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人は何故書くのか(抄)

 ご紹介にあずかりました宗内です。標題に従いましてお話して参りたいと存じますが、私は今、大変戸惑っています。と言いますのは、標題の「人は何故書くのか」まではいいのですが、副題と言いますか、「──私の場合を切り口に」などという馬鹿な但し書きをつけてしまったところがとても気になるのです。

 一体、私宗内敦とはどこの何者、物書きとしては全く無名の、いわばどこの馬の骨とも分からない人間です。これが例えば、県内出身の林真理子とか、これから話の中に出て参ります瀬戸内寂聴とかいった著名な物書きなら、「私の場合」というのが大いに生きて、たくさんの人々の興味や関心を呼び起こすところでしょうけれども、どこの馬の骨とも分からぬ宗内何某では、人様にとってなんの魅力もなく、ましてや、人集めの材料にはなりません。

 実は私、すでにこれと同じ失敗をしています。先ほど私の著書『演歌つれづれ』をご紹介いただきましたが、これの副額が「自伝風エッセイ」となっております。出版時、私としたら、おこがましくも内容にはほどほど自信があり、これで十分行けると思ってもいましたが、また、お読みいただいた方々からは、世辞ぬきに、かなりのお褒めの言葉を頂きましたが、これが、マスコミなどほとんどの文芸機関から無視され、もちろん本県の『山梨日々新聞』からも無視され、そうした結果、出版後三年近く経ちましたが、これは出版社に聞いてみなければ分からないことではありますが、まだ百部も売れてはいないのではないでしょうか。ただ、日刊紙の『日本農業新聞』で、農民文学作家の南雲道雄氏が、書評欄の中では一番大きなスペースのところで書評をしてくださり、また、視覚障害者のためにいろいろな読み物を点字翻訳化してインターネット上に流している「ないーぶネット」というところが、この『演歌つれづれ』に読者からの希望があったということで、これを点字化して、今、インターネット上に流しています。が、やはり、物書き世界での無名の人間の個人史など、にわかに興味を持たれようはずもなく、例えばネット書店の最大手のアマゾンでは、出版以来まだ数冊しか売れていません。これに比べ、やはりご紹介いただきました『先生、出番です!』は、私がまさしく教育界の人間であることもあってか、まあまあの売れ行きを見せています。

 どの世界でもそうですが、名前の知名度や普及度は大変重要であろうかと思います。そのようなこと百も承知であったのに、この度「書く喜び、創る愉しさ」に関わって講演を依頼されたとき、つい「─私の場合」を付け加えて承諾してしまいました。それは、けっして物書きの専門家ではない私には、そのようなテーマで考えたことがあまりなく、つまりは自信がなかったので、つい、お茶を濁すような気持ちで、「─私の場合」なら、と応えてしまったのでした。大変申し訳ない仕儀でございます。

 それにしても、このような私の話に、部屋一杯に皆様お集まり下さり、真に恐縮に存じます「人は何故書くのか」、個人的な話に終始してはあまりに失礼、また面白くもないので、私も一応は心理学者の端くれ、多少冗長になるかもしれませんが、「私の場合」を切り口に、「人は何故書くのか」を心理学的にも考察してみようと思います。

 

(一)私は何故書き始めたのか

私の文学事始

 それでは、私は何者、どのように文学的活動と関わってきたのか、ということから始めたいと思います。

 私は東京・神田の生まれですが、家庭の事情で、各地を転々とし、小学校は「真間の手古奈」で知られる万葉ゆかりの地、千葉県市川市真間の真間小学校、中学は九州筑豊炭田の中心地飯塚市の隣り、福岡県嘉穂郡桂川町の桂川中学校、高校は羊羹で名高い佐賀県小城町の小城高校と、すべて異なる県の学校を出ています。その小城高校時代、すぐ上の兄の数雄の影響で、俳句を作っていたのが、文学活動の始まりだと思います。高校三年時に、その俳句作品を当時の受験雑誌『蛍雪時代』と『學燈』の俳句欄に投稿するようになりました。選者は、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷といった錚錚たる人たちでしたが、投稿すればだいたい取り上げられ、入選していたように思います。そんな中で、私は、青森の方から投稿する、同学年の寺山修司の名前を知るようになりました。彼の作品は誰よりも頻繁に登場し、しかも一席、二席の上位を占めることが多かったように思います。この度私は、この講演を汐に先日、私たちがどんな作品を作っていたのか、国立国会図書館に行って、当時の『蛍雪時代』や『學燈』を開き、調べて参りました。意外だったのは、いつか記憶が変容していたのか、あるいはいくつかあった欠号の巻の中に埋もれているのか、私の作品はわずか二句しか見当たらず、さらにいっそう失望したことは、その作品の未熟さでした。

 

  豪雨どっと止めば鶏鳴き天の川   (二八年八月)

  合歓の花寂し深山に君眠る     (二八年一〇月)

 

 選者の中村草田男は、前句を「第三席の宗内敦君。これは前の作者とちがっていかにも素人らしいウブウブした作品である。そこがいい。夏の夜半、突然の豪雨の音がひとしきりつづいて、不意にそれがやむと、おどろかされて眼ざめていたらしい鶏が鳴き、戸から仰いでみると、もう、くっきりと天の川が出ているというのは、いかにも夏の夜らしい実状の爽快さである」と評してくれていましたが、私の句はしょせん五七五と言葉を並べただけの初心者の句に過ぎませんでした。

 これに比べて、寺山の作品は数も多く、実に見事なものばかり、今さらながら感心しました。

 

  寝し母の足袋ふんで辞書出しにゆく (二八年六月)

  自動車の輪の下郷土や溝清水    (二八年九月)

  煙突の見ゆる日向に足袋乾けり   (二八年一一月)

  車輪繕ふ地のタンポポに頬つけて  (二九年一月)

  口開けて虹見る煙突工の友よ    (二九年二月)

  崖上のオルガン仰ぎ種まく人    (二九年三月)

 

 どの句をとっても、俳句形式の優れた表現技法の下に、生活する人間の息吹や体臭が脈打って、人間詩として人の心をとらえます。当時私は、愚かにも全く気づかなかったのですが、同じように入選しているのだから力量に違いなどないのではないかなどと思っていたのですが、今、こうして二人の作品を見比べてみると、まことに彼我の差は歴然としていて、人間を見る眼のレベル、俳句の表現技術は、まさに大人と子ども、月とすっぽんだったと思います。

 しかし、ここで大変興味深いのですが、「煙突の見ゆる……」の句を採ったとき、すでに喝破していたのでしょうか、選者の石田波郷は次のように述べています。「『煙突の見える場所』という小説や映画の題名が作用しているとしたら──、などと憶測はしないでおく。作者を信用するということは大切だからである」。波郷はやんわり諭したのでしょうが、寺山はなお、「崖上のオルガン仰ぎ種まく人(ヽヽヽヽ)」と続けています。この忠告を聞き入れていたら良かったのか、聞き入れていなかったから良かったのか、寺山はそれから一年も経ないうちに、周知のように、たくさんの他人の俳句作品を借用し、もちろん受賞後に発覚したのですが、それを土台にした短歌作品「チエホフ祭」をもって短歌研究新人賞を獲得、衝撃的な文壇デビューを飾っています。例を挙げれば、

 

  向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男

  (人を訪はずば自己なき男月見草 中村草田男)

  わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る

  (わが天使なるやも知れず寒雀 西東三鬼)

  莨火を床に踏み消して立ち上がるチエホフ祭の若き俳優

  (燭の灯を莨火としつチエホフ祭 中村草田男)

  蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学を欺き

  (蛮声をあげて晩夏の森に入る 宗内数雄)

 

 この寺山と、私は生涯でたった一回きりですが、顔を合わせたことがあります。それは、大学入試に失敗して上京し、浪人生活を始めた直後のこと、当時私の兄の師であった中島斌雄先生が主催する『麦』の俳句会に出席したときのことでした。

 句会の始まる前、大広間の会場の一番端の方に小さく畏まって座っていた私の眼の前に、突然、学生服を着た比較的長身のやせぎすの男がやってきて、覗き込むように少しかがんで「宗内君ですか」と問うてきました。軽くうなずくと、当然知っているだろうという疑念のない顔つきで「ぼく、寺山です」と言います。すぐに彼が何者かが分かりました。そのとき彼が早稲田大学に入学していたことなどまだ知るよしもありませんでしたが、私は彼がわざわざ私を目指して挨拶しにきたことに気分を良くして、では隣にでも座ってもらい、同好の士として親しく語り合おうと席を空けかけようとしたとき、彼は全く無表情に「兄さんどこですか」とたたみかけるように聞いてきました。兄の数雄は、当時、俳句界の次代を背負うとして一括りされていたいわゆる〈三十代作家〉の飯田龍太、金子兜太、野村登四郎らの後を追う〈二十代作家〉の旗頭として話題を集めていた俊英でしたから、彼はその兄に近づこうとしていたのでした。大広間の真ん中、床の間を背負った位置に中島斌雄先生が居て、その二つ三つ横の席に兄は座っていました。そこを指さすと彼は振り返りざま、「あ、どうも」と言ったか言わなかったか、そのままそちらに向けてすたすたと行ってしまい、その後、私のところには戻ってきませんでした。

 これが、寺山修司と私の最初にして最後の出会いです。すでにして大人の眼、詩人の目をもっていた寺山から見れば、私など取るに足らぬちっぽけな存在であったに違いありません。しかし、当時の私には分かろうはずもなく、ひたすらプライドだけが傷つけられ、寺山修司という男が一挙に嫌いになりました。そんな彼から、二、三ケ月後、「十代作家が結集して旧態依然の俳壇に新風を起こそう」という『牧羊神』への誘いの檄文が届きましたが、私はそれを無視しました。今振り返れば、あの稀代の天才と交わりを持つ絶好の機会だったのに、まことに残念にも思うのですが、運命のいたずら、この後しばらくしての「チエホフ祭」が、兄・数雄の句も含めてたくさんの俳句作品を盗用しているにも拘わらず、大した批判もされず(と未熟な私には見えていたのですが)、その後彼が華やかに世間の注目を浴びていく様を見るに及んで、わが身の非才などは置いて、私はすっかり、文学することに嫌気がさし、その後は俳句を作ることさえやめ、まして小説などを読むこともなく、文学的生活など全く無縁になりました。そして、無為に過ごした四年間もの長い浪人生活を経て東京教育大学に入った年、眠っていた文学の虫がふと甦ったのか、友人たちと『黎明』という同人誌を興しましたが、お決まりの資金不足で、二号で頓挫、それ以後ずっと長く、五七歳で教育・文芸同人誌『琅』を出すまで、ときたま新聞小説を読むくらいの、文学無縁の生活を送っていました。

 

第二次文学事始

 こんな私が『琅』を始めたのは、勤め先の大学で、あきれ果てたる人たちから、理不尽極まるいじめといじわるに見舞われたことがきっかけでした。私は、暗闇から集中砲火を浴びせてくる(面と向かっては一度もなく、常に蔭口を叩き合わせている)面々に向けて生じてくる激しい憤怒と、そのような人たちが牛耳っている職場に果てしなく絶望を感じました。私は、押さえようとて抑えきれない怒り、恨み、そして絶望感から逃れ出るために、長い間眠っていた文学的動機、即ち書くこと、創作することを生き返らせたのです。

 それは、心理学的に言うと、「適応機制」と呼ばれるものでした。適応機制とは、精神的に苦痛な局面から逃れ出るために、今やらねばならない大切な事柄をしばし横に置いて、それなり満足感を与えてくれる実現可能な目標を作り、それに打ち込み、達成して、得られた満足感によって一時的にでも、苦悩や適応不全感を紛らわせて精神的安定(心理的適応感)を取り戻そうとする試みです。この適応機制にはさまざまなメカニズムがあり、逃避機制、攻撃機制、置き換え機制等々、さまざまに分類されますが、私の場合では、逃避機制の中の「現実への逃避」と、攻撃機制と置き換え機制を合わせ持った「昇華」の二つのメカニズムが用いられたと思われます。

 現実への逃避とは、同じ逃避の範疇には入っても、登校拒否や引きこもりといった「退避的逃避」や頭痛・難聴・神経痛といった心身症的病の虜になる「病気への逃避」など、消極的な防衛行動ではなく、現実的に価値があるとされるような事柄に没頭して、自己卑小感に陥ることなく苦悩を追い払う積極的な適応行動です。そうです、私は何事かに熱烈に打ち込むことによって、現実の苦しみから己を解放し、精神的な安定を取り戻そうとしていったのです。そして、自然の潮流のように、若い頃に断念した文芸活動を復活させました。この、私の行動が、いわゆる「昇華」と言われるものです。定義的に言えば、昇華とは「性欲や攻撃性など、そのままの形では社会的に承認されないプリミティブな欲求や傾向を、文学、芸術、スポーツなど社会的に承認される高尚な形に変えて満足を図ること」です。私は、醜悪なるかの人たちから与えられた尋常ならざる怒りと恨みを物書き活動の活力源としながら、醜悪によって傷められた身を癒すために敢えて善美なること(人)を、醜悪を懲らしめるためにこれまた敢えてそれ(醜悪)を投影する社会の不条理を、連綿と書き綴っては怒りと怨みを昇華し続けました。

 このようにして、私は書き始め、書き続け、そして心を癒して参りました。有り難きかな、いつか心の中から怒りと怨みの坩堝(るつぼ)は溶け消え、今では、書くという行いだけが、自己表現や自己実現の恰好の手段として、また、無上の楽しみとして残されています。そういう意味では、私をしてこのような幸せに導いてくれた人たちには、「反面教師」ならぬ「反面恩人」という言葉で、感謝をしなければならないと思っています。

 

文学的動機としての怒り、恨み、怨念

 ところで、私の本格的な物書き人生は、勤務先での絶望的状況からの逃避と、怒りや恨みや怨念を押さえるための昇華活動として始まったと申し上げました。しかしこうしたことは何も私に限った特別のものではありません。特に、怒りや恨みや怨念といったネガティブな情動は、一般に文学活動を動機づける重要な要因となっています。

 ごくごく一般的に言えば、婉曲に国や社会や人間を批判し当てこする「風刺文学」というものは、これらの情動に基づいて作り上げられています。例えば、有名なスウィフトの『ガリバー旅行記』は、スウィフトが自分の母国、当時のイギリスの国家体制や人間の生き様に対する怒りや怨念から生まれたと言われており、ちなみに、『ガリバー旅行記』には、小人の国、巨人の国、空飛ぶ島の国、死者をよみがえらせる国、不死の国などたくさんの国と社会と人間が描かれていますが、小人の国は当時のイギリスを風刺していることは明らかであり、また、最後に登場してくる「馬の国」では、馬に飼育されるヤフーと呼ばれる家畜人間を家畜の中でももっとも救いがたい動物として描くことによって、およそ真善美から遠い存在として人間一般、即ち人類そのものを駄目押し的に風刺しています。

 文学活動の基底的情動としての怒りや怨念。これを個々の作家に求めれば、例えば丹羽文雄や松本清張や宇野千代などが挙げられます。丹羽文雄では、幼児期に自分を捨てた母親に対する怨念が長く文学活動の支えになっているし、松本清張は、高等小学校しか出られなかった貧困と艱難辛苦の人生から発した情念に押され、一貫して人間悪、社会悪の追求に立ち向かっています。また宇野千代は、その怒りや怨みはいかばかりか、六七歳にもなってから夫の北原武夫に若い女の元に走られ、その模様を『刺す』という作品に描き、その後、九八歳で亡くなるまで、迸るようにたくさんの名作を書き続けました。

 このように、怒りや恨みや怨念というもの、まさに文学活動の大変なエネルギー源でもあるわけですが、それは何故なのか──。こうした情動は、実は骨の髄までしみこんで、尋常一様なことでは癒し、解放することがかなわないからだと思います。こうした、興味深い例を、大変恐縮ながら、瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』に求めてみたいと思います。

 なお、以下の話では、「 」内はすべて『奇縁まんだら』からの引用、また、本文中も、そのニュアンスを損なうことのないように、寂聴さんの文章をそのまま用いているところが多々あります。お断りしておきます。

 

『奇縁まんだら』

 瀬戸内寂聴さんが『日本経済新聞』に連載した『奇縁まんだら』、じつに素晴らしい、人物エッセイです。稀代の女流作家が、面白可笑しいエピソードをたくさん盛り上げながら、色とりどりに交わりのあった高名な文学者や芸術家との人間模様を描く中で、一般常織でとらえると「えっ」と驚愕するような話でも、その暖かい眼差しで、最後はみな見事に魅惑的にして個性的な大人物として描ききっています。

 たとえば、『君の名は』で世間に知られる劇作家の菊田一夫氏について、話はひたすら愉快です。中央公論社主催の講演会に菊田一夫氏とともども講師として沖縄に赴いたときのこと、寂聴さんによれば、菊田氏は一見、小柄で、貧弱で、控えめな微笑で人に接し、演劇界の大ボスなどという威厳を感じさせない好々爺然とした颯々たる風貌の持主だそうですが、その菊田氏は旅行に出ると必ず、関係のあった女性たちに土産物を買って帰るとのことです。この沖縄旅行では、氏はその土産に琉球紅型などの反物を選び、その選り分けを同行の寂聴さんに依頼しました。そこで、気を利かした寂聴さんが反物を前に、十八歳から四十八歳まで十反ほどかと(つまり十人分かと)問うたところ、いったんはうなずいたあと、小さく恥ずかしそうに、

「あのう、二十反ほど……」

 と、言った由。

 その後話が弾んで、菊田氏は、一度何した女とは別れたあとも旅の都度土産物を届けている、別の男と結婚しない限り生活費も送り続けている、

 

「……、だって、やっぱり可哀そうだから……別れるのはいつだってこちらのわがままなんだもの……だから、いくら稼いでも貧乏なの」

 と、宣ったそうです。

 またあるとき、菊田氏は女性たちへの土産物で満杯の大きなトランクの最上部に、カラフルな女性用パンティをまき散らすようにたくさん詰め込みました。帰国した空港の税関で運悪くそれが開けられる羽目になりましたが、惑ったのはご本人だけではありません。とたんに係員は中身も質さず、瞬時に閉めて、

「今度のご旅行はどちらですか」

 と、儀礼的な言葉を発するのが精一杯。菊田氏は真っ赤になって乙女のようにはにかみ、さしうつむいていたといいますが、もちろん税関はそのまま無事通り過ぎています。

 付帯されている「寂聴語録」は「芸能界の大ボスの、今様光源氏ぶり」でありました。『奇縁まんだら』は、ある意味、痛快な暴露本でもあります。その上、登場してくる人物はみな鬼籍に入っている人たちです。もし、在世中にこのようなエピソードを紹介されていたら、どうだったでしょうか。立腹する人はいなかったでしょうか──。でも、まずはその心配はありません。書き手の、実に暖かな眼差し、深い敬愛の心、そして何よりも、どの人も皆、類なく個性的な大人物として描かれているからです。

 しかし、たった一人だけ、例外がありました。たしかに、個性的な人間として取り上げられてはいるのですが、けっして敬愛的には描かれてはいない。それが、文芸評論家の平野謙さんです。

 文芸評論の泰斗平野謙が、彼女がようやく売り出し始めた若い頃、その『花芯』という作品を新聞の時評で酷評し、そのため一時とはいえ、瀬戸内晴美なる女性作家の流行作家への道のりが無惨に打ち砕かれたことはよく知られています。その平野謙さんを「謹厳そのもの、平野謙」という見出しで取り上げ、「縦から見ても横から見ても、平野さんは誠実を絵に描いたような生真面目な人柄」で、「そんなことがあっても、なぜか私は平野さんを嫌いにはなれなかった」と書いているのですが……。

 たしかに、平野謙氏について、ユニークなエピソードとともに、その謹厳そのものぶりが、ものの見事に描き出されています。

 あるとき、平野謙さんと小島信夫氏が寂聴さんを訪ねてきました。どういう経緯でそうなったのか、寂聴さんは、さる怪しげな人物から売りつけられた北斎の秘戯図の模写本を二人に見せることになったのですが、一緒に見ますかとばかりにその和とじの本を二人の間に差し出すと、平野謙さんはそわそわして赤くなり、「お先にどうぞ」というそぶりで小島信夫氏の方へ本を押しやりました。そこで小島氏がまずはひとりで最後の頁までひとしきり堪能した後、相応の感想を述べ、平野さんの方へどうぞと押しやりました。ところが、平野さんはそれを無視して、そればかりか急に時計を覗き、遅くなったと、帰り支度を──。が、寂聴さんがその模写本を風呂敷に包み、「よろしかったらどうぞ」と差し向けると、平野さんは今度はそれを恭しく受け取り、鞄にしっかりしまって帰って行ったというのです。そして日を経て、平野さんから寂聴さんのマンションに電話が入りました。平野さんは寸分違わず約束の時間に来るなり、恭しく紫の風呂敷に包んだ例の秘戯図を差し出し、こう言いました。

「大切なお品を拝借してありがとうございました。ところでわが家には子供もいることだし、早くお返ししろと家内が申しますのでお返しに上りました」

 そして本を返すと、心から安心した顔つきで、茶菓子を一つご馳走になった後、さっさと帰っていったということです。因みに、寂聴さんによれば、当時の平野家では、子供とは言え、すでに成人しているはずとのことでした。

 しかし、この話は、まだ序の口です。この半年後ほどのこととか、その謹厳ぶりを示すのに、次の話が圧巻です。それは、お茶の水の旅館で平野謙さんと二人で缶詰になって仕事していた開高健氏から、骨休みに行き付けの美味しい店に連れていって欲しいと電話が来て、寂聴さんが二人を青山の中華料理店へ案内したときの出来事です。

 人も知る美食家の開高健氏は、極上の料理と、美人でグラマーでセクシーな女主人を前にして、超ご機嫌。テーブルはその開高健氏の独壇場で、すっかりマダムと二人で意気投合。そのうち、開高健氏の話に興奮したマダムが、やおら服の前ボタンを次々はずしてぽろりと豊満なおっぱいをむき出して見せるほどに、盛り上がりました。平野さんが思わず腰を浮かし、食べかけのものを喉に結まらせたといいますが、無理もないかと思われます…

 そしてお開きの後、開高健氏は、同宿して仕事をすることになっていた平野謙氏を撒いて、マダムとどこぞ(山梨県・河口湖畔)にしけこんでしまったのですが、平野謙さんにはそうした事情を洞察する心情に欠けていたのか、野暮だなぁと思われることなど夢想だにせず、真夜中に開高健氏の居場所を真剣生真面目に心配する電話を瀬戸内宅にかけてきました。その際、

「つかぬことを伺いますが、あの店のマダムは色情の病人でしょうか。あのおっぱいショーは平常の神経の持主とは思えませんが」と言ったそうです。まことに、人の行動、人の解釈はさまざまにあり得て摩詞不思議。私には、そうとしか言い様がありませんが、これに対して寂聴さんは、

「ああ、こういう人だから、私の『花芯』に、子宮という文字がいくつあったなど、指折り数えたのだろう」、と納得し、そしてこの話を、「生真面目と滑稽は紙一重」という寂聴語録で結んでいます。

 生真面目と滑稽は紙一重。評論家の平野謙さんについて、まさにまさしくその通りだと共感できるエッセイです。そしてこれは、誰がどう見ても皮肉極まるものですが、これをまさにまさしくかつて痛恨の思いをさせられた寂聴さん自身が述べているところが何とも興味深い。瀬戸内寂聴ほどの人物でも、ひとたび身体の芯にまで突き刺さる恨みを与えられると、それがどこぞに篭もっていつか出口を見つけずにはいられなかった。あっけらかんとした体裁を取ってはいますが、実に半世紀もの後に、こうして読み物(文芸作品)を介して見事に恨みを晴らしています。さもあればこそ、恨みや怨念が文学活動の基底的動因になることは容易に理解されるところであり、いわんや、凡愚凡俗においておや、という思いが募るのです。

                 【出典:『琅』№22 二〇〇九年八月】

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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宗内 敦

ムネウチ アツシ
むねうち あつし 随筆家 1935年 東京都千代田区神田に生まれる。主な著作に「先生、出番です!」(雇用問題研究会 2007年刊)など。

掲載作は『二言・三言・世迷い言』(2011年12月、書肆採光刊、第2刷)より「第三部 人は何故書くのか」の抄録である。

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