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求道者と認識者

 明治以来の文学史の整理もずゐぶん進んで来た。中でも文献や実地調査による実証的研究といふものが、手がかりが多いので最も進んでゐる。個人の力でまとめられた実証的な業績も多いが、集団の力による昭和女子大の「近代文学研究叢書」のやうなものも、新しい方法による業績として見のがすことができない。この分野は、全国の大学の国文科を中心として、言はば日々蓄積されて行く学問上の成果である。

 だが、どういふ結論が、近代日本文学の本質的なものとしてそこから引き出されるかといふことになると、かなり曖昧である。また現在と将来の日本人の生活と文学が、どのやうに過去のものとかかはり合ふかといふ問題、更にもつと範囲をひろげた見方として、文学そのものの実在性の把握といふことになると、困難は一層大きくなる。

 近代日本文学の変化して行く様相のパターンを推定したものとして平野謙の有名な三派鼎立論といふのがある。これは特に明治四十年頃の自然主義の成立以後の文壇事情を分析するのに役立つものだが、たしかそれは、私小説派、プロレタリヤ文学派、モダニズム派といふ三つの傾向が、その内容をさまざまに変へながら、対立して今日まで続いてゐるといふ立論であつたと思ふ。

 第一の私小説家としては、(これは更にAの心境小説とBの私小説に二分されるのだが)花袋(田山)、藤村(島崎)、秋声(徳田)、泡鳴(岩野)にはじまつて、心境小説派では長与善郎、武者小路実篤、志賀直哉、瀧井孝作、尾崎一雄、上林暁、外村繁といふ脈をたどることができるものである。私小説プロパーまたは破滅型の私小説としては、近松秋江にはじまり、葛西善蔵、牧野信一、嘉村礒多、太宰治、坂口安吾、田中英光などが一つの系列となるもののやうである。

 第二のプロレタリア文学系といふのは、木下尚江、小川未明、荒畑寒村、石川啄木、宮地嘉六、藤森成吉等を先駆者として、前田河広一郎、葉山嘉樹、徳永直、小林多喜二、宮本百合子、中野重治、平林たい子、佐多稲子、高見順といふ系統をたどることができる。

 第三のモダニズムは、多分「白樺派」と同期に成立した「スバル」を起点とし得るだらうから、小山内薫、永井荷風、北原白秋、木下杢太郎、谷崎潤一郎などから芥川(龍之介)を経て、横光(利一)、川端(康成)、片岡(鉄兵)の新感覚派につづき、更に文学史の通説によると形式主義、新興藝術派、新心理主義派などとつづき、阿部知二、吉行エイスケ、舟橋聖一、龍胆寺雄、堀辰雄、私などをその中に含め、そこから第一次戦後派の一部につながるものと言つていいであらう。

 以上の三派が、多少の交流や混合はあるにしても、それぞれ崩壊し去つて他派に吸収されつくすといふことなく、ほとんど他派を無視しながら命脈を保ちつづけたことは、昭和初年頃からの文壇の実状を知るものには事実なのであり、不思議なことに見えるほどである。だから、この三派が鼎立しながら明治末以後の文学の流れの骨組をなしてゐたと推定することは、相当に根拠のある見方である。この見取図によつて、この五十年間の文壇文学の推移を跡づけることは、多少の無理があつても、その具体性において説得的である。

 この立案者は言はばプロレタリア文学の出身と言つていい人であるが、私小説やモダニズムに相当の重さを置いて考へてゐることが異色である。いま、この案を別にして、一般の文学史の整理の仕方を見ると、そのほとんど総ては、プロレタリア文学の理論に基づいてゐる。たとへばその系統の中野重治のやうな影響力の強い人の発言が、文学史の整理の仕方を大きく支配してゐる。その一つは、今では誰も疑ひをさしはさまない通説になつてゐるが、北村透谷、国木田独歩、石川啄木を、一本の正しい思想発展の線として見ることである。また松岡荒村とか大塚甲山とか田岡嶺雲といふやうな、明治三十年代に革命思想を抱いて早死した詩人文人の稚拙なままに真剣な遺文に注目するやうになつたのも、中野重治の発言に影響されるところが大きい。この中野的思考方法において一貫してゐることは、売文のマナリズムに汚されることのない人間の真の声の響きに耳を傾けようとする細心さがあることだらう。また人間性の現代風な頽廃さを免れてゐることが、これ等の文人の共通のメリットとして評価されてゐることである。

 中野重治とその影響力については、私はかなり高い評価をしてゐるが、しかし、どの文士や文学流派からも政治的求道の核心のみを拾つて他を無視する傾きのあるその選択が、通俗な言ひ方をすると一面的であることは否定できない。作家としての立論、立言が一面的であることは、それ自体結構だが、その影響による文学史の評価の偏りは、時として歪みを産みがちである。文学史上における北村透谷や石川啄木の過大評価は、このやうな影響下に生れた。近年目立つて文学史家たちに過大評価されてゐるのは一葉、透谷、啄木などであるが、それだけにこの三人についての実証的な研究が極めて進み、そこを中心として照明がその周辺に及んでゐる。明治文学史の研究を読むことを仕事としてゐる私には研究の進みかたはそれぞれに面白く、ありがたいことであるが、ものの勢でずゐぶんひどいことになるものだ、と時々考へ込んでしまふのも事実である。

 これは、もつと正確に言へば、勿論中野重治一人の立論によるものでなく、プロレタリア文学理論なるものが、創作の分野では力を失ひつつあるのに逆比例して、文学史整理の方法として力を発揮しつつある、といふ事情によるのである。いかに社会善の意識を育てたか、いかに古き意識と戦つたかといふ点に照明をあてた批評基準が、近代文学史の、特に明治期の整理方法として圧倒的であり、普遍的なのである。この事はまた、それ以外に妥当な整理の方法がないことを意味してゐる。明治前半の文学の主流を硯友社(けんゆうしや)とすれば、それは封建的義理人情を、その考へ方を核心に保持した文学とされ、それと戦つて人間の自由、尊厳を主張したものとしての革命的な文学が対置される、といふ図式が一般的なものとしてそこに生れる。自然主義文学もさういふものの一種として歴史の中に席を設けられてゐるから、その流派の遁世的退嬰的(たいえいてき)な弱点を指摘し、それを更に積極的なものに訂正しようとした石川啄木の意味が大きくなる。

 だから、自然主義までの文学については伝統と革新といふ対立したイデーで整理し、それ以後は三派鼎立論で整理するといふのが、現在の文学史のノーマルな形となつてゐる。勿論、自己の独自の判断規準を持つてゐる現役の文藝評論家たちは、必ずしもこの定型に従つてゐないやうであるが、文学史家たちの多くは、この二種の定式をつないで、その筋にそうて彼等の実証的研究を組み立ててゐるのが、およその実状である。即ち、文学史家は文学の理念においては弱く、文壇批評家の後を追つてゐるのである。

 このやうな実状を批評するとすれば、それと別個ないかなる訂正理念を持ち出すのか、と人は思ふかも知れない。だがおよそのところ、私はこの既成の考へ方を社会的な意味で妥当だと認めてゐる。それで整理してもらつても結構なのである。それによつて文学史家たちの社会的正義感は満足され、読者もまた文学の中に教育的、指導的な意味を発見して満足するだらう。教育家、歴史家たちもまたよき文学が常に正義の味方だつたことを発見して、心の平安を得るだらう。正義の観念をひろめ、伸展させることより重大なことは、社会的に言へば存在しないのだから。

 私は、このやうに、それで結構だと一応は認めながら、心の落ちつかない点が常にあつた。その疑念は、この大きな批評の流れをせきとめるやうな力のあるものでは決してないが、この定式にあてはまらぬ大小の例が、時をおいて心に浮び、一体どういふことなのか、といふとまどひに何年もの間つきまとはれて来た、といふことなのである。

 塩田良平、和田芳恵二家の研究が進められて、大きな姿を明治文壇内に持つやうになつた樋口一葉は、どういふ意味でその価値を持つてゐるのだらう? 少女小説じみた「たけくらべ」以外には、日記で推定される身上話の面白さがあるにすぎない。一葉に今のやうな力点が置かれるのは、何を書くかよりも、いかに生きるか、といふことが重視される自然主義的文学史観に外ならないのではないか? 啄木評価ですら、彼の自然主義批評以外は、その危つかしい生き方への興味でないのか? 漱石を社会思想や私小説の流れのどこに位置するのか? 北条民雄にはどのやうな意味を与へるべきなのか? 何故島木健作は反動的作家であつて、独歩は好戦作家でないのか? 梶井基次郎はモダニズム又は私小説とどんな関係があるか? 井伏鱒二と中野重治はひどく似てゐないか? 山本有三と石川達三は同型作家ではないか? 広津和郎の実践活動には文士としてどんな意味があるのか? 等々。

 また平野謙は、私が評価し直したから谷崎潤一郎は文学史上重視されすぎるやうになつたといふやうな意味のことを何度か書いてゐる。それが事実であれば私の光栄にちがひないが、実際は決してさうでない。谷崎潤一郎は、明治末年の出現以来、一世を圧する大作家であつたのだ。正宗白鳥もすでに言つてゐるやうに、百年か二百年に一度しか現れないやうな偉才であることは、文壇の公認的事実であつたのだ。ただ日本の文学通念から言つて、いかなる意味を彼に与へるかが分らなかつたまでのことである。

 谷崎潤一郎といふ作家が出て仕事をしたときの批評規準は、自然主義から私小説につづいた時のことであつた。鈴木三重吉、芥川龍之介のやうな、素質から言つて反自然主義の作家は、いかに生き、いかにそれを報告するかといふ創作家に対しての批評家の第一設問に答へる(すべ)を知らずに、結局、生活的に又は藝術的に滅びたが、潤一郎一人はそれに負けず、滅びもしなかつたのである。そして潤一郎の書いたことは、人格なるものが経済や性関係によつて支配され、変貌し、人間は情感のためにしばしば滅びを求めるといふこと、その滅びの中に現れる生命感をとらへるといふことであつた。

 彼の短篇「小さな王国」は、吉野作造の批評を引用するまでのこともないが、実にマルクス主義の理論の最も早い証明のやうなものであつた。この事はプロレタリア文学と戦つた横光利一の「静かなる羅列」と「上海」がまた唯物史観の証明のやうな作品であつたことにもつながつてゐるやうに私には思はれる。また「小さな王国」は、ほとんど直接に横光の「機械」につながり得るものであるとも私には推定される。

 谷崎も横光も、文壇批評では近代文学史の主潮を示すものとしてまともに位置を与へられることがなかつたのである。私は、プロレタリア文学系の批評家をいやがらせ、おびやかすために逆説を述べてゐるわけではない。つまり文壇の批評といふものは、長いあひだ、人間性認識者に位置を与へることができなかつた、といふ実状を述べてゐるにすぎない。自撚主義による日本文学の確立には、色々な要素・随筆文学、隠遁者文学、ヨーロッパのリアリズム等が混合してゐたことが指摘されてゐるが、私がここで附け加へたいのは、儒教のつちかつて来た実践的求道性とヒューマニズムの結びつきがそこにあつたことである。

 藤村や花袋にも、泡鳴にもそれがあつたが、その脈はそれ以前に存在して伝達されてゐる。その核心的存在は、やつぱり常識のやうに植村正久と内村鑑三等の精神界の指導者であつた。彼等の精神構造が本質的に武士的であつたことは多くの証明がある。事実鑑三の影響下にあつた田岡嶺雲の放埒果しない生活は、漁色と放浪と作詩に日を送つた頼山陽の生き方にそつくりである。中野重治の指摘した透谷、独歩、啄木に共通するものもまた身をもつてする武士的実践と精神性との結びつきにある。

 かういふ精神的な背骨を持つ強き人間の実践力において、外向き内向きの差はあつても、武者小路実篤と志賀直哉は資格十分であらう。だから、さういふ見方からすると、私の目にはプロレタリア文学といふ特殊文学の設定には、大きな意味を置くことができないやうに思はれる。武者小路実篤と宮本百合子の差は、宮本百合子と小林多喜二との差より小さい。これ等のことは、雑談としては多くの文壇人の常識となつてゐることである。私はその文壇的常識の方に、文学史の学問的整理よりも大きな意味をおいて、自分流の整理の仕方ができるやうな気がするのである。

 それは私の言葉で言へば、求道的実践者の文学と、人間性認識者の文学といふ二つの潮流に分けることである。私小説の中の二種である心境小説家と破滅型作家とをこれにあてはめれば、心境小説家は多く求道者の群に入り、破滅型作家のあるものは人間性認識に入るであらう。勿論人間性の認識を抜きにして真の意味の実践者は成り立たないから、すぐれた求道文学者はすぐれた認識者でもあるのが常である。しかし、実践的求道者は、自他の人間性の中にある崩壊的な、または頽廃的な傾向を視野から排除しなければ成立しない。その例証もまた、アカママの花をお前は歌ふな云々といふ、よく引用される中野重治の詩や、人の善意の期待の上に成り立つた「新しき村」の生活様式や、書くことが生活にとつて一番悪いことだと言ふ志賀直哉の近年の言葉など、挙げれば幾多の例がある。彼等は生活自体の尊重のために、あるところで目を閉ぢ、ある種の認識を押しやつて、その実践目的を保全する。政治尊重主義者は、政治の一局部に目をふさぎ、実生活尊重主義者は生活内面の動機に目を閉ぢ、筆をおく。

 結論のやうなことを言へば、日本の近代文学史は実践求道者の文学史であつた。認識者の文学は育ちが悪かつた上に、それをどう扱ふべきかが、自然主義以後の批評壇では工夫がつかなかつたのである。漱石は武士的人間だつたが、やむを得ず人間認識の場に深入りした。その結果、この戦後にいたるまで、彼は私小説なる「道草」の作者として以外、文壇ではほとんど席を与へられなかつた。実践的求道者の敵は、その心内にはほとんど存在せず、常に別な人格として外部にある如く意識された。心内の敵には多く目をふさぎ、外部にある敵、外部にある古き秩序と戦ふといふ、はつきりした目標を持つて、実践的求道者なる作家たちは、この五十年間を戦つて来た。それが日本文学の主流である。事実上、古き秩序が強く残存し、生活の環境の貧しかつた日本では、この派の文学の方がより重要であり、人々のいかに生きるかといふ疑問に指針を与へ、それを力にして近代日本の精神構造が文学の畑に育つて来たことは、大きく認めなければならない。

 内村鑑三、徳冨蘆花、田岡嶺雲、初期の藤村、泡鳴、透谷、独歩、啄木、武者小路実篤、里見弴、志賀直哉、長与善郎、山本有三、菊池寛、前田河広一郎、葉山嘉樹、宮本百合子、藤森成吉、小林多喜二、中野重治、島木健作、石川達三、阿部知二、広津和郎等々は、その戦ふ対象や範囲に違ひはあるが、この系統の作家であるやうに私には見える。また永井荷風、葛西善蔵、近松秋江、嘉村礒多や尾崎一雄、上林暁、外村繁、川崎長太郎なども、言はば隠遁型の実践家としてこの中に含められるだらう。

 それでは、もう一つの人間性認識の系列をと考へると、私な多少まごつかざるを得ない。うつかり前に緑雨(斎藤)の「かくれんぼ」を挙げて平野謙に笑はれたことがあるからだ。だがやつぱりやつてみよう。警句集と「かくれんぼ」における緑雨、小説書きとしての二葉亭四迷、広津柳浪、森鴎外、夏目漱石、正宗白鳥、谷崎潤一郎、有島武郎、芥川龍之介、横光利一、川端康成、北条民雄、梶井基次郎、堀辰雄等がほぼそれに当り、多分太宰治はその後期においてこの流派に加へられるべきである。また萩原朔太郎をここにつけ加へておかう。いづれにしても前の主流派に較べては劣勢で、各城孤立の感は否定できない。前の一群ははつきりした山脈をなし、その精神的連絡をたどることもできるが、この後の人々は一人づつ別個に自己を作つた風であり、その(かんがへ)の出所もまたばらばらであつて、脈絡をたどることが難かしい。だが、たとへば、二葉亭の悲劇は、武士的実践家と人間認識家との分裂にあるとすることができる。

 自讃すれば、透谷、独歩、啄木に明治文学の主脈があり、鴎外が最もすぐれた文学の敵であり、芥川龍之介は知識階級の敗北の象徴であるかのやうな印象を与へる中野重治的判断では、中野重治を重視すればするだけ、一体近代文学は全体としてどう評価すべきだらうと心弱くなりさうな人々は、私の二派対立図式の中に、小さな安心感を見出すことができるかも知れない、といふ点である。

 蛇足であるが、私の所謂認識者たちが、全く実践的でないといふことはない。有島の農地解放の行動や漱石の青年指導、川端康成のペンクラブ経営のごとく、彼等は時としては、所謂実践型の人々よりも実践的であり、その実践もより論理的であることが特色だと言つていいのである。ただ実践的求道者たちの重要な功績が、より強く、より激しく、より清潔に、身をもつて行動したこと、またはその可能性を描いたといふ点にあるのに比較すれば、後の群の人々の功績は、人間性自体について、社会についての、それまでおぼろであつたある本質の一部分づつを、文学といふ場において明確に捕捉したことにあると言ひ得るだらう。事実上、この連中の提出した認識のあるものは、実際政治にとつて、実生活にとつて、有害なものであつた。その認識がなければ、家庭はより平和であり、政治や革命はよりやりやすかつたらうと思はれるものが多いのだ。しかし我々は見ることをやめることができず、見つけて引き出したがために(つまづ)いた石もまた実在であるといふことを否定できないのだから、実践家たちに取つては邪魔なものが当然そこに出て来るわけである。

 この二つの傾向は、具体的には各人の中に混つて存在してゐる。実践的求道者の独歩は、小説家としては無の意識による認識者であつた。また人問の組み合せの認識者漱石は、最後に即天去私なる実践目標にすがりついた。大まかに言へば認識者の行きづまりは、実践的求道者の生活によらねば打開されない。また求道者は目を開いて認識者たちの指摘した(つまづ)きの石を見てから行動しなければならない。しかし人の力は小さいものであつて、一つの小さな認識に生涯をかけ、一筋の細い求道生活に命を賭すのでせい一杯なのだ。

(「文壇と文学」第九回)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/09/16

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伊藤 整

イトウ セイ
いとう せい 小説家・文藝批評家・詩人 1905~1969 北海道に生まれる。近代日本の文壇文学史を把握し形成する上で不滅の業績を積み上げた昭和の文学者として、永く記憶される。その批評は常に時代の先頭を切り開いて鮮明に視野を広げたが、その支えに実証的また洞察に富んだ研究と実作者の体験があった。

掲載作は、1960(昭和35)年「新潮」9月号初出、この一文でもって「電子文藝館」の展示一切に展望が利くと断言できるほど、剴切かつ適切な「必読」の優れた道案内でもある。

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