わが家わが兄
肩こり期
年は取りたくないものだ。気力が萎え、活力が失せ、とりわけ、ことさらのことに関しては急速に衰えてくる。ときに手をつないで歩きこそすれ、妻の躰に触れることさえ珍しくなる。共に齢を数え、さすがに加齢を偲ばせるようになった妻と二人、あのリビドーなるものは一体どこに行ってしまったのかと、苦笑することしきりの昨今ではある。
リビドーとは、人の心的エネルギーの源に当てた精神分析概念で、C・G・ユンクによれば、それは純粋に精神的エネルギーであるが、S・フロイトによると、それはエロスの根源でもある。フロイトは、この性エネルギーが専ら身体のどの部位で充足されるかによって、人間の発達段階を考えた。まずは口唇部で充足される口唇期(乳児期)、次いで肛門部における肛門期(乳幼児期)、異性の親とファンタジーの世界で結ばれようとするエディプス・男根期(幼児期)、関心が専ら外界に向かう潜在期(児童期)、そして生殖機能を伴う性器期(思春期)となり、あとは足腰立たぬ寝たきり老人になったとしても、はてなくエロスの時代が続くのである。二つのエピソードは作家・瀬戸内寂聴さん(『私の履歴書』日本経済新聞)からの受け売りだが、〈老いらくの恋〉で有名な歌人・川田順は、七十をいくつか越えてなお、一世代年少の夫人をまだ性的に充分満足させていると語り、革命家・荒畑寒村は、九十歳にして四十歳の女性を熱烈に恋し、「体は寒厳古木なのに、心が若者のように恋に迷い、苦しい。お恥しい」といって悲恋の辛さに泣くのである。
それに比べ、私たち(夫婦)はどうなのか。まだ六十代の若さにして、すでにして密に触れ合うのは、猿のノミ取り夫婦よろしく、就寝前や寝起き後の互いに肩や背をもみ合う時だけである。それも昨今では、互いに(年不相応の)過重な仕事に追われて、ひたすら早寝早起き、忘れてしまったように無沙汰の毎日なのである。嗚呼!。
そして真実、年はとりたくないものだ。躰のみならず、心の方も共にいかれてくるとなれば、これは何とも耐えがたい。
つい先だってのことである。午前中の講義が妙に辛く、ほっと疲れを癒しながらの昼食時に、突然、誕生日直前(二日前)になっていることを思い出した。この日を除いては時間がとれぬとばかり、午後の講義を終えるや否や、車を駆って住居地最寄りの警察署へと、運転免許証更新手続きに出掛けたものである。
ところが、署前の代書屋さんのおばさんが(といっても、年下の私の妻よりもまだいくつか若そうなのだが)、例によって忙しく額の汗をふき拭っている私に、上目遣いに言うのである。
「お客さん、お誕生日一ヶ月前にならないと、更新手続きはできないんですが」
「えっ!…、明後日が誕生日のはずだけど……?」
しばし
寸暇も惜しいこの時期に全く何としたこと。腹立たしいやら、お可笑しいやら、馬鹿々々しさに我ながら呆れてものも言えない。帰宅して、やがて帰ってきた妻へ向かって、
「ボケたというか、耄碌したというか……」と自嘲して見せたが、実はそこまではまだまだよかった。それから二日経って、誕生日だと錯覚した日がやってきて、その日のことである。
当日は勤務先大学の会議日。その会議の直前、事務当局から大変不快な情報が入った。それは私の職務上(学生部長)、当然もっと早めに報告され、私のしかるべき指示や対処が必要とされる学内学生不祥事に関わることであったが、それが事務当局のそれなりの対処を終えてからの事後報告なのである。以前にも連絡不充分な行為はいくつかあった。が、この度ばかりは事情が異なり、許せない。一には、その不祥事の事案が重くかつ複雑で、その対処のあり方が爾後の学生の動静や管理に大きな影響を及ぼすおそれがあり、二には、昨今の荒れた小・中学校同様の問題が大学内にも発生・頻発してくる時勢を先手必勝で防ぐため、問題発生時の対処フォーマットを教学一体で作り始めていた矢先のことでもあったからである。
これでは、眞紀子外務大臣と全く同じ、飾りものの棚上げ部長にでもしようというのか――。まあ、この程度のことでいちいち怒っていたら〈老体〉の身はもたないのであるが、それにしても、遺憾な事柄ではあり、不愉快さもけっして小さくはない。
こうした心情を引きずって帰宅すれば、当然、追われた原稿執筆への集中度は低くなる。夕食もまたうまくはない。私よりずっと遅く帰宅した多忙な妻の心尽くしの夕食だから、感謝こそすれ不満はないが、時たまのことデザートのないこの日の〈ディナー〉は何となく味気なく、どこか気分がすぐれない。
「ごちそうさま」と言って、開いたままの二階のパソコンワープロに向かおうとしたとき、ダイニングルームの電話が鳴った。
妻が出て、四国・高松に住む息子との楽しげな会話が始まった。学会のついでに二週間ほど、嫁と孫二人を連れて上京し、我が家に滞在することの最終打ち合わせのようである。私は、それが終わるのをつくねんと待った。息子の常で、母親との用件が終わると必ず父親を電話口に呼び出すからである。
しかし、今日に限ってそれがなかった。妻は、これもいつもの常で、息子や娘から電話などあると何かぽーっと顔色がよくなり仕事に励み出す。例えば、いつもと違いすぐ台所に飛び立って食後の食器洗いを始めたり、最近習い始めたジャズ・ピアノを弾き始めたりする。
この日もそうだった。しかも、お父さんあと(食器洗い)は委せるわね、と、さっとピアノの前へ急ぐではないか。今日だけは息子の電話に引き出されるのは勘弁と思いながらもやはり待機していた私にとって、何とも肩すかし、いやいや裏切りの行為である。不愉快千万だ!
とりわけ大げさに言うわけではないが、妻に怒り、息子に不満を抱くとなれば、私が思い出すのは必定、娘である。いい年をしてまだ学生身分を続けているけれど、彼女こそ私の心身の安寧を誰よりも祈っていてくれるのだと、このようなとき殊更に思うのである。イギリスへ長期留学したまま、まだ一度しか帰国していないが、折に触れては、電話をくれ、メールをくれて、常なる疲弊の私を気遣い、早く大学を辞めて、下手の横好き物書き人生に入れと、嬉しいことを言い続けてくれている。
それに比べて息子はどうだ。いつぞや体調悪く癌を懸念して相談したとき、人間還暦過ぎればいつ病気になっていつ死のうとも不思議はないなどと、どうせ非情な医者稼業でも、それが親に言う言葉かと頭にきたことがある。そして妻まで、またまた心配症が始まったなどと言うに及ぶのでは、私が娘一筋に縋るのも、けだし当然というものだ。
進まぬ原稿に苛立ちながら、どこかで娘の電話を期待していた。が、九時になっても十時になっても、いっこうに電話のベルは鳴らない。苛々、少々、怒りも多少。疲れた、進まぬ、もう寝よう、と風呂に入って、湯船に躰を横たえた途端、湯煙の中に、ふいっと立ち浮かぶ一抹の慨嘆。“ああ、誕生日っていうのに、なんてこった……”
何としたこと、この時只今、私はまたしてもこの日を誕生日だと思うに至った。と、これが機縁になったのか、この日の憤懣が次から次へと呼び戻される。(事務当局の)あいつ奴、こいつ奴、そして(誕生日だというのに)電話一本寄こさぬ息子奴、娘奴。まして、女房ときたら、お休みも言わず寝てしまいおる。そういえば、今日は祝いのケーキの欠片もなかった。これではまるで、役立たずの年寄り粗大ごみ扱いだ!
粗末にするのもいい加減にしろ、と一言文句をつけるべく、躰を拭くのもそこそこに浴衣を羽織って寝間に急ぐと、妻は寝息を立てて睡っていた。こいつ奴とばかり、寝床に横坐りに入りざま、少しは荒く肩口を右親指で突いてやった。妻はうーんと一声漏らし、寝返り打って、私に背を向ける。思わず向かっ腹が立ち、今度は布団からはみ出てむき出しになった背中を、こやつ奴とばかり、ドリルで穴を開けるように鋭く押した。
すると再び、妻の口から小声が洩れる。しかも…、このところついぞ聞いたこともない、甘く切ない吐息混じりの……。そして彼女は、かすかに肩を揺すって、それは何やらいかにも次をせがんでいるかのようである。
思わぬ妻の有様に、私はふっと、我に返った。何がどうしてどうなったのか、さっぱり分からぬ。が、ただひたすらに分かったのは、この日がまたまた私の誕生日ではなかったということと、妻がどんなに疲弊しているかということだった。
浅薄な怒りを抱いた我が身を恥じた。久方ぶりに、いたわり心が戻ってきた。詫びるが如く、そっと胸乳に手を差し入れてみる。が、丁重に拒まれた。代えて肩先に手を置くと、そこはひそかにゆるんで受け入れられる……。
しばらくすると、私の指の動きに合わせるように、妻はすやすや寝息を起こし、やがて身動き一つしなくなった。
さてフロイトは、ひとの人格形成は青年前期でほぼ決まると考え、性器期に続く成人期については、ほとんど何も述べていない。しかし、冒頭二つのエピソードが示唆するように、成人期から更に老年期へとエロスの時代は人の一生を貫いていて、
白河夜舟の妻の寝顔。うつらうつらに覗き見するうち、フロイトが語り残したエロスの終末期は、もしや〈肩こり期〉ではなかろうかと、私は行きつ戻りつ、感じ入っていた。
【初出:『琅』No.13 2001年】
怨念 ―わが家・わが兄―
田の割れに向日葵の首切り落とす 宗内数雄(一九五五年)
誰にも、心の中に深くわだかまって解けぬ謎のようなものが、一つや二つはあるだろう。私にもひとつ、つい先頃まで、それがあった。
――古ぼけた一枚の写真に、祖父と父が写っていた。おそらく通夜に撮ったものと思われるが、祖父は亡骸となって横たわり、その横に若い頃の父が茫然と座している。その写真の情景が、ある日ふと見たときから、爾来四十年の長きにわたって、いっこうに脳裡から去らず、それどころか、心中に何事かが纒わって抑えきれないほどの怒りや不安がこみ上げる時、必ずといっていいほど、そうしたネガティブな情念に押し上げられるようにしてまぼろしの如く浮かび上がってくるのである。
いくら祖父のものとはいえ、亡骸の情景を見るのはけっして心地よいものではない。なにか意識下のコンプレックスと関わり合っているとは思われるが、それがなにごとかなかなか洞察なしえない。私も一応は心理学者のはしくれ、なんとも恥ずかしい話だが、とりたててやりきれぬというほどでもないので、特別に自分を精神分析するほど深刻に考えたことはなかった。しかし、その後十人を超える孫たちが生まれながら、その誕生を一人とて待つことなく死んだ祖父が父の死後もこれほどまでに執着して現われ出るのは、なにか私に訴えることでもあるのではないかと、そのような愚かしい思いに囚われもするほど、ずっと訝り続けていた。
その疑念が、思いも寄らぬことながら、わずか十七文字の発句一つで謎解きのように明かされてくるとは、まこと因縁とは不思議なものである。冒頭の一句、三つ年上の兄の数雄が、四十年もの昔、二十代の初めに作ったものであるが、その後出版された数雄の二つの句集にも採られず、作った本人さえ記憶の彼方に忘れて、二度とは日の目を見ることもなかったはずのものである。それがこのほど、目に見えぬ糸で手繰り寄せられるように私たちの前に甦り、長年にわたる私の疑念を戦慄にも似た驚きとともに瞬時に解き明かしてくれることになった。
* * * * *
その一枚の写真にまみえることになったのは、今からちょうど四十年前、昭和二九年の夏であったが、兄数雄と二人で、当時母が一人で住まっていた山口県下関市の小さな古寺に、東京からお盆の〈帰省〉をしていたときだった。私たちは、仏壇の下でほこりをかぶったやなぎ行李の中から、我が家の来歴に関わりがありそうな古ぼけた写真の束を見つけ、それを一枚いちまい、丹念に眺めていた。若い頃の父と母、幼少時の長兄と次兄、夭折した長姉と次姉、そしてたくさんの親類・縁者。写真はどれも私たちが生まれる以前の大正から昭和初期にかけてのもので、それだけに衣裳や風俗なども興味深く、飽きることがなかった。それが突然、うって変わった異様な写真の出現に、私たちは思わず息を飲んだ。まだ三十にも届かぬ若き日の父が、布団の中に横たわる死者の傍らで、茫然たる様で座している。私はそれまで、祖父の写真を一枚とて見たことがなかった。が、兄が言い出すまでもなく、横たわる亡骸が祖父のものであることは、疑うべくもないことであった。
私たちが驚いたのは、白布も懸けずに撮られている亡骸を見たからではない。また、親を喪ったばかりの父の悲嘆にくれる姿を見たからでもない。何故か分からないが、そこには、そのようなごくあたり前の通夜の情景を超えて、死者と生者が互いにもの言えぬまま、ひたすら無念の様を通い合わせているように見えたからである。後に母から聞いたところでは、父は祖父の臨終に間に合わなかったということだが、しかしそれは、逝く者と残される者が単に最後の別れができなかったというような、尋常一様の無念さとは異なる茫洋たる深みをもっていた。幽明境を異にしてなお、二人は共通の想念を抱き、同一の情念で繋っているように見えた。私たちは、しばらく無言でその写真を見ていたが、やがてどちらからともなく顔を見合わせ、肯き合った。
気がつくと、燃えるような真夏空はかき消え、一面に墨色の雨雲が渦巻いて、迫るように暗黒が降りていた。パラパラと、思う間もなく、叩きつけるような激しい雷雨――。が、それも一瞬、あっという間に過ぎ去ると、今度は嘘のような静けさと、眩しいばかりの大西日――。その光の中で、もう一度写真をのぞいてみると、私たちが居るこの部屋こそ、まさしく祖父が臨終を迎えた場所であった。
入口は東に面し、朝は心地よい光に恵まれたが、日中は南側の崖に被われて、暗くて陰気な寺であった。しかし、夕方になると、西方の竹薮からしばし洩れくる後光のごとき夕陽に射られ、なにか有り難いような、いかにも寺臭い古寺だった。その寺「本徳寺」に、祖父が父の兄を頭とする五人の子連れで寄寓するようになったのが、明治も終わりの頃のことである。
当時、寺には、私たちの母とは親子ほど年の違う母の長姉がひとり住まって庵主をしていた。だが、妙な話ではある。いかに尼とはいえ、独り身の若い女の住まいに子連れのやもめが同居するとは……。やがて祖父と尼はわりない仲となって夫婦同然となり、ふるさとを出て定住先をもたなかった一家はそれ以後ずっと寺に棲みつくことになった。これが機縁で、後年(大正十一年)、姉を慕ってよく遊びに来ていた幼女(母)が長じて父と連れ添うことになったが、こうして寺は一家の拠り所となっていった。さらに祖父の死後、尼が孫ほども年の違う私たちの兄(次兄)を養子となし(昭和六年)、その後幾ばくもせずに亡くなってからは、寺は私たち両親の管理するところとなり、爾来私たち一家が大阪・東京と転住するようになってからも、母の実家が近いこともあって、盆暮れなどにときおり帰省する、いわば〈ふるさと〉も同様のところになっていた。
しかし、不思議なことではあった。これ程までの〈寺〉との縁、そして母の一族との交わりがありながら、祖父と父の二人は、我が家(宗内家)の来歴を母の親類・縁者にはもちろん、私たち家族に対してもほとんど語り伝えることなく世を去っている。それどころか、どのような事情があったのか、ひとたび故郷を去って以来、二人ともついに生涯一度もそこに足を向けることさえしていない。私たちが父から聞かされてようやく記憶にあるものといえば、〈近在に聞こえた名家であったこと(といっても我が家はいわゆる士族でも華族でもなく平民なのだが)〉、〈母(祖母)が女だてらに酒飲み遊興三昧、それがもとで父母(祖父母)が離婚したこと〉、〈かなりの田畑をもっていたが、作男をしていた縁者にくれてしまったこと〉ぐらいである。
思えばいぶかしいことばかりであった。名家の令室が酒飲み遊興三昧、父祖伝来の田畑の抛擲など、尋常一様のことで起こりうることではけっしてない。いかに交通不便の時代であったとはいえ、同じ山口県内にあって、祖父が、父が、二度とは戻ることのなかった祖霊の地。一体そこでなにがあったというのだろうか−。しかし、長く東京に住まい、結婚以来住居地に本籍を移してしまった私には、そこはやがて気持ちの上でも遠いところとなってゆき、その後父が死に、母が死んで十数年も経った昨今では、めったなことでは思い起こすこともない遥かむかしの〈語りの世界〉ともなっていた。
私にとってはもはや無縁の父のふるさと。しかし、そこに漂う祖霊の魂は、時空を超えて秘かに私たち子孫の血肉にもぐり込み、父祖の〈怨念〉を脈々と伝えていた。
山口県徳山市夜市町、そこの小さなとある字地区がわが家のルーツである。父が祖父に連れられてそこを去った時はもちろん町(徳山)を遠く離れた辺鄙極まる〈ムラ〉であったに違いない。父によっていっこうに語られぬ〈夜市〉、そして、その名前のかもしだす陰鬱なムード――。私は結婚と同時に本籍を移し、その後は移り住むたびに、居住地を本籍にしている。夜市はいつか、遠い裡の世界へ去っていた。それが数年前の夏、異様なまでにルーツ探しに情熱を燃やす息子に呼ばれ、もはや〈語りの世界〉にまでなっていたその夜市に赴くことになった。
自慢めく話になって恐縮だが、息子は当時、京大医学部三年生、児戯に等しいものではあるが、ちょうど将棋の学生名人にもなって意気昂揚たるときであった。母方祖父が長く宮内庁にあって皇室の子弟を世話した高名な小児科医であったことが医学を志すきっかけだったが、やはりこの〈父系社会〉にあっては、名乗る姓の父方こそ〈名家〉でなくてはならぬ。まことか否か、家系について父が唯一誇りのように言い残していることがあった。母(私たちの祖母)が明治の元勲伊藤博文の縁戚だというのである。私はさして関心もなく比べてみたことはなかったが、息子や、そして私の兄たちによれば、旧百円札の博文像に私たちの父が生き写しだという。息子は、ときおり洩れ聞く家系の話が事実かどうか、気持ちの節目を得て、奮い立って探索に及んだものと推される。
わずか二日の間に、彼は驚くほどの迅速さと正確さで調べあげていた。そして、「徳山まで飛んでこい」と有無を言わせぬ電話をかけてきた。もちろん、私の父が存命だとすれば百歳に近いから、父や祖父を覚えている人などいようはずもない。しかし息子は、役場(市の出張所)に行って何代も遡って戸籍をとり、古老たちに会っては名字や家の由緒を問うなどして、ついには祖父から屋敷・田畑のいっさいをもらったという縁戚の末裔にも到達し、いくつもの疑惑を忽ちのうちに明かしてくれたのである。
山間・山峡の地であった。徳山中心街から市内を東西に貫通する国道二号線を西に十キロほど行ってそこから県道を北上するのであるが、すぐに曲がりくねった細い登り道になっていく。バスが行き交うどころか、片道だけでも窮屈で、雨でも降れば転落する車もありはすまいかと心配されるほどの山肌道も少なくない。父が幼少期の明治の頃は、下の町(徳山市街)まで出るのに一日仕事ではなかったろうか。ときおり人家があって、七、八キロも行った頃、急に見通しがよくなって山間が広がり、一つの小集落が現れた。そこが夜市町H地区、我が祖霊の地であった。
想像していたものとほとんど同じだと言ってよい。狭隘な山間が精一杯切り拓かれ、利用できる傾斜地は残りなく用いられて、〈千枚田〉とも言うべき細長い田畑が丘陵を被っていた。後に当地の地誌(『矢地から夜市へ』一九八八年)を見るまでもなく、明治・大正の頃は百戸に満たぬ小さな寒村だったことが目に浮かぶ。実はかつて、一度だけではあるが、夜市についてささやかな情報を得ていた。十年ほど前、勤務先の大学の講演会に講師として見えた元卓球世界選手権者の伊藤繁雄氏が偶然、徳山市の出身だった。氏は徳山に生まれ、大学に進学するまで市内に住まわれていたが、夜市は平家の落人部落ではないかと噂される山の彼方の辺鄙な村で、一度も行ったことはないという。今では市単位の同じ行政区に入っているとはいえ、町なかの人にとっては、夜市はまるでいにしえのムラなのであった。そのように受けとめ思い描いていた様相がまさしく目の前に開いたのである。
このような寒村に、近在に聞こえる〈名家〉などあったのだろうか。これは父からも聞いたことがある。当地でわが家は〈宗清〉家に次ぐ家柄であったという。その旧家はすぐに分かった。丘の最上位に位置し、周囲に石垣を配して、ひときわ広い敷地を誇っていた。息子はすでにそこを訪れ、八十を越えてなお
当たらずとも遠くない話ではあるまいか。当時は中学に行く者とて稀な時代、ましてこのような寒村から、明治四年生まれの祖父が高等師範学校まで進んでいる。どのような家系であったかはさすがにもはや分からないが、〈農家・平民〉であったにも関わらず、やはり近在では希有の存在であったに違いない。二つのエピソードがそれを裏付けるのである。
十歳年上の長兄は旧制浦和高校から東京帝国大学に進んでいる。この間ずっと山口県の特別奨学生になっているが、その初回応募時の面接の時に、試験官の一人からわざわざ、「あなたの家は名門なのですよ、頑張ってください」と、慰めとも激励ともつかぬ言葉をかけられたという。
もう一つのエピソードは、戦後の混乱期からずっと浮浪児や非行少年の面倒を見続けてきたことで知られる、故河村契善師によるものである。先生には前職の家庭裁判所調査官時代に大変お世話になったが、まことに奇縁、先生は徳山市の仏家(無量寺)の出で、小学校時代には宗清家の嫡男と机を並べていたとのことである。あるとき先生は、いぶかしげに私の顔を覗き込んで、山口県の出身ではないかと問い、やはり夜市の出身でしたか、と感慨ひとしおの様子であった。その後しばらくして私と同じ職にあった妻が先生から、「宗内家は山口県の名門なのです」と告げられている。なお、師は明治三三年生、父より三歳年少の、ほぼ同世代の人である。
さて、わが家はいったいどのような家系で、それが何ゆえ故郷を捨てる羽目になったのか。先日、契善先生が何か伝え残してはいないかと、御子息(邦昭氏)に電話したところ、宗内家は毛利家ゆかりの家柄であるとの他には何も聞かされてはいないとのこと。故契善師こそ、わが家の家系や〈没落〉事情の何がしかは聞き知っていたはずと思えば、何故御生前に聞いておかなかったかと今さらながら悔やまれる。だが、この間の事情を除いてその他の事柄は、息子の探索によってほとんど了解され得るところとなった。かなりの田畑を所有していたこと、祖母が明治の元勲と同じ出自であったこと、故郷を去るに当たって屋敷・田畑のすべてを曾祖母方縁者に贈与していたことなど、皆まことのことであった。
以下、不明のところは推し量って祖父が夜市を離れるまでの来歴を辿れば、恐らく以下のようになるだろう。
夜市一帯が落人部落であったか否か、そしてわが家がどこぞの落胤の末裔であったか否か、その確証は全くない。ただ、農家とはいえ、何かいわれがあって〈家柄〉を誇り得る家系であった。それ故にこそ、私たちの先祖は幾世代にも渡ってひたすら世に出る時機を待ち続け、鬱々と寒村に逼塞していたようである。農家の宿命、時に天変地異や大凶作に哭きながら、時代を恨んできたに違いない。このような一族にとって、明治の維新はまさに雌伏千年の時機到来であったろう。期待を一身に集めて立志・向学に燃えた祖父が故郷を出、晴れて帰郷した明治二六年、ついには時の元勲の縁戚となるに及んだ。〈宗内〉家は長い抑圧の時代を終えてようやく〈世〉に出で立ったのである。
祖父、長吉、明治四年生まれ。東京高等師範学校を出た直後の明治二六年、二二歳で林ツ子と結婚。その後山口県内の中学校(旧制)を忙しいほどに移り巡り、三十路に入らぬ若さで校長になるなど、まさに順風満帆、前途洋々のはずであった。それが一体、何があったというのか、明治二九年に父(曾祖父)をなくし、さらに明治三四年に母(曾祖母)と弟(当時三四歳)を相次いでなくした直後、作男として引き取っていた母(曾祖母)の甥に屋敷・田畑いっさいを与えて夜市と訣別した。
林一族(林姓は伊藤博文の旧姓)と姻戚関係を結んで家柄を固めたというのに、先祖伝来の土地を捨ててまで故郷を離れる。そうする以外に方策がないほどの大きな不祥事が出来したに違いない。奇妙なことに、夜市に残されている宗内家の墓には祖父の先先代までの墓石しかない。人に与えるほどの資産がありながら、祖父長吉は両親と弟の墓も建てずに故郷を逃れている。来歴をひた隠しにする謎を解く鍵がここにありそうだと、わが息子はゆかりの寺を訪ね当てたが、過去帳を見ることを拒まれた。私たちにとってはまことに残念だが、無理もない。先祖の墓を放り出して一世紀に近く無縁のままでは、それも無理からぬこととは思われる。だが、ここで父が生前ふと洩らした言葉を思い出した。父は戦前一度だけ寺に先祖の供養を願って高額の寄進をしたが、その折り、手のひら返した世辞たらたらの返事がきたため二度とは再び寺とは縁を結ばなかった、というのである。
祖父に連れられて父が故郷を離れた時、まだ五・六歳の幼児であった。それが〈手のひら返すような寺の態度〉と言わしめるほどの忘れがたい過去の思い出――。どれほど辛く厳しいものであったことか。遂に再び故郷に戻ろうとしなかった父の思いが、この寒村を目の当たりにして今初めて伝わってくる。山間の石くれ道を、祖父と祖母と父とその兄、追われるように
しかし、不幸はさらに膨らんだ。故郷を離れたその年、赴任先の官舎で双子の弟が誕生し、さらに三年後、末の弟が生まれた明治三七年、祖父母は離婚するに至るのである。(祖母ツ
〈寺〉にたどり着いたのも何かの導きだったのだろうか。墓も建てずに故郷を去った罪償の故にか、母によると、祖父は暇さえあれば念仏に明け暮れていたという。だが、不幸はさらに続いた。俊英と騒がれ、一家再興の期待を一身に集めていた父の兄(章)が、大阪遊学中に進行性の病を得て、結局、療養収容の身となってしまう(昭和二十年まで存命、療養先で死亡)。
しかし、これが悲劇の終着ではあった。経済的に困窮する中で、国内進学を諦めた父は、克己勉励し、当時日本政府が中国の上海に設立した東亜同文書院大学に国費留学生となって渡ることになった。大正五年、帰国して父は大阪商工会議所に奉職、一家にようやく春が訪れた。弟たちも次々に東京の大学に進学していった。かくなれば、あとなすべきことはただひとつ、一家をあげて夜市へ凱旋することであったろう。互いに言わず、誰に言わずとも、それはきっと父と祖父との暗に連ねた夢であったに違いない。たった一度ではあるが、後年父がゆかりの寺へ多額の寄進をしたことがそれを如実に物語っている。しかし、父が庵主の末妹たる母と結婚した翌年の大正十年、見果てぬ夢の中、祖父は急逝した。享年四九歳、山口県立下関商業中学校の平の漢文教師であった。
私と兄数雄が四十年もの昔に出会ったあの一枚の写真には、この見果てぬ夢を残して逝った祖父の無念と、誓をたてて餞を送ってやれなかった父の悔恨が、そのまま写し出されていた。しかし、絶ちがたい絆は、幽明境を異にしてなお、二人をして共通の想念を抱かせ、同一の情念で繋いでいた。私たちが激しく揺さぶられ、慄きさえも覚えたのは、まさしくそれがためであったろう。
しかし、その父も結局、祖父との誓いを果たせぬままに不遇の人生を終えることになる。
父の前半生は順調であった。四男としての私が出生する前年の昭和九年(三八歳)、上京し、中国語部門担当者としてNHK国際局に入る。その後中国語学者としても活躍するようになり、拓殖大学など大学での講師生活も始まった。三省堂の顧問ともなり、昭和一四年には、同窓の友、魚返善雄の序文で三省堂から最初の著書『華語要訣』を出している。前途はきわめて明るかったはずである。故郷の寺に寄進したのもこの頃だったと推される。しかし、ご多分に洩れず、戦争がそのすべてを奪うことになってしまった。
終戦と同時にNHK国際局は解散、父は妻子六人を抱えて放り出された。時代は急変し、中国語では世をわたるたつきは見いだせない。父は蔵書のすべてを玄関に並べて急造の古本屋を始め、夜は大学生だった長兄を連れて京成下総中山駅前(千葉県市川市)の闇市にカストリ屋台を引きだして懸命に動乱の戦後をしのいだ。そして、昭和二三年、大学を卒業して九州の石炭会社(明治鉱業)に就職した長兄が一家を引き受けることになった時、何思ってか、ひとり下関の本徳寺に引きこもり、昭和二九年、復活なったNHK国際局に呼び戻されるまで、寺で近隣の者に碁を教え、自衛隊訓練校の語学教師をすることの他は、奇しくも祖父と全く同じように念仏に明け暮れていた。
NHKに復職したとき、父はすでに五八歳であった。もはや世に出る年ではなく、またその機会も奪われていた。しかし、たまたま同文書院系の大学たる愛知大学で中国語大辞典の編纂事業が起こり、昭和三二年、誘われるままに、その編集委員として愛知大学に移る(註1)。父は恐らく、これが最後の大仕事と心に決めていたに違いない。が、数年後、意見の対立から業半ばにして仲間と袂を分かち、大学の職をも退いてしまう。以後子どもたちと同居する時期も少しはあったが、そのほとんどをひとり本徳寺で念仏三昧に暮らし、昭和五二年、八一歳で没した。
* * * * *
さて、宗内数雄、昭和七年一二月七日生。父、鴻の三男。私のすぐ上の兄である。中学一年時より俳句を作り始め、十代にして俳句総合誌に登場。二一歳で上京・國學院大學に入学。在学中はやくも当時の三十代作家(例えば金子兜太・飯田龍太ら)と比較される二十代代表作家となった。狂おしいまでに句作に没頭、一晩に七百~八百句をも作る様は、師中島斌雄(『麦』主宰)をして「俳句を作りにこの世に生まれてきたような男」(『天の紺』序文)と言わしめた。三歳年下の若き日の寺山修司が、数雄と競うために『麦』に入会、『麦』昭和二九年十月号発表の『収穫祭』に「ラクビーの頬傷ほてる海見ては」他九句をもって応募している(註2)。
昭和三十年、『麦』作家賞受賞(二二歳)。同年、『角川俳句賞』候補。昭和三一年、『角川俳句賞』候補(二三歳)。昭和三五年、句集『天の紺』上梓(二七歳)。同年、『角川俳句賞』最終候補。昭和三六年、『角川俳句賞』最終候補(二八歳)。昭和三七年、『現代俳句協会賞』候補(二九歳)……。
数雄が國學院大學を選んだ最大の理由は、すでに一家をなしつつあった多くの先輩俳人がいたことであった。実際、飯田龍太・能村登四郎その他たくさんの先輩諸氏との交流も始まり、とりわけ当時の角川書店社長・角川源義とは、余程親交厚いものであった。賞こそ逸し続けたが、俳壇を将来背負って立つ逸材であることは衆目の一致するところ、賞など問題ではなく、若手俳人としてはこれ以上求め得べくもない恵まれた境遇であった。
そんな数雄が、一体何があったというのか、三十路に入るや否やまるでその区切り目を待っていたかのように、忽然と俳句の世界から消えてしまった。師と離れ、角川と別れ、そして先輩諸氏と切れるだけでなく、私の知りうる限り、俳句のはの字も、文学のぶの字もない断絶の日々を送るようになった。そして、過ぎてしまえば瞬く間のこと、あっと言う間の三十年……であった。
俳句に対する一途な献身――。数雄を知る人でそれを知らぬ者とてなかったはずである。それ故にこそ、突然の〈失踪〉から三十年、数雄がもはや存命してはいないと思っていた人もあったに違いない。それがこのほど、消え失せたときと全く同じように、なんの予告もなく忽然と俳句の世界に戻ってきた。そのきっかけを与えたのは『琅』二号(平成五年)に載せた他ならぬ私のたまさかの一文(『凡俗たらざる―寺山修司を偲んで―』)であったが、しかし私はその裏側に、人知を超えた不思議な因縁を見て取った。それこそまさに、わが家系に隠脈と伝わり、数雄の骨肉にまで沁み込んだ〈怨念〉とでもいうべきか。私は今、それをつくづく想うのである。
まさか私が故寺山修司に関わる文章を書くようになるとは夢想だにしないことであった。寺山とは生涯でたった一度しか会ったことがないし、また私は、その一回きりの出会いにとりわけの感動を残しているわけでもなかったからである。それが、『琅』の仲間たちから「若い頃の寺山に直接触れたことのある人間が書き残したものには研究資料的な価値がある」と意義を説かれ、没後十年の節目が私をしてついその気にさせた。これが数雄再生のきっかけになるとは、そのとき思いも及ばぬことであった。
その文中で私は、数雄の句を下敷きにした寺山の短歌を紹介した。
蛮声をあげて晩夏の森に入る 数雄
蛮声をあげて九月の森に入れり
ハイネのために学をあざむき 修司
私が何故、今更このようなことまで書いたのであったか――。先年、ふと詩心に誘われて、実に三十年の年月を越えて久しぶりに俳句を詠んだが、その折り垣間見た俳句界の有り様は実に慨嘆すべきものであった。軽味とか遊び心とか奇妙な言葉が流行り、今では大家と言われる人たちの次のような作品を見るに及んでは、もはや言うべき言葉もなかった。
さう言へば鼠花火のやうな奴 何某一
次の世は潮吹貝にでもなるか 何某二
(『俳句』平成五年十月号)
これに比べ、同じ頃眼にした市井川柳作家のなんたる迫力。
子をさとす涙は乳房からあふれ 新子
墓の下の男の下に眠りたや 々
れんげ菜の花この世の旅もあと少し 々
(『家族 何が病んでいるか』朝日新聞社 平成三年)
私にとっては青年期の通過儀礼にすぎなかったとはいえ、兄数雄らとともに歯ぎしりしながら〈第二芸術論〉に立ち向かって句作に励んでいた『光炎』(註3)でのあの青春の日々。寺山を偲ぶにつれて数雄の(文学の)境涯に思いが至り、骨肉の情止み難く、その無念の思いが勢い筆を走らせた。「今この兄が俳句界にあれば、見せかけの繁栄とは裏腹に言葉の遊びに堕している斯界の現況をいくばくかは避け得ている。……」。私の偽らざる心境であった。
それはともかく、数雄と修司の句歌のくだりが、ちょうど文壇で盗作問題が物議をかもしているときであったせいか、論議の手がかりとして、ネットワークを組む全国地方新聞の文芸欄で取り上げられた。そのため私は、わずか数件ではあったが、数雄の句の出典を知りたいとの問い合わせに答えなければならなくなった。出典などはとうに忘却の彼方、私は兄にそれを確かめてみたのである。
ところが、意外なことに数雄は、自分の作った句も、そしてそのような出来事があったことも、すっかり忘れ去っていた。訣別の深さ、流れた年月の重さが今更のごとく迫ってくる。しかし数カ月経って、忘れた頃に、数雄から返事のファックスが入った。その末尾に、手元に残っている限りの作品・資料をすべて読むことになった。こんな句も出てきて驚いている、と付記されてあった。それが、冒頭に掲げた一句である。
田の割れに向日葵の首切り落とす
(古川克巳編『昭和三十年度年間俳句集』俳句図書刊行会)
この作品を見た瞬間、私は驚愕し、戦慄さえ覚えた。数雄がわざわざ知らせてきたのは、恐らく、当時コカイン事件などで世間を騒がせていた角川書店主(角川春樹)の作として俳句に無縁の人たちにも知られるところとなった「向日葵や信長の首斬り落とす」にあまりに類似しているからであったろう。しかし、私が驚いたのはそのような些事によるものでは全くなかった。
大阪で生まれ、東京で育ち、九州に来るまで農村とは全く無縁であった兄の数雄が、あの一枚の写真を見たほとんどその直後に、全く想念だけで発句しているのであった。抗うことのできぬ日照り・天災、そして凶作。その中で向けどころのない怒りを「〈首〉切り落とす」止みがたい所作でひたすら耐える農夫の姿――。寒村に逼塞していた抑圧の時代、そしてその故郷を追われていつか見返すべしと夢見ながら遂になし得なかった祖父と父。わが家の来歴を辿り終えたばかりの私にとっては、一見してこの句が、祖霊充ち満つ故郷に纏わる父祖の怨念を隠脈と引き継ぎ、それを無意識裡に投影したものとしか受けとめようがなかった。
他国の圧政に苦しめられる民族には復讐の血がたぎり、抑圧されて世に出られぬ者には怨念の血がこもる。これが長い世代に渡るとき、個人的な経験を超えて民族の血となり家族の血となって、脈々と子々孫々に受け継がれ、無意識裡に理性を超えた情念の行動を導く。集合無意識(Jung,C.G)と呼ばれ家族無意識(Szondi,L.)と呼ばれるものに、これらは関わる。私たちがその影響・束縛から逃れるには、まずはその存在を、理性のみならず情動の世界においても客観的に認識せねばならぬ。
我が家の血はまさしく怨念であった。それ(怨念)は世の中への進出を図った祖父の代に不幸にも増幅され、そのまま父に伝わり、私たちに引き継がれた。この脈々たる怨念こそが、一枚の写真によって覚醒し、私の意識下に長く棲みつくことになった。そして抑えきれない怒りや情念に囚われるとき、その原型とも言うべき祖父と父との幻を浮かび上がらせていたのではなかったか。まことに興味深いことながら、この一句をもって思い当たった瞬間から、ちょうど分析治療の患者が苦しみの源となる外傷体験に辿り着いたとき平癒に導かれるのと全く同じように、私は二度とその幻を見ないのである。加えて、ある限度を超えて傷つけられるとき相手を問わず決して許すことなく関係を断ち切ってきた激しい情念も、嘘のように私から消え失せていった。
心の底に巣くって理性を超える怨念。これは周囲との妥協を拒ませ、摩擦をも生じやすい。まして不当な扱いや攻撃を受けたときには峻烈な反応を引き起こす。それは一方で激しい生への戦いと執着へ動機づけると同時に、他方で死や退嬰への引き金にもなる。父はこの怨念に敗れ、自ら引退して後の生を神仏に頼った。兄もまたこの怨念に自ら敗れて三十年の長きに渡る文学的隠遁を余儀なくされていたのではなかったか――。凡庸たらざる者の宿命とはいえ、何とも空しい悲劇ではあった。
しかし今、有難きことかな、私たちは不思議な因縁をもって四十年ぶりに〈内なる他者〉に巡り会い、長年の呪縛からも解放されて、平成六年四月、数雄は『創流』創刊号とともに復活した。
蛍ひとつ通う心の襞の谷 (『創流』創刊号)
覗く天夏の暗さのけもの道 々
月隠す一枚の葉の薄緑 々
まだ詠まぬ詩あり満天氷る星 々
凡庸な人間にとってはただ幻を生むに過ぎなかった一枚の写真が、鋭敏な詩人にとっては一族一統の裡の世界を描き出す壮絶な怨念句を生み出す源となった。そして今その一句が、忘れ去られた怨念を晴らすかの如く手繰り寄せられるように作者の前に甦り、ようやくその意味を明かし、逼塞三十年の抑圧を解くことにもなった。これもまた、怨念のなせる神秘な業なのであろうか。
数雄は復活した。そして高らかに謳いだした。
万緑や生きとし生ける詩の輩 (『創流』二号)
朱を抛げて宙に石榴の花の宴 (『創流』三号)
軒を斬る羽音よ燕巣に還る (『創流』四号)
どこまでも具象に徹した三十年前のリリシズム。それが円熟した境地を加えてさらに瑞々しくなっている。驚くべき若さである。しかし一方、内なる他者から全き解放を得た弟とは異なり、三十年に渡る抑圧と隠忍は、兄をしていつしか内なる他者を骨肉化し、恐るべき情念の人に変えてもいた。
くれないの怒りの目閉じ撃たれ雉子 (『創流』三号)
地の意守り石塊となり蟇 々
逼塞三十年の思いを見事に結晶させた作品ではある。一方は大和絵、一方は水墨画。どちらも宿命を刻んで微動だにしない磐石の画面であるが、絶たれてなお命脈を保たんとする怨念が生々しい臨場感と緊迫感をもって押し迫り、見る者をして思わず畏怖させ、息つめさせる……。宿命にまかせつつなお脈打つ情念、これが数雄の本領なのか。
冷まじや死は一滴のあれば足る (『創流』五号)
山しぼりしぼりて冬の滝一条 (『創流』六号)
老の斧打ち込まれたるままに凍て (『創流』七号)
寒三日月掴み殺意を持ち歩く ( 々 )
懸崖に落とすものなし凍る脛 (『創流』九号)
奇しき因縁というか、数雄はその個人史の上からも、情念の人たるべき道を歩まされてきた。終戦時まだ小学四年の子どもであった私に比べ、数雄は多感な中学一年生であった。父と兄の屋台を手伝わされるなど極まりない窮乏から受ける心の傷、同胞とはいえ兄の庇護を受けざるを得ない屈辱・卑小感、何をとっても幼かった私とは比較にならぬほど大きかった。また、九州(福岡県)に転校する際、私立(明治大学付属明治高校)からの転校を認めない頑迷な県立高校側の拒絶によってやむなく中学三年に降級し、翌年受験して再度高校に進学するという憂き目にあっている。こうした屈辱や悲哀が、物言わずとも情念を吐露できる短詩型(俳句)への運命的出会いをもたらしたものと思われる。そして福岡県立嘉穂高校一年時、西日本学生俳句大会(選者、『菜殻火』主宰、野見山朱鳥)において、並みいる大学生たちを退けて特選第一位になったことが、本格的な俳句生活への出発点となった。
貨車長く秋夜の影を曵いてくる (選者特選第一位)
ところが、俳句に没頭するのあまり学業が停滞し、それがため学校から転学を強要され、結局、昭和二六年、高校二年終了時に山口県立下関西高校に転校し、ひとり母や兄弟と別れて、本徳寺で父との共同生活を始めることになる。だが、ここでの二年間の生活が、彼の俳句人生を決定的なものにしていくことになった。
近くに、西日本では聞こえた二人の療養俳句作家がいた。ひとりはカリエスを病み、一人は結核を患っていた。念仏三昧の父、母や同胞との別離、大学進学を諦めざるを得ない家庭事情……。数雄は二人のところに入り浸り、憑かれたように俳句を作って自分を慰める。一晩七百~八百句というのは、とりわけこの頃のことであった。『創流』で復活をなして以後、数雄はことある度に「俳句の恩は俳句で返す」と述べているが、私にはこれが逆説としか聞こえない。「俳句の仇は俳句で返す」、と。もしこの言葉が師の斌雄でなく、まして角川や先輩諸氏でなく、あるいはまた流派の壁を超えて声援を送ってくれた草田男、波郷、静塔、三鬼でもなく、ひたすらこの二人の療養作家にだけ向けられているなら、それは許されよう。数雄は二人から限りなく愛され、そして限りなく俳句の魂を贈られているからである。
冬沼に沈めば盲ひたる木の実 藤村九峰
蛍火や典雅に沈みゆく風土 々
流木に女の寒き石とどく 筑網臥年
雪が降る善きことを考えねばならぬ 々
生きることへの執念、俳句文学への尽きざる情念はここからもまた培われてきた。
* * * * *
四十年もの昔、たまたま出会った一枚の写真――。それは、私たちに対する未知なる父祖からのメッセージであった。そこから導き出された一つの幻と一つの詩が、長い年月の後、奇しき道筋を辿って甦り、私たちそれぞれに再生の道を与えた。凡庸なる者へは凡庸の道を、非凡なる者へは非凡の道を。しかし、非凡なる者では内なる自己と内なる他者が奥底深く韻き合い、その情念の赴くままに、人間の業とも言うべき生そのものへの恨み節こそ奏で始めた。
北風と来て流し冥利の弾き語り 数雄
(『創流』九号 平成七年三月)
これもまた、私たち祖霊の魂なのであろうか。
【註】
(1)『愛知大学・中日大辞典』 一九六六年完成。「編者のことば」(鈴木択朗)に「一九五七年にはさらに…宗内鴻氏らを加え、編集陣容は充実された」とある。
(2) 収穫祭の結果は、数雄が一位、修司が二位。ただし、修司作品は既発表作が含まれていたため、規約に触れて後に失格となっている。
(3)『光炎』 数雄を中心にした『麦』二十代作家の同人誌。一九五五年四月~一九五八年十二月(全二四号)。
【出典:『琅』No.4 1995年】
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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