、そらね、是を斯う折ツて、此処を斯うすると、そうら、一つの鶴が出来ますよ、そら今出来ますよ、そうら出来た。
娘は鶴を折ると其から舟、香箱、菊皿、三方などを折ツてくれた。自分は娘が下を向いて折物に気を取られて居る間、其雪の様な白い頚、其艶々とした緑の黒髪、其細い、愛らしい綺麗な指、其美しい花の様な姿に見とれて、其袖のうつり香に撲たれて、何も彼も忘れて仕舞ひ、唯もウうツとりとして、嬉しさの余り手を叩きたい程であツた。
「お姉さま。折方を教へて下さいな。
其から自分は折方を習ツて、二三度試して見たが出来なかツたので、娘は「真当に此子は不器用な人だ。」と笑ひながら、いやという程自分の手を打ツた、痛かツた、痛さが手の筋へ染み渡ツた、が痛さと一所に嬉しさも身に染み渡ツた、嬉しいから痛いのか、痛いから嬉しいのか? 恐らく痛いから嬉しいので……まア如何でも宜いとして、痛さが消えぬ様に打たれた処を静と撫でた。
此処へ姉が這入ツで来て、
「秀さん何をしてお在でだ。
娘は莞爾して姉に向ひ、
「如何も此子は不器用で不可ません。
「此様な者は出来なくツてもいゝや。
「出来なくツてよければ、何故教へてくれと言ひました? 我儘子め!
娘は口元で笑ひながら額越に睨む真似をした。自分は我儘子と言はれるのよりは、何とか外の名を附けて貰ひたかツた。
其夜の事で、まだ暮れてから間もない頃自分は何の気もなしに、祖母の室へ遊びに往ツた。すると祖母を初めとして両親も居れば叔父も娘も居て何か話して居たが、自分を見ると父が眉に皺を寄せて、「彼方へ往ツてお在で。子供の聞く様な話ではない。」と儼然として言ツた。が自分は此場の様子を怪んで、物珍らしい心から出るのを少し躊躇して居ると、娘が貌をふり上げて清しい目で自分を見た、其の目の中には、「早く出て往ツて……」といふ様な風があツた。一寸見た娘の一目は儼然として言はれた父の厳命より剛勢だ、自分は娘の意に従ひ直に室を出たが、其でも今室へ這入ツた時ちらりと皆の風が目に止ツた。父は叔父に向ツて「左様さ、若年にしては中々感心な人で。」などと話して居た。又娘は下を向いて膝を撫でて居ると、祖母と母とが左右から其貌を覗き込んで、何をか小声でたづねて居た。自分は室を出てから、何を皆は話して居るのか、何故又自分が居てはわるいのか? と思ツたが、なアに、思込んだのではない、ほんの目の前を横ぎる煙草の煙、瞬を一つしたら直ぐ消えて仕舞ツた。
元来此日は、自分は何となく嬉しくいそいそとして居た。然し何故嬉しかツたのか其理は知らなかツた、が何がなしに嬉しかツたので臥床へ這入ツてからも何となく眠るのが厭で、何となく待たるゝ者がある様な気がするので、其癖其待たるゝ者はと質されるとなに、何もないので、何も無いと知ツて居るが、其処が妙な訳で、夢現の間で慥有る様に思ツて居るので、如何も臥るのが厭であツた。其故床の上に坐ツて居ると、そら、娘の姿がちらちら目の前に現はれて来た。莞爾と笑ひながら自分の手を打ツた時の貌、其目元、口元で笑ひながら額越に睨んだ貌、其りきんだ目付、まア何よりも其美しい姿容が目の前にちらちらし始めた。自分は思ひ出し笑ひをしながら、息も静にして、其姿が逃げて往かぬ様と、荒く身動きもせず、そろそろ夜具の中へもぐり込んで、昼間打たれた手の処を静と頬の下へ当がツて、其儘横になツたが、何時眠ツたか其も知らず心地よく眠入ツて仕舞ツた。
自分は此時からといふ者は娘の貌を見て居る間、其声を聞いて居る間、誠に嬉しく又楽しく、ついうからうからと夢の間に時を過して居た。斯うは謂ふものの娘が居ないとて、夢聊かふさぐなぞと謂ふ事はなかツた。何を言ツても自分はまだ十四の少年、自分と娘とは年が如何程違ツて居て、娘は自分より幾歳の姉で、自分は娘の前では小児であるといふ事、又娘は只一時の逗留客で日ならず此土地を去る人といふ事、自分は娘を愛して居るのか、将亦娘は自分を愛して居ないのかといふ事、総て是等の事は露程も考へず、唯現在の喜びに気を取られて、其を楽しい事に思ツて居た、が其喜びは煙の如く、霧の如く、霞の如くに思はれたので、如何かすると悲しくなツて来て、時々泣出した事もあツたが、なに、其だとて暫時の間で、直又飛んだり躍ねたりして、夜も相変らずよく眠ツた。
叔父は僅に一週の休暇を賜はツて来たので、一週の時日はほんの夢の間の様であツた。もウ明日一日となツて、自分は娘にも別れなければならぬかと、何となく名残惜しく思ツたが、幸ひ叔父が三日の追願ひをしたので、尚二三日は此方に滞留して居る事となツた。然るに其夜の事で母と祖母との間に誠に嬉しい話が始まツた、其を何かといふと斯うで、もウ二三日過ぎると叔父も江戸へ帰るに因り、何か江戸土産になりさうな、珍らしい面白い遊戯を娘にさせて帰したい、が何が宜からうと二人が相談を始めた。然し面白い遊と言ツた所が此草深い田舎では、五節句、七夕、天王祭でなくば茸狩蕨採、まア此様な者で、其を除いては別段是ぞといふ遊もない、けれども今は四月二十日、節句でもなければ祭でもない、遊戯と言ツては蕨採のみだ、蕨採と言ツた所が左のみ面白い遊戯でもない、が摺鉢の様な小天地で育ツて居る見聞の狭い田舎の小児には、其が大した遊戯なので、又江戸の様な繁華な都に住んで居て野山を珍らしく思ふ人には矢張面白い遊戯なので、其故愈蕨採に往くことに極り、其事を知せた時には一同歓喜の声を上げた。
扨其夜は明日を楽みに各臥床に這入ツたが、夏の初とて夜の短さ、間もなく東が白んで夜が明けた。
其日の四つ頃やうやうに支度が出来て、城下を去ること半里許りの長井戸の森をさして出掛けた。同勢は母と、姉と、娘と、自分と、女中二人に下部一人、都合七人であツた所ヘ、例の勘左衛門が来合せて、私もお伴をと加はツたので、合せて八人となり、賑やかになツて出掛けた。
家敷の郭を出て城下の町を離れると、俗に千間土堤といふ堤へ出たが、此堤は夏刀根川の水が溢れ出る時、其をくひ止めて萬頃の田圃の防ぎとなり、幾千軒の農家の命と頼む堤であるから、随分大きな者である、堤の上許りでも広い処は其幅十間から有る、上から下へ下りるには一町余も歩かねば平地にはならぬ、まア随分大きな堤だ。堤の両側は平一面の草原で、其草の青々とした間からすみれ、蒲公英、蓮華草などの花が春風にほらほらと首をふツて居ると、其を面白がツてやら、蝶が翩々と飛んで居る。右手は唯もウ田畑許り、此方の方には小豆の葉の青い間から白い花が、ちらちら人を招いて居ると、彼方には麦畑の蒼海が風に波立ツて居る処で、鳴子を馬鹿にした群雀が案山子の周囲を飛び廻ツて、辛苦の粒々を掘つて居る。遠くには森がちらほら散ツて見えるが、其蔭から農家の屋根が静に野良を眺めて居る。蛇の様なる畑中の小径、里人の往来、小車のつづくの、田草を採る村の娘、稗を蒔く男、釣をする老翁、犬を打つ童、左に流れる刀根川の水、前に聳える筑波山、北に盆石の如く見える妙義山、隣に重ツて見える榛名、日光、是等は総て画中の景色だ。鄙の珍らしい娘の目には流石に此景色が面白いと見えて、度々あゝ好い景色と賞めた。
途中で出遇ツた人も稀であツた。初め出遇ツたのが百姓で、重さうな荷をえツちらおツちら背負ツて居たが、態々頬冠を取ツて会釈して往過ぎた。次に出遇ツたのが村の娘で、土堤の桑の葉を摘みに来たのか、桑の葉の充満ツた目籠を各自小脇に抱へて居たが、我々を見るとこそこそ、土堤の端の方へ寄ツて、立止まツて、「彼は何処様の嬢様だが、何処さアヘ往かツせるか、」などと噂をして居た。其次に見掛けたのが農家の小児で、土堤で余念なく何やら摘んで居たが、其中一人が何か一言言ツたのを合図に、真暗三宝駆出した、其れから土手の半腹まで往き、遥に此方をふり向いたが、上から勘左衛門が手招をしたら、又わイわイと言ツて一目散に駆下りて仕舞ツた。
勘左衛門の来たのは我々の興を増す種であツた。此男が歩きながら始終滑稽を言ツて居たので、途中は少しも退屈せず何時の間にか境駅の此方の渡場まで来た。渡守は我々の姿を見るといきなり小屋から飛び出して、二つ三つ叩頭をしてそして舟を出した。
此処は川幅は六七町もあらうか、是から上になると十四五町もあらう、大刀根、小刀根、と分れる処で其幅最も広い処だ。娘は姉に向ツて言ふには、「此頃江戸で名の高い馬琴といふ作者の書いた八犬伝といふ本を読みましたが、其本に出る人で……」と彼犬飼犬塚の両犬士が芳流閣上より転び落ちて、つひ行徳へ流れついた事を話して、其犬士の流された処も此処等であらうかなどと話して居る中、船は向うの岸へ着いた。其から上陸して境駅の入際から直横へ切れると、森の中の小径へ掛ツた。両側には杉、檜、楢などの類が行列を作ツて生えて居るが、上から枝が蓋さツて居て下に木下闇が出来て居る、其小径へ掛ツた。
「もウ直其処から這入るのです。さア皆さん採りッこをしませう。」と勘左衛門が勇み立ツた。尤も態と、
「秀さん宜うございますか、」娘は笑ひながら「まけませんよ。
「えゝ、宜うございますとも。負けるもンか女なんぞに。
長井戸の森は何里位続いて居たか、自分はよく覚えて居らぬが、随分大きな森であツた。扨森の中の小径を凡そ二三町も這入ツて往くと、葉守の神だか山の神だかえたいの分らぬ小さな神の祠の前へ出た、是が森の入口なので。森の中へ這入ツて見ると、小草の二三寸延びた蔭又は蚊帳草の間などから、たをやめの書いた仮名文字ののしといふ恰好で、蕨が半身を現はして居た。我々は是を見ると、そら其処にも! おゝ大層に! ほら此処にも! なんとまア! などと頻りに叫びながら小躍りをして採始めた。初の中は皆一処で採ツて居たが、忽ち四五間七八間と離れ離れになツて採始めた。而して一本の蕨を二人が一度に見附けた時などは、騒ぎであツた。
「あれ私が見附けたのだワ!
「あらまア! お嬢様。おずるい。是は私が見附けました。
「お雪さま、清にお負けなさいますな。
左様かと思ふと彼方の方では「おや何処へ往ツたらう?」「此方、此方!」などと手を叩いて居た。又蕨に気をとられて夢中で居ると、突然足下から雉子が飛出したのに驚かされたり、其驚かされたのが興となツて、一同笑壷に入ツたりして時のうつツたのも知らず、愈奥深く這入ツて往ツた。不意に人声が聞え出した。何処から聞えるのだか? 方々を見廻すと、遥か向うの木の間から煙が細く、とんと蛇の様に立昇ツて居た。
我々は行くともなく、進むともなく、煙の立つ方へ近づいた。すると木の間から三人の人影が見えた。二人の男は紺の脚絆に切緒の草鞋といふ厳重な足ごしらへで、白襟花色地の法被を着て居た、向う向きの男は後からでよく分らなかツたが、打割羽織を着て居て、加之其下から大刀の鞘と小刀の小尻とが見えて居た様子といひ、一壇高き切株へどツかと腰を打掛けて、屋台店の蟹と跋扈かツて居た為体といひ、如何様此中の頭領と見えた。
我々の近づくのに気が着いたか、件の男は此方をふり向いた。見覚えの貌だ、よく見れば山奉行の森といふ人で、残の二人は山方中間であツた。
山奉行といふのは、年中腰弁当で山林へ出張して、山林一切の事を管督する役で、身柄のよい人の勤むる役ではない、其故自分等に対しても、自然丁寧なので。
森は自分を見ると、満面に笑傾けて而して立上ツて、
「おや、秀さん、蕨採ですかな? 大層大勢で。採れますかな? どらどらお見せなさい。
其中に一同も近づいて来た。森は二歩三歩前へ進み、母を初め姉や娘に向ツて、慇懃に挨拶をして、其から平蜘蛛の如く叩頭をして居る勘左衛門に向ひ、
「今日はお伴かな、御苦労だの、」と言ツて、其から又下女の方ヘ向いた、が物は言はず、唯挨拶に笑貌を見せて、直又母の方へ向き、
「如何でござりまする、ちと小屋へ入らしツて御休息をなすツては。はいはいいや誠に汚穢くるしい処で……が……渋茶でも献じませう。こりや八助、何かを取揃へて持ツて参れ、身共は小屋へ参るから。さ御案内致しませう。
時刻は八つ頃でもあツたか、此辺は一面の杉林で、梢の枝は繁りに繁ツて日の目を蔽す許り、時々気まぐれな鳩が膨声で啼いて居るが、其声が木精に響いて、と言ふのも凄じいが、四辺の樹木に響き渡る様子、とんと山奥へでも往ツた様で、なんとなく物寂しい。林中の立木を柱に取ツて、板屋根をさしかけたほツたて小屋、是は山方の人達が俄雨に出遇ツた時、身をかくす遁場所で、正面には畳が四五畳、但したゝといふもみのないほどの汚らしい者、其から前が土間になツて居て、真中に炉が切ツてあらうといふ書割。
母と、森と、勘左衛門の三人が三鉄輪に座を構へて、浮世雑談の序を開くと、其向うでは類は友の中間同志が一塊となツて話を始めた。其処で自分は少し離れて、女中連の中へ這入込み、此方の一方へ陣取ツた。
「秀さん。」娘は笑ひながら、「和子如何位採りました、お見せなさい。おや僅其切、少ないことねエ、私の方が多うございますよ、そウら御覧なさい、勝ちましたよ私の方が。
自分は此時姉が其身の採ツたのを娘のと一所にした所を見た。
「あゝ、ずるいずるい、家の姉さんのを混ぜたのだもの。
「あら、あんなこと。ほゝゝゝ、混ぜはしませんよ。
「いゝえ、混ぜました、混ぜましたよ、見て居ましたからね。
「あら。まア、卑怯な、男らしくもない、負けたものだから其様な事を。
其中に渋茶が這入ると、兼て中間に持たせて来た鮓を今日の昼食として、尚四方山の話をして居た。
其時勘左衛門の話に、此へうきん者が検見の伴をして、村々を廻ツて、或村で休んだ時、脚絆の紐を締直すとて、馬鹿な事さ、縁台の足ぐるみ其紐を結び付けて、而して知らずにすましきツて、茶を飲んで居たが、其中上役の者が、いざ、お立ちとなツたので、勘左衛門も急いで立上ツて足を挙げると、不可、挙げる拍子に縁台が傾いたので、盆を転覆して茶碗を破したが、未だに其が一つ話でと、自身を物語ツたのを、我々一同話を止めて、可笑しな話と聞いて居たが、実に此男は滑稽家でもあツたが、又そゝくさした男でも有ツた。
扨暫く此処に休んで居たが、自分達の組が大人を催促して、山奉行に別れて、再び蕨採に出掛けた。今度は出掛けるや否や、直ちりぢりになツて採始めた。自分は娘の傍を離れず、娘が採る度に自分の採ツたのと比較して見て、負けまいと思ツて励んで居たが、此時はもウ蕨に気を採られて、娘の事は思ツては居なかツた、ト言ツて忘れても居なかツたので、娘の傍に居るといふ事は、暗に知ツて居たので、所謂蟲が知ツて居たので、其瓢るふりの袂、其蹴返す衣の褄、其たをやかな姿、其美しい貌、其やさしい声が目に入り耳に聞えるので、其人の傍に居ると何処か幽に感じて居たので、其故一層楽しかツた。不意に自分は向うの薄暗い木の下に非常に生えて居る処を見つけた。嬉しさの余り、声を上げながら駆け寄ツて、手ばしこく採らうとすると、娘も走けて来て採らうとするから、採ツては不可と娘をさゝヘて、自分一人で採らうとした、が不可かツた、自分は今まで採溜めたのを風呂敷へ入れて提げて居たが、其を今すツかり忘れて、其風呂敷を手離して、娘と手柄を争ツたので、風呂敷の中から採ツたのが溢れて、四方に散るといふ大失敗、周章てて拾集める中に、娘は笑ひながら、一つも残さず採ツて仕舞ツた。自分が見附けたのを横取するのは非道い、返して下さい、と争ツて見たが、娘は情強く笑ツて居て、返しさうもないから、自分は口惜くなり、やツきとなり、目を皿の様にして、沢山ある処をと見廻した、運よく又見つけた、向うの叢蔭に、が運わるく娘も見つけた。や負けた、娘が先へ走り寄ツた。唐突に娘があれエと叫んだ、自分は思はず吃驚した、見れば、もウ自分の傍に居た、真青になツて、胸を波立たせて、向うの叢を一心に見て。自分は娘の見て居る処、其叢を見ると、草がざわざわと波立ツて、大きな青大将がのそのそと這ツて往ツた、暫くして娘はほツと溜息を吐いて、あゝ怖かツた、と莞爾して而して四辺を見廻して、又おやと言ツた。先の驚きがまだ貌から消えぬ中に新しい驚きが其心を騒がしたので、以心伝心娘の驚きが直自分の胸にも移ツた。見れば四方に誰も居ない。母を呼び又姉を呼んで見たが、答ふる者は木精の響き、梢の鳥、唯寂然として音もしない。
「何処へ皆さんは往きましたらう。」心配さうな声で、「ついうツかりして居て、
「さうですねエ……
「立ツて居ても仕方がありませんから、まア向うの方を尋ねて見ませう。
蕨はもウ其方除、自分は娘の先へ立ツて駆けながら、幾度も人を呼んで見たが、何の答へもなかツた。
「此方の方では無かツたかしらん。」娘は少し考へて居て、「彼方かも知れません、秀さん、彼方へ往ツて見ませう。
走出して見た、が見当らぬ、向うかも知れぬ、と又其方へ走出して見たが見当らぬ、困ツた。娘はさも心配さうに頻りと何か考へて居たが、心配さうな小さな声で、
「秀さん、貴君、道を知ツて居ますか?
自分とて此辺はめツたに来た事のない処、道を知らう筈はない、が方角丈は漸々と考へついた。
「いゝえ、よくは知らない、けれど此方の方が境だから右の方へずんずん往きやア、あの、屹度境へ出るから、さうすりやア、もう訳はない。若しか見つからなきやア、なんの、先へ歸ツてしまひませう。
娘は暫く考へて居たが、少しは安心した様子であツた。
「若し先へ歸ツたら、きツと皆さんが心配しませう。其に折角一所に参ツたものを」……少し考へて居たが、「まア此方の方へ往ツて見ませう、もう一度、今度は何処までも往ツて見ませう。よウ、何を茫然して……秀さん。
又歩き出した。
少年の頃は人里離れた森へなど往くのは、兎角凄い様に思ふものだが、まして不知案内の森の中で、加之も大勢で騷いで居た後、急に一人か二人になツて、道に迷ひでもすると、何となく心細くなる者で。自分も今日の様な事に若し平常の日に出遇ツたならば、定めて心細く思ツたのであらう、が然し愛といふ者は奇異な者で、縦ひ此時自分は娘を慕ツて居たと知ツて居なかツたにしろ、}隠然と愛が存して居たので心細いとは思はなかツた、寧ろ此娘と僅二人、人里を立離れた深林の中に手を携へて居ると思ふと、何となく嬉しい心持がして、寧ろ連の者に見附からなければ宜いといふ様な、不思議な心持が何処にかあッて、而して二人して扶けあツて、木の根を踏こえて走けて往くのを、実に嬉しいと思ツて居た、自分は二町程といふ者は、何の余念もなく唯うかうかと、殆んど夢中で走ツて往ツた。すると突然目の前に大きな湖水が現はれた。
遥に向うを見渡すと、森や林が幾里ともなく続いて居るが、霞に籠ツて限りもなく遠さうだ、近い処の木は梢を水鏡に写して倒に水底から生えて居るが、其水の青さ、如何にも深さうだ、薪を積上げた船や筏が湖上を彼地此地と往来して居るが、如何様林から切出したのを、諸方に運送する者らしい。日はもう七つ下り、斜に水を照らし森を照らして、寔に佳い景色である、がもう見る気はない、娘が貌に失望の意を現はして、物をも言はず、悄然として景色を眺めつめて居るのを見ては。
「おや、此様な大きな沼がある様では……此方でもなかツたと見えますねエ、為方がない、後へ戻りませう。
娘は歎息したが如何も仕方がない、再び踵を廻らして、林の中ヘ這入り、凡そ二町余も往ツたらうか、向うに小さな道があツて、其突当りに小さな白屋があツた。娘は此家を見ると、少し歩くのを遅くして、考へて居る様子であツたが、
「秀さん、丁度宜い。彼処の家へ往ツて頼んで、皆さんを尋ねて貰ひませう。其に皆さんも私達を尋ねて、萬一彼家へでも尋ねて往ツて、若し私達が来たら止めて置く様にと頼んであるかも知れません、まア彼家へ往ツて見ませう。
自分は異議なく同意して、いきなり其家へ飛込んだ。家では老夫婦が絲を取り、草鞋を作ツて居たが、我々を見て吃驚した様子。自分は老婆に向ひ、
「おイ婆やア、誰か尋ねて来なかツたかい、予達を。
「はアい、誰もござらツさらねエでしたよ。」老婆は不審さうに答へた、「誰か尋ねさツしやるかナ、お坊様。
「蕨採に来たのだが、はぐれて仕舞ツたの、連の者に。おイ、老爺や、探して来てくれないか、一寸往ツて。
自分が唐突に前後不揃の言葉で頼んだのを、娘が継足して、始終を話して、「お気の毒だが見て来て、」と丁寧に頼んだ。
「それエ定めし心配して居さツしやろう、これエ爺様よう、ちよツくら往ツて見て来て上げさツせいな。」
最前から手を休めて、老爺は不審さうに見て居たが、
「むゝ見て来て上げべい。一走り往ツて、
ト言ツたが、中々おちついた者で、其から悠然と、ダロク張の煙管へ煙草を詰込み、二三吹といふ者は吸ツては吹き出し、吸ツては吹き出し、其から徐々立上ツて、どツかと上端へ腰を掛けて、ゆツくりと草鞋を穿き出した、穿いて仕舞ふと丁寧に尻を端折ツて、扨其処で漸と自分に向ツて、
「坊様、何地等の方でさアはぐれさしツただアの?
自分は方角を指示した。老婆は老爺の出て往くのを見送り、其から花筵を引出して来て、
「さア嬢様。お掛けなせいまし、其処はえらく汚ねエだがら。さお坊様掛けさツさろ。
「婆やア湯をおくれ、気の毒だが。
「湯かなう? 今上げますで、少し待たツせい、一ツくべ吹ツたけるから。
老婆が鑵子の下を吹ツたける間、自分は家の内を見廻した。此家は煤だらけに燻ぶり返ツて、見る影もないアバラス堂で、稗史などによく出て居る山中の一軒家といふ書割であツた。其中に鑵子の湯は沸返ツたが、老婆は、ヒビだらけな汚い茶碗へ湯を汲んで、其を縁の缺けた丸盆へ載せて出した。自分は喉が渇いて居たから、器のきたないのも何も知らず、ぐツと一息に飲み、尚三四杯立付に飲んだ、娘は口の傍へ持ツて往ツて見て少し躊躇ツて居たが、其でも半飲干した。此時自分は、「扨も鑵子の湯は甘い者だ、」と思ツた。
此老婆は誠に人のよささうな老婆で、いろいろな事を話掛けるので、娘は其相手をして居た。自分は又斯る山家へ娘と二人で来て、世話になるといふのは、余程不思議な事で何かの縁であらうと思ツた。其が考への緒で、種々の事を思ひ出した。即ち、斯様な山中で、竹の柱萱の屋根といふ、此様な家でも宜いに因ツて、娘と二人して居たいと思ツた。すると其連感で、自分は娘と二人で此家の隣家に住んで居る者で、今一寸遊びにでも来た者の様な気がした。すると又娘の姿が自分の目には、洗晒の針目衣を着て、茜木綿の襷を掛けて、絲を採ツたり衣を織ツたり、灌洗濯、きぬた打、賤の手業に暇のない、画にある様な山家の娘に見え出した、いや何となく其様に思はれたので。其故自分は連にはぐれて、今此処へ来て居る者だなどといふ事は、殆んど忘れた様になツて居た。不意に表の方が騒がしくなツた。
自分は覚えず貌を上げて而して姉を見た。
「おゝ秀坊が!
第一に姉が叫んだ。
誰しも苦痛心配は厭ひであるが楽になツてから後、過去ツた苦痛を顧みて心に思ひ出した程、又楽の事はない、其と大小の差はあるが、心持は一つだ、昼間自分達のはぐれたのは、一時は一同の苦痛であツたが、其夜家へ帰ツてから、何かに付けて其事を言ひ出しては、其が笑ひの種となり、話の種となツた時には、却て一同の楽となツた。自分は娘が嬉しさうな貌をして、此話をして居る様子を見て、何となく喜ばしく、而して娘も苦痛を分けた人であると思ふと、一層喜ばしく、其日の蕨採は自分が十四歳になるまでに絶えて覚えない程の楽であツた、と思ツた。然し悲喜哀歓は実に此手の裏表も同じ事、歓喜の後には必ず悲が控へて居るのが世の中の習はし。平常は自分は何時も稽古に往ツて居て、夜でなくては、家には居ない、其故何事も知らずに居たが、今宵初めて聞いた、娘は今度逗留中兼て世話をする人があツて、其頃我郷里に滞在して居た当国古河の城主土井大炊頭の藩士某と年頃といひ、家柄といひ、丁度似つこらしい夫婦故、互に滞留して居るこそ幸ひ、見合をしてはと申込まれたので、元より嫁入前の娘の事故、叔父も忽ち承諾して見合をさせた所、当人同志の意にも叶ひ、殊に婿になる人が大層叔父の気に叶ツたとやらで、江戸へ歸ツたらば、更に支度をさせて、娘を嫁入らせるといふ事を聞いた。
之を聞いた自分の驚きは如何様で有ツたらう、五分も経たぬ中、自分はもウ我部屋で貌を両手へ埋めて、意気地もなく泣いて居た。
其夜臥てから奇妙な夢を見た。但見れば、自分は娘と二人で何処かの山路を、道を失ツて、迷ツて居る。すると突然傍の熊笹の中から、立派な武士が現はれて、物をも言はず娘を引さらツて往かうとした。娘は叫ぶ、自分は夢中、刀へ手を掛ける、夢中で男へ切付ける、肩口ヘ極深に、彼奴倒れながら抜打に胴を……自分は四五寸切込まれる、ばツたり倒れる、息は絶える、娘はベツたり其処へ坐ツて、自分の領をかゝヘ抱き起して一声自分の名を呼ぶ、はツと気がついて目を覚す……覚めて見ると南柯の夢………静と目を開いて室を見廻して、夢だなと確信はしたが、然し其愛らしい優しい手が自分の領を抱へて、自分が血に汚れるのも厭はず、血みどりの体を抱き起して、蕾の様な口元を耳の傍へ付けて、自分の名を呼んだ時の貌、其貌はありありと目に見える、其に領は、如何しても、僅今まで抱へられて居た様な気がする、静と領へ手をやツて見ると、温い、静々室の内を見廻して見たが、如何も娘が居た様で、移香がして居る様な気がする、さアさう思ふと、気が休まらぬ。床の上へ起直ツて耳を清して見ると、家内は寂然として居て、鼠の音が聞える許り……自分は暫く身動かしもせず、黙然として居たが、ふと甲夜に聞いた事を思ひ出して、又何となく悲しくなツて来た。
扨翌日となツた、明日の晩は叔父も娘も船路で江戸へ帰るから、今宵一夜が名残であると、僅か十里か十五里の江戸へ往くのを天の一方へでも別れる様に思ツて、名残を惜む一同が夜と共に今宵を話し明さうと、客座敷へ寄集まツた。自分は悲しさやる方なく、席ヘ連るのも気が進まぬ故、心持がわるいと名を付けて、孤燈の下に吾影を友として、一人室の中ですねて居た、が暫時は斯うして居た様な者の其中に、娘は如何したか、といふ考へが心の中でむずついた。もウ棄てては置かれぬ、そツと隣座敷まで往ツて這入らうか、這入るまいか、と躊躇ひながら客座敷の様子を伺ふと、娘は面白さうに頻りに何か話して居た。自分の事などは夢にも思ツて居ない様で。斯う思ふと気がもしやくしやとして来た、直に踵を廻らして室へ戻り、机の上へ突伏して只訳もなく泣いて居た。暫く経つと、唐紙の開く様な音がして、誰だか室へ這入ツて来た、見れば姉で、祖母さまが彼方へ来いと言ふからお出で、と言ツて種々勧めた。自分の本心は往きたかツたので渡に舟といふ姉の言葉、直往けば宜かツたが、其処が我儘子の癖で、お泣きでないよ、と優しく言はれると、愈泣出したがる様な者で勧められる程愈すねて、
「厭だと言ツたら厭だい。馬鹿め。
姉はあきれて往ツて仕舞ツた、もう往く機会は絶えた、一層我身を悔んで吾と吾身に怒ツて居ると、次の間へ人の足音がして隔の襖が開いた。姉だと思ツてふり向きもせず、知らぬ貌をして居ると、近付いた人は叱る様な調子で、
「何をしてお在でなさるの、」と言ツて自分の手を押さへて、「其様な悪戯をする者ではありませんよ。
自分は此時癇癪を起して、小刀で机を削ツて居たので……又削らうとした。
「よすものですよ。」と言ツて自分の泣貌を見て、「おや、如何なすツたの。何を泣いて居なさるの。え。え。
自分は是を聞くと、訳も道理もなく悲しくなツて来て、唯さめざめと泣出した、すると娘は自分の肩へ手を掛けて、机に身を寄せかけて、清しい目を充分に開いて、横から自分の貌を覗き込んで、
「何故お泣きなさるの、何か悲しい事があるの。え。お腹でも痛いの。え、え、気分でもわるいの。
自分は首をふツた。
「左様ではないの。其では如何しなすツたの、泣く者ではありませんよ。よ。よ。
自分は袖でいきなり泣貌をこすツて、
「お姉さま……貴嬢は……あの明日もウ帰るんですか……如何しても。
娘はしげしげと自分の貌を見て居たが、物和かに、
「秀さん、其で和子泣いて居たの。
首をかしげて問ねたが、自分が黙ツて居たのを見て、自分の頭を撫でようとした、自分は其手をふり払ひ、何か言ツてやらうと思ツたが、思想がまとまらなかツた。
「お姉さま、貴嬢は……、あの、あの悲しくも何ともないの……皆に別れるのが。
娘は眉を顰めて、不審さうに自分の貌を見て居たが、
「おや何故? 悲しくない事はありませんが、もウ父上も帰らなければなりませんし……其に種々」言はうとして止め、少し考へて居て、「秀さん、私ももウ今夜ぎりで帰るのですから、仲よく遊びませう。ね。さア。もウ泣く者ではありません、さア泣き止んで。
あゝ何として泣かれよう、自分の耳には娘のいふ一言一言が、小草の上を柔かに撫でて往く春風の如く、聞ゆるものを、其優しい姿が前に坐ツて、其美しい目が自分を見て、而して自分を慰めて居るものを、あゝ何として泣かれよう。五分も経たぬ内、自分はもウ客座敷で、姉や娘と一所になツて笑ひ興じて遊んで居た。
翌日の晩方自分は父と諸共に、叔父と娘とを舟に乗込むまで見送ツたが、別の際に娘は自分に細々と告別をして再会を約した。自分は父と竝んで岸辺に立ツて、二人が船へ乗込むのを見て居たが、其時の心持は如何様であツたらう、親兄弟にでも別れる様に思ツた、而して其別れる人の心は何人の事を思ツて居るのかと思ふと、尚悲しさも深かツた。娘が桟橋を渡ツて、愈船へ乗込まうとして、此方をふり向いて、
「叔父様、御機嫌よろしう。左様なら秀さん。
ト言ツた声、名残に残した其声がまだ四方に消えぬ内、姿は船の中へ隠れてしまツた。
無情の船頭、船のもやひを解いて棹を岸の石に突立てる、船は岸を離れる、もう是が別。父も悄然として次第に遠くなる船を見詰めて居る様子……すると船の窓から貌を出した、誰であらうか、此方を眺めて居る、娘ではないか。情を知らぬ夕霧め、川面一面に立籠めて其人の姿をよく見せない、彼が貌かといふ程に、只ぼんやりと白い者が、ほんの幽に見える許り。あゝ其さへ瞬をする間、娘の姿も、娘の影も、それを乗せて往く大きな船も櫓拍子のする度に狭霧の中に蔽はれて仕舞ふ、あゝ船は遠ざかるか、櫓の音ももウ消え消え、もウ影も形も……櫓の音も聞えない、目に入る者は刀根川の水が只洋々と流れるばかり……
* * *
娘は江戸へ帰ツてから、程なく古河へ嫁入したが、間もなく身重になり、其翌年の秋蟲気附いて、玉の様な男子を産落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を一期として、自分に向ツて別れる時に再会を約した其言葉を、意味もない者にして仕舞ツた。然し曾て娘が折ツてくれた鶴、香箱、三方の類は、いまだに遺身として秘蔵して居る。
嗚呼皆さん、自分は老年の今日までも其美しい容貌、其優美な清しい目、其光沢のある緑の鬢、就中おとなしやかな、奥ゆかしい、其たをやかな花の姿を、ありありと心に覚えて居る……が……悲しいかな、其月と眺められ花も及ばずと眺められた、其人は今何処にあるか。其なつかしい名を刻んだ苔蒸す石は依然として、寂莫たる処に立ツて居るが、其下に眠る彼人の声は、また此世では聞かれない、然し斯くいふ白頭の翁が同じく石の下に眠るのも、あゝもウ間のない事であらう。寔に人間の一生は春の花、秋の楓葉、朝露、夕電、古人已にいツたが、今になツて益々さとる。初めて人をなつかしいと思ツた、其蕾の頃は勿論、やうやう成人して、男になツて、初めて世の中へ出た時分は、扨々無心なもの気楽なもの、見るもの聞く物皆頼母しい、腕はうなる、肉はふるへる、英気勃々として我ながら禁ずる事が出来ない、何処へ如何此気力を試さうか、如何して勇気を漏さうかと、腕を摩ツて、放歌する、高吟する、眼中に恐ろしいものはない、出来なささうな物もない、何か事あれかし、腕を見せようと、若い時が千萬年も続く様に思ツて、是もする、あれもしたいと、行末の註文が山の様であツたが、嗚呼其若い時といふは、実に、夏の夜の夢も同然、光陰矢の如く空しく過ぎ、秋風淅々として落葉の時節となり、半死の老翁となツた今日、遥に昔日を思ひ出せば、恥づべき事、悲しむべき事、殆んど数ふるに暇がない。嗚呼少年の時に期望した事の中で、まア何を一つ仕出かしたか、少壮の頃にさへ何一つ成遂げなかツた者が、今老の坂に杖突く身となツて、果して何事が出来ようぞ、最早無益だ、最早光沢も消え、色も衰ヘ、只風を待つ凋れた花、其風が吹く時は……