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遠い聲

 死刑臺をおさめた建物は所内のはずれ、西の丘の底辺にあつた。一見したところでは、工場の倉庫のように感ぜられる建物の背後に常緑の松と杉の木立がそびえ、前方のひらけた部分には芝生の波がうねつていた。眺め続けていると、視線をそらすことにうしろめたさを覚えてくるような強い魔力、それは船乗りを誘惑する魔女の呼び掛ける聲に似、深い陥穽に落ち込む時の髪を逆立てる恐怖、それから生れる肉のしこりを見るものにもたらすのだつた。

 このM刑務所へ迎えられる客たちのうち、ある少数のものは、玄関を背負う人間ではなくなつていた。人は外へ出る時必ず玄関を背にするものだが、彼らの背負うものは無限にひとしい長大な壁、その果てにある幻影ではなく、実在の、そして死者となつてしか出られない建物だけだつた。

 彼らは、間違いなく訪れるくせに予告されることのない宣告を逃れることもできずに二十四時間中待ち続け、対面し、苛立ち、格闘し、彼の皮膚を喰い破つてめりこもうとする恐怖、眼をそむけることのできない時間となぐり合い、そのため、全身が傷だらけとなり、最後には傷でない箇所はなくなるのだつた。

 夏。

 三人の執行者たちは夕暮れの光が弱々しくしぼみかける時刻、所長の部屋へ呼び出しをうけて集まつた。彼らは、部屋へ入る前から萬里の長城にさらに石を積み重ねる兵士の疲労、高い鉄塔の上で作業をする職人の緊張でみたされていた。

 三人のうち、もつとも若い小高は、所長の玉城がすすめたタバコを力なくうけ取り、不意の沈黙の気まずさに反撥しながら、肺一杯に広がる煙のかすかな刺戟で自分を慰めた。自然の歯車のちよつとした喰い違い、それが自分を捲きこまぬようにという祈りがむなしかつたことを、小高は自分と同僚に対する腹立たしさの中で確かめるのだつた。

「分かつているね?」と玉城は強いて聲に明るい弾みをつけようと試みた。「さつき、東京の法務大臣から十六號に対する正式の執行命令書が届いた。本人は判決を受けるまでは、ずいぶんと乱れたらしいが、判決後は落ち着いてここへ来た。あれからもう一年以上もたつている。きつと平静に明日をうけいれるだろう」

 ひたむきだがうつろな説得の聲が、壁や床板に吸い込まれた。汗が所長の額一面に吹出物のように滲みだし、彼の奥底にうごめいて悲鳴を挙げようとする感情を裏書きした。

 燃え立つ夏の日はすでに沈んでいたが、暑さは少しも衰えていなかつた。開けはなたれた窓からタバコの煙が軽く渦を巻いて流れ出て行つた。小高はそれに視線をあてながら、玉城の中にあるものと同じ種類の呻きが自分の身体の中でもうずいている、と思つた。隣りの工藤を盗み見ると、工藤は工藤で放心したように空虚なまなざしをぼんやりと宙にこらし、途方にくれた存在、漂流する筏にすがりついて飢を待つ人間のようにひつそりした呼吸をする生物に変つていた。

「そうですか。分りました」と高い音階で立田が答えた。

 張りだした顴骨(かんこつ)を陽灼けした肌で包んだ立田は、嘲けるように小高と工藤の怯えたような様子を眺め、快楽を目前にした人間の発するようなはりのある聲で言つた。

「十六號はわれわれの考えているほど深刻な心理状態じやないかもしれません。それどころか、あいつは、この日の来るのを待ち焦れているかもしれませんよ。別に口がきけない唖者というわけでもないのに、何をきいても何を話しかけても、黙りこんだままで返事をしないなんて、どうかしています。あの男は明日死ぬわけだが、あの聲帯はとつくに死んでいたんです。明日はほかの部分がそれに追いつくだけですよ」

「静かにしてくれたまえ」と所長は汗を拭きながら言つた。

 立田は不服そうに眼を光らせて黙つた。

「執行は午前七時。ご苦労だけれど、所内のしきたりどおり、今夜の宿直のみなさんにそれをお願いする」と所長は眼を閉じて言つた。そして苦しそうに一言つけ加えた。「いつも言うことだが、われわれは社会正義の執行者なんだからね」

 所長室を出ると、立田が歩きながら小高と工藤の肩を軽く叩いた。

「気の小さい人だな。あれで所長がつとまるのが不思議だと思わないか」と立田はとがつた聲で言つた。

「君はいつも愉しそうだね」と工藤が怒つたような聲で答えた。

「愉しそうだつて?」と立田は噛みつくように言つた。「冗談じやない。おれの言つていることはそんなことじやないんだ。所長が、われわれは社会正義の執行者だ、なんて、気休めのようなことを言うからさ。そんなゴマ化しみたいなことを言つたところで、おれたちは、明日の朝になれば一人の男を絞め殺すんだからな」

「それが君には愉しみのようにみえるというんだ」と工藤は腹立たしげに言い返した。

「それなら、君は何故こんな職業についているんだね」と立田が工藤の顔をのぞきこんだ。

「やめましよう、そんな話は」と小高はたまりかねて言つた。

「やめてもいいさ」と立田は足をとめた。「だが、今夜は君の担当だつたな」

 廊下の曲り角でそう言うと、立田は別れて行つた。たちこめはじめた夕闇に、残つた二人は喰い荒されていた。小高の心の中では、今、立田の宣告した仕事、死刑囚の石野恒吉のいる十六號監房へ今夜の食事を運びこむことの辛さが、蒼ざめ、唇をひきつらせるほどの思いで迫つてくるのだつた。

 工藤は不機嫌な面持ちで黙りこんでいた。不意に電燈がつき、力ない光で二人の影をつくつた。

「今夜はぼくの担当なんだ」

 独白した小高の聲に、工藤は射抜かれた獣のようにぴくりと身体をふるわした。

「どうしてあんなに平気でいられるのか理解できないが、しかし、考えてみれば、ぼくがこの仕事に入つてきた気持の方がもつと不可解かもしれないな」と小高は自分に言い聞かせるように言つた。

「あいつは人間じやないのさ」と工藤が言つた。「そりや、わたしだつて、この仕事に対する疑念には果てしがない。まさか死刑執行が担当看守の仕事だなんて、役所へ入る前は考えたこともなかつた。もし、そんなことが分つていたら、わたしはこの役所へは絶対に入らなかつたろう。君たちには悪いが、所長に転勤させてくれと頼んでいるんだ。執行設備のないふつうの刑務所なら、こんなにいやな暗い非人間的な思いをしなくてすむし、看守という仕事だつて、一つの職業として割り切つてやつていける、と思うしね」

「正直に言つて、ぼくは明日がこわい」と小高は言つた。

 死刑の執行、それは小高にとつて初めてのものだつた。彼が死刑囚だけを集めた監房の係に決まつた時から、いつかはこの日の来ることは確実に分つていたが、この日まで、彼の日常は多少の心労はあつても、大半は平静な航海だつた。M刑務所に拘置されている死刑囚は現在十人いたし、これからも死刑が確定し、その執行をうけるために送られてくる客の絶えることはないはずだつた。彼らはそれまで収容されていた拘置所からこのM刑務所へ移されると告げられた時、自分の死がそれほど遠くない將來に迫つていることを悟つて、あるものはどうてんし、あるものは覚悟をきめてやつて来るのだつた。しかし、時がたつと、彼らは一様に不思議なほど落ち着いた顔色、一歩一歩踏み出す足どりにも確固としたものが溢れ、健康を誇る人間のように充実した気配を持ちはじめるのだつた。それは、かつて犯した悪業を悔い、死後の安穏を祈る日々の果てにたどりついた悟りが彼らをそうさせるのかもしれなかつた。血に染まつた手で宗教書を読み、毎週訪れる教悔師との対話にも、生に対する渇望が消えはしないが、澄みわたり、氾濫することもなかつた。

 そうした死刑囚を初めて見た時、小高は何かはぐらかされた感じをうけた。死刑囚の眼は死者の眼と同じものだと漠然と思いこんでいた彼は、死者でもなく、といつて彼の周囲に生きている人間とも違う眼をもつ死刑囚に対して、試煉さえ覚えるのだつた。皮膚を切り裂いて中に喰いこみ細胞化してしまつている死に対する恒常的な恐怖が、彼らの眼を、死者でもなく生身でもないいわば半死半生の状態の眼にするのだろうか、とも思つた。

 こうした死刑囚の中でも、十六號監房の石野恒吉はその驚くほど頑固な沈黙によつて、ひときわ変つた存在であつた。彼はまるで唖者のように不屈の沈黙を守り続けた。彼が生れつきの唖者でないことは分つていたが、何故そうした態度をとるのかは、所員の誰も説明できなかつた。

 小高は工藤と肩をならべたまま詰所へ戻つた。二人とも口をきくことに責苦を感じていた。死刑囚の存在の重味がのしかかり、手錠のように小高を石野恒吉と結びつけていた。思いがけない時に頭上で響く雷鳴、不意に襲つてくる地震のように、そうしたものの存在を知つてはいても、実際に神経を痛めつけるほどに鳴り足下で激しく揺れなければ実感できない圧力が、小高の背筋を締めつけているのだつた。奇妙なことに、暑さはほとばしる汗にもかかわらずほとんど感じられなかつたし、逆に寒気さえしてくるのだつた。

「もう、時間だな」と工藤がぽつんと言つた。

 小高は息をつめて時計を見た。針は石野恒吉への最後の夕食を運ぶ時間を指していた。工藤を残して部屋を出ると、彼はのろのろと膳部室へ歩いて行つた。

 そこは、食器の触れ合う音と共に、ざわざわした話し聲、生きている人間だけが発することのできる活気が立ちこめていた。

「十六號の食事をとりに来た」と小高は辛そうに賄い係の女性に聲をかけた。

「はい」

 若々しい聲を出して彼女は振り向いた。初めて見る顔だつた。健康な白い肌がはちきれそうな十六、七歳に見える女だつた。小高はそれを眼にした瞬間、激しい怒り、拒否しても拒否してもつきまとうことをやめない屈辱を、自分の色艶の悪い皮膚に感じた。彼女の発散する奇妙な生々しさ、それは小高に敵意さえも抱かせるのだつた。

「小高さんですのね」と彼女はおとなびた口調で言つた。「わたし悦子といいます。今日からここでお世話になつています」

「どうして……ぼくの名を知つているんだ」と小高は吃りながら喘いだ。

「さつき、立田さんが見えて、あとで小高さんという方が十六號の食事、あの、特別食をとりに来るからと教えてくれたもんですから」

「立田君が?」

「ええ、わたし、立田さんの紹介でここへ入れていただいたんです」

 小高は無言のまま、悦子の差しだした盆を受けとつた。おすまし、野菜の煮つけ、塩焼魚、米飯、そして一本のとつくり、石野恒吉へ死を宣告した裁判官の言葉よりもはるかに充実し、彼が日夜過していた不確定な状態、この疲れを知らない伴侶との同棲生活が今夜で終ることを示し、明日の夜のないことを告げる一本のとつくりが添えられていた。これは習慣なのだつた。いつから行われているのか、小高はもちろん知らなかつたが、死刑囚に変化を報せる方法として用いられてきたのだ。彼らは、長い獄中に、かつて姿を見たことのないものの不意の出現によつて変化を悟るのだ。長い物語りの終りにたどりつくENDマークの象徴として彼らが手にするものは、この一本のとつくりにすぎなかつた。

 小高は盆を両手に捧げるようにして歩きだした。背後で悦子が見送つているのを背中で感じたが、振り返られなかつた。もしそうしてあの健康そうな皮膚──不思議なことに彼女がどんな眼をしていたかは印象になかつたが──を見たら、自分は聲を挙げずにはいられないだろうという予感にうたれて、前方だけを見続けて歩いた。

 十六號監房は独房舎の一番手前、入口のすぐ先だつた。膳部室からそこまで歩いて三分の距離だつた。コンクリートの廊下を歩く小高の靴音が、夕暮れのざわめき、刑務所全体を包む生きている気配の中で際立つた。駈け出したいような焔が小高の中で燃え上つた。

 じつと小高は堪えた。彼は死刑囚監房の看守だつた。おれはそれ以外の何ものでもないのだ、と、眼の前でちらちらする斑点、どきどきと音を立てて打つ血脈、ひりひりとやけつくような咽喉の乾きに雷撃されながら思つた。

 看視係が小高の近寄つてくるのを見て扉を開いた。

 小高は自分の手が少しも慄えていないことに嫌悪を覚えた。看視係はうつむいてカギを出し、十六號房の中扉を開いた。監房を廊下と絶縁する扉の中央の部分に中扉があり、そこには内側に棚がついていて、そこから食事を出し入れするようになつていた。

 緊張が小高をみたした。彼の差しだした盆をうけとる石野恒吉の手の感覚、もつと正確に言うならば、盆の上に変化を見出す時の死刑囚の呻き、抑えようとして抑えることのできない人間の原始的な生命の呻き、それが伝染してくるのを、ある意味で小高は期待していたのだ。石野恒吉の意識の深みで最後の準備がなされているかどうかは分らなかつた。唖者のように入所以来口を閉ざし続けた彼がこの日この夜この時にどんな叫びをあげるか誰も測ることはできなかつた。眩暈が小高を襲つてきそうだつた。

 差しだされた盆をしつかと手で受けとめた感触が小高の手に伝わつた。不意に軽くなつた指先が宙でもがいた。

 ことことと軽い金属音を立てて盆は監房の内側の石野恒吉の手もとへ引き寄せられた。小高はぐつたりして手をひいた。すばやく看視係が中扉を閉じた。

 二人は顔を見合つた。看視係の若い男は肩で息をしていた。監房の中からは何の物音もしてこなかつた。小高は逃げるようにしてそこを離れた。

 詰所の前まで戻つてくると、人影がうずくまつていた。それは立田だつた。

「すんだかね」と彼は低い聲で問いかけた。

「ああ」とやつとの思いで小高は答えた。

「しつかりしろよ」と立田は言つた。

 詰所の中は誰もいなかつた。

「工藤さんはどこヘ行つたのかな」

「知らんな」と立田は冷たく言つた。「あいつは偽善者だから、おれは大嫌いだ」

「偽善者?」

「そうさ。このことは、あいつにとつて何も初めての仕事じやない。おれとあいつは、もう数回もやつてきたんだ。その度にあの男はこの仕事を逃げようとするふりをする。いいかい、逃げようとするふりなんだぜ。そして決して逃げようとしないこのおれを非人間呼ばわりするんだからな」

 立田は喋りながら狭い部屋の中をぐるぐる歩き回つた。そして時々立ち止つては、刺すような視線を小高の方へ投げた。

「おれは彼の言うように人間的じやないかもしれない。しかし、あの男自身だつて決して彼の言う意味での人間じやない。あの男もその家族もいわば死者を餌食にしているんだからな」

「もういいじやないか」と小高は弱々しく抗議するように言つた。

「そうか、君は初めてだつたな」

 立田は椅子を引き寄せて腰を下ろすと眼を閉じた。そのまま彫像のように彼は動かなかつた。小高は小さな黄色つぽい詰所の電燈を浴びている立田の姿に、いかなる場合でも死とは無関係な存在を感じた。

「立田君は」と小高がたずねた。「奥さんはあるの?」

 急に断崖の足下が崩れ、その側に立つている岩が顛落していく時のように、立田の彫像がゆらいだ。椅子が小さな音と共にきしみ、彼のがつくりした肉の重味で鳴つた。

「あるはずがないだろう」と立田は言つた。「いいかい、おれはこの手で何人もの命を絶っているんだ。おれがそう言つたからつて、何も顔をそむけることはないさ。この言葉はここではタブーさ。絶対の禁句だ。所長の前で言つたりすれば嫌な顔をされるのが関の山だ。しかし所長がおれを嫌つたからといつて、このおれをどうすることもできない。ほかの役所なら左遷ということもあるが、ここじや、絶対にないからな。だから、おれははつきり言うんだ。おれたちは殺人者だということをな。おれはみんなの嫌われものだということもよく知つている。しかし考えてみろよ。このおれがみんなから好かれたところで、おれが何人もの死刑囚の刑を執行していることからは逃れられないよ。おれはそのことで給料をもらつているんだからな。仕方がないさ」

「もう、いいじやないか」と小高がさえぎつた。

「まあ、聞けよ」と立田はさらに喋つた。「おれたちはちつとも悪いことをしているんじやないんだぜ。悪事をはたらいたのは連中の方なんだ。おれは、裁判官が宣告した男たちに対して、忠実にその刑執行にあたつているだけなんだ。所長は、社会正義の執行者だなどとていさいのいいことを言うが、あれはうわごとみたいなものさ。おれは社会正義のために明日の朝十六號の首に絞縄をかけるんじやない。おれの給料のためにかけるのさ。その給料をおれはおれ以外の人間にはビタ一文だつて使わせないよ。女房がいれば、そのために使わなければならんからな。おれにはそれは出来ない」

 立田の長広舌を聞くのは辛かつた。彼が陥つている昂奮のために速射砲のように飛び出してくる言葉の激越さは、鋭い針のように小高の胸をえぐつた。言語はそれ自体無形の存在でしかないが、その使い方によつては鋏よりも鋭く意識の芽を摘みとり、恐ろしい呪詛となつて陰険な曲線、その曲線をのぼりつめると地獄の超現実的な様相へと落しこむ断崖に似たものだつた。立田は一語一語小高を追いつめるようにかん高い聲で喋つた。

「工藤みたいに細君を持つたり子供を生んだりするのが人間だと思つたら、とんでもない間違いなんだ。おれはあの男が嫌いだ。先方でもこつちを憎んでいることは分つている。だが、おれにはちやんとした理由がある。彼の子供が大きくなつた時のことを考えてみろよ。お前のお父さんは死刑執行人だつたと人に言われてみろよ。子供はどうするんだ。あいつはおれのことを人でなしみたいにいうが、あいつの方がよつぽどひどいじやないか。おれはこの仕事についておれだけの独自の考えを持つているんだが……」

「ぼくはまだ食事前なんだ」と小高はたまりかねてさえぎつた。

 小高は立田の発する毒気に我慢できなくなつてきたのだつた。彼のよく動く頬骨、生きていることを正確に誇示する唇の動きから立ちのぼつてくる血の匂いに、胸が圧迫されそうだつた。

「そうか。じや、またの機会にするが、ちやんと飯を食うんだぜ。あの作業はとつても体力がいるんだから」

 立田の言葉を背に浴びて小高は詰所から出た。彼は食堂へ行つても果して食物が胃袋へ納まるかどうか、咽喉を通して嚥下するだけの気力が残つているかさえも自信がなかつた。死刑囚監房の担当となつてから、こうした日、自分の生を縁もゆかりもない人間の死によつて確かめる機会の来ることは覚悟していたが、一杯の酒で、あと残り僅かな瞬間を数えさせる事態が実際に訪れてみると、その覚悟が全くあやふやなものでしかないことを悟らないわけにはいかなかつた。昼間のなんとなく息づいているざわめきがすつかり衰弱し、とつぷり暮れた夜の深みの中で、追い払うこともできず、ついそこまで近付き、その息吹きさえも聞こえそうに迫つてくる死の呼び聲に、一種の勝ち誇つた恨みで相対している一人の男の存在、それは十二時間の後、七百二十分の後、四萬三千二百秒の後にこの地上から消えることに確定しているのだつた。

 小高は石野恒吉の脈打つ心臓があと五萬回たらずしか鼓動しないことを思うと、座礁した時の錯乱か喪失の状態に陥つてしまうことに気付くのだつた。小高は嘔吐を感じた。全身に汗が吹き出していたが、暑さを感じる感覚を失つていた。彼は食堂へ行かず、そのまま詰所へ引き返した。

「どうしたんだ?」と立田が詰問するような調子で言つた。

「食欲がまるでない」

 すると立田は眼蓋を痙攣させてぽつんと言つた。

「おれは本当のことを言うと二日前からないよ」

 何故だ、というように小高が立田の口もとを生々しく彩る朱の奇妙な鮮烈さを凝視すると、立田はにがりを呑みこんだようにひきつつた皺をうかべ「二日前の昼すぎだつた」と低く言つた。

 

 その日、立田は悦子の就職が本決まりになつた礼を言うつもりで、昼食がすむと所長室の前に立つた。ドアは半ば開かれていた。彼はノブをつかんで入りかけようとした動作を中絶し、そのことにかすかな抵抗を覚えながらも、室内の気配を窺つた。電話のうけ答えをしている玉城の聲が耳に入つたのだ。

「はあ、石野恒吉と大森加助ですね。……そうですか。分りました。早速、調査した上ご返事します」

 受話器を置く音が聞こえてきた。立田はそのままそつと四、五歩後退し、周囲を見廻して彼の一連の奇矯な動作を見咎めたもののないことを確認したのち、靴音を荒立ててドアに近寄りノックした。

 立田は入つて敬礼すると、玉城の顔をじつと見た。焦躁と動揺の影がかくしきれずに滲んでいる、と立田は思つた。

「何か用かね?」しかし所長の聲は落ち着いていた。

「このたびは、どうもいろいろとお世話になりました。本人からもよろしくお礼を申しあげてほしいということでしたので……」

「ああ、そのことか」と所長は眼をそむけて言つた。「まあ、若い娘さんが働くにふさわしい場所じやないが、仕事だけはきちんと頼みますよ」

 立田が黙つていると、所長はきまりをつけるように言つた。

「帰る時、医務課長にぼくの部屋へ来るようにと言つてくれないか」

 

「おれはその時、ああ近く執行があるな、と思つた」と立田は言つた。

「どうしてだね?」と小高は問い返した。

「いつも死刑の執行前には、東京の本省から執行予定囚に関する健康の問い合せがくるからさ」

「十七號の大森加助も明日なのか!」と小高は聲を挙げた。

「石野恒吉は」と立田は言いかけてから一度口をつぐみ、十六號はと言い直した。「十六號は健康そのものだつたが、十七號は現在肺炎の予後で病舎に入つているからな。病舎にあるものを引き出して執行はしない内規になつている」

 立田は、つと小高から眼をそらして窓の外を見た。暗いひろがりのかなたに燐の燃え立つようにぼんやりした光を投げている刑場の灯が見えた。

「掃除をやつているんだな」と立田は呟くように言つた。

「一日に二人を執行するつもりだつたのだろうか」と小高は喘ぐように言つた。「そんなことつてあるもんだろうか」

「あるとも」と立田は外を眺めたまま言いきつた。「何人やろうと、それがおれたちの職務だから、いやとは言えないよ。明日は、たまたま十七號が病気をしたから十六號一人になつてしまつたが、これで十七號が健康だつたら二人になるところだ。しかし、皮肉なもんだ。十七號の方がここのお客さんになつてから日も長いし、当然先に執行されるはずだのに、病気になつたということで、生命がのびたんだから」

「しかし、あんたが」と言いかけて小高は口をつぐんだ。

「食欲のないのが変だ、と言いたいんだろうな。こんな場合、看守の中で食欲のあるのは工藤だけさ。これだけはあいつは偉いよ」

 立田はそう言うと立ち上り、二、三度頭を振ると、巡回に出る、と言つて立ち去つた。

 小高は相変らず暑さを感じなかつた。そのくせ、全身が水から上つた時のように濡れていた。シャツを脱いで裸体をタオルで拭つてみた。何かしていないと、彼は不安でたまらなかつたのだ。

 看守という職務、およそ華やかさと無縁な存在、世間なみの生活の環から締め出され、明るい太陽の光線さえも常に骨ばつた感覚で受けとめ、墓掘りよりももつと辛い仕事に何故自分は従事しているのだろうかという疑問が、小高の抑えようとする理性に背いて意識の底で頭をもたげてきた。立田の言うように生きるための職業としてか。そうではない。では玉城の言うように、社会正義の執行者としての誇りか。これはもつと違う。それならば立田の言葉の方が僅かにまさつている。だが、生きるためでも、社会正義のためでもないことは確かだつた。

 彼の手は絶えず裸体を撫でまわしていたが、それは機械的なものになつていた。彼は考え続けた。

 死刑執行人ということ、江戸時代には首斬り役人という言葉で表現されたこの仕事のもつ嘲笑的な暗さ、それを劣等感なしに受け容れるには、身体の内部から滲み出るこのねばつこい汗を拭いとることがまず第一だ、と小高は考えるのだつた。

「看守」という名称を小高たちは正式に與えられていたが、それはあくまでも公式な呼び名、そして気やすめだつた。受刑者たちは彼らを「担当さん」と呼んでいた。小高の胸に、この時、担当さんという呼び方のもつ真の意味、罠に陥ちた獣が何気なく敷かれた枯草やその上に放置された腐肉の仕掛けを足に鉄の爪が噛んだ時に悟るように、思いがけない時、思いがけない形でその意味する凄絶さが灼きついてきた。死を担当するもの、そういう意味で彼らは担当さんと呼んでいるのではないのか。社会正義の執行者とか生きるためとか、英雄的ぶつたり悲壮がつたりはしていたが、その堂々たる呼び方に背くものがこの仕事の中にあるのではないか。

 こうした問いかけが、小高の休みなく動く手と歩調を合せて続いた。そして彼にとつては都合の悪いことに、汗は一向に身体からはみ出すのをやめようともしないのだつた。汗は小高の体内にとどまるのを拒否しているかのようだつた。遂に小高は諦めて手を休めた。死の担当、それは彼にとつて拒むことのできぬものであるという事実をそのまま受け容れること、それは汗を流れ出すままにしておくことと同じように、避けることはできないのだ。その点、小高は立田に得体の知れぬしかも羨望に近い恐怖を覚えるのだ。立田は食欲がないと言つているが、それが真実でないことは分つていた。彼はこの日も前日もいつもと同じような健啖ぶりを発揮していた。小高は考えた、立田の持つている確信に近い態度、死者を疑念なしに迎い入れ、凡てを明晰にする力はどこから生れるのか、と。

 

 所長の玉城は刑務所の門を出ると、津田教誨師の家へ行くように、と運転手に命じた。

 太陽はすでに赤い霞に似た書割りを西の壁に残して姿を消していたが、街々に溢れているざわめき、残飯を煮つめたように猛々しく香ばしい匂が彼の乗つた車の開かれた窓からとびこんできて、玉城の髪をなぶつた。彼はそのことに自分が鈍い痛みを感じていることを、心の片隅で認めないわけにいかなかつた。死刑囚の執行に立ち会う経験をすでに十数回も重ねてきていたが、それは、彼の人生に立ち向う勇気を少しずつだが確実に切り削いできていた。だが、彼の勇気は少しずつ細りはしたが、それがなくなつてしまうことはないという確信も同時に残つていた。どうしてこの奇態な確信が彼の中に根を下ろしているのかは、他人に説明し難かつたが、影が消えることのないように、玉城が生きている限り、寄り添い、彼をゆさぶり続けるように思われるのだつた。

 津田教誨師は在宅していた。

 玉城は、明るい電燈の光の氾濫している玄関に浴衣姿で迎えに出た相手の顔を見た時、奇妙なことに激しい羞恥を感じた。同時に、津田はこの予告なしの訪問を感知して待ちかまえていたのではないか、という気がしたのだ。

 やあ、と津田は笑いかけた。

「散歩しようかと思つて浴衣に着替えたところですよ」

 玉城は黙つてうなずいた。彼の眸からは異様な輝きがほとばしつていた。津田はそれに気付き、そのまま煩をこわばらせた。

 座敷へ上つた二人は無言のまま向い合つて坐つた。言葉は不毛の沙漠のように不要だつた。玉城が津田の家を訪れるのは週に二、三回のことであり、この夜、何の前触れもなしに訪れること自体は少しも変つたことではなかつたが、玉城と津田をこの数年間緊密に結びつけている、そして津田にとつては玉城の着任するずつと以前、彼がM刑務所の教誨師の任について以来代々の所長との間に結ばれてきた濃密な霧のような感情、不倫に似た親密さからくる直感で、玉城の来訪の目的を瞬間的に悟つたらしかつた。

「少しも涼しくなりませんね」と津田は落ち着いた聲で言つた。

「今ごろが暑さの峠かもしれません」と玉城は答えた。

 ちぐはぐな白々しさを感じないではなかつたが、黙つていることがさらに気まずい空気をかもしだすことは分つていた。

「来月に入れば」と津田はたもとから出した手拭いで顔を拭いながら言つた。「いくらかはしのぎやすくなるでしよう」

「そうかもしれません。でも、暑いくらいのことは我慢できます」

 玉城は自分の聲にこもる不思議な力強さ、明るさ、この場違いな感情の吐露に彼自身を昂ぶらせる切実さを感じた。先刻、夕暮れの残照に照らしだされた街々にたぎりたつ生命の気配をうけとめながら、彼を襲つた鈍痛が不意に再び遠慮会釈なくそして今度は前よりも強力に彼の内部に頭をもたげてきた。これは翌日にひかえた胸に穴をうがつ義務からもたらされる圧迫感に対する精一杯の反抗の叫び、土壇場に追いつめられた兵士の唸り聲かもしれない、と玉城は思つた。

「玉城先生」と津田は思いきつたように言つた。「わたしどもが、あの人々に対する個人的な憎悪を持つていないことは言うまでもありません。それどころか、強い愛情を抱いていると言つてもいいでしよう。それだけに、お互いに、こうしていつもそのたびに苦しい思いをするのですし、明日の夜も、いつものように眠れないでしよう。いや、今夜でさえも眠れません。わたしどもにできるのは、御仏にあの人々の死後の倖せを祈ることくらいのものです」

「わたしの気持を一番よく分つて下さるのは津田先生です」と玉城は畳へ視線を落しながら言つた。「わたしはこの職務に就く時に自分自身へ言いきかせました。あの人々が平和な気持で死に赴くことができるように、親身になつて世話してあげることだ、というようにです。そして、これまで自分としては最善をつくしたつもりです。あの人々の中には、犯罪記録からみると鬼としか思えないような非道なことをしてきた人が多いのですが、それでも先生のお力のおかげで、生れ変つたような人間になり、平静に死を迎えるものが大部分でした。どんな場合でも、わたしは執行のたびに心のどこかに傷をうけたことは変りなかつたけれど、わたしはわたしなりに、そのことについては執行者として責任者として悟りみたいなものを持つていたつもりです」

「それは分ります。玉城先生が誰よりも一番辛い立場にいることはね」

 玉城にとつて津田は街々の底を流れる下水道のように通じ合う共通な気持をもつ人間の一人だつた。あるいは、そのことについての唯一の理解者とも言えた。玉城と妻の花江とを結んでいる感情よりもはるかにしつとりとからみつきねばりつくような連帯感情が、玉城と津田の間に埋められていた。それは、共犯者意識よりももつと根深く離れがたい血潮の通じ合いに似たものでつながつているのだ。

「それが、こんどばかりは、足下が揺れるような気持、なんというか、悪い予感みたいなものを感ずるのです」と玉城は津田の眼を覗きこんだ。「十六號が、何故あれほど頑強に反抗するのか、われわれに背を向けるのか、そのことがわたしを不安に追いやるのです」

「明日は十六號だつたのですか」と津田は呻くように言つた。ついで彼の口からは嘆息がもれた。「わたしにも分らない。何があの人をあれほどにもかたくなな沈黙を守らせるのか」

 二人は互いに相手の眼の奥底に潜むものをうかがつた。それは相手の心を読むというよりも、相手の内側にかくされている苦痛をいたわり合うためのものと言つてよかった。石野恒吉が過去一年以上にわたつて口をきいたことを確かめたものは一人としていなかつたが、それだけに、彼の存在は一つのタブー、一つの恥部としてM刑務所全体にうけいれられていた。玉城は所長として、津田は教誨師としてそれぞれ彼らの職務に忠実であるために、同時に人間として自己の職務からもたらされる苛責のために、石野恒吉の内部に踏み入り、波濤に向う岩礁のように周囲の潮騒を結局は制圧してしまう彼の秘境に入ろうとしたのだつたが、どんな努力も枯れてしまうのだつた。

「考えてみると、わたしには人を導く資格はないかもしれません、自分のことさえもてあましているのですから」と玉城は低く呟くように言つた。

 津田は所長の言葉が、彼の長男である玉城英介に関しているものであることをすぐに理解した。津田は聲もなく眼をそらした。思いついたように王城は歪んだ笑いの翳を口辺に漂わせ、ゆつくり立ち上ると、別れの挨拶をのべた。その彼の眉には自分の局所をさらし、弱音を吐いたことに対する嫌悪で醜く皺がよつていた。津田は玄関まで送つてきたが、二人はそれからは聲を交わさず、そのまま別れた。

 玉城は所長官舎へ帰ると、妻の花江とおそい夕食をとつた。

「英介はどうしているかな」と玉城はたずねた。

「夕方から出かけたきり、まだ戻つていないのです」花江は罪を犯した人間のように眼を伏せ顔をあからめて言つた。玉城は彼女のそうした様子に胸をつかれる思いだつた。「また困つたことが起きてしまいました」

「どうした?」

「あの子が」と花江は嘆息をついた。「オートバイを欲しいから十萬円出してくれといつてきかないのです。またいつもの悪い癖が始まつたな、と思つたものですから、お父さんに相談してからと答えたのです。そしたらそのままプイと飛出したきり戻つて参りません」

「信次や波江はもう寝たのか」

 花江は黙つてうなずいた。津田のところで意外にも手間どつていたものらしかつた。時計が静まりかえつた夜気をさいて十時を打つた。

 玉城夫婦の三人の子のうち、長男の英介の持つ異常性格、親兄弟の凡てとの融和を拒否し、学校へも行かずに遊び回る十九歳の青年の粗暴な行動と追随できぬ心理に、玉城はほとんど絶望していた。不意に津田の温厚な顔が瞼にうかんだ。かつて津田は玉城の依頼で英介を自宅へ呼んで話をしたことがあつたが、津田に酬いられたものは英介の投じた火だけだつた。英介は津田の大切にしていた古写経をひそかに持ちだして焼いてしまつたのだ。玉城さんも苦労が絶えませんね、という聲まで聞こえそうだつた。信次や波江があたりまえ以上の利発さと優しさを持つているだけに、英介の投ずる石、玉城を怒りで充血させる度外れた行動は、彼を耐えがたい当惑へ追いこむのだつた。

「明日の朝は六時までに出勤しなければならない。そのことで今も津田先生のお宅へ寄つて遅くなつた」

 花江の顔は一度血が上り、内側から染めたように朱が滲んだが、すぐに消え、孤独と寂莫に満ちている無限の白壁、空虚な部屋に閉じ込められたような蒼白な色に変つた。彼女は夫の傷がまた一つ殖えることを正確に理解したらしかつた。

「はい」と嗄れた聲で彼女は答えた。

 玉城はまともにそれを見ることができず、立ち上つて書齋へ入つた。卓上の食事はほとんど手をつけられていなかつた。

 玉城は持ち帰つた書類を机の上にひろげてみた。それは死刑執行前の彼の習慣、というよりも、そうしなければ、自分の職務を満足に果たせそうにもないという怯えからきた行為だつた。それはとりかえしのつかない動作を祓うような装飾された行爲だつた。

 検事の起訴状、調書、公判記録、判決理由書、同主文の複写が分厚い書類の内容だつた。それをくりながら、玉城は現場写真を探した。そしてそれを見出すと、化石のように動かなくなつた。

 変色しかかつた幾枚もの写真を、彼は脳裡に刻印するようにじつと凝視した。

 四年前のある日、石野恒吉によつて奪われ犯され殺害された若い女のむごたらしい現場写真だつた。ボロきれのように転がされ、乱れた髪の隙間からのぞく死の面貌には、突然、無慈悲にぷつつりと生を絶ち切られた一人の若い娘の苦しみと恨みとが硬直したまま残つているのだ。首筋に残る一筋の索溝は、石野恒吉を汚辱の罪名の下に、九時間後に死刑臺へと導く生と死との裂け目だつた。

 そこへ花江が茶をいれて入つてきた。玉城は慌てて書類を伏せた。その動作の唐突さに玉城はかなり狼狽して、威厳をとりつくろうように言つた。

「なにか用かね」

「わたし、お願いがあるのです」と彼女は眞剣な聲で言つた。

「なんだ。オートバイのことか」

「そうじやありません。お怒りになるかもしれませんけれど」と花江はためらつた。そして不意に恐怖を眸に露わして言つた。「あなたに今のお仕事を辞めていただきたいのです。こんなことは本当にさしでがましいと承知しているのですけれど、英介のこの頃の行状を見ていると、あなたのお仕事に対する反抗からくるのではないかと思われるふしがあるのです。あの子は生れる時からわたしを苦しめたけれど、親として、いくらかでもあの子が良くなるものならば、何でもしてやりたいのです。偉そうなことを言つてオレを説教したつて、結局は人のいやがる淺右衛門じやねえか、なんて波江にあたり散らしているのを臺所の陰で聞いて、わたしは息がつまつて……」

 花江は激しくむせんだ。投げてはいけない言葉を放つたことに気付き、花江は怯えた眼付きで、眼を閉じたままの夫を見た。

「そりや、いつまでもこのお仕事に就いているのではないことも分つています」と彼女は慄える聲で続けた。「しかし、たとえどんなに貧乏しても、子供と平和に暮せるものならば、わたしはそれが苦しい生活でもかまいません」

「分つている」と玉城は言つた。

 閉じていた眼を開いて見ると、うつむいている花江の首筋に薄く生毛が密生していた。その生毛は彼女の嗚咽と共にふるえた。不毛の土地に芽生えた若草のように、それは玉城に思いがけない奇妙な感動をもたらした。これまで家族の間で絶対に避けていた禁句が心の深みに突き刺さつて与えた深傷が、やわらかくその感動で撫でられた。

「今夜はもう遅いからお寝み。わたしは片付けなければいけない仕事がある」と玉城はやさしく言つた。

 花江はうるんだ眼で彼を見、そして身体をふるわせながら立ち上つた。

 玉城は再び書類を開いた。そして残忍な服従を強いられる奴隷のように石野恒吉の犯行の跡を見た。身体一面に汗が滲み、酷熱の砂漠で水を求める飢えた人間の無力さ、煉獄で課される苦役に倒れる寸前の人間の状態に似て、黙々と彼は写真を見守つた。煉獄、そこでは人々は血の池にひたり針の山にひしめくのだが、現世の高い塀の中では、人々は不意に訪れる死の予感と、最後まで望みを失つてはいけないという本能の命令とに板ばさみとなつて、血の池の囚人よりもはるかに強い病苦の中でそれぞれの死を養つているのだつた。玉城はその池の傍に立つ一本の樹にすぎなかつた。彼にはそのことは分つていた。そして樹液のように血の池にうかぶ人々から罪業を吸いあげてやらなければならぬのが彼の務めだということも。だが、石野恒吉はそれを拒否していたのだ。残ることは彼に死を与えることだけだつた。

 

 夜が更けても気温は下らず、小高は寝苦しかつた。

 宿直室の窓は開かれて外気をうけ入れるようになつていたが、室内の熱つぽい空気は清冽な空気分子との同居をこばみ、不安の芽生え、暁暗への待望のみを育てた。その成長は小高の腕にはめた時計のセコンドと拍子を合せ、かなり緩慢ではあつたが力強く、一拍子ごとにリズムをたかめて彼の内部で鳴つた。寝返りをうつて傍を眺めると、工藤の寝姿、死者の憩いに似て安らかな動かない寝姿が眼に映つたが、立田は依然として戻つてきていなかつた。

 小高はそつと起き上り、手早く服をまとうと部屋を出た。彼はむしように外の空気、鼻孔を新鮮に刺す香りに満ちている空気が欲しかつた。風はなく暑さは勢を失つていなかつた。

 小高の足は西の丘の方へ向いた。何故そうなつたか、彼自身も理解できなかつた。後になつてそのことを考えても、ただ何となくそうなつてしまつたのだとしか説明できなかつた。

 黝々とした夜のひろがりの中に、周囲の空気を沈黙のうちに凝縮させて、刑場はそのぼんやりとした輪郭をあらわしていた。小高は芝生に入り身体を横たえた。物音は凡て息絶えていた。そのまま彼は漂い出した、果てしない思索の海、彼の横たわるあたりまでかすかに常夜燈の光を投げかけてくる病舎のベッドで、死神の裳とすれ違つたとも知らず平和に睡つている十七號の頑丈な体格や、明日の朝までの生と知つて、縦に五歩、横に三歩の房の中をおそらく歩き回つている十六號の顔が交錯する海へ。

 十六號はどうして聲を殺したのだろうかと小高は考えた。結審以後、自分自身を死者の海へ追いやり無言の大洋へ身を沈めようと決意させたものは、いつたい何であろうか。いずれにせよ、もう石野恒吉は死神と婚約してしまつていた。だが、彼は死の間際まで、心臓の鼓動が停止する寸前まで果して聲を発しないだろうか。あるいは聲を出さずとも、何らかの形で自己の意志を外へ吐露することもないだろうか。

 その時、砂利のきしむ音が小高の耳に入り彼を目覚めさせた。さくりさくりと鳴る大股の足音とそれを乱すようにひきずる小股の足音が交錯した。

 小高は起しかけた身体をそのまま硬くした。「どこまで行くの?」という女の聲が聞こえたからだ。すると口の中で呟くようにはつきりしない男の聲が聞こえ、一組の男女は砂利道からはずれて小高のいる側と反対の芝生へ入つた様子だつた。不審訊問をすべきだつた。が、何故か彼はそれをしなかつた。成行を見たいと言えないこともなかつたが、それが理由ではない。突飛な空想だつたが、彼らは十六號の脱獄を助けるために入つてきたのではないかという想いが、小高の頭脳の片隅を影のようにかすめた。

 間もなく、肉の中へ肉のめりこむ気配がし小高の咽喉を乾かした。かろうじてそれに耐えているうちに、小高は病気の前触れのような悪感にひたされている自分を見出した。ここで今自分が立ち上り、訊問の聲をかけても惨めなのは相手ではなく自分だろう、と彼は思つた。

 じつと彼は身をすくめていたが、抑えきれない妄想の霧が彼を押し包み、やがてそれが晴れた時、四囲は何事もなかつたような静けさ、深海の底の静謐がたれこめているのだつた。そのまま、彼は暫くの間死んだように横たわつていた。いつの間にか雲が頭上を覆いつくし、水滴が一粒二粒と落ちはじめてきた。

 

 午前六時、玉城は家を出た。鉛をつめたように頭が重いと感ずるのは、英介が午前一時すぎに泥酔して帰宅したからだと思いこもうとしたが、それが不自然なことは玉城にも分つた。これから仕遂げねばならぬことが新しい緊張と重圧を與えているのだつた。

 彼はすでに幾人もの男たちと別れてきたが、その最初の一人の時から、いつも違つた新しい不快を味わつてきたのだ。そのたびごとに、もう三回目だから、とか、もう馴れたから気分的に楽かもしれない、とか考えたのだが、必ずそれは裏切られた。相手が死刑に当然値いする凶悪犯罪者だし、あるいは刑の確定以來死について覚悟を決めているはずだと考えてみても、本人を前にした時、玉城を襲つてくる感情に決して馴れることはできなかつた。

 所長室へ入ると、そこにはすでに津田が来ており、教養課長の城山と話をしていた。二人ともひどく辛そうだつた。城山は玉城の姿を見ると、立つて敬礼した。

「お早うございます。立会いの高検の検事さんたちもお見えになつて、隣りの応接室でお待ちになつています」と城山が言つた。

 玉城はうなずいて時計を見た。六時三十分だつた。ゆつくりとした口調で彼は十六號を連れてくるように、と城山へ命じた。津田はそれを合図に隣室へ消えた。

 玉城は、教養課長、保安課長、工藤、立田、小高三看守に囲まれて連れて来られた石野恒吉の姿を見た時、軽く全身を痙攣させた。努めて平静をよそおうとする必死の思いに背いて、瞳孔が収縮し、一瞬暗く感じた。

 石野はしつかりした足どりでその前に歩み寄つた。これまで外界との融和の一切を拒み、与えられた唯一の手段、岩のような沈黙によつて自己の誇りを最後まで維持してきた石野恒吉の孤絶は、玉城から今まさに吐かれようとする宣告をも押し返していた。

「いよいよ、君とお別れすることになつた」と玉城は言つた。

 部屋の空気が瞬間凍つた。針のような視線が人々の眼から石野へと集中された。

 石野がかすかに頭を下げると同時に、工藤と立田が素早く寄り添い、抱くようにして室外へ連れ出した。その後に続いた小高の眼によろめくように隣室へ歩む所長の姿が映つた。

 玉城はそこに待機していた立会いの検察官、検察事務官、津田教誨師、医務課長に宣告の終つたことを告げた。彼の顔は蒼白く濡れていた。

 ものかげの要所々々には、他の看守たちが武装して目立たぬように控えていた。小高の眼にはそれが異様なものに感じられるのだつた。死にものぐるいで発揮するかもしれぬ最後の空しい凶暴、これ以上の最悪な事態を決して持つことのない死刑囚の激しい生への爆発に備えた当然の措置であることは分つていても、この瞬間ばかりは裏切者の卑劣さにもおとる存在のように小高は感じたのだ。

 雨。

 死へ通ずる道の小砂利がさくさくと周囲に満ちた静けさを破つた。雨が砂利の白さを洗い出していた。誰も傘をささなかつた。それは当然のこととして全員にうけいれられていた。たつた一人の例外を除いては。

 保安課長が後から駈け寄つて石野の上に傘を擴げた。この冒涜的な行為の背後にひそむものを一瞬のうちに汲みとつて、小高は胃袋をつきあげられた。傘は、石野垣吉の首に巻きつけられる絞縄が雨で濡れた皮膚を滑り、執行に些細な妨げの起ることを防いだのだ。

 朝が芝生にたちこめていた。水底のような重苦しさが一つの世界、死に制圧されそれをかき乱すものといえば大地の溜息に似た音を発する人々の靴音のみの世界を呑みつくしていた。

 風雨にさらされて消えかかつた文字、近寄つて苦心して読むと「刑場」と判読できる木の標札が入口に掲げられた建物まで到着するのに五分とかからなかつた。

 刑場は厚地のカーテンで二部屋に区切られている。入口に近い方は三坪ほどの狭い部屋で、入つた正面に仏壇、その手前に机が置いてあり、卓上には紙と鉛筆がきちんと並べられている。

 石野恒吉がこの部屋に入つてきたのは午前六時五十分だつた。

 彼は入口で立止つて部屋全体を眺めた。続いて人々が足音を立てるのを恐れるように入つた。実際は絨氈が敷きつめられているのでどんなに荒々しい足音でも吸いこまれるのだが、彼らはわけの分らぬ威圧と恐怖にかられているのだつた。堂々とそして英雄的な──といつても虚しいものだが──態度を持ちこんでいるのは、石野恒吉一人といつてよかつた。

 所長は回りこんで死刑囚の前に立つた。彼の眼はすつかり充血していた。

「もし吸いたいならタバコを与えていることが許されています」と彼はひきつつた聲で言つた。

 石野は無言のまま首を横に振つた。

 津田の手で佛壇に燈明があげられ、香がたかれた。香煙は部屋一杯に満ち、その匂は人々の鼻孔に漲つて、幻想ではない死の大地を彷彿とさせた。

「焼香を……」と津田が言つた。「そして何か遺言があれば」

 石野は仏壇をみつめ、それから眼をそらして机を見た。彼は静かに再び首を振つた。この時、どうしたことか卓上の鉛筆がひとりでに転がり床に落ちた。人々の心臓が激しく高鳴つた。それが合図の號砲の役目を果した。

 立田が保安課長から渡された白布で眼かくしをし、工藤が手錠をかけた。津田が歩み寄り仏壇からとつた花束を胸にさした。石野はその間ほとんど身じろぎもしなかつた。

 教養課長の手でカーテンが開かれ、次の部屋の模様が人々の眼前にひらけた。十坪ほどの部屋の中央に天井から麻の絞縄が下がつていた。その横に刑壇のキャッチをはずす死のハンドルがあつた。

 部署につく人々の敏捷な動作が空気をゆるがした。所長と医務課長が処刑体の吊り下がる地下へ通ずる階段のほとりに立ち、小高はハンドルを握つた。検察官、検察事務官、教養課長が刑壇の右手の壁ぎわに、津田、保安課長が左手の壁を背に立つた。工藤と立田が両側から抱くようにして石野を歩みださせた。津田の重々しい読経の聲が低く流れた。

 衆生無辺誓願度

 煩悩無趣誓願断

 法門無尽誓願学

 佛道無上誓願成

 なだらかな節の底にひそむ苦しい息づかいが人々に伝わつた。

 保安課長の手が高く挙つた。立田の手で絞縄が石野の首に捲きつけられた。工藤が石野の身体を支えた。二人が身を引いたせつな、小高の右手が力をこめてハンドルを切つた。

 人々は確かに石野恒吉の唇から聲がもれたのを聞いた。しかし、誰もそれを正確に判断できぬうちに聲は絞縄でつぶされ、三尺四方の刑壇が開き、石野恒吉の身体は地下へ陥ちこみ足が床にぶつかる一尺前でぶらんと宙吊りになつた。

 小高は握り拳の下で汗にまみれたハンドルがはげしく脈打つように感じた。身体中の血管という血管がふくれ上り、冷たい疲労が隅々まで擴がつた。今まで眼前に立つていた石野をのみこんだ黒く四角い穴が、彼をひきこむような錯覚をもたらした。

 階段のほとりに立つている玉城の眼には地下で宙吊りになつた石野の姿がとびこんできた。垂れ下がつた両足が間歇的にグイッ、グイッ、と息をひきとる前の最後の痙攣を繰り返していた。

 平衡感のない時間が十五分経つた。死は極めて正確に石野恒吉を包みこんだ。

 階段を下りて行つた医務課長が石野の胸を開いて聴診器をあて続いて脈を調べた。そして腕時計を見たのち玉城を見上げて言つた。

「午前七時十二分、絶命」

 そのまま五分間、この狭い空間は時計の針だけが動いた。

 小高は保安課長に合図されて立田や工藤と共に地下へ降りた。三人が下から持ち上げるようにして死者の身体を支えた。その瞬間、死者の肺にたまつていた空気が死者の唇から吐き出され聲帯をふるわした。死者が意味のとれない最後の咆吼を放つたのだ。小高の身体の中を激しい戦慄が貫通した。

 かみしめられた口もとから乳灰色の吐潟物がはみ出している石野恒吉の屍は、横に準備されてあつた木棺の中へ静かに横たえられた。奇跡は起らなかつた。人間の憎悪、親愛、憤怒、同情、虚偽、誠実、これらの凡てから切り離された男の一個の有機物と化した肉体がそこにあつた。

「今日の絞縄は非常に工合よくいつたようだね」と保安課長が言つた。

「吐潟物が少なかつたところをみると、やはり食べられなかつたんですね」と立田が答えた。

 小高は冒涜を感じた。それは死者へのいたわり、あるいは哀惜からだつたろうか。憤りが彼の胸へつきあげてきた。

 教誨堂での焼香がすむと、小高は後始末のために十六號監房へ行つた。

 縦に五歩、横に三歩。閉じられた空間は死者の息吹きから解放されていなかつた。石野恒吉の匂が残つているからというわけではなく、起床──点検──朝食──運動──昼食──無為──夕食──点検──就寝、そして次の日も同じリズムの痕跡、同じ形式の時間の腐蝕が残つているからだ。そして死に先立つものも刻みこまれていた。

 

 人間は死ぬことを知つている唯一の生物だ。

 

 それは古びた刻印、爪のようなもので壁にうがたれた生の呻きだつたが、それを網膜におさめた時、小高は死者の沈黙の背後にあるものを探し求めなければならないという義務感にとらえられた。

 石野恒吉が演じた岩の演技、それは刑壇が小高の右手ではずされた時何者にも理解できなかつた叫びで終幕を告げたが、残されたものにはそれが序幕だつたのだ。

 

 玉城が焼香を終つて所長室へ戻ると、城山がノックもせずに入つてきた。やゝ赤味がかつた顔に緊張の色がうかんでいた。

「新聞記者が来てお会いしたいと申しておりますが」と彼は玉城の顔を見据えて言つた。

「いないからと断つてくれたまえ」と即座に玉城は答えた。

 劫罰をうけた時のような息苦しさ、昇りはじめた気温と歩調を合せてたかまつてくる疲労のために、十年も老いこんだように玉城はぐつたりしていた。

「そう言わないで下さいよ」

 ドアを押して侵入してきた若い男の口からその言葉は投げられた。右手に抱えていたレインコートを左手に持ちかえると、彼は陽に灼けた皮膚から生々しい体臭、轡を締められた駻馬の荒々しさを漂わせて近寄つてくると、開襟シャツの胸ポケットから名刺を出した。

「M新聞の田島といいます」と彼は言つた。「所長さんにちよつとおたずねしたいことがあるのです。お手間はとらせませんから、ほんの五、六分ばかり時間をさいて下さい」

「いくらなんでも、断りなしに入つてくるなんて失礼じやないか」と城山が気色ばんで言つた。

「いや、それは分つています」と田島は額にういている汗を拭い快活そうに言つた。「しかしぼくらの仕事もこれでなかなか辛いものでしてね、歓迎されざる客だということは分つているんですが、ぼくも命令された取材をやらんわけにはいかんのですよ」

「明日にしてくれませんか」と玉城は我慢しながら言つた。

「こちらに石野恒吉という死刑囚が拘置されているはずですね」と田島は不意に斬りつけるように言つた。

 玉城の鼻孔に死者の匂がつまつた。こめかみが急に燃え出すように痛んだ。死者は蘇つたのだ。

「この刑務所にいることは東京支社の調査で分つているのですが」と田島は確信にみちて言つた。「できれば、面会したいと思つたものですからね」

「原則として関係者以外は面会できません」と城山がきつぱりと言つた。

 田島記者は口もとを歪めるように、薄く笑つた。拒まれたものだけが抱く侮蔑感、それは気まずい空気の短い沈黙をともない、彼の顔をこわばらせた。田島記者はタバコをとり出すと火をつけようともせず、指先でもてあそびながら言つた。

「石野恒吉はたしか強盗強姦殺人の罪だつたですね。東京からの連絡によると、なんでも公判廷では最後まで無実の罪だと主張していたそうですが、こちらへ来てからも、あなた方にそのことを言つてませんでしたか」彼は自分の言葉の効果を確かめるようにそこで一たん口をつぐむと玉城の顔をのぞきこんだ。「実は、先日東京の警視庁に強盗殺人容疑で逮捕された男が、四年ほど前にも若い女を殺して金を奪つたことがある、と自白したんだそうですよ。こいつは前科も何犯かある相当のしたたかものらしいんですが、刑事の取調べをうけているうちに、こんなこともやりましたつて白状したという話です」

「それはいつのことですか」と玉城の口からひとりでに言葉がとび出していた。

 田島はポケットからメモ帖を出して開いた。

「自白したのは昨日のことらしいですね。で、石野恒吉に会つて本人の話を聞きたいというわけです」

 信じられないことであつたが、現実に玉城と城山の前で田島記者がその信じられない事実を喋つていた。それは荒唐無稽な幻想ではなく、M刑務所の高い塀の中へ踏みこんできた挑戦だつた。

 だが、石野恒吉がすでに生と無縁の存在になつているということは説明のしようがなかつた。にもかかわらず、田島に向つて玉城は返し矢を放たねばならない立場に追いこまれていた。

「もしぼくが面会できないなら」と田島は言つた。「所長さんからその件について訊ねてくれませんか」

「石野恒吉は決して喋りませんよ」と玉城は呼吸に悩む病人のように言つた。「あの男はここへ入所していらい誰とも口をきいたことがなかつた。津田教誨師にも喋ろうともしないし、その聲を耳にした職員は一人としていないのです」

「へえ、そいつはおかしいじやありませんか」と田島は眼を光らした。「どうして口をきかないのです? まさか本人が失語症になつたわけでもないんでしよう」

「分りません」と城山が嵐を切り抜けた航海士のような表情で言葉をはさんだ。「ともかく沈黙を守るきりでした。津田先生なども随分熱意をこめて教導されたのですが、本人は白い眼を向けるだけでした」

「だけでしたというと、今はそうじやないわけですか」と田島が問い返した。

「いえ、それは」と城山は口ごもつた。

「受刑者のことについては」と玉城はやつと立ち直つた。「本人の名誉に関することでもあるので、外部の方へその状況をもらすわけにいきません。詳細は本省の方でお訊ねになつて下さい」

 それをきいて田島は再び薄く笑つた。

「あなた方は喋つてはいけない規則に縛られている。ぼくはそこをなんとか聞いてこなければならないという仕事を命ぜられている。どこまでいつても平行線ということは、因果なことですね。しかし、今のお話で何となく分つたような気もするんです。石野がここでカキのように口を閉ざしているということ、それは無言のレジスタンスじやないかしら。彼は判決まで聲をかぎりに無実だと主張していたそうですから、それが拒否されたことに対して、彼にできる精一杯の抵抗としてその方法つまり沈黙の姿勢をとつたのでしよう」

「所長も申されたように」と城山は立ち上りながら言つた。「わたしどもとしては、この件についてこれ以上お答えできません」

「そうですか」と田島も立ち上りレインコートをかかえ直した。「それじや仕方ありません。これで失礼します」

 彼は軽く頭を下げて玉城たちへ背を向けてドアの方へ歩んだ。その手がノッブにかかつた時、彼は思いついたように凡ての動作を止め、そしてゆつくりと振り返ると言つた。

「まだ刑は執行されていないのでしようね」

 玉城へ向つて次に城山へと注がれた田島の貪欲な(まな)ざしは、危機にさらされた自分自身の動揺を扱いかねている二人の喘ぎに聴診器を当てようとしていた。

 沈黙やあいまいな態度が承認となるだろうことは二人には分つていた。だから玉城は耳鳴りを感ずるような気分の中できつぱりと言葉を出したのだ。

「まだですとも」

 田島は疑わしそうな顔付きでなおも執拗にくい下つた。

「それでいつごろになる予定ですか」

「そんなことは誰にだつて分りませんよ」と玉城が答えた。

 田島は去つた。残された二人は気まずい空気に包まれ、互いに相手の内部に芽生えている昂奮をひしひしと感じとりながら、鞭で打ち合うような視線を交わし合つた。

 本省の指揮どおりに刑を執行した事実に違法なところはなかつたが、それとは別にじりじりと破滅が近寄つてくるような恐怖、点火された火縄の前に足がすくんで逃げることのできぬ恐怖に近い感情が彼らをとらえはじめていた。石野恒吉はすでに存在していない。残つているのは彼の屍、彼が最後まで堂々と誇らしげに貫き通した沈黙の歳月だけだつた。いつもなら、彼らは死者に対する哀切な感動や、これはどうにもならないことだつたのだという自慰の気分で、この世にある正義とか罪悪とか宿命とかを考えながら、重荷を下ろした人夫のように午後の仕事から解放されて帰宅できるはずだつた。だが彼らは新しい荷を背負いこんだ。推測する気力の残つている限り、田島の残していつた爆弾がいつ破裂するか、あるいは彼の伝えたことは本当だろうかという疑惑に痛めつけられねばならなかつた。

 刑の執行は指揮書の到着以後五日以内に行わねばならない規則だつたが、受刑者は誰もこれまでその五日を生きたものはなかつた。執行者は一日もはやく心の脊骨がしなる重荷を下ろそうとして、つまり法律のために恨みもない人間の生命を絶たなければならないという重い気分、憂鬱な仕事から一秒でもはやく解放されたいために、受刑者に犠牲を求めたのだつたが、今、玉城たちは手痛く復讐されたのだつた。

 

 今朝処刑された十六號は本当は無実だつたらしい、真犯人はほかにいたそうだという噂は、囁きにつぐ囁きの連鎖反応を起し、恐るべき速さで所内に擴がつた。このニュースを耳にした人々は、一様に信じられないといつた表情をうかべ、ついでそれは好奇心に溢れた眼の輝き、自分が直接手を下さずにすんでよかつた、自分の担当でなくてよかつたという安堵の吐息に変つた。

 小高はそれを聞いた時、彼にそれを伝えた人間に奇妙なことだが憐れみを覚えた。つまり彼はそれをタチの悪い冗談、彼の仕事に悪罵を浴びせようとする陰謀だと思つたのだ。それは小高が立田や工藤と共に宿直室で帰り支度をしている時だつた。

「立田さんいますか」と聲をかけて入つてきたのは悦子だつた。

 明るい光線の下で見る彼女の肌はすき透るように白く、そのくせおとなびた艶を持つていた。悦子は部屋に入つてくるなり、立田に近寄ると彼の耳にその唇を押しあてるようにして何か囁いた。

 小高は彼女のひどくなれなれしい動作にひそむものを淫らに感じ、あつと思つた。昨夜彼が芝生で聞いた女の聲は悦子のものだつたと思い当つたのだ。白いブラウスの下にこんもりとふくらんでいる乳房はすでに熟して見え、唇は立田の耳を噛みそうな豊かさを備え、伸びきつた肢体は、わたしはもう男に愛されることができると主張しているようだつた。刑務所という特殊な雰囲気さえも、その若さの前には宙ぶらりんでぎこちなく思われるほどだつた。とすると、あのくらがりの相手の男は立田だつたのだろうか。

「えつ!」と突然立田の聲が尖つた。

 悦子はそれに驚き、電流にはじかれたように身を引いた。

「そいつは本当か!」と立田は深傷を負つた獣が唸るように言つた。

「みんなそう言つて噂しています。なんでも新聞記者が所長さんのところへ来てその話をして帰つたという人もあるし……」

 立田は悦子を睨むように一瞥してから様子を見守つていた小高と工藤へ言つた。

「今朝執行した十六號の被疑事件で別の犯人が挙つたんだそうだ」

「えつ?」

 小高と工藤とが同時に叫び聲を発した。が、二人はその立田の言葉の莫迦々々しさに気付き、ついで、工藤がまるで永いこと考えた末に出した結論のように重々しく言つた。

「冗談もほどほどにしろよ。いくらなんでもあくどいじやないか」

 小高は工藤が正しいと思つた。彼は、どうしてそんな嘘をつくのかと悦子に侮蔑を覚え、またそれを大真面目な顔で伝える立田が気の毒になつた。石野恒吉の刑を彼らの手で執行したことは、確かに消し難い事実ではあつたが、それは束の間の嵐であり、もはや通り過ぎたものだ。いつかは記憶の底に沈みこみ、闇の灯影のように曉の奥で眠つてしまうに違いない。それは風雨にさらされる岩のように年月にさらされ、やがては風化し大地と同化してしまう。それが人間と人間とをつなぐ掟だし、それに背離することはできぬはずではなかつたか。

「本当らしいんだ!」と立田は怒號するように言つた。彼は激しく身体をゆすりながら続けてどなつた。「嘘じやない。所長や課長が狼狽して本省へ問い合せているくらいだから間違いないよ。おれたちは大変なことをしちまつた。取りかえしのつかないことをやつたんだ」

「そんな莫迦な!」と小高は血管の脈打ちの激しさを感じながら叫んだ。

「そうとも」と工藤が陰気だが勝ち誇つたように言つた。「それはデマだ。新聞記者が言つたからといつて、全部が全部、本当だとは限らない。あいつらはよくハッタリを言うし、平気でヨタをとばすやつもなかにはいるからな」

「でも、嘘じやありません。もし嘘だと思うなら課長さんに訊いてみて下さい」と悦子が抗議するように言つた。

 小高はその時彼女に憎しみを感じた。

「そうだとしてもいいさ」と工藤が顔を紅潮させて言つた。「別におれたちの責任じやないさ。執行の指揮書は昨日到着したんだ。あれを持参した本省の事務官が所長に渡せば、いつ執行してもかまわないんだ。もしその新聞記者の言つたことが本当だとしても、根本的には執行を許可する印を捺した大臣が責任を負うべきものさ。大臣は秘書官の提出する書類に目を通す。そしてポンと印を捺すだけだ。あとは一刻もはやくそのことを忘れてしまえばいい。待合で藝者を相手に一杯やつていれば、そんなことは、家を出る時に切れた靴紐ほどの印象にも及ばなくなる。それに、いつまでも大臣をしているわけでもないし、気にもしていないだろう。だが、肝心なことは大臣の認可や命令にもとづいて処刑が行われたということだ。われわれはその命令に背くことはできない。所長だつてその一人だ。忠実に命令どおりやつたまでのことさ。くよくよするには及ばないさ」

「やめろ!」と立田が怒りで眼を充血させて大聲を立てた。

 この二人はこの時を境にして、それ以前の彼らの像と背離してまるで別人のようになつてしまつている、と小高は思つた。もとより小高自身が平静でいたわけではなかつた。彼とても、すでに錯乱の虜囚になりかけていたのだから。

「あつ」と叫んで小高は身をくねらせた。

 不意に彼の右腕に激痛が襲つたのだ。それは真赤にやけた鉄の爪、一度喰いこんだら決して離れない豹の爪のように彼の肉をしびれさせた。この腕が無実の石野の死をもたらし、石野の立つた刑壇を引き落したのだという意識がとりついた瞬間、鉄の爪はしつかと彼の腕をくわえたのだつた。小高は唇を歪めた。そつと右腕を上へ持ちあげてみた。ちやんと持ち上つたが、しかし、痛みは去らなかった。

 小高の奇妙なしぐさに立田と工藤が眼を向けた時、先刻からとまどつたような表情をうかべていた悦子は、やつと彼女の時を見出したらしく、わたし、行かなくちや、と小聲で呟くと逃げるようにして部屋を出て行つた。

「どちらにしても」と工藤は言つた。「われわれがじたばたしたところでどうにもならんことだ。死者の冥福を祈るしかわれわれにできることといつたらないからね」

 立田はそれを無視して黙りこんでいた。

「小高君はまだ帰りませんか」と工藤が誘つた。

「ぼくはもう少し様子をみます」

「そう。ぼくはとても疲れているから、お先きに失礼する」と工藤は手を振つて姿を消した。

 小高と立田は互いに監視兵のように相手を眺めあつては、その辛さに堪えかねて眼を背けた。小高は、無実の人間をたとえ職務によつてとはいえその生命を絶つ働きをしたことを考えると、頭へかつと血がのぼり、割れそうに痛んでくるのだつた。大変なことをしちまつた、と口では言つても、内心では平気らしい立田が、小高には腹立たしくもあつた。

「あんたのその太い神経が羨ましいな」と小高は皮肉な調子で言つた。「さつきの執行の後だつて、ぼくは機械人形のようだつたが、あんたは泰然と保安課長と喋つていられるくらいだものね。ぼくにはとても口をきくだけの気力が残つていなかつた」

 小高の口ぶりには非難の調子がこめられていた。不死身の昆虫、沙漠に住むサソリのように毒気に満ち、死者を前にしてその吐瀉物の量の少なさを話題にできる神経は、人間の土地のものではない、と小高は本当は言いたかつたのだ。

「誤解しないでくれ」と立田は早口で言つた。「おれは今日ばかりじやない、いつもそうなのだが、執行の直後ほど自分が生きている人間だということを実感する時はないんだ。生きているということは口がきけるということだからな。何か喋らずにはいられない、というよりむしろ黙つている方が辛い。口をきいていることで、やつと気持が救われているんだ。保安課長だつて同じだよ」

「それなら、執行の前夜にあんなことをするのも、自分が生きていることを確かめるためなのか」と小高は飢えた人間のように乾いた聲で言つた。

「あんなことだつて?」と立田は不審そうに問い返した。

 小高は立田を憎んだ。地底の隠れ家、誰にも発見されず自分の巣の中へ閉じこもつて、勝手気儘な振舞いをする立田に裏切りを見出したのだ。生との緊密なつながりを失つた死者のためにも、その隠れ家をあばかねばならなかつた。小高は痛む右腕をさすりながら考えた、痛みを感ずるということはこの世に生きていることの明白な証拠だ、と。そして、生きているものの間ではありふれたことかもしれない嘘も、死者に対してだけは通用しない、と。

「ぼくはさつきからこの右腕がしびれてしまつている。これは決して嘘じやない。それも悦子の話を聞いてからのことだ。良心の苛責というようなものとはまた異つたものだが、石野が無実だつたらしいと聞かされた時、ぼくはこの右腕で生涯老いさらばえるまで刑壇のキャッチをはずし続けねばならない運命のような気がしているのだ。あんたと違つて、ぼくはこの仕事に馴れていないが、おそらく誰だつてこの仕事に馴れるということはできないだろう。ぼくは蓮が悪かつたのかもしれない。ぼくの最初の死者が石野恒吉でなくて今病舎にいる大森加助だつたならば、ぼくもいつかはこの仕事から脱けられるという希望をもち、決してこの仕事に馴れようとはしないだろう。しかし、たとえ正当な職務の遂行だつたとしても、もう、そんな馴れを問題にする資格はなくなつてしまつた」

「君の言うことが分らんでもないさ」と立田はじれつたそうに言つた。「だが、ぼくが昨夜なにをしたというんだ?」

「しらばつくれるのはやめてくれ」と小高は聲を高くした。「あんたは昨夜あの女の子と何をしたんだ。ぼくはあの芝生の反対側で横になつていた。二人で何をしたか……はずかしくないのか!」

 立田の顔が赤く染まつた。小高はそれを有罪の証拠と見た。

「なんだつて?」と立田はかみつくように言つた。「おれが悦子と何かあやしいことをしたと君は言いたいようだな。そいつはとんでもない見当違いだ。絶対におれじやない」

「だつたら誰だ? あんた以外にあの女をよく知つているものはここにはいないはずだ」

「知つているとか知つていないとかは大して意味がないさ。能力の問題だ」と立田は投げやりの一種いたましい率直さで言つた。「おれは戦争中爆弾にやられて、不能になつてしまつているんだ」

 

 何時間かが過ぎ去つたが、新しい兆候、あるいは玉城たちへの救援の手はさしのべられなかつた。

 所長室に集まつた津田教誨師、高検の検察官とM刑務所の幹部たちは、孤立した島へうちあげられた漂流者だつた。彼らは同じ空気を吸うだけで、銘々がちぐはぐな思い思いの考えにひたつていた。強いて彼らに共通なものを探せば、雨がやみ晴れ上つた空から流れこんでくる太陽の筋ばつた光線、所長室の窓にもはめられている鐵格子を経て流れこんでくるのでそう感じられるのだが、その光線の前にさらされているそれぞれの額の汗だけだつた。

 醒めやらぬ悪夢、それが一ツの確固とした意味を持ちはじめようとしているのだ。石野恒吉の生きている聲を誰一人としてこの場にいるものは、これまで耳にしたことがないだけに、これこそ彼の絶望の報復だつた。石野の踏まえていた刑壇がはずされ、彼の首にまきつけられた絞縄が肉にくいこみ、その筋肉をだまし打ちのように締めつけた時発せられたあの聲にならぬ叫びが唯一のものだつたのだが、それが彼らの耳底に果てしない連想を呼び起すさまざまな意味をもつて甦つてくるのだつた。

 生と死との間に投げこまれ、背負う壁に決して自分の影を映すこともなく、死と日々の苦しい戯れを演じながらも、この刑務所の死刑囚たちは、必ずきまつた手続きを踏む。再審申立書、上申書、さらに諦めきれないでの再審申請。それはメトロノームのようにきまつたリズムで彼らを支配したが、石野恒吉だけはこのリズムを拒否したのだつた。彼は自分だけの交響曲を作り、自分だけでそれに聴き入つた。

 融けこもうとする努力が払われなかつたわけではない。彼のはりめぐらした壁を打ち破つて、その曲を盗もうとする試み、果敢な攻撃は絶えずくりかえされた。だが、それはペトンで堅めたトーチカを爆破するよりも、もつと困難だつた。

 津田も玉城も城山も何度か頭をふりしぼつたが、彼らはきまつて迷路に入りこんでしまうのだつた。同時にそれはかつてない体験でもあつた。刑務所へ送られてくる死刑囚はいわば貧者だつた。彼らはもはや失うものを持つていなかつた。持ち合せているものといえば、唯一つ、決して色あせることのない生への渇望と執着だけなのだ。津田たちの任務はそれを染め変えることだつた。彼らを教化して死への安堵を植えつけるのだ。そして、それはこれまで失敗の経験を持つていなかつたのだ。

 大森加助はその凶悪さを自負するだけに荒々しい性質の持主だつた。何年か前、彼は傷ついた手強い猛獣然としてこのM刑務所の門をくぐつた。

 担当の看守たちが房の外を通るたびに、この首斬り役人奴、と呪いの言葉を浴びせかけた。津田と玉城が揃つて最初に彼の監房を訪れた時はもつとひどかつた。彼はいきなり、出て行きやがれ、と罵声を放つた。

 おれはおめえたちのような奴に決してゴマ化されはしねえよ。おれは人を何人も殺しているんだ。おれには恐ろしいものはねえ。行先が地獄だつてことくらい百も承知、二百も合点だぜ。偉そうなことをほざきやがつたつて、おめえたちの企みはお見通しなんだ。

 次の時、彼はこうも言つた。

 おれは男だ。立派にぶら下がつてみせらあ。悟りすましたようなお説教なんざ、いらねえよ。しかし、覚えておきな。このまま、ただじやぶら下がらねえよ。

 彼は自分の言葉に忠実だつた。アルミの食器をその鉄のように頑丈な歯で喰いちぎつて腔中を血で満たしながらも小さなノコギリを作り、格子を切つた。九分九厘まで完成した時それは発見され、一カ月の重閉禁を彼にもたらした。

 しかし、彼の凶暴さも長い孤独、時間の浸蝕には勝てなかつた。一列に連なつた日々の環が彼をしめつけ、彼を改造しはじめた。機会は来た。津田たちは突破口を得、徐々に彼を融かしこんでいつた。あらためて死の重味が彼の上にのしかかり、過去や現実の姿が彼のイメージに復活し、恐怖が生れた。その恐怖を打ち消すために、何回も何回も寝返りをうつて他のことへ神経を集中しようとする戦がはじまつた。夜の静まりかえつた空気を破る澄んだ響き、カツ、カツとなる巡回看守の反射する足音は、初めて彼に何かにすがりつきたい衝動を与えた。津田たちにとつては、そこにはすでに凶悪犯ではなく、救いを求める一人の仏弟子の誕生があるだけだつた。

 いかなる場合でも、この手続きには例外はなかつたのに、石野恒吉だけは頑強に堡塁を最後まで護り抜いた。津田たちにとつてそれは悪夢に似ていたが、その悪夢の報復が、明確な像を結びはじめたのだ。玉城の机の上にある電話のベルがそれを醒ましてくれるか、あるいはより一層苦い味を附加するかだ。

「もう、東京の本省が出てもいい頃ですがねえ」と城山が独白するように言つた。

「ここからですと、申込んでからどれくらいかかりますか」と津田がたずねた。

 誰か一人喋りだすと、残りのものも黙つていられないのだつた。

「さあ、ふつうなら一時間もかからないはずですが、今日はバカに時間がかかるようですね」と玉城が答えた。

 この時、ベルがその席に連なるもの凡てを引き裂いた。一瞬の躊躇、これまで保たれてきた秩序が崩壊するのをとどめようとする回避がなされたのち、もつとも近くにいた城山の手で受話器がつかまれた。

「ハイ、ハイ」と城山はかん高い聲をだしてそれを耳に押しあてた。

 人々の汗腺がふさがつた。城山の手が緊張のためぶるぶる震えた。すると不意に彼のこめかみに青い筋がひらめいた。城山はぐつたりと身体にこもつていた力を抜き、受話器を所長へ差し出して言つた。

「おたくからお電話です」

 人々の口から吐息がもれた。はずかしそうにそれを受けとつた玉城の耳に花江の聲が響いた。

「あなた困つたことが起りました。英介がオートバイで他人さまに怪我をさせてしまつたのです」

「英介に……オートバイを買つてやつたのか」

 と玉城の聲は上ずつた。

「いいえ、それが貸しオートバイ屋から借りたものだそうですけれど……」

 玉城は不機嫌な聲で後始末を命じ、電話を切つた。

「英介さんがどうかなさつたのですか」と津田が心配するようにたずねた。

「申し訳のないことをしてしまいました。オートバイで事故を起し、どなたかを怪我させてしまつたのです」

 玉城の沈痛な聲が、この場の熱つぽい空気の中ではむしろ虚ろにきこえたということ、それは少しも不自然ではなかつた。玉城英介の事故はあくまでも個人の問題でしかなかつた。人々は彼ら全体に関係する決算書を期待しているのだつた。それに王城自身が奇態な違和感、いつもなら息子の起した事故のために気も動顛しているはずだのに、少しもショックをうけつけない悪魔的な感情にひたされているのだつた。

 これはどういうことだろうか。人間の親らしい気持のふくらみを失わせる死者の復讐、死んでしまつたからといつて、一度死者の城に踏みこんだ人々を簡単には解放しない堀に玉城は投げこまれてしまつているのだ。

 再び沈黙が部屋を占領し、あつぼつたい時間が過ぎ去つた。人々は漠とした脅迫におびやかされているために、その時間の歩みをひどくのろいものに感じていた。やたらにタバコの煙が生み出され、それで人々は腹一杯になつた。

 この時、ノックする音がして、教養課の職員が入つてきた。彼の手には一枚の新聞、人々の酔いに水をかけるM新聞の夕刊が持たれていた。

 田島記者が玉城に告げた言葉と同じ内容の見出しが人々の眼を射るようにとびこんできた。

 

 真犯人は別にいた?

 処刑された死刑囚は無実か

 強盗容疑者が自供

 法務省では否定

 

 田島記者は玉城の嘘を見破つていた。記事は六段抜きでその特ダネを誇つていたが、大きな活字の見出しの強さにくらべて内容はかなり弱まつていた。そしてその弱さに拍車をかけているのは、法務省刑事局長談、の記事だつた。

「所長、心配はいりません。本省の見解がこれにのつています」

 城山は明るい聲でそう言うと聲をあげて読んだ。

「警視庁で捕まつた強盗殺人の容疑者が、すでに確定した事件について、当時裁判にかけられた男は無実で、実際は自分が真犯人であると自供しているそうだが、何かの間違いだろう。刑事の取調べをうけるものの中には、犯罪を自供するとごちそうしてくれると考えてやりもしない事件をやつたように自供するものが多い。今度もその一つだ、と思う。問題の事件はすでに一年以上も前に確定ずみで、その裁判には絶対に誤りはない」

「そうでしよう。どうも変だと思いました」と高検の検察官が初めて安心したように口を開いた。

「まつたくあの記者はひどいもんですね」と城山が人々に同意を求めるように言つた。「おかげて寿命が三年ほども縮まりましたよ」

 彼らが空腹を回復するのには暇がかからなかつた。勝誇つた兵士のように彼らは眼を輝かし、意志の堅い人間のように、自分もそう思つていたのだ、と口々に言い合つた。黙つているのは津田だけだつた。彼はそつと席をはずした。人々の言葉には断乎たる信念のようなものがあつたが、その裏にひそむ本当の弱さを津田は空しいと思つたのだ。

 玉城だけは少し違つていた。彼は城山が記事を読んでいる時から眼をつむつたままだ。彼は知つていた、この仕事に終りがないということ、十六號はすんだが、十七號もやがてさして遠くない日、死者の列に加わるだろうということを。が、それはそれでよかつたのだ。玉城の胸底深くうごめいている別の新しい不安がすつかり息を吹き返していた。英介の起した事故、それが重くのしかかつてくるのだつた。花江がそのことを知らせてきた時に、彼はうるさく感じて追いすがろうとする妻の呼び聲に耳をふさいだが、それは自分の本心だつたのだろうか、と玉城は考えた。自分は否応なく一つのドラマ、架空の物語りではなく彼自身が舞台の上に立たされた劇を演じていたのだ。観客は誰もいない。だが、彼は楽屋へ去ることはできないのだつた。

 玉城は昨夜花江が語つた英介の言葉というのを想い起した。

 人のいやがる浅右衛門、それは聲にされてはいけない言葉だつたが、観客席からではなく、舞台裏から放たれて彼の足下をすくつたのだ。

 英介は交通事故を起しただけだつたが、果して彼が犯罪を愉しむ人間にならないと誰が保證できよう。法律は人を罰するものではなく教育するものだ、と玉城はこれまで思いこんできていたが、それは正しかつたのだろうか。もし、英介が凶悪な犯罪を犯し、死刑を言い渡され、玉城自身がそれを執行する立場に追い込まれたとしたら。

 この想像は玉城をいたぶつた。たとえそのことが起つたとしても、彼が所長の職を辞職しさえすれば現実にはあり得ないことだし、また本省の方で、彼が辞めなくても、その立場においておくことはしないだろう。そうだとしても、状況は変らない、と彼は気付いた。かつて玉城が背負つてきた死者たちから、彼は決して離れることはできない、と思つたから。

 

 看守たちの控室では救助された難破船員のような笑い聲が炸裂した。保安課長が現れて重苦しい空気に閉じこめられていた小高たちにあの噂は間違いだつた、と伝えたからだつた。

「まつたくあの男はいまいましいやつだつたよ」と彼はタバコをうまそうに喫つて小高たちを見廻した。彼の頬には先刻までの自失の影は見当らず、首筋を流れる汗さえも生き生きとしていた。「所長からそのことを聞いた時には、執行をはやまつたか、と何か悪いことでもしたように、気が気じやなかつたものな。それがどうだ。不思議なことだが、新聞で刑事局長の談話を読み、本省との電話連絡でそれを確認した時には、逆に、変な言い方かもしれないが、良いことをしたような気持になつたからね。いつもなら、処刑のあと、二、三日というものは、いやなことをしたという息苦しい気分に支配されて何事にも手がつかないはずだが、奇妙なことに、今はカラリとした気分なんだ」

「しかし、本当に間違いじやなかつたのですか」と小高はきいた。

 小高の心の隅では依然としてくすぶつているものがあつたのだ。

「本省でもM新聞の記事は全然問題にしていない。間違いはないさ。それに考えてみろよ。いくら犯罪者だからといつて、一人の人間の生命を絶つまでには、充分調査をしているんだ。裁判だつて何回もやつている。間違うことなんかあり得ないさ」

「だつたら、十六號は何故最後まであの不可解な態度をとつたのでしよう?」と小高は重ねてきいた。

「そいつは分らん。しかし、今日のこととは別に関係のないことだから、どうでもいいじやないか」

 保安課長がそう言つて去つたあとも、小高は動こうとしなかつた。

 彼の右腕の痛みは、いくらかその強さを減じてはいたが、しかし、完全に消えたわけではなかつた。

 十六號の屍は焼かれ骨だけが残るだろう。彼には血縁の引取人が来ていないから、それは無縁墓地に埋葬されるはずだ。だが、死者は人々が考えるほど地下の奥深くへとじこもりはしない。ひろびろとした空を自由に飛翔する鳥のようにこのM刑務所の上に羽ばたき啼き聲をあげ続けるだろう。生きた肉聲を聴いたことのなかつた人々は、彼が死んでから、無限の苦悩に投げこまれた人間の聲を聴き、死者は風が吹いて西の丘の松や杉の梢がざわめきを立てれば、それに応じて遠く近くなる聲で、人間は死ぬことを知つている唯一の生物だ、という彼の秘教を叫び、ぼくは何故沈黙を選んだのか分るだろうか、と問いかけるだろう。

 他人はいざしらず、自分だけは死者の聲に耳を防ぐことはできない、と小高は感じた。保安課長が簡単に確信するほどにこの出来事は単純なものではない、と思われた。同時に処刑されるはずの二人のうち、十六號は死に、十七號は些細な偶然で生きている。その十七號もやがては死者の列に加わるに違いないが、彼は深く堅められた墓穴から抜け出ることはない。彼の聲はその肉体と共に滅びてしまうはずだから。

 立田が小高の肩を叩いた。二人は肩を接して控室を出た。

「おれはこの仕事を辞めて故郷へ帰ろうか、と考えているんだ」と立田が低い聲でぽつんと言つた。

「どうして?」

 意外な言葉に驚いて彼の顔を覗きこむと、立田はまつすぐ前方を睨むように視線を据えていた。

「おれはこれまで死刑に値する、あるいはそれ以上の罪悪を犯した連中を処刑することで給料をもらつてきた。もちろん、この仕事ばかりで給料をもらうわけじやないが、われわれ以外の人間にはそう見えるだろう。でもおれはそのことに別に疑念は抱かなかつた。むしろ当然だとさえ思つていた。しかし、今度ばかりはどうもおかしい気がして仕方がないんだ。課長はああ言うが、本当のことは結局誰にも分つていない。裁判官がそう決めたからそうなつただけなんだ。もしあの男が死に値いしない人間だつたとすると、おれはまるで詐欺のように給料をもらつたことになる。そいつが我慢できないのさ。おれはゴマ化しはいやだ。これまでやつてきたこの仕事の誇りはゴマ化しがないことだつた。それが崩れるんじやたまらない」

 小高が何か言おうとしたが、立田はその隙を与えなかつた。

「おれは詰所へまだ荷物が置いてある。じや又、な」

 立田は小走りに去つて行つた。

 小高は疲労と空腹で倒れそうになつている自分に気がついた。しかし、相変らず食欲はなかつた。朝、昼とも食事をしていないので丸二十四時間胃袋へ水ばかりおさめていたことになる。

 その時、彼の同僚たちが通りかかつた。彼らは小高の姿を認めると、犒いのつもりか、ご苦労さんでした、と聲をかけた。

「どちらへ?」と小高は赤くなりながら問い返した。

「駅まで」と彼らの一人が平然と答えた。

「なんで?」

「新しいお客さんが二人来たんだ。こんどは有期ばかりらしいので助かるよ」

 小高の足は自然に西の方へ向いた。

 芝生の波のかなたに、刑場の建物が丘のかげで埋もれていた。空はいつの間にか雲を拭い落していたが、太陽はすでに西の丘に沈みはじめ、地上の沃土、生きとし生けるものが息ずいているこの大地が、その残照であかく染まつていた。     ──完──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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三好 徹

ミヨシ トオル
みよし とおる 小説家 1931年 東京に生まれる。1968(昭和43)年「聖少女」により直木賞受賞。

掲載作は、1959(昭和34)年春の文学界新人賞次席として「文学界」5月号に初出。