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零秒前

 昭和十六年の末、ルソン島上陸軍が優勢な進撃をつづけつつあるとき、マニラを奪るべきかバターン半島を攻めるべきかについて論議が戦わされたが、大本営は、敵がバターン半島において抵抗を試みるとは考えず、マニラ攻略を作戦の主眼とした。このため、のちにバターン半島攻略戦において、敵の意外の反撃に苦しむことになった。

 バターン半島南部のサマット山、マリベレス山一帯の米比軍は、日本軍が予想したよりもはるかに強固な防衛線を築いていて、兵力も比島国防軍七個師、米軍五万を数えた。砲百門のほか豊富な集積弾薬、観測設備等により、不敗の態勢を持していた。しかもマニラ湾、半島西海岸の制海権は米軍が握っていたのである。

 バターン半島攻略戦に参加するため、サンフェルナンドから南下してきた第十六師団管下の歩兵第二十連隊は、モロン、モウバン付近の敵を撃破、昭和十七年一月二十五日にはマリベレス山麓に近いバガックに到り着いた。部隊は敵の防衛線を撹乱する意図のもとに、一個大隊を舟艇にて海路カイボボ岬に運び奇襲上陸を策した。しかし、同隊は上陸地点を誤認して米比軍有力部隊の布陣するキナウアン岬に上陸したため、その重囲に陥ちて苦戦、軍の増援作戦も効なく、(わず)かに傷者三十四名が救出され得たのみで遂に潰滅した。このことが、第一次バターン半島攻略戦を中止せざるを得ぬ重大因子となったのである。

 

 マリベレス山西麓を北上して、重囲からの脱出路を発見すべき目的のもとに、暗夜を利して出発した偵察隊は、いたずらに密林中を彷徨するにとどまった揚句、敏捷な比島兵の警戒線に接触して、矢板少尉を長とする九名は、遂に本隊に帰ることがなかった。もっとも一人だけ本隊に帰り得た? といい得るのは安間上等兵のみだが、これは正確には帰隊と呼べないだろう。彼は、ある意味で(と微妙な表現をするよりほか仕方のない形でしか)帰隊していなかったからである。

 山岳地と密林に馴れている比島兵は、剽悍機敏(ひょうかんきびん)な戦闘力をもって、飢餓と疲労に力尽きている偵察隊を追い廻した。隊長が戦死したあとは、各個に密林中に道を求めて本隊の位置へ達するよりほかはなかったが、安間はその途中、撃たれて深い断崖(がけ)へ落ち込んでいる。失神したまま長い時間を崖の底に過ごしたが、ふと意識が覚めてみると、ぐるりは驚くべき暗黒に満たされていた。まだ煙りがちな意識で彼は、昨夜本隊と別れたとき、暗夜ながら星あかりで、進路の識別だけはついていたことを思い出した。いまはそれよりもはるかに暗く、天地の間に何も見えないのだった。ただ、ごく遠くで、渓流の音がしていると思った。それは夜風の方向によるためか、かなり明瞭な水音となってきこえるかと思うと、そのまままた消えてしまう。彼は五体が「水を求める意志」だけに駆られているのをかんじ、崖の底を()いながら、ときどき地に耳をあてて水音の方向をたしかめながら進んだ。もちろん崖を落ちたときに銃も失っていたし、それに背筋の中心に身を起こすと失神するほどの痛みがあって、起ちあがることが全くできなかったのだ。

 しばらく崖底を匍いながら、彼は「あること」に気づいた。彼はいまぐるりの気配を「暗夜」だと感じたのだが、もしかすると「月明」ではないかとも思えたのだ。気温が冷え込んでいるから昼間ではない。しかしこのあまりに暗すぎるのは――と、そこまで考え及んだとき、全身の凍ってくるのをかんじた。彼はその場にとまったまま、実に久しいあいだ行く手の方向をみていた。それから地面に頬をつけ、腐葉土の匂いに埋もれながら、まるで地に語りかけるように静かに泣きはじめた。自身が失明しているのであることを、そのとき彼はようやくさとっていたのだ。

 

 まったくの絶望の中で、彼はわずかに二つの救いを見出し、長い哭泣(こっきゅう)のあと、ふたたび地を匍いはじめた。救いの一つは渓流であり、飢渇(きかつ)を満たすことによって力を得たかったのだ。もう一つは背部の負傷が銃創であるのか崖を墜落したときのものであるのか不明だが、それに原因しているかもしれぬ失明が、あるいは一時的なものであるかもしれぬ――という一縷の希望であった。いずれにしろ寸刻をも生きのびることによって、この絶望の窮地を脱さねばならない。彼はそうして、昼も夜もない暗黒のなかを、遠い水音だけを求めてけんめいに匍いつづけたのだ。

 水というものはかなり遠い地点にまでその匂いを運んでくるものだ、という熱帯の獣たちの持つような水への本能を安間が感じとったとき、水音は鮮烈なひびきをもって彼の耳を満たしていた。それからの行程ははかどった。彼は水の吸引力に魅せられて、一刻ののちには、もし眼が見えれば澄明な波と泡を立てているに違いない渓流の水を、頭から爪先まで浸るほどの想いで、十二分に飲みつくしたのだ。倖い水筒を身につけていて、彼は手さぐりで水を満たし、それから今度は、水音から遠のくことを考えた。つまり友軍の方向を探知せねばならなかったのだ。彼は、渓流は、マリベレス山を海へ向けて、ほぼ西流していると判断した。それならば渓流を遠のいて行くほど、本隊の地点に近づくわけだ。彼はただ生き得る一心にのみ燃え、あるいは永遠に終わることのないかもしれぬ匍匐(ほふく)を開始した。水音が別れを惜しむかに遠のき、やがておそろしく深い夜の気配が彼を包みはじめた。夜鳥の鋭い叫びだけが空を割いてきこえるほかは、身を噛む沈黙ばかりだ。銃声さえきこえない。なぜだろう? 本隊は全滅してしまったのだろうか?

 どれほど進んだろう――。彼は失明を意識したときから、五体の感覚が今までになく鋭敏になっているのを知っていた。心眼というものだろうか。彼は全身を聴覚にして、友軍の在るべき位置をさぐろうと、そのとき、しはらく身じろぎもしなかったが、すると、ふと近くで、明らかにこちらを(うかが)っている、得体もしれぬものからのすさまじい「敵意」をかんじたのである。彼はそこに、自身に狙いをさだめ隙を窺っている青く燃える眼を、それも密林の濃い闇の奥にいくつもみることができたのだ。全身を貫いて恐怖が(はし)った。

「サリガルだ!」

 と彼は思わず叫んだ。少数だが、土人がタガログ語でサリガルと呼んでいる(おおかみ)の一種が、この山系一帯に棲息していることを彼はきいていた。狼どもはこの攻防戦が、自身たちの貴重な餌を生むに違いないことを本能的にさとって、密林の彷徨(ほうこう)をはじめているのだろう。そしてかれらはいま、もうすぐ飢えをみたすに足る、一個のカイン(食物)を発見したのだ。安間はとっさに腰をさぐり、帯剣がそのままそこにあることを知ったとき喜びが胸に来た。この短い帯剣一本でさえ、必死に闘えば何とかなる。カサ、コソと樹木の枝を揺らせて、かれらのうごめくのがきこえた。襲ってくるとすればもうすぐだ。彼は帯剣の柄を握りしめ、伏したままそれを頭上にかざし、自身を急襲してくるに違いない、暗い風速に対峙した。眼のみえぬ安間にとっては、(サリガル)は一個の危険な風だったのだ。彼は悲痛な闘志に燃えながら、かれらの動静を必死にさぐった。どうせ襲われるなら、むしろ比島兵の方がよかったのだ。かれらなら人間らしく殺してくれるだろう。

 密林をくぐり、(ロンブ)を踏むサリガルの音はしばらくつづいた。実に長い長い、対峙だった。かれらははじめ、安間を死者とみたのかもしれなかったが、意外に強硬な抵抗の姿勢をみて、あきらめたのか、しばらくののちに囲みを解いて遠のいていったようだった。ぐるりはひっそりとなり、生きものの気配は嘘のように消えていた。(助かった)と安間は全身に気のゆるみを感じたが、しかしその彼をたちまち苛酷な寂寞(せきばく)がつつんだ。気力をととのえねばならない。進まねばならない。サリガルは気長に、この一個の重傷兵の力尽きるのを待つつもりで、あとについてくるかもしれないのだ。危地を脱しきらぬ限り安心はできない。友軍はどこだろう? 暗黒の方向へ、安間はまた地を匍って歩み出した。戦いはすべて終わってしまったように、どこにも砲声はきこえなかった。まるで死の世界のようだ。

 

 安間は輸送船で送られてくるとき、狭い船室の一隅で仲間たちの話すのを聞いていたことがあるが、かれらは、死んでしまえばそれまでだが、もし負傷するとすればどこをやられるのがいいか、ということを話し合っていた。四肢のうちどこかを失わねばならぬとしたら左手を失うのがいちばんいい、ということに結論が来て、「そのときは右手のよくきく女房を貰うことだな」という笑いでケリがついてしまったが、その話の途中、「めくらになるのだけは困るな」とだれかのいった言葉が、妙に安間の神経に残っていたようである。

 安間は、地を匍う万遍ないくり返しの動作のなかで、ふいと、その話が頭によみがえってくるのを覚えた。歩みをとめては、何度も眼をこすり、眼をしばたたいてはぐるりをみてみた。同じように暗澹として何もみえない。絶望するな、一時の衝撃なんだ、負傷がひどいのだ、ねばりぬいて本隊の位置に戻れば何とかなる、とそれだけを自分にいいきかせた。行程は、密林もあり、草地もあり、岩盤もあり、気味の悪い湿地もありしたが、すべてが闇であることにおいては変わりはなかった。ただふしぎなことだが、暗さのままに、きわめてかすかな明るみをかんじはじめてきていた。夜が明けはじめているのではないだろうか?

 そのときだった。彼がさきほど渓流の音を耳にしたように、それよりもまだはるかにかすかな物音のようなものにすぎなかったが、ふいと、人間の話し声らしいものがきこえたのだ。きこえる――というより感じとったのだ。死生のあいだを、最後の、とぎすまされた全神経を耳にして辿りつめていると、常人の及びがたい遠くの気配までよみとれるのだろうか。彼は首を、何かのけだもののように宙にさしのべ、あるかなきかの夜明けの風の中を漂ってくる、その物音のありかを方向を、さぐりたしかめようとしたのだ。

 それから彼は、かつて、水を求めて匍い進んだときよりも、さらに一そうの気力をこめて匍い進んだ。ひとすじに信じ祈った。この行く手に友軍が必ずいる、苦戦しつつもなお生き残っている仲間がいる、そこまでは、いかなることをしても辿りつかねばならない――と。

 生きることへの勇気が、泥のように疲れきっている安間の身内の底に湧いてきた。もう一息なのだ。彼の爪も指も泥と血みどろになっていたが、それでも必死の活力が彼を進ませた。盲目の感覚を頼りに匍い進むにつれて、夜が明けはじめたのだろう、どこかで名も知らぬ鳥の声がきこえはじめてくる。それは生命感の脈うつ爽やかな音色で、死の世界から匍いのぼりつつある安間のために歌っていてくれるようだ。微風が、樹々をゆらす気配もきこえる。陽がさしてきたのだろう、地面から立ちのぼる水蒸気の匂い、淡い霧がたちこめているのだろうか。眼にはみえないが、この見知らぬ異郷の山に、静かに新しい一日がはじまりかけているのだ。

 生きねばならない――と、さらに心の底に叫ぶものをきいたとき、ききおぼえのある言薬が、思いがけなく近くに彼を待っていたのだ。

「おれはシイタケみたいなものをさがしてたんだが、何にもなかったな」

「バカ。いま何月だと思ってる」

「しかし、何か食えるものはあるはずだ。それで拾ってきたんだが、これはどうだ? ドングリの実みたいだが」

「お前、食ったのか?」

「おれはまだだ。お前が食って無事だったらおれも食おうと思ってる」

「クソ。お前のために死ねるか。ジャンケンで負けた方が先に食うことにしよう」

 あれは木崎と中林の声だ、まだ元気に奴らは生きてる――安間は、五体がしびれるほどの喜びを抑えかね、身を乗り出し、叫んだ。自分では山をふるわせるほども叫んだつもりだったが、声はかすれて暗黒の底へ呑み込まれていったようだ。彼は叫びつづけた。

「おーい。助けてくれ。おれだ、安間だ。ここだ、ここにいる」

 ある、ふしぎに空虚な時間の底へ、きれぎれに彼の声は落ちていった。そしてふいに、彼は両脇から抱えあげられた。両脇から声が同時にきた。

「安間、安間、お前生きとったんか。おれたちだ、木崎だ、中林だ。元気を出せ。だれも帰ってこん、お前ひとりだぞ」

 二人の声がぶつかりあって安間の耳を圧した。安間は支えられたまま、顔を虚空に向けて、何もいわず泣きだした。すると、こみあげてくる涙の合間に、うっすらと霧の晴れるように、あたりが明るくなってきた。見える! 衝撃のための失明が、遂に元に戻って明るみをとり戻したのだ。彼は眼をしばたたいて涙にけぶる隙間から、樹を、樹の奥の空を、揺れる梢を、眼の前にひろがる一切をみた。全身を揺すぶる喜悦の情が最高潮に達したとき、安間はぐったりと、身内から力の抜けて行くのをかんじた。両脇を支えられている意識も失せ、ぐるりはまた暗くなり、そしてみるまに全くの暗黒になっていった。すべての物音もそれきり絶えた……。

 

 山麓へ向けて捜索行動をつづけていた米比軍の一隊は、とある地点で足をとめた。崖の底に落ちている日本兵の姿をみかけたからである。かれらは傾斜のゆるやかなところを選んで崖を下っていったが、それは日本兵の死を確認するためではなく、その死体の数メートル先を渓流が流れていたからである。かれらはその渓流のほとりで、昼食を()るつもりだったのだ。

 かれらは日本兵の死体には何の興味もなかったが、それでもその側までくると、もの珍し気に一応はのぞいてみた。その兵隊は崖の底に落ち込むと同時に死んだものらしく、弾丸は心臓を斜めに貫き、ついでに腰の水筒を射抜いていた。彼は撃たれてなお生きたかったのだろう。落ちたあと、一歩だけは前進した形のまま地に伏し、両手はしっかりと地に爪を立てたまま、眼はけんめいに行く手に向けてみひらいていた。

「アーメン」と、それでも隊の中の誰かがいった。それから、かれらは渓流に沿って下っていった。かれらはそれ以上、その一日本兵に関心をもたなかった。かれらはその日本兵が、死の零秒前にみた、あのすさまじく凝縮された生の最後の暗澹たる風景についても、むろん、なにひとつ知るはずはなかったのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/11/02

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伊藤 桂一

イトウ ケイイチ
いとう けいいち 小説家・詩人 1917年 三重県に生まれる。日本藝術院会員。小説「蛍の河」で直木賞受賞。

掲載作「零秒前」は昭和37年9月より「週刊新潮」に発表された『悲しき戦記』の第9話であり、光人社版によった。

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