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水の神

 一

 

 目がさめる。目がさめる直前の自分は幼い。幼児のころの夢を見ているのか。夢の記憶は残っていない。目覚めようとしている自分の存在が幼児のように思えるのだ。体が小さく柔らかで、水中のイルカの子供である。母の記憶。柔らかな胸の谷間に置かれている。その他にちらちらする木漏れ日のようなものに包まれている。そんな感覚もある。たよりなく、弱弱しい。幼児のころの感情が覚醒の直前に想起されるのか。軽くふわふわとした感覚。悪い気分ではない。

 万田雄三は覚醒する。目がさめて、夜具の中で身じろぎをする。そのわずかの動きと、わずかの時間であの感覚は消え去ってしまう。いまいましい失望がやってくる。それもいつものことだ。生活の習慣のようなもの。いや、習慣とはいえないか。雄三はゆっくりと手足を動かしてみる。頭を回す。カーテンの向こうは朝であるらしい。厚いカーテンが光をさえぎっている。ぼんやりとしたわずかな薄明かり。

 万田雄三の曾孫娘の万田値美は母親から仰せつかっている仕事のひとつを果たすため階段を登ってゆくところだ。階段は幼女の値美にとって、けっして楽なものではない。二階に通じる途中で大きな踊り場がある。手すりも幼女にとって高すぎる。踊り場の窓から空が見える。庭木の梢が光っている。幼女は細い素足に引っ掛けたサンダルをバタバタならして階段を駆け上がる。いつもの時間。いつもの仕事である。

 ノブが左にかしいで、ドアが開く。かすかな音がする。ドアにちいさな人影が立つ。雄三は曾孫娘が朝の挨拶にきたことを知る。いつもの時間に目覚めたわけだ。視力がめっきり落ちている。逆光のためばかりではなく、幼女の姿がはっきりとは見えない。もう少し近づいてくれなければ。

「おじいちゃま。お目目がさめた」と、値美はいう。

「ああ、ネネかいおはよう」

 幼女は自分をネネという。値美とは言いにくいのだろう。幼い舌が回らない。

 値美は部屋に入ると、まず厚いカーテンを開ける。部屋は一時に光の大波で沸き立つ。しばらく前から使い出した介護用のベッド。雄三の体に合わせて作られた車椅子。木製の机。コンピュータが二台。ピアノ。書棚。応接セット。熱帯魚の水槽。観葉植物。居心地の良い部屋だが全体に暗い。八十歳過ぎの老人の部屋だ。

 万田雄三は足が不自由である。立ち上がれない事もないが、歩行に苦痛が伴う。そろそろと上半身を動かす。同時に介護用ベッドのスイッチを操作する。ベッドは上部から立ち上がる。低いモーター音。孫娘の値美は車椅子をベッドの横に押し出す。雄三がベッドから車椅子に移るためだ。値美はかいがいしく雄三に杖を渡す。腕に力が入らないので、杖はあまりうれしくはないが、ありがとうと言って受取る。杖に鴨の首が彫られている。

歩ける。雄三は自分で立ち上がる。放尿は出来る。白い陶器に黄色くにごった尿が弱弱しく流れる。尿はなかなか止まらない。

 雄三は昨夜の夢を突然に思い出す。奇妙な夢である。夢は奇妙なものであるのは承知している。始めて見る夢だった。雄三は孫娘の値美を大変気に入っていた。しこたま溜め込んだ金でほしがる物は何でも買い与えた。幼女なので思いつくものは高が知れている。でなければ金では手に入りそうもないものだ。愛くるしい幼児を高々と抱き上げる力はもうない。

 雄三が見た夢はこうだ。孫娘の値美の性器から植物の芽が伸びている。幼女は何時ものようにかわいらしい服をつけていたのか。それとも素裸だったか。夢の中では分からない。性器から伸びた植物はやがて葡萄のつるであるらしいことを知った。驚いたことに葡萄のつるはたちまちのうちに生い茂り、幼女のいる部屋から家の外に、そして町や海や空や平原を覆ってしまうのだった。その勢いはとどまるところを知らなかった。

 雄三は夢の意味をいくつも解釈した。葡萄は欲望と生命力の象徴だろう。自分の生きる力、生きる欲望がまだまだ強いことを物語っているのか。値美の性器は新しい命の象徴だろうか。葡萄が恐ろしい勢いで世界を覆っていた。孫娘の成長を願っての夢。幼女に性的な欲望を感じてのことか。あるいは、葡萄はなにかの危険を物語っているのか。値美の身の上を危ぶんでいる。葡萄のつるは蛇のようにも思える。

 奇妙で、後ろめたく、暗く、忘れがたい夢だった。雄三は放尿が終わっているにもかかわらずしなびた自分の性器をしまうのも忘れて、ぼんやりと考え込んでいた。

「おじいちゃま。もうおわったの。だいじょうぶですか」

「大丈夫か」と声をかけるのは、家族達が雄三に話し掛ける「言葉」の頻度の多いものだからだ。家族からうつったのだ。ようように洗面所から出る。エレベーターで二階から降りる。値美はいつものように、牛車をひく働き者の若者よろしく晴れやかな表情で雄三の車椅子をそろそろと押し、食堂に現れる。

 食堂にはあずさが居た。あずさは雄三の三人目の孫だった。結婚している。結婚生活はうまくいっていない。夫が悪いのだ。今度、しっかりと相談に乗ってあげなくては。今度といわず、今日にしよう。あずさもそのつもりかもしれない。悲しみを表すように、寒色系の寂しい色使いの服装だ。美しい顔立ちなのだから、もっと華やかなものを着るほうがいい。二十代の若さなのだから、もっと若々しいものを、と雄三は思う。

「おじい様、オハヨウございます。ご気分いかがですか」

「ありがとう。とてもいいよ」

 家族はみなそろっているが、雄三の意識は二人の孫娘に集中している。他の人間はいないに等しかった。雄三の朝食の献立はいつもほとんど変わらない。粥、牛乳、梅干、果物、コーヒー。好きなものを好きなようにとる。健康のことなどあまり考えないようにしている。体は弱り、徐々に死に向かいつつあることは自覚している。あと幾年生きるか分からない。生きたいとも思わないが、死ぬ気はしない。永遠に傷んだ肉体を引きずりながら生きてゆくのか。しんどいことである。

「おじいちゃま。お粥さん、あついからきをつけてね」

 値美は普段母親から言われていることを祖父に言うのだ。

「大丈夫だ。ネネはなにをたべるのかな」

「わたしはホットケーキがだいすき。おじいちゃまも、たべません」

 あずさはテーブルについた雄三の膝に前掛けを広げる。値美はその様子を面白そうに眺める。母親から食べ物で服を汚さないよう何時も注意されているからだ。

 

 二

 

 雄三は建築土木会社を経営していた。七十歳で経営権を息子に譲り渡した。そのあとは遊び三昧の生活だったが、七十七で事故にあい、命には別状がなかったけれど体力は急速に衰え始めた。会社はうまくいっていたし、子供や孫や曾孫にも恵まれているので、普通に言えば幸せな老人ということになる。

 雄三は曾孫娘のあずさを部屋に呼んだ。あずさの真意を確かめたかった。あずさは離婚を望んでいる。あずさの気持ちを知っているのは自分だけだと雄三はうぬぼれていた。しだいに周囲のものから忘れられた存在になっている。そんな気持ちに苦しめられている。老人になるということはそういうことなのかもしれない。悲しく寂しいことだった。悔しく怒りが誰にともなく向うかのようだった。内に向う感情が時として激しく、時として弱まる。海の波のように。

あずさの心の秘密を少し知っているという思いが雄三を幸せにした。愛する孫娘の不幸であっても、満足感には何の影響も与えないのだ。

「何が原因なのか、君は自分自身でわかっているのかい」

 雄三の質問にあずさはしばらく答えなかった。老人の楽しみを奪っては悪いと思ったわけではない。あずさはうろたえていたわけでもなかった。むしろ、決まっている言葉をもう一度心の中で俳優がするように語るのだ。心の中でゆっくりと自分の言葉を転がして味わう。美味な言葉はやがて世界と自分自身に穴をあけるだろう。周りを焦がしてしまう赤い炎となるだろう。

自分の言葉の威力、自分の意志の力をもう一度確信してあずさは雄三の老人特有の涙がにじんだような目を見ながら言うのだった。

「ええとても。私はおじい様のようにまだ十分生きていないわ。けれど、こうも思うの。もうあとどれだけ生きていても同じ事ではないか。人間はどれだけ生きるか分からないけれど、あとの人生をこのような時間の延長で生きるのは嫌だなと思うの」

 雄三の表情は変わらなかった。こんな言い方をして老人が気を悪くするかもしれないとあずさは思った。

「私は自由になりたい。それが理由なの」

「寂しくなるな。しかし、君は若いのだ」

 あずさには雄三がすでに多くのことを予想していることに気づいていた。あずさは雄三の寂しさを理解していた。老い先の短い老人に別れを言うのはつらいことである。

「いつ出発するのだ」

 雄三のその言葉はあずさの心に針を突き刺したような衝撃を与えた。反射的に涙がこぼれてくる。雄三にはなにもかも分かっている。八十年以生きてきた人間には特殊な能力が備わっているのだろうか。深く刻まれた皺の血色の良い顔がなみだてゆがんで見えた。水のそこに沈んだ神の石造のように懐かしく心を締め付ける。旅たちはすでに決めていた。

「おじい様と一緒に出かけられたらどんなにいいか知れない」

「それはいいね。まあ、先におゆき。私はあとからゆくから」

 

 あずさは離婚届を夫のもと郵送すると、すぐに旅に出た。旅先はカンボジアだった。単独のたびである。あずさの夫がひそかに疑っていた。他の男性の存在はなかった。周りの者たちは年若いけれど、立派に成人しているしっかり者のあずさの行動に異議をさしはさみはしなかった。若く美しい女の決断はいかなる障害も撥ね退ける力があるとでもいうように。手痛い反撃にはだれもあいたくないのだ。若い女の可能性は意味もなく無限大のように考えがちなものだ。

 車椅子の雄三は自室の窓から息子の車に乗り込むあずさの姿を見送った。積み込まれた大きなトランクが普段の外出とは決定的に違うものを物語っていた。トランクに詰め込まれているものは何。衣類や本や化粧品やパソコンやひょっとしたら姉の手作りの焼き菓子が入っているかもしれない。トランクに入っているものは物ではなく過去でもなく、あずさの未来なのだった。あずさの未来。それがそうなるのは彼女自身の力なのだが。

 あずさがカンボジアを旅先に選んだ。あずさの友人の家族にカンボジアで死亡した青年がいた。あずさは直接には彼を知らず、友人の話の中で存在を知ったのだった。青年の死因はなぞに包まれていた。時のカンボジアはポル・ポト政権に突入したころだった。ポル・ポト政権下での悲惨な大量虐殺の事実はじょじょに知られることになるが、当時は世界の目から覆い隠されていた。あずさの友人の話では青年はあの大量虐殺に巻き込まれたのだろうという。真相はついにわからずじまいだった。

 あずさは朝日新聞の本多勝一氏が書いた記事を読んだ。その後手に入る資料はかたはしから集めて読んだ。ウエディングドレスの仮縫いの合間にも血なまぐさい資料に目を通していた。「1975年のプノンペン陥落以後、ポル・ポト政権の四年間に入ったがポル・ポト政権下では大量虐殺した人間の死体を肥料として芋畑やバナナ畑の畦道に埋めたとも聞く。私のカンボジアへの旅はまさにこの虐殺の真相を調べる旅である。強制労働や意図的な飢餓による病死の人間が百万から四百万人とも言われる。ポル・ポト政権が自国民の四分の一から半数近くを四年足らずで消してしまった。人類史上稀有の恐怖政治をおこなったことになる。ヒットラー政権下のユダヤ人大虐殺も及ばない巨大犯罪である」

 あずさははっきりと何のためにカンボジアに行くのだと自覚していたわけではなかった。離婚し自分の人生のある選択をした。もつと明確に自己というものを見つめたいと考えた。どのような明日が自分を待っているのか、人間というものは分からない。プノンペンが開放され新しい時間が始まることを市民は期待していたろう。それからわずか七日間の後に都市民はあたらしい支配者の暴力によって都市からすべて追い立てられた。

 悲劇は個から何十万何百万人という人間の共通のものになった。同じ苦しみを共有する。

個の悲劇からもっと別の次元の悲劇になる。悲劇の階段をどちらに向って進むのか問わぬにしても。

 

 搭乗手続きを済ませて成田空港の雑踏の中であずさは放心したようになっていた。自分がこれからどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか、分からなかった。限りなく自由だ。限りなく孤独だった。世界のどこに流れてゆこうと自由であり、だれにも束縛されることはないのだ。あと数時間時間を待たなければならないこと。それも航空機に乗り込むための時間。数時間の後には飛行機は機首を下げるだろう。見知らぬ国と見知らぬ時間が自分をどのようなまなざしで迎えてくれるのだろうか。あずさ自身はそんなことにはまるで無関心なのだと思っていた。待つことも待たせることも自分にはもう無縁なことなのだと気づき、反射的にハンドバッグからコンパクトを取り出した。無意識に鏡に顔を映していた。そのことで自分を確かめられるものではないのだ。少しばかり青ざめた若い女の顔が映っている。鏡に貴女はだれと無邪気に問い掛ける気持ちにもなれない。鏡にはだれも映っていないのだから。すくなくとも昨日まで慣れ親しんだ顔は存在していないのだ。

 あずさは待合室の隅でジーンズの膝の上に便箋を広げボールペンで数人の人に手紙を書いた。その中の一通は雄三に当てたものだった。

 

 三

 

 雄三は再び奇妙な夢を見た。曾孫娘の値美の夢である。

 幼女の値美が放尿している。股間から激しく尿が流れ出し、座っている椅子を濡らし、床まで広がる。そればかりではなく、止まらない水のながれとなって床を満たし、戸外まで川のように流れ出す。外はどうやら野原や森のようなのだが激しくあふれる。値美が激しく放尿していることが分かる。この洪水は値美かおこしているのだ。世界はたちまち水にあふれ、青々とした水面が見渡す限り続いているのだった。

 夢の記憶があまりに鮮烈だったので雄三は目覚めてしばらくぼんやりとした。先日の夢はまだはっきりと覚えていた。前回は葡萄の蔓で、今回が水である。フロイドの精神分析の書籍なら若いころ読んだことがあった。自分の無意識の願望が夢を見させたのだとすれば、自分にはどんな願望があるというのだろう。値美には特別な愛情はあるが夢の中の値美は何らかの象徴として現れているのだ。もしかしたら幼児は雄三自身なのかもしれない。今回の夢も尿を大量にながすものだ。前立腺肥大で尿の出が悪くなっている自分が勢いよく放尿したいという欲求を持っていても不思議ではない。また、葡萄の蔓を生殖器、男根の象徴だとすれば、機能の衰えた老人の願望といえないことはない。

 

 値美はホームシッターの娘と一緒に雄三の部屋に入ってきた。これからプールに行くというのだ。雄三はぞっとした。

「おじいちゃま。プールに行ってきます。待っててね。帰りに風船を買うの。おじいちゃまも風船がほしい。赤い風船を買ってきます。おじいちゃまには赤い風船。ネネは黄色」

 夢の解釈はいかようにも多彩だ。フロイドの学説を信じている分けではない。夢はもっと違った解釈があるかもしれない。夢が持つ「予言」の機能は古くから広く信じられているではないか。夢は国の未来も、人間の未来も支配するばあいだってあったのだから。

 孫娘の値美の夢は不吉な想像を想起させたのだ。値美はプールに行くという。雄三の脳裏に浮かんだ光景はプールでおぼれている幼女の姿だった。付き添いもいれば、プールには監視人もいるはずだ。そのような事故は起こるものではないとすぐ思い直すことも出来、雄三は自分の考えを否定したのだった。けれど、不安は消えなかった。

 理屈ではそんなことはないと考えられるが、水の中でもがいている哀れな値美の姿が鮮やかに心に描かれるのだった。雄三は水の中に落ちたかのように喘いだ。

「大丈夫なのか。値美は泳げるのかい」それから、ホームシッターに向って言う。「事故に遭わないよう十分気をつけてみてやってください」

 

 あずさは空港の隅で手紙を書き、フライトまでの時間をつぶしていた。カンボジアにアジア最大の湖、トンレサップ湖があり、周辺の住民は漁業で生活している。湖は水深が浅く、茶色のにごった水が視界の果てまで続いている。雨季になると水位があがり湖の周囲が広がる。湖のほとりに居住している住民は家をたたんで水のこないところまで後退する。彼らの住居は細い丸太と椰子の葉で屋根を葺いた簡素なものである。移動は比較的容易なのだ。湖には水上生活者も多い。湖には雷魚、鯰などが多い。

 あずさはベトナムからカンボジアに入る計画を立てていた。ベトナム航空で成田よりホーチミン・タイソン・ニガット空港へ。 

 亜熱帯特有の体に絡み付くような暑さ。あずさを最初に迎えたのはベトナムの熱さだった。空港の外の出るとそれぞれの人を待つ出迎えの群集の黒い垣根があった。真夜中なので彼らの顔ははっきりとは見えないけれど、異国の人の群れが暑さ以上にあずさの周りにひしめきあって重圧を与えるのだった。微かなおびえに似た不安を感じながらあずさはタクシーを捜した。

 異国の闇の中をタクシーはあずさが指定したホテルまでを走り抜ける。ぎしぎしと座席がなるようなひどく古い車体である。何の匂いなのか正体のわからぬ匂いが暑い夜気の中に漂っていた。

 ホテルの冷房の中で少しばかり生き返った心地になるが、旅行社が手配したホテルは決して豪華でも快適でもなかった。あずさは出の悪いシャワーの下に裸身をさらした。温かいシャワーを全身に浴びていると過去の時間が体から溶け出してゆくようだった。明日からの時間は何も分からないのだ。特別に何をしようと、いや何が出来るというものでもないだろう。準備をしてきたわけでも、知識があったわけでもない。自分が来るべき場所はカンボジアでもベトナムでも良かった。地球上のどこでも良かった。ただ、微かに心に引っかかっていることを解決できればいい。自分は何の理由か死の匂いに導かれるようにこの地を選んでしまった。自分にはそれがふさわしいように感じたのだ。政治的な理由、人道的な理由、それは単なる理由に過ぎない。あずさの旅は一種の逃避行かもしれない。自分自身を世界の果てまで流したかった。希望という不純物を捨てたかった。自らの過去を作り上げてきた要素のひとつひとつを洗い流すことが必要なのだ。そうして始めて自分は再生できるだろう。

 シャワーを浴び。着替えが済むとあずさは窓辺に寄り、暗い町を見下ろした。闇のそこにうごめく物があった。微かに、そして確かに異国の歌のような異国の言葉のような、未知の獣がうろうろと這いまわっている気配がする。次の瞬間には真空の風が吹き抜けるばかりだった。この地に降り立ってから、しじゅう身の回りに感じる視線の矢のようなものを意識していた。

 

 四

 

 万田雄三は突然ある思いにいたって戦慄した。値美の夢はある種の予感、予言のようなものではなかったか。だとすれば二つの夢は不吉である。値美の股間から噴出した水が値美の体を沈めてしまったではないか。

 値美は先ほどプールに出かけていった。付き添いがあるとはいえ、夢の暗示がもしも真実なら幼女は危険である。危険にさらされる。夢はそのことを暗示しているのではないか。雄三はそのように考えた。考えが身を縛るのをもぎはなすことは出来なかった。身悶えながらそんな不吉な夢のことも、夢の解釈も否定したかった。しかし、一度取り付いた思いは容易に雄三の心を離そうとはしない。コガネムシの鉤型の足のように鋭く雄三の心に取り付いてしまっている。

 雄三はついにベルのボタンを押した。足の不自由な雄三のために設置された呼び出し装置である。値美の母親の小枝子がドアに立つ。彼女は値美にもあずさにも似ている。雄三に対する信頼とお世辞と本来のやさしさからくる笑顔を美しく咲かせていた。

「いかがなさいました」と、小枝子は良く通る声で言った。

「どうにも、どうにも心配事がある」と、雄三は率直に自分の気持ちを吐露した。

 小枝子は笑い顔を消し、雄三の言葉に顔を曇らせた。彼女には思い当たることは何もなかった。不信と疑問で顔がこわばってくる。老人の言葉が理解出来なかったのだ。

「値美がプールに行くといってさっき出かけていった。付き添いがいるが、なんだか心配だ」

「心配って何がですか。とても元気ですし、幼稚園でもプールには入っていますから」

「小枝子さん、貴女も付いていきなさい。プールで事故にでも遭ったら大変だ」

「でも、田中さんがついているわ。彼女はしっかりしたお嬢さんですわ。おじい様もご存知のように」

 嫁の小枝子からそのように言われてみれば、雄三には反論できる余地がないはずだった。しかし、雄三は頑固に自分の言葉にこだわるのだった。

「値美はおぼれるかもしれない。プールで事故に遭うかもしれない」

「値美が」と、なおもいぶかしそうに顔を曇らせながら小枝子は言うのだった。

「夢を見たのだ」と、雄三は思わず言った。言葉は小枝子にある種の衝撃を与えた。

「わかりました。後を追っかけます。ご心配かけてすみません」

 小枝子は雄三の言葉に逆らわなかった。娘の値美の身を案じたわけではない。急に不安になったのが理由ではなかった。老人の気持ちを瞬時に理解したのである。彼女は雄三を尊敬もし愛してもいた。だから、何も言わずに彼の言葉に従うべきであると感じたのである。

「それから、値美は何を食べたのかな」と、雄三は言った。

 小枝子は姿を消すと、雄三はがっくりと疲労感を覚え、車椅子の上で首をたれた。自分の周りが希薄になるような気がした。希薄になっているのは自分の周りではなくて、自分自身なのだということも分かっていた。自分はもう何も出来ない老人になってしまった。        動き回り、言葉でなければこの腕で物を動かすことが出来た。体を自在に操る足もあったし、どうどうと自分を誇示して相手を畏怖させることも出来た。声高に喋り捲り、難問もたちどころに可決した。目の前に障害物など何も存在しなかった。

 しかし、今はどうだ。夢におびえる、やせさらばえた肉体の老人ではないか。相手のやさしさと、寛容さにすがるしかない。牙のないトラ、爪のない鷹ではないか。雄三はふと、あずさのことを考えた。愛するものがつぎつぎと遠ざかっていくのだろうか。そんなことはない。何か方法があるはずだ。自分は決して、このまま負け犬にはならないと、呟くのだった。自分の信念を貫いてみせる。

 雄三は車椅子を少しばかり動かして、デスクの電話の受話器をつかんだ。彼が電話をしたのは腹心の部下の一人だった。部下というより友人に近かったろう。雄三が目をかけている若者の一人である。権力を持っている人間はとかく手足を作りたがる。老人であればあるほど。しかし、権力者に目をかけられる若者はたいていそんなものを歯牙にもかけていない。ただ、わずかばかりの愛情と屈折した心情の持ち主であることは共通しているようだ。

 雄三が電話した男は、受話器の向こうで少年のように素直な声を上げた。もうすでに雄三の用件をすべて承知した、と言いたげな調子だった。賢いその男は雄三に会う以前からことの仔細を承知していたものかも知れぬ。

 目元がりりしく、そう大柄でもないけれどがっちりとした体躯と姿勢のよさから大男に見える青年、結城拓也が現れたのは正午を少し回った時刻だった。庭のハイビスカスの花が鮮やかに咲き誇っていた。拓也はその花々にちらりと目を向けた。彼がこの屋敷を訪れるのは何時も夜だった。真昼の時刻ははじめてである。

 拓也は小枝子の案内で二階の雄三の部屋に入っていった。

「ご無沙汰しております。お元気ですか。今日はお電話有難うございます」と、拓也は軍人が上官に行うような態度を取った。

「君に折り入って頼みがある。ぜひとも引き受けてもらいたい」

 拓也が雄三から依頼された事柄は、あずさの後を追い彼女の身辺を守ってほしいということだった。あずさが誰かから危害を加えられる可能性は具体的にはなかった。外部的な要因というよりも、不安定な気持ちの若い娘の海外旅行の安全を何とかしてくれ、という依頼なのだった。分からぬではない。しかし、ではどのように何をすればよいのかは、はっきりしなかった。はっきりしないのは雄三の気持ちがそうであるからであろう。

「そうします。あずささんから旅程は聞いておられないのですね」

「だめかね」

「いえ。やってみます。大丈夫でしよう。で、お嬢さんを連れてくればいいのですか」

「いや。そばにいてやってくれ。姿をあらわす必要はないが」

 拓也は探偵ではない。仕事をもっていないわけではない。家庭こそないがはっきりしない事に長い時間を使うほど暇人ではない。雄三はそれを承知していた。

 

 五

 

 あずさはホテルの部屋で目を覚ます。午後の飛行機でカンボジアに入る計画を立てていた。

 ホーチミン市のタン・ソン・ニガット空港からカンボジアのシェムリ・アップ空港へ。何の当ても、人の伝もなくカンボジアに向うのであったから、はじめから調査や探索などと呼べるものではなく、あてどないような旅であった。熱帯の雨季に入っていたけれど雨はそれほど多くはなく、比較的過ごしやすい日々が続いているという。それでも暑さは尋常ではなく、ホテルの外にいったん出ればむし暑さに閉口する。町を行く群衆。娘達のアオザイの鮮やかな色彩だけはさわやかさを感じさせるものだった。道はオートバイに乗った人であふれ返っている。埃を吸い込まないようにハンカチで口を覆った人が多い。無帽でしかもそんな姿の人の群れを見ていると、あずさは日本の市街とはまるで違った風景を目の当たりにし、あらためて異国の雰囲気に感慨を覚えた。

 

 ホーチミン市の賑わい。溢れるような人の波は、昨夜も感じた。同系の人種とはいえ、近いから余計に差異を意識することになる。人の肉体の蔓延(はびこ)りを感じる。まるで生い茂り成長する植物の種子の中から次々と現れるかのように。人間は町じゅういたるところに溢れ、動き回り話し、叫び、営みを繰り広げている。通勤で移動する群衆は巨大な蟻の群れを思わせる。茶色っぽく生き生きとしている。店先に溢れる果物の類。ジャンクフルーツ、タンロン、サポジラ。

 ジャンクフルーツはドリアンの仲間である。タンロンはキウイに似ている。酸味はない。サポジラは固い柿のみのようだ。

 アオザイは中国のチャイナドレスがルーツだという。そういえば機能的であっても、妙に女らしく、矯正的な服装でもある。白と青の色彩は女子高校生の制服だという。

 あずさはタクシーの中から道行く人の波と、商店街の店先を眺めていた。カンボジアは隣の国である。地続きで隣接した国をもたない、日本人のあずさには実感として隣国のカンボジアを感じることが出来ない。

 ガイドブックで得た知識では、ベトナムの平均月給は7000円だという。カンボジアの平均は30ドルだという。一ドル100円として、いかにカンボジアは貧しいか知れる。

 カンボジアについての知識ということで言えば、あずさにはアンコール遺跡についての名前ぐらいしか知らなかった。プノンペンの北300キロにある遺跡あとは写真などでは見たことがあった。今、あずさは自分に出来ることといえば一観光旅行者と同様アンコール遺跡を回り、カンボジアの食べ物を食べ、眠り暑さの中で朦朧となりながら自分の過去を振り返ることだった。

 シェムリアップ空港は簡素な空港だった。緑の制服の係員は無表情であり、建物全体も無機質な冷たさがあった。空港前の熱い日差しに咲く赤い花とは対照的だった。

 あずさはスパイスの強い食べ物は苦手だった。南国のこの国ではすべては強い匂いに満ちている。それでも異国の食べ物、習慣には忠実であるべきだという、好奇心というより強迫観念に近い思いで町のレストランで食事を取った。観光客用の店しか探すことが出来なかったけれど、一般のところは怖くて入ることが出来ない。

 アンコールワットとアンコールトム、いわゆるアンコールの遺跡群は広範囲にわたって点在している。大きな町という意味があるらしいアンコールトムの入り口南門にくぐる。巨石を積み上げ、積み上げた石に彫刻を施した、寺院である建造物は十二世紀から十三世紀の建造物だという。

 建造物が出来上がったときはどのような光景をあたりに放っていたものか。いまは荒廃しつづけている。1970年代ベトナム戦争と、そしてポル・ポト政権のもとで世界的な遺産は完全に否定され、朽ちたままだ。それどころか戦火の傷さえも負ってしまっていた。苔むし、風雨にさらされ灼熱の陽光に焼かれた石は崩れ落ち剥げ落ちながらも、茫々とした魂の影を白日の下に、激しく大地からせり出した異物のように吼えていた。石の上に刻まれ石の壁の中から現れている幾多の菩薩像の表情は朝日の露の中に涙を流し、夕暮れの太陽のほてりに赤く染まっていたろう。

 バイヨン寺院の石段をふみしめ、あずさは途中で呼吸を整えるため立ち止まる。あたりは緑の炎に包まれている。湖の静寂の中、幾万とも知れない時が走り抜けていったのだ。やせこけた牛のようなやせこけた犬のような。遺跡の石の間に虫のように這う物乞いたち。菩薩像は貧しい幼児達や老人達にはただ一度も微笑を与えなかっただろうか。石が何を与える。数世紀前の権力者の魂がそんな慈悲を与えるはずはないではないか。たった昨日、プノンペンを開放した英雄として向かえた「神」が、銃口を向け市民を追い立てた。旅の果てには、苦しみと死しかなかったのだ。

 あずさはふと足元の石の隙間に目を留めた。コガネムシだったか。形も分からぬほどに,踏みしだかれているが,たった今誰かの靴がそれを踏んだらしい。故意か偶然かは分からぬ。太陽の強い日差しで、甲虫の死骸はじき土くれのように乾くだろう。しかし、まだそうはなっていなかった。草の汁のような体液が石にこびりつき,今まさに乾ききろうとしていた。あずさはその虫の死骸をいとしいものでも眺めるようにじっと見つめた。虫が死ぬ,虫のように死ぬ。そこにどれほどの違いがあるだろう。崩れかかった石の菩薩像には何も分からないだろう。それは、自分も同じ事なのだとあずさは思う。

 コガネムシが死んだのには何の意味もなかったろう。では生きていたのは何かの意味があったのだろうか。あずさはふと手を伸ばした。コガネムシの死骸に触ったわけではない。石のひとつに触った。人の肌のように温かかったのだ。あずさは微笑んだ。巨大な石像や、遺跡などはどうでもいいと考えた。すべてがどうでもいい。自分が生きていようと死んでしまおうとどうでもいいことだった。そして、なぜ自分がそのようなことを考えてしまうのか、当惑した。自分は死のうとしているわけではないわ。あの、物乞いの老婆のようにほしいものは何かはっきりと自覚しているはずよ。心に言い聞かせながらも、心はすでに空ろな菩薩の目の中にあった。

 

 六

 

 値美の母親の小枝子は雄三の心配はよく理解できなかった。しかし、彼を信じていたので父の言うように値美の後を追うことにした。プールは市営の真新しく設備が良く整っている。夏休に入っているこの時期、プールは込み合っていた。

 小枝子は小型乗用車で出かける。プールは車で数分の近さだった。信号待ちでふと隣の車の窓に知った人影を見た。その横顔は拓也だった。小枝子はどぎまぎして拓也の姿に目を奪われていた。すると、隣の車の拓也も小枝子に気がついたのだった。彼は会釈をおくってよこした。小枝子は指で合図をして車をとめるように求めた。

 小枝子がなぜ拓也の車を止めたのか、彼女自身にもはっきりと分かっていたわけではない。パーキングに車を停め二人は、付近に目に付いた喫茶店に入った。「時間ありますの」と小枝子は拓也に尋ね、拓也も大して訝るふうでなく、申し出に応じたのだった。

 小枝子は父の元を時々訪ねる拓也を知ってはいたが、このように二人で向き合うことは初めてだった。

「父は拓也さんに何かをお願いしたのですか」と、小枝子は尋ねた。

雄三は何も言わなかったけれど、彼女には彼らの間に何らかの重要な話が交わされたらしいことを感じていた。それが、どんなことなのかはまるでわからなかったが、ぼんやりと気になっていたのだ。偶然、街角で拓也の姿を眺め、とっさに話をしようと思いたったのだった。彼女がもっと自分の心を冷静に眺める能力があったら、父への心配と、自分の拓也への興味が同等であることを発見したかもしれない。

「この頃の父に何か気がつかれたことはありませんか」と、小枝子は言った。

「どんなことでしょう」

「私は今、父の言い付けでプールに行く途中だったのよ。父は値美をとてもかわいがっているわ。それは分かるのだけれど。プールでおぼれるかもしれないと心配しているの」

「やはりそうでしたか」と、拓也は言った。

「やっぱりって、どう言うことですか」

「あずささんが、ベトナム、カンボジアに旅行に出られたそうですね。彼は心配して僕にあずささんの後を追うように言うのです」

「あなたにも。父は何を心配しているのかしら。あずさや値美の身に何が起こるっていうのでしょう」

「分かりませんね。あずささんは離婚で精神的に不安定なようですが。それに値美ちゃんは幼女だから、心配するのは分かりますが」

「私が心配なのはむしろ父なんです。だいぶ年を取っていますから、頭の働きに変化が起こっているんじゃないかって。病気とはおもいませんけれども」と、小枝子は拓也に訴える。

 ふたりは当てもないような会話を交わした。雄三を心配していることは拓也に、また小枝子にも良く分かった。しかし、雄三の心理はふたりともによく理解できなかった。小枝子はようやくプールに向う用事を思い出したかのように、そそくさと席を立とうとした。

「拓也さんは本当にあずさの跡を追うのですか」と、小枝子は言った。

「その積りです」

「申し訳ありません。老人の無理を聞いていただいて」

 小枝子はちらりと、あずさが羨ましいと感じていた。離婚して傷ついている彼女を可愛そうだと思っていた。たぶん傷心の旅に出たのだろう。孤独な境遇を思えば心は痛む。けれど、あんな感じの良い男が後を追ってゆくのだ。恋人とかそんな存在ではないにしても。ふたりは異境の地でどのように出会うのだろうか。小枝子はぼんやりと運転していたため思わずプールの方角を間違えそうになった。

 プールは人でごった返していた。小枝子は監視員の注意で、プールサイドを汚さないように素足になり、人ごみの中を値美とベビーシッターの姿を探し回った。

 夏の陽光でプールは輝いていた。子供達の歓声が響いていた。人々は思い思いにプールを楽しんでいた。その人ごみの中に容易に子供を捜すことが出来なかった。帰ってしまったのかしら。拓也とお茶を飲んだりしていたから、すれ違いになった。そんな思いを抱きながら、プールサイドを歩き回った。値美の姿はなかった。

 堪りかねて、小枝子はプールの出入り口の係員に尋ねるのだった。

「もしかしたら、あの子かもしれない」と、係員は叫ぶように言った。

「さっき、事故があったんです。小さな子供がプールでおぼれたの。今しがた救急車で運ばれました」

 救急隊員の応急手当で命には別状はないようだったと、聞かされても小枝子の動揺は収まらなかった。彼女は急いで救急病院に向った。運転している間、何度も息が詰まりそうになった。雄三の言うことは正しかった。彼の予感は的中したのだ。自分がもう少し早くプールに来ていればこんなことにはならなかったかもしれない。拓也に会わなければ良かった。彼を誘わなければ良かった。私は邪まなことを考えていたのだろうか。小枝子は唇を振るわせた。

 幸いなことに値美は無事だった。溺れた時の恐怖心が今後どのような影響をもたらすかわからなかったけれど、プールの消毒液まじりの水もすっかり吐き出されていた。念のため行われた検査も異常は現れなかった。ベビーシッターは泣いて自分の不注意をわびるのだった。彼女は二度と現れなかった。ベビーシッターの仕事をやめたのだ。子供を扱うことが怖くなったのだろう。

「気をつけなくちゃだめよ。でも、水を怖がらないでね」と、小枝子は値美に言い聞かせるのだった。水の恐怖症になられたら、将来困ったことになると考えた。幼い根美は事故の事は良く覚えていないようだった。水を怖がるようにはならなかった。

「ネネは水の中の真っ暗なお家にはいっていったの」

「あのときのことね」と、小枝子は怯えながら聞く。

「たくさんの人が隠れているの」

「その家の中に」

「見つかってしまうから。見つかって殺されてしまうから」

 小枝子は思わず、値美の小さな体を抱きしめた。何者かから護ろうとするかのように。

 

 七

 

 あずさは早朝、ホテルからアンコールワットに向う。アンコール遺跡の中でも最大規模の石像建造物である。ヒンズー教の寺院と王の墓として作られた東西二百メートル、南北百八十メートルの回廊と六十五メートルの塔を中心とした五つの塔などで建造されている。積み上げられた石の壁面には神話が刻み込まれているのだ。

 椰子の木が点在する広大な地平にまだ暗い空を背景としてアンコールワットの黒い影が巨大な屏風のように広がっていた。観光客は建造物の背後から昇る朝日を、アンコールワットの華麗な影をその瞬間を求めて早朝集まるのだ。

 真昼の暑さにはまだ程遠く、夜気に冷やされた湿っぽい空気は緑の草の匂いに満ちている。あずさはひとり観光客に混じって、アンコールワットの建造物の本体から少し離れた地点で日の出を待った。

 明るい時間には観光客を乗せて歩きつづけているだろう馬が、一頭草地に佇んでいた。眠っているのか、動かない。馬は立ったまま眠るのだ。アンコールワットもまだ眠りから覚めていない。

 やがて空がスミレ色に明るんでくる。雨季のせいか水をたっぷりと含んだ青い布のような感じである。暗い地表を羽虫が飛び回っているのか、うっかりすると蚊に襲われる。朝露にぬれたアンコールワットの敷地。草地の中にたたずむ馬。永久の夜を眠り続けているのか、あるいは目覚めつづけているか石の中から半裸を起こしている妖艶な女神達。獣や蛇達。

 あずさは、ふと自分は何を待っているのだろうと感じてしまっていた。美しい風景を、貴重な風景を、貴重な時間を体験しようと、数十分の間ここに佇んでいる。何故自分ここにいるのか。地上の多くの場所ではなくて、何故自分がこの場所に、この時間に居るのだろう。自分は何を待っているのか。あずさには分からなかった。薄闇の中に影のように佇んでいる人の群れの中であずさは独りだった。

 やがて金色の光がアンコールワットの背後から登り始める。空が青く透明度をますと、石造りの寺院の影は時の波間に浮かぶ船影のようでもある。周りの観光客はシャツターを押す。

カメラを持つものの多い人のなかに手ぶらの観光客も居る。あずさもそんな独りだった。ひとりの背の低い男が、あずさの斜め前に居る、グループの中にいた。彼はガイドらしい。

ちょっとしたトラブルがあって、あずさはそのガイドの青年と知り合いになった。

アンコールワットの朝焼けの光であずさは眩暈を起こした。倒れかかったあずさを支えてくれたのが、その青年のガイドだった。観光客は日本人で、青年は日本人のガイドをしていた。日本語が驚くほど堪能である。

「日本語をどこで習ったの」とあずさは青年に質問した。小柄で黒い顔のカンボジアのガイドは白い歯を見せて笑顔になった。

「難民キャンプで覚えました。ポル・ポトに追われてタイの難民キャンプに家族と逃れた」

 家族の話はそれ以上しなかったけれど、あずさは青年の家族は皆、死んだのだと想像した。

 ホテルに戻り朝食を取った。カンボジア人のガイドとはそこで偶然に再会したのだ。ついさっき助けてもらったのだ。

「あなたは独りですか」と、青年は言った。青年の背丈はあずさの耳の高さほどだった。

「ええ、そうよ」と、あずさは言った。

「観光ですか」

「観光といえば観光ね。でも、本当は何かわからないの。何かから逃げてきたのかもしれない」と、あずさは言った。なにかから逃げる。その言葉が人の良さそうな青年の心を傷つけたかもしれないと考えた。彼は命の危険を感じ、逃げたのだろう。ジャングルの暗い細道を、国道の検問をのがれて、暗い水田の水の中に身を潜めて、走り、這いつくばり、息を殺し、息を弾ませて死から逃れたのだ。それを思うと、自分は何をしているというのだろう。過去のちょっとした心の傷をいいことに普通の観光客と変わらない、快適で平凡なたびをしている。何がわかるというのだ。

「よろしかったらいっしょに回りませんか」と、言ったのは日本人、数人の観光客の一人だった。

「これから私達はプリア・カン、ニャク・ポアン、タ・ソム、パンティア・スレイ、などアンコール遺跡群を見物します」

「有難うございます。でも、ご遠慮させていただきます。お仲間の皆さんに申し訳ないですから」と、あずさは丁寧に辞退した。

 日本人観光客のグループはあずさをロビーに残すとがやがやと騒ぎながらホテルを出て行った。あずさは自室に戻った。フロントからメッセージが入っていた。留守中に電話が入ったのだという。

 あずさは拓也の名を知らなかったわけではない。祖父のところに時々訪れる青年である。

それ以上のことは知らない。

 再びあずさに電話があった。祖父が自分のことを心配して拓也を自分のところに遣すのは、有難いと思わなくてはならないのかもしれないけれど、あずさには少しばかり当惑した。青年を嫌いというのではない。祖父の意図も、拓也の気持ちも分からないのだ。

 電話機の状態が悪いのか聞き覚えのある拓也の声がくぐもって暗く聞こえる。あずさは自分でも失礼であることを感じながら言った。

「ひとりで居たいの。祖父には私から電話します。どうぞ、心配なさらないでください。私のために時間を使わせては申し訳ありませんから」と、どういっても自分の言葉は拓也を追い返しているだけだと感じながらも、あずさはそう言うしかなかった。 

 電話を切ると空調の悪い部屋はむし暑く、あずさは汗ばんでいることに気が付いた。髪をかきあげる。髪の中に熱がこもっている。しばらく迷ってから、シャワーで体を冷やすことを思いついた。

 

 八

 

 拓也はあずさの反応を予想していた。このまま彼女に会わずに帰ろうと考えたわけではない。拓也は万田雄三に電話する。

 大きな張りのある声が受話器を通ってながれてくる。雄三は耳が遠いからだ。

「あの子が遭いたくないというのならしかたがない。しかし、そばにはいてくれないか」と、雄三は拓也に頼むのだった。

「わかりました。あずささんとつねに連絡をとっていただき、私はそれを聞きます。そうすれば近くにいられるでしょう」

 雄三が心配していることがあずさの自殺などであれば、そのような方法では防ぎきれるものではないかもしれない。雄三は何を心配しているというのか。拓也には雄三の心は完全には理解しきれていなかった。しかし、雄三は不思議な能力を持っていることは疑っていなかった。彼の指示に取りあえずは従おうと考えた。あずさも気がかわり、自分と会うことを承知するかもしれないのだ。

 カンボジアは日本に比較すれば経済的には比較にならないほど貧しい。十数年前に国民の何分の一かは死に絶えた国だ。内政の失敗により、為政者の残酷さに組織的に何百万という国民が死んだのだ。それは第二次大戦の日本国民の惨事でもあった。歴史は繰り返し。国民の殺され方は違っていても、為政者の失敗や残酷さによって死んでゆくことには代わりはない。

 貧しいが長閑な田園風景の広がりと、裸同然のすがたで走り回る子供達や、自転車に薪を満載して国道を行く人々や、高床式の小屋で寝転ぶ人々の表情は穏やかで、過去の悲劇を垣間見させるものはない。しかしながら歴史の事実は変えられない。ポル・ポトは内なる敵を作り、国民同士を殺し合わせた。飢えと告発で死人の山を美しい田園の中に、深い静寂の森の中に築いたのだ。

 香辛料の利いたクメール料理を拓也はおいしいと思う。どの国のどの地域でも人々は貧富にかかわらずうまい食文化を作り上げてきた。あっさりとした塩味のスープは美味かった。拓也は屋台の木の椅子に、ほとんど壊れかけているそれに腰をおろして、魚の揚げたものや、ライスペーパーで海老、野菜、ビーフンなどを巻いて食べる春巻きのような料理を注文する。その国にきたらその国の食べ物が一番良い。

 ひとりの女との異国の地での奇妙な旅。彼女の姿を見ることもなく、彼女と話すこともない。奇妙な同行の旅をどこか面白がっている自分があった。

 拓也はふと考える。たびたび万田雄三の家に出入りをしているから、あずさの姿を見たことはある。スタイルの良い美しい女性だったので印象に残っているが、きちんと紹介されたことはなかったし、むこうは自分のことを良く覚えていないかもしれないと考えた。ならば、遠めに彼女に近づいたとしても、気づかれることがないかもしれない。万が一近づいたにしても、まさか殴りかかられることもあるまい。あずさの旅は感傷旅行だとしたら、とんだ無粋者ということになるが。

 拓也はもう一度、万田雄三に電話をした。

「万田さん本当のことを言っていただけませんか。あずささんの何を心配しておられるのですか。それをしらなければどうしていいのか分かりません。彼女を連れ戻せばいいのですか」と、拓也は言った。カンボジアは熱い国だ。けっして快適でも安全でもないはずだ。若い女が独りで歩き回るにはふさわしくない、危険な環境かもしれない。

 しばらくためらっている様子が電話越しでもわかった。雄三は言い出した。

「実は夢を見た。あずさの夢ではない。値美の夢なのだが。案の定、値美はプールでおぼれた。値美は曾孫であずさは孫だ。あずさにも何か良くないことが起こるかもしれない」

 夢と聞いて拓也はがっかりしたわけではない。老人の繰言とは感じなかった。雄三には特別な能力があると思っていたからだ。夢によって人の身の上を案じるほど確かなものはないかもしれない。人の身を案じるということはそういうことだ。不合理なことや予測不可能なことなのだから。拓也はそんな風に納得した。

「どんな夢ですか」

「植物と水の夢だ」

「植物と水ですか。その夢は」と、拓也は鸚鵡返しに言った。

「値美の何というか、股の間から植物が生えてきてそれが蔓延(はびこ)ってしまうのだ。もうひとつは尿が溢れてノアの洪水のようにあらゆるものを飲み込んでしまう。プールの事故が起こった。すんでのところで値美は水死するところだった」

「知らなかった。小枝子さんもさぞびっくりしたでしょうね」

「小枝子は君に町であったといっていたが。その時だよ」

 拓也はあの時の小枝子の顔を思い出していた。

「カンボジアは植物と水の国だ」と、雄三は言った。

 雄三の心配に具体性がなかった。しかし、夢だから無視しても良いということにはならない。雄三の心情は十分理解できる。拓也は不合理なことだとは感じがなかった。古代から夢は未来を予言してきた。予言できると信じる人間は多い。雄三の夢の内容をどこかで聞いたことがある、なにかで読んだことがあるように気がしたけれど、拓也は思い出せなかった。

 雄三の話で、拓也がすぐに連想したのは、遺跡と大木の根だった。観光写真などでよく見られる。石の建造物を覆うジャングルの植物。

 タ・プロム。カンボジアで有名な遺跡である。その石の寺院は戦火にも被害を受けず、発見された当時のままで残っているという。あずさはきっとタ・プロムを訪れるに違いない。

 

 燭台に垂れた蝋のあとのようだ。苔むした石の構造物、遺跡を覆うガジュマルの大木の根は巨大な白い蛇のように抱きかかえている。石は時のながれの中で成長することはなく、白く骨のように朽ちてゆくだけなのに、植物は生き続け、成長しつづけて、ついには固い石を飲み込んでしまう。大蛇の腹の中に次第に消えてゆく獲物のように遺跡は無抵抗に見える。あるいは、ガジュマルの木に覆われ、根にまかれた遺跡は新しい主を発見したのかもしれない。時という主。成長する命という主との熱い抱擁の姿かもしれない。

 拓也は寺院の中を歩き回った。幾つもの回廊が伸びていた。スコールの後の水溜りが幾つも点在していた。雄三の夢の中に現れた風景はどんなものだったろう。数世紀前の寺院の賑わいはすでになく、死と無言の時間が広がっていた。植物の根は圧倒的な力で地と空を覆っていた。人間はどちらの領域に存在するのか、と拓也は考えた。

 

 九

 

 小枝子が万田雄三の異変に気がついたのは、娘の値美のお蔭であった。

「おじいちゃまがお目目を覚まさないの」と、値美は母親に言う。幼女には事の重大さは理解できていないらしかった。

 雄三は脳梗塞の発作でベッドの中で意識を失っていた。発作が起きてから何時間たっているものか。家のものは気づかなかった。毎朝の習慣で老人を起こす、幼女の値美が一番に発見したのだった。

 雄三は救急車で運ばれ、救急病院の集中治療室で治療を受けた。病状は致命的なものではなかった。一命は取り留めたのである。後遺症がのこり言語や運動能力障害がのこるらしかった。左半身は麻痺が残った。もともと車椅子で足は不自由だったのだ。脳梗塞は追い討ちをかけたように決定的なダメージを与えてしまったのだ。脳梗塞の発作は一刻も早い適切な治療が必要だという。発作に気が付くのが遅れたのではないか。

 小枝子は幼い値美を抱くようにして、雄三の入院先の病院を訪れた。病室のドアをそっと開ける。小さな個室の窓際のベッドに雄三は横たわっていた。

「おじいちゃまお目目がさめたの」と、根美はベッドを覗き込んだ。

 雄三は白っぽく見える、やや血の気の失せた弱弱しい表情の顔をそれでも精一杯笑わせて、曾孫の値美に応える。

「ネネも病院に入ったの。おじいちゃまも病院に入ったの」と、言う。

「大丈夫だ。じきに家に戻るよ」と、雄三は言った。

「リハビリをすぐはじめれば手のほうも大丈夫ですって」と、小枝子は言った。

「ますます面倒をかけるね」

「何をおっしゃいます。早く良くなってください」

 雄三は芯の強い人間だ。高齢での脳梗塞といっても回復は早いかもしれない。万田の家の精神的な中心人物である。

「あずささんと拓也さんにはすぐ連絡します」と、小枝子は言った。

「なに、急ぐことはない。あずさも独りになりたいだろうから。拓也君もつけてあるし」

「あのふたりは一緒なんですか」

「どうも、そうではないらしい。近いところに居るようには頼んであるが」

 雄三のその言葉に小夜子はほっとした気持ちだった。雄三の枕もとに見舞いの花束を飾った。値美は病院の個室がものめずらしいのか、歩き回り点滴の器具にそっと触った。そうかと思うと窓の外の風景を眺めたりした。病室は十階の高さにあり、風景が遠く見渡せる。

「値美はね、明日幼稚園で植物園にいくのよ」と、窓の外を眺めていたが、雄三を振り返って言った。

 値美の言葉に雄三は怯えた。

「植物園には行ってはだめだ」

 ベッドの雄三の言葉を値美はよく理解できないのか、きょとんとしている。驚いたのは小夜子だった。突然、理解できないことを言い出した。病気の所為だろうか。聞き違いか。彼女は少しうろたえて雄三に聞き返す。

「植物園に見学に行くだけですよ」

 とはいってもつい先日プールでの事故を起こしたばかりである。母親である自分にも責任はあるのだろう。雄三はその事故を言い当てた。言い当てたというのが当たらないにしても、不吉な予感があたってしまったことは事実でなかったか。そう思うと佐代子は不安になる。

「植物園に危険があるでしょうか」と、小枝子は言った。

 小枝子にそう言われても、即座に答えることが出来なかった。

「夢を見たんだ」

「どんな夢ですの」

 意外だった。しかし、夢と言われたことで、何かわからぬ不安が濃くなるようだった。

 雄三は言いよどんだ。値美の性器から植物の蔓が延びて世界中を覆ってしまった、と母親に向って言ってよいものか。露骨過ぎる。

「良くない夢を見た。この間のプールの事故も水の夢をみて心配になった。夢をもうひとつ見たのだ。植物に巻かれてしまう夢だ。心配なのだよ」

 雄三はそれだけ値美を愛している証拠だと小枝子は思った。雄三の気持ちに感謝した。だけど、それは杞憂というものだ。水の事故も偶然であったろう。プールはともかくとして植物園に危険があるとは考えられなかった。   

 

 十

 

 アンコールワットの回廊をあずさは歩いていた。

 石柱が連なる回廊は彫刻で覆われているものの、崩れ剥げ落ちて、修復のあとも粗雑である。戦火に踏みにじられ、時間の牙にむしられて、朽ちた獣の骨のように無残だった。

 回廊の外には亜熱帯の植物の緑が濃い。薄曇の空から雨が白いたなびく幕のように降りてくる。回廊の端が雨粒に打たれだし、たちまち黒ずんだ色に変色する。あずさは長い回廊を独りあるく。歩いても数百メートル先の空間に何があるわけではない。巨大遺跡を囲む水と緑が広がっているだけだ。

 遺跡の十字回廊と呼ばれるところのあちこちに黄色の布を体に巻きつけた老人が座り込んでいる。僧侶なのだろう。あるいは物乞いなのだろうか。この国ではいたるところに物乞いや、物乞い同然の物売りが居る。観光客にまとわりついてなかなか離れようとしない。

 線香の香りが薄く風に混じってながれてくる。それと同時に雨の匂いがあたりじゅうから立ち昇る。雨音は石の壁の彫刻に吸われて行くようだ。あずさの靴音が回廊の石畳に落ちてゆく。

 スコールはたちまち激しさを増してゆく。視界が白くぼやけて風景が変わってゆく。石畳は水がながれだし、植物や土の匂いもあまりにも大量の雨のためすっかり洗い流されてしまった。

 激しい雨は不安や恐ろしさを覚えさせる。雨はすべてのものに真上から襲いかかる。遺跡の積み上げられた巨石も塔も、石畳も階段も、水に覆われ雨音に塞がれ、おびただしい水が流れはじける。雨は視界を奪い、あたりの風景を漂白する。雨のむこうに白く遠のいた遺跡や樹木の茂りは、質感を失い幻や、蜃気楼のようだ。

 雨傘を差していても、まったく役に立たず、足元からそしてたちまち全身ずぶぬれになる。あずさは強い雨に打たれながら歩く。激しい雨の中で傘も差さず、半裸に近い物売りの少年達は、まるで祭りの太鼓に浮かれたように走り回っていた。雨の中を走り回り、少年達は逃げ惑うように急ぐ観光客の前後を走り回り、纏わりついて叫ぶ。疎ましいのは雨ばかりではない。

 この激しい雨の中にこのまま消えてしまえたら良いのに。水に流されて、どこか遠い時間の果てに自分は流される。そこには自分という存在すらないのだ。永遠の眠り。永遠の眠りの中に沈みこむ。自分の存在をいとおしむこともなく、忌むこともなく眠る。

 

 雄三の心配は分からぬでもない。しかし、小枝子は値美を幼稚園にやった。値美も遠足を楽しみにしている。雄三の夢も危険なものではないように思う。雄三の心情に巻き込まれてしまうのは嫌だ。病人と同様神経質になってはいられない。

 幼稚園の遠足は植物公園だった。以前は林業の試験場だった場所である。数百種類の樹木がうっそうと茂っている。現在は各種の遊戯施設が設けられている。引率者の後を園児たちは大人しく、緑の小道を広場に向う。樹木の合間から降り注ぐ陽光が園児たちを包む。せみの声が四方から沸きあがり、園児たちの耳をくすぐる。きれいな落ち葉や、木の実、蝶などの昆虫。園児たちの興味を引くものに公園は溢れていた。子供達は早く自由がほしくてむずむずしている。

 値美はさっきから一羽の蝶が気になって仕方なかった。幸い、ちいさな瑠璃色に輝く蝶は園児たちの後をついてでもいるかのように離れなかった。値美は蝶を見失わずにすんだ。値美は心の中で蝶を呼び止めていた。どこにも行かないで、わたしとお友達になるまで、と念じていた。願いはかなった。

 危ないことをしてはいけませんなど、先生の言葉の後、やっと自由になった園児たちは周囲の興味あるものに向うことが出来た。値美は瑠璃色の蝶が誘うままに後に従った。蝶は値美が十分ついて来られるよう、小石や木の枝で時々まちながら次第に公園の一角に案内するらしかった。公園内にはいくつかの池がある。周りは簡単な柵で囲まれているが、水草が生い茂っている。水辺の泥にはカメも見かけることがあり、錦鯉の影がにごった水の中に揺らめく。

 瑠璃色の蝶は値美を水辺に誘う。値美は蝶が誘うままに池のふちに立った。泥で小さな靴がぬれる。足元は不安定である。水草の剣のようにとがった先に蝶は軽々と止まる。あなたの指で休みたいわ、と蝶は言っている。値美は思わず身を乗り出して蝶に手を差し伸べる。水の中で赤い影がうごいた。

 にごった水は曇った鏡のようだ。水の中に人の影がぼんやりと現れる。どうやら女らしい。長い髪が水中に広がっている。正午近い日差しが池の水に照り返って、人影は微妙に現れたり消えたりする。影は水のベッドにゆったりと仰向けになっている。

 

 十一

 

 東南アジアで最大の湖、トンレサップ湖にあずさは来ていた。湖のほとりの船着場までの道は最悪である。雨季には水位が上がり道路は水没する。乾期には湖は遠く後退する。湖の周囲の住民は何キロも拡大と縮小を繰り返す季節のたびに住居を移動させる。粗末な柱と椰子の葉で拭かれた高床式の家は移動には便利なようであるが。

 内臓がひっくり返るような時間を耐えたあと、あずさはバスを降りた。魚の腐敗した異臭が鼻を突く。観光客は一様にハンカチを口に当てている。

 エンジン付きの小船に乗る。茶色ににごった水の深さは分からない。船頭の一人が船着場で込み合う船を押し出すため水に飛び込む。岸辺は遠浅らしいことが分かった。あずさは泥水が広がるこのような湖は一度として訪れたことはなかった。まるで大雨の後に出来た巨大な水溜りのようではないか。対岸も見えないほどの水の氾濫。

 小船が作る波間に浮いた水草。小船のけたたましいエンジン音と茶色の波の無限に続くかと思われる揺らめきに眩暈を起こしそうになった。曇り空から無数に響く雷鳴と洪水の氾濫。神話の創世記にある風景が、目前に広がっていた。

 小船は水路を抜け次第に湖に出る。湖には漁のため小船がいく艘も出ている。すれ違った小船に収穫の魚が積み上げられている。体長半メートルばかりの鯰らしい。灰色の背中と白くぬめぬめと光る腹を見ると、あずさは吐き気のようなものを覚えた。赤銅色に日焼けし、痩せた漁師があずさを眺める。漁師の目は魚の目のように感情を読み取ることが出来ない。

 水上警察の警備員がカードを楽しんでいる。湖につばを吐いた。遠くの水平線が鈍く鉛色に光っている。ここはカンボジアなのだと、あずさは思う。

 あずさは警備員の姿から、あることを思い出す。日本で読んだ新聞の記事だ。旧ポル・ポト派部会議長の発言である。その幹部は数百万の国民が飢えや処刑で死んだことについて悔やみながらも、「当時私には人を逮捕したり殺害したり命じる権限はなかった。政権崩壊後に自分は虐殺の事実を知った」と言った。それは嘘に違いない。

 漁をして生きるもの、政府に雇われて生きる者。物乞いや物売りで生きるもの。泥水の中でも、木陰の涼風の中でも、どこででも人は生きる。そして、死ぬ。

 ポル・ポトもはじめから国民を虐殺しようとは考えていなかったろう。プノンペンの都市住民を田舎に追いやり、米の増産に従事させた。同時にダム建設に駆り出す。これも米の増産を意図したのだった。計画は失敗した。ポル・ポトは失敗の責任を自分以外に作り出す必要があった。内部の敵がそうして出来上がった。為政者のだれでもが行うことである。知識人は為政者を批判する。ポル・ポトは彼らを敵として狩り出した。子供達まで使ってあらゆるスパイ行為と拷問が繰り返された。スプーン一本の紛失が死の理由であった。文字が読めるのも死の理由だった。処刑は繰り返され、沼地は死体で埋まり、人骨の山がいたる所に築かれる。鯰の腹のように白い人骨。

 今、人は理不尽に処刑されることはないだろう。しかし、十数年以前生き埋めにされた人々の墓の間から溶けた肉を養分として成長した熱帯雨林が青々と茂っている。この湖の魚も人肉を味わった記憶を残しているかもしれない。水の中から何本もの手が伸びて助けを求める。あずさは分けのわからない死の予感に震えるのだった。

 ノアの箱舟の神話では生き延びた人間は一家族だけだ。神話でなくとも人類は幾たび大量に死んだことだろう。天災、戦争、疫病、虐殺で何十万何百万の人間が一度に命を失う。ひとつひとつ名前をもちながら、ひとつひとつの名などまるで無関心な死が突然に命をなぎ倒す。死の鎌に刈られる草の命のように。

 ポル・ポトの虐殺も百年二百年、時間の流れの中で、しだいに神話となるだろう。記憶の中で悲惨さは風化され、遠い星が美しいように美しく見えるようになる。

 

 値美はスプーンを上手に使って白いアイスクリームを食べている。

「おじいちゃまいつ帰ってくるの。ネネおじいちゃまに会いたいの」と、値美は言う。

「お見舞いに行きましょう」

 小枝子は値美を小型のボルボに乗せ雄三の入院先に向う。 

 雄三はだいぶ回復していた。リハビリも順調で不自由な手もいくらかは動くようになっていた。青白い顔に笑みを浮かべて、値美を迎えた。

「遠足では何も危ないことはなくてよかったわ。あまり心配しないで、体に障るから」と、小枝子は言った。

 遠足で値美に危険なことは何も起こらなかったけれど、大変なことに遭遇した。池の中に若い女の死体を発見したのだった。新聞もテレビも見ていない雄三はその事を知りはしないだろう。小枝子は話したくなかった。値美もその事をよく理解していないようだ。子供達はすぐに公園から引き上げさせられたからだ。値美は引率者に見たものを知らせた。死体であったことは理解していない。値美は死体を見たことは一度もないのだったから。

「おじいちゃまいつお家に帰るの」と、値美は言う。

「もうそろそろ退院するか。あなたは大変だと思うが、医者に退院の手続きを取るように言ってくれ」と、雄三は言った。雄三の意思はしっかりしている。何事も自分の思うように生きてきた男だった。

「あずささんに知らせましょう。黙っているのが気がかりです」と、小枝子は言った。

「ああそうだな」

 雄三は今度は素直に同意した。自分で携帯電話を取り上げる。

「あずささんは今どこにいるのでしょう」

「トンレサップ湖に居るらしい」

「拓也さんはそばに居るのに会わないなんて変ですね」

「あの子はそういう子だよ。少し風変わりなところがあるが良い子だ」と、雄三は言った。

 

 十二

 

 カンボジアは治安が悪い。長年の内戦が続いたその影響で大量の銃器が待ちに流れ出ている。それらの凶器を利用した強盗や、殺人、誘拐などが多い。夜間の外出は非常に危険だ。万田雄三があずさの身の上を心配して拓也に後を追わせたのももっともなことだった。

 拓也はプノンペンのホテルに電話した。

「万田さんが脳梗塞で倒れました。幸い軽かったようで、ご本人は退院すると言っています」と、拓也は電話口で言った。あずさは意外だったらしくしばらく息を呑む様子が感じられた。

「私と一緒に、帰りませんか」

 しばらくして、あずさは「そうします」と、言った。

「これから、ホテルに迎えに行きます。待っていてください」

 拓也はすぐにあずさのホテルを訪ねた。フロントで待つように言われしばらく籐椅子に腰をおろして待っていた。やがてあずさは軽装で現れた。手には旅行かばんがあった。チェックアウトが出来るように準備したものらしい。

「おじい様の様子はどうなのでしょう」と、あずさは眉をひそめるようにした。心配でたまらないらしい。

「本人はいたって元気なようです。病院からご自分で電話してきましたから」と、拓也はさっきと同じようなことを言った。

 拓也とあずさはこれまで親しかったわけではない。雄三の依頼がなければ異国の土地で向き合って話すことなどなかったろう。空港に向うタクシーの中であずさは言った。

「私は今ほっとしています。もしも、拓也さんが迎えにきてくれなかったら、と思って」

「万田さんの言い付けですから。それに、この国には興味もありましたから。ちょうど良かったといえます」

 拓也はもっと突っ込んで聞いてみたくなった。あずさの横顔は少し日焼けしているようだったし、長い髪も少し荒れているようだったけれど、拓也はひかれるものを感じた。

「迎えにこなかったら」と、言った。

「どこかに流されていたかもしれない。水に流される浮き草のように」

「どこに流れ着いていたでしょうね」と、笑いながら拓也は言った。

「どこでしょう」と、あずさは笑顔を拓也に向けた。

 窓の外は椰子の並木が続き、空港の建物が見えてきた。

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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畠山 拓

ハタケヤマ タク
はたけやま たく 小説家 1942(昭和17)年岩手県生まれ。

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