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愛の漂流

   一

 

 何故、由美子を愛してしまったのか不思議だ。婚約者がいるにもかかわらず、僕は由美子と関係を持ってしまった。僕は遊び人だ。女性との関係を深刻に考えたことはないが。

 婚約者のエリカは素晴らしい女性だった。女遊びでトラブルばかり起こしている僕を心配して父親が親友の娘を連れてきたのだ。僕は一目でエリカが好きになった。豊かな長い髪や、ちからのある綺麗な目。整った顔。優しくて利口でエリカは理想的な女性なのだった。僕とエリカは出遭って二ヶ月で婚約した。両親は僕が起こしてきたトラブルのわずらわしさから逃れることが出来たことを歓んだ。良い伴侶を得た息子は落ち着くだろうと考えたのだ。

 由美子との出会いはパーティー会場だった。細いからだと、ピンクのドレスが調和して優雅な仕草の由美子は目立っていた。以前の僕なら他の男を押しのけて、その女に近づき、誘惑の言葉を蜘蛛の糸のように吐き出しただろう。父との約束もあったし、僕はもうエリカ以外の女は眼中になかったはずだ。パーティーにはエリカも一緒の予定だったが、風邪気味なので欠席していた。エリカが居たら僕は由美子と親しく話すことはなかったろう。夕風に吹かれ、テラスで酔っているらしい由美子と話した。

 パーティーが終わる頃、由美子はもっとふたりで居たいと、僕を誘った。同伴者の男が現れて由美子が酔っていることを理由に強引に連れて行ってしまった。由美子は別れ際、僕の手に紙片をすばやく握らせた。

 紙片を捨てなかった。捨ててしまえばよかったと思うこともある。

 次の朝、僕は由美子に電話していた。以前のように女を誘惑しようと思ったわけではない。連絡先を受け取ったのだ。連絡もしなかったら由美子はがっかりするに違いない。

 由美子は僕よりいくらか年上だ。僕が童貞を失ったのも年上の女だ。中学のころだった。それから、いろんな人とセックスをした。年上もいたし、年下もいた、中には男性もいたけれど、男性とのセックスは嫌いだ。人間は不思議な存在だ。誰とでもセックスが出来るのだ。人形とでもする。動物とでもする。一人でもする。エリカは婚約すると、僕に体を許した。何でもさせたが、セックスが好きというのではないようだった。なにをしても受身で大人しく、可憐だった。僕はエリカをとても愛していた。

 由美子と待ち合わせて、中華料理店に入った。黒服の店員が静かなテーブルに僕達を案内した。

 僕の名前は武田功、由美子は坂根由美子と言った。僕の父親は大学の学長だったし、由美子の父親はこの地方を代表する大手の不動産会社の経営者だった。まあ、ふたりとも大物の子供といったところだ。ちなみにエリカの父親も専門学校を経営していた。僕は父が嫌いではなかったけれど父の意に添った生き方はしてこなかった。

 由美子は酒が好きだった。僕より強いように見えた。肉や魚やナマコ等の料理の皿をふたりで次々に空にしていった。老酒のグラスをひっきりなしに口に運んだ。由美子の話は楽しかった。僕達はすっかり打ち解けて食事をした。

 一度だけと思っていたけれど僕は次ぎに会う約束をしていた。約束は次の日の夕方だった。僕は終電のホームに急ぐ由美子の後ろ姿を見送った。

 

 由美子は結婚していた。小さな子供も居たから毎日、夜に外出することは容易ではないのだろう。お手伝いが居るかもしれない。亭主は妻を拘束しないのだろうか。僕にとっては関係のないことだ。直ぐに又会えることを単純に歓んだ。

「功さんの噂は聞いているわ」と、由美子は言った。ふたりの関係が出来てからだ。

「僕は由美子さんの噂は知らなかったけれど」

「私は人妻よ。大人しくしているの」と、由美子は言った。

 僕は以前に人妻との関係を持ったこともある。彼女らは夫に不満を抱いている。性的に満たされていないということと、恋にあこがれているのだ。冒険やスリルを味わいたがっている。性の自由は宗教や国家の制度で変わる。父や母は僕の性を危険だと思っている。息子が少しばかり早熟で性的な経験が豊富だという理由で恥じている。自分達の社会的な名誉を汚すと感じているらしい。僕は父に反抗などしていない。少なくとも僕の性の自由は父に反抗するためのものではない。成り行き上、迷惑をかけてしまったことは詫びてもいたが。僕は僕なのだ。結婚するのだから、最後の遊びなのだと、あの時、僕は考えたのだろうか。虫が灯に飛び込むように夢中で由美子を抱いてしまったのではなかったか。

 次ぎの日、僕は食事に由美子を誘った。

 食事をし、昨日と同じようにしたたかに飲んだ。ホテルのバーラウンジに移動して飲みなおした。テーブルのローソクの小さな灯が薄暗い室内を照らしている。紫のビロードのような明るさだった。並んで座っている由美子の体温を感じた。顔を向けると、無造作に結い上げた髪から白く長いうなじが目に入った。横顔は小さい。小さな出来立ての貝殻のような耳があった。僕が母に小さい頃海辺で拾ってあげた、あの小さい貝に似ていると思った。その耳にそっとくちづけした。そして、あまく噛んだ。由美子は震えだした。彼女の中で何かが起きているのが分かった。僕達は夢中でキスをした。ディープキスでまだ見たこともない由美子の舌が入ってくる。濃い口紅をつけたままだったから、二人の口の周りは大変なことになっていた。

 バーラウンジには白人の客が一組いた。由美子は微笑みながら僕と自分の口の周りを紙ナプキンでぬぐった。「欲しいの」と、由美子は言ったようだった。やっぱりこうなるのだ、と僕は考えていた。「今」と、僕は聞いた。エリカの顔がちらりと脳裏をかすめた。熱は下がっているだろうか。今ごろ母親が作った粥をベッドで食べているのかもしれない。

 由美子は最初から決心して家を出てきたのだろうか。以前、女の下着にツギがあたっていた事がある。二度目の時は真新しい絹のパンティーに変わっていた。その時何故かそのことを思い出したのである。「今度にしよう」と、僕は言った。由美子は少しばかり興奮しすぎているだけなのだ。僕にはエリカがいるのだし。

「すぐに抱いて」と、由美子はキスのくぐもった声で言った。

 僕にはエリカがいる。優しい婚約者がいるのだった。由美子の夫は弁護士だった。若手の優秀な弁護士らしい。子供にも恵まれている。弁護士と結婚している由美子は普通に言えば恵まれた女だ。ロレンスの小説の主人公みたいに不能の夫をもっているわけではないのだ。だが、彼らは愛し合っているとは限らない。由美子はチャタレー夫人なのだろうか。

「貴女は彼に愛されてないの」と、僕は由美子に尋ねる。

「愛しているとは言ってくれるわ」

「彼は浮気もするのかい」

「事務所の事務員と関係があったと思うの」

「仕返しと言うわけか」

「そんなんじゃないわ。功さんにはわからないのよ」

 由美子の言葉は僕には不可解だった。

 由美子は僕より年上だったけれど、性的な経験は僕のほうが上だと確信していた。鶏や羊や死体は経験がなかったけれど、少女から年上の女まで、そして男性も経験がある。僕は性の冒険者なのだった。

「ご主人とはよくするのかい」と、僕は何の感情も込めずに聞くのだった。事実、僕は由美子の夫の存在には無関心だった。嫉妬などしてたまるか。

「功さんはエリカさんを愛しているの」と、由美子は言う。

 エリカの婚約をどこかで耳にしたらしい。エリカの顔も知っているかもしれない。

 人は愛されていることを何によって確信するだろうか。僕には良くわからない。愛という言葉はキリスト教の言葉のように僕は思っている。キリストはマゾヒィストである。犠牲の愛を強制する。愛とは何だろうか。

 絶頂の波が徐々に引いてゆくと、由美子は僕の体を力いっぱい抱きしめて、海底から鎖をつけて引き上げるように「愛しているわ」と、言うのだった。苦痛とも溜息ともつかない低い囁き。愛していると言う言葉をこんな風に口にする女を僕は知らなかった。由美子の「テーマ」は愛なのだ。では、彼女にとって愛とは何なのだろう。由美子の言葉は僕にとって恐ろしくもあり、快感でもあった。

「私のことは結婚前の一寸した遊びなの」と、二度目のホテルのベッドに腰掛けた由美子は言った。

「分からない。苦しいよ」と、僕は言った。

 その時、由美子は微笑んだ。微笑みの意味は分からなかった。

 セックスの振る舞いは幾つかのパターンに分類され、さらに仔細に個別的になってゆく。クレッチマーなどの心理学による性格分類よりもはるかに多いのだ。身体的な機能の点からみると、由美子のセックスは優れたものだ。

 しかし、異性に魅了されて、関係を持ちつづけるのは、そのような単純なことではない。何故、一人の女に魅了されるのか。僕にはまだ分からないのだ。僕にとって女性は克服する対象でしかなかった。果物園にはいった子供があちこちの何種類もの木の実を食べ散らかすのに似ていた。狩猟の喜びに似ていた。愛の狩人、と言う言葉もある。女を追いかけ腕の中に抱きすくめ、足を開かせる。女の歓喜の叫び声と僕の勝利の叫び声が美しく共鳴するのだ。

 

    二

 

 エリカとの結婚式は半年後だった。

「私、独占欲が強いの」と、由美子は言う。

 僕は由美子の言葉の意味が理解できない。由美子の言葉は罠かもしれない。その言葉を詮索しないで聞き流してしまうことも出来ただろう。

「貴女には弁護士の夫が居る。彼を如何するつもりなのだ」と、僕は言ってしまっている。考えていることを腹にしまっておけない性格なのだ。

「別れるわ」

 由美子にはそれが出来るかも知れなかった。由美子は再婚している。二人の小さな子供達は由美子の連れ子である。前の亭主の暴力が離婚の原因だ。離婚協議を担当した弁護士が現在の亭主なのだった。由美子の二度目の結婚生活も幸せでなかったのか。二十歳で結婚し、二十五歳で離婚した由美子。二人の幼い子供を抱えた女にとって弁護士の求婚者は魅力的な存在に違いなかったろう。婚約者の居る僕は由美子の家庭に手を突っ込むことなど考えていなかった。

 ふたりの人生はこれ以上交わることも、深まることもないのだ。僕はエリカを愛していた。由美子とエリカの両方を愛していることが不実とは思わない。人は時の流れの中に漂っている。時間を逆転させることも、運命を変えることも出来ない。あるいは運命は変えられるかもしれない。人は誰でもやり直せる。一から歩みだすことはできる。由美子が暴力亭主から逃げ出したように結婚生活をやり直すことができる。世の中には何度も伴侶を変える人間が居る。僕もピカソが好きだ。彼の絵も、彼の生き方も。

 僕には結婚の経験はない。セックスの経験と結婚の経験はまるで違ったものに違いない。結婚とはセックスの制度化であると主張するウーマンリブの人々も居るらしいが。結婚もセックスも愛に通じる迷宮の入り口のようなものであるが、愛、そのものではない。

 数ヶ月、由美子と出会うのが早かったら僕はエリカと婚約したかどうかわからない。子連れで離婚暦のある年上の女と結婚したいのだと、両親を困らせただろうか。父の立場では十分にスキャンダルになるのだ。弁護士である夫が由美子を手放そうとしなかったら、事態はもっと修羅場になるのだったから。由美子が豊かな生活を保障している弁護士の夫を捨てて道楽者で無職の年下の男と三度目の再婚などする気になるかどうかを知りたい。まもなく僕の無職も終わり、父の大学の事務職員になることが決まっていたが。

 世の中の浮気な女のひとり。夫との満たされない性を外に求める。由美子がそのような女であってくれれば僕の気分は軽い。僕は性の狩人を気取っていた。しかし、欲求不満女の性のはけぐちになるなんて真っ平だった。それではエリカを裏切っていることに何の価値もない。僕が真に由美子を愛しているか、由美子が真に僕を愛しているのでなければ、エリカがかわいそうだ。では、犠牲があれば愛は美しくなるのか。愛が輝くには犠牲が必要なのか。犠牲と何が結合すれば愛になるのか。

 

 初めて由美子を抱いた日の真夜中にエリカを見舞った。家の帰り道、思い直した。真夜中なのだ。見舞いなら明日の朝にすればいい。エリカの白い顔が脳裏に浮かび、エリカの微笑みを思い出した。

 真夜中である。エリカの母は少し驚いたらしかったけれど、すぐさま嬉しそうに僕を娘の部屋まで案内してくれた。エリカはすでに眠りについているだろう。母親がドアを小さくノックして先に部屋に入っていった。

 目を覚ましたエリカの枕もとに僕は黙って座っていた。やがて、エリカの母が僕に夜食のミートパイと、眠っていて夕食も取っていなかったエリカに粥を作ってきた。エリカは少し食欲がでてきたみたいだった。粥をゆっくり冷ましながら、エリカの口に運んだ。愛らしい唇。口紅はなかったけれど青ざめてはいない。薄いピンクの唇。

 罪悪感はなかった。由美子を抱いたことは遠い昔の記憶のようだった。僕の体の何処にも由美子の痕跡はないのだ。由美子のうめき声も、とろりとした眼差しも、僕の体を締め付ける長い足も、なにもかも記憶の中に清らかで美しかった。

「もう少し、食べたらいい。早く元気になる」

「私めったに風邪なんてひかないのに。弱い()と思われるのは嫌だわ」

「誰もそう思わないよ」と、僕は言った。

 次の日、由美子に会った。

「熱を出したの。今朝、お医者様に行ってきたわ」

 何故、由美子は熱を出したのだろう。由美子の発熱が僕とのセックスが原因だとしたら彼女の肉体はある種のショックを受けたということなのか。由美子も僕と同様、男遊びに長けている人間と感じていたのは間違いだったのか。

 何の意味も無いのだろうが、僕はふたり同時の発熱に少しばかり動揺したのだった。過去にどれだけの女と関係を持ったかなどということは僕には何の関係もない。モラビアの小説、「無関心」のように僕は過去に無関心でいよう、と考えた。しかし、今、僕は結婚というシステムを受け入れようとしており、同時に新しい恋人も持とうとしている。聖書に妻以外に子供を作る話がある。羊を増やすことが必要な社会ではそうなのかもしれない。僕はエリカと結婚し、子供を作る。僕は由美子とのセックスで子供ができるかもしれない。そうなったら僕の子供達は皆仲良くするだろうか。混乱し、発熱しているのは僕のほうだったかもしれない。

 

 僕の部屋は男の部屋と思えぬほど整理整頓されている。掃除や整理整頓だけではなく、洗濯や料理や日曜大工などの手作業も得意だ。アイロンも自分でかけるから母親は「パパも貴方のように少しは身の回りをしてくれたらいいのに」と、僕を持ち上げることもある。

 貧乏はしているが、親元を離れることはいつでもできる。僕は多分ジゴロもできるだろう。その気になれば女が養ってくれるだろう。勿論、そんなことは断固拒否する。でも、家を出て行かないのは自信が無いからでもある。

 小説は書いている。作家になろうとした。書きはじめて直ぐに才能が無いことに気付いた。小説家にはなれない。他に何になれるだろう。詩は好きだし、絵も好きだ。しかし、それでは食えないことは分かっていた。僕に何ができるだろう。せいぜい女の尻を追いかけ回すだけだ。セックスしてセックスしてその先に何があると言うのだ。父が結婚を期待してエリカを連れてきたことは僕には幸せだったのか。結婚と言う制度の中で、家庭を持ち、子供を持ち、働いて年老いてゆく。それが悪い人生、不幸な人生だなどと僕は考えているわけではない。僕はノートを広げて考えを書き綴っていった。僕は小さい頃から書きながら考える習慣があった。父が教えてくれたものだ。

一、 何故、僕は由美子と関係を持ったのか。

二、 何故、僕は由美子を愛しているのか。

三、 何故、僕はエリカを愛しているのか。

四、 僕はエリカとこのまま結婚すべきなのか。

五、 エリカに僕と由美子の関係を告白すべきか。

六、 エリカと由美子を僕は幸福にすることができるか。

七、 僕は何を望んでいるのか。

 僕はノートに考えるべきテーマを箇条書きにした。一問ごとに考えることで、僕の自己分析ができる。その時、答えは直ぐに出るだろうと僕は思っていた。無明の海に漕ぎ出すことになろうとは予想もしていなかったのだ。

「わたしの何処が好きなの」と、由美子はベッドの中で言うのだった。僕は鳥が好きだ。由美子のどこか鳥の頭部を連想させる小さな顔。細くしなやかな手足や小さな尻。浅黒い体は鞭を連想させる。小さな乳房。何よりも目と口が好きだった。目は眼光が鋭くいつも濡れて燃えているようだった。それと対照的な優しく肉感的な唇。僕と由美子はベッドの中でセックスの間中何百回もキスをした。関係を持つのにどちらが積極的だったか、微妙なところだ。最初のデートの終わりに、次の日も会おうとせがんだのは僕のほうだった。ホテルのラウンジでキスをしたのは僕のほうから。セックスをねだったのは由美子の方からだ。一度目のセックスが終わり、次に直ぐにも会いたがったのは僕だ。出会ったその日に女の子とセックスをしたことも度々あったから、由美子との事は特別ではないが。

 由美子は彼女の人生で愛の相手に対して何度も失望しているのだ。最初の夫はギャンブル好きの借金まみれ、二番目の夫は、これは推測だけれど傲慢なエゴイスト。あわれな女とその二人の子供を救ったと思い込んでいる偽善者。

「彼に対して、罪悪感を抱いているかい」と、僕は言った。

「無いわ」と、由美子は否定した。「功さんはどうなの」と聞き返されないかと心配したが、由美子は何も言わなかった。

 僕は簡単に女と関係を持つ。婚約も僕の行動の歯止めにはならなかった。エリカだけを守ろうとしていたはずだった。でも、守るとはどういうことなのだ、と僕は考えてしまう。

 パーティーのテラスで酔っているらしい由美子は前後の脈絡も無く「ああ、どこか遠くに行ってしまいたい」と、言った。

 由美子は満たされないものを持っている。子供と裕福な家庭を持ちながら、なお満たされない気持ちを抱えて生きている。夫に対する不満。性に対する欲求不満。自分の人生に対するぼんやりとした不安。寂しさ。僕は寂しさなど感じたことは無いけれど、由美子は違っている。

 

    三

 

 気前の良い父は、結婚の祝いに僕に家をプレゼントしてくれた。

 都心から一時間ばかりの海岸の家。総二階のふたりだけの新婚家庭にしては大きな家だった。風呂もふたつ付いていた。両親は自分達の別荘に使おうと考えたらしい。やがて生まれるであろう孫と過ごす海辺の別荘地と考えたらしい。僕は両親のその思惑に対して特別な感慨はなかった。新しい家は両親の僕への愛の形なのだ。

 僕達の関係は一ヶ月、二ヶ月と続いていった。今までの女達のように、短い間の関係ではなくなった。まだ、決して長いとはいえなかったが。僕は大抵の場合数回で女が嫌になったし、そうでなくても喧嘩して別れた。相手がわがままな場合もあり、僕がわがままな場合もあった。

 婚約者がいる僕に積極的に近づいてくる女は少なくなった。僕も遊びは卒業したと、自分に言い聞かせてもいた。穏やかな家庭を作り、残りの人生を過ごすのだ。大学の陰気な校舎の中でごそごそしながら。海岸で両親とピクニックしながら子供を育てる。平和で退屈な人生を、過ごすのだ。何の不満も無しに。

 何故、僕はエリカを愛しているのか。エリカは僕にとって永遠の女になるはずだった。永遠のパートナー、という感じはいまだに変わらない。由美子を知り、愛し合うようになってもその気持ちに変化は無い。結婚を約束した女は今までエリカ一人なのだった。僕が父親の意向とはいえ、結婚と言う制度に組み込まれることを承知したのだ。僕自身の自由な意思で選択した。僕の放蕩は父への反逆ではなかった。制度への反逆でもなかった。だから、結婚は敗北でも勝利でもないのだ。

 エリカと結婚すれば何かが変わるだろう。結婚し子供ができれば僕の気持ちが変わるかもしれない。もっとも、変わると言う保証は無い。由美子との関係は愛人と言うことになる。エリカは妻で、由美子は愛人。何だか、おかしい。愛している女の一人が、妻と呼ばれ、もう一人の女が愛人と呼ばれるのだ。本質的な違いなど無いのに。あるとすれば、時間の違いがあるのだけれど。父の連れてきた女が由美子ならまったく違っていたろう。しかし、年上の子持ち女を父が連れてくるわけは無い。

 由美子の存在は僕がエリカと結婚することを阻むものではなかった。僕は同時に何人の女でも愛せる。心の痛みはあっても、痛みには耐えられる。島尾敏雄の「死の刺」のような修羅場には決してならないだろうという確信がある。僕は秘密と言うベールで由美子を覆うことにした。覆うと透明になるベール。魔法のベールを持っているのだ。

「僕が貴方を愛せるただ一つの条件がある。それは、秘密だ。僕達の関係を秘密に出来ている間は、僕達は愛し合うことができる」

「分かっているわ。誰にも言わないわ」

「永久に秘密なのだ」

 フォークナーの「エミリーに薔薇を」のように、或る時僕達の愛が暴かれることがあるかもしれない。僕はそれをおそれてはいなかった。それはそのときのことだった。由美子は利口な女だから、秘密を守り通すことはできるだろう。すくなくとも僕を愛しつづけている間は、秘密を守るだろう。

「あの人は、私に恋人が出来たことを感じたかもしれない」と、ある時由美子は言った。

 あれほど約束していたのに、と僕は思ったけれど、口には出さなかった。由美子は夫に旅行に誘われたのだと言う。彼女は夫と旅行するのを躊躇した。旅行中に抱かれたくなかったのだ。一日あれこれ考えた末に旅行を断った。僕はそのことを心配したが、由美子の反応は驚くほど平然としていた。「なんとか、ごまかしておくわ」

 僕は人間の行動や性質に男性と女性との区別は無意味だと考える。男と女の本質的な違いなど無い。由美子は夫を愛していない。愛していないから、彼を上手くごまかせるのだし、後ろめたさも感じることは無いのだ。

「私は独占欲が強いの」とも由美子はしばしば口にした。その言葉を僕は僕にむけられたもののようには感じられない。人の心を独占するとはどういうことなのだろうか。

 由美子が子供を抱えて、現在の安定した生活環境を変えられるとは思えない。五LDKの豪華なマンションに住み、子供達や自分の趣味やお洒落に豊富に金が使える身分から、無職の若造のものになるなどとは想像しにくかった。由美子は単に僕という男と火遊びをしているに違いないのだ。そのように僕は思いたかった。心のすみでは由美子の純愛を感じないわけには行かなかった。二人の関係が夫への不満だけが原因だったとしたら、彼女は以前から浮気を重ねていただろう。男を何人も取り替えて遊んでいたに違いない。由美子は美人だったから、彼女がその気持ちになりさえすれば、男には不自由しなかったに違いない。

 由美子は二人の子供を精一杯に愛している。僕とも逢引の時も、子供のことは片時も忘れはしないだろう。子供が体調を壊した時などは、ふたりの約束はあっさりと破られる。僕は失望を必死に隠そうとする。由美子もそれを分かっている。まるで、ふたりの子供であるように見も知らぬ子供達を僕は愛し始めている。

 

 エリカの母親から電話があった。声の調子は普段と違わなかった。普段と違わないよう努力している口調だった。悪い予感がした。いつかは訪れることだったのだ。

 母親に呼ばれて家を訪ねる。玄関の呼び鈴を鳴らす。庭に薔薇の小花を目の隅に留める。平和な家庭は僕が原因で波立っているのだ。きっとそうに違いない。

 いつもなら直ぐ顔を見せるエリカはなかなか応接間に顔を出さなかった。もしかしたらエリカは家にいないかもしれない。エリカと母親が同時に顔を出した。エリカの顔は青ざめていた。予感が近づいてくる。大きな黒い鎌を持って。僕は無邪気に振舞った。無邪気さは僕の武器だった。

「エリカの誤解かもしれないけれど、良くない噂を聞いてしまったのよ。功さんの行状について」と、母親は予想していたことを切り出した。

「貴方はエリカのほかに付き合っている女性がいらっしゃるの」と、母親は微笑を浮かべていた。女性は幾つになったらこんな微笑を浮かべられるようになるのだろう。

「僕はいろんな女性と付き合っていました。それは正直にお話してあるつもりですが」

「功さんはおもてになるから。でも、それは今までのこと。エリカと婚約する前のことでしょう。いろんな方とお付き合いして、そうして成長してゆくことは若い方には必要かもしれません」

「功さん」と、こらえ切れなくなったように、エリカは母親の言葉に割って入った。

「誤解ではないわ」声はとがっていた。「私は、貴方とは結婚しません。出来ません」と、エリカは言うのだった。声がかすれていた。緊張のあまり手足が震えている。涙が青ざめたエリカの頬を伝って落ち始めた。僕は雨の水溜りを思う。土砂降りのなかの水溜り。

「突然で何のことか分からない」と、僕は言った。

 由美子との約束が無ければ、僕は全てを白状したろう。由美子を守りたいととっさに考えた。僕は侮辱されているわけではない。目の前のエリカが遠い存在に思われた。同時に、エリカがかわいそうになった。母親の姿に隠れるようにしていたエリカが僕の前で大泣きしている。

 母親がいなければ、僕はエリカの肩を抱き、愛を囁いたろう。告白とはちがうが、真実の言葉を。僕は上手くエリカを慰め、由美子と僕の情事に触れずに説明できただろう。母親がいてはそれもかなわなかった。結果的に母親はエリカの前に立ちふさがって、僕達の愛を壊したのだ。それは同時に娘の将来の幸福を守ることでもあった。

 母親は僕を門まで送ってきた。薔薇の花を一輪つんで、僕にくれた。

「人生には色んなことがあるわ。貴方にも事情があると思うの。この問題は貴方とエリカの問題なのよ。ふたりでよく話し合って、もっとも良いと思う道を決めなさい。私は功さんを一方的に責めたりはしないわ。でも、娘を傷つけたのは貴方のほうなのよ」

 エリカの母は僕を見捨ててはいないのか。少なくとも薔薇の花を手に残すことを選んだ。エリカの母は壁ではなく、通路なのだろうか。迷宮でも通路には違いないが。僕は自分が打ちのめされていないのを感じた。エリカを失うかもしれない。いや、すでに失ったとしても、大丈夫なのだった。涙があり、薔薇がある。

 誰かに目撃されたのか。世の中には好奇心にあふれた人間がいる。悪意にあふれた人間はもっと多い。偶然に僕や由美子を知っている人間に目撃された。そいつはおせっかいにも僕達の後をつけたのかもしれない。巣穴にもぐりこむ女と男を見つけてにんまりしたろう。僕には敵が多いとはいえないが、父親には居るかもしれない。僕にも過去に捨てた女性はごまんといる。僕を恨んでいる者もいるかもしれない。父親も人格者だと思うが、人格者だって憎まれない保証は無い。そして、他人の不幸は蜜の味。蜜に集まる蟻のような人間は多いのだ。

 

    四

 

 僕はホテルのラウンジに由美子を呼び出した。

「知られちゃったらしい。僕らの関係」と、僕は言った。僕は注意深く彼女を観察した。

「功さんはどうするつもりなの」

「僕は由美子と別れない。エリカとは結婚しないかもしれない」

「私を選んでくれるのね」

「秘密がなくなったということだよ。秘密によって僕達は守られなくなった。魔法の力を失ったようなものだ。皆の目の前にさらされるのだ。被告人になるかもしれない。弾劾され、粉々になるかもしれない」

「私のせいなのね。私が功さんの結婚を壊してしまったのね」

 一寸待って欲しい、とその時、僕は由美子には言わなかった。由美子は心の中で笑っているかもしれない。僕とエリカが結婚しないのなら、彼女の可能性がすこしは広がる。夫のもとを逃れて恋しい男の胸に飛び込める。飛び込む隙間が広く用意されている。やはり秘密の契約を破ったのは由美子なのだろうか。しかし、それは彼女にとって危険な賭けだ。

「僕達の関係が君の夫に知られるのも時間の問題だろうね。それとも、もう知っているのかな。彼は」

「知らないわ。私は功さんとの約束は守っている。二人の関係は秘密なのよ」

「どうして、エリカは知ったのだろう」

 その時になって、僕は初めて疑問を抱いた。

「貴方は、エリカさんをやっぱり愛しているのね」と、由美子は言った。

 秘密がなければ愛は保たれないのだ。僕は無意識に由美子を犯人だと決め込んでいたのだろうか。秘密が暴れれば、エリカと僕の結婚は危うくなる。結婚が破談になれば、由美子は僕を独占できるというわけだ。しかし、由美子自身の愛も壊れてしまう可能性もある。均衡が破れ、全てが破滅されるかもしれないのだったから。

「功さんはどうするの。エリカさんと結婚するの。別れてしまうつもり」と、由美子は何でもないことのように聞く。淡々とした口調だ。喜びを押し隠しているのか。不安を押し隠しているのか。

「僕は正直に言うとどうしていいか、結論を持っていない。秘密が漏れたとしても、決定的でないかもしれない。このまま、知らん顔を決め込んで事がすむ場合もある。また、何もかも白日の下にして、三人で話し合うことも可能だ。貴女のご亭主も当事者だとすれば四人ということになるか。僕の両親も当事者なのかもしれないし。エリカは父の親友の娘だからね」

「私は夫と別れるわ。功さんとの愛は失いたくない」

「愛は得られても、安定した生活は失うよ。それに君の子供達は父親がそんなに、ころころ代わっては名前を覚えるだけでも大変だ。まだ小さいのだし」

 由美子の連れ子、二人の子供たちは、新しい父親には懐いていないようだった。如何してなのか詳しくは知らない。由美子の夫に対する不満の多くのはそれで占められているらしい。懐いていないとすれば、若い父親を与えてみるのも母親としての選択肢か。新しい玩具を子供に与えるように。新しい父親を子供達にあたえる。

 

 秘密が漏れたことの犯人探しより重要なことがある。エリカの本心をもう一度確かめてみることが必要だった。問題は僕とエリカのことだ。僕はそのことを避けてきた。しかし、もう避けては通れないのだ。

 エリカとふたりで話さなければ。僕はエリカに電話をした。エリカが素直に会ってくれるかどうか不安だった。裏切り者は僕なのだ。ためらっているエリカと会う約束をなんとか取りつけた。

 公園の日差しがまぶしい。約束のベンチに向かう途中、かわいい幼児たちが騒いでいる。由美子の子供達と同い年ぐらいだろう。僕に子供が出来ることなどあるのだろうか。子供達の姿が僕の目を通して、心に突き刺さってくる。

 木立の木陰にエリカの白い姿が見えた。優雅な植物のようだった。怯えた僕がそのように見ようとしていのだ。僕はエリカが恐ろしかったのだ。僕の心はなえていた。戦闘に赴く気分でいたはずなのに。エリカを説得し、彼女を愛していることを理解させ、かけがえのない存在なのだと宣言すること。それが今の僕に課せられた課題なのだ。僕の本心は何所にあるにせよ、僕にはエリカを無慈悲に扱う権利など無いのだったから。

「貴方が何故、このベンチを指定したのか考えていたの」と、エリカは言った。

 エリカは少し青ざめていたが、案外元気そうだった。

「僕と坂根由美子さんが会ったのは、君が風邪で一緒できなかったあのパーティーでのことだ。ふたりで何となく話が弾んで。何を話したのか覚えていない。酔っていた。彼女もお酒が好きなほうらしい。次の日会って食事した。エリカも知っているように。彼女は結婚している。夫は弁護士だ。有名だね。弁護士会の役員をしている。しかし、ふたりは上手くいっていないと言っていた。子供がいる。連れ子なのだ。彼女は再婚なのだ。親しくしていることは認める。彼女は嫌いではない。だけど、君の母上やエリカが考えているようなことではない。男と女の関係はない。僕はその方ではあまり評判が良くないことは知っている。誰の誤解か悪意だよ。いや、誤解だと思う」

 エリカは黙っていた。僕の言葉を信じはしないだろう。どのような証拠の情報を握っているのか知らないが、僕の言葉を鵜呑みにするとは思えなかった。

「僕達は婚約している。僕は後悔していると言うのではないが、結婚とは何か分からない。幸せに結婚生活を送っている人ばかりではない。坂根由美子さんのような人もいるのだね。年上の人生の先輩にいろいろ話を聞いているのさ」

「彼女は魅力的な人だわ。貴方は好きになったのよ。私との婚約を後悔しているのよ」

「そんなことはないよ」

「私と婚約したことを後悔しているのだわ」

 エリカの表情は穏やかだった。僕は不安だった。このまま言い抜けるしかない。エリカが僕の言葉を信じるかどうかは問題ではない。エリカを傷つけてはいけないのだ。

「明日、家の現場を見に行かないかい。建築会社が来てくれと言うのだ。君に決めてもらいたいこともあるし」

 唐突に僕は言った。

「僕は君と結婚する。エリカを裏切ってはいない。信じて欲しい。来月からきちんと就職するし、働いてよい家庭人になる。今までのような遊び人とはさよならする」

「歩きましょう」

 エリカはベンチから立ち上がった。始めは元気な足取りではなかったが、しだいに晴れやかな表情になっていた。エリカはそれ以上由美子の話はしなかった。婚約の解消の話もしなかった。疑惑が解けたとも言わなかった。僕を信じているとも言わなかった。エリカは謎のように僕の前を歩いていた。立ち止まり、僕の腕に手を回した。和解は成立したのだろうか。謎の温かみが腕を伝わって流れてくる。僕の未来。僕の謎。僕の未来の謎。

 次の日、エリカは弁当を作ってきた。僕達は新居を見に行くのだった。ピクニックのような気分で。弁当は色とりどりで綺麗だった。エリカは料理教室に通いだしていた。

 

 由美子と僕は会うことをやめなかった。

 由美子が現れる。僕達は愛し合う。一回終わるごとにくしゃくしゃのベッドの中でながながと寝そべる。次ぎの波を待つインターバル。由美子の目が至近距離から僕を射る。お互いの手がお互いをまさぐる。もつれた植物の蔓のように。僕達はセックスしている時も、そうでない時も、話をする。性感は言葉と溶け合う。万華鏡のように輝く。

「彼と別れようと思うの。子供達のためにも」と、由美子は言う。

「僕達のことが知れたのかい」と、僕は言う。

「功さんとのことは何も話していないわ。貴方との約束は守っているの。貴方のほうはどうなの。エリカさんとどんな話になっているの。婚約を解消するの」

「解消するという話にはなっていない。もっとも母親とエリカの気持ちは違うかもしれないけれど。由美子の今後の生活は如何するの」

 由美子の親は資産家である。離婚して娘が子供連れで帰ってきても、経済的に困るということは無いだろう。母子家庭の面倒ぐらい見られる。かわいい孫も傍における。そうなる事を望んでいるかもしれない。

「まだ、はっきりと結論を出しているわけじゃないけれど」と、由美子は口篭もる。

 僕には由美子の離婚に対してどうこう言う権利はおそらく無いだろう。無いけれど、嬉しくないことはない。由美子を独占できる。不安であることも確かだ。二度も離婚する女性が幸せであるはずは無い。不幸な結婚よりましかもしれないが。由美子の離婚が僕との結婚を意味しない。意味しないのがわかってはいるが、彼女の願望は強まるだろう。僕は由美子の夫を知らない。一度どこかで会う必要がある。勿論、由美子の恋人としてではなく。彼を見極めたい。由美子にふさわしい人間かどうか僕自身の目で判断したい。

 僕はエリカとの結婚を諦めてはいない。今でも彼女を愛している。エリカも僕のことを許してくれるだろう。結婚したら由美子のことはどうなるか分からない。今までの僕なら、彼女を捨てることは出来るだろう。今、そのことを考えても実感は無い。

「別れることを考え出したのは、功さんと出会う前からだわ」

 

    五

 

 エリカが家出をした。

「行き先に心当たりは無いわ。貴方は何かご存知ないかしら」と、エリカの母は言った。彼女は非常に落ち着いていた。家出は僕が原因である。エリカの母はそう思っているはずだ。それにもかかわらず僕に対する態度も穏やかなものだった。

 エリカは何所にいるのだろうか。

「置手紙はあったわ。暫く一人になりたいと。でも、結婚式の準備もあるし、功さんにも何も言わずに出かけるなんて。あの娘は苦しんでいるのね」

 そう言いながらも、エリカの母は僕を非難していない。そのことは彼女の様子から感じられた。僕は後悔で一杯になった。後悔といったけれど、由美子との関係を後悔したというのではない。エリカを悲しませてしまった事の後悔だ。エリカと会わなければよかった。彼女と婚約しなければよかった。僕はエリカを愛していたし、彼女との結婚も熱望していた。後悔は秘密を守れなかったことへの苛立ちに近かった。誰が僕達の秘密を嗅ぎ当てたのか。失われたことの現実を受け入れかねていた。由美子に会いたいと突然に思った。エリカと由美子が僕の中で一つに溶けてゆくような感じにとらわれた。

 由美子にはエリカの家出のことは話さなかった。由美子を苦しめたくなかったのだ。旅行で一、二週間留守にすることだけを言って、エリカを探す旅に出るのだった。探すといっても、あてがあるわけではなかった。始めに、僕達の新居になるはずの家に行ってみる。無口な大工が一人で働いていた。家は半分近く工事が進んでいる。エリカの姿は当然のように無かった。

 僕は車を走らせた。地方在住のエリカの友人や知人に電話を入れる。彼女が旅して気に入ったと話していた土地に車を向けた。僕は考えて行動しているつもりだったけれど、実際には当てもなく走っていただけだ。彷徨しながら考えた。エリカか由美子のどちらかを選ぶべきなのか。そうすべきだとして、僕に出来ることなのだろうか。あてもなく車を走らせていると由美子もエリカも僕にとって非現実な存在に思えてくる。僕は蜃気楼を追っているのか。僕の中にいるエリカと現実のエリカは同じ存在なのだろうか。家庭にいる由美子と僕の記憶の由美子は同じ存在なのだろうか。また、彼女達の記憶の中にいる僕とはなんだろう。僕自身とは似ても似つかぬ僕が存在しているかもしれない。

 寂しいホテルだった。これ以上狭く造れないほどの空間にベッドかある。小さな窓からは夕暮れの空が落ちてくるようだった。僕は由美子を抱きたいと思った。エリカを抱きたいと思った。彼女達に何を求めているのか僕には分からなかった。僕の手に二人は永久に戻ってこない。僕は時の中に放り出されるのだ。何も無い空間。捨てられた僕。

 僕は夢を見た。エリカが建物の中にいる。僕達の新居に。家は完成しているらしい。とても豪華だけれど古びている。新築のはずが。何年もたっているのだ。結婚してエリカと生活している。とっくの昔の出来事だ。結婚式の様子も、その後のことも思い出せない。僕は記憶喪失だったに違いない。エリカには知られてはまずい。彼女を悲しませるだけだ。

 家は炎に包まれている。何所から出火したのか。エリカを助け出さなくては。エリカの影が炎と煙の向こうに見える。水をかぶり、火に飛び込んでゆく。かぶった水は熱い。炎で熱せられたものか。夢はうやむやに終わった。僕はエリカを猛火から救ったのかどうかかわからない。エリカもろとも炎に飲み込まれたとも感じた。夢なので死ぬことは無かった。夢を通じてもう一つの生に生まれなおすことが出来たら良いのに。夢は僕を少しばかりセンチメンタルな気分にした。

 うたた寝をする前に見たテレビのニュース番組の場面が夢を構成していた。火傷を負ったエリカを僕は愛し続けることが出来るだろうか。現実にやけどを負ったエリカ。僕は彼女と結婚するだろう。そして、もうエリカ以外を決して愛そうとはしないだろう。僕には愛の忠誠はあるのだろうか。宵の明星が瞬いていた。星の光はぐんぐん強くなる。眠っていたのは数十分なのだ。

 

 由美子の家に始めて電話した。付き合って数ヶ月、一度も電話したことが無い。電話口に子供の声が出た。由美子の子供に違いない。年上の長男のほうだ。「ママはいないよ」と、幼い声は答えた。名前を名乗らずに電話を切った。一度も見たことも無いのに、由美子の家の内部が目に浮かんでくる。エリカは今ごろ如何しているか。夕暮れの海岸を歩いている。炎に包まれているかもしれない。エリカのツバの広い白い帽子が目に浮かんだ。

 僕は道をはさんでビルの前に立っていた。

 茶色のシックなビルを伺っていた。由美子の夫の法律事務所が入っている。エリカが消えてから一週間ほど。エリカを探すことはこれ以上不可能だった。待つしかないのだ。エリカの母は僕が驚くほど落ち着いていた。

「私はエリカを信じているの。今に帰ってくるわ」

 そう言われると僕は恥じ入るばかりだった。由美子の夫、坂根健二の顔は知らなかった。由美子に写真を見せて欲しいと、言ったことがあるような気がするが、まだ見たことはない。顔も知らない人間を待っていても無駄なことだった。僕は坂根に会うことをはっきりと意識していたわけではなかった。エリカを探しあぐねた僕。もう、エリカの帰りを待つしかないのだ。何も出来ない自分への苛立ちが意味も無い行動をとらせたのだ。

 ビルの出入りは少なかった。ビルには個人事務所がいくつか入っている。旅行会社も入っていた。僕は坂根を背の低い男だと想像した。すくなくとも僕より背の低い男だ。自信に満ち溢れた顔。野心を宿した視線。黒の三つ揃えの背広。背広の襟に光る弁護士バッチ。それなら、ビルに出入りする人間から坂根健二を発見できるかもしれない。

 黒いアタッシュケースを手にした男がビルから出てきた。想像していた男にぴったりだった。僕はその男のあとをつけた。男はビルの裏手にある駐車場に向かう。僕は急いでパーキングから車を出した。駐車場のほうに回る。一台の車が出てくる。先ほどの男が運転していた。

 車を追跡した。車は市の郊外の海岸沿いにあるホテルに滑り込んでゆく。以前、由美子と利用したことがあるホテルだ。

 僕は由美子に非難される行動を取ってしまった。自分でも誉めたものじゃないと思う。坂根健二とおぼしき男を追って、僕はホテルの回転扉を押した。男はロビーに入る。フロントの前。ロビーの一角。丁度柱に隠れた場所。由美子が居たのだ。僕は思わず立ち止まった。あの男は由美子の前に立ち、何か話している。由美子の顔は笑っていなかった。ふたりの様子から、僕は男が夫の坂根健二であると確信した。

 ふたりはエレベーターホールの奥にあるレストランに向かうらしかった。僕は二人の後を追った。ふたりは僕には気付かない。妻とレストランで昼食を取る。なかなか仲良しではないか。由美子が夫に抱いている感情は何なのだ。僕に話す夫への不満。窓辺のテーブルで仲むつまじそうに食事する夫婦。テーブルのワイン。青い海原。僕はボーイを呼び、窓辺の席を要求した。坂根健二の後ろ、由美子の斜め前方に座った。由美子はすぐさま僕に気付いたらしかった。僕はウインクをした。由美子の態度に何の変化も見られなかった。夫がしきりになにやら話している。彼女はそれに短く応えている。坂根健二は直ぐ後ろの敵には気付かない。

「なぜ、あんな事をしたの。心臓が飛び出るかと思ったわ」と、後に由美子は言った。

「落ち着いていたよ。僕など眼中にないように。それにしてもなかなかハンサムなご主人だったね」

「私たちのことを秘密にしようといったのは、功さんよ。でも、もうそんなことはどうでもいいわ。彼とは別れる決心をしたから」

「あの時、別れ話をしていたのかい」と、僕は言った。由美子はそれには応えなかった。

 

 エリカが帰ってきた。

 二匹の兎をバスケットに入れて。彼女はその兎を何所で手に入れたのか、何も言わなかった。どこかのペットショップで買ったのか。農場などの農家の人にもらったのか。

「拾ったのよ」と、言って笑っていたが。そんなことがあるはずがない。

 子猫なら拾うということはあるだろう。兎の場合はあるはずがない。エリカが話したくなければ僕はそれで構わなかった。彼女は兎の話も旅の話もしなかった。家出のことは何も無かったかのように振舞った。由美子の名前が出たこともない。エリカがこのまま僕と結婚するつもりなのか。僕も何も言わなかった。結婚の日取りはすでに決まっていた。新居ももうすぐ完成する。式場からは問い合わせもある。

「兎ちゃんを一匹もらってくださる」と、エリカは僕に言った。僕は動物が何でも好きだった。ああ、僕達は別れるのだなと感じた。兎はもらうことにした。

 ゲージにいれて、新鮮な野菜を切らさない。兎の飼い方の本を買った。兎をゲージから時々出して床に置くと、もくもくと動いた。透き通る雪の白さ。冷たくて暖かな血。ルビーのような悲しい目だ。僕は兎を抱いてベランダでぼんやりする。由美子を最近抱いていない。子供が入院していた。彼女は子供にかかりっきりだった。僕達はこのまま別れてしまうのか。僕のことが夫に知られたかもしれない。エリカも彼女の母親とどんなことを話しているのか。エリカの母は僕を信用してくれているようだけれど。今はわからない。

 僕は久しぶりに小説を書き出した。「愛の漂流」。僕と由美子とエリカの愛の物語。物語のテーマは愛なのか。書き始めて、僕は自分を分かっていないのだということに気付いた。僕は由美子との関係を如何しようとしているのか。エリカとの結婚を本当に望んでいるのかわからない。僕もエリカも恐れている。自分達の未来を決めかねている。自分の手で将来を決定することを恐れている。自分で自分がわかっていないのだ。エリカは幸福になりたいと願っているだろう。幸せな家庭を作りたいと。それは、僕もそうなのだ。僕にはその自信は無かった。仕事もしていない。無職で何の才能も無い。全て両親がやってくれる。今まではそうだった。これからもそうかもしれない。めったに泣くことも無い兎のように、大人しく与えられた餌を食べて。僕にとって運命は野菜のようなものか。大人しく甘い野菜を食べていれば良いのか。由美子は結婚し、子供を産み、離婚し、再婚し、恋人を得て、またも離婚しようとしている。今は病気の子供を必死に看護している。喉から心臓が出そうになりながら、愛を守ろうとしている。僕は何をしているのだろう。エリカとセックスをし、由美子とセックスをし、親に与えられた仕事が始まるのをぼんやりと待っている。結婚の準備も他人任せ。「愛の漂流」。漂流するのは愛でなくて、僕自身なのだった。ぼんやりして、影のような存在。宙ぶらりんの男。ソール・ベローの「宙ぶらりんの男」は戦場にむかう日を待つ兵士の話だけれど、僕はどこにもむかわない。僕にとって明日は無いのだ。たとえ、結婚しても今の両親の家と同じような新居に住み、母親が作る料理のかわりにエリカの用意した食卓に付くのだ。セックスもマンネリになるだろう。仕事も意義あるもののようには思えない。わずかな生活費を手に入れるだけだ。子供も好きではない。出来ればかわいくなるものだとも聞くけれど。

 僕は由美子の子供達を見てみようと思いついた。思いついてみると、彼女の夫などを見ようとするより重要なことに気付いた。子供達は由美子の最も大切なものだ。彼女は僕より子供のほうを愛しているだろう。

 会おうと決めたけれど、さて如何したらいいものか。「お兄ちゃんだよ」といって彼らの前に現れるべきか。それとも、物陰から盗み見るようにすべきか。「お兄ちゃんだよ」と言っても「未来のパパだよ」といっても、子供達の口から、現在のパパに知られることになる。それは避けたかった。由美子は子供達に黙っているように言うかもしれないが。子供に嘘をつかせてはいけない。

 でも、簡単だった。由美子の子供、長男が入院しているのだ。由美子に子供のお見舞いをしたいと電話した。幼児は内臓の疾患で入院していた。生まれつき臓器に軽い奇形があったらしい。しかし、時期を見て手術すれば大丈夫なのだという。手術のための検査で一週間、手術後一週間か二週間の入院である。

 由美子は僕の申し出をとても喜んだ。それを待ち望んでいたかのようだった。幼児には「病院の人」ということで、納得させられるだろう。白衣を着ていなくとも。

 子供は由美子に似ていた。由美子以外の顔も持っていた。僕が知らない最初の夫の面影なのだろう。由美子からあらかじめ聞いた「坊や」の好物を抱えて。それはチョコレートと恐竜の絵本だった。

 由美子が美人なのだったから、子供達の美しさは予想できた。それにしても、こんなにかわいい子供を見たことはなかった。

 坂根健二が予想通り僕にとって感じの悪い人間だったことと、子供達がかわいかったことが何かを暗示していた。僕と由美子との結婚が現実味を増したのだ。僕にはそのように思えた。

 

 由美子とは暫く会えなかった。エリカも結婚式に必要な打合せをする以外僕に会おうとしなくなった。結婚する意志が継続しているから打合せをするのだろうか。エリカは変わった。家出している間に僕とエリカの何かが変わった。僕への愛が醒めたのか、彼女の様子からは読み取れなかった。

 僕はエリカがどのような旅をしていたのか想像する。エリカの短い物語を創った。

 

 エリカは旅に出る。ボストンバック一つを提げて汽車に乗る。何所に行く当てとて無かった。エリカは暫く眠った。眠ったとも思えなかったけれど、眠りの間に感情が漂白されたような気がした。列車内は半分ほど客がいた。外は田園風景が広がっていた。エリカは乗客のふたりの姉妹に興味を引かれた。彼女達は椅子を向かい合わせに直して座っていた。姉妹だと想像したのはふたりが驚くほど姿かたちが似ていたからだ。もしかしたら双子の姉妹かもしれない。

 彼女らには連れがいた。派手な洋服の男だ。父親なのだろうか。彼女らとは顔立ちに少しも似通ったところは無かった。すさんだ表情である。車内販売員を呼び止めると、酒やつまみやお菓子を山ほど買った。娘達に渡すのだった。自分は缶ビールを飲んでいる。娘達はあまり食べなかった。ふたりで微笑しあいながら、なにやら話に夢中だった。男はほとんど彼女達に話し掛けない。うっかりすると連れとは見えない。男の俗な雰囲気と、娘達の上品な雰囲気とは違っていた。

 エリカは三人と知り合いになる。彼女達は奇術師。旅芸人の一団だった。何所にいく当てもないエリカは彼らに誘われるまま、夜の駅に降りた。一緒に宿を取ろうと決まり、その前に食堂に入った。

 食堂では待っても、なかなか食事が出てこない。食前酒に酔ってしまったエリカがうたた寝からさめると、手荷物がない。奇術師たちが盗んだものか。

 彼らと一緒に予約した宿につくと、二人の姉妹はいた。彼らは何も盗んでいない。エリカのカバンも出てきた。夜中にエリカの部屋をふたりの姉妹は訪ねるのだった。

「カードゲームしましょう」

「トランプなの」

 若い女達、三人はゲームに熱中する。双子の姉妹はエリカより幼くはしゃぎまわる。仲の良い姉妹なのだ。男は眠ってしまったのか姿は無い。

「あの方は誰、貴方達のマネージャーでしょうけれど」

「私たちの叔父さんなの。私たちには親はもういないわ」

 初め勝っていた娘達はやがてエリカに負けだす。娘達は熱くなり、何かを賭けようと言い出す。賭けたほうが真剣になれるというのだ。

 結局はエリカが勝った。戦利品は二匹の兎だった。エリカは兎など欲しくなかった。

「家にもってお帰りなさい。きっといいことがあるわ」

 旅が終わる。旅はいつか、終わるものだ。エリカは家に戻った。二匹の兎と一緒に。エリカは婚約者にその兎をあげた。

 数ヶ月後、ふたりは結婚式を挙げた。エリカの白いウエディングドレスの裾を親戚の子供達が掲げた。子供達は子兎のようにかわいらしかった。

 

 この物語は僕の意識の何を表しているのだろう。二匹の兎は明らかにエリカと由美子なのだ。現実が象徴をつくるのか、象徴から現実が生まれるのか、僕にはわからない。二匹の兎を僕はいったい、どうしようとしているのか。

 僕はもうひとつの物語を書いた。

 

 エリカは二匹の兎をペットショップで見つけた。目が少し充血していることを除けばとてもハンサムな店員はエリカに言った。「兎は貴女を幸せにしますよ」

 エリカはその兎に自分のメッセージを込めた。エリカの婚約者の功という青年は、そのメッセージを読み間違えた。「兎・メッセージ」は婚約者の心には届かなかった。功は動物を飼育したことはない。何も話さない、餌ばかり食う動物は好きでなかったのだ。動物は愛らしい。動物は人の心をなぐさめる。そんな風には思えなかった。

 功は婚約者がくれた二匹の兎をもてあました。捨てるわけにも、殺すわけにもいかなかった。功はあることを思いついた。良いアイディアだった。彼は満足し、二匹の兎を由美子の子供のところに運んだ。

「エリカとは結婚しないよ。彼女とは別れる」

 由美子は功の言葉に何も言わなかった。少し寂しい表情を浮かべただけだった。由美子も夫と別れる決心をしていた。由美子はすでに夫に別れを宣言していた。しかし、坂根がどう出てくるか分からない。別かれる決心と実際に別れられるということとは別のことなのだ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/09/13

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畠山 拓

ハタケヤマ タク
はたけやま たく 小説家 1942(昭和17)年岩手県生まれ。

掲載作は2005(平成17)年5月「構想」38号に初出。

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