歌の渚
りんごひとつ手にもつ時に空深く果実に降るは果実の時間 『光響』抄
拒みつつ青年となるわがそばに火のごとく澄む青空ありき
樹に寄りて空を見てゐる人たちのかなしみとしてしづかな未来
はるかなる祈りはきこゆ近寄れば樫ひとしきり葉を降らせたり
しづかなる生命恋しき樫の木の艶ある葉こそ青空の霊
雲ひかる氷雨の空のかがやきに革命をせる民を思へり
闇明けて生まれ来る樹よはるけきは
はるかなる谷ひびきあひ空となり一本の樹にかなしみは降る
昼の星ふき飛ぶごとくまつ青な太陽はあり樹に降りそそぎ
父の不在かくも激しく刺す昼を樫のかたへに休らへるなり
群青の空のあけぼの呼びあへばこだるとなりて人ひびきゆく
ニ短調の青空ひびく窓にして燦燦と降る
雪よりか生れし白桃若葉透く闇に匂へる母のごとしも
流れ星出づる星座のひそけさも地に棲むわれも深き闇なり
おのづから塩噴き出づる腕ありき海より上がる人のかなしみ
日輪と太陽を呼べば太陽はしづかなる空に花咲くごとし
おもむろに山の斜面を這ひあがる雲の影なりわが影の量
流されて小舟のごとく世に出づるわがとほき日の海鳴りきこゆ
棲むことは許されざると音楽のいのちの中に夢見むわれは
愛すればとほくいのちはみひらきて山河の光りのひびき来るなり
山の上に秋白光は渡るなり命令形はやはらかに照れ
わが思ふオトタチバナよただよひて海の真青に呑まれゆく人
なぜきみはそんなにも生き急ぐのか、ひばりの歌のふいに止むとき
夕づつは夏をまたたきひそかなるわれらを見たりわれらも照らむ
帆柱は遠く直立ち咲き出たり海に生まるるものの輝き
棲めざればなほも舞へるか天高くさへづるものをひばりと呼ばむ
野いちごの赤ひとむらをくねりつつ蛇ゆくときに地熱は湧けり
草刈れば大地の髪を刈るごとくまひるの土はやはらかに照る
青空やなにもなき野にたたずみて草の緑を
ゆくらかに波もりあがり新月の海引くちから朝のをみなの
母の産みし地球と知れりさやけくもわが身を打つは真青なる海
やはらかききみのくちびる濡れながらわれを見てをり正午の若葉
風にかすかゆらめきたれど立ちのぼり大空を指す焔の孤独
青き響きにひびきあふ響き山の声空へ立ち昇る草の樹のこゑ
赫あかと夕焼けの中に崩れゆく白日をこそいのちと言はめ
吾を生みし大き闇かも夕づつの見え来る時に深みゆく藍
春になる森のしづけさ語らへば梢にひびきことば
花嫁のとほきまなざしの澄む
呼ばざればものみなは薄明の中にして白き月しろのごときしづけさ
どしやぶりの雨中をひとり帰りゆく家ときじくにほの明かりせる
わが生たれに見つめられゐむ杉木原晩夏の光り降りこぼれゐて
まむかひて風の流れに身をひたす秋あかね空に止まれるごとし
樫の木に月のぼり来るしづけさを失ひてはや幾年ならむ
雲の影樹木の中を
さわさわと鳴り出づる巨き樫の葉に大和国原ま
生まるとは何の受け身ぞをみなごは桜咲く朝父を産みたり
棲むことの
犬はわが口笛とともに飛んで来てこの草むらに故郷を作る
山嶺は暮れつつ浮かぶ しろがねの繭眠るらむ冬空の中
野も道もいちめんの白、夜をこめて降り積みし雪のふかき情念よ
石たたき飛び去りにけり秋天の楽としも聴く紅葉のさやぎ 『歌の渚』抄
草の実をつけて歩める山道に紅葉の秋は
秋篠の堂にゐませる伎芸天ほのかに
生駒よりくれなゐの風吹き来たり大山火事の秋の夕焼け
はんなりと京都ことばは耳に沁む奈良びととして街を歩めば
水に月映りて風のさざなみはひかりの楽を奏ではじむる
さ
朝の波押し寄せて来てガラス戸にぶち当たり白き光となれり
大和島生駒の山はかすみたり万の言葉を宿せるならむ
横たはる女体のごとき生駒嶺と眼あはせてひと日暮れたり
おほるりは枝を軋ませ喨々と鳴き澄む春の山の際の空
角ぐみて木の芽は夏を呼びゐたり山深きその谷川の辺に
わが父祖に逢ひたるごとくブナ林の小暗き道を踏みしめて行く
わが父の物理学者の人生は真理を問ひて真理に
事業にて破産せし叔父商魂はいまだも天を彷徨ひをらむ
プルトニウム増えゆく夕べ大和にも二十一世紀忍び寄る
夜の光に浮かびあがれる大佛殿しづけくてわれら踏む石畳
からす瓜まひる点れる野の道に千年の陽はぎらぎらとあり
野も山も翠を吐きし夏過ぎて白秋はいま雲に乗れるや
つゆけくて足に触れる草生なり白露光とふひかりを聴けよ
柚子の香を浴びてもの食ふ夕暮れはわが帰るべき家族の棲み家
さざ波はひかりの楽か月光に洗はれてゐる中年の足
山にゐる雲のしづけさゆつくりと時間の縁を歩みてみたし
沖の波辺の波立ちて幾重にも時間の層はひかりて見ゆる
月は道を照らして夏の霜となるこのしづけさに夜の街歩む
大江山酒呑童子の声聴こゆさやさやと風過ぎゆく見れば
奇峰多き夏雲なりきいま秋の気配をはこぶ雲のひとすぢ
夕鵙や萩や九体の佛たちこの秋にしてこだまひろぐる
その胸のめぐりをめぐる蝶のごとき舌、唇はあまやかにして
グランドを走れる耐寒駆け足の環は銀河系めぐれるごとし
ディオゲネス・ラエルティウスを読みをればギリシアの犬はわが家にもゐる
いまはことばの中にしかないそのことば探り求めよ深くさびしく
礫にて投げうつすべを持たざればわが声青葉の底ひにひびく
カグツチの火に焼かれたるイザナミの生みの苦しみわれは知らずも
頭から牛と馬とが額から粟が陰より麦生れしとぞ
秋にある味わひといふは夕焼けに彩られをり茸・柿・栗
学園の銀杏並木は秋の陽を照り返しつつ学生を待つ
紅葉も黄葉もありてもみづとふ万葉の山の彩りの濃さ
黄葉を噴き出だしたり樹木みな山を彩る自信に満ちて
混沌から大地が、大地から天空が生まれしギリシアの神のよろしさ
佐保路ゆき法華・不退寺・海龍王寺それぞれの寺の春に逢ひたり
樹々の間にある大伽藍東大寺毘盧遮那佛のひろごるこだま
月よみの光を待ちてたたずめばふくろふのこゑ森より青し
あしひきの山辺に棲みて仰ぎみる空の稜線聴く鳥の声
行く春や東大寺なる大伽藍佛とともに惜しみて立てり
鹿ととも歩む春の日南大門くぐれば仁王のまなざしに逢ふ
とどろきて雲の峰より落ち来たる夏滝にして眼涼しき
朝露をかむりて夏の唐松は目覚めの歌を梢にひからす
夕月夜はたあかときの夢の中しづかにゐたる浴衣の少女
睡蓮の葉に夏は来て夏は去るあえかにこぼれ落ちさうな露
白雨はや降りて了へりそののちの風をし呼べば湧き来るアカネ
さわやかに森の樹冠をそよがせて風渡りゆく、夏過ぎてゆく
あしたには撒き散らしたる朝光を夕べに収め夏は終りぬ
天の海に雲の波立ち、秋の風秋の虫の音、晩夏のひかり
生駒川流れゆくなり絵をかきて岩に座れば山紅葉降る
ピアノの音澄みてひびかふ谷紅葉いつさんに冬になだれむとする
谷水は流れを早め湧き出でてここに神話を語らむとする
不才なれば已んぬるかなと歌ひたる淵明の目のやさしきものを
奈良太郎の鐘ひびきけり一切の煩悩を払ふ夜のしじまに
この世にし村のありしはいつの日ぞ地下鉄サリンなまなまとして
配達のバイクの音は去りゆきて今日も二、三の郵便届く
短歌とは歩く速さぞあんだんてに朝日がのぼり夕陽はしづむ
にんげんの心の病みにはらわたのあたたまるまで闇は匂へり
短歌とは疾風の楯あるときはプレストの闇受けとめてをり
朝風に揺らめいてゐる波なぎさ波なぎさ朝風にゆらめいてゐて
短歌とはラルゴのなぎさ彼方より押し寄せて来る波のさざめき
ひと口に歌人を言はばかなしみを湛へつつ讃への歌うたふ人
濃き闇に理学部ひとつともりたり地球をめぐる愛恋ひとつ
ぼくはいまきみの窪みに口づける、外の面の夜の紫陽花の雨
きみはいまぼくの激ちにあへぎたり外は雨、砂のなぎさに降りて
水こだま瑠璃にはじけて飛び散つて鮎の若さの滝坂の道
草刈るは精霊地より剥ぐごとしあらがひてゐるその茎その根
大いなるにごりの中に棲まひするなまずは良けれそのひげの濃さ
ハルニレの短き夏の夕暮れよ若き日に恋多くはぐくめ
アルプスの北のフィレンツェたるザルツブルグよモ−ツァルトの楽ひびき来る
ザルツァハ川の橋を渡りき旧市街二つに分けて流れゆく水
ミラベル宮殿の庭にたたずむ夕暮れにまだ少しある時の間を
波の上にただよふひと生ヴェネチアの海上都市は昼も夜も輝る
ヴェネチアに歌ふ舟人万葉の歌聴くごとくわれも波の上
うち靡く春去り来ればわが庭も花々の声に満ちてあらむか
玉衣のさゐさゐしづみ妻たちのおしやべりののちはくうかん広し
しみじみと降る春の夜の雨に濡る湯浴みのごとく投網のごとく
しづかなる雨の匂ひにつつまれぬもの書く夜の春のことぶれ
大空の滝からふつて来た水は天の泪のごときつめたさ
あかあかとただあかあかと照りたまふその月明のごとき女よ
あをによし奈良よと歌ふ少女らの合唱の上の雲の響みよ
秋篠川のほとりにありて歩むもの秋のほのけき時間しづくす
「われ思ふゆゑにわれあり」デカルトの存在証明草原の火よ
ニュ−トンの古典力学学びたる少年の眼に響く音楽
四十の弓は立ちゐて一本の指揮棒にいま震へむとする
カシオピイアきつきとまはせアンドロメダしゆうしゆと噴かせ賢治の歌を
岩手県上閉伊郡の青笹村に座敷わらしは住んでゐたずら
雪婆んご雪童子ともに寝しづまりしんしんと降る神話の時間
次々に襲ひ来たれる仕事かなすべてこなせば大雪の朝
春の光湛へて遠き雪嶺にわが
永き日の果ての夕日を見送りて夜の音楽に浸らむとせり
春日遅々この夕ぐれにはぐれたるわれの童子と犬と青空
あめんぼは水の上走る単純にして不可思議の天の力に
大和はも歌の渚ぞ打ち寄する声なき声に樹も山も歌
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/03/06
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