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五月の朝

 (きよ)はこの二、三日、軽い腹痛を訴えていた。深夜うなされたように、痛い痛い、と声を出し、一郎は起きて背中をさすってやった。風が窓を叩く音や、国道を通り過ぎる長距離トラックの音までが、一郎には清の声に聞え、夜中に蒲団を蹴って跳び起きたりした。

 その朝も、自分の名前を呼ばれたような気がして目を覚ますと、隣に寝ているはずの清の姿が無かった。枕許の時計を()ると六時半だった。一郎は大声で清を呼んだ。

 返事の代りに、台所のほうで音がした。アパートは寝室と台所との二間きりで、台所の板の間に浴室と手洗いがついていた。台所との境の戸を開けると、手洗いから燈が洩れ、やがて清の顔が覗いた。少女の幼さがまだ残っている顔は蒼白く、血の気が無かった。戸口からよろめき出て、

 「一郎さん、わたし……」

 板の間に正座するような恰好で坐った。浴衣の上から、円い大きな腹の脈打っている様がはっきり見えた。

 「ピンクのおしっこが出ちゃったの」

 泪声だった。

 「ピンク?」

 「赤ちゃんが流れちゃったのよ。わたしたちの赤ちゃんが……」

 出産予定日を過ぎているのに、流産するはずはない。一郎は、昨夜読み返していたお産の本のことをふと思い出した。破水じゃないかと考え、脚にしがみつこうとする清の手を静かに振りほどくと、額に触った。熱は無さそうだった。

 破水を起すと細菌感染の危険が高くなる。本にはそう書いてあった。細菌感染すると、高熱が出て羊水が混濁し、赤ちゃんも危険に瀕する、と。取返しのつかぬことになりはしないか、という不安が一郎の頭を去来した。

 もし破水だったら……、と言いかけて、一郎は止めた。

 清は顔をあげて、まるでこの日を待っていたかのように、暗誦口調で言った。

 「電話して下さいますか? まずお医者さまに。それから、タクシー会社へ」

 「そんなことをお前が心配しなくていい!」

 一郎は呶鳴った。

 清の眼が潤んでいた。やけに自分が昂奮していると思い、一郎は、意味もなく清の背中をさすりながら、落着くんだ、と心の中で呪文のように唱えた。

 手を貸して清を蒲団の上まで連れて来ると、急いでパジャマを脱ぎ捨て、不断着に着替えた。シャツの釦を留めるのがもどかしかった。

 動いてはいけないよ、すぐに戻るからと言い置き、下駄を突っかけると、アパートの階段を転げるように降りて、角の酒屋の所にある公衆電話まで駈けて行った。順番を待っている人が一人も居ないのに、遠くから受話器を引ったくった。

 看護婦らしい女の声がして、かかりつけの産婦人科医が電話口に出るまで、少し待たされた。一郎は早口で症状を説明した。

 医師は説明を聞き了ると、多分早期破水だろう、と言った。しかし診察しないとわからないから、清潔な脱脂綿を厚く重ねて、丁字帯で押え、なるべく動かさないようにしてすぐ来なさい。羊水さえ多量に流れ出ていなければ大丈夫だから、と一郎をなだめた。

 タクシー会社を呼出す前に、一郎は、一旦家へ帰るべきかと逡巡した。アパートの二階の部屋に、清ひとり残していることが気がかりである。見上げると、屋根の上で雀が騒いでいた。一郎は気を取り直して、再び受話器を掴んだ。

 配車係は気のいい男だった。営業は七時からだけれど、お産は一生の大事です、すぐに一台廻しましょう、と約束してくれた。

 電話を切ると同時に、一郎は駆け出して、勢よく階段を上った。鉄の階段は軋んだ音を立て、家全体が揺れているような錯覚に捉えられた。

 清は、浴衣姿のまま横坐りになって、ぼんやり畳の目を見ていた。まだ梳いていない頭髪が耳のあたりに渦巻いている。一郎を見上げた顔は、化粧していないことも手伝って、病人の肌だった。

 一郎は大きく息を吐きながら、

 「心配しないで、静かに来なさい、って」

 破水かも知れない、と医師が言ったことを黙っていた。

 タクシーのことを話そうとして、ふと一郎は、部屋の中が広くなっていることに気づいた。先刻まで部屋を占領していた敷蒲団は、いつのまにか、部屋の片隅に三つ折にして重ねられている。

 一郎は清を視た。清は、一郎が脱ぎ捨てていったパジャマを畳んでいた。

 「何をしているんだ?」

 咎めるように尋ねた。

 「部屋の中を片づけてるんです。見納めかも知れない、と思って……」

 「バカ!」

 一郎は大声を出した。

 「そんなことをする暇があったら、着替えなさい」

 清の着替えが済むと、一郎は寿の風呂敷包みを抱えた。風呂敷の中には、清が入院のときいつでもすぐ携えて行けるように、赤ちゃんの襁褓(おしめ)や肌着などが入っていた。診察券と母子手帳と保険証は入れたね、と一郎は確かめた。

 自動車の警笛の音が聞えた。二階の窓から覗くと、タクシーがアパートの前に停っていた。ちょっと待って下さい、と一郎は手を振って合図した。

 風呂敷包みを手にした一郎は、右手で清の身体をかばうようにして、清の足運びを看守りながら、アパートの階段をゆっくり降りた。肩に清の手が感じられた。

 「じくじくしてる」

 と清が言った。

 「赤ちゃんが浸み出してくるみたい」

 アパートの階段は、産月の妊婦が降りるのには少し急だった。どうしてこんな階段のあるアパートを選んだのだろう。階段が揺れるたびに、一郎は腹を立てた。

 トレーニング・シャツ姿の少女と父親が、階段を見上げながら走っていった。庇のついた帽子をかぶっている五十がらみの運転手が、タクシーのドアを開けて待っていた。

 清を先に乗せ、シートに落着くのを見定めてから一郎は乗込んだ。人の好さそうな赤ら顔の運転手は、忘れ物はありませんか、大丈夫ですか、と念を押して、手で客室のドアを閉め、前へ廻って運転席に着いた。

 スピードを出さなくていいですから、道のいい所を選んで、ゆっくり行って下さい、と一郎が言った。承知しました、とバック・ミラーの中の一郎に答えてから、運転手は脱いだ帽子を助手席に置き、

 「奥さん、今日は大安だよ。めでたい日に子供を産むなんて、良かったですね」

 と清に言った。清は、下腹を押えた姿勢のまま、小さな声で、ありがとう、と答えた。

 病院に着くまで、一郎は道路の凹凸に冷や冷やし通しだった。運転手は、自分の子供が生れたときの話に夢中だった。その分だけハンドルがお留守になっているのではないか、と一郎はいらいらした。

 清が診察室へ消えたあと、一郎は、待合室に掛かっている離乳食の表を茫然と眺めていた。もしあれが破水とすれば、何故起ったのだろう。一郎の脳裡を、一年ばかり前の不幸な事件がよぎった。だがすぐに、一郎はそれを否定した。睡眠薬なんて関係ないさ、と呟いた。それよりも、自分は清に何かしなかったろうか、と考えてみた。重い物を清が持つことは禁じていたし、ふだん家事を手伝わない一郎も、休みの日には買い物に付合ったりして、なるべく清に負担をかけないよう、注意していたはずだった。しかし、自分は良い夫である、と胸を張って言い切る自信は無かった。酔払って帰宅することは間々あったし、テレビを観ながらウイスキーの瓶を半分(から)にするほど、酒が好きだった。ビールを一口飲んだだけで顔が赤くなる清は、手持無沙汰に一郎の傍で付出しをつまみながら、酒飲みの子供は頭が悪くなるって言うわよ、と時にはウイスキーを瓶ごと背中の後に隠したりした。酒が胎児に影響を及ぼすと考えるのは杞憂に過ぎない、と一郎は瓶を奪い取るけれど、一抹の不安が無い訳ではなかった。羊水が流れ出してしまうと赤子が仮死状態になり難産になる、と誰かに聞いた話を思い出したりしたが、一郎としては医者の電話の言葉を信じたかった。

 待合室の一方は病院の庭に面していて、ガラス戸を通して射し入る朝の潤沢な光が、一郎のスリッパを舐めていた。雑草ばかりが伸び放題に繁っている庭の真中に、空の物干し台があり、雄鶏が一羽、あたりを睥睨しながら庭を横切って行った。

 男の子が生れたら大学院へ、女の子でも大学まで行かせてやるのよ、と清が言っていたことを一郎は思い出した。清と結婚するとき、学歴のことで一郎は家族に反対された。一郎が大学出であるのに、清は高校しか出ていないことを、家族は問題にした。実にくだらない、と一郎は一蹴したが、それは尾を引いた。周囲の賛同を得て結婚にこぎつけるまでに、永い時間を要した。大学出の娘たちの見合写真と釣書(つりがき)が、母を通じて次々に届けられ、一郎はそれを黙殺するのに大童だった。清はそのことを怨んでいるらしかった。一郎は、自分の息子と一緒に酒を酌み交す図を想像した。しかし、何故か生れてくる子供が女の子であるような予感がした。年齢が二十八も離れていれば、もう恋人気取りでもないだろうけど、娘と連れ立って歩くところを夢想すると、病院の待合室に居ることを一瞬忘れるのだった。

 踵に刺すような痛みを覚えて、我に返ると、蟻が踝に止っていた。体長が一センチもありそうな大きな蟻だった。黒褐色だが、ところどころ砂にまみれて白っぽくなっていた。踝のあたりを右に左に動き廻りながら、触覚と顎を小刻みに震わせている。一郎は、蟻を殺そうとして出した手を途中で引込めた。ガラス戸を開け、足を振って蟻を庭へ追い払った。蟻は、ジグザグによろけながら、見るまに叢の中へ消えた。

 そのとき、診察室のドアが開いて、医師夫人の顔が覗いた。細面で片方の眼は少し吊り眼だったが、険は無かった。

 「御主人様もどうぞお入り下さい」

 その言葉には暖かみがあって、一郎は救われたと思った。しかし、診察室の中は薄暗く、消毒液の異臭が鼻をついていて、一郎の心を再び暗くした。

 正面の高窓の下に、黒縁の眼鏡をかけた小肥りの医師が、机を背にして坐っていた。やや禿げ上った額に頭髪が数本垂れ下り、顔の皮膚は陽焼けして浅黒かった。清はベッドに横たわって、心なし痩せ細った蒼白い顔で一郎のほうを視ていた。ベッドの傍に、看護婦にしては歳をとりすぎた老女が立っていた。

 「どうでしょうか?」

 一郎は()き込んで訊いた。

 「まあ、お掛けなさい」

 眼鏡の奥の柔和な眼が、静かに一郎へ椅子をすすめた。そして、自分の話に一語一語頷くように、首を振って言った。

 「御主人が御心配の通り、破水です」

 一郎は唾を呑みこんだ。

 「しかし、破水といっても、大したことはありません。但し、これからは動かさないほうがいい。今から入院していただきましょう」

 医師がこちらの眼を凝視(みつ)めて、きっぱりと言った。一郎はほっとした。

 「生れるのはいつですか?」

 おずおずと尋ねた。

 医師はちょっと考え込んで、清のほうを何となく瞥ながら、

 「それはまだ何とも……。まあ、陣痛が始っているから、あと十五時間、いや、二十時間掛かるかな」

 一郎は、そんなに掛かると思っていなかった。

 「じゃ、私は家へ帰っていたほうがいいですね」

 と言った。

 妻は里帰りして子供を産むものだという話を、会社の同僚から一郎はよく聞かされていた。出産の一カ月前に里帰りして、子供が無事に生れると夫へ電話で(しら)せ、夫は病院で初めて我子と対面する。妻の実家が遠く離れている場合、夫が赤子に会いに出掛ける行事は、いわば小旅行の観があって、仕事の都合上、一日二日と延ばすことはざらだった。妻が退院してから床上げまでの乳児の世話も大変なことで、それを全部実家に押しつけ、妻が夫のところへ帰って来たときには子供の顔がすっかり変っていた、などという話も満更不思議ではなかった。しかし一郎は、こんな夫を無責任な親だと思った。清が里帰りしないのに特別の理由があるとは思えなかった。実家にはまだ結婚していない兄弟たちもいて、帰り辛かったけれど、近いからいつでも世話になれる、と思っていたのだろう。清が里帰りしたいと言えば、敢えて反対するつもりはなかった。ただ、出来ることなら親の世話にならないで済ませたい、と考えていた。

 「おやおや」

 一郎の傍に立っていた医師夫人は、驚きの声をあげ、机に歩み寄ると、真正面から一郎を凝視めた。この病院は夫婦共に産婦人科医で、二人で同時に一人の患者を診察するのだということを、そのときになって一郎は思い出した。

 医師夫人は、医師と目配せするように微笑し合って、

 「この御主人様は、奥様ひとりで可愛い子供を産ませるつもりね」

 「いえ、そんな……」

 一郎は慌てて、口籠った。

 医師夫人の吊り眼が悪戯っ子のように輝いた。起き抜けのせいか、まだ梳いていない乱れ髪に手をやって、

 「この病院では、御夫婦が力を合せて子供を産んでいただく慣わしになってるんですよ。これから生れる子供は、お二人が愛し合っておつくりになったものでしょう? だったら、産むときもお二人の愛情で産むべきです。御主人に奥様の手を握ってもらって、心を通わせながら産む。……どうです? お嫌ですか?」

 一郎は驚いた。こんな話は初耳だった。

 子供の頃、母親が自宅で出産するときも、男は産室に入るものではないと聞かされていた。出産は、女にとって神聖にして侵すべからざる厳粛な儀式であって、産婦人科医と助産婦以外は立会人になれないものと信じていた。

 「ありがとうございます。自分の子供の生れる所が見られるなんて」

 素直に感謝した。

 「黙って見てるんじゃありませんよ。奥様と御一緒に産むんですよ」

 医師夫人が釘をさした。一郎は黙って頭を下げた。我子の誕生の場に父親として立会えようとは、つい今し方まで想像さえしていなかった。

 「さ、それじゃ分娩室のほうへ」

 医師夫人と一郎とのやりとりを黙って聞いていた医師が、部屋を出て行った。一郎も席を立った。清はベッドから起上ろうとしていた。

 「奥様は乱暴に動いちゃいけないから、御主人様に抱っこしてもらいなさい」

 と医師夫人が止めた。

 清は眼を丸くして、

 「先生、そんな……」

 小さな声で、恥ずかしいわ、と付加えた。

 医師夫人は、子供の悪戯を見つけたように、腰に両手を当てて、

 「そんなこと言ってていいの? あなたは今が一番大事な身体なのよ」

 と清を睨みつけた。

 一郎は清の身体を横抱きにして立上った。前搏に清の重みがかかり、肘を身体に押しつけると、二の腕で力瘤の盛上るのが感じられた。

 西洋では、花婿が花嫁をウェディング・ドレスのまま抱きかかえて、ベッドまで連れて来るでしょ、あれと同じことをしてよね。こう言って清が甘えたことを、一郎は思い出した。最初の夜は、そんなふざけたことをする心の余裕など二人には無かったので、実際に清を抱き上げたのは、結婚して一週間も経った頃だったろう。自分で言い出したことだけど恥ずかしい、と逃げる清を、押入の前まで追いつめ、左手を清の(うなじ)に廻して、接吻しながら抱き上げた。しばらく脚をばたばたして、冗談に抵抗する振りをした清が、一郎の頸に腕を廻して、一郎さんは力があるのね、と言った。安心したわ、わたしが病気になって、担架が無くても大丈夫ね。――

 「重くなったでしょう?」

 照れ臭そうに清は囁いて、妊婦服の裾を直した。

 結婚したときは細かったけれど、まだ少女の脚をしていた。今その脚は、自分の体重に加え、さらに胎児の体重を十カ月間支えてきて、幾分太りぎみになり、艶が無かった。股のあたりにも余分な脂肪がついていた。

 「ね、一郎さんはわたしを放っておいて、家へ帰るつもりだったの?」

 清が詰問するように言った。一郎が戸惑った顔をするのにかぶせて、清は、この病院のシステムを前以て知っていた、と無邪気に告白した。一郎がそのことを知ったとき、どんな狼狽ぶりを示すのかを見たかったのだ、と鼻の頭に皺を寄せた。一郎は苦笑した。だが、清の告白は不快ではなかった。一瞬でも微笑む心のゆとりを、清が取戻したことを一郎は喜んだ。

 分娩室は畳敷きの部屋だった。庭に面した渡り廊下からガラス戸を開けると、二畳分くらいの板の間があり、その向うに四畳の畳がつながっていた。気のせいか消毒液の臭いがした。正面左は押入、右には幅一間の床の間があり、盆栽の松の上に山水画の軸が掛かっていた。右手は腰の高さの窓で、障子を透して朝の光が部屋の中に射し込んでいる。

 「畳のほうが産みやすいんですよ」

 部屋の中を見廻している一郎に、医師夫人が言った。

 風呂敷包みを持ってくれた老女が、押入から蒲団を取出し、かいがいしく床をのべた。蒲団の上に黒いゴムのマットを敷き、その上にシーツをかぶせた。

 白衣の裾から和服が見え隠れするその老女は、助産婦であろう。頭髪は黒かったが、鬢は真白で、頭頂部の髪の分け目にも白い髪が覗いていた。どうやら髪を黒く染めているらしい。化粧っ気のない顔は皺も少くて、福々しく見えたが、節くれ立った指には老いの年輪が感じられた。

 「朝御飯、まだですね。もう少ししたら奥様のをお持ちしますから」

 と老女が言った。

 「御主人は外で召上って来て下さい」

 一郎は、いま蒲団の上へ寝かせたばかりの清を視た。清は、はにかんだように、大丈夫よ、でも早く帰って来てね、と言った。一郎には食慾が無かった。まだいいんだよ、と答えて、障子窓を開けた。

 障子の向うはガラス窓だった。塀に遮られて外の景色は見えないけれど、国鉄の駅に近いせいか、人々の話し声と足音が通ってゆく。電車の到着を告げるアナウンスの声が風に乗って流れてきた。いつもなら慌しく出勤の準備を始めるところなのにと思うと、こんな部屋の中に居る自分に、一郎は戸惑いを覚えた。踏切の警報器が鳴っている。一郎は静かに障子を閉めた。清がこちらを視ていた。

 やっぱり出掛けて来るよ、と一郎は断って、清の視線を背中に感じながら部屋を出た。我物顔に庭を闊歩していた雄鶏が、一郎の姿を認め、立止って空を仰ぎ、一声高らかに鳴いた。

 五月の空は少し曇っていたが、青く光っているように見えた。駅前商店街では、商人たちが朝の店開きに忙しかった。彼等の眼には、自分が旅行者のように映らないだろうか、と一郎は思った。

 一郎はパン屋でサンドイッチと牛乳を買った。清が欲しがるかも知れないと思い、二人分求めた。それから、始業時刻にはまだ早かったので、会社の同僚の自宅へ電話を入れ、欠勤の報告をたのんだ。

 電話を切って歩き出した一郎は、

 「お釣ですよ」

 と呼ばれて、慌ててパン屋に引返した。今日はどうかしている、と一郎は反省した。

 端午の節句を過ぎてはいたが、まだ鯉幟がちらほら見受けられた。真鯉と緋鯉の下に何匹も鯉が連なって泳いでいるのもあった。日光や風雨に晒されて、少し色褪せている大きな鯉に比べ、小さな鯉たちは一様に真新しく見えた。自分がまもなく父親になると言うことは、嘘のような気がした。

 病院へ戻ると、清は浴衣姿で臥せっていた。蒲団の傍には、トーストに牛乳、野菜サラダなどが、金属のお盆の上に行儀よく並べられていた。

 清は上目づかいに一郎を瞥て、

 「朝御飯、少しは食べたのよ」

 と言った。しかし、牛乳はコップに半分残っていたし、トーストも齧りかけだった。

 「もっと食べないと、これからの時間は永いんですからね」

 付添っていた老助産婦が言った。一郎は、いま買ってきたばかりのサンドイッチを取出して、清にすすめた。清は(かぶり)を振った。

 清は、どことなく元気が無かった。時々額に縦皺を寄せたり、寝返りを打って溜息をついたりした。お腹が痛いのか、と尋ねると、痛くない、と答えるけれど、明らかに陣痛を隠していると一郎は思った。あっ、と微かに声を出したりするので、一郎に背を向けていても、痛みが訪れていると知れた。

 急に何か思い出したように、

 「今日は十二日よね」

 と清が言った。一郎はそれが何を意味するのか考えてみたが、わからなかった。五月は二人の結婚した月であり、十日ばかり前に、第一回目の結婚記念日を祝ったことしか思い浮ばなかった。

 一郎は、清に求婚する一週間前の夏の日のことを思い出した。その夜、一郎は清との交際を絶とうと考えていた。以前に付合っていた女が、一郎との関係を醜聞めかして清に喋ったという話を、その女から(じか)に聞かされた一郎は、清と別れようと決心した。いつもの約束の場所で清と待合せた一郎は、別れの言葉がすぐには言い辛くて、当り障りのない話題を選んで清の気を引いたが、ふだんは冗談の多いお喋りの清なのに、その夜は珍しく口数が少く、俯いてばかりいた。何か隠しているね、と一郎が問うても、清は否と答えるばかりだった。人通りの少い夜の舗道に反響する二人の沓音だけが、声高に喋っているように思えた。昔は河船が往き来したという古い橋の上で、一郎は足を停め、自分は清が隠している話を知っているのだ、と切出した。女が清にどんな話をしたのか、知る由も無いが、知りたくもない。女が語ったことは全て事実なのだ、と一郎は告白した。自分には、行きずりに知り合った女が大勢居るのだし、反吐を吐きたいほど悪い面が少しずつ(あらわ)れてきて、清ががっかりするに違いない。これまでの交際は無かったことにして、この際別れようではないか、と一郎は提案した。眼の中の真実を読みとろうとするように、一郎の話を真剣な眼差で聴いていた清が、いきなり、過去のことは過去のことです、と言った。わたしはあなたについて行きます。これからも同じように交際(つきあ)って下さい。河岸の料亭の燈が黒い水面に映って、光の漣をつくっていた。いつか後悔するよ、と一郎は言った。しかし、清は断乎として答えた。わたしは後悔なんかしません。自分で正しいと判断したことは、間違っていないと思います。清の濡れた黒い瞳の中に、晩い夏の星が光っていた。遠くの河岸の広告塔のネオンサインが、滲んだように瞬いていた。そのとき、清は二十歳(はたち)になったばかりであった。一郎は二十七歳だった。

 ――あのときから、もう一年八カ月経っていた。

 「さあさ、御主人は奥様の手の爪を切って下さいよ」

 医師夫人が爪切りを持ってやって来た。今は頭髪を後で無造作に、一つに束ねていた。

 「奥様にひっ掻かれないようにしないとね」

 吊り眼がウインクするように瞬いた。

 横を向いて痛みを(こら)えていたらしい清が、驚いて振向いた。浴衣の裾が乱れて、下の腰巻が覗いたのにも気づかず、

 「わたしがひっ掻くんですか?」

 と訊いた。

 「ええ、そうですよ。あのときは猫になっちゃうんですよ」

 医師夫人は、猫が鼠を捕る恰好をした。

 清の怪訝そうな顔を見ながら、猫になるって何だろう、と一郎も思った。医師夫人は二人の表情が可笑しいと言いたげに、白衣の袖で口を押えてから、また猫の真似をした。

 助産婦が清の腰巻を開いて、丸い腹を露出させた。一郎は見ていない振りをした。医師夫人は、白衣のポケットから遠眼鏡のような黒い筒を取り出して、広い口を清の腹にあてがい、ラッパの吹き口に似たもう一方の口に自分の耳をつけた。

 医師夫人の容貌が職業医師のものに変った。それから清に痛みの状態を尋ねた。清は、一郎に聞かれないよう気を使っているらしい声で、三十分置きくらいに痛むけれど大丈夫です、と答えた。

 「まだまだ、これからですよ」

 浴衣で清の腹を隠すと、医師夫人は一郎に聞えるように言って、部屋を出て行った。

 一郎が清の爪を切るのは、初めてのことだった。一郎の指は太くて、爪の形も扁平で不恰好なのに、清の指はそれと対照的に、細くて、卵形の爪をしていた。爪の表面に縦に筋が入っているのは気になったが、小爪の形は大きな半月だった。一郎が左手でそっと指を掴むと、爪の色は忽ち桜色に変り、小爪の白さがひときわ目立った。清の左手の薬指に金の指環が光っていた。

 一郎は深爪にならないよう、注意して切った。ついでに足の爪も切ろうか、と一郎が言うと、清は、エッチね、と答えたが拒まなかった。

 爪を切りながら、

 「鯉幟っていいもんだね」

 と一郎は言った。子供の頃、畳の上に拡げた鯉幟の胴の中に潜って遊んだことがある。

 「男の子かも知れないなあ」

 「一郎さんは、女の子の名前しか考えてないんでしょ?」

 と清が笑った。

 一郎は女の子の名前を、清と同じように一字名にしたかった。清の父は、男の子が生れると思って、「(きよし)」という男の名前だけ考えていたらしい。女の子が生れたので、漢字はそのままに、呼び方だけ「(きよ)」と変えた。小学校から高校まで、いつも男と間違えられたし、高校受験のときは男ばかりの席に並ばせられた、と清はいつも一郎にこぼしていた。二人で結婚届を役所へ持って行ったとき、戸籍係は訝しげに清の顔を視た。だから、清は自分の名前を嫌がって、平仮名で「きよ」と書いたりした。けれども、一郎は「清」という名が好きだった。言葉の響きもいいし、漢字の持つ意味もいい。男に間違えられるということは目立つことだから、すぐ憶えられていいではないか、と主張した。女の子なら、外に優しさをふり撒きながら、男に負けないほどの強さを内に秘めていて欲しい。最終候補に残っている女の子の名前は「(ゆみ)」だった。男の名前はまだ考えていなかった。

 いつか正午を過ぎていた。

 部屋のガラス戸を開け放っていたので、病院の庭が見晴らせた。一郎が気づかぬ間に、庭は洗濯物の満艦飾だった。白いシーツの上に小さな虫が止っている。てんとう虫のようだった。紋白蝶が二匹、交尾しながら飛んで行った。部屋の中で聞えるのは、清が吐く呼吸音だけだった。幼児の微かな歌声が窓の外を通り過ぎて行った。

 昼食の膳が運ばれてきた。焼魚に納豆、御飯に味噌汁、香の物が並んでいる。清には食慾が無さそうだった。何か食べないと元気が出ないと一郎に言われて、しぶしぶ箸をつけた。一郎は、残っていたサンドイッチをつまんだ。

 渡り廊下の向うから、女の啜り泣きが聞えた。その声は、

 「痛いよう、痛いよう」

 と叫んでいた。

 「ねえ、早く何とかしてえ」

 それは、可愛い我子を産む母親の声とはとても思えなかった。腹の中の異物を早く除去して欲しい、と(ねが)っている患者の泣き声だった。

 女の声に耳を澄ませていたらしい清が、顔を顰めた。

 「痛いのか?」

 と一郎が訊くと、清は腰の下に握り拳を当てて、

 「ううん、痛くない」

 と答えた。痩せ我慢を張っていることは明らかだった。

 食事の膳を下げに来た助産婦が、

 「痛いのなら、痛いって言ったほうがいいんですよ」

 と清に言った。

 「奥様は初めてなんですから。お隣の奥様は三度目なのよ」

 助産婦は清の腰のあたりをさすりながら、この痛みは男の人にはわからないですからね、と誰にともなく呟いて、皮膚が剥れてゆくようなのだ、と一郎に説明した。清の年齢が二十一だと知ると、若いママさんですね、と言ったあと、自分は十七のときに結婚して、十八で最初の子供を産んだ、と話した。

 一郎は助産婦の話を黙って聞いていた。妊娠だとわかった日、この若さで母親になるの、と清が呟いたことを一郎は思い出した。まだ何にも勉強してないのよ、と。昔の女はともかく、清が二十一歳で母親になるのは早過ぎたかな、と思った。勿論、無計画に子供をつくったのではなかった。清はまだ若かったから、二人だけの新婚生活を永く続け、遊びたいだけ遊び、勉強できることは勉強すればいい、と一郎は考えていた。

 学歴で結婚に反対されたことを、一郎は気にしなかった。けれども、もし世間の人が学歴のことをとやかく言うのなら、清も大学へ行けばいい、と一郎は提案した。短大に入ってもいいし、大学の聴講生になるのもいいではないか。何でも貪欲に勉強すればいい、と清を励ました。しかし、先に子供を産んでしまい、子供の手が離れてから稽古事をやる方法もある、と言った。そうして、家族計画に関する二人の結論は後者だった。受胎調節をせず、成行きに任せてみたのだ。

 結婚して三カ月ほど経った夏の午後だった。会社に居た一郎は清からの電話を受けた。清は絶え入りそうな声で、わたし、やっぱり赤ちゃんが出来たらしいの、と言った。この二、三日、清は身体がだるくて、何を食べても吐いてしまうと洩らしていた。ツワリじゃないか、と一郎が訊くと、生理不順なのでわからない、わたしは胃腸が丈夫じゃないから、多分お腹が悪いのだ、と清は答えた。産婦人科医院へ診察を受けに行くのを渋っている清に、今朝引導を渡したところだった。妊娠二カ月だと医者に言われた、と受話器の向うの清はべそをかいているようだった。結婚しているんだね、と言って、医者が疑わしそうにカルテを見直し、子供は欲しいのかと訊いたので、欲しいですと答えた、と清は跡切れ跡切れに説明した。一郎は、二十一になったばかりの清が、どんな姿で産婦人科医と応対したかと思うと、受話器を握っている清が哀れで、良かった、良かった、身体に気をつけるんだよ、と繰返すばかりであった。受話器を下し、机の前の白い壁を凝視めているうちに、一郎は複雑な思いに捉えられた。待ちに待った報せではなかったけれど、いずれは訪れる吉報であった。父親になるということを、今知っているのは自分だけなのだと思うと、みんなに大声で発表したい反面、ひとりで喜びを噛みしめていたかった。どうしたんだ、今日は変だぞ、と同僚に言われても、一郎は黙っていた。気分が悪いのだ、と嘘をついて一郎は早退し、本屋で妊産婦のための本を買った。それは一種気恥ずかしい経験であった。そのあと、レコード店に寄ってレコードを一枚買った。――

 部屋の中には午後の光がたゆたっていた。下校時に当るせいか、窓の外が急に騒がしくなった。女学生が友達と別れの言葉を交しているらしい。嬌声がして、乱れた沓音が遠ざかってゆく。清はさかんに寝返りを打っていた。

 「痛いのか?」

 と一郎が訊くと、

 「痛い、けど、痛くない」

 と答えた。泣き虫の意地っ張りめ、と一郎は思った。

 息づかいを聞いていると、今にも子供が生れそうに思えるのに、助産婦は、まだですよ、と言う。清に何をしてやればよいのか、一郎にはわからなかった。助産婦に代って、清の腰のあたりをさすった。清は首だけをこちらに向け、一郎に微笑もうとして顔を顰めた。

 「あっ」

 清はときどき声をあげた。一郎が様子を尋ねると、何でもないと答えるけれど、陣痛の間隔は先刻よりも短くなっているように感じられた。

 胎児は今、清の腹の中で何をしているのだろう。少しずつ頭を出そうと動かしているらしい、と本で得た知識で一郎は想像した。でも何故か、手足を伸ばして腹の中で暴れているのだと思えた。胎児が初めて腹の中で動いたとき、外へ飛び出してしまうのかと心配したわ、と清が言ったことをふと思い起したりした。

 病院の庭に夕闇が訪れようとしていた。洗濯物を取り込んでいる女性の足に、猫がじゃれついていた。

 清は船に揺られているように、身体をときどき動かしながら、眠り始めた。医師が回診に来て電燈を点けたとき、眼を開けて一言二言喋ったが、そのあとは正体もなく眠りつづけた。まだ当分、子供は生れそうになかった。

 つんと上を向いた清の小さな鼻を眺めているうちに、一郎は、清が新婚早々に鼻の手術をしたことを思い出した。あの頃、清は一つの事に熱中しようとすると、必ず頭痛が起きた。鼻が悪いのではないか、と一郎は言った。あとから思えば、自分には先天的に医者の素質があるのではないかと疑ったほど、一郎の診断は適中していた。鼻中隔彎曲症だった。骨を薄く削りとる手術をしなければならなかった。鼻が低くなるからいやだ、と清は反対した。生涯頭が痛くてもいいのか、と一郎は叱った。そうして、翌日、顔の真中に包帯を巻き付けた姿で、眼だけ光らせ、清は、鼻の低い子供が生れたら責任をとってもらう、と呟いた。――

 夜が更けると、一郎は三日続きの不眠で、ともすれば瞼が塞がりそうになるのを覚えた。

 「少しお(やす)みになったら、どうですか。私が奥様の様子を見てますから」

 と助産婦が言った。午後十時になっていた。

 手洗いに行くために廊下へ出ると、外燈に名前のわからない小さな虫が群がっていた。虫たちは、燈火の周囲を飽きることなく飛んでいた。仲間から外れて暗い地面に降りる虫もいたが、どこへ消えたのか、瞳を凝らして捜しても行方は掴めなかった。踏切の警報器の音が夜の空気を震わせていた。

 「何かあったら、すぐ起して下さい」

 一郎は助産婦に断って、清の傍の畳に手枕で寝転んだ。天井の板目を見ているうちに、いつのまにか微睡(まどろ)んでいた。

 どのくらい眠ったのかわからなかった。眠っている間も、絶えず清の腰をさすっていたような気がした。

 「あーっ」

 女の悲鳴を聞いたように思って、一郎は目が覚めた。

 清の蒲団の傍に助産婦が坐っている。それは一郎が目を瞑る前と同じ光景であったが、どことなく違っていた。耳を澄ますと、助産婦が清に、大丈夫ですか、しっかりして、と囁いている声が聞える。

 白衣の後姿にただならぬ気配を感じて、一郎は跳び起きた。

 「どうしたんですか?」

 と訊いた。

 「殺さないで……。お願い。……わたしの赤ちゃんを殺さないで」

 清だった。両手で自分の腹を抱え、目を瞑って、痙攣するように顔を振っている。目尻から泪が滲み出していた。

 「夢を見てらっしゃるんです」

 と助産婦が言った。

 一郎は清の名前を呼んだ。繰返し呼んだ。清が眼を開いた。夢を見ていたんだよ、と一郎が言った。

 清は二、三度眼をしばたいて、男が刀を振廻して追っかけて来た、お腹に刀が刺さった、とまた夢を思い出したらしく、泪を流した。それからしばらくして、大きく息を吐き出し、痛かった、と言った。

 もう清は、痛くないとは言わなかった。痛い痛い、と正直に訴えた。清の腰を強く圧しながら、出産は近いと一郎は思った。

 「いま何時?」

 清が訊いた。十二時少し前であった。

 一郎は時刻を告げて、もうすぐだよ、と清を励ました。清の頬が引き攣った。

 「もうすぐ……。もうすぐ大安が過ぎてしまうわ」

 と泣き声を出した。

 一郎には、清の言っている言葉の意味が最初掴めなかった。しかし、十三日が来る、と清が呟くのを聞いて、はっとした。清は、今朝タクシーの運転手が教えてくれたことを心の支えにしていたらしい。そうか、もうすぐ五月十三日か、と一郎は思った。縁起をかつぐ性質(たち)ではないけれど、せめて不吉と言われる日は避けて欲しかった。

 清の荒い息づかいが止った。

 「助けて!」

 いきなり、清が蒲団から乗り出して、一郎の胴に武者振りついてきた。

 額に油汗をかきながら、咽喉が乾いた犬のように口を開けて、清は荒い息を吐いた。そして、あっ、あっ、と声をあげ、一郎の胴を両腕で締めつけた。

 誰か来て下さい、と声に出そうとしたとき、異変を伝えに行った助産婦が、医師と医師夫人を連れて戻って来た。

 医師の顔は、一郎が最初に見たときとは全く違っていた。眼鏡の奥の眼は微笑んでいなかった。患者の症状の変化を細部まで見逃さない厳しい眼だった。

 医師は、全員にてきぱきと命令を発した。一郎は、清の枕許へ壁を背にして坐らされた。医師に命じられた通り、清の両手をしっかり握った。清は両脚を開いて立てた。

 消毒液の臭いが部屋のすみずみに拡がった。鋏、鉗子、臍帯剪刀、持針器、針と糸、臍帯をしばる紐、注射針、注射液、そのほかお産に必要な手術道具が、医師の手の届くところに並べられた。一郎はどの道具の名前も知らなかった。それらは、血の臭いを求めて鈍い光を放つ、おぞましい生き物としか思えなかった。

 清の足元には、障子を背にして左から医師、医師夫人、助産婦の三人が坐っていた。みんな一様に真剣な面持で、清の下腹部を凝視めていた。

 医師は、禿げ上った額の汗を拭きながら、ときどき傍の置時計を見やり、医師夫人は、清の足元を照らしているらしい電気スタンドの向きを調節しながら、何か小声で医師と話し合っていた。

 板の間には、いつのまにか産湯のための盥や体重計が用意され、白衣の袖を捲り上げた助産婦が控えていた。

 清は下半身を露わにしていたけれど、一郎の位置からは着衣に隠されて、立てた膝小僧が見えるだけだった。

 「くそっ」

 と清が叫んだ。一郎は、人前で清がそんな汚ない言葉を吐くのに驚いた。

 「くそっ」

 目を瞑ったまま叫んで、一郎の掌に清は爪を立てた。

 もっと爪を短く切っておけばよかったかな、と一郎は思った。そうして、そんなことを考える自分の気持を恥じた。

 頑張れ、と一郎は心の中で清に呼び掛けた。あのときのように、頑張れ。

 照りつける太陽が波に反射して眩しかった。小手をかざして、一郎は腰までの深さの海中に立っていた。赤い水泳帽をかぶった女が、もがくように波を掻いていた。尻が浮き上って、水飛沫ばかりが立ち、女は溺れているかに見えた。頑張れ、もう少し、と一郎が叫んだ。水面に浮いていた水泳帽が空へ持上り、清の顔が現れた。帽子を伝って、海水が顔の前を流れた。清は、顔を洗う仕種で海水を振り払いながら、駄目です、と言った。何言ってるんだ、まだ少しも泳いでいないぞ、と遠くから一郎が叫んだ。わたし、水が恐いんです、五メートルしか泳げないもの、と清が抗議した。おい、お前の名前が泣くぞ。男みたいな名前をしているくせに、そんな女々しいことを言ってどうする、と一郎が大声で叫んだ。結婚する前の夏の一日だった。水泳の得意な一郎が清の特訓を買って出た。清の両手を握って、バタ足の練習をさせ、海岸線に沿った浅瀬で五メートルの距離を測り、クロールで泳がせた。清の泳ぎは、バタフライか犬掻きに近かった。水を掻いてもなかなか進まなかった。一郎は清の泳ぎを看守りながら、水の中で一歩ずつ後退りして、泳ぐ距離を延ばしていった。頑張れ、と一郎は声を張り上げた。清は、酸素が少くなった水槽の中の金魚みたいに、口を開けて息をした。清には根性があるはずだ。男にも負けない粘りがある。頑張れ、と一郎は拳を握りしめた。――

 「えいくそっ」

 清は額に縦皺を寄せ、手に力を籠めた。爪が一郎の掌に食い入った。

 一郎はもう痛みを気にしなかった。清のいきみに合せて、拳に自然と力が入った。

 「顔でいきまないで」

 と医師が注意した。

 「便をするように、うーんと、そう、その調子で。……大きく深呼吸して」

 清は目を瞑って深呼吸していた。自宅で練習した通り、いきみを繰返していた。

 「初産の典型ね」

 と医師夫人が言った。

 「ようし、いきんでごらん。なかなか優秀。その調子」

 と医師が言った。

 「ベス」

 と清が呟いた。医師たちには聴き取れないぐらいか細い声だった。しかし一郎には、清が犬の名前を呼んでいると、はっきりわかった。庭のほうで犬の啼き声がしたようにも思えた。

 小さな犬だった。耳が垂れて、体つきがスマートで、艶々した茶色の毛並みをしていた。一郎が絵本で見つけたビーグルという犬に似ていた。尻尾の先が白くて、嬉しいことがあると、筆のように動かした。その子犬は、一郎が会社から帰る途中、ずっと後について来た。一郎が止ると犬も止り、歩き出すと犬も歩き、お互いに心を惹かれながら、アパートまで一緒に来た。それは、一郎と清が結婚してまもなくの頃だった。清は、その犬にベスと名付けた。牝犬だった。放し飼いにしていると、昼はアパートの階段を降りて、どこかで遊んでくるらしく、夜になると戻って来た。わたしがベスと呼ぶと、どこからともなく帰って来るのよ、と清は言った。夜、ベランダにつないでおくと、鼻を鳴らして、淋しそうに啼いた。部屋の中へ入れる訳にもゆかず、一郎が玄関の土間の所へ蓆を置いた。清が箱の中に布切れを敷きつめると、布切れと戯れながら、その中でおとなしく眠るようになった。清は、ベスに牛乳を飲ませ、汚れた体を風呂場で洗ってやったりした。昼間、自由に外を跳ね廻っているあいだに、二人の知らない所でベスは恋をしていた。清の腹が大きくなるにつれて、ベスの腹もふくらんできた。人間が畜生と一緒に孕むと、片輪の子供が生れるよ、と清の母が言った。一郎はそんな迷信を信じてはいなかった。でも、悪いことは極力避けたかった。初冬の日曜日の朝だった。ベスに食事を与えたあと、一郎と清は散歩に出た。松林の中を歩くと、木洩れ陽が二人の肩にさまざまな影絵を落した。ベスは頭を垂れ、枯れ葉の匂いを嗅ぎながら、後になり先になってついて来た。松林の途中で一郎と清は歩みを停めた。清が大きな腹を突出してしゃがむと、ベスは前肢で着物にじゃれついて、濡れた鼻を清の顔にすりつけた。清はベスの頭を撫で、説いて聞かせるように話した。ベス、わたしはね、お前をこれ以上育ててやれないの。お前と私が赤ちゃんを産む競争をする訳には行かないからね。清は泣き出した。ベスは丸い小さな眼をしばたいて、一郎と清の顔を交互に凝視めているだけだった。清、あとはぼくがする、お前は先に帰っていなさい、と一郎が言った。さあ、ベス、向うの端まで駈けっこだぞ。一郎が駆け出した。ベスも駈けた。松林が切れるあたりで一郎が停ると、ベスが跳びついてきて、一郎の顔を舐めた。松の木にベスの鎖をつなごうとして、一郎は止めた。ベス、清に健康な赤ちゃんが生れるように祈っておくれ。お前もいい子を産むんだよ。一郎はベスの体を抱えるようにして撫でた。ベスは舌を突出して一郎の指を舐めた。風が吹いて来て、松の枝が鳴った。太陽が雲に隠れるせいか、ベスの顔に落ちていた光の縞模様が、明るくなったり暗くなったりした。一郎が立上ると、ベスは尻尾をぴんと立てた。歩き出すと吠えた。振返ると、ベスは白い尻尾を振っていた。体は(かげ)の中にいるのに、尻尾にだけ光が当っていた。ベスはその場を動かなかった。光る尻尾だけが、松林の中で動いていた。そうして、その夜からベスは戻って来なかった。――

 清は唇を動かして、

 「ベス」

 と呟いた。

 「どうしたの?」

 と医師夫人が訊いた。清は答えなかった。

 「大丈夫よ。何にも気にしなくていいのよ」

 清の額に汗の粒が光っていた。拭いてあげて下さい、と助産婦が言った。一郎は、盆の上に用意された清潔なタオルで、額の汗を拭った。

 清が眼を開いた。助産婦が吸呑(すいのみ)を一郎に手渡した。

 「お水飲むかい?」

 と一郎が訊いた。

 「ええ、少し」

 清は、一郎が差出した吸呑に顔を近づけた。微かに口臭がした。

 先刻まで聞えなかったのに、踏切の警報器の音が一郎の耳の中で鳴り出した。もう終電車は通ったはずである。それは明らかに幻聴だった。

 電車が駅に近づいて、運転手が制動をかけると、小さな駅の燈が段々大きくなった。一郎は、電車を降りる前から、改札口に居る清の姿を見つけていたが、さりげない顔で降り、プラットホームを静かに歩き、改札口の近くまで来て、やあ、と微笑んだ。それは、新婚生活における二人の日課だった。会社の終る時刻は日によってまちまちだったが、残業が無い限り一郎は午後六時に駅に着いた。残業があって九時になるときでも、清は辛抱強く待っていた。私鉄の駅は水の涸れた川の上にあって、改札口を出ると、線路に沿った狭い橋を渡る。二人が肩を並べてやっと通れる幅の鉄橋は、歩くと微かに揺れた。川の向う岸の堤防へ着くと、急に人通りが杜絶え、時折蝙蝠が飛び交う道になる。一郎と清は、街燈が一つ二つと僅かに点っている松林の中を通って帰った。清は、その日に起った出来事をいま細大洩らさず話しておかなければ、次の瞬間には一郎と逢えなくなるとでもいうように、市場での買い物のこと、病院で見聞きしたこと、姑とのいざこざなどを、歩きながら喋り続けた。姑の誕生日に清が炊いていった赤飯を、姑は味が悪いと言って、流しの塵芥(ごみ)バケツに棄ててしまった話など、清は報告しながら泣いた。一郎は姑から、泪を見せぬ強い嫁だと聞かされていたので、清が泣き虫なのを意外に思った。清はもっと強いかと思った、と一郎が言うと、わたしは強くなんかありません、と答える。強くなりたいと思うだけです。弱い女です。清はよく泣いた。そうして、始終家出をした。一郎がちょっと注意すると、口答えもしないで、妊婦服のまま、夜ふいと家を飛び出した。一郎が階段を駈け降りると、アパートの角の外燈の下に佇んでいたりした。どこへ行くつもりなんだ、と訊くと、行く所なんか無い、と不貞腐れて答えるのに、次の夜になるとまた家を出た。死んでやる、と言ったり、娼婦になってやる、と喚いた。一郎には複雑な女心が理解できなかった。夫ひとりを頼りにしなければならない結婚生活で、清は一郎の愛情を試そうとしていたのだろうか。生理日が近づくと腹が立って仕方がないの、と清は洩らした。それは家出ごっこのようでもあったが、清は思いつめると何を仕出かすかわからない、という不安が、一郎の心の中に絶えずしこっていた。だから、改札口に清の姿が見えないと、一郎は落着かなかった。午後九時を過ぎ、待ち切れなくなって清が先に帰ったのだとわかっても、家出のときの姿が眼の前にちらついた。大きな腹をした清がひとり松林の中を帰る後姿を想像すると、心が痛んだ。会社の付合いで、酒を飲まなければならない日もあったから、もう駅まで迎えに来なくていいよ、と一郎が言うと、本当はどこかにいい(ひと)が居るんでしょ、と清は泣きじゃくり、両の拳で一郎の胸を叩いた。そんなとき、清の匂いが強く漂った。――

 「ハサミ」

 と医師が言った。

 「痛い!」

 清の全身がピクンと顫えた。一郎は、清の爪が掌の肉に食い込むのを覚えた。掌の皮膚が抓まれ、捩れるようであった。

 「先生……わたし……」

 突然、清が喋り始めた。

 「睡眠薬を……服んだんです……」

 いきみを繰返しながら、譫言(うわごと)のように言った。

 「去年の四月に……ブロバリン……百三十錠……」

 「あなた、何を言ってるんですか? しっかりしなさい」

 と医師夫人が腰を上げた。

 それは一郎にとって、忘れようとしても忘れられない出来事だった。結納を取り交し、結婚式の日取りも一カ月後と定め、二人で新婚生活を送るアパートの契約まで済ませていたときに、清が睡眠薬自殺を図ったのだ。一郎が病院に駆けつけたとき、清は、柩を覆う白い布よりもなお白い顔で、昏々と眠り続けていた。ブロバリンの致死量をはるかに超えた百三十錠もの白い錠剤を、清は夜寝る前、水と一緒に一気に服んだらしかった。翌朝家族が発見してからの胃洗滌、そして葡萄糖とリンゲルの点滴注射。清は医師の処置を嘲笑うかのように、四日間微動だにしなかった。清が生きている(あかし)は、微かに吐く息と乱れた脈搏だけだった。尽せるだけのことはしたつもりですが、今夜が峠です、と担当の医師が言った。お知合いの方には御連絡なさったほうが……。鼻孔に酸素ボンベの管を差込まれた清の傍で、一郎は両手を組み、眼を閉じていた。何故清が死のうとしたのか、眠っている清に訊かない限り、原因は掴めなかった。結婚に反対されたことを、清はまだ悩んでいたのか。結婚は一生の大事業だよ、余程の覚悟が必要だね、と清に諭し過ぎたのだろうか。それにしても、死ぬことはないじゃないか。いま清が目を覚ましたら、馬鹿野郎と呶鳴ってやりたかった。もしこの世に神があるものなら、清を救ってやって下さい。神頼みをしたことのない一郎が、神に祈った。病室に泊り込んでいた一郎の許へ、母が着替えを持って来た。その風呂敷包みに寿の文字を発見して、一郎は母をなじった。清が死ぬかも知れないときに、どうして寿の風呂敷なんか持って来るんだ、と怒った。清の父は、鶴の舞い姿を刺繍した絹の蒲団を運んできて、清の身体の上に掛け、号泣した。一郎は、はっとした。それは一郎が、結納と一緒に清に贈った結婚の贈物だった。清の母は泣きながら、小さな紅い函を一郎に手渡した。清はこんなものまで外してしまっていたのです。どうかもう一度嵌めてやって下さい。函を開けると、婚約指環が入っていた。二人で貴金属店へ行き、お互いのイニシャルを彫った金の指環だった。一郎は、現世で二度と語り合うことはないかも知れぬと、清の紫色の唇を凝視めながら、左手の白い薬指をそっと掴んだ。――

 「先生……睡眠薬……」

 清は夢を見ているように、目を瞑って喋りつづけた。

 「子供が……普通の子供じゃなかったら……わたしが悪いんです……」

 清の下腹部を凝視めていた医師は、一文字に結んだ口を開いて、大声で言った。

 「一年一カ月も前のことは影響ない!」

 「脚に……紫色の痣が……薬のせいです……先生……」

 清の額に汗が噴き出した。口臭が強くなった。医師の眼鏡がきらりと光った。

 「それは静脈瘤だ。誰でもなる」

 そんなことを今まで医師に隠していたのか、と一郎は思った。清は見せようとしなかったけれど、一郎は知っていた。打身のときに出来る内出血の痕のように、紫色の斑点が清の脚に浮き上ったことがある。

 医師夫人が清の頬を軽く打った。

 「しっかりしなさい。大丈夫ね。もうすぐなのよ」

 医師が額の汗を拭って、鋭い眼でこちらを視た。医師夫人と目配せした。そして、黙って頷いた。立上り、消毒液で手を清めると、改めて清の足元に坐った。一郎は腕時計を瞥た。午前三時になっていた。

 一郎の場所からは見えないが、医師が清の身体の中に手を入れているように見える。頭に血が上って、一郎は熱かった。

 「そう、いきんで」

 医師が清に声を掛けた。

 「あと二回だよ。頑張って。……そうそう、そのいきみ方でいいよ」

 一郎の掌に清のいきみが伝わってくる。大きく息をしているせいか、眼の前で清の腹が上ったり下ったりした。

 「あっ、しまった」

 と清が呟いた。何を失敗したのか、一郎にはわからなかった。

 「おや、こんな所に手を入れてるな」

 と医師が言った。

 その瞬間、一郎は掌にナイフを突刺されたような痛みを感じた。精一杯の力を振り絞って、清が爪を立てたのだ。

 一郎は、清の膝の間から、葡萄色をした肉の塊が現れて来るのを、息を詰め、拳を固く握りしめて視ていた。部屋の中に一種異様な臭いが漂って、肉塊は忽ち朱に染まった。それは、血まみれの、くしゃくしゃの髪の毛をした、赤子の頭だった。医師の手に引摺り出された頭には、胴体が続いていた。

 「あっ、手がついていない」

 心臓が凍る思いだった。一郎は大声で叫ぼうとした。そして、自分の声を止めた。

 赤子は、縮めた両手を血まみれの胴体にくっつけていたので、手が無いかのように見えたのだ。脚はあるかな。ちゃんと付いてるかな。一郎は一瞬のうちに判別しようと、必死になって朱色の肉塊を凝視した。

 「オギャア」

 肉の塊が元気な声で泣いた。

 「坊やですよ」

 と医師夫人が言った。

 医師は赤子の両腕を片手で掴むと、逆さにして、尻を平手打ちした。それから清の足元に置き、臍の緒を切っているらしい。ややあって、産湯を使わせるために待機している助産婦へ、そっと手渡した。

 「一郎さん、手はあるの? ねえ、あるの?」

 清が急き込んで尋ねた。一郎は清の手をまだ固く握ったまま答えた。

 「もちろん……あるさ…」

 自分の声が顫えていると思った。

 「脚は? ねえ、足の指はちゃんと付いてる?」

 一郎は産湯を使っている赤子のほうを見た。赤子は湯の中で見えない眼を開け、一郎のほうを見ていた。一郎は目頭が熱くなるのを覚えた。

 「大丈夫ね。どこにも異常は無いのね」

 と清が泪声で訊いた。

 一郎は物が言えなかった。泪を清に見せまいと横を向き、ガラス戸を透して曇って見える病院の庭を眺めた。物干し台の上の空に仄かな暁の色が漂っていた。

 放心した一郎の耳に医師の声が聞えてきた。……後産がまだ終っていない、これをきちんとしないと、命取りになることがある……。

 泪で霞んだ一郎の眼に、雲間から朝の白い光の射してくるのが見えた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/03/10

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松代 達生

マツシロ タツオ
まつしろ たつお 小説家 1934年 兵庫県神戸市に生れる。

掲載作は、1977(昭和52)年文藝春秋刊『飛べない天使』に併載作の書下し初出作。

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