わたしの森敦・井上靖と大岡昇平 ――想い出すこと二つ
思い出すこと ─井上靖と大岡昇平─
思い出は多い、が、それは何もわたしだけではないだろう。井上(靖)さんは、井上さんに接した人すべてにそれぞれの思い出を残した人だった。それも井上さんとその人だけのものを、である。だから、それは胸の中にしまっておいた方がいいのだが、あえて書きとめておきたいことがある。
あれは、さまざまな曲折があったあとに(国際ペン)東京大会のメインテーマが決定した数日後だった。わたしは大会の事務的なことで夜七時すぎにお宅へ伺った。一時間ほどで用件が終って辞去しようとしたときだった。電話があって井上さんは応接間を出た。
数分して戻ってきた井上さんの顔はなぜか紅潮していた。浴びるように飲んでも何ひとつ変らない井上さんが、どうしてにわかに酔ったようになったのか、わたしには見当がつかなかった。すると井上さんは、
「いまの電話は大岡昇平君からでした」
と自分の方からいった。
わたしは大岡さんとは文壇碁会で碁を打ったり、ご本人の希望で推理小説の文庫本の解説を書いたり、わたしの作品に関したことで手紙を頂いたりしたことがあり、それはそれで敬愛する作家だったが、『蒼き狼』をめぐって井上さんとかなり激しい論争をしたことも知っていた。
文壇ゴルフの消息通から聞いた話では、同じ組にしないように主催者が気をつかっているということだった。
驚いているわたしに井上さんは、大岡さんと話をしたのは何年ぶりになるかわからないことや、電話の内容が、「核状況下の文学」というテーマが日本で開かれる国際ペン大会にもっともふさわしいものである、と大岡さんがいったこと、大会の成功を願っていることなど、じつに嬉しそうに語り、
「あなたがいてくれたのは本当に偶然だけれど、よかったですねェ」
と、ブランデーのお湯わりをうまそうに口に運んだ。そしてわたしが辞去する前にも、
「今夜の電話のことは、ほかの人は誰も知らない、あなたとわたしだけの知っていることとして、どうか記憶しておいて下さい」
「もちろんです。忘れようたって忘れられるものじゃありません」
わたしはこのことを誰にも話さなかった。二人だけが知っていることといわれたせいもあるが、その一方で、犬猿の仲のようにいわれた偉大な二人の作家が東京大会の前に心を通じ合っていた事実を、いつかは明らかにしておきたいとも思っていた。
その時がとうとうきてしまった。切ないとも悲しいとも、言いいようがないことである。
わたしの「森 敦」
昭和三十四年(1959)の四月下旬に初めて森さんに出逢ったときのことも、最後にものいわぬ人となって天へ還って行った森さんに病院の霊安室で接したときのことも、よく覚えている。最初のときはわたしが二十八歳で森さんは四十七、八歳だった。そのときから平成元年(1989)七月末に森さんが亡くなられるまでの三十年間、わたしは森さんからいろいろと教えられた。といっても、森さんが芥川賞を受けて多忙になってからは、会って話を聞く機会は減り、電話で話すことが多かった。わたしが自作を贈呈すると必ず電話がかかってきて、五分か十分、ときには一時間近くもあれこれと話をした。他愛のない話になることが多かった。森さんと、小説についてとめどもなく話をしたのは、森さんが山形から上京して近代印刷に勤めていた時代であった。会社にも、下石原のアパートにも何度となく行った。
そういう会話のなかで、森さんはときどき若かったころの話をした。太宰治や檀一雄がよく出てきた。菊池寛も志賀直哉も出た。不思議なことに、もっとも縁の深かった横光利一のことはあまり出なかった。ソウル時代のこともカラフト放浪も奈良時代も聞いた。わたしは、森さんに関しては、かなりの知識をもったつもりでいた。
弥彦でも大山でも下石原でも、つねにかたわらには奥さんの暘さんがついていた。わたしは訪ねるときはいつも一升びんをぶらさげて行き、三人で飲みながら話をした。奥さんが、
「三好さんがきて下さると嬉しいわァ」
といったことがある。奥さんは天女のような人で、笑顔が何ともいえず優雅だった。どうしてですか、と聞くと、
「だってお酒がのめるんですもの」
と微笑しながら、本当においしそうに盃を口もとに運ぶのである。わたしは森さんに聞いたことがある。森さんのような放浪の不良が、どうしてこんな綺麗な人をひっかけることができたんです? まったく不思議としかいいようがない。すると森さんは、
「ひっかけたんじゃありませんよ。ぼくが惚れられたんです」
「まさか、はッはッはッ」
とわたしは笑い、森さんも笑い、奥さんも笑った。
惚れられた、というのは、森さんのてれだとわたしは思っていた。それ以上は聞かなかった。森さんは作品もそうだが、独特の遠近法をもっていた。わたしは、森流忍法エンキンの術、などといったことがあるが、それがわかっていないと、森さんの作品の根底に横たわるものを理解するのは難しい。
「月山」が受賞したあと、わたしは古山高麗雄さんにいわれて「季刊藝術」に「森さんのこと」というエッセイを書いた。
「月山」が発表になったあとで、文芸雑誌にのった批評家による月評を読んで、わたしはかれらがひどい読みちがえをしているのに呆れてしまった。三人とも「月山」は死に対する心理を描いたものとして理解しているのだ。日本の文学は、死に対する場面の考え方を書くと成功するんだとか、この主人公はいったい何をしてくっているのかわからないとか、人間は月山を眺めて美しいといいながら死ねるはずはないとか、見当違いなことをいっている。
そうではないのだ。「月山」は、こういう解釈とはまさに逆の、生を描いた作品だと思う。生を書くにあたって、まともに生ばかり書いたのでは、その作品は決して倍率一倍以上にはなりえない。むしろ一倍以下になるのがふつうで、近くのものは見えても遠くのものは何も見えなくなり、現実をパノラマ的にとらえることは不可能になる。
右(=上)の文章はその一部だが、三人の批評家の一人のIが、これに怒って「文学界」に反論をのせた。もともとわたしは批評家、ことに純文学のそれを信用していない。たとえば、Eは、一九八四年に開かれた国際ペン東京大会にふれた文章で、理事会におけるわたしの発言を完全にデッチアゲて書いた。そして、わたしの抗議を受けると、あれは文学として書いたものだ、とひらき直った弁解をした。要するに、文学を免罪符としてあるいは隠れミノとして用いている。Iの反論もその類のものだった。わたしは森さんに、わかっているつもりのわからず屋にものをわからせるのは面倒だけれど、放っておくと認めたことになるから書こうと思うが……といった。森さんはいかにも森さんらしくカラカラと笑って、
「それもいいけれど、読む人が読めば、あなたの書いている方が正しいとちゃんとわかりますよ」
といった。
森さんのエンキンの術の一つであった。小説家が批評家を相手に論争するのは時間の無駄であり、そんな目前の光景に目を奪われるよりも遠くの山を見ろ、というのである。
わたしが森さんに教えられることが多かった、というのは、じつはこういうところなのだ。森さんの卓絶していたところは、眼光紙背に徹していたが、同時に紙の上つらにも、ちゃんと目くばりの行き届いていた点だった。いいかえれば、森さんは脱俗の人生を過した人だったが、俗なこともまた決して軽蔑していなかった。わたしは直木賞の候補になること三度目で受賞したのだが、二度目のあと、もらえなくても作家としてどうやらやって行けそうだ、というと、森さんは、
「それはいかん。一度はともかく、二度候補になった以上は取らなければいけません」
と断乎たる口調でいった。
「そうですかね」
「そうです。絶対に取りなさい」
と森さんはいった。
芥川賞にしろ直木賞にしろ、受賞すれば作品発表の場が広くなるから有利であることは確かだが、といって、作家として才能が乏しければそれまでのことである。また、運不運ということもある。現に受賞しても消えた人は多いし、受賞しなくても旺盛な執筆活動をしている人も多い。賞はいわば俗である。それまでわたしは、森さんはそういう俗を問題にしない人だと思っていたから、むしろ驚いたのである。森さんはたちどころにわたしの胸中を見抜いて、
「そりゃ、賞なんかなくたって、あなたはやっていける。しかし、一度だけならこだわることはないが、二度なったからには候補のままで終っちゃいかんのです。大丈夫、あなたなら必ず取れます」
そのあとしばらくして、わたしは別冊文春に書いた作品のゲラを森さんに見てもらった。森さんは例によって大いにほめたのち、聖少年としてあった題名について、
「これは聖少女に変えた方がいい。第一、あなたはこの少年を前景にしてじつは少女を描いている」
「ええ、エンキンの術のつもりです」
「それならやはり聖少女であるべきだし、それにタイトルには女が入った方が売れるものですよ」
その言葉が森さんの口から出たことに、まったく驚いてしまった。
森さんは、門弟三千人というふうなボス的な人ではなかったが、書いたものを読んでもらった人は多い。小島信夫さんが書いているように、森さんは名調教師でもあった。といって、どう走る(書く)かを手とり足とりして教えるわけではなかったが。
森さんを形容するには、文学者というより文人という方がふさわしいと思うが、そのころの森さんは、いわゆる、文学から昇華した次元に身を置いていた、と思う。おそらく意識的にそうしていたに違いない。森さんの志は、つねに望洋にあった。天の一角から地上を見ているようなところがあった。文学の世界の仙人でもあった。そして、ときどき地上に降りてきては、わたしのような若いものとの接触を楽しんでいた。その過程で、わたしはもっとも多く教えを受ける幸運に恵まれたのであった。
わたしが頭の中にある作品についてそれとなく話すと、森さんは、
「それはおもしろい。大蔵経のどこそこにこういうことが書いてあって……」
などとくわしく説明し、大蔵経に目を通したことのないわたしをくさらせた。
「困りますよ。そういうのは読んでいないんだから」
「いや、読まなくても構わんのです」
と森さんはいうのである。
わたしは森さんが誰かの作品を評したのを聞いたことがない。唯一の例外は小島さんの作品で、あとはドストエフスキーなど外国の作家の作品に関するものばかりだった。しかし、多くの現代作家のものを読んでいたことは確かである。
これは、わたしの独断だが、森さんが胸中ひそかに森さんふうにいえば、
(これは
と認めていたのは、カフカではないか、と思う。森さんの口から、カフカはすばらしいとか大したものだとか、聞いたわけではない。あるいは、カフカの作品について、あれこれ議論したわけではない。何かのときにわたしが「変身」を初めて読んだときのショックを話すと、
「ああ、そうでしょう」
といったことがあっただけである。
以下もわたしの推論だが、あるとき森さんは、自分たちがどんなに頭をしぼって物語を創作しても、中国の古典や仏教の経典や聖書などにすでに書いてあるものだ、という意味のことをいったことがある。
森さんが長い間筆をとろうとしなかったのは、それが一つの理由ではないだろうか。いまだかつて誰もが書いていないものを書くのでなければ書く意味がない、と思っていたのではないだろうか。「意味の変容」はそこから発したものであり、「月山」は自分にきびしかった森さんが決して満足はしないが、かろうじて合格点をつけられるとして古山さんに渡したのではないだろうか。いったん原稿を渡してから返してもらいたがったのは、それを物語るのではないか。また、内心で認めていたのはカフカだけではないかとわたしが独断するのも、カフカの独自性の故なのである。
正直にいって、森さんについて語ることは難しい。これは前記の「森さんのこと」でも書いたが、百枚書けば、もうあと五十枚は必要だという気になり、それなら最初から二百枚ということで書き上げると、あと百枚は必要だ、という気になるのである。まして短い枚数の「解説」では、どうにもならない。かりに、わたしと森さんとのふれあったことを全部ここに書いたところで、それはごく一面的なものにすぎず、「森敦の人と文学」を解明したものとはなり得ない。素朴な「文は人なり」をもってすれば、この全集をていねいに読破すれば何とかわかることになるが、それさえも決して充分とはいえないだろう。
たいていのことは聞いていたつもりのわたしも、この巻におさめられた一種の回想談には、
(ああ、そうだったのか)
とあらためて謎を解かれたような想いになることが多かった。ことに、「天に訴える手紙」「心残り」の二編は、短いものながら、わたしをつかまえてはなさなかった。
奥さんが亡くなられたとき、わたしは知らなかった。少したってから知って、わたしは森さんに苦情をいった。きのうやきょうのつきあいじゃあるまいし、知らせてくれたっていいじゃないですか、とわたしはいった。少しだが、怒っていた。森さんは困ったように、誰にも知らせなかったのだ、といった。
あの天女を知る数少ない一人として、そんなみずくさい……といいかけて、わたしは絶句した。生き残っている人間のなかで、森さんこそもっとも悲痛な想いをしていることに気がついたのだ。
森さんが亡くなった日、わたしは旅先から帰宅して、家人から富子さんの連絡があったことを聞き、すぐに病院へ駆けつけた。
遺体はまだぬくもりを残していた。わたしがそのぬくもりを掌に感じているときに、警察が解剖するつもりであることを知った。不意の死の場合は、げんみつに法的な処理をしようとすると、そういうことになる。司法記者をした経験のあるわたしは、それを知っていたが、同時にそうされずにすむ道のあることも知っていた。わたしは担当の警官に交渉し、富子さんにも話して、森さんの主治医にきてもらい、どうにか解剖されることを回避した。その間に古山さん、高野悦子さんをはじめ、続々と駆けつけてきた。顔見知りの編集者の一人が近寄ってきて小声で、こんな場所でナンですが、何か書いてほしい、といった。これは文藝雑誌の担当者として、やむを得ないことである。
わたしはことわった。いまはその気になれない、といい、相手も了承した。だが、本当は、その気になれなかったのが唯一の理由ではなかった。
亡くなった先輩や知友の追悼文を書いたことはある。だが、それは確かにつきあいはあったものの、あるいは心の通じあいはあったものの、森さんとの三十年とは比べものにならなかった。森さんに接したものが誰でも感じたように、自分はほかの人よりも森さんの知遇を得ている、と思いこませる魅力を森さんはもっていた。いうにいわれぬあたたかみがあった。不思議なオーラを発する人であった。
わたしもそのオーラを浴びた一人だったが、わたしのひそかなる自負は、森さんが世間的に無名だったころから接していたことであり、小島さんには及ばないとしても、わたしだけが知る森敦の一面を綴るには、それなりの時間が必要だと思ったのだ。NHKのたっての依頼で、小島さんとラジオで三十分間の対談をしたが、それは森さんをNHKにひっぱり出した担当者の熱意に負けたせいなのだ。
この巻の解説を引き受けたのは、それなりの時間が経過したように思ったからである。もとより、この文章はいわゆる解説ではない。森さんの小説は、文体に独特のリズムがあって、そのリズムになじむまでは、人によってはいくらか時間がかかるかもしれない。だが、いったんなじんでしまうと、逆にそのリズムに惹きこまれてしまう。この巻におさめられたのは、小説ではなくてエッセイであるが、エッセイの文体は、小説よりもやさしいので、すぐに溶けこめる。短いエッセイは、読むがわにとってその場限りのものだから、森さんはそこを心得ていて、誰にも親しめるように書いたように思える。だからといって書きとばしたものではなく、どんな短いものでも、森敦その人を忠実にあらわしていることはいうまでもない。むしろ、森羅万象を奔放に語ることによって、主題をしぼる小説よりも、森さんの人柄を多角的に反映するものになっている。他の人は知らないが、少なくともわたしにはそう思える。
いまごろ森さんはどこでどうしているだろう。天の一角にあって、奥さんや太宰や檀らと雑談をかわしながらふと地上を見て、うごめいているわたしたちに眼鏡の奥の、優しく、時に鋭い目を向けて、
「やァ、やっているね。いいものを書いて下さいね。大丈夫、あなたは書ける人だ」
といわんばかりに微笑んでいるのではないだろうか。わたしに関する限り、森さんの怒ったのを見たことがない。この文章が森さんの真価を伝え得ないとしても、森さんは笑って赦して下さるだろう。
森さんが現世を逝ったのは確かだとしても、わたしのなかでは森さんは亡くなっていない。森さん、さようなら、ともいいたくない。森さんは、会って別れるときも電話を切るときも「じゃね」といった。この全集のどのページをとっても、その声がわたしには聞こえてくる。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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