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雲と植物の世界

 序 章 

 いちばんはじめにその眼を見た時、かすかな驚きが、次第に(たか)まりながら、やがて、言い難い恍惚(こうこつ)に移っていったのを私は覚えている。それはふしぎな静かさを(たた)えた、透明な湖の肌を想わせた。なにかが此処に仕舞われている、誰も知らない美しい秘密のようなものが、と、まだ若く豊かだった私の抒情に(うった)えてくるものがしきりだったのだ。或いは私は、深い潤いを帯びたその眼のなかに、私がこの世でたったひとりだけを恋い得る、無限の憂愁と憧憬に満たされた、異性を見出していたのかもしれなかった。

 その眼はいつでも純一に素直に、死ぬ間際にもちゃんと空や雲やあるかなしの草木を映したまま、無心にみひらかれていた。いささかも不満を愬えず、課された運命の道を、実に愚かなほどの従順さで生きて行くことの価値を、遠い北辺の一角にいて私はその眼から学んだ。そうしてそんなとき私は、私が人間の世界をやや離脱しかけ、ふと、その美しい眼のもつ意味に近づきかけているのをしばしば感じることができたのであった。

 私がはじめて「東聯(とうれん)」に逢ったのは、昭和十×年の冬であった。あとで馬匹(ばひつ)名簿をみる機会があったが、「岩手県××郡×村の産、サラブレッド雑種」と記されてい、持ち主の名も見えた。東聯はこの連隊へ来る迄を、東北の野で、(すき)()きながら黙々と朴訥(ぼくとつ)に生きていたのだ。多分、かれを充分に愛し(いつく)しんだに違いない、これも粗野な愛情にみちた農夫とその家族たちとともに。私はかれの暮らしていた東北の農家の情景を、あれこれと思い描いてみることもできた。東聯はそのとき十六歳、よく調教のとどいた、たてがみの多い鹿毛(かげ)の馬であった。

 ──ここで断わっておかねばならないことは、私はまだ、ひとりの異性にも恋したことはない。私が恋したのは、私と一緒に、長い戦旅の生活を明け暮れた、懐かしい幾頭かの馬だけである。これからも私は、身内にせめぎあってくるいいようもない若い悲痛な情感で、そのたてがみを撫でながら、雲や黄塵(こうじん)や枯草の世界を生きたようには、誰をも愛することができないだろう。私がこの物語の冒頭に、(あたか)もどこか異性の描写を想わせるような態度で、人とあまり馴染みもない馬の眼を讃えた意味もそこにある。多分私は、人間の煩わしい世界よりも、雲や植物ばかりしかない、この世を隔絶した世界の方が、どれほどにか人間の理想に近いものであるかを、どうやら説得しようとしてもいるらしいのだ。ひょっとすると案外私は、いまも自身の内部に、しんと澄みさだまって結晶している、あの驚きが恍惚に移っていったときの、馬の眼の印象だけを大切に育てているのかもしれない。荷馬車曳きの馬が、町中(まちなか)にとまっていても、立ちどまって眺めるのだ。ああここにもいた、と思う。いかなる人間よりも、恐らくもっともよく私を知ってくれているに違いない、同族への郷愁に似たものをかんじるからである。

私が習志野(ならしの)の騎兵隊に入隊するとき、「お前はきっと馬に()れる」といった友人がいたが、それがそのままあまりにも厳粛な事実になって行くことに、私は(おどろ)いたものであった。朔北(さくほく)の山の果てで、私は私にそんな餞別(せんべつ)の言葉を与えてくれた友のことを、しばしば想い出した。そのころ彼は近衛(このえ)の歩兵隊にいたが、これも、酒保(しゅほ)に飼われている猿のことを、部隊何千人の兵隊のなかで、この猿が警戒しないのはこの俺だけだ、と葉書を寄越したことがある。しかし猿は、あまりに人間に似過ぎている、その狡猾(こうかつ)さが――と私は想ったものであった。

 私はその騎兵隊に入隊するまで、馬というものを間近にみたことはほとんどなかった。入隊して十日と経つか経たぬかに、動作が鈍いといって、眼を三角に吊り上げた二年兵が、天地がぐるぐる廻ってしまうほど殴りつづけてからいったものだ。

「貴様のような奴には、あの馬は勿体なさすぎる。馬に対して申し訳がなかろう。東聯にあやまれ」

 鼻血だらけのまま私は、馬房(ばぼう)から厩舎脇(きゅうしゃわき)の馬繋場へ東聯を引っ張って来てつないだ。それから許されるまで、その前で不動の姿勢で挙手の礼をしていなければならなかった。それはふしぎな光景だった。まだ私に(いささ)かも馴染んでいない十六歳の鹿毛は、「可笑(おか)しなことをする奴だなあ」とでもいった風に、(くび)を上げたり下げたりする運動をしながら、眼はどうやら私をみてもいないらしかった。しかし私は、不覚によろめいて(たお)れそうになる意識の底で、その時はじめて、馬の言葉の分かりかけてくるような、ある微妙な親近感をかんじた。この動物に救われるよりほか、ここから脱出する(みち)はない。今後無際限に続いて行く筈の暗澹(あんたん)とした軍務の中で、つねに異端者めいた苛酷(かこく)な取り扱いを耐えるには、この涼しくみひらかれた眼に酔うより外はない、と、己れに教えてくるものがあったのである。そのとき以後、私は人間を離れて、次第に馬に近づいて行ったようだ。

 私が騎兵隊に来てふしぎに思ったことは、中央を通路にして二列に馬房をしつらえた厩舎に、なぜ馬をみな壁に向けてつなぐかということであった。馬は、演習と運動と水飼いのほかは、三尺にもみたぬ鎖でつながれたまま一頭ずつが壁と向きあって暮らしている。かれらはなにを考えているのだろう? なかには特に退屈な奴もいるらしく、一晩中寝もせず、つながれた鎖をジャランジャラン引っ張っていたりするのだった。馬が頸を下げると鎖の端末は床にとどく。すると馬は一気に首を上げて鎖を()から外そうと試みるのだが、止め金があるから鎖の端末は環を抜けることはない。が、それを万遍なく繰り返していると百に一度位の確率で、止め金が環をくぐってうまく抜けてくることがあるのだ。馬はそれを知っている。そうして毎晩()きもせず、この百に一度の確率となじんでいるのである。そのくせその確率によって鎖から解放され、あたりを(うかが)ってくるりと通路に首を向けると、(たちま)怒鳴(どな)りながら厩番(うまやばん)が飛び出してきて、むなしくまたつながれるという訳なのだ。すると又かれは五分と経たぬまに、ジャランジャランと百に一度の確率をはじめている。なんという微笑(ほほえ)ましい徒労だろう――と私は(おさな)く考えてみたりしたのだった。

 馬は長い間壁にさし(むか)っているあいだに、いつのまにか聖者のように脱俗していったのかも知れなかった。それともかれは、生まれ出たときから、何か非常に大切なこの世の問題について考えてい、それが何であるか分からないままに、しかも考えずにいられない無心の衝動にだけ()かれている――そのために、眼はすべてを見ながら実はなにもみていない、微妙な美しさを顕現してくるのだろうか――とも私は想ってみたことがあった。いったいこの眼はどういう構造になっているのだろう、と私はたまに、まじまじとその眼と対決してみたこともあった。それは理解できるようであり、しかも何一つ分からなかった。多くの意味があり、そうしてなにももっていないようにも見えたのだ。この(たぐ)(まれ)なかくされた美にめぐりあった以上もはやこの眼に(おぼ)れ込んで行くより外はないだろう。もし私に、それに溺れこめるほどの恵まれた資性があるとしたならば、と私は思わずにはいられなかった。

 私ははじめて東聯に逢ったその日から東聯を愛しはじめた。ただ困ったことには、抱くにもいたわるにも相手は大きすぎ、しかも言葉は杜絶(とぜつ)していた。人間と動物を隔てている、絶対の距離があった。しかし、その人間と動物との世界を、互いにくぐりぬけて来られる、一つの小さな(みち)があるかにも思えた。それはお互いがお互いの情をもって感じあう、いいかえれば、人間の眼を馬と同じな美しさにまで純化させることによって可能な方法なのだ。(そうして私は、一見他愛なく果たされそうなこの可能が、実はそののち、数えも知れぬきびしい苦惨の日日を超えて、ようやくその果てでしか達しられなかったことを、想い知らねばならなかったのである)

 班毎に三十頭程の馬がいたが、初年兵は一頭ずつの馬をあてがわれていた。大方の兵隊は、生まれてはじめて馬に乗ることを学んだのだ。最初は馬繋場につながれた馬の背に、二年兵に押し上げて貰って乗った。馬の上からみる世界は、僅か数尺しか違わぬ地に立ってみる風景よりも著しく変わってみえた。ぐるりが明るく豊かにみえた。馬の背は、不安な、それでいて妙に居心地のよい弾動をかんじさせながら、たとえば鞦韆(ぶらんこ)に揺られているときの快感を()んだ。馬の背からみる馬の(くび)は異様に長く、左右に分かれたたてがみの景色もまた珍しかった。馬は立てた耳をピンピンと動かし、このまだ生まれてはじめて自分の背に乗った重心のさだまらぬ物体を、弱った奴だ、という風に持て余しているかにみえた。その重心が馬の背の上で安定し、馬の感覚と人間の感覚とが、或る刹那(せつな)にふとまじりあうことのできるまでになるのに、少なくも六ヵ月は必要な筈であった。それ迄は兵隊は、単に一個の物体でしかないのだった。

 乗っている背をくぐめて、馬の頸筋をポンポンと軽く叩いてやる愛撫の方法をはじめに覚えた。それから舌の先を鳴らして馬の関心を喚びその心を静めてやる符牒(ふちょう)を。あけくれ「おおら、おおら」と呼びかける声が口癖になった。その一声ずつの「おおら」と呼ぶことだけが、無際限の螺旋階段(らせんかいだん)を昇って行く唯一の方法だったのである。

 別段私に限ったことではなく、兵隊たちはみな馬を愛した。苛酷(かこく)な現実の中で、少なくも愛する対象をつねに持ち得ているということがどれ程幸福であるかを、たちまちにかれらも理解していったのだ。兵隊としては意気地のない、そしてまた軍律を守らない奴ほど、ひそかに馬との馴染みを深めて行く速度が早かったようだ。かれらはそこに、軍務にいて軍とは別個な、己れと馬とだけに通じる絶対の世界を構成し得る、逃避の場処を発見せねばならなかったからである。

 看視の眼をぬすんで、厩舎(きゅうしゃ)を脱け出した馬が、いつみても一頭か二頭、営庭を駈け廻っていた。一たん逃げ出した馬は、飼い袋を手にして、すっかり追い疲れている厩番(うまやばん)揶揄(からか)う風に引き離し、ときには勢い余って(どう)と引っ繰り返ったりしながら逃げ廻った。尾を高くあげ、(あふ)れる躍動に堪えかねた闊歩(かっぽ)のまま、気のすむ迄は遊んでいる。しかし自身の空腹に気がつくと、実に単純に飼い袋の餌にひっかかって、はじめから何事もなかったように厩番に()かれて馬房へ帰って行くのである。兵舎の窓からみる裸馬の駈けている姿は、そのままいつも一幅の絵となって、私の無聊(ぶりょう)の胸に()()まれた。

 午前と午後の何れかは乗馬訓練に費やされた。埒馬場(らちばば)を輪になって、並足と速足を反復している間も、班長の号令をきいているのは馬の耳であった。兵隊はやっと馬の背につかまっているのだ。馬は兵隊をなるべく落とさないように気遣っているかに見えたが、それでも落ちる奴がふえてくる。が、やがて四頭併馬で駈けながら襲撃の散開に移れるころには、もう一期の検閲が間近になっているのだ。下馬した部隊と別れて、纏馬(てんま)した三頭の馬をたづなであしらいながら誘導して行く技術を覚えこむと、一応初歩の訓練が終わることになる。そのころになってようやく、人と馬との懸隔の一角がとれはじめるのだった。

 つねに肉体の抵抗がその限度に来ているほどの激しい訓練と、精神の抵抗がまた抵抗の限度をしばしば越えかかるほどの厳しい規律と私刑の底で、兵隊たちはみるまに軍服色の類型のなかに()め込まれていった。銃器手入れの不備で叩かれることは日毎であったが、しかし馬手入れの不備で叩かれる者は流石(さすが)(すくな)かった。私たちは兵室を抜けて厩舎にいる時間の方が多い位だった。そこで各々は自己の意志を(うった)えうるひそかな友と語りあったのだ。乏しい給料を割いて饅頭(まんじゅう)を食わすのだが、甘味品に対しては馬は兵隊よりも遥かに健啖(けんたん)嗜好(しこう)を示し、それがまた兵隊との馴染みの端緒となっていったのである。ひまさえあれば馬房にいて馬をいじっている習慣のうちに、いつしか兵隊の個性の何十パーセントかは、その持ち馬の気質に通じあって行くようになるのであった。相手の名を馬の名で呼んでも不自然ではない返事が応えてくる。兵隊が著しく馬に似てくるのだ。表情でも動作でもなく、なにかの幻影のように、その兵隊にとり憑いている馬の髣髴(ほうふつ)をみる。

 一期の検閲を終わると、勤務に就くようになった。衛兵よりも厩番が遥かに(たの)しかった。二交代勤務の深夜、馬糧の(わら)を押し切りで切っている静寂の底にいて、馬の(いびき)をききながら苦笑していることがある。馬は行儀よく前肢(まえあし)を折って寝た。それはなにか優しみのある、やや肉感的にもみえる、異性の姿態をふと連想させた。なかには両足を投げ出してドタリと寝ている奴もいる。厩番のつく頃には私も東聯とは随分深い馴染みになっていたから、馬の寝ている馬房の中へ行って一緒に並んで寝てみることもあった。馬は人間の言葉を理解しないまでも、愛撫の語調だけはきき分ける。馬は湿った草のような匂いがするが、その肌の、ビロードを撫でているような手ざわりは懐かしいものであった。すべての動物のなかで、馬がもっともよく人間の情緒に感応するのは、多分かれらがもっとも透明な気質の生きものだからだろう。()もなく(てら)いもない従順な無心のままに澄んだ眼をひらいている。よしんばそれが愚かさの故の素朴であったとしても、素朴そのものの価値を、私はどうやら長い軍務の間に、東聯をはじめとする幾頭かの馬から学んできたようなのだ。

 兵隊たちはそれぞれ、各自の性格や精神の歴史に従って、異なる愛し方を馬に示した。私の場合は東聯に対し、その眼の中に、多分、私だけにみうる一個の女性を発見していたに違いない。私はあるいは不幸であったかもしれないのだ。なぜならこの世に心をこめて傾倒すべき異性を得なかったときに、既に馬の優雅に(たた)えられたこの世のものとも思われぬ美しい深淵に臨んだからだ。ここにもし己れの一切を葬り込んでしまえば、或いは生涯このまなざしの持つ意味と同等なまなざしにめぐりあわない限り、その相手を愛し得ることの不可能な罰を、私はこの身に受けねばならないと思ったからである。そうして私は、自己の価値を認識する余裕を(いささ)かも持ち得ない、負傷だらけになった精神を、その眼を見ることによって(いや)して行こうとする、奇怪な倒錯だけに(とら)われていたのであった。けれどもまた翻って考えてみるに、自身のもっとも不遇な若年の歳月を、この切ないまでの魯鈍(ろどん)ともいうべき馬とだけ対して生きたことは、爾今(じこん)、私の精神を形成していった時間が、つねにあたたかくたゆとう波の変幻の合間にでもあるような、ひそかなリズムの奏鳴によって、歌いつづけられていったともいえるのである。

 まこと私は東聯を愛撫しながら、東聯のなかに住んでいる、私にはみえないながらも、大切な一個の異性の幻を眷恋(けんれん)したに違いないのだ。己れをゆさぶる美に対しては、(ただ)ちに一切を葬り込んで悔いないとする私の人間性の構造の端緒は、実にこのときにはじまっていたのではないかとさえ考える。私は東聯をはじめとする色々な馬の、その眼の中の虜囚としての遍歴を重ねて行くうちに、そしてまた多感な歳月を、人間として堪えうるかぎりのきびしい戦旅の底を歩んでくる間に、遂には馬と同等な素朴を――もはや抜きがたいこの世への不可思議な憧憬を、肯定を、理論を越えた情緒のすさまじい昇華のなかに迎えていったのである。

 いわば十六歳の鹿毛(かげ)東聯は、馬としては既に老境に入っていたのであるが、私にとってはいつまでも新鮮な最初の異性を想わせた。己のうちに無数の秘密と羞恥(しゅうち)を積み重ねる想いで、私は馬のたてがみを抱きながら、何事をか語り続けて生きた。初年兵としての一年間、ほとんど窒息しかけるほどの重圧を耐えきるには、神経の繊弱な私はそれよりほか方法を持たなかったからである。

 第一章

 二年兵になって私は「沼好(ぬまよし)」という馬を貰った。もちろん東聯には断ち難い想いがあったが、特に初年兵用として使われる資質の温厚な馬は、かれらに譲り渡して行くことになっていたのだ。新しい初年兵の誰かがまた、自身の生き方を、東聯のかたちのなかに見出してゆくだろう。ひそかに私の願ったことは、東聯の持ち主が、雑駁(ざっぱく)な性格を持たぬ兵隊であってほしいということであった。

 沼好は十二歳の栗毛。班ではもっとも小柄な馬に属していただろう。軽機の駄馬「島風」を()いてほかには、この沼好ほどタチの悪い馬はいなかった。既に軍務の世界に於いては、執拗(しつよう)(いじ)められ方をして行くに違いないという諦観(ていかん)を確立しながらも、私は東聯から沼好に持ち馬を変えさせられたことに、苦笑を感ぜずにはいられなかった。だが私が、私に対する中隊諸幹部の悪意を気にするよりも、いっそこの新しい私の馬沼好に対し積極的な好意を持たざるを得なかったのは、この誰とも馴染まぬ恐ろしく(ひが)んだ馬の姿勢のなかに、また私白身の形に似るものをみたからである。沼好がなぜ兵隊に対して馴染まなくなったかについては、多分、馬の資性を根本から変えさせてしまったほどの激しい衝撃が、その歴史の上に在ったに違いない。事実古い兵隊たちには、通路に掃き出したボロ(馬糞)を押して行く道具の柄が折れるほど、馬を折檻(せっかん)するのが幾らもいた。馬は向こうむきになった狭い馬房のなかで、尻だけを左右に懸命に逃げ廻らせながら、殴られる度に全身を顫動(せんどう)させておびえた。(初年兵のころは、そうした古兵の動作に血ののぼる憤りをかんじはしたが、私自身二年兵になってみると、そのきびしい打擲(ちょうちゃく)もまた或る種の愛に通じていることが分かってきた)

 馬は素朴であるだけに、自身が根本から揺すぶられるほどの衝撃に遭うと、そこで性格を全く変貌させてしまうことがあるらしかった。当時の、二年勤務で除隊して行く軍隊では、沼好の経てきた歴史について、誰に問いただすすべもなかった。馬の癖にはいろいろあって、首を上下に玩具の首振り人形のように振ってる奴がいる。四肢を突っ張り、動物園の熊に似て、全身を左右に揺らしている奴がいる。熊癖と呼ばれているが、どれも退屈しのぎにやってるのだ。何かにとつぜんおびえて、前後の見境いなく後退するのがいる。なかでも沼好は癖のもっとも悪質な咬癖(かみぐせ)をもっていた。かれの人間嫌いは、不意に歯を()いて噛む。誰も敬遠して寄りつかず、とかく手入れもおろそかになり、馬繋場の一番隅に一頭だけ離されて、ぽつんと陽を浴びていたりした。やはり寂しげにみえたが、側へ寄ると、白い眼をむいてこちらを警戒するのだった。その眼は、馬それぞれの持っているあの美しい瞳の奥の波間を、見せまいとして拒否するに似た、冷たい自我を想わせた。それでも毛附主(けつけぬし)として接近する度数が重なって行くにつれて、いささかは私に対する沼好の態度の軟化はみえたけれども、それも、こちらも必要以上の警戒をして、(あたか)もハレモノにさわる想いで機嫌をとるよりほかはなかったのだ。いつも沼好をみるときに私は、馬房で一番尻を殴られる度数の多いかれと、班でもっとも痛めつけられてきた私との対比を、皮肉な因縁めいてかんじ、そこにまた沼好への、私なりの親近感をもたざるを得なかったのだ。沼好をなんとか私のなかに抱きとめるということは、つまりは、私に対する幹部の悪意への、或る意味での抵抗であったともいえる。

 しかし、私は沼好に対しては随分機嫌をとったが、遂に(さじ)を投げるよりほかはなくなってきそうだった。かれは鼻先にやった饅頭(まんじゅう)を、必ず一度は見て見ぬふりをして鼻を横に向けるのだ。無理に口に押し込むようにしてやると、それからあとは仕方がないという風に持ってるだけはみな平らげ、現金に私の手にしている空の袋を念のため鼻で押しつぶすようにしてたしかめてみてから、あとはもう無縁の人のように、棚の上の乾草をぽつりぽつりかじりはじめたりしている。その動作は憎かったが、どこか人見知りをする人間の子供を想わせて可笑(おか)しくもあった。いつかこいつを分からせるときがくるだろう、焦ることはない、と自分にいいきかせ、(くび)すじを叩いてやってから私は馬房を出るのだった。

 東聯に較べると沼好の眼は、機嫌のよいときでも白眼勝ちであった。眼がもっとも敏感に心緒の在り方を示している。東聯の馬房に入ると、私はだからほっとした。馬は耳をいじられるのを嫌うが、この温雅な老馬だけは、何をしても、静かに自分を支えたまま人間を信じ切っている。人を無条件に信じきるということは、美しいがまた悲しいものである。馬の頸すじ、とくにたてがみの蔭になっている肌は、あたたかい(なま)めかしさをもっていた。秘密ないたずらでもしているような想いがした。私は馬の肢態を、神がこのような(さわ)やかな造型を為し得たことをよく讃歎(さんたん)したものだったが、それは生涯眺めていても見飽きることのない、単調でしかも律動にみち、平凡でしかも情趣に(あふ)れている。そうしてこれほど人間に近づき得るものが、現実の世界に於いては人間の言葉を解し得ぬふしぎを(或いは不合理を)私はつきつめて疑ってみたりしたこともあったのである。

 私のあと東聯の毛附主になっていたのは、宮野という小柄で目立たない初年兵であった。馬を申し送りするときに、すべての二年兵がそうするしきたりで、私も彼に東聯のよさを説明した。僅かに頬を上気させて、珍しいものをはじめてみるときの、新鮮なひとみのかがやきをみせて、宮野は私の言葉に聴き入っていた。その態度のなかに私は、多分この東聯と似つかわしく生活して行くに違いない彼の素質をみた。兵隊としてはしかしあまり役立ちそうもないやや腺病質(せんびょうしつ)めいた体格だったが、それだけに私は(いた)わりの情をこめて、なにかと彼の面倒をみてやることになったのである。それはもちろん東聯に対する私の愛情の変形でもあったのだ、のちにそれはもっと別な事情で、彼への情の異常な深化を示すことになっていった。

「雲にのってるようであります」

 と、いちばんはじめ、私がつきそって営庭を歩かしたときに、宮野は馬の上で弾んだ声をしていった。入隊したてのかれらの中にはまだ少年が残されている。他愛のない(もろ)さで、それは旬日も経たぬまに()(つぶ)されてしまうのであるが、私は馬上にいる彼を、彼の背の向こうにある蒼明な天を、はじめて二年兵になっている心のゆとりで、静かに眺めながら微笑(わら)った。

 宮野は性格のどこかに弱い面があり、所在なくポカンとしているような空虚なところもあって、必死に成績をあげて行こうとせめぎあう初年兵仲間からは、直きにずれて、やっとついて行くような性格に見え出した。

「愚図、××××がついてるのと違うか?」

 と、意地の悪い二年兵はいった。素直に顔を(あか)らめる宮野の、色の白い、困るとすぐ何かの助けをぐるりに発見しようとする眼になる顔を、それが今後洗濯板のように()まれて行く過程を、私は自身に引きくらべて想いやったりした。私は意固地な無抵抗の抵抗を続け切って、しかしあやうく脱走しかける間際に、二年兵の世界へ逃げのびて行けたのだ。それに較べればこいつの方が、まだもっと脆い危険がある、と、私は馬房で東聯と向きあっているときにも、やがて彼に訪れてくる筈の、不遇な前途を想いやらずにはいられなかった。

 けれども私には私で、非常に陰険な方法で、私の怠業に対する、軍の報復が待っていたのだった。兵隊の世界は、進級の希望を棄て切ると楽になる。私は初年兵のときの反動で、二年兵になって以来は、勤務の外は一度も演習に出なかった。出なくてすむのだ。あいつはもう勤勤に使う以外には見込みがない、という決定をさえ得れば、その代わり勤務は人よりも多く廻ってくるが、どのような怠け方に対しても、その都度の文句は来なくなる。こちらの怠け方も亦うまくなる。そうして月に一度位、その月の総決算である徹底的な私刑を、下士官から受ける覚悟さえつけておけば、丸一カ月、勤務の外は、脱柵(だっさく)しない限り、何処かへ隠れ込んでいればよかったのだ。私は馬房の脇の鞍置場(くらおきば)の天井裏で(そこには予備の藁束<わらたば>がたくさん積んであったが)そのなかにもぐって、午前午後寝ていればよかったのである。馬房は大部分がらんとして、演習に出残った奴だけが退屈げに遊んでいる。その背を藁束の上から一わたり妙な親しさで眺めてから、寝よいように藁を直してから横になる。私はそこでいろいろなことを考えた。ほとんどは暗い想いに尽きていた。演習から帰って来て馬手入れをはじめている雑沓(ざっとう)のきこえるまで、きまった日課のように私は昼寝ばかりして暮らした。

 しかし、まもなく私は装工兵という職務の欠員補充を命令された。靴の修理をする仕事である。夜の点呼で読み上げる中隊命令を聞きながら、「やったな」と思い、さすがに心は重く歪んだ。隊の工務兵のなかでも、靴修理に廻されるのが、一番程度の悪い奴ときまっていた。

「お前には丁度お(あつら)えの仕事なんだ。有難く思って精励しろ」

 班付の伍長(ごちょう)が、本気か厭味(いやみ)か、語調は荒く眼は薄笑っていうのだった。それを黙って見返して返事もしなかった。服従しないつもりだったのだ。けれども一週間二週間と遊んでいる間に、演習の激しい初年兵の、それも上等でない長靴(ちょうか)の修理品が次第に()まり()した。中隊の他班の装工兵たちは、私が装工場に出勤しない限り、可笑(おか)しくて人の班の修理はできないと突っ張りだした。こういう追いつめられ方をすると、私はさすがに参って来(初年兵たちが可哀想だったからでもあるが)、結局敗退して行くものをかんじた。心は暗く鬱積(うっせき)するもので満ちた。非常な憤りをつねに身に負いながら、私はしょせん装工場へ通わねばならなかったのだ。馴れぬ皮革の匂いに悩みながら、牛皮と折革刀と縫糸と(きり)の生活に(なじ)んでいった。自分の心のささくれ立ってゆくのが分かり、どこの世界に於いても、自分は靴修理にしか向いていないのではないか、という卑屈な憂愁が始終つきまとった。

 いわばそのような私の積み溜まった憤りが、不幸にも東聯の持ち主である宮野に対して爆発することになっていったのだ。それは宮野の悪意のない不注意によるのだが、彼は靴底を泥だらけのまま修理に廻して来たのだった。工場のしきたりとして、他隊の工務兵の手前看過することができなかったのである。(かかと)の釘をうつとき濛々(もうもう)と舞い立つ(ほこり)をかぶると、私はそれが宮野であることにことさらな憎しみを覚えてきた。夕方、修理品をとりにきた初年兵に、宮野を呼んで来いと言いつけた。宮野が慌てて飛んでくると、他隊の装工兵が先に立って彼を作業場に呼び込み、そうなると遠慮のないかれらの制裁に任すよりは、まだしもこちらで処理する方がよかった。(ほう)って置けば靴底を()めさせられるにきまっている。そのときになって後悔を感じたが、行き掛かり上、他隊の者が納得する位の制裁は必要とした。もちろん殴っているうち、当惑とも驚愕(きょうがく)とも慚愧(ざんき)ともつかぬ複雑な顔の歪め方で、よろめいては不動の姿勢をとる宮野に、私も亦切ない動揺に責められてくるのをかんじた。私は、救いのないなにか悲惨な想いに、いっそ酔おうとさえ思ったほどの、錯乱に()ち込んでいたようである。そのとき以後宮野は、私への動作は厳粛になりながら、心は遠のいているように思われた。正直それは寂しかった。彼とともに、東聯もまた私から遠のいて行くような、微かな不安を感ぜずにはいられなかったからである。私は宮野を何度か、兵隊としての意識を棄てて慰めてやろうと思いながらも、それでいて、宮野がもっとも手痛く、私に負傷させたのだという怒りを、なかなかに拭いさることはできなかった。

 遣り場のない心の(かげ)りが、私を始終孤独に押し黙っている男に変えてしまったようだった。そんなとき、あたかもそれが救いであるかのように、沼好が病馬厩(びょうばきゅう)へ入厩したのである。二年兵をも含めた機動演習の際、駈け足の最中に沼好は右脚のつけ根を蹴られたのだった。馬は集団の駈け足になると昂奮(こうふん)して兇暴(きょうぼう)な状態を帯びてくる。これも癖の悪い長定という馬が蹴ったのだが、元来嫌われものの沼好であるし、工場通いの私がとかく面倒をみかねるので、その蹴傷が意外に悪化し、化膿(かのう)の箇所を切開しなければならなくなったのだ。この時も班付の伍長が私に言った。

「ほかの勤務は話して免除して貰ってやるから、つき添いで病馬厩勤務をやったらどうだ。お前の愛馬だろ。(なお)るまで連続の厩番(うまやばん)をやれ」

 その言葉を、皮肉ととるか、むしろ好意ととるかを、私は彼の意地悪げな顔を見ながら咄嗟(とっさ)に迷った。皮肉でもありまた一部分は好意でもありえたかもしれない。病馬厩勤務は、半夜交替の不寝番よりも気分的には楽なのだ。私は沼好の白眼勝ちの眼を思い出した。かれは化膿の痛みで直立ができなくなり、天井から吊るした綱で腹帯を支えられ、ふらふらと半分宙に浮き上がったように吊り上げられているのである。入厩(にゅうきゅう)した日に私は病馬厩へ行ってみたが、白いおこったような眼をして、そのくせ身体はひどく頼りなく、四肢を遊ばせたままの姿勢で、妙な工合にゆるりゆるり馬房を廻転しているのだった。しかし、その姿のなかに、憎まれ者の負傷したという、或る寂しい影を私は見たのだ。

 その日から私は病馬厩へ寝た。夕方になると私は、まるで自分の女が病んでいるのを見舞うような想いで、工場からまっすぐ厩舎へでかけた。食事も其処へ運ばせて食うことが多かった。昼食に班へ帰る際も、一度は沼好を見に行くのだ。傷口にあてた湿布を薬品で冷やしてやらねばならなかったが、夜中も屡々(しばしば)起きて介抱した。私は沼好と私とが、こうして少なくも一種の隔絶とみなされる生活のなかで、互いをより深く感じあう機会に恵まれているのだと、思いたかったのである。整理しようもなく内攻してくる感傷の助けもあっただろう。けれどもそれは精神の純度を高めるには役立った。傷の痛みに動揺している沼好が、看護をする私にすらとかく敵意をみせたがるのを、私はいいがたい切なさであやさねばならなかったのだ。その拒否の向こうに、私はこの生きものの本然の、寂しいが豊かな心緒(しんしょ)の仕舞われていることを信じ得たからである。

 沼好が退厩(たいきゅう)する迄には一ヵ月の余もかかった。その一ヵ月が、日毎に私には、かけがえもなく、貴重な日日に考えられたのだ。私は私が東聯を愛したように、やがて沼好に(おぼ)れて行く自身をかんじはじめた。かれへの私の(いた)わりは益々深くなり、かれの傷の痛みが私にも分かってくるほど、宙吊りになってぐるりぐるり廻っている、その姿勢をみていることがたまらなかった。あけくれ、兵隊といえば私とだけさし(むか)い、食餌(しょくじ)や、饅頭(まんじゅう)や、また傷の手当に熱中する愛撫のなかに、たぶん沼好は、その白い眼を通して、ごく徐々にだが自身の内奥に(うった)えてくるものをみたのかもしれない。私が行くと、その眼が明らかに私を待っているのを、錯覚でなく私は読みとることができるようになっていた。傷が快方に向かってからは、沼好の私への馴染み方も亦深くなっていたのだ。()まれる心配はもちろん無くなった。宙吊りになったままかれは、よたよたとなっている足を不恰好(ぶかっこう)な努力で私に向け、その首をさしのべてくるのだった。私が彼を助けようとして懸命になっている、ということだけはのみこんでいるその眼が、私には、日毎に、次第に黒眼の多い、昔は多分そうであったに違いない素直な資質の沼好に(かえ)りつつあるのを、ありありと認めることができたのである。

 このときを境として、また私の世界はひとすじの明るみを見出している。私はやっと小さな泉を掘りあてたような気がした。手で()むほどの僅かな清冽(せいれつ)であったにせよ、それは心を潤すにはどうやら事足りたようなのだ。

 いよいよ沼好の退厩する日には、私は頭絡のたづなを、その背に投げ上げたまま、黙ってかれの先に立った。沼好は私のあとを忠実についてきた。この意地悪な馬が、こんなにしてたづなも不要のまま兵隊のあとに従ってくるなどということは、恐らく誰もみたことはなかっただろう。沼好はそののち可笑(おか)しいほど人懐っこい馬になった。別段それが私でなくとも、誰かが劬わる動作を示してやると、いつも首をさしのべてきて兵隊の情を欲しがった。かれはひとに憎まれながら、白い眼をしてぽつねんと乾草を食べて暮らしているとき、恐らくは随分とさびしかったに違いない、と私には素直に考えられたのである。

「奇態なこともあるもんだ」

 と、そのときもまた班付の伍長(ごちょう)が私を見ていった。が、口には出さなかったが、彼が私になんらかの好意をもったに違いないことは、それからあとの私に対する、終始攻勢的だった態度の軟化からも読みとることができた。何一つ自由の許されぬ世界にいて、私は小さな珠玉をあたためていたのかも知れなかったのだ。それは馬の眼のような、美しい情緒の屈折をみせる珠玉だった。私は沼好の眼が、昔と違って澄んできているのに驚き、こうも変わるかと小首を(かし)げた程であった。重い病患の快癒にともなって、かれは期せずして精神の病患をも回復していったのだろう。

 日曜は、外出もせず、沼好を裸馬のまま連れて歩いて営庭で遊ばせた。この従順な裸馬のなついているさまを、人に誇示してみせることが、私の(おさな)い優越感を満足させたのである。私の歩くあとを、つかず離れず沼好はついてきた。時には表門の脇の、面会所のところまで出かけてみたことがある。それは一期の検閲も過ぎた頃だったが、面会所の脇の木の繁みを抜けてくると、私を呼びとめる宮野の声を耳にした。沼好が眼についたからだったろう。

 宮野は木蔭にあるベンチの一つに腰掛けていたのだが、人懐っこく笑いながら駈け寄ってくると、

「姉が面会に来てくれています。御挨拶したいそうです」

 私がみるよりも先に、宮野の姉にしては意外な印象をうける豊麗なかんじのひとが、ベンチを立ち上がる前に、もう会釈をしていた。和服の濃い(あい)だけが、(ぼう)と一瞬に私を射た。少し伏目のまま、親しげな微笑をかくしながら近づいてくるとき、睫毛(まつげ))の奥からさしのぞくひとみが、睫毛をはじき上げそうなかがやきを帯びて私に迫った。しかもその眼には、「もうあなたのことは、よくお聞きしています」といった明るい意味がこめられてい、私は彼女の、やや上背のあるゆたかな肩に微かな威圧をかんじたのだ。そうしていつだか工場で、宮野に私刑を加えたことを、痛い後悔で想い出した。

 宮野は甲府連隊区から入隊してきている兵隊で、東京へ嫁いできている姉だけが身寄りなのである。彼女は宮野がいろいろお世話になっていて申し訳ない、と一通りの挨拶をしてから、新緑の匂いを()ぐように首をあげている馬に、眼を移し、

「これがあの――」

 といいかけて、少し当惑したらしい様子を、巧まない成熟の()びにみせて宮野をかえりみた。

「ヌマヨシ」

 と教えられて、

「ああ、ヌマヨシさん」

 その、馬に敬称をつけたのが可笑しかったので私は笑い出した。彼女も宮野も一緒に笑い出し、それで互いの感情がしっくりときた。

「さわっても大丈夫かしら?」

 と彼女はいった。さわってみたいらしい子供っぽい好奇心もみえる。

悧巧(りこう)な馬ですよ。人の言葉が分かります」

 こわごわと、だが直き面白そうに首すじやたてかみを撫でてから、

「いまお話伺っていました。この馬が怪我をしたときの――」

 その顔付きや態度のなかに私は、宮野が私のことを、かなりな好意をもって彼女に話しているのだと見抜いた。その故か、しばらく話していて宮野がふとベンチの方へ離れていった隙に、

「あの子を意気地がないとお思いでしょう? もしなにかのときはよろしくお願いします」

 さすがに哀願に近いまなざしの色のなかに、私はそのころの戦局の動きを反映している彼女の、肉親への懸念のこめられているのをみたのである。頼まれ甲斐もない自身の軍隊での位置をふとかなしんだが、うなずいて微笑した。彼女が面会のために持参してきた土産物などを、宮野も私にすすめるつもりらしかったが、それは後廻しにして東聯を見に三人で厩舎へ出かけることになった。

 このときの面会日以来、宮野はたしかに私のなかに深く住みついてしまっている。それは宮野が深く住みついたのか、それともやはり東聯なのか、或いは案外宮野の姉であったのか私にはよく分からない。孤独だったけれども豊かに(たた)えられていた私の心の水面に、ときたまふと揺曳(ようえい)している、束の間の宮野の姉の影を私はみることがあった。私は彼女の敏子という名前そのものが、いかにも彼女にふさわしい彫りの深い容貌を、どことなしに沈んでもみえた優雅さを、そうして精神の内部になにか微かに弾動しているものを感じさせる、一種の健康さを表わしていると思った。しかも私は日の経つにつれて、その映像の上に、幾枚もの理想化のレンズを積み重ねていったから、遂には微妙な光線の交錯するなかに、彼女を美しく捉えることができたのである.

 季節は六月に入って、工場の裏の草地に生えている何本かの桐の木が花をつけていた。遠くくすぐったく艶めかしい匂いを、私は荒れた嗅覚(きゅうかく)にとらえながら、()れきるまでの時間を、よく宮野と寝転んで話したものであった。私は宮野に対し、いつしか年次の隔てている溝を忘れてしまっていた。すると彼は、彼の姉が案じたように、気弱い素質を率直に私にみせて来、

「どこかへ逃げたいなあ、といつも考えてるんです」

 と案外な真剣さで、その眼が私に喰い入って来たりし、かつて私の経てきた過程を、彼も亦同じように踏みつつある、その親しさと寂しさとに、私はあやうく感傷に足をさらわれそうになったりするのだった。

「姉はあなたを随分ほめていました。東聯も沼好もすっかり好きになったそうです」

 そんな、問いもせぬことを、宮野がいい出したりすることもあったのは、夕闇に立ち()め出す桐の花の香のなかに、彼は彼なりに、私の情感の(もろ)さをもふと探りあてていたのかもしれない。誰かに(うった)えてさえいれば、その都度の苦しみは救われるものだ、と私は宮野を考えていたが、しかし心の底では、次第に宿命的な予感として、いつか私自身が、この宮野のために、彼の身代わりになって、戦地で撃たれて死ぬ日がくるのではないだろうか、と、その悲壮に酔うことを、たのしみだしているのに気づくようになった。そうしてそれはもちろん、私の死を哀哭(あいこく)してくれる彼の姉敏子の姿を描くことに終わっている。私はいかなる荒寥(こうりょう)をも美化することが可能だと思っていた。死でさえもだ。が、そんな甘いものの考え方に、無数のくさびが打ち込まれることについては、そのときはまだ一向に考えてみようとしていなかったのである。

 桐の花も終わりになった七月の半ばに、部隊の動員が確定した。慌しい幾日かの後に、私たちは、この部隊で馴染んだ東聯や沼好たちとも別れ、遥かに北辺への戦旅に発つことになったのである。

 第二章

 朝鮮竜山で私たちは、新設部隊の、要員として編成された。まる三ヵ月、緑の()れた山岳地帯の予行演習ばかりをやったのは、これから赴く戦旅の地が、ほとんどを山岳戦に終始するに違いない、華北山西省であったからだ。十月、人馬ともに新たな装備をして出発した。

 竜山で部隊に配属されてきた徴発馬は、しかしあの原隊の、兵隊をあまりによく知っている素直な馬とはまるで違っていた。素質の荒い、馴致(じゅんち)の行き届かない馬が多かった。竜山駅から、かれらを貨車に積み込んで出発したのだが、その日から私は、新たに私の持ち馬となった「郁種」に手古摺(てこず)らねばならなかったのである。

 郁種はそのとき八歳、アングロノルマンの雑種、栃栗毛(とちくりげ)の、たしかに馬相? はよくない馬であった。馬には人を蹴っても馬を蹴らず、馬は蹴るが人を蹴らなかったり色々だが、郁種は人も馬も見境なく蹴るのだ。もちろん人も()む。(くら)を置くときは嫌ってぐるぐる逃げ廻る。それでも乗馬してしまうと、それで諦めるのか別に暴れることはしなかった。馬の搭載がはじまってから、この馬だけが貨車に積み込まれるのを特に嫌い、しまいには踏み板から足をすべらせるという始末で、ひどい目に遭わされてしまったのだ。

 季節が夏から秋に向かいつつあった故でもあるまいが、朝鮮の風土は私にとって、荒涼とした印象をしか与えなかった。樹木も乏しく、気候は内地と違って大陸的で、八月に入ると既に暁方は肌寒く冷えた。けれどもその朝鮮を発って北上して行くに従い、まだしも朝鮮の風土の方が、どれほどにか眼に親しいものであったかを、私たちは学んだのである。汽車が錦州(きんしゅう)天津(テンシン)、山海関を過ぎて、やがて娘子関(じょうしかん)を過ぎる頃になると、みはるかす曠茫(こうぼう)たる原野のほかは何もなく、申し訳ほどの立木の向こうに、雲もない乾いた天が(ひろ)がり消えているのだった。多分土民の墓ででもあるらしい土饅頭(どまんじゅう)のところどころの群がりが、黄土の起伏に趣を添えているほかには、これという眼を慰めるものもなかったのである。寂しい駅を一つ一つ越え、爆破されて崖を顛落(てんらく)したまま赤錆(あかさ)びている貨車を下瞰(かかん)したりしながら楡次(ゆじ)まで着く。そこから同蒲線を)南下して臨汾(りんふん)まで来、乗馬で汾河(ふんが)を越えて十支里も歩いた揚句の、土壁も満足にない部落が、これからの警備と討伐の生活をつづける基地であったのだ。

 もちろん新たな警備地であったから、兵舎も厩舎(きゅうしゃ)もある訳ではなかった。日中は伐採隊を周囲に派遣し、残った人員は設営に追われた。形ばかりの土壁を防禦(ぼうぎょ)するには、望楼とトーチカの築造を急がねばならなかった。そうした寧日ない怱忙(そうぼう)の間に、日毎に私たちは黄土の匂いに馴染んでいったようなのだ。ただ、季節が冬に向かうころに、この辺土に駐屯したことは、或いは幸福だったかもしれない。なぜなら春から夏にかけての、酷烈な異郷の瘴癘(しょうれい)を迎えるまでに、風土に対する肉体の抵抗度を僅かながらも積むことができたからである。

 ここへ来る途中、風土が荒れてくるに従ってふしぎな鮮明さで、宮野の姉敏子の映像が心に刻まれてくるのを、私はかんじていた。それを除いては、己れの人生への、なんの手がかりもなかったからであろう。私の観念のなかで、彼女の潤みを帯びたまなざしは、いつしか馬の眼の、あのいい難い深みを帯びたものへと、つながっていたのである。多忙な設営のひまをみては、宮野と、彼女の噂をしたが、まっとうな人間の世界を、遠く隔絶してきてしまっているという意識で、なにを話すにも気楽で遠慮がなかった。

「いい姉さんだな。実に豊饒(ほうじょう)なかんじだ」

「写真があります」

 彼は軍隊手帳の間にそれを仕舞っていて、話の都度に出してみせた。宮野はそれを私に貰ってもらいたいような風情で、私をみることもあった。私は黙っていた。むしろ宮野がそれをもっていることの方が、遥かに私にとってはたのしかったかもしれなかったのである。触れがたいものは遠くに在るほどよい。設営に追われていたので、運動不足になっている馬は、精力をもて余して、作りかけた厩舎の柱を播すぶったり、屋根の高粱殻(コウリャンがら)を競争で食いちぎったりして兵隊を悩ました。ただ野戦の馬房は、原隊でのように、暗い壁に馬を向かわせる必要はない。かれらは陽の明るい青空の下で、働く兵隊たちを眺めながら暮らすことができたのだ。郁種は気性の激しい故か中々私に馴染みそうもなかった。多忙でかまっているひまもあまりなかったが、それでも出かけて行くと、へんにでこぼこしたかんじの表情が、自分の主人だけはよく見分けていて、無闇に咬みつくこともなくなっていた。ただ彼は小隊全部の馬を通じてもっとも器量が悪く、悪垂れ小僧といった風采(ふうさい)、やや滑稽味(こっけいみ)のある意地の悪い顔をしている。しかし私はこの馬の背と爪には、充分頼れることを知っていた。鞍傷と落鉄の危険率の少ない馬を持つことが、野戦に於いてどれ程有利であるかを、私たちは竜山の騎兵隊にいて、経験のある古い兵隊から聞いていたのである。こいつなら大概の山は、楽に越えて行きそうに思われたのだ。

 それに較べると、宮野の貰っている「時花」は、サラブ系のスタイルのいい鹿毛(かげ)の馬だったが、私にはなぜか、どこともなし暗い(かげ)がかんじられてならなかった。しかもこれは牝馬(ひんば)だった。騙馬(せんば)(去勢してある牡馬)だけでは間に合わず、牝馬が、十頭に一頭位の割でまじって補充されてきていたのである。

「こいつは脚が速いから逃げるときは絶対だ」

 と、私は仕方がないから宮野にそういった。牝馬(ひんば)を割り当てられるのは、たしかにあまりいい(くじ)ではなかったのだ。時花は()せの目立った馬だったが、毛並みは、宮野が丹精をこめて、いつも艶やかな光沢を帯びていた。

 (うまや)や兵舎が一応駐屯地らしい体裁を整えて来、臨汾から菓子屋や写真師や四、五人の慰安婦が住みつく頃になると、季節はもう春になっていた。四月。私たちはここへ来て初めての、作戦の準備に多忙を極めた。この秋からの警備交代の隙を狙って、陣地と兵力の補強に狂奔してきた敵を追って、太行山脈を横断し、黄河の線にまで敵を追い落とす予定の、晋南(しんなん)作戦が企画されていたからである。きびしい死生観の間に立ちながらも、私たちは山岳戦というものについて、そのときはまだ、少なくともそれが未知な世界に属するということへの或る漠とした期待につながるものをもってはいたのである。それがどのような辛酸であったとしても、変化でさえあればそれをもとめようとする、己れの風化に対する理由もない憤りに似たものを感ぜざるを得なかったのだ。

 けれどもこの作戦の、約月余に亘る山中行旅の間に、私たちは期せずして、内地勤務の部隊にいては五年の日子(にっす)()けても(けみ)しえないような、苦役にみちた精神の遍歴を終えねばならなかったのである。私はかつて東聯や沼好を愛した。それはしかしまだ心のどこかに、馬を(いた)わるというゆとりをもった愛であったことは確かだった。だが部隊が晋南作戦に入って以来、日毎に山を極めて進軍して行く間、私は郁種に対し、東聯にも沼好にもかんじなかった、人と馬との切実な密着度の深まるのを、意識しなければならなかったのである。

 作戦がはじまり、臨汾平野を尽きて太行山脈に踏み入ってからは、山のほかはなにもない。あたかも(いらか)を積み重ねたかに見える、壮麗にして、重畳(ちょうじょう)たる(みね)の列が、無辺際の空の果てを(かく)してみるかぎり打ち続いているのだ。三日五日歩いても山はなくならなかった。四周みな山の嶺ばかりになって、恐ろしく美しい落日だけが燃えたぎって沈んでゆくのだ。春の流雲が、置物のように動かずにいることがある。日中は山の熱気で真夏に近いほどの温度の昂騰(こうとう)をかんじ、夜はすさまじく冷えて、露営の天幕の上にびっしりと露を置いた。

 岩というよりも黄土の凝塊にすぎない山肌は、いたるところで陥没し風化し、ふたたび雪崩(なだ)れ込み陥没していて、夜は月光だけが青い階段となって、その奈落(ならく)の底を射していた。山に深く入るに従って、敵との遭遇率も多くなってくる訳だから、夜行軍をすることの方が多くなった。太古の静寂に押し包まれた山の道を、夜っぴて(ほこり)を噛む(ひづめ)の音だけがつづいている。月の光が、妙にかなしく懐かしくなってきたりする。山へ入って三日もすると、馬はもはや余分の精力を失ってきたのか、滅多に馬同士蹴りあうこともなくなってしまっていた。かれらは従順に隊伍(たいご)に従って月光の道を歩いている。うとうとと馬の上で眠っていても、決して落馬はしないものである。大きく揺れて、あやうく落ちかける直前に眼が覚めるのだが、すると、眠り入る前と(いささ)かも変わらぬ月光が、馬の背を照らし出している。そうして馬の耳が、歩調のはずみをつけて、ピクンピクン揺れているのだ。みていると、あわれで、単調で、あまりにもきりがなく、しまいに涙を誘ってきそうになってきたりする。日夜、歩いている限り、時計のセコンドのように、耳はピクンピクン動いているのだ。

 午前か午後に休養して、やはり夜行軍をつづけている。なぜだかまだ一度も敵に遭わなかった。銃声もきこえない。この深い山の中にも、ところどころ部落があり、部落が近くなると、青麦の芽の伸びた畑地が眼につき出した。馬を休ませると、馬は実に真剣な眼をして、その青麦を(あさ)っている。水の乏しい山地だから、馬はしょっ中渇いているに違いないのだ。たづなの許す限りの半円を、みるまに馬は食いつくしてしまう。青麦が、そんなにうまいものかと、一握りの芽をちぎって私も食べてみたりした。少し甘い気もしたが、じきそれは舌に馴染まなくなった。なぜとなく馬を(うらや)んでいる。そうして、青麦を食べつくし、ふと耳を立ててなにかを聴いている風に、しんと眼をみはっている馬を眺めながら、その眼に(そら)の紺青の溶けこんでいるのを、私はなにか得難いもののようにみつめたりしたのである。

 アカシアの花の咲いている部落がある。馬の上で花をみあげて通った。珍しい人にでも逢ったような懐かしさだった。一日、部落の影をみないこともある。が、とある嶺の角を曲がった途端に、思いがけなくもそこに(ひら)けている盆地の一隅に、まるで随唐の(おもかげ)をそのままに残してでもいるような、みごとな城壁に囲まれた部落をみつけることもあった。その部落のほとりを一すじの流れが、しかも一ヵ所飛沫をあげる滝となってつづいているのだ。しばらくは眼に信じ難く見惚れている。ほっと心に叫びをあげるものがあり、人間というものが住みついている世界の深遠さに、いっそ宗教観に近いおどろきをさえ感じたりしたものであった。

 また満足には道もない崖のほとりを、ここでやられたら必ず潰滅(かいめつ)する、という不安に責められながら辿(たど)っていることもあった。そんな場処にも、春ともなれば、あるかなきかの枯草が芽を吹いていたりする。それを無理な姿勢で、懸命に馬は食おうとするのだが、すると黄土の道は、馬の偏る体重を支えかね、(もろ)く崩れて馬を後肢(あとあし)から崖に顛落(てんらく)させてしまったりする。前肢から落ちるなら先ず膝を折るようなこともない馬が、尻から転げ落ちると、案外なだらしなさで腰を抜かしてしまい、崖の底に()いつくばったまま、前肢を足掻(あが)いて起きようと努めながら、むなしく土ばかりを掘っている。そうして少し経つと、ふとなにかを発見したような静かさにかえって、ぺたんと首を土の上に寝かせてしまい、眼だけを(うった)えるかに見開いて、空や、雲や、自分をみまもっている兵隊たちを(みつ)めている。たったこんなことで、もうこの一頭を救う方途は尽きているのだった。獣医が注射で馬を殺すために、憐れみをこめた劬わりでその首すじを撫でてやる。殺されることを予感しているとも、していないともつかぬ馬の澄んだ眼が、首すじに注射の針を突き刺されても尚、無心な明るさでぐるりを眺めている。そうして嘘のように瞬時に動かなくなる。兵隊が四、五人下馬してその場に穴を掘り、(くら)を外して馬を埋めるのだ。墓標もない土饅頭(どまんじゅう)一つを残して間もなく部隊は前進する。馬を失った奴は手近な部落まで歩き、そこで驢馬(ろば)か支那馬を徴発することになるが、いまに敵と遭遇しさえすれば乗り手のない馬が余ってくるだろう。

 そんな日毎の繰り返しのうちに、馬と人は次第に一体にならざるを得なかった。耳は本能的に己れの馬の蹄の音だけを聴いている。鉄の釘一本ゆるんでも、きき分ける耳になって行くのだ。弱い馬は一寸無理をすると、(けん)()らして跛行(はこう)した。一日、二日持ち主は馬を()いて歩いて行軍した。夜は寝もせず馬の脚をこすりまた冷やしてやった。不眠と疲労に朦朧(もうろう)となった眼が、ぐるりの重畳たる山貌だけを(ぼう)とかんじながら歩いている。鞍の重みだけを乗せた馬は、やっとたてがみにつかまっている兵隊を引き()るようにして歩いた。――それでもまだ敵にめぐり逢いそうもなかったのだ。

 山の(かお)は、みな同じようでいて、時々刻々に変幻している。ときには、この山にして? と信じ難い清冽(せいれつ)なながれにめぐりあうこともある。地図でみれば沁河(しんが)の支流であるが、現実の眼でみれば、それはやはり一個の奇蹟に思えるのだ。ながれのほとりに露営をする。浅瀬を(およ)ぎ廻っているお玉杓子(たまじゃくし)がいる。半ばは人間を離脱しかけてしまっている心に、それは幼い郷愁を()び起こしてくれるのだった。飯盒(はんごう)(ふた)でお玉杓子を(すく)って喜んでいる奴もいるのである。

「このまま敵と遭わずに作戦の終わるということがあるでしょうか」

 その河のほとりで、宮野が私の側へきて話しかけてきた。兵隊たちはいろんな意味でみんな不機嫌になっていて、自分の馬とだけしか口を利かぬことが多くなっている。たまにこのように水の流れをみると、そこでかれらはみな人間の言葉を想い出し、時には陽気に歌ったりもするのである。寂しいけれど朴訥(ぼくとつ)でいい、と私はそんな都度に、荒れながら純化して行く人間の資性を考えてみた。私も亦その例に()れない。或いは私こそもっとも荒れつつ純化しているのかもしれないのだ――と。 

 宮野は私より若いだけに、そうして優しい姉を身近にもっているだけに、たぶん(たた)えられているものは私よりも豊かであるに違いない。そこになにか救いに似たものを感じ、討伐に出てからすっかり陽に焼けている彼の、いくらかは鍛えられた容貌を私はみつめている。「あの子を意気地がないとお思いでしょう?」といった、彼の姉の唇元(くちもと)を私は想い出すのだ。

「部隊によっては、ほとんど敵と遭わずに済むこともあるそうだ。その代わり遭い出すと、初めから(しま)いまで戦闘ばかりする。運だよ」

「われわれは今度は運のいい方らしいですね」

 と、彼は一寸眼をかがやかした。まァそうだ、と私は笑っていった。宮野が明るい顔をしていたのは、こんな風にして終わってくれる作戦なら、何とかなってゆくだろう、とその安心からであったろう。私自身、そのときはまだ心の底で、彼と同じことを想っていたともいえるのだ。

 翌日河のほとりを発ったが、夕方近く部隊は、別なコースを辿(たど)ってきた友軍の歩兵部隊とめぐりあった。彼らは霍県(くわくけん)から出発してきているのだといったが、直接自分の足でこの山岳地帯を歩いている為か、騎馬の部隊よりも遥かに肉体的にこたえているのだろう。二里程先に赤壁(せきへき)という小部落があって、そこで宿営をするといっていたが、既に彼らの中には相当の落伍者(らくごしゃ)がいて、道に()いつくばったまま身動きもしないでいるのを幾人もみかけた。最後尾の一隊が収容して行くのだ.,それをみながら私は、微かに暗澹(あんたん)となるものをとどめかねた。騎馬の部隊は馬の参らぬ限り先ず落伍することはない。そうして私は、私がもし騎馬の部隊でなかったら、この体力ではもはや間違いなく土を噛んで落伍していたに違いない、と。原隊にいたころ、一番軽い馬糧の豆粕(まめかす)一俵さえ担げなかった自身をかえりみたのだ。すると私は、その私を乗せて、耳をピクンピクン動かしながら歩いて行く郁種の、この無言の支持に、なにやらん熱くせまってくるものを、改めてかんじたのであった。

 私たちもその夜、赤壁の近くに露営した。歩兵は馬を持たぬから、部落から部落へと宿営して歩くが、騎兵は不意の襲撃を嫌って必ず露営をする。時には天幕も張らずそのまま土に寝る。暁方、人と馬の寝姿の跡だけをのこして、夜露がびっしり降りているのだ。この赤壁の附近で、各々のコースをとってきた幾隊かが集結し、また別れて太行山脈を、河南との省境まで南下して進むらしかった。夜更け、われわれは、何処で撃っているのともしれぬ、殷々(いんいん)たる砲声をはじめてきいた、そうしていまこの晋南作戦が、決して安易な行軍だけに終始する筈もないという予感を、身にしみて味わったのである。夜明けまで、風向きによって遠く近く、除夜の鐘をでも聴いているような、或る感慨をもって砲声は耳にひびいていた。

 翌朝、出発準備を整えているときに、既に尾根を越えて進発して行く、歩兵部隊の列を認めることができた。山の肌をいたわるほどの早い陽の光の中で、隊伍のあちこちに散らばっている日の丸の旗が、黄色い地肌に映えて花のように咲いているのをみた。私たちは歩兵部隊とは別なコースで出発したが、まだ正午前である時間に、既に昨夜戦闘の行なわれたらしい地点を通過している。断崖の底に遺棄されている敵屍(てきし)と、その屍体にまつわっている防毒面のゴム管がみえたりした。機関銃の(おびただ)しい薬莢(やっきょう)が、馬の(ひづめ)に散ってさかんな音をたてた。山はしんと静もり、どこにも敵の影もなく、陽がくるめきながらのぼり、春にしてはきつい陽ざしが、乏しい枯草を()きはじめている。今日は敵に遭うだろう、となにか凛々(りり)しく(よみがえ)ってくるものがあった。傾斜の(けわ)しい上りには曳馬(ひきうま)をして歩いた。交戦をはじめると、恐らく無謀な馬の使い方をせねばならないからだ。

 行軍の間、馬を抱えているだけに、水には随分と難渋せねばならなかった。小半里もあるかと思われるほどの、傾斜の深い凹地ヘ下って、かつかつ湧き出ている清水を、水嚢(すいのう)に汲んできたりした。渇ききっている馬は、眼の色を変えて苛立(いらだ)って水を欲しがった、又凹地を下り、昇った。万遍ない繰り返しのようにだ。疲労も或る限度を越えると、疲労そのものに免疫になってくる。ようやく水を飲み()きると、馬はみなみち足りた潤んだ眼になって、兵隊の愛撫に甘えようとしてくる。なんの慾も計算もない悲しいほどの素朴そのものだ。水嚢を旅嚢に結びつけると、馬の首すじを叩いてやってからまた乗馬する。既に駐屯地を出て旬余の間、私たちは山と雲と乏しい雑草のほかはなにも見なかった。もしこの山脈に敵がいなかったとしたら、恐らく寂寞(せきばく)の情は倍加しただろうと思われる。ここでは敵もまた原始の荒蓼(こうりょう)を埋めるための、重要な意義をもっている。

 騎兵部隊は、一門の迫撃砲と、四挺(よんちょう)の重機と、小隊毎の軽機と擲弾筒(てきだんとう)のほかには、重火器と呼ぶものをもっていなかった。あとは、年中背に担って駈けるので、命中率の悪くなっている四一式の騎銃だけだ。たまに歩兵隊の()いている曲射砲をみても、それがなにか特別な威力をもっていそうな気がして、ふと魅力をかんじたりしたものである。

 山は何処まで行っても、重畳とした(みね)を限りなくみせて続いていた。その山の果てには、眼に鮮やかな碧藍(へきらん)をみせる海が(ひら)けているような、錯覚をいつでも感じた。或いはその錯覚に引き()られて、一つずつの嶺を越えて行くことに、何かの期待を持ち得たのかもしれなかった。そんななかで、人間としての自分が、茫々(ぼうぼう)と風化して行くのだけが分かった。皮膚は既に山の地肌と同じ色になり、精神の内部に乾いた赭土(あかつち)ばかりの暗渠(あんきょ)をかんじる。そこから逆に風の吹き上げてくる壮烈な悲愁もあったが、それにも馴れてくると、風化してゆくこと自体にふしぎな愉悦が湧きはじめた。(すべ)てが風化しきったあとに、いったい何が残るだろうか?という期待に似たものである。小休止の時間に、何も考えることがないから、郁種のたてがみを撫でながら、私はそのことだけを考えた。郁種はまことに無器量な、むしろ道化てさえ見える滑稽(こっけい)な顔をしているくせに、それでもそのたてがみのもつ手ざわりのなかには、やはり人間の、異性の髪をいじってでもいるような、いいがたく豊醇(ほうじゅん)な感触があった。眼をとじてそこに額を埋めていれば尚更だった。馬の首すじを撫でてやると、汗や(ほこり)のよごれが落ちて、じきに、たてがみも毛並みも、そのところだけ艶を帯びて輝き出した。馬はくるりくるりと風を聴きでもするようにその耳を聴音機のように、うごめかしたまま、()むものもない所在なさを諦めきっている。その眼はしかし駐屯地にいたころよりも、遥かに美しく澄んできているようにみえた。その眼のほかには、この山の中で、何一つ直視し得る美を私は持たなかったからである。なにを考えているのだろう、こいつは? またしても、それはふと或る解決の可能へ傾斜してゆくように、いまにもその言葉をさぐりあてることができそうに私には思われた。風化して行くことは純化して行くことだ、ということがまたもや信じられた。私は私のなかに育っている、やがて馬になって行ける私自身の方向を、見出し得る気もしたのである。そのときにこそ私は、この無言の環境から、非常に(にぎ)やかな風の音楽を聴くことができると、真剣に思い込んだりもした。

 戦闘の度に私は、山肌を()いのぼりながら、いつも宮野との距離を意識した。極度に緊張している彼をしばしば見た。流弾が頭の上を過ぎて行くのを待機しているあいだ「いつかやられるんじゃないかな」と自分のことでもありまた、宮野のことを考えているようでもあり、それはつねに敏子の幻影を伴って私を襲ってきた。

 とある日の夕刻、陽城県に達した。落日の遍照を浴びていた故か、この盆地の都邑(とゆう)が、あたかも(いにしえ)殷賑(いんしん)のままに、丹塗(にぬり)の門をくぐる車馬の絡繹(らくえき)髣髴(ほうふつ)させるかにみえた。このあたりまでくると、すでに山脈をかなり南下していて、山には灌木林(かんぼくりん)がみえはじめている。陽城から南へ続く山脈の肌は、その灌木に彩られて、人の眼に新たな旅情を(うった)えてきた。けれども県城には猫の仔一匹いず、大戸を下ろした店舖のつづく石畳を、(ひづめ)の音だけが騒がしく鳴りひびいた。夜になって、別方向から、歩兵隊と山砲隊が到着した。ここが太行山脈の深奥部の敵の重要な拠点であり、ここから南、多分河南との省境に近い山岳地帯に於いて、この作戦のけじめをつける決戦が行なわれるに違いない、と、その日の夜に、部隊長からの訓示があったのである。

 

 ――たしかに部隊長の言葉通り、ここ三旬に亘る山中行旅の間、一度も経験しなかった激しい敵の抵抗を、まもなく我々は身に受けることになったのであった。

 敵の前衛部隊に遮られただけで既に進みかね、凹地に待機している間も、榴弾(りゅうだん)(そら)を割いてしきりに渡ってきた。こちらは山砲で応射している。敵の陣地のある山岳が、(もう)と一瞬ずつの土煙を噴き上げているのだが、敵の火力は一向に衰えを見せなかった。この作戦に従軍してきた四十一師団の主力と八十三師、八十五師を主力とする敵の大部隊とが、ここに対峙(たいじ)している訳であった。戦線が動かず、昼夜とも後方の部落で炊爨(すいさん)して運搬し、夜っぴてじり押しに押し進んで、暁方、ともかく敵の主陣地に山一つ隔てた地点にまで接近している。彼我の砲撃は夜の明けると共に益々激しくなっていった。

 日中、固着した戦線の動かぬままに、私たちは灌木の蔭に寝たまま夜を迎えねばならなかった。砲声は断続しては山を揺すっていたが、耳に馴れるとそれはもう唯の物音でしかなくなっている。宮野は、一団となって散開している分隊の中にまじっていたが、私は彼を、ほんとうは纏馬(てんま)の位置に残して置きたかったのだ。私が分隊長だったら、多分そうしただろうと考えた。単に敵と対峙して夜を待つばかりの時間つぶしに、宮野は私の側へ移動してきて、並んで話したりした。が木の枝で灌木の根を、どういう訳か熱心に掘りつづける動作をしながら、あまり彼は口を利こうとしなかった。昂奮(こうふん)しきったための、ある放心の状態に在ることは読みとれた。ああっ、という風に溜息(ためいき)をして手をとめ、ふと(すが)る眼になって私をみたりしているのだが、じりじり陽のあまねく照りつける山脈の蘊氣(うんき)にとりまかれていて、一寸先の計り難い運命の帰趨(きすう)を前にしていると、私自身もどうやら頭の(しん)(しび)れてくる感じだった。殊更に互いの助けになる言葉も湧いてこない。側にいればそれで安心できる、といった心の通じあうものだけが深まった。 

 私は手帳をひろげて断片的な感想を書いたりしていた。散漫になっている情操は、しかし、なかなか文字に集約し難くなっていた。両手を前にのべて、鉄兜(てつかぶと)ごとぐったりそれにもたれこむ風情で、

「なにを書いてますか。日記ですか」

 と宮野が()いてきた。答えず、笑い返した。この戦闘でもすんだら、また露営のひまに読みきかせてやることもあるだろう。

 私が彼の姉敏子に頼まれたこと、そしてまた原隊の庭の桐の花の下で、こいつの為に代わって死ぬかもしれぬ、と思ったことなどを、ひどく鮮やかに私は想い出した。この峰を越えると深い谷になる筈だった。そこから敵の陣地へ、一気の急峻(きゅうしゅん)となって、灌木の密生した山肌が駈けのぼっているのだ。今夜すべては決まる、と思った。それを案外に暢気(のんき)な心で支えきれた。

 昼間のうち、歩兵部隊が何度か攻撃を反覆したらしいが、全くの徒労に帰していた。びしん、と手応えをかんじる敵の強さが、山の地肌からも伝わってくる気がした。薄暮に総攻撃するつもりが、逆に敵の大砲撃に出遭って、そのまま夜に持ち越した。暗くなって、じりじり峰を越え、谷へ降って、直接敵の陣地とつづいている山肌にとりついた。身を遮蔽(しゃへい)するものは実に、山肌の自然の凹凸と、灌木の枝と葉の繁みのほかはなにもなかった。それから幸いに闇があった。その闇を貫いて、間断なく機銃の曳光弾(えいこうだん)(ふもと)(あら)ってきたが、静かに待機して一発も撃たなかった。

 とりついている山は、これまでになく(けわ)しく高く、さすがに敵がここを決戦の地と選んだ理由ものみこめた。潅木の葉越しの遠い天に、星がまたたいている。(うごめ)くようにして少しずつ、地の利をさぐりながら山を匍いのぼった。曳光弾が身近に灌木の葉並みを刺してくるときもあったが、身をひそめて動かないでいた。未明に総攻撃、遮二無二山頂を奪取せよという命令が出ていたのである。攻めてみれば思ったより楽に()れる、という想いがなぜだかあった。山を中腹ごろまで登りつめたころから雨になった。それが幸か不幸かは判断できかねたが、雨の飛沫に濡れはじめた灌木の背が、闇の中だのに鈍く光ってみえた。眼がすっかり闇に馴れているのだ。

 一刻の驟雨(しゅうう)かと思った雨が、じきに(すさ)まじい豪雨の気配を帯びてきた。雨に溶けた黄土は、潅木がなかったら、ずるずる(すべ)って到底攻撃も出来かねただろう。短い時間しか経たぬようだったが、友軍の砲撃がはじまり、攻撃に移ったことが分かった。攻め寄せて行く殺気の波は敵にも通じるのだろう、猛烈な掃射が、万遍なく山肌を濯いはじめてくる。

「前進」

 雨をくぐって逓伝(ていでん)がとどいてきた。灌木の根につかまり、ぬかるんですべりかける足を踏みしめ、昇りつめて行くのに意外に難渋をした。手榴弾の効く地点までは、応射せずに昇りつめるよりほかはないのだ。雨は益々ひどく軍衣を通して肌を濡らしはじめる。咽喉(のど)に流れ込む雨滴の甘さが微かに分かった。自分では一番先を進んでいる危険を感じながら、その実意外に遅れていて、既に軽機の援護もはじまってい、彼我(ひが)入りまじった手榴弾の炸裂音(さくれつおん)にとりかこまれた。それに()き立てられてのぼるとき、遠くとも、直ぐ近くとも分からず、叫喚をあげて、白兵戦に移っている気配がききとれてきた。刹那(せつな)に、がくんと足をとめる恐怖が、脳裡(のうり)()いて(ひらめ)いて過ぎたが、あとは熱鬧(ねっとう)する混乱だけになった。豪雨に降りこめられながらも、山頂に迫っているのが分かり、敵の銃撃がビンビンと耳を割いた。激しく(うめ)いて凹所にのめり込む物音を幾度かきき、全く意識の浮き上がっている状態が、投げ上げた手榴弾の弾着を確かめる余裕もなく、とにかく一気にこの不安な、中途半端な傾斜の姿勢をのがれて、山を攻めのぼろうとする無謀な殺気に()()かれてきた。

 宮野はこのときの戦闘で死んでいる。いつ死んだのかも分からない。どこで誰がみつけて収容したものか、しばらくあとになって(ふもと)へ下りると集められた死体のなかに、宮野を、かなり苦労して発見せねばならなかった。人員点呼のときに既に不在は確認していたが、戦死か負傷かという危惧(きぐ)の振幅を、どうしようもない小安で私は追いつめてばかりいたのだ。その、眼を()いたまま転がされている死体の(かたわ)らで、私は一刻、なぜだか非常な冷静さで、「弱ったなあ」といった溜息(ためいき)の湧くのをかんじた。ほかにはなんの感慨もなかった。感覚の一切が(しび)れてい、悲劇を認識することさえできなかったのだ。たしかに、山上にいた間も、生き残った連中は、疲労につづく放心と、(おびただ)しい不機嫌とで、のろくさとした動作で動きまわるほか、口を利こうともしていなかったのである。あとでまた山上へ帰ったときも、ごろんと寝転んで休憩している兵隊ばかりで、そのときになってやっと一機、友軍機が、からりと晴れている(そら)()け下りて来、しばらく部隊の上を旋回したりした。けれども誰一人それに連絡しようとする者もなく、黙って眺めているきりだった。斜めに急降下して来た奴が、いきなり機銃掃射の催促を山肌にぶち込み、それでやっと面倒気に起って、対空連絡を開始したほどだった。

 むしろ宮野の死を直接に感じ、(ほの)かなかなしみが身にまといだしたのは、彼がこの戦旅の間乗りつづけてきた時花をみたときである。主人を失わなかった郁種は、私が纏馬(てんま)の集結地に帰ったとき、しばらく逢わなかった懐かしさで(くび)を叩いてやると、それに応えて鼻をすりつけて来、激しく前掻きをした。敵の砲撃もかなりひどかったから、やられた馬も幾らかいたが、この、やや剽軽(ひょうきん)な顔付きをした馬は、どうやら不敵な耐久力に恵まれているらしい。随分()せては来ていたが、強健な四肢は、たとえ手入れもせずほっぽって置いても意気地なく跛行(はこう)するようなことはないだろう。こいつは大した奴だ。また、俺だってそう簡単にやられはしない――「なあ?」と呼びかけて、きき分けているかどうか、その眼をみてたしかめた。かれは納得したらしく首を上下に振った。ひょっとすると実際に通じたのかもしれない。

 戦死した者の馬は、隊伍(たいご)の中に併馬して歩いた。作戦命令は既に終わり、残敵を掃蕩(そうとう)しながら帰路を辿(たど)ることになっていた。(あるじ)を失った馬たちは、主のいないままに温順(おとな)しく隊伍のなかにまじっている。生き残った者たちの眼は、その馬の空虚な背の上に、しばしばかつて在った形を幻覚した。なぜなら馬は、その背に乗せていた主とあまりに密着しすぎてい、実体を谷間で焼却した位では、なかなか離れきるものではなかったのだ。時花は榴弾(りゅうだん)の破片創を背に受けていた。((くら)前檣(ぜんしょう)を破壊して骨に近く喰い込んだ盲貫である)

 黙々と隊伍のなかに、揺れ上がる鹿毛(かげ)の背がみえていた。私はいやでもその背を眺めながら進まねばならなかった。時花は部隊が停止すると、そのときにふとかつて背に在った量感を恋うもののように、心もとなく首を激しく上下して、手綱の支えに感じるあの抵抗度をたしかめようとするらしかった。隊伍のとまる度に、あきもせずそれを繰り返し、しばらく経ったあとは、なにか不審気な面持ちで、耳をピンと立てたまま全く身動きもせずにいることがあった。

 そんなときの時花の眼は、透明に空の淡紺青を映しながら、なおその底に一そう透明に仕舞われているものを、たぶん、認め得ていたにちがいない。馬の愚かにもあわれな習性が、首を上げ下げしては、すでにその背に(かえ)ってくることのない馴染んだ量感に(うった)えようとしていることが、はじめて切なく私の胸をうってきたのである。しばらく行って私が時花を併馬してやった。郁種よりも遥かにひどい痩せ方だが、その背に在るべき量感のないことが、かれの行旅の疲れを多少は(いたわ)ってくれもするだろう。仮繃帯(かりほうたい)をした背に申し訳のように鞍を置いて行く駐屯地までの行程の間に、時花はなにかを悟ることがあるだろうか、と、或る聡明(そうめい)な美しさを、私は時花の姿態のなかにみとめた。

 

 第三章

 駐屯地に帰ってからの、時花に対する私の切実な(いた)わりは、或いは宮野やその姉に対する私の慚愧(ざんき)乃至(ないし)愛情の変形ででもあるらしかった。帰ってみると駐屯地は、しばらく見ない間にすっかり新緑に囲まれていた。それほど樹木のある訳ではないが、一樹に鬱蒼(うっそう)と繁り合っている新緑の生気は、討匪(とうひ)の旅に疲れ痛んだ眼にはまぶしくきつ過ぎたのである。道沿いの、その樹々の新緑の下をくぐりながら、毎日私は時花を()いて傷の治療に獣医室に通ったのだ。時花はこちらへ来てから懐妊馬ではないかという注意を与えられてはいたが、作戦からのちの診断でそれが確認されている。やがて、この馬は分娩(ぶんべん)する筈なのだ。従って部隊長までが、この馬の保護については留意を促したし、いつのまにか私が事実上の毛附主(けつけぬし)になってしまっているのを、誰もあやしみもしなかった。宮野宛と同時に、私宛にも敏子から慰問袋が来ていたし、そのお裾分けにあずかったことを、仲間の兵隊たちはよく理解していたからであろう。それにまた時花の、治療の際のややヒステリックな、鼻をねじられたまましかも治療をいやがって、獣医室の庭を駆け廻ろうとする暴れ方には、随分と誰もが手を焼いていたからでもある。馬の傷は予期以上に悪化していて、仔馬を分娩する迄は何とか生かし続けようと、努力を要する程であったのだ。北辺の荒れた風土は、どのような些細(ささい)な傷でも、必ず一度は化膿(かのう)しない限り(なお)らない。黄塵(こうじん)の底を、満足な手当もせず経廻(へめぐ)ってくる間に、もともと体力の弱い時花の背部は、骨が露出してみえるほども赤剥けてただれまともにみられたものではなくなっていたのだ。患部にあてた布を()ぎとると、その傷口に、たちまち無数の(はえ)が寄りたかってきた。それらは傷にへばりついたが最後、手で追った位ではびくともしなかった。背の筋肉をブルブルふるわせたまま、諦めた風に治療にかかる前の時間を、堪えている時花をみると切なかった。鼻ねじの道具をねじあげて治療をして貰う間、手当をすることもしないことも、ともにこの馬にとっては苦痛でしかないことが痛ましかったのである。

 宮野の死については、既に軍から公報が出されている筈であった。彼の遺留品の梱包(こんぽう)を終わってから幾日か過ぎたが、敏子に対して、どのような手紙を与えるべきかに、私はまだ決心がつかなかったのだ。感情に(おぼ)れて余分なことを書くことが分かっていたし、それを書かぬ限り同情も誠意も届き得ない気がしたからである。それでも少しずつ書き溜めた長い手紙を、私は彼女宛に送ってやった。すでに季節は夏に入っていて、兵力の減少した駐屯任務の激しさと、それに加わる風土病との為に、部隊は戦闘さえ不可能になるかと思われるほどの病人が続出していた。腸チフスとパラチフスの猖獗(しょうけつ)だった。作戦に出るとき入ってきた補充兵たちは、(たちま)ちのうちに大半は参って、臨汾の野戦病院に送られている始末だったのである。

 丈夫で働いているといっても、日に二、三十度の下痢をしている位は常識になっていた。体力の損耗は、水嚢(すいのう)一杯の水をさえ運びかねた。いつでも雲の上を歩くように、ふらりふらりと歩いている。身体に重心がつかないのだ。それでも連日か二日に一度立哨勤務(りっしょうきんむ)が廻って来、土壁のない部落の望楼の上で、星だけを眺めて過ごした。星だけは夜毎に恐ろしく美しさを増してきている。暗い天を揺らめかして、冴えまさりきらめく星の中に、私はこうしてほろんで行く私の若年を想うた。単にあるとしもない幻影にとりかこまれて、事実はむなしい孤独のままに衰えてゆく若年を。しきりにせきあげてくる焦燥(しょうそう)で、銃剣で煉瓦(れんが)の壁を一晩つついていたこともあるのだった。疲労と困憊(こんぱい)の度が重なってゆくにつれて、大半が健在のまま残っている馬の面倒をみきることが、次第に抵抗し難い重荷になっていった。馬の補充だけは頻繁で、はじめは懐妊馬さえ作戦に連れていったのに、月に一度必ず補充馬の引き取りがあった。一個小隊でどうやら動いている兵隊は十数名という状態のなかで、馬だけはまさに五十頭にも達しようとしていたのだ。じりじり()きつく陽の底で渇いている馬は、兵隊がやっと持ち上げる手桶(ておけ)の水を、一頭で一杯は遮二無二飲もうとした。一頭に一杯(ずつ)与えるには、こちらの体力が続かなかった。頃合いをみてその横面を殴ると、馬はびっくりして眼をみはり、再び口をつけようかどうしようかと途惑(とまど)いながら兵隊の眼をみつめている。私もまた疲れに錯乱していて、ときには郁種をさえ殴ったことがある。信じられない、とでもいった風に、(おび)えた眼をみせてから郁種は、あとはどうすすめても飲もうとしなかった。一まわり終わってから新しい水を一ぱいにして持って行き、()びる動作でしばらくいたわってから飲ませた。警戒して耳をうしろに寝かせていたのを、水を飲み進むに従って立ててくる。飲み終わると口をぱくぱくやって満足した眼になっている。再びはすまい、と、随分荒れてきている自身の心をいたみながら、残った水は隣の馬に与えた。結局すべての馬に充分水を与えてからやっと安心するのである。

 もしこれで秋という季節が訪れて来ないのだとしたら、このまま消耗しきって死んでしまうかもしれぬ、と、私は真剣に考えたりした。勤務のない夜はぐったりして、新鮮な想いをこめて書こうとする手紙さえ、筆は渋って動かなかった。胸に積みたまって層をでもなしているような黄土をかんじる。はじめてこの北辺が、人間に与える試練の()について、思い知らされる気がしたのである。

 傷は一進一退のまま日を重ねている時花を、毎朝()き出すときになると、私は宮野を、そうして不備で不親切な手紙しかやれなかった、敏子からの返事を想った。早くて一ヵ月経たねば返事は来ないのであった。樹々の繁みの底を、私はうしろについてくる時花のことも忘れて考え(ふけ)っていることもあったが、獣医室の前まで来て振り向くと、身に苛酷(かこく)な治療をされる場処であるのに、時花は涼しい眼をして従順に私のあとに従っている。そこからは手綱をとって曳き入れた。すると、手綱をとったときから時花の本能的な逡巡(しゅんじゅん)がはじまる。前肢(まえあし)を突っ張り、首を上へ高くあげ、眼をむいていやがるのだ。それをなだめすかすのに、ずいぶんと骨が折れた。獣医官は治療と同時に腹部の診断もやって、生むまではよく面倒をみてやってくれ、と自分のことのように私に頼んだりした。

「馬の心には濁りがない。人間より数等進化しておるよ」

 と、なにかのとき、この獣医官は私に笑いながらいったことがある。私にはそれでこの人の人となりも、馬への愛情の在り方も理解でき、いつの間にか階級の隔てを忘れてしまうほど、この獣医官に馴染んでしまったのである。

 朝晩の冷気が、しっとりと肌にしむ夏のおわりに、敏子から掌に厚ぼったくかんじるほどの手紙が届いてきた。私はそれをひとり土壁の蔭の草叢(くさむら)に腰を下ろして読んだ。ひとが肉親の死を悼むありふれた悲しみの文字も、私にはことさらに新しい感動で読みとれた。宮野がもう少し生きていてくれたらと思った。生きていてくれたにせよ、いまは人妻でしかない敏子に、私のなにが届きうるというのだろうか。しかし、そのことを当てもなく考えてみるだけでよかったのだ。

 案じられた時花は、無事に仔を生んでいる。名は人間に似て「時松」とつけた。獣医官の案である。時花は実にやさしいしぐさで万遍なく仔馬をなめ廻し、仔馬は起き上がろうとして、周囲の視線にかこまれながら懸命にあがいていた。親に似てひどく()せていたが、さすがに新しく世に出たいのちの溌剌(はつらつ)をかんじさせた。仔馬はじきに起き上がって母馬の乳ばかりを慕った。それを慈しみぶかい眼でみまもっている時花の、傷を(おお)うた布の上に、未だに執念(しゅうね)く生き残っている(はえ)の群れが、やはりべっとりと吸いついているのだった。

 仔馬の生まれた直後に沁源作戦がはじまった。これは予期に反して負傷者も殆んどなく、その代わりひどく嶮岨(けんそ)山径(やまみち)ばかりを、馬を曳いて歩き廻ってきた。三週間経って駐屯地に帰ってみると、時松はもう(うまや)の中を駆け廻っていた。くるりとした眼をして、兵隊の手を軽く噛んでふざけた。しかし尋常でない痩せ方は、人間でいえば腺病質(せんびょうしつ)を想わせ、

「こいつは育たんかもしれんなあ」

 と、みにきた獣医官もいったが、その獣医官の軍服の裾を、それが自分の出誕を介い添えしてくれた人と知る風に、仔馬はしきりにじゃれついていた。

 終 章

 仔馬時松は生後三ヵ月で死んだが、そのときも私は一人この世の事象について、みち足りた索漠をかんじている。この妙な言い廻しを私は少しも意にとめてはいない。私はそのころから、不慮に惹起(じゃっき)されてくる、人が不幸と呼ぶものに対して、却ってなにかの親密を抱きはじめていたようだった。不幸だけが明らかに、ここにこのような歳月の存在したということを、胸に刻みつけてくれるのだ。日が経てば経つほどに、それはいいがたい愛着を衝動させてくれる。もはや生きている限りその傷を癒着させ得ないという、甘美な憂愁が漂うのをみる。

 時松の死の前後のことについて、手短に記しておこう。望楼にのぼってみると、汾河の水が、つめたく白く冴え、すべてが一望凋落(ちょうらく)の冬に入ろうとしている、その日頃のとある夜更けに、私は兵室に眠っていたが、ふと、戸外に馬の跫音(あしおと)をきいたのである。中庭を囲んでいくつかの室房がある中国の建物を、そのまま兵室に改造して四、五人宛が分宿しているのであるが、中庭の一部は厩がはみ出してきていて、そこに時花と時松の馬房が、特別に(こしら)えてあった。時松は大分前から消化不良を起こしていて、いかなる配慮にもかかわらず、奇妙な痩衰(そうすい)のしかたを続け、日毎にいのちのあやうくなっているらしいさまが読みとれたのである、私が中庭を歩む馬の(ひづめ)の音にすぐさま目覚めたのも、時松に対する不断の気がかりがあったからだった。それに母馬自身が、私を起こすために、馬房をぬけ出して、兵室の戸を叩きにきてくれたからである。

 はじめ私が耳を澄ましていると、時花がせわしなく中庭をめぐっている跫音がきこえ、つづいてそのあとに、どうやら仔馬のらしい小さな跫音がきこえてくる。ちょっとの間、立ちどまってみたり、急に歩き出したりしていた。厩番の不注意で放馬させてしまっているのだろう、と、この夜更けの散歩を想像して少し微笑も湧いたが、そのときふと戸口の前で跫音がとまり、鼻を戸にすりつける(たしかになにかの異変を直感させる気配の)物音がして、そのあと妙に切なげな時花のいななきが耳に(うった)えてきた。それからまた中庭をせわしなく廻り出す。小さな跫音がそれにつづく。ひとまわりするとまた戸口に鼻をすりつけてゴトゴトゆすぶり、低く呼ぶようにいなないて、また歩き出す。二度目のときには私は身支度を整えはじめていた。戸を開けて、どっと(あふ)れ込むような冴えた月あかりに、多少のまぶしさをさえかんじながら中庭をみると、きょとんとした様子で、その中庭のまん中で時花がこちらをみている。そうしてその足元に、四肢を投げ出して寝転んでいる仔馬の姿がみえた。近づいてみると、冴えわたる月明の底で、異様にふくれ上がった腹をもてあます風に横たわっている時松の眼が、人間の子とあまりにも純一に似通ったあどけない哀願の色を帯びて、母馬とも私とも、それともぐるりに降り(そそ)ぐ月の光をともしれぬ虚空に眼をやったまま、どうやら呼吸の切迫しているらしい気配にみえたのだ。あぶない、と思い、肌に手を触れたが、毛並みの底になつかしく体温はある。私の起き出してきたのを、非常な喜びで表現したいかにみえる時花の、これもまたあまりに人間の母に似通った、そわそわと不安と希願を支えかねるかにみえる動作に、私は一時、これをどう処置すればよいかに迷わされた程であった。そのときになって、初年兵の厩番(うまやばん)が駆けてきた。叱るゆとりもなく、口早に獣医官を呼びに走らせ、私は仔馬を抱き上げて馬房の敷藁(しきわら)の上に運んだ。意外な軽さだった。こいつははもう駄目かもしれない、と、刻々に地を()って過ぎて行く月明の時間のなかで、私は私の身近に、言葉こそは交わさぬながら、うったえ、聴き、そしてまた(うなず)きあいもしている、人間や馬の世界を越えた互いの息づかいをかんじていた。

 慰めて、その鼻面を撫でてやったが、そうされるまでもなく、時花には、己れの仔の死期を自ずからさとりうる、生きものの本能があったのだろう。想いに(ふけ)る風に、月あかりを背に(たた)えたまま、耳をピンとたてて、私の脇に静かに()っている。それはいつだかこの馬が、あの太行山脈の奥で、かつて背にあった宮野の重量が、突然失われたことの意味をたしかめかねて、なにかのふしぎを解こうとでもする風にじっと遠い風をだけ聴いていていた、そのときの諦観(ていかん)とも放心ともつかぬ状態を想わせたのだ。

 仔馬は、私のみている直前で、四肢を突っ張るようにし、軽い痙攣(けいれん)がはじまりかけている。その頻度の加わって行くのが予感された。大きく(あえ)ぎはじめた腹が、とりかこんでくる月あかりを苦しげに押し返しながら、口から泡のようなものを吹きはじめてくる。獣医官の来るのが恐ろしく待ち遠しかった。やっと獣医官が駈けつけてきてくれた時にはもう、せい一ぱい四肢をあがききって、最後の慟哭(どうこく)を喘ぎ上げたまま、仔馬の瞳孔(どうこう)は散大してしまっていた。その刹那(せつな)、仔の死をどのような形でかさとり得たもののように、すでに動きをやめたその腹に鼻をつけて、ゆさぶるようにしたかと思うと、急に何かを思いついたふうに、時花はせわしなくそこらを歩きはじめている。その跫音(あしおと)といななきをききながら、冷酷にそしてまた的確に体温の冷えて行く無常な速度を、じっと私は、幼い毛並みにあてた掌の上にかんじとっていたのである。

 或る深いかなしみと、それにまじりあって故もなく豊かに奔騰している情感とを、私は心の奥にかんじている。私はなにも考えていなかった。もし考えていたとすれば、なぜすべてがこのようにほろびて行くか、という手さぐりの問題だけであったかもしれない。そしてそのほろび行くことへの哀悼のなかに、たしかに、その哀悼をすら己れの充実に置き換えてゆこうとする、(おびただ)しい飢餓からの希願もあったことは否めない。

 死絶えた仔馬の腹を、無意味に万遍なく撫でさすりながら、

「仔馬のくせに、考え深い眼つきをしていたよ、こいつは」

 月あかりが、寂しく笑う獣医官の片頬を照らしていた。しばらく黙ってむきあって仔馬のほとりにいた。厩番が時花を馬房に(つな)ぎ込んだ。与えられた乾草を、時花は無心に食いはじめている。死を(よみがえ)らせてくれるに違いない人間の可能に、無条件の信頼をでも置いているような、むしろ落ち着いた動作にみえ、彫り込んだほども浮き上がっている肋骨(ろっこつ)が、ことさらに痛ましくみえてならなかった。 

 ――その時花も、一ヵ月程経って、廃馬になっている。無意味な飼育を軍は許容しなかったのだろう。臨汾へ郵便物受領に行く一隊に連れられ、傷を(おお)うた汚れた布だけを背に負って、無心な静かさで、(ほこり)っぽい道を()かれてゆく時花を、私は部落の外れまで見送ってやった。馬糧を充分にあてがってやるほかには、なんのいたわりの方法もなかったことに、いい知れぬ悔いがのこった。その馬糧さえ無際限に与えてやれば、必ず死ぬまで食いつづけるこの手数のかかる生きものは、またそれ故に全く人間に(もた)れきって、戦旅の間は生命の終わるまでも働きつくそうとするのだろう。こんな素朴がいつこの世に(かも)されたのだろうか。荒れていて感じ易い胸に、ここにまた一つほろんでゆくものの意義を数えながら、土埃のなかに小さくみえなくなって行く時花を、(ようや)く遠のいて行く宮野の幻を、私は長い間みつめていたのであった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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伊藤 桂一

イトウ ケイイチ
いとう けいいち 小説家・詩人 1917年 三重県に生まれる。日本藝術院会員。小説「蛍の河」で直木賞受賞。

掲載作「雲と植物の世界」は、1952(昭和27)年に発表され作者初の芥川賞候補作に挙げられた。単行本『蛍の河』光人社刊に拠る。

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