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近代日本人の発想の諸形式

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 私が近年理論的に追求してゐることは、日本人の発想法といふことである。これは直接には私が個人として小説や批評を書く上の困難を解決したいといふことから生れたものであるが、日本文学のタテの系列から言つても、日本の古典文学にある日記文学、随筆文学、心中文学、復讐文学等とも関連がある。()しそれを、明治以来の近代日本文学に限れば、露伴文学の発想法、硯友社から鏡花、荷風、潤一郎に及ぶ作家たちの発想法、更に自然主義以後の諸流派、諸作家の考へ方の形式に連らなることとなり、多少私の手の届く所へ来る。

 個人的な体験の方にもう一度戻れば、私は文学の理論と制作とを同時に考慮する癖を持つてゐたので、次のやうなことを考へなければならなかつた。一体よい文学作品とは何か? よい文学とは単に写実的に真実らしく物を描いた作品でないことを、私はある時に確信した。また巧妙な美しい文章でもないことも、ある時信じた。そして最後に、よき意図によつて行はれるよき生活(それには二つあつて、一つは真実と正義のための生活を、身を滅しても貫くこと、一つは家族や社会を傷つけずに、現存の秩序に沿つて、調和あり、可能なところまで理窟の通る生活を建てること)をして、それの報告を作品として書くことであらうか。この最後の創作方法又は生活方法は、大正の初め以来日本文壇の内部に強い通念となつて存在してゐたので、私は実に長いこと、十数年間、これを否定する決心がつかなかつた。

 読者はあるひはこのやうな初歩的な考慮を一笑するかも知れない。しかし、これを一笑する読者は、近代日本人としての自分の心を知らないのである。島崎藤村の文学、武者小路実篤の文学、葛西善蔵の文学、徳田秋声の文学、志賀直哉の文学、小林多喜二の文学、宮本百合子の文学、太宰治の文学、芥川龍之介の晩年の文学、中野重治の文学、瀧井孝作の文学等を読む読者は、この最後に述べたやうな図式においてその作品を受け取り、そして感動してゐるのである。二十世紀のヨーロッパの文学者、ジイド、ジョイス、ロレンス、ストリンドベリイ等も自伝的作品を多く書いてゐる。しかし我々は彼等の生活そのものに感動してゐるのではない。彼等が調和ある生活を作つたとか、革命的行動をしたといふ点を作品の中核として見たり、又はそれを前提として作品の感興を追つたりしない。それは異国の作家だからであるか、それとも作品構造と質の違ひからであらうか。これが所謂(いはゆる)「私小説」の問題として、私のみでなく日本の文藝批評家の精力を集中して探索してゐることである。

 この問題を作家体験として述べると、次のやうになる。自分は、革命運動に参加するか、又は家庭破壊的行動をするか、でなければ模範的な人格者になるのでなければ、人を感動させる作品を書くことができない。さういふ作品を生活の中で作るといふ行きつまりから脱出できない、といふ事である。画家はどうだらう、音楽家はどうだらう。彼等にはさういふ条件はないやうだ。それではこの文壇通念は一体何を意味してゐるのだらう、といふ疑問が生れる。それと同時に、戦前(一九四五年以前)の文壇通念の中では、漱石と鴎外はクロウト作家とは見なされなかつた。鴎外は、史伝といふ、小説とは純粋に見なされないもので立派なものを書き残した文学者であり、明治文壇の先駆者として『即興詩人』によつて一世をセンチメンタリズムでうるほした翻訳の大家である。夏目漱石で見るべき作品は、その直接自伝である『道草』のみで、他はユーモア小説かディレッタントの書斎小説である。勿論、鴎外と漱石の読者はその時でも極めて多く、それが知識階級のよい読書人たちであつた。然し漱石や鴎外に心酔するものは、生活に危機を感じたことのないディレッタントたちのすることである。彼等は文士とは別のものだ、と思はれてゐた。

 このやうに、生活密接派への敬意と、鴎外漱石等への蔑視(べつし)や敬遠が通念となつてゐた昭和初年の文壇意識は、明治四十年頃から形成されて、続いてゐたものである。そして最後に、これ等の通念の結論に当る言葉が、晩年の徳田秋声によつて吐かれた。「トルストイは通俗作家である。」そのやうなことを言ふ秋声を笑ふことは、少し心を落ちつければ不可能ではない。しかし秋声の言葉を否定することは、西ヨーロッパ的な考へ方でのロマンの骨骼を持ち、社会批判、道徳批判の裏づけのある、眼に見えるやうにといふ意味での写実小説を、真の小説として日本の場で作り出すことの可能性を證明しなければならなくなる。それは可能だらうか。さういふヨーロッパ的な形と意味での小説らしいものは、実に日本では育ちがたい。僅かに、藤村においては明治末『破戒』に現はれてゐるのみであり、次には有島武郎の『或る女』と、夏目漱石の『明暗』などが、それらしいものとして、大正文学史の中に残つてゐる。しかし、その他のもので、そのやうな形を志した作品は、殆んど悉く通俗小説、新聞小説である。そして『明暗』は文壇人の関心の外にある。あの作品の読みにくい、かたくなな文体が、我々の近づくのを妨げてゐる。即ちヨーロッパ的な意味においての小説は日本には殆んど存在してゐないのである。

 このやうな文学的風土は、なぜ出来上つたか。これが、戦前から日本文学の創作家や批評家の中で、しばしば論議されたことであるが、戦後批評家たちの中心的問題として、その解決のために多くの精力が注がれたのである。この問題は文壇生活の体験のない学者たちや文学史家たちには、形の上で認知されてゐただけで、実質的理解が届かなかつた。従つてこの問題を本当に痛感した文壇批評家たちによつて、専ら解明の努力がされた。そして平野謙、荒正人、佐々木基一、本多秋五等の雑誌『近代文学』の同人がこの活動の中心であつた。その外に、このグループよりもいくらか文壇経歴の古い私や中村光夫が、別個の立場から、この問題の究明に加はつた。この問題は、「政治と文学」といふ問題、解説的に言へば、政治の組織とヒューマニズムの対立といふ問題についての中野重治、窪川鶴次郎、小田切秀雄等対、平野謙、荒正人等の論争とも関聨があるが、それは直接関聨でないから、一応切り離すことができる。

 これ等の各論者の意見をつまびらかに紹介する余裕を持たないが、代表的な人々の推論の立脚点をのべると、前記のやうに近代日本の小説が自伝へと崩れて来て、小説の形を失つた原因を、中村光夫は、原因の方から論じた。近代人としての社会観を作品の中に具体化し得ないこと、即ち、批評的意志の弱さからこの崩壊が起つた。藤村が『破戒』の道を放棄して花袋の自伝的な作品『蒲団』の後を追つて、自伝的小説の道を歩いたことがその起りである。そして社会現象の描出は無批評的な風俗小説にゆだねられ、作家は閉鎖的私生活の倫理のみを追つた。そして社会とのつながりを持つた人生批判は文学作品から消え去つた。小説は風俗小説と閉鎖的自伝小説に分裂して、両方とも行きつまつた。それが中村の『風俗小説論』の骨骼である。

 平野謙はこの問題を、結果から論じてゐる。即ち、私小説的な作品が発展して行く時は、作家の私生活は犠牲にされる。また作家の私生活が調和する時は、作品は生活の方便とされるか、でない時は作品を書けなくなる。たとへば藤村は、姪との非倫を解決して自己の立場を保全するために『新生』を書いた。鴎外は細君のヒステリイ療法として小説を細君に書かせたり、自作の発表をすら抑制した。志賀直哉は、生活の調和を得るとともに創作しなくなつた。反対に秋声は、殆んど創作のハズミを作るための実験恋愛をして『仮装人物』を書き、自己を人間として耐へがたい境地へおひやつた。太宰にも、葛西にもその傾向がある。即ち、私小説は、それが書かれる時は作家の生活がほろび、作家の生活が調和して落ちつく時は書けなくなる、といふ二律背反に陥るものである。これが平野の結論である。平野の論文は『島崎藤村』で始まつて幾つかあり、結論は新潮社の『日本文学大辞典』第八巻「私小説」の項に書かれてゐる。

 私自身の立論は、『小説の方法』に大体書かれてゐる。それはどちらかと言へば平野に近い。私と平野は大体同じ系統の考を交互に発展させて来た。私小説の二律背反論を私は平野の大きな仕事と考へる。そして『小説の方法』以後私は、私小説についての考を更にひろげて、近代日本人が、どのやうな発想を生活や藝術に対して持つたかの一般的なことを考へてゐる。文学作品から拾はれた色々の具体例の證明することが、日本人の現実生活の反映であるので、社会そのものの構造や推移に関聨してゐることを連絡づけようとするものである。私の努力は、主として、これまでの文学理論では、理論形成に組み入れられることが少い、文体と思想との関係、露伴とか潤一郎とか鏡花など伝統的といふ言葉で片づけられる作家たちの仕事を社会の現実と結びつけてみること、などにあつた。但しそれらは、今の所、各項別々に成立してゐて、その相互関係に深く入つてはゐない。

 

  2

 

 一 調和的発想法の推移

 

 藤村の文学の本質、その文体の特色は甚だ理解しがたいことの一つである。私はそれを次のやうに考へる。彼の発想は、明治三十年頃から詩人として、七五調、五七調を主とする韻文体であつた。韻文体は、私の考では、記憶の便利のためにのみ使はれたものではない。むしろそれは、一般的に言はれてゐるやうに、労働の調子をとることなどもその成立原因であるが、それが長く保持されることの原因は、社会に常に存在する秩序の中での生活意識と関聯があると考へる。一定のきびしい約束の中で意味をのべること、即ち与へられた秩序を守りながら、その中で自己の生活を築き、その殻の中で生きる意味をつくすことの喜びが、これ等の外形律的韻文における叙述で果たされる。

 更にこの問題に立ち入つて言へば、ヨーロッパの詩にある、頭韻、脚韻、各種の強弱韻が、アレクサンドランとかソネットなどの外形律の中に生かされてゐることは、日本文より、複雑で微妙な操作を実生活の中で為し得ることを語つてゐる。それは、たとへば外から与へられる秩序の中にありながらも、その内部が単純に外形に服従してゐるのでなくして、内側の喜びを伴つた副次的な自主的秩序が、ヨーロッパ社会に存在してゐたことと照応してゐるもののやうである。日本の韻文での内在律は、藤村から後、有明、泣菫、白秋等によつて探求されたが、その明確なものは、今のところ、ほぼ頭韻のみである。即ち与へられた秩序の内部において自主的な律動の喜びの少ない構造である。言語の構造が先か生活の構造が先か、それとも人種の意識構造が両者を同時にきめたために、かうなつたのか、といふ推理を更に生ずるだらうが、それは比較言語学の問題で、その点での社会構造との関聯を私は細かく追求することができないけれども、東西社会の外的強制秩序の質と連絡があるので、私の興味を引くことである。七五調や五七調が詩の主なスタイルであり、形式主義的な漢文体や、七五調を基調とした文語が一般の小説読者に親しまれた明治四十年頃までは、与へられた外的秩序の中で人間がそれを守りながら、生きる意味を発見したと言つてもいいであらう。たとへば本当の意味の写実的な口語体が、西洋文明流入の最も激しかつた明治二十年頃二葉亭や美妙によつて一時作られた。しかしその三四年後に国粋主義が復興した時、この二人はともに創作を続行できなくなつた。そして西鶴系即ち俳諧系の文語体が紅葉と露伴を通して復活した。更に蒲原有明が、外形律を守りながら、内在律を可能な極限まで探索したのが明治四十一年頃であることも注意しなければならない。また三十年から書き続けられた『金色夜叉』や三十一年に書かれた『不如帰』が、地の文に漢文系文語体を使ひ、会話に口語体を使つて、それによつて大きな読者を得たことは、その時代の読者が、地の文といふ環境の古き秩序と、その中に生きる人間味を示す口語との融合の形に喜びを見出したことを暗示してゐる。私は単に文体が存在したことをでなく、その文体で書かれた作品が生きる喜びを広く伝へ得たことを根拠として、このやうに考へるのである。

 藤村は、韻文によつて、即ち古き秩序に即しながらも可能な限り自己表白をするといふ方法を確立した後に、彼は散文に移ることとなる。それが『千曲川のスケッチ』(明治三十三年、二十九歳)である。この頃彼はダーウィンを読んでゐる。『落梅集』を書いて、詩を終りとする。『千曲川のスケッチ』は写実的で、かなり論理的で、明確な文体で、直線的な印象を与へる。この時期、彼は写実家として自分を作つて行つたので、この文体は三十七年に書き起された『破戒』とほゞ同質である。『破戒』は部落民の悩みを扱ひ、社会批判を強く盛つた作品である。これから後四十一年の『春』、四十三年の『家』になると、文体が次第に変化する。彼の文体は三十九歳で書かれた『家』でほぼ決定して、その後はあまり変化がない。

 『家』以後の藤村の文体は、近代日本文学の中で最も特殊なものの一つである。物事を明確に言はず、暗示的に云ひ、しかし圧力が強く、強引である。たとへば「自分のやうなものでも生きたい」とか「その頃の彼と妻は獣であつた」などと彼は書く。これは、彼の属してゐた自然主義の他の作家、泡鳴や花袋といちじるしく違ふ。この文体は時として文壇人に謎とされ、また非現実的だと言はれた。久米正雄などは『夜明け前』が完成した時、これが果して小説であらうか、といふ疑ひを投げかけた。そして彼は文壇人としては影響力が強い人物であつたが、その文体を真似るものは、素質があつても作家として成熟しなかつた。たとへば寿岳しづ子がその一人である。しかもこの時期以後も彼の一般読者は著しく増し、花袋、秋声、白鳥、泡鳴などに一般読者が少なかつたのと著しい相違を示した。藤村の力は、その生活の現実処理の力であつたと考へられ、又はその詩の読者が引き続いて彼に親しんだことで説明されてゐる。

 私の考では、その両方とも真実であるが、それが彼の発想法の現れである文体の問題に、そのまま投影されてゐることを考へずには、彼が広く長く読者を引きつけた原因を説明することができない。この時期の藤村の文体を、私は日本語の挨拶の表現を散文に生かしたものと考へる。たとへば貸した金を取りに行つて金を取れない男が、あらゆる理窟や権利や約束のことを言ひ立て、喋りまくるとする。だが別な男は、相手の前にじつと坐つて、言葉少く遠まはしに、自分の生活をもまた成り立たせてほしい、とか、自分の顔を立ててほしい、と言つたとする。日本の社会では、前者よりも後者が利き目が多いのは確かである。論理や実證よりも、面目論や人格的圧力がものを言ふやうな社会構造が存在してゐるからである。さういふ社会では、論理的な又は写実的な表現が通用するのは知識階級人のみであつて、それ以外の広汎な層の民衆に対しては、暗示的な圧迫的な強い言葉の方が利き目を現はす。それを藤村は、挨拶の言葉から学んだのである。

 彼は十歳頃から、郷里の家を離れて、二十歳になるまで事実上寄食的に他人の家にあつて人となつた。保護者または主人に対する言葉が彼の家庭用語であつた。礼儀、挨拶の言葉、長上への服従の中で自己を貫くものの言ひ方が、彼の生活における表現方法であつた。それと藤村の文体の成立とを区別して考へることはできない。

 一旦成立した文体は、今度はその人間の考へ方、発想法を逆に制限する。『千曲川のスケッチ』を書いた時代から三十歳すぎの『破戒』の時代まで彼は妻と幼児とのみの比較的独立した生活の中で、自己を中心にしてものを考へることが出来た。それはこの二作品に反映して写実性と論理性になつてゐる。しかし四十歳頃から後、彼は没落した実家を救ひ、経済的な失敗から犯罪者となつた兄を援助するために苦しまねばならなかつた。またその頃妻を失つた彼は、兄の娘、即ち自分の姪と肉体の関係を結んだ。その煩ひを避けるために外遊したが、帰国後も姪との交りは復活した。曝露すれば社会的に破滅する。それを彼は怖れた。兄はそれを暗に知つてゐて、藤村から金をせびつた形跡がある。平野謙が実證的に證明するところによると、藤村は、このやうな窮境にあつて、自分の社会的地位を失はないこと、姪と別れること、兄に金をせびられるのを終りとすること、等の色々の目的を同時に果たすことを考へながら、告白小説『新生』を書いて新聞に発表した。

 その姪との関係が書かれたのを読んだとき田山花袋は、島崎君は自殺する、と言つて立ち上つた。花袋のその時の認識は一重のリアリストのそれであつた。この作品が完成した時、芥川龍之介は、藤村のやうな偽善者はゐない、と書いた。芥川の方が物事を正確に見てゐたのである。しかし、日本の近代社会では、恋愛も醜聞も金銭も、それ自体の問題として純粋に存在し得ない。それは社会的と言ふよりも家族的な関係の中に分ちがたく織り込まれてゐるのが常で、藤村は典型的にそのやうな立場にあつた。そのやうな社会の中における困難の解決は、本当の理論とは違ふ何ものかによつて為される。即ち顔、間接的圧力によつて誰かを犠牲にし、その犠牲を闇から闇へ葬ることによつて家族としての体面を保つのが、日本的な解決の道である。藤村は、そのやうな旧時代的な方法そのものでは自己の苦境から脱出することをしなかつた。彼は近代人の自己表白法である告白といふリアリズムの形において、小説を書くことで解決しようとした。これが『新生』事件の外形である。花袋はそのやうに認識した。

 しかし事実は、藤村は、告白小説を形において利用して、実質的にはそれを顔や圧力と似たやうなものとして使つたのである。それは芥川が見破つた所であつた。しかし、そのやうなリアリズムの逆行的利用を「偽善」と考へるやうな芥川的な明晰な考へ方をする人間が、日本の社会で論理的な仕事をしながら生き続けることは無理であつた。花袋的な一重のリアリズムは文壇といふ日本の社会の実質から離れた修業者の団体の外では通用しないのである。芥川のやうに論理歪曲を偽善と見る人間はまた日本の社会では生きがたい。そして藤村の生き方は、偽善者なる危険を冒しながらもその時の日本の社会の家族、親戚といふ構造に強く織り込まれた人間が、その非論理的な家族関係を破壊することなく、しかも自己の仕事と生活を貫徹するといふ、奇蹟に近いことを為しえた彼一流のやり方であつた。純粋論理によるエゴの貫徹は、そのやうな社会では相手の破綻即ち革命をもたらすか、自己の破壊即ち死を呼び出す。論理そのものでもなく、古風な非人間的なシキタリや顔への単純な屈服でもなく、その中間で両方を壊さずに自分を貫くやうな、強力で曖昧で儀礼的な藤村の生き方の思考方法、即ち文体が、この奇蹟を成就させた。それ故、文壇では、「告白小説」にしてはアイマイで不充分な、気取つた表現だと思はれた『新生』が前記のやうな日本の実社会では確実に働いたのである。彼の発想は日本の社会、家族関係の実質に合致したが故に、アイマイで暗示的で圧迫的な力を持つてゐたのである。そして、このやうな文体即ち考へ方を必要とする日本の社会構造は、現在まだ終つてゐない。藤村的文体のもつと俗悪化し、風化し、死物となつたものが、広汎な読者を持つ大衆文学、選挙演説、議会の発言、大臣の挨拶等の実体をなしてゐて、それは知識階級には嘲笑されながらも、確実に日本の一般民衆の発想法と結びついてゐるのである。文壇の評論文学、文壇小説のリアリズムなどといふものは、そのやうな日本の民衆に対して常に空転してゐるのである。これは日本の近代化の機会、明治維新と第二次大戦後とが、二つとも外から刺戟され、支配者に都合のよいやうに上から与へられて、実質的に旧い生活の内容を受けついだものであり、民衆の内側から起つたものでないことと関係がある。知識階級は常にその形式を日本の質であると錯覚してゐるのである。

 藤村的な発想法は、家族関係のシキタリと自己犠牲と体面の維持方法の中で、自己を生かす働きをすることができた。しかし、家族から一歩外へ出たところで、企業形式などのある部面では、日本の近代社会は、明治末以来次第に論理的に整理されはじめた。たとへば、デッチや番頭がなくなつて店員や工員または勤め人になり、かなりの徒弟的奴隷形態を残存させながらも、企業が能率的に組織されはじめてゐた。知識階級の中では、「理窟」が通るやうになつた。特に生活苦のない、財産のある家族から出た青年たちは、自己の生活を因習や約束から区別して論理的に考へはじめても、それを貫くことができた。またそれ等の青年たちの家族が、新しい企業方法である実業に関係してゐたりする場合、その父親たちは、自己の仕事が論理によつて営まれてゐることから、息子たちの論理的な意見を聞くと、それに反対することはあつても、やがてそれを通すやうになつた。

 さういふ恵まれた、特殊な交友関係と家族関係とを持つた所に、論理によつて、自己とその周辺を整理する考が生まれた。夏目漱石の周辺の若い文学者や思想家であつた森田草平、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、内田百閒、和辻哲郎等の一群がそれである。また同じやうに漱石の影響を受けたり、または海外生活の体験を持つたりした学習院出身の『白樺』の同人たち、有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、長與善郎、有島生馬、里見_などがそれである。これ等のグループのうち前のグループの中では、観念的な論理性が通念となつた。後のグループの中では、論理性がほぼ生活的に、家族や交友関係において具体化した。しかし、その論理性は、家族と交友関係に限定されてゐたので、志賀直哉においてそれは限定された範囲で強い意志によつて実践された。その考へ方を反映して、志賀の文体は写実的で意志的で明確である。武者小路の場合は、公卿族出身の母親育ちといふ点から、独善的で空想的であるが明るく大胆である。武者小路はその独善的論理の社会的実現を「新しき村」で試みて失敗した。日本の社会の実相は彼の考へた論理の通るものではなかつたのである。論理的な教育と生活体験を持つた有島武郎は、父から受けついだ農地を小作人に分けるといふことを、武者小路よりはもつと科学的に実施した。しかし彼の論理が更に広い社会に接触しはじめた時、彼は自己統制力を失つた。父が社会から奪ひ集めたと彼に思はれる財産を自分は「預つてゐる」などといふ気持で生きてゐて、その金を、しばしば社会主義者たちに与へることで心のバランスを保つてゐたが、それは持続されなくなつた。彼は自殺した。大体において、このグループにおいては、論理的で同時に調和的な思考は家族の中と交友関係の中で行はれて、そこから外へ出る時に破綻した。経済的な困苦を持たない生ひ立ちの中で育てられたといふ特殊なグループではあつたけれども、このグループの間に成立した論理的な考へ方は、強力な印象を知識階級の間に及ぼした。芥川龍之介もまた自己の中に育つた論理性と美意識の調和感が、もつと広い社会全体の論理性を主張するマルクス主義者が擡頭しはじめた時、(おび)やかされることを感じた。それ自体が彼の自殺の原因でないとしても、彼の心理的バランスがそれによつて一層危くされたことは事実であつた。夏目漱石はその実生活の中で、理窟に合つた自己を貫かうとする時には、大学教員の間にあつてすら著しい抵抗を感じた。彼は同僚の教員たちを「ビースト」であると英文のメモに書いた。家庭では彼は妻に気ちがひと思はれるぐらゐ度々カンシャクを破裂させた。

 論理的に構成されてゐない社会関係や家族関係や雇傭関係の中で、論理的に自己を通さうとすることは調和的生活を保ちながら最後までやり通せるものではない。その一例は鴎外である。鴎外は西洋医学を学び、ヨーロッパに遊学し、その思考法と文体の本質は論理性によつて一貫してゐる。ただ彼の文藝愛好家としての少年時代からの趣味が時として雅文体や漢文体の外飾をその文章にまつはらせ、それによつて彼は写実と論理の明確さのもたらす自己破壊力を一部分そらすことができた。しかし彼は職業軍人であつて、軍や官の上級者や明治の秩序を保つてゐた政治家との交渉があつた。それ故、鴎外の論理的思考性は明治の秩序そのものの批判として現代的に働くことができなかつた。彼が後半生で史伝に主力をそそいだのは、彼の生活の現実の秩序が明治以前的であり、彼の観察描写の現実感が史伝の中で安定することができたからである。しかし彼は論理的にものごとを考へずにゐられなかつたから、社会主義系の思想の擡頭に対しては無関心でゐられなかつた。彼のやうな人間はその地位、身分を放棄するのでなければ、ナマの形においての現世批判を行つたり、現世の整理を考へたりすることができなかつた。彼は自己を現世の整理から「立ちのかせ」ることをモットオとした。その時彼の述作活動は純粋客観を装ふ「あそび」として彼に考へられた。

 漱石は最後に不合理な現存秩序を「天に与へられたもの」と見て、「私を去る」といふ自己放棄によつてそれに調和しようと考へた。しかし鴎外や漱石が自己放棄的な立場をとるといふことは、その地位と名声とが安全であり、特権的な立場を得てゐたからこそ出来たことであつた。しかし論理は外界の批判と整理と改革にのみ向けられるものではない。それはやがて自己をも分析して見るやうになる。漱石がジョージ・メレディスの影響によつて生の認識を円熟させた晩年の作品『明暗』では、自我なるものの醜さ、無制限の征服慾が曝露された。大体この作品の現はれた時から、エゴとはそれを圧迫するものを外部に認識してそれと戦ふばかりでなく、進んで相手を征服して無限に拡大するものであるといふ意識が明確に捕捉されはじめた。敵は外にあるばかりでなく、自己の内部にもあることが意識され出した。自己の内部にある悪いもの、腐敗しやすいもの、自己自身を陥れるもの、さういふものの探索を一層強く行つたのが谷崎潤一郎である。彼はその人間内部の恐怖を描いた作家である。このやうな自己内部の危険は、自然主義者の岩野泡鳴や、『白樺』の志賀直哉や有島武郎等にも意識されてはゐたが、それを彼等は現実生活そのものの場で強力に生活に結びつけることで処理して、それを抽象的実在として発展的にとらへることをしなかつた。この危険なものを強力な自己統制力で圧迫し窒息させたのが志賀直哉の『暗夜行路』である。彼においてのリアリズムは実践道徳に姿を変へてしまつた。それを生活の場で発展させることは、人間の破滅である。泡鳴の生活が残酷なものであつたことは彼が生活報告といふ私小説の場でそれを処理してしまつたためである。有島武郎は心理分析家ハヴロック・エリスの影響を受けた『或る女』でそれを扱つたが、自己に即した作品ではやつぱり扱ひ得なかつた。漱石の『明暗』や潤一郎の『(まんじ)』等のフィクションにおいてのみ、この抽象的な怖れは実体を与へられることができた。

 しかし、日本の一般社会の実状は、その経済的な貧困さの故に、このやうな内部の怖れに気づくだけの余裕のある人間は少なかつたから、これ等の作品は、文壇的には大きな反響を得るに至らなかつた。知識階級全体もまた貧困と奴隷的な生活に苦しんでゐた。敵はまだ主として外部に、物質的困難や雇傭関係の非合理性といふ形で存在してゐた。それ故文学者全体の通念は、この外の敵なる社会的不合理と、どのやうに妥協調和するか、またはどのやうな生活をしてその圧力を避けるか、又はどのやうにしてそれと戦ふか、といふやうな生活の現実面に集中されてゐた。このやうな現実面において作家たちが生の秩序を作り出さうとして苦しみ、また一方では、人間らしい生活を各人が持つための論理を社会に通さうとする思想家の一群が現はれた明治末期は、十八世紀のヨーロッパに似てゐる。しかし幸徳秋水の刑死の頃から思想運動は一応下火になつた。古い、そして論理的にも倫理的にも意味を失つた秩序の中に人間が生きてゐた。

 大多数は、その秩序を仕方ないものとして、またはむしろ正しいものとして受け入れてゐた。生命の動きのリアリズムを見ることを仕事とする者は、その中で正しい自己を発展させることが不可能だと感ずる。大正期の中頃になると、そのやうな社会で社会的地位を持つてゐるが故に鴎外や漱石は新しい思想を自己の生活面に取り入れることができないと感じて、傍観者的な地位に立ちのいた。自然主義系の作家は社会に対する自己放棄を思想的に抱いた白鳥と、生活的に抱いた秋声とを代表者として技法的に成熟した。白樺派の作家たちは身辺を整理して安定した人間観を作り出した。さういふ立場から見られる人間は、歴史を静止したものと仮定した上で作られる人間観である。地位や身分は人間の顔の美醜と同じく宿命となる。さういふ、現実といふよりは、一種の仮定の上に、生きるだけの収入のない男と女の家庭内での争ひ、富める家の息子と女中、療養費のない貧しい病める文士と出版社の関係など等が描かれる。その描出は、そのやうな静止した宿命に似た仮定的な経済条件においても、人間関係の深刻な様相を描くことができた。しかし、この仮定的静止の社会を土台にして描かれたリアリズムにおいては、男女や親子の関係から生れる不安や恐怖は捕捉されるが、身分、地位、貧富の差などから生れる不安や恐怖の描かれることは稀である。漱石や志賀直哉の作品に、時々それが顔を出すけれども、それは彼等の心的調和感を深く動かすことがない。それを彼等は多少の怖れをもつて拒否してしまふ。潤一郎においては、男女の関係の恐怖と不安は純粋化され拡大されて描かれてゐる点は近代的であるけれども、それが社会的、身分的不安から切り離されてゐるが故に、リアリズムとしては不充分なのである。

 それ故、これ等の作家たちのうち鴎外、漱石、志賀直哉等によつて作られた調和感は、それぞれに不充分で仮定のものである。鴎外と漱石では、自分を放棄すると言つてもなほ特権的に持つてゐる官吏とか著名文士といふ地位によりかかつてゐる調和感であるが故に、特別な条件によつてのみ得られる調和と平安であり、志賀直哉と長與善郎の場合は人格を中心とした調和感であるから範囲は交友の間に限定される。特に志賀のは、自己放棄的ではなく意志的進行的であるが、家族と友人といふ範囲から一歩踏み出せば、実践性を失つてしまふといふ、やつぱり特殊な場合のものである。今日重点をおかれてゐる志賀的調和感は、外的に言へば階級や身分意識によつて脅やかされて居り、内的に言へば性の中にある邪悪で抑制できないもの、即ち精神分析学の開いたリアリズムや、潤一郎的な性に基く人間危機感によつて脅やかされてゐるのである。しかし藤村に較べて、漱石とその周辺の人々の方が、観念的であるが広い範囲の論理的調和感を想定したと言つてよく、志賀直哉の方は更に生活的にその範囲を拡げた、と言ふことは間違ひではない。調和感は生の最も美しい認識であるが、それは常に範囲の限定と、因子の限定の上にのみ立つことができるもので、生の条件の範囲を拡げ、新しい不安な因子を加へると、調和感は崩壊する。人間の生活の歴史は進展して、常に新しい因子を考慮に入れねばならないのだから、これ等の調和は非常な努力と意志と才能によつて作られるものであるけれども、やがて実践性を失ふ運命にある。しかし彼等が、その時に与へられた条件の中で、そのやうな論理的調和感を作り出したことは、やつぱり偉大なことである。それを土台にして、その次の新しい因子を加へ、範囲をひろげた調和感が成立して行くからである。

 宮本百合子は、戦後の文藝評論家の中に行はれてゐる通念では、武者小路、志賀的な白樺派の調和意識を、外的な部分、即ち階級的社会的な点で拡げたところの調和感を作ることに努力した作家であると考へられてゐる。大体それが妥当であると私も考へる。志賀と武者小路は大正の初年頃から作家活動をはじめ、宮本は大正五六年頃から作品を発表した。そのあとで、ロシア革命があり、マルクシズム思想が急激に日本に流入しはじめた。その新しい調和感を宮本は作家活動を始めてから十年ほど経つてゐた昭和初年になつて、マルクシズムを拠り所として考へはじめ、その後長い時間をかけて作つた。彼女の人道主義的考へ方からマルクシズム的考へ方への変化は、彼女より遅れて初めからマルクシズム的考へ方で出発した中野重治のそれと、面白い対照をなしてゐる。宮本の思想の変化は、範囲の拡大といふ自然な進み方であるが、中野のそれは、次に書く破滅系統の戦闘的考へ方を意志によつて仮りに調和型に作りかへたもののやうである。宮本は中流の上級の生活を経験し、娘を海外旅行に連れて歩く、といふやうな金に不自由のない父を持つてゐた。宮本は女性としては強い意志の所有者であつたけれども、その拡げられた範囲をリアリズムによつて埋めつくしてゐるとは言ひ切れないものがある。その内面構造としての、人間性の善から悪への転換を抑圧する意志においては志賀よりも弱く、心理分析や条件反射等の学問が開いた性の不安定性による人間崩壊の例を、その母において見てゐたにかかはらず、その認識は十分ではなく、正義感のみによつて解決できると信じ切らうと努力したやうに思はれる。それ等の点から言へば宮本の調和感は実質的には今日の社会党のそれに近い、人間善意を前提とするもののやうである。しかし一種の図式としての調和感を階級思想のところまで拡げたことは、明らかに一つの業績であつた。

 以上のやうな調和型の思考法の論理化、拡大化は、主として、よい育ちの、金銭や食事に困つたことのない家族から出た作家たちや、一流作家の身分を割合に早く得て、社会的地位も安定してゐた作家たちによつて作られて来た。調和感を持つて生活することは、論理性を抱いた人間にとつても、非常に困難なことであつたから、これらの努力的な思考型は貴重なものであるが、財力と地位の安定感なしには、それも作られなかつたのである。彼等の代表する家族や地位にある人間は、パーセンテージで言へば、日本人の五パーセントにも当らないであらう。社会運動や労働運動が犯罪と見なされてゐた戦争前までの日本において、調和感を抱き、それを確信して生きるといふこと自体が本当は疑はしいことなのである。今では、私は、これ等の作家たち、特に漱石や鴎外や志賀直哉などの仕事が、自己の調和的世界から洩れた社会的な不均衡に対して、また自分の生活で辛くも保たれてゐる性の深淵の与へる不安定に対して、時々示してゐる不安感や恐怖感の部分によつて、彼等の良心的な苦痛をはかるのである。さういふものを示してゐない調和感は信用することができない。

 永井荷風は、よい家庭に育つたが、ヨーロッパの文学や思想を学んで帰つてから、日本の社会の封建的な古い社会秩序や家庭秩序に失望した。彼は幸徳秋水の処刑の時の馬車を見て、思想に対する自由がこの国にないことを感じた。それならば、そのやうに生きよう、といふ社会人としての自己を放棄した生活を彼は送つた。彼の逃避は一応近代の論理をもつて日本の社会に向つてから後に意識的に作為されたものであるから、純日本的な本能的な逃避とは区別される。だから彼は、社会的不安、性的不安に眼を注いで生きながら、意識的に文士の特権を利用して、孤立した生活を送つた。文士や名士の考へる調和感といふものの根本の危さも彼は感じてゐたやうである。彼は、日本の社会における社会的家族的調和感の偽善や自己偽瞞からできるだけ免れて生きようとしたものである。文士は日本の社会に於ける上昇的または調和的世界から離れることによつて自由を得ることができるといふ例の一つが彼である。しかし彼の中には抽象的に近代論理が生きてゐたから、彼は衝動的破滅的に生きた次の生活者たちの逃避のもたらす自動的な破壊に陥る危険はなかつた。

 前記のやうな調和感の種々の型は、今日でも死滅してゐるわけではない。藤村が身をおいたやうな生活環境が今の日本に広汎にあるし、鴎外、漱石、志賀直哉、宮本百合子的な生活環境にある人間は、知識階級の中においては、その当時より多くなつてゐる。だから、彼等は読まれ、同感され、手本とされ、生き甲斐とされる。そして、これ等の調和感の型は、日本の、少くとも物を考へる人間の生活を支へてゐるのである。また藤村の中にはキリスト教的なものや佛教的なもの、鴎外や漱石の中にはシナ思想的なものがそれぞれ生かされてゐるから、それは次第に一般民衆の考へ方にも、遅れて、また変形されて入つて行きつつある。これ等のものは日本人の考へ方を崩壊させずに支へてゐるものである。これ等は人体の背骨のやうな働きをして、次に挙げる急進的なものや、崩壊的なもの、または孤立的なものと対立し、時にはそれ等にもたれかかられながら、それに耐へてゐるものである。大体において現在の日本の指導者層を支へてゐる発想法は、藤村、鴎外、漱石又は彼等と同時代者の作家が具体化したものである。それは図式的思想としては、彼等に影響を与へた西田幾多郎や内村鑑三やその前の福澤諭吉等の線にあると見ていいだらうと思ふ。

 

 二 逃避型と破滅型

 

 破滅的発想が与へる喜びは、日本の高級な文学にも、大衆文学にも、ナニハ節にも、革命文学にも共通して存在する。これは日本ばかりでない。封建制に対する人間的抵抗の現はれであつたヨーロッパのロマン主義系統の作品でも、『マノン・レスコウ』とか『カルメン』とかいふやうな典型がある。また資本主義の制度が支配力を持ち人間性を侵すやうになつたと意識される近代のヨーロッパやアメリカに於ても、その秩序に抵抗し、または秩序に押しつぶされて破滅する人間がしばしば描かれて読者の共感を得る。

 しかし、日本の破滅型の発想には、ヨーロッパ系統のそれよりも、もつと正義感と生命感が強く与へられてゐるやうに思はれる。それは多分、生を仮りの姿と見ることによつて安定を得ようとする傾きのある佛教の影響によるのであらう。また日本では逃避型は、佛門に入るとか、山に入るとか、世を逃れるとか、巷に隠れるとか、花鳥風月に遊ぶ、といふ形で最もしばしば現はれ、現在の私小説もその系統を明らかに引いてゐる。これは、キリスト教が他者を認識してそれに働きかけることを善の原型としてゐるのに較べて、佛教や儒教では、他者への積極的働きかけが、即ち他者についてのヒューマニスティックな認識が、それほど強くないことが影響してゐる。キリスト教の黄金律である「己れにせられんと思ふことを人にも為せ」といふ肯定形が、儒教では近似した思想を「己れの欲せざるところを人に施すことなかれ」と否定形で語られてゐることも、その差を示してゐるやうに思はれる。他のエゴへの働きかけを絶ち、他物の影響を感覚的に断つことによつて安定を得ようとする傾きは、佛教において強い。キリスト教の戒律にも多くの否定形はあるが、その根本には他のエゴに対する強い認識と、働きかけとしての「愛」といふかけ橋がある。

 日本人の伝統的思考法では、孤立、逃避、遁世は、ほとんど潔癖感と正義感と安定感の同義語とすらなつてゐる。現世即ち実社会は「濁世(ぢよくせ)」である。その秩序を論理的に他との共感で改めようとした、といふ考へ方の例は少い。即ち理想社会の夢想や設計の文学が少い。ただ衝動的な反抗の例は宗門一揆、百姓一揆等の形で数が多い。その日本の現世の構造については、親分乾分(こぶん)の関係、(ばつ)の成立、顔の横行等について、多くの研究が行はれてゐる。

 明治期や大正期の文学者たちが、その時代に強力な組織をなしてゐた日本の官界や実業界へ入つて行かない青年たちから出たことは、かなり目立つてゐる。彼等の中のかなり多くは大学の中途退学者である。すでに学生時代に、学校の組織の中に、彼等はヨーロッパ文学で学んだやうな人間性を許容しない死滅した形式主義があるのを見てとつた。しかし一方では彼等を受け入れるより自由な社会がなければならない。それを彼等は僧侶生活や巷の遊藝人生活の中に見出さずに、まだ組織といふ程のものを持つてゐなかつた未成熟な実業であつた出版や新聞の社会に見出した。文筆の能力を持つた自由な考へ方をする人間が生きることのできる社会は、明治から大正にかけて出版、新聞社の中にあつた。明治においてはジャーナリストと文士は区別できない存在であり、多くは両方が兼業であつた。露伴、柳浪、独歩、蘆花、花袋、秋声、白鳥、秋江、その他多くの者がジャーナリズムの中でのみ許された、だらしない、勝手な生活をして、辛うじてある程度の自由を味つて生きることができた。

 そのやうな社会で才能のあるものは次第に専門の文士となつた。明治の終り頃から彼等の書いた物語の多くのものは、自伝小説となつた。それは、日本社会の堅気な勤め人や店員や経営者や教師になれなかつた自分、家庭人として円満に生きなかつた自分の、歎きや悲しみであり、またさういふ屈辱的な制度や因習の奴隷とならずに、極めて貧しくしか支払はれない売文者たることの誇りを述べたものとなる。社会や家庭の秩序に対して否定的に逃避的に自己を描き出し、それに巻き込まれなかつたことについて潔癖感や正義感を伴ふ多くの物語りが書かれた。それは、後に昭和期に入ると、ジャーナリズム自体が発達して強力な組織となることで、以前の自由は逆に強制になり、以前に貧しく支払はれてゐたものは不相応なほど高く支払はれて、そこに自由の代りに恐怖が生れるやうになつた昭和年代においてもなほ、自分は自由への逃避者であるといふ発想法で自伝や風俗小説を書く作家たちが大部分であるほどに定型化したものである。

 この系統の発想法は、形の上においては文壇特有のものであつて、文壇生活を体験しないものには理解しがたい売文の経歴の栄枯や悲喜を含んでゐる。しかし、私小説と呼ばれるこの系統の自伝小説が、今日半通俗雑誌においても相当の読者を得て、逆にその作家を自己の作り出した不遇な小説家といふ生活や行為を演技して書きつづけさせるほど、商標の独占化を行はせるに至つてゐるのは、確実な読者があるからなのである。その読者は、前記のやうな、勤務したり、御用聞きをしたり、上役にへつらつたりする濁世(ぢよくせ)をのがれて、自由で孤独で嘘を言はなくてもいい理想的な人間生活をしてゐる作者の生活に接する喜びを味はつてゐるのである。読者は、自分が持ちたいと思つても持ち得ない自由で清潔で嘘のない生活を実演してゐる一人の俳優を、その作者に見てゐるのである。年若い読者は、その作家の生活に理想的な人間のイメージを感じとつて、自分もそのやうな作者即ち生活者にならうとするに至る。しかし、この人間のイメージは社会の連帯的善行を避け、孤立が可能であるといふ妄想の上に作られたものである。

 作者の方は、暗黙のうちに、又は無意識のうちに、その単調な生活に躍動的なものを作り、その逃避感又は孤独感をもつと鮮明にする実演を生活の中で持たなければ、作品の商品価値を高め維持することができないと感ずるやうになる。家庭の不幸や、恋愛の危機や、病気やある程度の失意などは、その逃避生活にアクセントをつける。作者はそこで、自然に、ほとんど意識せずに、それらの不幸を喜び迎へるやうになる。次の段階には、彼は自ら不幸を作り出す。危険な実験的恋愛を積極的に行ふやうになる。するとその危機感は一層読者に喜ばれる。このやうにして逃避といふ実演生活は、破滅的行為を呼び出しがちになる。このやうな書き方は、この型の発想法の自伝小説化された時のことを、特にジャーナリズムにおける商品価値の側から見たものであつて、その作家の真剣な内部における生命の認識過程の説明としては完全ではない。自主的には彼は真剣で絶体絶命的に生きてゐるのだ。しかし資本主義ジャーナリズムの中にあつては、いかに真剣に考へて始められる逃避的な意識も純粋逃避としては成立し得ないで、別個の商業的演技となる危険があるといふ面を説明しておくことは必要である。

 資本主義社会を根本から否定するマルクシズムの理論や社会主義思想を自分の中に育てた青年たちが、昭和の初年に文学の場に数多く現はれた。それが革命運動といふ実質を持つてゐない思想の研究といふ程度のものですら、非合法なものと見なされて検挙された。青年たちにとつては、それ等の思想は論理的に考へられた善と正義の規範であつたから、そのやうな思想弾圧は、彼等を多くの場合絶望的な反逆気分に押しやつた。また現実に検挙されて非人間的な取り調べや拷問を受けたものは、警官や判検事たちに対して強烈な憎悪感を抱いた。このやうな人間の思想に対する強圧は、真の意味の近代社会には無いものであるが、それが実質的に絶対王制の存在してゐた昭和年代の日本にあつた。それは多くの若い文学者をしてある時は表面的にはその思想を放棄させ転向させるといふ擬装を強ひたが、ある場合には絶対の強制に対して絶望的に抵抗するといふ衝動をも目覚ませた。そして、死をもつてもその行動を貫かうとする焦念を生かすこととなつた。

 昭和の初年に一つの典型となつたこのやうな絶望的な反抗感は、徳川時代の百姓一揆の衝動の再現である。日本の民衆は、自己放棄の佛教的衝動によつて、可能な限り屈服し後退する。しかし、どうしても生きれないと感じた時、彼等は爆発的に絶望的に抵抗する。このやうなことは、論理と実證とを人間相互の間で確かめ合つて、集団の調和をはかる傾向を持つてゐる近代ヨ一口ッパ系の思考に較べると、両極端に強く走るものである。即ち、ある場合は逃避し、自己放棄をする。しかしそれが駄目な時は絶望的に戦つて自己を貫かうとするのである。

 その意味では絶対王制が大正期の中頃まで残存してゐたロシアと近い制度が日本の昭和に残存してゐたのであり、漸進革命でなく絶対革命の起る可能性が日本には今も潜在してゐると言ふべきである。明治の末期、幸徳事件で処刑された大部分のものが無実の罪であつたことを知つた石川啄木はその詩で次のやうに述べた。「言葉と行ひと分ちがたき/ただひとつの心を/奪はれたる言葉のかはりに/おこなひもて語らんとする心を/われとわがからだを敵に投げつくる心を/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に()つかなしみなり。」善良な人間の心の中に起るこの種の絶望的な衝動は、死を救ひと見る佛教の発想に養はれて、色々な形をとつて現はれる。心中も特攻隊も、死と善との同居した形で絶望が意識される。前に書いた逃避の演技化として起る破滅と、このやうな絶望的な破滅とは無縁のものでない。

 文学者の場合、実践生活が尊重されるといふ日本の文壇では、この絶望的な行為すらジャーナリズムを意識してされる危険がある。革命的行動は、ジャーナリズムの中では発表価値のある演技である。明治の革命家は投獄回教の多さを自慢し、大正期の社会主義者たちは、自分たちの行動が新聞に出る出ないといふことを常に意識した。そしてジャーナリズムはそれを出来るだけ追求し、それを大きく演出することによつて商品価値を高める。文士の方では、資本主義的ジャーナリズムの中で商品価値がその藝術家としての実質的価値に転化して考へられる率が高いことを知つてゐて、それを意識しながら思想運動に身を投ずるといふ例が昭和初年に幾つかあつた。その時、文士の革命行動は演技化されてゐるのである。それは強められ、演技的に戦はれた後、同じやうに弾圧されて、悲惨な状況で終る。ジャーナリズムの方では、また、革命思想を商品化するのだが、そのジャーナリズム自体が他のジャーナリズムと競争する場合は、資本主義的に行ふといふ本質から離れられないのだから、革命思想、革命小説を宣伝することは自己否定となる。その弱点は、そのジャーナリズムの支配者側におけるいかなる善意にも拘らず、そのジャーナリズムの内部の争議や外側の出資関係や広告主などの強要のある時には矛盾に陥つてしまふ。かういふ矛盾は経営組織が大規模になるに従つて顕著に現はれて来るのである。

 近代ヨーロッパの思考法では、逃避か絶望的反抗かといふ両極端での発想が目立たず、中央部の社会的良識とか妥当な論理といふ所での調和が考へられるのが定型だが、現代では資本主義形態が巨大化したために、次第にその調和が人間としての正しい論理に即しては得られ難くなる。それで鋭い思考者なる文士や思想家は、論理の食ひちがひに悩むことになり、彼等の破滅は狂気といふ型で多く現はれる。日本のやうな社会では、死か見込みのない革命かといふ両端において行為に現はれる。ストリンドベリイ、モオパッサン、ニーチェ、ボードレエル、ポオ等の多くの狂気的破滅者に対して、川上眉山、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、藤澤清造、太宰治、牧野信一等の多くの自殺的破滅者を日本文学は持つてゐる。

 社会の秩序が動揺して革命的な思想が現はれる時、文体の変化も急激に現はれるのが常である。明治二十年前後、明治の末年には、思想の近代化とともに文体が写実的な口語体となつた。大正末年から昭和の初年にかけて、マルクシズムが盛になつた時、それまで落ちついてゐた口語文体は、ヨーロッパの第一次大戦の影響もあつて、主として横光利一を中心として、破壊され、新感覚派と言はれる飛躍的な印象の結合による新文体を産んだ。それは、その時までの口語文体に含まれた論理に対する抵抗であつた。この時の文学は、政治思想のマルクス主義文学と藝術至上主義の新感覚派文学の対立といふ風に文壇意識では説明されてゐる。そして新感覚派の中にもマルクス主義的考へ方が入り、マルクス主義の方にも新感覚派的技法が取り入れられたのが実情であつたが、最後にはかなりはつきりと対立したのである。しかし実はこの二つの現はれは、社会秩序が動揺したことの反映としての一つの現象の二種の現はれであると考へるのが正しいやうに思ふ。口語文体にある日本の社会の通常の論理が否定される時、その言語構造を否定して、新しい思考形式に合致する文体を、文体に関心を持つ作家は探索する。そして、思想の側でも新しい論理が探索される。たとへば、この時期にフランスに現はれた新文体を代表してゐたシュルレアリストのルイ・アラゴン等が後にマルキスト作家となつたことは、妥当な動き方であつた。

 日本の新感覚派の代表的な文体を作り出した横光利一は、その文体の整理をする時期になつて、『機械』を書いてその文体を心理分析小説又は一グループの人間の間の相対的心理のリアリズムの把握といふ論理的な方向に近づけた。それは正しい方向であつたが、彼はそれを途中で放棄して、日本の社会の封建的な道徳を是認するやうな発想法にその文体の論理を歪めて行つた。それは戦争の時期に当つてゐたから、代表的な注目される作家で、もともとストイックな性格を持つてゐた彼は、さうならざるを得なかつたのである。その文体は、彼の後期では、超論理または反論理の表現方法となつた。戦時中の日本の社会で善とされたものを是認するためには、彼はさういふ発想をとらざるを得なかつた。その発想は、彼自身に非論理な痛ましいストイックな精神主義生活を強制し、その生命を縮めさせた。彼は絶食同様の生活をし、また近代的医療を認めなかつた。自分を苦しめ、自分の慾望を否定すれば正義が実現される、といふ風に考へる日本の道徳家や宗教家の発想法と晩年の横光の場合は同型のものであつた。

 

 三 死または無による認識

 

 前章で主として社会的関聨から説明した自己放棄型と絶望的破滅型とを、内的な方面から考へて見る必要がある。自己否定、自己放棄または無の意識は、日本では潔癖感や正義感と深く結びついたものとして存在してゐるが、社会的関聯を考へずに、単独人としての生命意識を考へる場合、これは強力な思考法である。文学藝術を、物語りまたは叙述による生命の表現方法と定義すれば、それは歴史や伝記を含むことになつて、まぎらはしいけれども、日本の近代文学では、自伝が大きく小説の中に食ひ込んで居るし、鴎外などの史伝もまた小説に組み入れるのが習慣であるから、しばらくこの定義を使ふことにする。

 普通の生活者は、その追求してゐるものが、社会通念の上における虚栄や、社会通念の上における実利のみである。一個の林檎の中にその販売価格を見るのが商人であり、その味を考へるのが一般消費者である。美術家は、その色彩と形の美しさを見る。純粋の消費者、純粋の美術家といふものは存在しないが、比較的に言へば、生活者は林檎の色彩に無関心である。美術家が、その形と色彩の特色を抜き出して、抽象化し、純粋化して紙の上に描いた時に、はじめて生活者は、その形と色の喜びを理解する。それと似たやうな形で、生活者は、自分の生活の中にある真の生命感を悟らないで、実利と虚栄を追ひ求めるのに全精力を使ふ。その生命感を抽象化し、言葉を通して置き直して見せる文藝家によつて、生活者は自分が行つてゐる生活や、行ふ可能性のある生活の中での自分の生きてゐる実感を、実利に基く喜びや悲しみとは別個の溌剌としたものとして初めて理解する。

 一枚の木の葉の美しさ、幼児の微笑の美しさ、自分の平常な生活の中にある意味、歩くこと、聞くことの意味は、生活者にとつては捕捉しがたい。文士もまた通常の生活者である時は、生の実相を、社会や家庭の中で他人との接触、交渉、比較などの中で見出すのが常である。それ故普通の生活を営んでゐる文士にとつては、生命感は、対人交渉の中で味はれ、そのやうなものとして表現される。動かし難いものと意識される秩序の中に生きてゐる人間は、善と悪や美と醜の判断を明確に持つてゐて、その善の標準から自他の人間の行為や容姿を判断し、その区別感覚で人間たちを輪郭づける。しかし秩序が動揺してゐるか、自己のその秩序についての判断が動揺してゐる時は、その区別感覚の輪郭の線がぼんやりし、判断は曖昧になる。

 しかもなほ、そのやうな人間関係の中に、普通の生活者は、実利と社会通念による虚栄の満足感とをしか見ようとしないが、文士は人間性全体の相互関係にある力の働き合ひや争ひや調和の根本形を見ようとする。生活者にとつては多くの場合意味を持たないと思はれるものに文士は生命の表現の意味を見て、さういふものの組み合せの図式を考へる。しかしさういふ人間のエゴの組み合せは悲しい、又は醜い、又は残酷な印象に集中される。生命が拡大しようとして他のエゴや権力に抑止される時に、初めて生命の存在感は現はれる。抵抗感が生命の実在を認識させるのである。それ故現世的な又は社会関聯的な文藝作品に描かれる生命の相は、一般に否定的であつて、悲哀、苦痛、倦怠、羨望、不安、憎悪等の感情をもつて初めて生命が描き出されるのが常である。

 だが現世を放棄したものにとつては、実在自体が美しく意識される。対人関係から解放された時、急に空の美しさ、山の美しさ、木の葉の美しさなどが意識される。人の姿の美しさもまた日常の生活を共にしてゐる人間に対しては感じられず、自分と利害関係を持たない異性に突然逢つた時に強く意識される。さういふ肯定的な生命感が最も強く感ぜられるのは、その人間が死ぬことを意識した時である。自分の生命が無に帰し、この世の自然と人間の総てが自分から失はれるといふ意識を持つてゐる人間にとつては、蟲も木の葉も、嫌悪と憎悪とで今まで接してゐた人間も、悉く美しい本来の姿を現はす。なぜなら、その人間にとつては、その時、現世における利害の争ひと虚栄の執着が失はれ、自然と人とは、その単純な存在として意識されるからである。

 そして現世否定によつて安心感を得る傾向の強い日本人は、現世の場における力や力の戦ひを描くのが下手である。そして遁世的生活によつて自然の美を新しく見出すと同時に、死の意識によつて、人と物との個としての生命を把握することが、伝統的に巧みである。

 近代の日本文学では、そのやうな死又は無の意識によつて描かれた短い小説で名作と言はれるものが多い。志賀直哉が大怪我をしてカリエスになることを気づかつて、温泉にゐた時の自然のスケッチである『城の崎にて』、結核患者である堀辰雄や、尾崎一雄や島木健作や梶井基次郎の短篇小説のあるもの等は、その描写の美しさと鋭さによつて強烈な印象を読者に与へるが、それは、死の意識の上に根本から発見された生命の姿であるからである。また良寛の作品のやうなものは、死の意識でなく、理念的に作られた無の意識の上に立つた人間が認めた生命の相を示してゐる。同型のものと言ふべきである。

 実例を挙げて説明してゐる余裕はないが、()し小説といふものが物語りあるひはフィクションを持つてゐなければならないとか、人間を描いたものでなければならないといふ説は、これ等の作品を考へる場合成立しないことになる。少くとも近代の日本文学でこの種のものを小説でないとすれば、非常に多くのものが小説から失はれ、同時にもつと非小説的な自伝小説もまた否定されねばならない。またこれ等の作品は、現世の人間関係を描いた作品が否定的情感によつて維持されてゐるのに対して、肯定的情感によつて維持されてゐる。といふのは、現世の人間関係を成立させてゐる生の基盤は、他者への働きかけや他者からの働きかけを描くが故に、その抵抗感は苦しみや悩みとして意識されるからであり、後者の方は、死や無から見る故に、生は全的に望ましいものとして肯定的に見えるからである。前者の人間関係を描いた作品の美感は、それらの否定的なものの綜合としての調和感が成立した時に一部でなく全構造の綜合として現はれ、又破滅や崩壊が結果された時には、遁走形式的な継次的な秩序の美感として、やつぱり構造全体として認識されよう。

 また無や死の上に立つ生命の認識は、本人が死を意識した時にのみ現はれるのではない。本人の肉親、近親、愛人の死によつて、自分の生きることの意味を根本から考へ直すやうな時にも、それが起る。それは実例で言へば、妻を失つた上林暁、原民喜、外村繁等の作品に見られる所のものである。また死のみでない。近親者や愛人の狂気や道徳的破滅が起つた時も、本人が鋭い認識者であれば、彼は生活することの意味を根本から考へ直すことによつて、生の認識を新たにするのである。この体験によつて立派な仕事をした作家の例もいくつかある。近親や同棲者に破滅者を持つた丹羽文雄や中山義秀にもその種の作がある。また妻が姦通者であつたり、女と一緒に死なうとして自分のみが助つた太宰治の体験は、彼の認識を鋭くさせたが、また危くもさせた。これ等種々の契機によつて彼等は言はば「悟れる人」又は「生の根源を見透す人」となる。文士のみでなく、世間にはこの種の体験によつて透徹した生の認識をもつた人が多くゐる。その中のある人間は他人の不徳や不幸に対して実感的な理解と憐れみをもつて接することが出来る強い人間になる。しかしこのやうな体験を経ると、弱い人間は生活意識を失ひ、駄目になり、または背徳者となつたり、自殺者となつたりする。原民喜にとつては、その人なしには生きれないほど愛してゐた妻を失つた後で広島の原子爆弾の下にあつて無残な集団殺人の実相に接したことは、あまりに過重の負担であつた。彼は生きる意味を失つて自殺した。

 更に前に書いた逃避型の演技的延長として生れる破滅型の作家の場合は、社会善から自分が外れてゐるといふ意識、または家庭道徳を破壊したといふ意識から、通常人ならば立ち直つて社会復帰が出来る程度の場合にも、敏感な人間にはそれが出来ないと感ずることから起るものが多い。彼は心の(きず)によつて自己に社会人たる資格を否定し、一層逃避的となり、自己否定の衝動に負けて反道徳的なことを重ねて行き、立ち直れなくなる場合が多い。自分が正義感のより所を得た共産党から脱落し、妻と別に愛人を持ち、その愛人の良心を信頼できない、といふ境遇に次々と陥つた田中英光の場合が最も典型的である。

 私小説を書く文士においてこのやうな経験があると、そのやうな境遇の疵が売文売名上のある力となることを彼は理解するから、その破滅的行為が半ば意識的に続行され、拡大されてゆく危険のあることは、前に述べたとほりである。だがそれを生命認識の内容から言ふと次のやうになる。即ち、家庭生活のやうな、その場から人間が自由に離れられない場において、同棲者に心の疵を与へると、よほど弾力のある人間か無感覚な人間でない限り、その疵は同棲者たちの間を引き裂いて、家庭は不安と憎悪の場所となる。敏感な人間ほどその不安と憎悪に耐へられないから、家庭は嫌悪され、彼は次第にそこに棲むことが出来なくなる。そのやうにして、実生活は一旦壊れると、もうそれはもとに戻らない。その痛みによつて、彼は失はれた切りでもう戻つて来ない過去の平安と幸福を初めて認識するのである。さういふ悟りを、家庭を傷つける前に(あらかじ)めイデーとして持つことは、容易に出来ることではない。家庭といふ宝物は壊れて失はれる時に、はじめてその真の価値を当事者に認識させる。

 その認識は本当のものであるから、それを描く彼の作品に真の輝きを与へる。それは言はば前に述べた無の意識による実在の把握と同性質のものだからである。しかしそれが作品として発表されて事件が公然のものとなると共に、もう形だけでも家庭の原状を恢復することはできなくなる。彼は生命を失つて行くと同じ形で家庭を失つて行き、一層多く失ふやうに坂を下つて行きながら、一歩毎に更に認識を深めて行く。そしてその認識は真実なものであるから、それを描いた作品の価値を高めてゆく。これは、物事の本質を抽象的に把握することができなくて、行為においてのみ認識する傾向のある日本人には、最も起りやすい悲劇の一つであつて、私小説家の場合には、ジャーナリズムの作用で招くやうな深刻なものとなる。彼はその死にいたるまでに、順に、妻、子、家、愛人、友人、そして最後に自分の肉体といふ風に、一つ一つ失ひ、失つた時の認識を作品の価値に置きかへて行きながら、生命の全深度を経験するのである。それ故このやうな破壊による自殺は、同時に、たつた一度の、そして最も真実な、自己の全存在の認識を得るのである。それを描いたものには本当の力があるにしても、それは生命によつてあがなはれたものである。

 

 四 上昇型と下降型

 

 破滅型または逃避型と、死または無による認識とは、日本人の認識方法の二原型のやうであつて、死を意識することによつて生命を認める点では似てゐるが、その方向は反対である。即ち、前者は、社会の実生活から下降し、又は遁走し、また破滅することによつて生命を味はうとする傾きを持つてゐる。後者は、自分が死に直面してゐるといふ意識から生活と自然とを味つて生きようとする上昇的な生命観を持つてゐるのが常である。しかしこれは両者とも、その存在感の究極を無といふ永遠性の中に見出してゐるのである。そのことは、次のことを示してゐる。人間は大地の上に立つてゐることを感じなければ安定しないやうに、危機に面した時には、自分の存在が何かの絶対なものと結びついてゐないと不安で耐へられなくなる。その絶対の形は一方の極が死または無であり、他方の極は完全性または神であるらしい。

 それ故、信仰者においては、自分の存在は、全なる神と結びつくことによつて安定してゐる。死が彼を訪れる時、彼は無になるのではなく、神に吸収され、神に戻つて行く。この考は神なる有、即ち無限なる実在感を前提としてゐるから、生命の無の感じに反対であり、それに抵抗する。生活の中に理想的実在を強く考へる人間はこの傾きを強く持つてゐる。キリスト教は愛のカケ橋によつて人間の実在を相互に結びつける。またカトリックは自殺を嫌ふ。自殺は実在意識の否定即ち神の否定だからである。しかし無の認識の上昇形式においては、人間は自己の不存在即ち死滅を状態のオリジナルなものと考へることによつて、今ある生を限りなく貴重に意識したり、またその宇宙における存在の小ささやはかなさを考へることによつて、名誉や汚辱や不幸を取るに足りぬものと考へて安定を得る。又反対に時としては生命の小ささはかなさを考へることによつて現世で人と争ひ生活に苦しむことを無意義だと感じて、世を棄てて、擬似的な無の形即ち遁世的を生活形式で安定し、又は容易に生命を棄てる、下降型である。このやうに、東洋的な無の認識は上昇型と下降型の二つを生んでゐる。病者が上昇的な明るい認識を、無の意識の上に作り出すことは、正岡子規、堀辰雄、北條民雄その他の例があり、前に調和型の認識者の例として挙げた志賀直哉を支へてゐる根本認識がまた、この種の無の思想なのである。

 志賀の無の認識が早いうちに顕著に現はれたのは、前記の『城の崎にて』(大正六年)であるが、彼の思想の全体を表現する大作と見なされてゐる『暗夜行路』(大正十年−昭和十二年)の認識形式もまたそれであると言はねばならないのである。この作品が私生活記録でなく、完全なフィクションであるだけ、作者の思想の骨骼は明確に現れてゐる。この作品の主人公は、母の過失によつて生れた。成年して後に彼はそのことをある時兄に知らされる。すると彼は、「広い世界を想ひ浮べた。地球、それから星、宇宙、さらに想ひ広めて行つて、更にその一元子程もない自身へ想ひ直す。すると今まで頭一杯に拡がつてゐた暗い惨めな彼だけの世界が急に芥子粒程になる。」といふ形で心のバランスを恢復する。だがその後に、彼は自分の妻が、姦通などといふ意志もなく外の男と間違ひを起したことを知る。この時の苦悩はもつと強烈である。妻と別れて旅に出、長い苦悩の果てに、彼はある時夜間に登山する。そして夜明けの広大な自然の風物の中に自分の生命を恢復したやうに感ずる。その登山の帰路から彼は重い病にかかり、死にヒンする。妻が看病に馳けつける。その重い病の治つてゆく過程に、主人公は妻の過失をゆるし、妻を受け入れて自分も生きるといふ調和を発見する。

 前にも述べたやうに志賀直哉の調和感は、強く意志的なものであるが、その調和の世界が危くなると、この二つの場面に出てゐるやうに、生命の小ささ、即ち無に近い方の極限を考へ、または死を設定し、死といふ無から見直すことによつて今存在する生活の意義を再認識する方法をとる。であるから、ここで、調和感なるものが、無の認識の上に築かれてゐることが見出されるのである。ここで分ることは、調和思想と存在の極としての無の認識とが、対立するものでなく、結びつき得る、といふことである。このやうな志賀直哉的調和の内容を支へてゐる論理は、直感または好悪に裏づけされたものである。主人公の時任(ときたふ)謙作に言はせると、「何でも最初から好悪の感情で来る」ものであり「好悪が直様(すぐさま)此方(こつち)では善悪の判断になる。それが事実大概当る」のである。であるから社会現象、政治問題等もまた好悪によつて決定されるといふ危険を含むのである。この直感の判断は、彼が若い頃に学んだ内村鑑三のキリスト教的判断の系統を引いてゐるらしい。

 即ちここに、無の認識の上に立つて現世を肯定し、その調和を意志的に望み、その調和の秩序となる善悪の判断を好悪によつて定める、といふ志賀直哉的な世界が構成されてゐる。そして現在までのところ、日本の社会秩序に抵抗感を起させないやうな調和的人間像として、文学的に捕捉されるものでは、志賀直哉のこの構造が最も信用され、また実践性ありと見られるものである。長與善郎の『竹澤先生と云ふ人』(大正十四年)もまた東洋的な思考とヒューマニズムとの結びつきから成つた世界に立脚してゐる点では、『暗夜行路』の世界とある相似形を持つものである。

 さて、無の意識の上に、現在の生活を直感的な好悪で判断することで持続できる生活は、色々な条件が伴はなければならない。第一、好悪によつて物事を判断して決定する生活は、人間関係や仕事関係から言つて、他人と共に働く勤め人には持続できるものでない。時任謙作が自分の好悪が潔癖な中正なものであることを確信し、私自身も読者として、この作者の示す判断には心から服する。しかしその中正さは、生活の日々が危さにさらされ、他人を羨み、他人と自分との立場を不公平だと考へるやうな人間、即ち大多数の無産者には出来ないことである。生活が危い人間は戦ふ外はない。中正は一般生活者には保持しがたいのが普通である。それは恒産を持つてゐるか、自分一人で行へる文学制作のやうな特定の技術と確実な読者といふ顧客を持つた人間でなければ維持できるものでない。『白樺』系統の文士たちは、鋭く美しい友人批評をし合ひ、潔癖な絶交と復交を重ねて交際してゐるが、それは恒産か又は文士といふ自由職業に支へられてのみ出来ることである。即ちこの調和的人間像は限られた特殊な場合にのみ成立するもので、一般の近代市民の像とは違ふのである。それ故、志賀直哉的人間像から近代社会を構成することは困難である。

 更にこのタイプの思考型を中心にして推定的に次のやうなことが論ぜられるであらう。一つは、日本のインテリゲンチャの特に良質な部分の人たちは中にはマルクス主義者をも含めて、志賀直哉的人間像に対して、大きな敬意を払ふばかりでなく、そのやうな像を論理的に判断せずに、自己に体得しようとする衝動を強く持つてゐる。そのことは、人間の立場の経済的又は性心理的分析を拒否することによつて、生活者の実在感を好悪によつて保つといふ危険を呼び起す。日本の知識階級者が、論理を真の人間形式の土台と考へてゐないこと、無の認識の力強さに魅入られてゐることが分る。即ち、この思想は、市民社会の人間の組み合はせの以前なる家族や友人の間の直感的調和は作り上げ得るが、その先に出て行かないのである。社会の組織づけへの努力が論理的実践として行はれず、ともすれば、好悪をもつて判断しがちだ、といふことである。優秀なメンバアがそのやうな思考型を持つてゐる社会では、ある傾向、ある好み、ある偏執が発生すれば、それは驚くやうな速度で社会全体を蔽つて、その思考力を押し流してしまふ危険がある。

 更に、もう一つの推論を加へよう。根拠のある強い判断は、有の極か、無の極かを意識することで立てられるが、無を極とするこのやうな判断は、既述のやうに、生命、父母、兄弟、夫婦、友人、といふ順で社会生活へつながつて行つてゐるが、社会生活といふ浪立ちの最も激しい所へは入つて行かない。それは言はば植物的または動物的生命感であつて、素朴強靱ではあるが、人間以前的、原始的なものの力を頼つてゐる認識方法である。即ち他人を認識することによつて始まる多元的な社会意識、市民意識、政治の論理的調和を意識した生活には結びつかない。他人との接触の浪立つ場が耐へられなくなると、その認識の根元である無、逃避、死の方へ急激に落ちて行くのである。そしてこの思考型を持つものが社会関係へ入つて行く時は、孤立者の努力と忍耐や、技術による卓越への希望といふ、孤立的出世意識となることが多い。それが文学作品に反映したものが、近代日本では藝術至上主義的発想であると私は考へてゐる。それはこの次に述べる。 .

 宗教は、無の認識を原型とする道教でも佛教でも、また他者との調和を考へる儒教でもキリスト教でも、それが信仰を強め、信者をひろげてゆく活動期にある時は、有の働きをする、と私は考へる。現在のコンミュニズムも有の働きにおいては、宗教と同様であると私は考へてゐる。即ち有とは人間社会の調和、理想実現の可能性の確信、未来への信仰、努力と奉仕との価値の確認である。存在の極が未来の理想社会に置かれてあり、それへの接近によつて生命感を実感するのである。この有の生命感と進化論以後の近代社会の論理とが結びついてゐる点で、コンミュニズムは最も強く現代人に働きかける有の思考型式であると思はれる。

 日本の近代の知識階級に健全だと考へられる思考型式、たとへば志賀直哉的なものは、佛教や老子の思想が日本で形式化し葬祭の儀式化して生命を失つたあとに残した無の認識の型と、進化論以後の近代の自然科学的認識との結びつきである。これは、近代の東洋の他の国にも例が少いし、西洋の近代思考の原型であるキリスト教的他者の認識と論理との結びつきとも違ふところの、近代日本にのみ特有のものである、と私には考へられる。日本の無の思考型は、明治二十年頃から多く輸入されたスペンサアなどの進化論的認識と結びついて、無、宇宙、微生物、植物、動物、人間といふ順で積み重ねられて現代日本の知識人の無信仰性を支へてゐる。我々が自然を愛し、草木を愛好し、自然性と調和した庭園や家屋や藝術を持つのも、我々の発想が自然感を通して無に連結して安定するからである。ヨーロッパ人の装飾法、庭園が人工的で人間的であることはその逆である。世界各国の現代人のうち、日本の知識階級ほど、無信仰でしかも割合に混乱せずに生きてゐる人間集団は少いやうに思はれる。

 このやうな図式の、進化論と無の認識の直結といふ特殊な認識によつて生きてゐる日本の知識階級者は、志賀直哉において見られるやうに、自然的存在として人間を考へることで、バランスのよい極を持つてゐる。しかし、その堅固さは、社会的他者の認識による社会的組み合せ以前のものであつて、家族と親戚までしか確実に考へることができないのである。我々は草花を愛し、床の間に生け花を置きながら、公園を汚して何とも思はない。たとへば、私自身を反省しても、この範囲からいくらもはみ出てゐないやうに思はれる。神を考へずには近代文学は存在し得ないとか、神の意識を我々は持てないとか、日本の当代の立論者は言ふが、我々は神の代りに無を考へることによつて安定してゐるのである。考へる力がないのではない。考へる必要を感じないでバランスを保つてゐるのに過ぎない。無の絶対は、神の絶対と同じやうに強いものである。ヨーロッパ人における無宗教の知識階級者は、型としてはやつぱりキリスト教的な他我への働きかけを原型として持つてゐる。この型は自然的であるよりも社会的であるから、型そのものとしては市民生活の組織の中に生きやすく出来てゐる。集合して生存する人間の間の調和感は、未来的な理想社会といふ有の極を持つてゐない時には、秩序感を失つて狂ひがちになる。ヨーロッパ文学には中世から後、無信仰者やクリスチャンによる理想国のイメージが、トマス・ムア以来、いなダンテ以来絶えることなく書き続けられてゐる。それは日本における『方丈記』以来の遁世の理想的孤独人のイメージが代々受けつがれて書かれて来たのと、最もよく対比されるだらう。

 さて、そのやうな無に直結した自然的存在感によつて支へられてゐる日本の知識人も、現実の現代生活の中では、自然人でなく社会人としての自己と他人を認識することを強ひられる。日本の社会は自然的論理、即ち非抽象的、反イデー的な、所謂物質文明と呼ばれたものを進展させ、社会は急激に資本主義化された。そして抽象的な社会組織についての思考はその後から遅れて進んだ。しかし我々の認識は、社会生活を自我と他我が組み合はされて論理的に理想形を作らうとする形での訓練に慣れてゐない。社会組織の論理的説明をするものとしてマルクシズムが流入した時、日本の知識階級者は、社会的思考の伝説と習慣とを持つてゐなかつたので、このマルクス主義的説明を殆んど純粋図式として受け入れた。この純粋図式と自然人的な好悪感情とが結びついて、急激に有を極とするコンミュニズムが知識階級者の心の中に形成され始めたのが大正末年から昭和初年にかけての頃である。

 体験的伝統的な発想形式としては日本にはなかつた社会的生活認識が、突然純粋図式のマルクス主義によつて接ぎ木されたのである。それが弾圧された時、転向者は急速にそれから離れて破滅者として無の認識に落ちて行つた。さうでないものは、その図式をそのまま絶対君主制と結びつけて侵略的政治思想に転化し、近代思想以前の軍国主義に容易に変化した。それは、日本の伝統的発想においては、人間関係は対等即ち横の等質の組み合はせで考へられず、タテの支配と従属の関係としてしか存在しなかつたからである。日本では横の人間的関係がきびしく考へられる時は、人間相互を結びつくやうにならず、遊離、遁走といふ離反関係を呼び起しがちなのである。私小説といふ孤立した人間のイメージにのみ強い真実が込められた真原因はこれであらう。それ故日本人の強い個我は他の人格から離れて無の上に孤立せる我である。日本的偉人、英雄、平等の観念は、人間性の相対的真実から離れた神秘的イメージとなる。親しみを与へる形でなく、自分の手の届かない神秘的存在が偉大さを感じさせるのだ。ヨーロッパ人の強い個我は、相対的人間性の調和力においての強い人格である。ギリシャ的に言へば智慧と力との調和したオディッセウスであり、キリスト教においてのイエス的な、有の極なる神と人間相互の結びつきの愛の象徴としての人格である。

 

 五 藝術至上主義と立身出世思想

 

 藝または熟練が人間の救ひになる、といふ思想は、日本の近代文学の中を一貫して流れてゐる。文学以前においても、宗教的な理想の人物の物語りにもそれがあり、武者修業者または武道の熟達者を日本人が理想的人間像として意識してゐて、宮本武蔵、源義経などが現代において何度も描き直され、語り直される。それ等の人間のイメージの中には、孤独の中で、鍛練によつて才能を育て上げ、何人(なんぴと)にも負けない存在となることを理想とする日本的な立身出世の認識形態がとらへられてゐるやうに思ふ。

 明治時代にこの意識を描いて、時代人の深い同感を得たのは幸田露伴である。彼の出世作『風流佛』(明治二十二年)は彫刻の技に達することによつて現世の行きつまりから救はれる彫刻僧の物語りである。その次の代表作『一口剣』は妻に棄てられて発奮して名剣を作る鍛冶屋の物語りである。作家としての彼の最も油の乗つた時代に彼は『五重塔』(明治二十五年)を書いた。この作品は、前の二作と較べると、熟練によつて単純に他人を凌いで救はれるといふのではない。名人気質の大工が五重の塔を請け負つて「後世に名を残す」ために、師匠に当る先輩の大工を強引に押しのけ、それに取つて代つて、立派な五重塔を作つて名を成す、といふ物語りである。即ち明治二十五年にこの作品が卓越した名作と認められた原因として、熟練による立身出世は、人間性を傷つけ、害することがある、といふ認識が知識人の間に生きてゐたことを證明するもののやうだ。

 私はここで、藝による自我の確立と進展といふ考へ方が描かれたものを「藝術至上主義」と名づけた。これはフローベルの例において考へられる藝術至上主義とは違ふ。近代日本の藝による自己救済の思想は、一面においては遁世的破滅思想とつながつてゐる。孤独者として自己を社会から切り離すことで完成する所の、多くの隠者、剣士、名人藝の職人などは、社会背反者である。そのやうな背反者的な発想を持つところの藝人や藝術家が社会に対する時は、彼は、社会との有機的な論理的なまたは調和的な存在として自己を意識するのではなく、逆に、彼はスネ者、孤独者として、ただ自分の藝にのみ神秘的なまで熟達した人間として社会に戻つて来た時にのみ有能であり、役に立ち、見出され、出世するのである。特殊人としてであり、超越者としてである。そのやうな形において、近代日本の指導者たちを養成した立身出世思想は、文藝に生かされてゐる。純粋藝術家といふ自負を持つた藝術至上主義的作家によつて、立身出世意識は描き出され、かつ青年を鼓舞したのである。

 近代日本の有能な知識人または文藝作家が社会と自己を関連させる場合の根本認識は、この種の文藝作品に具象化されてゐる、と私は考へる。このやうな孤立した熟練を持つた人間が、自ら欲しないのに拘らず、社会の枠の中に組み入れられる、といふ発想法において、明治人は出世して行つたのである。即ちその発想法では、立身出世するのは、何か特技を持つたものの権利である。その救ひは、他人に勝てる特技を持つことによつて得られる。社会において有用の人物となることは、そのやうな人間にはやむを得ないことである。しかし彼の本質的姿勢は、調和性ある社会人ではない。孤独者が仮りにその技能によつて社会に織り込まれたところの社会人なのである。『五重塔』の主人公のつそり重兵衛は腕はあるが人ずきが悪く、金儲けできない人物である。特殊人、ヘンクツ者、孤独人といふ姿で社会に接触することが、この型の理想的人間である。泉鏡花の『歌行燈』(明治四十四年)もこのやうな孤独人が藝によつて救はれる物語である。それが八年後の大正七年に書かれた芥川龍之介の『地獄変』になると、藝はもはや人間を救はなくなる。人間性の破壊者として藝が働くことになる。近代の日本文明が次第に峠に達して、知識人の立身出世が通常の社会では困難になつて来た時期にこれが書かれたことは象徴的である。主人公良秀は絵の名人で怠け者で、世間の習俗を無視した人物であつた。彼が地獄を描くために火事の場面を写生した時、彼の娘はその火の中で死んで行つた。藝術家が生きようとすれば、家族はその犠牲になつて滅びる。藝術は世の常の愛情を越えたものとならなければならない。藝術家の発想として現はれたものは、そのやうなものであるが、それは日本の近代社会では、人間性を開放する藝術は悪であると考へられたことの反映でもある。社会全体が藝術による人間性の是認を発想形式として持ち合はさないことと関係があつた。

 しかし知識階級一般がこの種の作品に喜びを見出すことは、明治の中頃から後の社会においては、何か事業を営むこと、そして成功することは、必然に悪を行ふことだと考へられてゐたことの反映である。競争に勝ち、利益を得、個人的名声や権力を社会の中で得ることが、そのまま善であると考へることは、ヨーロッパにおいても多くの宗教的抵抗を経てのちに現はれた思想である。それはカトリック教においては長い間否定されてゐたが、新教が発生して、近代産業思想と結びついた時はじめて是認されたもののやうである。営利または企業が正義の行為である、といふ思想は日本では福澤諭吉によつて、繰り返し、明治初年から称へられてゐた。明治時代に日本の文明と知識人とが旧時代の空白を埋めて発展した時期には、福澤的な考へ方は、しばらくの間は大きな抵抗なく受け入れられたやうである。

 しかし立身出世の余地が少くなり、産業の経営者が閥や家系や政治家とのつながりを頼りにしはじめた大正期になると、成功に対する疑惑が起つた。一人の仕事の繁栄は他を侵すことではないか、といふ危惧が知識階級の内に生じた。社会主義思想が明治末年から、次第に日本の社会にはびこつて、その考を裏づけた。藝術家には藝の熟達といふものとして意識され、一般社会には立身出世慾として意識されてゐた特定の超越者なるもののイメージが崩れ出したのである。

『地獄変』の書かれた翌年の大正八年に佐藤春夫が書いた『美しき町』においては、理想社会を夢見る一団の藝術家たちが出現する。隅田川の中の小さな島を買つて、そこに理想の町を作らうと夢想するこの一群の人間は、それが来るアテのない遺産によつて作らうとした夢であることに気がついて万事崩壊することになる。菊池寛の『藤十郎の恋』が書かれたのもこの年である。これも藝術至上主義を描いてゐるが、生活者菊池においてはかなり批判的に扱はれてゐる。

 藝術至上主義は、文壇生活者、とくに私小説家たちの生活の心棒であつた。よい藝術を作るためには、妻や子や家庭の幸福を犠牲にしてもよい、或は犠牲にしなければならぬ、といふ発想法で、多くの藝術家の生活は営まれた。と同時に彼等は、社会的に見れば自分の生活は善いものではない。藝術家だから藝術のために、そのやうな生活をしなければならないのだ、と考へた。実は、大正末年頃から後の日本の社会では藝術家がさう思つてゐるばかりでなく、商人も役人も軍人も教師ですらも、良心を持つてゐる人間たちは、そのやうに考へながら生きてゐた。そして各職業はタテに階層的に区分され、横の社会人市民としての連絡がなかつた。このやうな社会での自己確立は、外形のみであつて、それは自己を失ふことと同じことになつて行くのである。

 川端康成は昭和八年、鳥や獣を飼つてゐた体験を小説に書いた。良い犬を得るためには、野犬と交尾させてはならない。一回でも駄犬と交はつた犬は良い子を産まない。良い種を保つには他の犬から切り離して、純粋な孤独の人工的な条件中で飼はなければならない、といふ種類の感想を書き並べた小説である。その六年前の昭和二年に自殺の直前の芥川龍之介は『河童』を書いた。河童の国では驢馬の頭脳を粉にしたものを機械に入れながら紙に混ぜると、小説といふものがいくらでも出来る、と彼は書いた。『河童』も『禽獣』も好評で傑作といはれた。この頃日本の企業は高度化し、出版企業もまた近代的な大量生産をはじめた。文士はそこでは、出版といふ企業を形成する機械の一部分であり、その生活は人工的に養成された純粋種の犬に似たあるものがあつた。藝術家、藝人たることは、自然な人間の生き方に反することになり、その人間性は歪められ、歪みは拡大されて利用された。出版業がそのやうなものである時、当然他の企業もさういふ人間性の歪みの拡大の危険を持つて来てゐた。

 この事は、日本人が社会生活市民生活の意識を伴つて近代的な社会を形成しないうちに、その産業組織のみが発達したので、その中の無抵抗な人間を容易に危機に陥れる状態となつて来たことを物語つてゐる。昭和十年徳田秋声は『仮装人物』を書いた。彼はこの作品の中で、その十年ほど前に彼がした実験恋愛、即ち小説の種子にする意識で行つた恋愛について体験を書いた。彼の愛人は主人公のこの気持を反映して、自由に不貞な裏切りをし、主人公に耐へがたい思ひをさせる。それが何度も続くのを、主人公はただじつと見てゐる。人間性として耐へがたいこの経験を、主人公なる作者は、作家としての目を持つ以外、自分のエゴを殺して耐へて見つづけ、その体験を作品化したのである。幸田露伴の『風流佛』や『一口剣』等には佛教の思想が反映して孤独なる人間の救済感が出てゐたやうに、『仮装人物』を描く秋声にも、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」、といふ禅の思想形式がある。ここでは、自己を滅却して純粋客観者となる能力を得ることである。無の思想は他者の認識を困難にするのみではない。自己の人間性をも意志によつて消し去つて、一時的な無即ち非存在を設定するのである。志賀直哉の場合とは違ふが、秋声の『仮装人物』の場合もまた無の意識は救ひとして働く。この時の無の救ひは、藝術至上主義的である。即ち藝術のために生活が犠牲になると平野謙が考へたタイプはこれである。即ち藝または仕事のためには、人間らしさは犠牲にされる、といふ考へ方の一つである。

 この同じ昭和十年から書き出されて、十二年に完結した川端康成の『雪国』は、『仮装人物』よりも唯美的な思想と文体とを持つてゐるが、その本質、即ち女性と自己との中に生活者を生かさうとせず藝術的な美の現れのみを求める過程において、その女性の生活意識を圧迫し苦しめる、といふ骨骼においては、『仮装人物』と極めて似た発想法を持つてゐる。このやうな作品の形は『ファウスト』等にも見られ、ヨーロッパにもあるものだが、ヨーロッパ人の発想では、最後に女性も救はれて、人間的調和を恢復することが強く願望されるのが伝統的な描き方である。日本のこれ等の作品では破滅の絶対的な悲壮美に輝いてゐて、調和的恢復がむしろ嫌悪されてゐる。

 六 相対的人間像と並列手法

 

 相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である。また日本のやうに、目に見えない所まで、無の意識がひろがつて人間の思考を支へてゐる国で、人間関係を相対的に設定して見ても、元来は有の形でしか安定し得ない人間と人間の関係に、強い調和を望むことはできないかも知れない。また日本のやうに人格が容易に孤立して神秘性を帯びて絶対化することで安定してゐる国土で、相対的な調和を求めることは、それ自体、雇傭関係、夫婦関係、社会階級関係等において危機意識を深め、不安定な気持に人間を陥れるものである。漱石の『明暗』の呼び出す恐怖、横光の『機械』に描かれた人間関係の怖れ等を考へれば足りる。

 しかし、相対的関係において考へない以上、社会的な人間像は実在化し得ない。この相対的な関係、即ち善悪の判断の動揺性、貞操や服従関係の変動性等を是認することは、人間関係に不信を呼び出し、自己の立場を危く感ぜしめ、人間はそれに抵抗して、全か無かの極点に自己を近づけることによつて安定しようとする強い衝動を持つやうになる。そのやうな人間の本質的な不安定の恐怖を描いた近代日本文学の最初の作品が二葉亭四迷の『浮雲』(明治二十年−二十二年)である。相体的実在の怖れは常に人間を襲ふ。芥川の『薮の中』では、夫の目の前で犯された女が犯した男に自分の夫を殺すことを求める。潤一郎の『お艶殺し』では可憐な少女が悪者に堕落させられて愛人を破滅させる。『大菩薩峠』では、自分を凌辱し夫を殺した机龍之助をしたつてお濱は彼と流浪する。『明暗』では、美しくない娘がそのことのために声をあげて泣き、夫は妻を、妻は夫を征服しようとして寸時も休まず狙ひ合つてゐる。そのやうなエゴの変転とエゴの食ひ合ひを免かれて安定しようとする時、人間は死または無を願ふか、絶対なる神に自己をつなぎとめることしかあり得なくなる。

 明治二十四年、斎藤緑雨は、その放蕩生活に得た材料によつて『かくれんぼ』を書いた。女たらしの男と知つて女たちが警戒するほど、かへつて女たちはその男に手玉にとられて口説(くど)き落される。男の方から見てもまた、真面目な恋をしてゐる時は女が落ちなくて、狡猾にジダラクになるほど女が面白く落ちるやうになる。悪の勝利であり、善悪の区別感の喪失であり、愛情や真実よりもハズミや気転や擬悪主義が人間をより深く左右する、といふ認識がこの短篇に盛られてゐる。善が人間を支配し得ないのではないか、といふ絶望的な認識がその底にひそめられてゐる。このやうな認識の後に続いてこの作者は、社会と文壇を白眼視し、逃亡生活と否定とを重ねて破滅した。

 夏目漱石は『明暗』的な世界の怖れを去るために、天に則して私を棄てたい、と願つた。芥川は自殺した。人間はその真実を認めることを怖れるが、それは実在してゐる。資本主義の自己保存の方便的政策の中にも、またそれに対抗して民衆を生かさうと狙ふコンミュニズムの政策の中にも、これと同様な認識が隠されてゐるやうである。即ち最終の善はどのやうな手段をも正当化するものであり、それに耐へることが規律である。真実は相対的なものでしかあり得ない。近代ではこのやうな認識が、人間性自体の中にも見出された。条件反射や精神分析学等の證明したことがそれである。好悪、愛憎は本質的な判断たり得ない。それは生活の条件によつて、また潜在意識によつて、左右されるものである。

 このやうなものとして政治や社会を考へ、人間性を考へることは怖ろしいことである。しかし近代の日本文学もまた、次第に、真実の相対性、人間意識の相対性の中に真理を見出さうとする傾向を持つて来た。即ち、心理的内面から言つても物的外面から見ても、個我の本当の確立といふことはあり得ない、それは物的条件によつて変へられる弱いもので、神またはそれに代る絶対的有の思想に依拠しない限り、不安定で崩壊するものかも知れない、といふ真実を、怖る怖る手さぐりし出した。

 斎藤緑雨の『かくれんぼ』、夏目漱石の『心』、『明暗』、幸田露伴の『運命』、有島武郎の『或る女』、秋声の『仮装人物』、芥川龍之介の『或る阿呆の一生』、谷崎潤一郎の『卍』、横光利一の『機械』、牧野信一の『裸蟲抄』、川端康成の『禽獣』、太宰治の『人間失格』等がその系統の認識を辿り得る作品である。これ等のうち、牧野、太宰等は明確に破滅型の文学であり、川端の『禽獣』は藝術至上主義的特色を持つてゐるが、いづれも正悪の観念や人格の観念の確立に対する疑ひによつて、人間性の相対的弱点を曝露してゐる。さういふ現実にぶつかつた日本の作家は、人間性を社会的な調和感で支へることが出来なくて、そこから無または死の方向に下降して作者は自殺し、でなければ破滅、または東洋的無の意識で安定してゐる。

 社会的存在としての人間の論理を伴つた調和感を作り出すことは、日本人には不可能なのであらうか。マルクス主義、精神分析学、条件反射学等が出現して現実の外形を分解する前に、若し日本にそれがあればあり得たかも知れないのだ。明治年間にそのやうなものを強く主張し、実践した存在に福澤諭吉がゐる。彼はいかなる事業をなす時にも、それが失敗した場合を先づ考へておいて、その上で大胆に実行したと言はれる。さういふ所には、彼の実践的論理性は、やつぱり無の意識の上に築かれた自然的なものであつたと推定させるものがある。また彼の生きてゐた時代は封建からの一応の解放と、まだ行きつまつたことのない明治の早い時期であつた。ある思考型の危機が来るのは、それが障害につき当り、仕事か人間か、またはその双方の破滅の危険が起る時においてである。即ちその時は処理しようとすれば誰かが傷つき、人間の内部組織がこはれるやうに意識されるのである。その時それを無の極に結びつけるか有の極に結びつけるかする。福澤は無に結びつけた形跡がある。

 このやうな人間の存在の相対性の認識は、日本では、人間の組み合はせのグループから起るものとして考へられず、時間の経過といふ並列の形で把握される。即ちそれは、個なる存在が無に落ちてゆくことを次々と反復させることで、タテの系列の存在の相対性をさぐる方法であつた。はかなさ、無常といふ種類の観念によるものである。グループとして考へることは、ヨーロッパ的である。そこには、人間が他の人間と結びつく形で、即ち人間の相互認識が根本にある所で行はれる。ヨーロッパ社会の中に常に存在するサロン、即ち市民の交際単位は、一つ一つこの種のグループ感の把握単位である。経済的活動形式の結果としてサロンの形式が持たれたのか、人間と人間の連絡意識の原型から、サロン的交渉が生れたのか分らない。小説や一般藝術はそれを反映してゐる。社会小説、サロンを必ず舞台とする心理小説の多くがそれを語つてゐる。人間のグループが日本の小説に描かれる時、それは多く並列的である。たとへば『源氏物語』、『細雪』、『かくれんぼ』、『一代女』、『一代男』等みなさうである。この両者を比較すれば、グループ的な形では、人間の変化は他者との組み合はせ、即ち他の人間によつてもたらされる。日本的並列では、変化をもたらすものは時の経過であつて、非人間的な力によつてもたらされる、と考へるのである。存在自体がたがひに有機的にそのエゴと力において組み合つたまま組み合はせ方の中に変化といふ相対的実在を描き出した明確な作品は『明暗』(大正五年)が最初ではないか、といふのが私の推定である。

 並列方法を人間の実在の把握方法だと意識して考へたのは露伴であつて、彼の『連環記』の方法、即ち物語りが一めぐりするとその輪は次の物語りの輪を呼び出すといふ形、これが小説の本体的といふ考へ方から起つてゐるものである。そして方法的には『源氏』も『かくれんぼ』も紅葉の『三人妻』も、露伴の『運命』も西鶴の諸作品もこれによつてゐる。鴎外の史伝の与へる感動も主として時の経過の中で並列的にとらへられた実在感による。無常感による認識方法である。時を経て人がそれぞれ変貌しながら、無の方へ推移して行くのである。見かつ描く方から言ふと、単位は常に一つであつて、対象の経過の間に自己が変化し滅びて行くといふ形で無の意識による実在を認識するのである。即ち群像は絵巻物として描かれる。また背景に空白を残した絵、即ち他者との関係のないところに、無の中に浮ぶ実在の形で描かれやすい。源氏も(西鶴の=)世之介も女を次々と経て行く。(細雪の=)雪子は触れることにならない求婚者の男性のイメージを次々と経て行く形で実在する。音楽で言ふと、日本には諸音の調和的構造なるハーモニイ形式がほとんどなく、メロディーの継起のみが主である、といふ点でもそれが確かめられるやうである。

(昭和二十八年二月~三月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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伊藤 整

イトウ セイ
いとう せい 小説家・文藝批評家・詩人 1905~1969 北海道に生まれる。近代日本の文壇文学史を把握し形成する上で不滅の業績を積み上げた昭和の文学者として、永く記憶される。その批評は常に時代の先頭を切り開いて鮮明に視野を広げたが、その支えに実証的また洞察に富んだ研究と実作者の体験があった。

掲載作は、1960(昭和35)年の「求道者と認識者」(当館掲載)に先行して、1953(昭和28)年2月~3月「思想」に連載。日本近代文学百年の「発想」の性質を剴切に把握・分類した示唆豊かな、独創の「日本人」論でもある。

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