雪月花
定家卿の思想 あかざりしかすみの衣たちこめて袖のなかなる花のおもかげ
紅千鳥の枝をゆすって、
治承四年二月五日、十九歳。
「明月記」最初のページに墨がとじこめられた。
なだれおちる心の人に。
水の入り口からどろりと落ちて。その夏はしわぶきをあげる。かげろうを翳らせて、慣用句はすてる。心のうわずみをすくうと、言葉は倦怠になる。蛍の里で、怨誼をきらびやかにまとわせて、
あすは後鳥羽院を傍点にするか。
せまい夜を白羊宮のむこうに置く。そらにともるすばるの斑をおしのけて、女御らは袖を見事にあやつる。脈絡を失った歴史の上で、官位は遠近法だ。
おしげもなくもみじをむしって
母はいつか霰のようになられた。
それから雪の玉水を点々と許して、しんしんと寒さに親しんでいる。いまはうすまってゆく命に花のおもかげは重たすぎると。まぜあわせれば拒絶反応。若い短冊に老いさらばえた身をぬりこめて落花を読む。
めぐって仁治二年八月二日。
空はいたいたしく晴れふぶいている。
八十歳。
余生はかるい。
増殖する、定家
ねこが
ねこが定家に
ねこが定家になびいている
大臣良経のひざから色目を使い
肩を草にしている
くるっと身をひるがえして
なだらかな
色っぽい
愁波を詠む。
詠むと月が雲にじゃれつく。
みなぎる春の
ねこの言葉
ミャーオが
ミューミューは
皇子の孫のことか。
ねこが短冊に
短冊の上にねころがる。
ねこだから
ひきつって
言葉の遺体にすがってみやびに泣く。
月に泣く。
もう良経の体質は消えたころだ。
あとに残された
定家の上にうずくまって
ひらがなを習いはじめる。
言葉は草の海だから
春に
爪をたてながら ミャーオ。
文字が鎌倉でキナ臭い匂いをたてはじめる。
紙パック入り雪月花
《雪ゆきくれて修羅の段》
扁平な午後の修羅ゆきくれて
兄さんは淋しいのだよ。
岬へゆくな、岬へゆくな
主のいなくなった机の上で
ヒヤシンスがくだをまいている。
せろふぁんのような
盗っ人のように窓を侵蝕し頬に貼りついて。
嫁いだ妹の後姿がみえなくなったあたりで
夜店が
金魚の放蕩を嘆いていた
あの日から 兄さんは淋しいのだよ。
旗本退屈男が
新聞を広げると肌寒い地方が
たちのぼってくる。
凶か吉か
真っ赤なランドセルが妹に届いた日
胸の中ではぴゅうぴゅうぴろろ
雪が鳴いていたっけ。
何もうたわない内に力尽きてはいけないよ
空にかかるかりそめの天の川
かりそめの親戚関係は多い
だからといって
咳こむな、咳こむな妹よ
空はいまから干潟になり
修羅しゅしゅしゅとゆきくれるから
雪見酒が体を透かしてゆき
胃のかたちに痛みをつくり
痛みの湖をつくり
さらに痛み止めをあおって
わけもなく兄さんは淋しいのだよ。
《買い物帰りの月に叢雲の段》
くさりと
縄うたれ
春の底をさらう夢を見た。
部屋の隅で
母さんのところへ帰ろうよ
早く帰ろうよ子供が
心に縄を打つ。
父性愛をふりかざして
帰路についたが
その偽善ぶりにいやけさし。
ほぞをかむのは
月にむらくも
買い物籠を手にさげた
清少納言に別離の手紙を渡したのも
あの宵祭り。
いきなり泣いてみたり
人の悪口を
葡萄の種のように吐き出し
論語読みの論語知らず
になったのも。
子供の肖像を呑み込んでは泣いている
大塚酒店のオヤジ
いまだ雪くれの私語を解かず
私語にからまった愛情を解かず
月にむらくもとはしゃらくさい
怒鳴りながら宵闇から
はらはらと はみ出していた。
それにくらべて私は
溺々と父性愛をふりかざすので
春の底をさらう流人の夢など見るのだと。
月にむらくもの袖で
清少納言とヨリを戻す前に
子供を寝かしつけておこうか。
《花をたばかるの段》
いつ誰がいったのか
ごく平凡な朝は
ごく平凡な、雪割り草や菫の
小さな欠伸から始まるのだという。
確かに平凡であった
雑誌のように
ぺらぺらとめくれ
けだし三流レストランで
まずいほうれん草いためを
食べなければ。
通りすがりの郵便配達人がいった。
「あなたへの手紙にはいつも花がいっぱいつまっていますね」
職業はいったい何なのですかと聞かれ
ほかでもないさくらを美しくひきたたせるために
花のエスキスを集めているのですとは
いいかねた。
二月、三月、アン・ドゥ・トロワ
花がさきみだれるころ
決まってこの町は
郵便配達人の行き倒れがいて
つましい一家の窓をたばかる
一鉢いくらの魂が
パックに入って売られている。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/06/28
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