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子殺し

          1

 

 アキラ、お父さんはとうとうお前を殺してしまった。

 繭の糸のような春の雨が降りてくる。音も無く夜の高みから、光る雨たちが降りてくる。雨は地面に達する前に輝きを失い、土気色になり、大地と同化して死んでゆく。漆黒の闇の中へ、吹き飛ばされるように姿を消すのもある。お父さんの網膜に映る雨は、音も色も形も無い滅びの化身だ。窓を開けると、吹きつのる夜風の中で、光る雨たちが発する啜り泣きの声が聞える。老婆が欠けた歯の間から洩らす呻き声そのままに、風は苦痛の音立てて、隙間から部屋の中へ忍び込もうとする。

 お前は何故そんな奇病に罹ったのだろう。お前の首筋に小さな斑点があらわれたとき、漆の汁にでもかぶれたのだと思った。斑点は瞬くうちに顔中へ拡がり、頸から腕、腹、背中、脚へと、蚯蚓脹れの赤い畝をつくった。お前は指をひらひらさせながら、痒そうに頭や腰を揺すっている。お前の奇病が伝染したのか、お父さんの顔も蜂に刺されたかと見紛うほどふくれあがった。薬局で特効薬だと教えられた軟膏を、お前の全身に塗った。お父さんの蚯蚓脹れがその軟膏で見事に治癒したのに反して、お前の腫れはひどくなる一方だ。病気に対する抵抗力が無いからだろうか。……そんなバカな。……そんなバカなことがあるか。お父さんは力を籠めて、その軟膏をお前の身体にこすりつけた。皮膚の上の赤い畝は次第に太くなり、盛り上った部分がつながって、マントヒヒのお尻そっくりになった。全身マントヒヒのお尻なのだ。そうして不思議なことに、お前は気のせいか小さくなった。

 死んじゃ駄目だ、死んじゃ駄目だ。お父さんは泣きながら軟膏を塗りつづけた。泪がお前の皮膚の上を転がって、赤い水玉になる。身体中マントヒヒのお尻になったお前は、一体どこに手があるのか足があるのか、顔の前面はどちらなのか見分けがつかなくなって、小さく縮んでゆくのだった。医者に診せたほうがいい。わかっているけれど、どうせ医者に診せたって癒らないと思う。何故お前が眼も鼻も耳も口も無い肉の塊になってゆくのか、お父さんにはもう思考する気力さえ残っていなかった。今ではもう死んでゆくことがわかっているのに、軟膏を塗りつづけた。

 お前は、肉屋の天井の鉤の先にぶら下っている裸の肉から、両掌に載るぐらい切り取られ、新聞紙にくるんで秤にかけられたのと同じ肉の塊になって、血を滴らせつつ微かに息をしているのだ。お父さんは、ああ、あろうことか、お前を肉屋と同じ古い新聞紙に包んで、団地の階段を静かに降り、雨の降る夜の公園の隅っこへ、いま捨てに行こうとしていた。……許してくれ。……アキラ、許してくれ。お前は死んだほうが良かったんだ。お前は生きていたところで、幸せになれやしない。お前が病気になると、お父さんもお母さんも精一杯看病してしまう。そうして奇蹟的に生命を取り止めたことが、何回あったろう。でも、今度はそれをしないよ。お前は生きつづけないほうがいい。死んだほうがお前にとってどれだけ幸せか。御飯を食べさせずに、家の中へ閉じこめておいて餓死させたり、熱いお風呂で子供を茹で殺す親もあるそうだ。縫い針を服ませたり、お腹を電気鋸で切り裂いた親もあるんだよ。病気で自然に死んでゆくお前は幸せなんだ。

 お父さんは肉塊に変ってしまったお前の全身に軟膏をこすりつけた。……人殺し! ……人殺し! お父さんがお前を殺したんだ。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄……。掌を合せて、子供の頃憶えたお経を唱えた。……人殺し! 何故自分は死なないのだ。お父さんは親指と人差指で、咽喉仏のあたりを力一杯締めた。

 息ができなかった。

 ――水! 水をくれ。

 ――うなされてたのね。

 女の声がした。眼の前にお母さんの顔があって、患者をみまもる看護婦の眼でお父さんを凝視している。

 ――アキラは?

 ――アキラがどうかしたの?

 お前はお母さんと同じ蒲団の中で、百合の花のように白い顔を覗かせ、静かに寝息を立てていた。

 ――いやな夢を見たよ。とてもいやな夢だ。

 ――言わないほうがいいわ。いやな夢は、反対に良い夢なのよ。話してしまうと、幸運が逃げてゆくもの。

 ――本当にいやな夢だ。

 

          2

 

 昨夜お前は久し振りにひきつけた。お前は普段からひきつけが激しかったので、お母さんが朝夕抗痙剤を服ませていたはずだ。抗痙剤を服ませていても痙攣を起すということは、病状が悪化している証拠だろう。初めてお前がひきつけたとき、アキラ、しっかりするのよ、死んじゃ駄目よ、と叫びながら、お母さんは貝の殻のように固く噛み合せた歯を指でこじ開けようとして、指の第二関節から食いちぎられそうになり、お父さんはお父さんで、割箸が見つからずに水屋の抽斗の中身を全部畳の上へぶちまけ、おろおろしながら、次はそれに巻く脱脂綿を捜す始末だった。それがどうだろう。先刻までガーガー言っていたお前が急に静かになり、腹を空に向けてひっくり返った蛙さながら、指を硬直させ白目を剥いても、今では、アキラ、死んじゃ駄目よ、などと、うろたえて口走ったりはしない。熟練した医師たちのように、一人はお前の胸元をはだけ、別の一人は台所へすっ飛んで行ってスプーンを掴み、額に載せる氷枕を冷蔵庫から素早く取出すのだ。そうして、痙攣が終ると救急病院に電話して、真夜中でもとにかく強心剤の注射を打ってもらう。

 だが、昨日のお前は、いつものお前ではなかった。臨終のとき痰を咽喉にからませるのと同じ、ヒクッという呼吸音をお前が発しなかったら、お父さんは気づかなかったろう。アキラはいやに静かだなあと思って、ふと視ると、お前はミイラになった生き仏の姿で、身体を硬直させていた。手の指先を内側に曲げただけで、白目も剥かず、天井の一点を凝視め、ヒクッと小さな声を時折発するだけのミイラに変身していた。

 風邪のとき世話になる医者へ電話すると、

 ――先生は医師会へお出掛けで、いつお帰りになるかわかりません。

 と看護婦が答えた。休みの日に電話すると、先生はきまって医師会へ行ってらっしゃいますね、と以前その医者に嫌味を言ったことがある。すると先生は、いやあ、すみません、そうしとかないと、急患でもない患者が休みの日に押掛けて来て困るんですよ、と頭を掻いて、今度から直接玄関まで来て名前を言って下さい、いつでも診てあげますから、とおっしゃった。先日車で診療所へ乗付け、呼鈴を押して名前を告げたが、看護婦は、先生は医師会へお出掛けでお留守です、を繰返すばかりだった。今回も門前払いを食わされてはいやなので、これまでに何度か訪ねたことのある救急病院へ電話したら、

 ――先生は区会議員選挙の応援にお出掛けです。

 と言う。別の救急病院を呼出したら、ここも同じ返事だった。

 お前はその間に、痙攣が収まって指をひらひら動かし始めたかと思うと、再びストップ・モーションのように動きを止め、全身を硬直したり、恰も死のゲームを続けている。たしかにいつもと様子が違う。一一九番へ電話して、今夜の担当の救急病院を教えてもらう。

 ――すぐ迎えに行きましょう。

 というのを断って、

 ――車で行きます。有難うございます。

 とお父さんは答えた。救急車は有難いけれど往路だけで、診察が了ったら、深夜の街へ出て流しのタクシーを拾わなければならない。お父さんとお母さんは、死後硬直を起したように脚の突張ったお前を、寝棺そっくりに毛布でくるみ、後頭部に氷枕を当てて、狭い階段をゆっくり一階まで降り、車に乗せた。車中でもお前は痙攣を繰返し、都合六度に及んだ。

 救急病院の医者は、お前を固い診察台の上に放置したまま、看護婦が健康保険証の記載事項をカルテに写し込むあいだ、腕を組んで待っていた。それから、おもむろに容態を尋ね、お前をちらっと瞥て、

 ――この子は知恵遅れだね。

 と言った。

 ――はい、重度の二度ですが、A養護学校へ入れていただいています。

 ――あそこは肢体不自由児の学校じゃなかった?

 ――はい、この子は身体障害のほうもありまして、三級です。

 何を訊いているんだ。そんなことはいいから、早く診察してくれ。お父さんは叫び出したくなるのを抑えた。ビニールレザーの上に寝転がされていたお前は、お父さんの気持を察したのか、ヒクッと声を出して、また身体を硬直させた。お母さんは怖い物を見るように、

 ――ほら、また始りましたのよ。これで七回目です。

 汚れた鼠色のセーターのままで、白い上っ張りもつけていない医者は、看護婦に強心剤の注射を命じ、お義理にお前の脈を診ながら、さも大儀そうに、

 ――精薄の子はここでは診ないんだよ。ふだん専門医に診てもらってるかね。

 この質問にお母さんはかっとなって、生れてからこの方お前が遍歴した十指に余る病院の名前を、お経の文句のようにすらすらと誦し始めた。

 ――でも、その専門病院でも夜は診てもらえないんですよ。御存じでしょう? だから、ここへ来たんですよ。ここは救急病院なのに、診てもらえないんですか?

 ――いや、すまん。知らないかと思って。うちは普通の子なみの応急処置しか出来ないからね。

 お母さんの啖呵に医者は弁解した。結局、衰弱が激しいから、このまま家へ連れて帰っては危い、点滴注射で様子を見よう、しばらく入院しなさい、と宣告された。

 お前の傍にお母さんが残り、お父さんと中学一年生のお兄さんはお前の着替えを取りに家に戻った。お前にもとうとう死期が近づいたのか、とお父さんは思った。いつもは一回で嘘のように癒る痙攣が、今日は七回も断続したのだ。第一、ひきつけぐらいで入院することは、未だ曾つて無かったからだ。……お父さんは白状する。そのときお前の死をねがった。頭の隅で、ちらっとお前の葬式のことを考えた。小さな木のお棺だろうな。静脈が浮き出て、女の子にしたいほど白い顔。百合の花々の褥の中で、お前は何か考え込むように目を瞑っている。可愛かったが、短い一生だったな。ミルクを吸う力も無く、いつまで経っても首が坐らず、この分では一生歩けないでしょうね、と言われたお前を、ここまで育ててきたお母さんは、本当に大変だったんだよ。お母さんに楽をさせておやり。それがお前に出来る唯一の親孝行なんだ。お父さんは、病院へ戻る車の中でお経を唱えた。まさか半日の入院で、家へ帰れるほど恢復しようとは、夢想だにしなかったのだ。

 

          3

 

 ライオンの咆哮が聞える。アウン、アウンと動物園のアシカみたいな異様な声が続く。眼を開けると、暗い部屋の中でお前の起上っているのが見える。蒲団の上で身体を後へ反らし、頭を狂ったように振っている。頭の動きといっしょに、両手を上下に激しく揺する。アキラ、何事が始ったんだ。時計を見ると、夜中の三時半。こんな時刻にお父さんを起すなんて、罪な奴だ。百貨店の玩具売場へ行くと、シンバルを打ち鳴らす猿が居る。ゼンマイを巻くと、猿は身体を前後上下に揺すり、ゼンマイが切れるまでシンバルを執拗に鳴らしつづける。アキラ、お前の今の姿がそれだ。アーアー、アウン、アウンと奇声を発しながら、左手で顳顬(こめかみ)の辺りを力任せに何度も叩いたりする。誰かが意地悪で叩いたのではないか、と錯覚を起すほど、大きな音が響く。

 ――なんですか、こんな朝早くゥ。昨晩だって中々寝なかったじゃないの。お母さんは眠いのにィ。いつだって、充分寝かしてくれないんだからァ。

 お母さんが眼を覚ましてお前の襁褓を外し、下半身丸出しにして、ちょうど囲いの中へ牛を追い込むようにお前を便所へ連れて行った。お前は、デゲデゲデゲ、ギーッと喚きつづけている。ああ、賑やかと言うべきか、騒々しいと言うべきか。

 ――ヤカマシイッ!

 ――パパ、いま何時だと思ってるんですか。大声を出したら近所迷惑ですよ。

 ――どっちが近所迷惑だッ。

 お前はすぐ便所から戻ってきた。口を歪め、身体の割には大きいペニスの先から、雫を垂らしつつ、蒲団のほうへ歩いてくる。ギッギッと声をあげながら、バーテンがシェイカーを振るみたいに左手の甲を小刻みに顫わせて、顎を叩きつづけている。

 ――もうしたの? お前はいつだって、お便所ではほんの少ししかしないんだから。襁褓はいつでもグショグショなのに。お母さんが、毎日何十枚襁褓を洗っていると思ってんの?

 お前はお母さんの非難に耳も藉さず、台所の流しからガラスのコップを捜し出した。右手に持ったコップの縁を噛みながら、シェイカーのように振りつづける左手の指先をコップにぶつけ、ガーッと声を張上げる。

 ――またオシッコのもとをほしがるゥ。

 申訳程度に水を貰って、蒲団の上で咽喉を鳴らし、コップを左手で叩きながらお前は水を飲んだ。まだ不満らしく、ギーッと喚いていたが、コップを抛り出すと、ウフフと笑い出した。如何にも可笑しいと言いたげに、全身を揺すって笑う。クックックッ、ウフフフフ。時々欠伸で中断したり、咽喉の奥に舌をくっつけて、タン、タンと音を出したりするが、すぐ笑いに変る。

 ――寝なさいッ。何時だと思ってるんですかッ。

 お母さんがお前を平手打ちして、蒲団の中へ引き摺りこむ。ウフフフフ。何が可笑しいのだろう。お前のことを気にしていたら、寝られなくなると思うのだが、ちょっと附合ってみようかな。そう考えて、蒲団の中に潜ったままお前の声を聞いていると、宇宙人の棲む別の星へ来たかのような錯覚に陥ってしまう。デゴデゴ、ダガダガダガ、ヤー。ウヒャー。意味がわからない。頭をパチンパチンと、音が響くほどサディスティックに叩く。犬のように、ウウーと唸る。起上り、お父さんとは逆に足のほうへ頭を向けて寝転ぶ。指を凝視める。ダガダカダ、パチンパチン、ウフフフフ……。動物園だな。お父さんは自分が動物園の夜警になったと想像する。おい、そこのマントヒヒ、ちょっとぐらい静かにしろ。近所迷惑だぞ。お前の声は、四階下の道路を歩いていても聞えるぐらい、高いんだからな。

 心なしか戸外が明るくなってきたようだ。それとも、こちらの眼が暗闇に慣れてきたからだろうか。お前は泣き真似みたいに、エーンと口を大きく開く。ヤーイヤイヤ。ウヌウヌ。酸漿(ほおずき)を口に含んでいるように、ギイギイと咽喉を鳴らす。ウーン。ギイギイ。ウーン。ギイギイ……。それから低音で、ヤイヤーイと叫ぶ。恰も冥界の霊を呼び寄せるように。ヤーイ。ヤイヤーイ。身体を起したり、寝返りを打ったりしつつ呼ぶ。お前の奇声の伴奏に乗って、小鳥の声が聞えてくる。牛乳配達の車だろうか、カタカタ瓶の音立てて通る。朝が始ったな。目を瞑ると、頭を叩く音がする。どうやらお前は場所を変えて、台所の椅子に坐っているらしい。デッデッゲデゲヤー。デッデッゲデゲデ。ヤーッ。額に何か飛んで来た。箸だ。今度は足許へコップが飛んで来た。お前が抛っているのだ。この野郎、お父さんは怒ったぞ。

 ――アキラッ!

 声よりも速くお父さんは蒲団をはね飛ばすと、お前の腕を掴んで椅子から引き摺り下した。幼児用の脚の長い椅子が、お前の足にからまって倒れる。そのまま引き摺って、お前を蒲団の上へ連れてくると、お尻を思い切り平手打ちした。

 ――寝なさいッ!

 お前は殺虫剤を噴きかけられたゴキブリのように、手足をバタバタ顫わせて、お父さんの第二打に怯えている。

 ――パパに叱られたでしょ? 当り前ですよ。何をしてるんですか。

 お母さんがお前を抱き寄せる。ウーッ。デゲデゲデ。お前は抗議のシュプレヒコールを繰返す。お父さんは目を瞑って眠りに就こうとする。鳥の声に耳を澄ます。パランパタン、パランパタンと音がする。眼を開けると、どこから見つけたのか、お前は団扇を銜えて、シェイカーを振るバーテンの左手で、ひらひら叩いている。ウーウー。パタンパラン。顔の上へ団扇が止った。お父さんは黙っている。肩の辺りへ積木が落ちてくる。ポロンポロン。今度はヘヤブラシをギター代りにして爪弾く。アーアー。ライオンの咆哮が始った。犬の唸り声も加わった。ウーッ、ウーッ、ウーッ……。

 これが我家の朝だ。お前の正常な姿なのだ。それに気がつくと、お父さんはお前を呶鳴る元気も失せてしまう。お尻を叩いたことを後めたく想い起す。半身を起して声を掛ける。

 ――おい、今日は早起きするか?

 ――その子をどっかへ棄ててきてちょうだい。

 とお母さんが眠そうな声で答えた。

 

          4

 

 月に一度の検診の日だった。お父さんは勤めを休んで、お母さんと専門病院へ行った。

 ――この間またひきつけを起したんです。薬がきかないんでしょうか?

 お母さんが訊くと、

 ――それだけ病気が重くなってるんだな。抗痙剤を服ませつづけると、今度は肝臓や腎臓の機能障害を起すからね。ちょっと血液を採って調べてみよう。

 と医者が言った。

 ――どこから採るんですか?この子は血管が細いですから。

 お母さんが恐る恐る尋ねると、医者はお前の腕と脚をみて、

 ――そうだな。よし、頸からにしよう。

 とお母さんを無視して看護婦を呼び、お前の腕くらいはありそうな太い注射管を用意させた。大丈夫かな。お前の耳垢を採るのでも、お父さんとお母さん、それにお兄さんの三人がかりで、猛獣を生け捕りにするような騒ぎになるのに、と思っていたら、案の定、看護婦一人では弾き飛ばされてしまった。お前は何をされるかわかっていたのだろう。

 ――押えていましょうか?

 と申し出たら、

 ――お父さんは外へ出ていて下さい。

 険しい声で医者が言った。

 ――おい、君たち、こっちへ来て手伝え!

 お父さんは診察室のドアを細目に開けたまま、室内の様子を視ていた。お前はベッドの上で三人の白衣の看護婦に下半身を掴まえられ、振りほどこうと懸命に身体を動かしている。頭が床に着くほど逆さ吊りにされ、首筋に青い静脈がくっきり浮き出たお前の傍には、頸静脈からお前の血液を吸い取ろうとする医者の注射針が待ち構えている。血液が頭に下って顔が朱に染まったお前は、血を採られまいと、ありったけの声を出し、渾身の力を振り絞って暴れる。ああ、まるで極悪人の刑罰だな、地獄絵図だ、とお父さんは思った。診察室から出て来たお前は、しばらく昂奮が収まらず、喘息患者のように咽喉をぜいぜい鳴らして、泣きじゃくっていた。頸の右側がピンポン玉ほどの大きさにふくれあがり、何回も刺し直した注射針の穴が、まるで吸血鬼ドラキュラの歯型のように鮮やかに刻まれていたのだ。

 アキラ、病院から帰って、今お父さんが何をしているかわかるか? お前の学校のことを考えてるんだよ。お前はお父さんの頸に腕を廻し、熊の真似をして部屋の中を歩き廻れとせがむけれど、いつになったら物が言えるようになるのだろうね。え、なんだい? 眼を細めて、ウフウフ笑って。わかってるかい? 全員就学のおかげで、お前は学校へ入れてもらえた。有難いことだけれど、襁褓に大小便垂れ流し、ウマウマも言えない小学三年生なんて、本当に三年生と言えるのかな。先刻だってお前は、留守番を仰せつかっているお父さんの眼を避け、玄関の暗がりの隅っこに不自然な姿勢で立ったまま、大便をしていた。ウンがつくからいいじゃないの。お母さんは笑うけれど、冗談じゃないよ。お父さんが子守りのときに決って大便をするなんて。一時間置きに時間を計って襁褓を替える作業だって、大変なんだぞ。……おい、聞いてるのか?

 お前が音楽劇で風の役を演じると聞いたとき、お父さんは、これこそお前に適役だと思ったよ。空っ風が吹く東京では、団地の建物の間を吹き抜けてゆく風は、砂塵を引き連れて、いま北から南へ吹くかと思えば、急にUターンして南から北へ、また西から東へと、めまぐるしく変る。上ったり下ったり、窓に取り縋ったり、ベランダに坐ってみたり、屋上に掴まったり、芝生の上をごろごろ転がったりする。風はお前だ。正にお前が風だ。

 幕が開くと、ふだん車椅子を必要としないはずのお前が、みんなと同じ車椅子に乗って、舞台の上に居た。出番が来る前から風になって、舞台の上をうろつき廻らないように、先生がお前を車椅子に縛りつけておいたのだろう。でもお前は、文句も言わず、左手をシェイカーのように振りつづけていた。そうして出番になると、先生に手を曵かれ、舞台中央を風のように歩いた。先生がマイクの前で、カゼー、と叫んだ。去年の文化祭では、子供を捜す親の役だった。お前は生意気に、背広にネクタイを締めた扮装で、ギャングに誘拐された我子を捜すため、指をひらひら顫わせながら、舞台の上をあちこち彷徨い歩いた。床の一点を凝視めながらぐるぐる廻転し、舞台にしゃがみこんでウフウフ笑い、とうとうお前は先生に監禁されてしまった。

 チーズの大好きなお前が、学校で「チーズ捜し」という授業を受けていると聞いて、お父さんは思わず泪が出た。お皿に載せたチーズを先生がお前に見せ、注意を惹きつけておいてから、衝立の向うへ置いたり、戸棚の中へ隠すのだ。お前は初め戸棚の中を掻きまわし、いらいらして腹を立てたが、慣れるにつれ即座にチーズの在処がわかるようになった。この授業はお前が空腹の時を選んで行われ、順調に進むかに見えた。けれども、お前が授業時間の延長を何度も要求したことと、教材のチーズをどんなに用意しても足りなくなるため、遂には中止されてしまった。お父さんは心理学の実験に登場する動物たちの話を思い出した。迷路の中の餌を捜す二十日鼠。天井から吊るしたバナナを取るために、木箱を踏み台にするチンパンジー。お前は彼等と少しも変らないじゃないか。

 お前がお父さんに甘えている姿を見て、或る日、お前のお祖母さんが言った。

 ――アキラはロッキーと同じね。甘える人をよく知ってるよ。

 ロッキーと言うのは、お前の叔父さんの家で飼っているスピッツの名前なのだ。お前が他人から人間並みに見てもらえないのは、仕方がないことかも知れない。とは言え、お父さんは許せなかった。お祖母さんがお父さんの母親であるから、なおさら許せなかった。併し、お父さんは言い返さず、その言葉を黙って胸の中の抽斗に蔵った。海底の石のようにお父さんの心の奥に沈んだその記憶を、一生忘れまいと誓った。たとえ苔むして古びて来ようと……。

 人を愛する権利があるとすれば、憎む権利もあるはずだ。だが、お祖母さんにお前を憎む権利は無い。お前はお父さんとお母さんとの間の二人目の子供。お祖母さんにとっては、望んで待った血縁の孫なんだから。孫をちっとも抱こうとしない母親を持った息子には、その母親を憎む権利がありはしないか。もしかしたら、アキラ、お前とお祖母さんとの間には、血の繋がりが無いのかも知れないな。

 

          5

 

 アキラ、今日お母さんとデイトしたよ。

 お母さんは一週間も前から、何を着て行こうかしら、と箪笥の中のスカートやブラウスを取出して、ねえ、パパ、これにしようかな、もう時代遅れかしら、ねえ、見てよ、と大変なはしゃぎようだった。

 今朝、洗濯物を干していたお母さんに、

 ――行ってくるよ。

 と声を掛けると、水で濡れた手をエプロンで拭きながら、玄関へ飛んできて、

 ――今日行くわよ。十一時四十五分。京橋のM屋の前よ。遅れないでね。

 と言って、自分の右頬を指さした。キッスの催促なのだ。

 ――仕事が忙しいと、少し遅れるかも知れないよ。

 お父さんがお母さんの頬に口づけすると、

 ――いいわよ。人生永いんだもん、いつまででも待ってる。

 今度は左の頬を指さした。

 ――そんなに嬉しいのかい。

 ――だって、パパとデイトするの、十年振りだもの。

 お母さんは最後に、口紅をさしていない自分の脣を指さした。今日から週に一回、養護学校の先生がお前たちを午後三時まで預かって下さることになったのだ。普段はお母さんが給食の時間まで殆どつきっきりなので、これはお母さんにとって願ってもない休日なのだった。

 京橋のM屋は、お父さんの会社のビルの向いにある。輸入食料品を扱っている店だ。幸いに午前中は仕事が暇だったので、十一時に約束してもよかったな、と思った。時間の経つのが遅い。お父さんの会社は八階にあるから、普通なら窓越しにM屋の入口が見晴らせるのだが、丁度ビルの外壁の改修工事中で、ビル全体がすっぽり梱包されたようにベニヤ板で蔽われていて、外が全く見えない。晴れているのか、雨が降っているのかも判然としない。余計そわそわして、十一時半に会社を飛出してしまった。

 M屋の入口にお母さんの姿が見えない。店の中を一巡してもまだ現れない。女を待つなんて男子の沽券にかかわる、とばかり近くの本屋へ入り時間をつぶし、約束の十一時四十五分を五分遅らせて店の前へ行ったが、まだ来ていない。変だな。もしかすると、お前が急にお腹をこわしたのかな。それとも、お前のことだ。体育館で肋木に登って落っこちたのではないだろうか、とお父さんは思った。お前は先日、公園のジャングルジムの頂上で両手を放し、危く首の骨を折るところだった。

 いらいらして五分待ち、会社へ電話が掛かっているかも知れないと、お父さんは会社へ取って返した。受付の女の子に尋ねたが、お母さんからの電話は無かった。もう正午を五分も過ぎている。M屋の中をしつこいほど見て廻ったが、お母さんの姿は無い。本当にどうしたんだろう。お父さんは独身の頃から待たされるのが大嫌いだった。五分前主義を信奉していたから、約束の時間より十分も待たされると、腹を立てて帰ってしまうのが常だった。併し、相手がお母さんであるから、待っていなければならない。

 お母さんが現れたのは正午を二十分も過ぎてからだった。

 ――ゴメンナサーイ。

 お母さんはブレザーを片手に抱え、もう一方の手には何やら百貨店の袋をぶら下げて、銀座方面から駈けて来た。

 ――何してたんだ。事故でも起きたかと心配してたんだぞ。

 ――御免なさい。銀座には十一時に着いたんですけど、百貨店でアキラのTシャツ見てたのよ。ズボンもいいのがあったから。

 ――俺とデイトのときぐらい、子供のこと忘れろよ。

 ――だってえ、母親ですもの。

 とお母さんは遮って、

 ――お兄ちゃんのも捜してて、気がついたら十二時前でしょ。慌てて銀座のM屋まで行ったのよ。

 ――銀座のM屋? 京橋のM屋だって、自分でも約束したじゃないか。

 ――それで十分くらい待ってたんですけど、パパが来ないから、どうも可笑しいと思い始めて、店員さんに訊いたら、京橋にもチェーン店があるって。

 ――オッチョコチョイ!

 ――だから、御免なさい、って謝ってるじゃありませんか。パパが私を放っとくはずはないのね。

 ――当り前さ。夫婦なんだから。

 五月晴れの心が浮き浮きする日だった。四十歳を過ぎたお父さんの腕に、三十代半ばのお母さんはちょっと手を添えた。そして、お父さんの顔を瞥て、フフと笑った。

 ――会社の人が見てるかも知れないわね。

 ――いいよ。構やしないから、腕組んだら?

 ――止めとくわ。恥ずかしいもの。

 ――昼御飯は何にする?

 ――パパと一緒なら、なんでもいい。

 ――こいつゥ。

 お父さんは冗談で、

 ――じゃあ、お茶漬けにしようか。

 ――いいわよ。

 お母さんの笑顔はお前に見せたいくらいだった。満開の薔薇にたとえられよう。見ていると気持が和む。お父さんはわざわざ値段の高そうなレストランを選んだ。初めての店だった。大判のメニューを差出され、どの料理にするか迷って二人は定食を注文した。

 ――レストランのテーブルにパパと二人だけで坐ってるなんて、不思議な気分ね。

 とお母さんが言った。いつも決って四人だった。

 ――でも、我々が普通の夫婦なら、もう子供に手がかからないから、二人でデイトするくらいの時間の余裕はあるはずだよ。

 ――そうかしら。

 お母さんはちょっぴり首を傾けて、思い出したように、

 ――ちょっと学校へ電話してみようかな。大丈夫ですかって。

 ――大丈夫だよ。

 ――先生、襁褓ちゃんと替えてくれてるかしら?

 ――そんな心配しなくてもいいから。

 結局、食事の間中二人は子供の話ばかりしていた。

 ――私たちにもし子供が出来なかったら、どんな生活してるんでしょうね。

 ――そうだな。二人でマンションにでも住んで、外国旅行をして。

 ――預金なんかしないで、好きな物買って。我儘奥さんになってるでしょうね。そんな生活、私には一生望めそうにもないわ。でも、誤解しないで、パパ。これでいいのよ。私はこれで幸せなんだから。

 ――ほんとに?

 ――だって、今さら変えられないでしょう? アキラが元通り私のお腹の中へ入っちゃわない限り。ああ、おいしかった。

 お父さんには、その定食が特別美味しいとは思えなかった。まだお前が生れない頃、お父さんはしょっちゅうお母さんを料理の美味しい店へ連れて行った。お兄さんには手が掛からなかったから、よく三人で出掛けた。お母さんは板前に根掘り葉掘り味の秘密を尋ね、次の日には家庭で同じような料理をつくった。あの頃に比べて、お母さんの味覚は衰えたのかも知れない、とお父さんは思った。お前が生れてから気の張った店へは行けなくなったし、旅館にも泊れなくなった。お前がギーギー声をあげ始めたら、すぐお前を店の外へ連れ出そうと、お母さんは常に腰を浮かして待機している。そんな状態で美味しい料理をゆっくり味わうこともできないのだった。お母さんには随分苦労させてるな、とお父さんはいつも思う。学校へ入れてもらえることになって、先生がお前の面倒を見ていて下さる間は、お母さんも少し楽ができるようになったけれど……。

 

          6

 

 お父さんは今でも、お前の入学式のことをはっきりと憶えている。あれは空っ風の吹き荒れる寒い日だった。お父さんは午前中会社を休んで、運転手になった。お前は生憎風邪を引いていたので、お母さんは扁平足矯正用の特別靴をお前に履かせず、抱きかかえて行った。長い廊下を通ると寒いから、直接式場に行きましょう、とお母さんが勧めるので、講堂に近い場所へ車を駐めた。それでもやはり受附で記帳しなければいけないと言われ、お父さんはお前の代りに入口へ戻って、名前を告げ、深紅のカーネーションを貰った。

 暗い長い寒い廊下の真中で、お父さんとお母さんとお前は出会った。お母さんは、箪笥の底から出してきた一番地味なグリーンのスーツを着て、蒼白い顔のお前を横抱きにしていた。お前は、入学式のために新調した洒落た淡青色のサファリ・スーツという晴れ姿で、お母さんのスーツの胸元へ、唾液に濡れた左手をひらひらシェイカーのようにぶつけていた。お父さんは黒い背広にちょっぴり明るいネクタイを締め、いま受取ったばかりの深紅のカーネーションを手にしていた。「入学おめでとう」のリボンがついているカーネーションを、お父さんはお前の胸に挿した。お母さんが手伝って位置を直した。本来なら、学校の正面入口で、先生からおめでとうと言われ、挿してもらえるはずのカーネーションだった。これこそ三人だけの厳粛なお祝いだった。

 ――入学おめでとう。

 お父さんは小さな声で言った。

 ――入学おめでとう。本当に良かったわね。

 お母さんも小さな声で和した。カーネーションの赤が眼の前に滲んでくるようだった、とお母さんはあとで述懐した。

 講堂に張られた紅白の幔幕。車椅子の上の歪んだ顔や捩れた腕や曲った脚の子供たち。さくらさくらの音楽。入学式なのにトレーニング・パンツ姿で控えている先生。歓迎の拍手。両親と子供が並んで坐れる三脚ずつの席。校長先生の挨拶のとき聞えてきた朝の小鳥の声。新入生二十六名の名前が次々に呼ばれて、物言えないお前の代りに、争って「ハイ」と返事した二人……。お父さんはいろんなことを憶えている。中でも一番印象に残っているのは、式のあとお母さんが囁いた言葉だった。

 ――パパ、これでアキラは十八歳まで安心ね。

 初めお父さんには、その意味が理解できなかった。併し、お母さんの説明でやっとわかった。養護学校の小学部へ入学できたからには、無競争で上の学校へ進める。中学校、高等学校の心配をする必要はない、ということだった。

 ――高校を卒業するまでに、旋盤でも竹細工でも、手に何か技術をつければ食べて行けるでしょう?

 お父さんには信じられないことだった。

 ――アキラは十八歳までに物が言えるようになるのかなあ。言葉を話さないまでも、親の言うことが理解できるかな。

 ――でも、オシッコは自分で出来るでしょうよ。

 ――さあ、どうかな。言葉が駄目でも、排便の始末が自分で出来て、手掴みででも食べられれば、なんとか生きて行けるだろう。

 アキラ、お父さんはそのときから真剣にお前の将来のことを考えている。お前が十八になるまでには、あと九年ある。もしお前の知能が現在のままで止っていたら……。これは考えたくないけれど、IQは零のまま身長と体重だけが十八歳になったら、どうなるだろう。お前は世間から白痴呼ばわりされ、石を投げつけられても平気で指をひらひらさせ、大小便の臭いを撒きながら、野良犬のように首を振り振りほっつき歩き、生肉を齧り塵芥を漁り、ギーギー大声をあげ、……ああ、もしかしたら、どう贔屓目に見たって可愛いとは言えない一人前の自分のペニスを弄ぶのだろうか。お父さんは、お前の将来を想って五年前に棄てた自由業の生活へ舞い戻り、農場をつくりたいとしきりに思う。お金を貯めて土地を買い、お前に鶏や山羊の世話をさせたい。ちっぽけでもいい、その囲いの中ではお前が何をしようと自由な場所をつくろう、と考えている。お前と同じ仲間たちも呼んであげられれば素晴しいけれど、目標をあまり高い所に置かないでおこう。お父さんとお母さんの仲人をして下さったO先生が、心身障害者施設の所長をしていらっしゃるので、お前は生徒、お父さんは先生、お母さんは給食係のおばさんになって、そこで働きたいと一時期考えたこともある。併し、お前以外の知恵遅れの子供を、お前と同じように愛することが出来るだろうか。お父さんにはまだ自信が無い。だから、取敢えずはお前一人の農場にしよう。お前はそこで、野生動物そのままに一日寝転んでいようと、小便を垂れ流しにしようと、オナニーに耽ろうと自由だ。お前が生きつづけようとする限り、お前には生きる権利があるのだから。お前はこの世に生を享けて以来、お父さんとお母さんの子供なのだから……。

 アキラ、お前にこんな話はしたくないけれど、お父さんは、物心ついた頃から親孝行を強制されて育った。早く成人して親を養うように、と教えられた。働かざる物は食うべからず。学生は一人前ではない、自分で金儲けするまでは半人前だ、と毎日繰返し説教された。四人姉弟の長男であるお父さんは、朝みんなの蒲団を押入に蔵い、畳の上に茶殻を撒いて掃除し、玄関の戸から廊下、階段まで雑巾がけをするのが日課だった。それから庭に出て、竈で燃やす薪を割らなければ、朝飯にありつけなかった。冬の朝、かじかんだ手に息を吐きかけつつ、斧や鋸を使うのは辛かった。お前のお祖母さん、お父さんにとって母は、硝子越しの廊下に突っ立って、歯ブラシを使いながらお父さんの仕事振りを監視していた。男の子だからって、身の廻りのことが全部自分でやれないようでは恥ずかしいね。そう言われて、いつ頃からかお父さんは、穴のあいた靴下には電球をあてがって繕い、身につけている一切の物を自分の手で洗濯するようになった。父が職場を転々とし、母が勤めに出ざるを得なかった、そんな家庭の事情がそうさせたのだろうか。お父さんには未だにわからない。

 食いしん坊のお前には想像すら出来ないだろうが、朝御飯の膳に出ているバターは二種類あって、天然バターは女専用、そしてマーガリンは男たち専用だった。時々母は戸棚からチーズの箱を取出し、一枚切って自分のパンに挟んだ。お父さんが物欲しそうな眼で凝視めると、チーズを食べたければ、早く働いてお金を儲けるのね、と母は答えるのだった。祖母と母と姉。女三人が家庭内で権力を持ち、父に弟二人を併せた四人の男は小さくなって暮していた。一つ仕事を了えれば、それで済んだつもりなの、と嘲笑われ、口答えをすると、お前は一体誰に食べさせてもらってるんだい、と謗られた。洗濯はいやでいやでたまらず、黄色く汚れたパンツやシャツ、燻製の乾物そっくりの臭い靴下を箱の中に蔵いこんでいた。母に叱られて盥を持ち出し、洗濯板の上に洗濯物を載せ、棒石鹸でゴシゴシ洗う。その様子を母は向い側から注視し、濯ぎが悪いと綺麗にならないよ、もっと丹念に洗いなさい、などと小言を述べるのだった。冬の間は水を使うのが辛かったけれど、湯を沸すのに御飯の竈も薪も使わせてはくれなかった。壊れかけて庭の隅に放置してある七輪にひしゃげた鍋を架け、紙屑籠の中の紙を燃やして湯を沸した。洟をかんだ紙屑から立ち昇る哀れな白い煙を眺めながら、お父さんは自分の運命を呪った。燃える焔の中で自分も焼かれて死んでしまいたいと思った。

 週に一回くらいの割で廻ってきた御飯当番。アイロン掛け。お父さんはこれも大嫌いだった。母は、お父さんがワイシャツにアイロンを掛けている所へ、これもあててちょうだい、と自分のブラウスやスカートを抛って寄越した。胸に波飾りのついたブラウスや、折り襞の多いスカートにアイロンを掛けることは、お父さんにとって徒刑に等しかった。併し、それが母のいう親孝行だった。母の強制する親孝行だった。子供は親に感謝すべきですよ、と。ひそかに取寄せた戸籍謄本に、自分の名前が父と母の実子として記されているのを発見したとき、お父さんは悲しかった。継母だと想えば、母の仕打は憎くなかった。もし実の母親であるならば、何故母は自分を愛してくれないのか。お父さんは真実、母が憎いと思った。幻の実母を夢見た。

 今でも、お父さんは母の継子であると信じたいのだ。お前にとってお祖母さんに当る母が、犬を見ると同じ眼でお前を眺めているのも、お父さんが継子であれば納得のゆくことなんだから……。

 

          7

 

 ――パパあ、今日大変だったのよ。思い出しても、怖くて、怖くて。

 会社から帰ったばかりのお父さんは、そんな第一声で迎えられた。お母さんはいつも大袈裟な言い方をする。こちらも一緒に怖がって見せても仕方がない。

 ――どうした?

 と事務的に訊いた。

 ――アキラがベランダに坐ってたのよ。

 ――坐ってたって、どこに?

 ――私が玄関で電話してたら、カタンって音がしたのよ。ベランダの戸が開く音のような気がしたから、アキラかなと思って、すぐ電話を切って、ベランダを覗いたの。そしたらね。

 お母さんはそのときのことを思い出したように、絶句した。

 ――そしたらね。アキラがベランダのコンクリートの囲いの上に坐って、外を向いて脚をブラブラさせてたのよ。

 コンクリートの囲いといっても、お前の背丈以上の高さはある。足場が無ければ、到底お前が登れる高さではないし、第一坐れる場所があったのか。

 ――それでどうした?

 ――もし声を掛けて、四階から落ちたら死んじゃうと思って。

 ――それで?

 ――忍び足で近寄って、アキラの洋服の袖を掴んだの。膝がガクガクして、思い出すと、今でも怖いわ。

 ――どうやって登ったんだろう?

 ――私が悪いのよ。襁褓を干す台があるでしょう、あれを踏み台にしたらしいの。

 お父さんはベランダに出てみた。団地のベランダは、コンクリートで固めた部分と金属の柵の部分とがあって、コンクリートの目隠しの幅は親指と人差指を延ばしたくらいだし、金属の柵だと小指の長さしかない。この上に坐っていたとすれば、強い風が吹くと真逆様に落ちるだろう。

 お前は、養護学校へ入る前には台所のテーブルに乗るのが精一杯だったのに、最近では色んな芸当をやるようになった。テーブルの上からの跳躍を試みるだけでなく、鴨居にぶら下ったり、本棚の天辺の天井に近い所で、ナマケモノのように棚板にしがみついていたりする。白い壁が唾液や手垢で黒ずんできたのを見れば、お前の成長振りが一目でわかる。これは本当に成長なのだろうか。箪笥の上の、そのまた上の硝子のケースに登ろうとして、ケースごと墜落し、粉微塵に砕けた硝子で眉間に切疵をつくった、そんな事件も何度かある。椅子の背中、水屋、冷蔵庫、テレビ、鏡台、ピアノ……。とにかく登れるものがあるから登るのだとばかりに、お前は何にでも手を伸ばし、登頂に成功すると左手を放し、指をひらひらシェイカーのように顫わせて満足感に浸る。そして油断で墜落する。あるいは、自分の意思で飛び降りる。お前の練習コースは定っているのだ。

 ベランダのコンクリートの囲いの上に坐っているのをお母さんが発見したとき、お前は恐らく登頂の歓びを味わっていたのだろう。本棚と異なり、どちらかの手でしっかり棚板を掴んでおく必要が無かったから、玩具の猿の人形みたいに、両手をシンバルにして振り動かしていたに違いない。脚もブラブラ揺すっていたろう。落っこちないとすれば、次にお前がとる行動は、鳥に変身しようとして、十メートル下の芝生に舞い下りるか、囲いの上に直立しようとするか、どちらかの冒険だ。冒険家のお前のことだから、失敗を懼れないし、十メートルの高さに居ることを計算するほど臆病者ではない。第一、高所恐怖症ではないお父さんでも、その高さで脚を外へ向けて坐るのが怖いのに、お前は両手を放して身体を揺すっていたのだ。もしそのときお前が墜落していたら……。

 四階から落ちた子供を素手で受止めた母親の話を、新聞で読んだことがある。母親は子供を抱き締めたまま倒れたけれど、下が柔かな土だったので、頭部に怪我をしただけで子供は奇蹟的に助かった。アキラが落ちて死んでいたら、お母さんは監督不行届の廉で罪に問われるだろうか。ベランダへ通じる戸は初めから開いていたのか。それともお前が開けたのか。いずれにしても、お前がやることを逐一監視していなかったお母さんは、法律で罪名を被せられなくても、自分の犯した罪に一生悩むだろう。それに比べて、アキラ、お前はいま何を悩んでいるのだろう。

 

          8

 

 暑い。ビールを飲むと、風呂上りの火照った肌の上に大粒の汗が、拭いても拭いても噴き出してくる。それなのに、お母さんは厚地のカーテンを閉め、部屋の中の電球を全部消してから服を脱ぐ。

 ――暑いのに、カーテンぐらい開けとけよ。

 ――いやよ。外から裸のシルエットが見えちゃうんだもん。自分の部屋の燈を消して、望遠鏡でよその家を視ている人が居るんですって。

 ――いいじゃないか。そんなに見たけりゃ、見せてやればいい。

 ――いや。私の裸はパパに見せるだけよ。じゃ、お風呂に入って来ます。

 家の中で燈が点いているのはテレビだけで、夜の男の番組はストリップ花盛りと見える。踊り子が媚びを含んだポーズで、申訳程度に一部分を隠した小麦色の肉体をくねらせている。お前はまだ起きているらしい。テレビの前に陣取って、指をひらひらさせながら、ブラウン管を舌で舐めているのが見える。夜十一時を過ぎると、どうしてストリップばかり放送するのだろう。お母さんはまた決ってそれを観たがるのだ。女が女の裸を観たって仕様がないじゃないか、とお父さんが言うと、綺麗なものは綺麗だわ、とお母さんは答える。お父さんがお前と一緒にお風呂に入っている間に、このチャンネルに廻したのだから、お母さんはこの番組を観たかったのだろうか。それとも、お父さんにわざと観せようとしているのか。そう言えば、先刻お母さんは、じゃ、お風呂に入って来ます、と言った。私の裸はパパに見せるだけよ、とも言った。幾分眼が潤んでいたようにも思う。そんなことを考えると、ブラウン管の中のヌードに刺戟されたわけでもないのに、股間はお父さんの意志に反して熱くなってくる。

 風呂場で湯を使う音がしている。背中を流そうか? お父さんは浴室の戸を開ける。いやっ、見ないで。お母さんは、石鹸の泡に包まれた裸体をタオルで隠そうとする。お父さんはパジャマを脱いで裸になり、もう一度入るよ、身体が冷えちゃった、と声を掛けて戸を開ける。そうして、欲情で固くなった部分をお母さんの背中にそっと押しつける。ああ、パパ、駄目よ、お蒲団の中じゃないと。どうして? ああ、やめて。いけないわ、用意してないもの……。

 お父さんはそんな妄想を払いのけようとしながら、蒲団に入る。お母さんが風呂場から出たらしい。

 ――ねえ、バスタオル取って下さいな。

 と呼んでいる。お父さんはバスタオルを手に持ち、いつものように投げないで、風呂場の前に立っている裸のお母さんに近づく。何してるの、早く下さいな。拭いてやるよ。うん、莫迦。パパ、駄目よ、まだちゃんと拭けてないのに。縺れた二つの身体は、テレビの燈でさまざまな色に彩られたシーツの上で、嗚咽を洩らす……。

 またもふくれあがってゆく猥らな想像を振切って、お父さんはじっと目を瞑っている。お母さんが独りでバスタオルを取りに来る音がする。薄目を開けてみると、暗い台所に白い肉体が仄かな湯の匂いを放って立っている。そうして、一糸まとわぬお母さんが、お父さんの上に倒れてくる。

 ――寝ちゃったりして。意地悪。

 昼は小娘のようなお母さんが、夜になると娼婦に変貌した。お父さんの身体は先刻からもう熱っぽく固い。お母さんの身体もそれを受入れるに充分潤っている。けれども二人は、お互いを愛撫し、性慾をさらに高める。

 ――待って。いま用意するから。

 お母さんはお父さんから離れると、箪笥の中から何やら取出し、尻をこちらへ向けて、しゃがんでいるような恰好をする。お父さんは、今まで抑えてきて爆発しそうな色情の糸を中途で切られまいと、お母さんを背後からそっと掴まえる。そのとき、台所のほうでガチャンと音がする。

 二人は初めてそこにお前の姿を見つけた。お前は、台所の流しの排水穴に溜っていた野菜屑を左手で摘んで食べている。右手には、洗い桶の中に浸っていた濁り水の入ったコップを持っている。

 ――アキラ、まだ寝てないんですかッ。

 お母さんはお前がいま飲み干そうとしていたコップを取上げる。思い切りお尻を音させて叩き、抛るように蒲団の上に転がす。

 ――何時だと思ってるんですか。明日の朝は早いんですよ。

 アガー、アガー、とお前は抗議する。ウウー。アガー。アガー。お父さんはいつの間にか萎えている。けれども、お母さんの努力でまたも息吹き返し、初めて二つの肉体は一つになる。併し、どんなに荒々しく振舞おうと、どんなに深く埋没しようと、妄想とは逆にお父さんの頭は冴えてくる。アガー、アガー。お前は左手をひらひら顫わせながら起上り、テレビのブラウン管の中で踊っているストリッパーを舐めている。お母さんは、右手でお父さんの背中に爪を立て、左手でお前の首筋を掴んで転がし寝かせようとする。そんな状況でも一つの肉体はしとどに濡れてくるのに、もう一つの肉体は燃え上ろうとはしない。……パパ、私を愛してる? ねえ、愛してるって言って? お母さんは歌うように言う。お父さんの心を空しさだけが吹き抜けてゆく。色即是空、空即是色、受想行識亦復如是……。終ったあと背中を向ける二人の心に、何が残るのだろう。なんと空しい子殺しの行為であろう。性慾なんて亡くなってしまえ、と思う。自分の肉体が勃起しなくなる日を夢に描く。

 お前が生れるまで、その行為は表向き神聖な行為であった。併し、今では快楽以外の何物でもないのだ。お母さんは、次の子供がお前と同じような不具者であっては可哀想だと、避妊を実行し出したからだ。コンドームも用意した。リングも試した。ゼリーも塗った。紐のついた玉も使ってみた。医者の指示でピルも服用した。ピルなら行為を中断することもなかったけれど、常用すると体質が変るというので、お母さんは一年も続けたこの薬を止め、いま何やら怪しげな硝子の管を操作している。パイプカットをすれば、こんな心配は全く無くなるのよ、とお母さんは勧める。パイプカットって凄く簡単ですって。チクッと注射するくらいの痛みで済んじゃうそうよ。それに、子供が欲しくなったら、いつでも元に戻せるらしいわ。でも、何のためにそんな手術まで行わねばならないのか、とお父さんは考え込んでしまうのだ。まだお客様が来ないのよ、どうしよう、と時々お母さんは溜息をつく。そして、あったわよ、パパ、今朝あったわよ、と歓声をあげる。お父さんとお母さんは、何故それほどまでにして悦楽の行為を続けねばならぬのだろう。愛し合っているからか。それなら、もし性慾の泉が涸れはて、肉の交りが杜絶した場合、二人の間にはどんな愛が生れるのだろう。

 お父さんはお母さんとの行為の中で、別の女との情事を考えることがある。自分が不幸にした女を想い起すことがある。或る女は、自分の誠実を示すため、友人との約束をわざわざ延ばして、お父さんの部屋まで来た。そうして、部屋に掛かってきた電話をお父さんの身体の下で聞きながら、もうすぐ行くから待ってて、わたし今赤ちゃんが出来るのよ、と返事した。また或る女は、木馬のようにギイギイ音を立てるベッドの上で、あなたと私の赤ちゃんが産みたい、と叫んだ。私と結婚するのよ。もし結婚しなかったら、あなたと結婚する女を一生呪ってやるから……。また或る女は、自分が初めて犯されたときのことを告白したあと、さめざめと泪を流し、あなたに私のすべてを上げるわ、いいようにしてちょうだい、とお父さんに身体を開いた。また或る女は、お父さんの長い髪を撫でながら、子供に言い聞かせるように囁いた。深酒をしてあたしの所へ来てはいけない、って言ったでしょ? 子供が出来なくなるじゃないの。また或る女は、お父さんとの子供が出来たと言い張り、子供の写真を見せたがった。あなたの怒った顔にそっくりなのよ。本当にそっくりだわ。

 お父さんは、これらの女たちの誰かが、子殺しの行為の中で子供を宿していると信じている。お父さんの子供を育てている。中には、お前のように知恵遅れの子供が居るかも知れない、と思う。子供がほしい。もし自分の子供なら、どんな子供であれ引取りたい。それは、マッチの火が燃えつきる短い時間であっても、一人の男と一人の女が肉体で愛し合った証なのだ。その行為がどんなに空しいものであれ、子供は神から授かった財産なのだから。

 

          9

 

 この前お母さんと初めてデイトしてから、もう三カ月経った。お父さんの仕事が忙しくなり、昼休みに逢うことがむずかしい日もあったけれど、都合がつく限りはお母さんとデイトした。週に一度の自由時間を、よりによって俺と逢うこともないだろう、とお父さんは言ったのだが、だってえ、他の誰と逢うの、よその男性とデイトしてもいいの、とお母さんは答えた。そう言われると、お父さんも嬉しくなって、つい仕事の無理をしても、昼休みの一時間お母さんと附合うことになる。お父さんの都合が悪いとき、お母さんは自宅で和紙の人形をこしらえたり、洋裁で暇を紛らせているらしい。

 今日は初めて女友達と、銀座へおいしいピザを食べに行くと言う。それで、お父さんは三日前に店の地図を画かされ、お小遣いとして三千円巻き上げられた。今朝になって、

 ――パパ、わたし、新しい洒落たハンカチがほしいな。

 と言うので、

 ――買えばいいじゃないか。

 五千円渡した。お母さんは眼を丸くして、

 ――こんなに貰うと貰いすぎだわ。そんなに要らない。だって、これだったらスカートの生地も買える。

 とおずおず言う。

 ――スカートの生地も買っていいよ。

 ――ほんと? それでもまだ残るわ。残ったら返します。

 お父さんは黙っていた。臨時収入があったので、お母さんの喜ぶ顔が見たく、わざと多い目に渡したのだ。今夜は仕事を早く了えて、お母さんの幸せそうな顔を見に帰ろう、と思った。所が、得意先との企画会議が夜の八時半までかかり、そのあとはお定まりの酒のコースになってしまった。銀座、六本木、新宿と流れて、同僚と二人きりになったとき、五軒目の店でお父さんは思いがけない人に出遇ったのだった。

 七人も坐れば満員になりそうな止り木のあるバーだったと思う。長髪の若者が、カウンターの中の女と一緒に、静かにギターの弾き歌いをしていた。隅の席に、夏なのに珍しく和服を着た女が一人、人待ち顔に煙草を燻らしていた。女の前にはウイスキーのグラスがあった。

 ――いらっしゃい。

 カウンターの中の女は歌をやめ、ウイスキーのグラスを用意した。お父さんは和服の女の隣に腰掛けた途端、はっとした。酔眼朦朧としていたが、たしかに女の顔に見覚えがあった。女もお父さんに気づいたらしく、ちらちらと観察する眼付きで、

 ――お久し振りね。

 と話し掛けた。お父さんは聞えない振りをしていた。

 ――水割りでよろしいですか?

 カウンターの女が断って、グラスにウイスキーを注いだ。

 ――では。

 グラスを眼の高さに上げたとき、

 ――奥様お元気?

 煙草を指で弄びながら、女が訊いた。同僚は女とお父さんの顔を交互に眺めて、

 ――きみ、このひと知ってるの?

 ――こんな綺麗な方、僕が知ってるはずがないでしょう?

 お父さんはとぼけて、ウイスキーを勢よく呷った。女はお父さんの腕を抓って、

 ――嘘よ。わたしたちは夫婦だったのよ。可愛い子供まで居るわ。

 腋の下に腕を滑り込ませてきた。

 ――あら、お二人はお知り合いだったの?

 ――そうよ。何年振りかしら? ねえ、あなた。

 お父さんはこのとき、酔った頭の中で思い出の糸を手繰ろうとしていた。微笑うと両頬に靨ができる妖艶な顔。映画の女賭博師シリーズのヒロインである美貌女優に瓜二つだった面影は、今も色濃く残っていた。たしかに或る時期、お父さんはこの女とお互いに肉体を慰め合った。それは、ネオンサインの眩しい連込みホテルのふかふかしたベッドの上であったり、港が見える洋館風のホテルの粗末な木の寝台であったりした。レースのカーテンだけが仕切りになっている喫茶店もあったし、ウエイトレスが飲み物を運んだあとは引戸を閉めてしまう、鍵のかからない密室もあった。玄関を開けるとすぐ階段になっている女のアパートで、手作りの夕食と熟れた肌をむさぼったこともある。併し、結婚を約束した覚えはなかったし、全ては遠い過去の出来事なのだった。女と知り合ったのはどこだったろう。そうか、やはり小さな酒場だった。その酒場のママであった女は、夏でも殆ど和服で通した。洋服を着るときも偶にはあったが、肩を客の眼に晒すことは一度も無かった。店が看板になるまで飲んで行ってね、と女が誘った夜、お父さんはその女の秘密を知った。風呂上りの艶っぽい腕の附根に、女は丸い瘤を隠していたのだ。項の下に手を滑らせて抱き締めると、ちょうどその突起に触れた。ゴルフボールを半分に割った形で、すべすべして弾力のある瘤の中に、自分だけが知っている男の秘密や、男に対する怨みを、女は匿しているのではないか、とお父さんには思えるのだった。

 最後に会ったのはいつだったろう。いつのまにか店の近所が区画整理に遭い、消息がわからなくなっていた或る日、お父さんは女の電話で呼出されたのだった。既にお母さんとは結婚していた。あなたの子供が出来たのよ、写真を持っている、とハンドバッグから出そうとするのを押し止めて、きみと俺の間に出来るはずがないじゃないか、第一日も合わない、と狡いお父さんは言った。二人には子供が出来なかった。出来ないはずだった。避妊の処置をとっていたかどうか、記憶には無いけれども、その女は石女であるとお父さんは信じていた。いいわ、写真を見たくないのなら、と女は捨鉢に言った。その代り、わたしと以前のように附き合ってよ。奥さんが病気のとき、わたしがほしくなるわ。それは出来ない、とお父さんは答えた。それから、なけなしの預金をはたいて、女に手切れ金を払ったのだった……。

 ――どうしたの? 急に黙りこんじゃって。眠いの?

 女の声がした。お父さんは夢を見ていたのか。何か喋っていたのか。酔いが急に廻って来たように思えた。

 ――ちょっとお水を下さい。

 ――飲みすぎたのね。深酒はいけないわよ。あなたはいつでもそうだったわ。

 女の指がお父さんの背中に触れる。

 ――もう俺帰るよ。あてられっぱなしだから。頼みますよ、奥さん。

 同僚が席を立つ気配を感じたあと、お父さんはまた眠りこんでしまったらしい。

 気がついたときは朝だった。自分の大声で眼を覚ました。咽喉が焼けつくように乾いている。無意識のうちに起きて、コップの水を続けざまに二杯飲んだ。そうしてお父さんは、お母さんやお前の居る家に帰って寝ていたことに気づいたのだった。枕許のあちこちに脱ぎ捨てたままのズボンやワイシャツ、椅子に乱暴に引っ掛けられた上着が、昨夜のお父さんの酔っ払った姿を想像させた。併し、朧げに憶えているのは、タクシーを降り、独りで歩いて団地の階段を上ったことだった。鍵を開けると玄関は真暗で、台所の流しの上に点いている小さな蛍光燈だけが、部屋の中を淡く照らしていた。テーブルに夕食の用意がしてあり、白い布巾が掛かっていた。ああ、俺は何をしてたんだ、早く帰るつもりだったのに、とお父さんはそのとき一瞬酔いから醒めたのだった。ベビーシューと書いた小さな紙箱がある。シュークリームの箱だろうか。銀座へ出てお土産に買って来たのだろう。その傍に百貨店の小さな袋が置いてあって、中を覗くと女物のハンカチが入っていた。買ってきたハンカチを見せるつもりだったのだろう。お父さんの帰りを遅くまで待っていたお母さんの様子が、ありありと眼に浮んだ。台所の隣の部屋で、お母さんもお前も無心に眠っている。お父さんはすまないと思った。お母さんの頬に口づけをして、

 ――シュークリームを買って来たんだね。

 と言ったら、お母さんは口をもぐもぐ動かして、

 ――シュークリーム、ピザパイ。

 と寝言で答えた。お父さんの眼から思わず大粒の泪がこぼれた。一体自分は何をしていたんだ。どこまでが仕事で遅くなったと言えるのだろうか。この広い世界で、お父さん一人を頼りにしているこんな可愛いお母さんを放っておいて、自分はどこをうろついていたんだ。

 朝、台所で水を飲んでいるとき、昨夜みた奇妙な夢をふと思い出した。お父さんはタクシーに乗っているらしかった。隣の席にあの女が居た。タクシーがどこへ向っているのかわからなかった。家へ帰る途中なのだろうか。女のアパートへでも行くのだろうか。

 ――わたし、あなたと奥さんを産院で見かけたわ。

 と女が言った。

 ――産院? どこの?

 ――ほら、団地の中にあるK医院よ。小高い丘の上にあって、ゴリラみたいなお医者さまの居る。

 ――それはいつのこと?

 ――アキラちゃんの生れたときよ。

 ――どうしてきみがアキラのことを知ってるんだ。

 ――だって、あのときわたしも入院してたんですもの。

 ――入院?

 ――あら、そんな顔をしないで。赤ちゃんを産むためよ、あなたの。

 お父さんの囲りには、いつのまにか何人かの女たちが居た。どの顔にも見覚えがあった。酒場のようだった。アパートの一室のようでもあった。大きな車で揺られているようにも思えた。

 ――変な冗談は止してくれよ。

 ――あら、怒ったの? あなたの赤ちゃんよ。わたし、いつか言ったでしょう? 子供はあなたの怒った顔にそっくりだ、って。

 ――併し、日が合わないよ。きみとはしばらく会ってないんだから。

 ――そんなこと証明できて?

 ――でも、何故同じ病院に?

 ――偶然よ。それだけのことよ。わたしは部屋の窓からいつも視ていたわ。お弁当と、お茶でも入っているんでしょう魔法瓶を持って、いそいそと病院の門をくぐるあなたの姿を。わたしは憎かった。あなたが幸せな結婚生活を送っている姿が。本当はわたしと結婚すべきだったのよ。それなのにわたしは、見舞いに来てくれる人も無く、独り淋しくベッドに臥せっていたわ。だから、わたし、あなたの赤ちゃんを取り替えたのよ。アキラちゃんっていうのは、本当はわたしの産んだ父無し子よ。あなた方はわたしの産んだ子供を育てているのよ。

 ――嘘だ! みんな嘘だ!

 大きな声を出して、お父さんは夢から覚めたのだった。

 

          10

 

 最近お前は変な癖をおぼえた。お父さんには、初め何をしているのかわからなかったが、お母さんに言われて気がついた。蒲団が敷いてあれば蒲団の上で、敷いてないときは畳の上で、お前は俯せになり、まるで尺取虫になったように腰を上下させている。

 ――またしてる。コラッ!

 お母さんがお前の尻をぶった。そうして、お前の襁褓カバーを勢よく外したら、お前のあの小さなペニスが直立しているではないか。鳥の嘴みたいに尖端が少し曲って、赤唐辛子色に染まっている。お母さんはお前のペニスを摘んで、邪慳に抓った。アガー、アガー、とお前が声をあげた。

 ――こんなことをまたしたら、オチンチン切っちゃうぞ。ほんとに碌なことをおぼえないんだからッ。オシッコもお便所でちゃんとしないくせに。

 恐らくお父さんは、哀れな動物を眺めると同じ眼付きでお前を視ていたことだろう。お前はオナニーに耽っていたらしい。いつのまにこんな行為をおぼえたのだろう。性の愉しみは、別に誰が教え込まなくても自然に習得するらしい。幼児が欄干に跨って、快楽を味わっている話を聞いたことがある。併し、それは智恵が遅れたお前には無縁のことだと思っていた。そう言えば思い出した。十八になる子で、女性を見ると興味を示し、抱きつく癖のある男の子が居たっけ。その子の父親は、毎朝息子を柱に縛りつけ、パンツを下して、生い繁った下草の中に逞しく屹立しているペニスを掴み、父親自らがしごいて、白濁した粘液を放出させてやるのだった。父親は、息子の歓喜の表情を見るたびに泪を落した。それが日課になっていても、息子の勃起したペニスを拝むと、哀れで哀れで、泪が溢れてきて仕方がないのです、と父親は語った。お父さんとお前にもそんな日が来るのだろうか。知能は赤子のままで、お前の肉体だけが成長し、いつか異性との肉の交りを恋うる日がやって来るのだろうか。そうなったら、お父さんはどうしたらいい? ああ、それならいっそ、みんなからまだ可愛いと言われているうちに、鳥にでも変身して死んでしまったほうがいいのではないか。

 お父さんは、先日の奇妙な夢のことを時々思い出す。夢の中で女が語ったことは、お父さんの頭が生み出したことなのだろうか。もしかすると、本当に女がタクシーの中で話した言葉ではないか。お前は産院ですり替えられた。お父さんとお母さんが我子だと思って育てているお前は、実は赤の他人なのだ。お母さんは、お前が自分に似ていないと口癖のように言っているではないか。だからといって、どうなんだ、とお父さんは自問してみる。九年間、お前を健康な普通の子供のようにしつけようと、お母さんは躍起になってきた。併し、お前はお母さんの努力に殆ど酬いなかった。手掴みでもなんとか食べられるようになったが、一日に何回も見境なく食べる物をほしがり、食事の用意が出来るまで台所の椅子に坐って、掌を口に当てギーッと喚きつづけている。歩けるようになったと言っても、せいぜい五分で、すぐ抱っこを要求する。お母さんは育児の苦労から解放されることなく年老いて、白髪頭になり腰が曲っても、毎日毎日襁褓の山と戦うのだろうか。雨が降ると、部屋の中にロープが張りめぐらされ、鴨居には破れ傘の形をした襁褓干しが蝙蝠のようにぶら下り、頭の上に襁褓の旗がはためく。九年間、この状態が続いている。お母さんは、朝、お前を養護学校へ連れて行く前に洗濯し、夜、お父さんが会社から帰ってきたときも洗濯していることがある。洗濯機が廻る音とお前の甲高い声。家の中はいつも旋盤工場のように騒がしい。洗濯機が故障したとき、お母さんは泣いた。泣きながら盥で洗濯していた。お父さんは見兼ねて襁褓絞りを手伝った。オシッコで濡れた襁褓は何十枚もあって、掌が次第に真赤になり、ひりひりした。親孝行をしろとは言わないけれど、この現実をお前はどう受け止めているのか知りたい。

 仮にお前の実の両親がどこかに生きていて、そんなことはあり得ないと思うけれど、この子こそあなた方の本当の子供ですよ、と言って、五体満足で神様から人並みの智恵を授けられた子供を、お前との交換に差出したとしても、お父さんとお母さんは重度の精薄であるお前を手放すことができないだろう。それは何故だろう。お父さんにもわからないのだ。

 

          11

 

 秋晴れの爽やかな日曜日だった。昨夜まで吹き荒れた台風が日本海のほうへ通り抜け、東京には珍しく青空が覗いた。団地の中の街路樹はすっかり葉を落してしまい、黄ばみかけた芝生の上には、どこから飛んで来たのか布切れや木片や新聞紙などが散らばり、ちょうど航空機の事故現場のような有様だった。けれども、降りそそぐ陽光は、いわば修羅場を補って余りあるほど豊穣で、お父さんは知らず識らず口笛を吹いていたぐらいである。階段の掃除や窓拭きを始める人たち、野球のグラヴやバドミントンのラケットを手に、いそいそと外出する親子など、建物の囲りには平和な光が充ち満ちていた。

 お父さんはベランダへ出て、久し振りに日曜大工に精を出した。洗濯機を置く台をつくってほしい、とお母さんに頼まれたのだ。鋸を使うと漂ってくる木の香りは、お父さんを幸せな気分にした。あまり頑丈とは言えなかったが、木材を何枚も重ねて補強した不恰好な台が出来上り、その上に洗濯機を載せようと、お母さんと一緒に洗濯機の下に手を掛けたとき、お父さんは怖しいものを見てしまった。ベランダのコンクリートの囲いの上に、お前がちょこんと坐っていたのだ。今朝お母さんが囲いの上に蒲団を干しておいたのだが、お前は御丁寧に座蒲団の上へ腰掛けて、脚を外へ向け、愉しそうに両腕を揺すっていた。お前の背中は小さく頼りなげに見えた。お前の姿は、人間と言うよりも猫のようだった。いや、猫と言うよりも、別の星からやって来た宇宙人のように思えた。世界が一瞬止った、という表現はこんなときに使うのだろう。お父さんは洗濯機を放り出し、僅か五メートルばかりの距離を全速力で走った。お母さんが忍び足で近寄ったのとは反対に、つむじ風を起して……。併し、ああ、お前はコンクリートの囲いの上にじかに坐っていたのでない。滑りやすい座蒲団の上に、不安定な恰好で腰掛けていたのだ。

 アキラ、お父さんにはお前を殺すことが出来た。洗濯機を台の上に載せるとき、ベランダにお前が坐っていることに気づきながら、仕事に精を出す。そうして、到着する前に子供が落ちてしまったんです、とお父さんは泣き叫ぶ。裁判所は言うだろう。両親がもっと慎重に行動して監督を怠らなかったら、この事件は起らなかったであろう。併し、知恵遅れの子供であってみれば、この死は不可避であったと言えるかも知れない、と。お前を突落しておいてから、子供の洋服を掴もうとして慌てて座蒲団を掴んでしまったんです、と泪ながらに弁明をすることも出来る。だが、お父さんはいずれの罪も犯さなかった……。

 お父さんはタックルするようにお前を背後から乱暴に掴まえると、脚に座蒲団が絡まるのも構わず、引き摺り下したのだ。それから、お前が恐怖に顔を引攣らせるほど、顔と言わず尻と言わず、身体中を力任せに平手打ちした。

 ――バカ! バカ! バカ!

 この言葉はお父さんにとって禁句のはずだった。お前が馬鹿であっても、馬鹿と呼んではいけない、とつねづね言っていた。お母さんが不用意に発すると、お父さんは腹を立てた。それなのに、お父さんは一瞬我を忘れた。怒りから出たのでは勿論無かった。哀しみのせいだった。お前が馬鹿であること、そんな高い所に居ると落ちて死ぬことのわからない馬鹿であることが、口惜しくてならなかった。お前を平手打ちしながら、お父さんは泣いた。お前なんか死んじまえ、と叫んで、お父さんは泣いた。お父さんはあの情景を思い出すのが怖い。背景には燦々と陽光がきらめいていながら、お前の周囲には死の影が陽炎のように立ち昇っている。

 

          12

 

 アキラ、お父さんの最も怖れていた日が来た。お前が四階から落ちたのだ。

 お前はベランダの囲いの上から、下の芝生へ真逆様に落ちた。天女の羽衣のように洋服を風になびかせ、指をひらひらさせながら、お前はゆっくり墜落して行った。ドカン、と大きな音がした。

 ――アキラ! アキラ!

 お父さんは叫びながら、ベランダへ駈け寄ろうとした。併し、お母さんに阻まれた。

 ――落ちたァ。アキラが落ちたァ。

 何故お母さんは邪魔をするのだ。アキラが落ちたじゃないか。アキラは死んじゃうよ。お父さんは、お母さんを振切ろうとして、板の間に転んだ。硝子に頭をぶつけた。

 ――パパ、なに寝惚けてるんですか。パパ、しっかりしてちょうだい。

 ――アキラ! アキラが落ちたァ。

 ――アキラはそこに居るじゃありませんか。

 ――アキラが落ちたァ。

 ――ほら。パパ、ここに居ますよ。見てちょうだい。アキラですよ。パパ。ほら、アキラはここに居ますよ。

 お父さんは、お前の墜落を夢だと気づくまでに、永い時間を要した。お父さんは昼寝の夢を見ていたらしい。あんな怖いパパの顔、初めて見た、とお母さんが言った。本当に気が狂ったのかと思ったわ。私が止めなかったら、ベランダから下へ落ちてたわよ。膝小僧に血が滲んでいた。ひりつく痛みが、六日前の死の情景をお父さんの脳裡にあざやかに映し出した。

 アキラ、お前は四階から真逆様に落ちるとき、何を顧うだろう。短い人生について考えるだろうか。お父さんやお母さんのことを思い出すだろうか。恐らく何も考えないのだろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/19

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松代 達生

マツシロ タツオ
まつしろ たつお 小説家 1934年 兵庫県神戸市に生れる。

掲載作は、1977(昭和52)年「文學界」第44回新人賞佳作(この回受賞作なし)として、「文學界」同年6月号初出。

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