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漢詩・日記

宮中読新聞有感

 宮中に新聞を読みて感有り

宮中無一事 宮中 一事とて無く
終日笑語頻 終日 笑語頻りなり
錦衣満殿女 錦衣し殿に満てる女
窈窕麗於春 窈窕とし春より麗し
公宮宛仙境 公宮はあだかも仙境
杳々遠世塵 杳々と世塵を遠ざく
幸有日報在 幸いに日報在る在り
世事棋局新 世事も棋局も新たに
一読愁忽至 一読忽ち愁いは至り
再読涙霑巾 再読涙は巾を霑せり
廉士化為盗 廉士化して盗となり
富民変作貧 富民変じて貧となる
貧極還願死 貧極つて死なんとし
臨死又思親

死に臨みて親を思ふ
盛衰雖在命 盛衰は命なりと雖も
誰能不酸辛 誰かよく酸辛せざる
請看明治世 請ふ看よ明治の世は
不譲堯舜仁 堯舜の仁に譲らねど
怪此堯舜政 怪む此の堯舜の政に
未出堯舜民 堯舜の民未だ出ぬを
 

 明治十六年十月十二日、学術演説会を滋賀県に開けるに、はしなく警察官吏の拘引するところとなり、留めて監獄中に送らる。斜雨柵に入り寒風骨をきる。此の夕べ母は旅窓にあり、余は思ひ構へて夢見る無く、たまたま詩を賦す。(注 冒頭一首のみを意訳})

仮令吾如蠖曲身 たとへ吾れ蠖の如くに身を曲ぐも
胸間何屈此精神 胸間何ぞ此の精神を屈せんものぞ
雨声無是母親涙 雨声は是れ母親の涙には無くして
情殺獄中不寐人 獄中に不寐の吾が意志よ強かれと
                     ──以下・略──

 

弔植木枝盛氏

 植木枝盛氏を弔す 

多年辛苦姓名香 多年の辛苦に姓名香はし
莫謂浮沈夢一場 謂ふ莫れ浮沈の夢一場と
不使春枝会春盛 春枝を春盛に会はしめず
凄風惨雨恨愁長 凄風惨雨恨み愁ひて長し

 

湘烟日記 

 

明治三十四年1901辛丑春  

(湘烟数え三十九歳)

 

三月二十五日

 晴

 朝母君墓に詣で給ふ。昨夜発汗後身(おほい)に疲れて殆ど吾れ吾れを忘るの様にて、病も苦しきや苦しからざるやをわする如き感にて、一寸も身動く(あた)はずして眠りしが、(ねむり)覚むれば、はやくも東窓は白みたり。知辰器四時を過ぐ。如此(かくのごとき)事一年僅かに二三回あるのみなれば、心地甚佳(はなはだ か)、朝来為に軽快を覚ふ。藤家より牡丹二枝を贈らる。一は半開、一は三分開、(その)趣致不可言(いうべからず)。又其真影を筆せんと(ほつ)す。筆半ばにして熱(いで)、佳人と明日を約して別れ、枕室(ちんしつ)に入る。空閨(くうけい)を守らしむるに忍びずとて、吾室に移す。(いさゝか)(へだて)て相対す。更に美なり。病苦難勝(たへがたく)、枕を転ずれば花自ら鏡中に映じて吾と対す。鏡裏の花艶更艶(はな えんさらにえん)

  牡丹一朶為誰香

牡丹一朶誰がために香る
 清艶謝君登草堂 清艶君の草堂に登を謝す
 花映鏡中情更遠 花鏡中に映じ情更に遠く
 人眠病裏意殊長  人病裏に眠て意殊に長し
   

二十六日 

朝曇晩雨

 長城居士(亡夫中島信行・号長城。男爵、帝国議会第一代衆議院議長、ローマ公使)の忌日一舟老師もしや来り給ひはせぬか、われはやみ師は老ひ、(つひ)相見(まみゆ)るの期なきに至りしにはあらずや、先月其弟子玉泉寺の言によれば、耳(ますます)遠くなりて、人に対するに不愉快なれば、他出せぬとある。然し来月は必ず参上すると申居れりと聞きしを以て、この好時節或はと、昨日よりこゝろまちにまちてありし。

 吾朝食せんと思ふ時、玄関の(りん)(なる)。其音のいそがしげなるに、一舟翁にてはあらざるべしと覚りしが、(はたし)て京都より来て居るといふ名を知らぬ代参の僧なり。直に香壇に向て誦経あり。誦経の僧はたのまれて口を開鎖し、自ら声を発するものゝ如くなれど、聞くものゝ耳は得るもいはれぬ(かんじ)の生ずるものなり。経典もいかなる事を読で居るといふ事が聴者(きくもの)に分りては、一の歴史を聴くに異ならざるべけれど、其音声の自然に聴者の耳を澄ましめて、念頭一物なきに至らしむるが如き、なき人に対してよりむしろやむものゝ身に功多きを覚ゆ。

 

二十七日

 晴

 朝より気分あしく、何か珍らしき事を為したらばと思ひて、書類のいれてある函をこれへと命じて、吾先(われまづ)室の中央に坐す。常に坐する机と相隔つ僅かに一間(いつけん)而宛(しかしてあたか)も大道に出しこゝちせしもおかし。

 最初に手にふれしものは木戸公、大久保公等の書翰、夫より三條岩倉の両大臣、吾が知る人にして今なき君も多し。柳原伯、後藤伯、陸奥伯の如き俊介作太郎の名宛も、昔しなつかしきこゝちせらる。

 十年西郷の役に関するもの多し。久萬吉(亡夫信行・号長城と亡き初妻初穂との長男。筆者湘烟=俊子岸田氏は長城三度目の妻。)の十七八ごろのとし、吾に送りし書翰、吾より久萬吉多嘉吉(=同上次男)に寄せし書翰もありて、一読(そゞ)ろに涙に(むせ)びたり。如此(かくのごとき)時代もありし事、彼等尚記するや(いなや)、小倉袴にふた子縞の羽織姿、眼頭にちらつきて見ゆ。子をもちし父にして其子を(おも)はざるはなし。されど、長城が其子の前途をおもひ給ひしは、又(たぐ)ひ稀れなり。而子児等(しかしてこどもら)は、唯幾分か吾に世話になりし如く感ずるも、父が思ひ続け給ひし事は、夢にも感ぜず。わが父ほどわれわれを愛し給はぬはあらじとおもひ定むるこそ憐れなれ。父の生前終に彼等が悟らざりしはかなしくも亦悲し。

 亡兄、柳藩の写真(いづ)相訣(あひわか)(こゝ)に二十年余、其面影其性情少しも記憶を去らぬ如く思ひ居りしが、今此真影を見て、更に分明に其面影の喚起されし為め、平日は忘れて居りしにはあらずやの感生ぜり。昔は大きな兄さんでありしものが、今は弟の如く思はるゝはをかしからずや。吾が数年前の写影のいでしを(さいはひ)相照し見るに、口の結び方、唇の下くぼみある辺より鼻の有様毛の(きは)などをかしき程似てありし。

 絵の反古(ほぐ)も多くありしが、大抵鎌倉光明寺養病中のものなり。此時既に大患最早(もはや)夏を過る(あた)はずと、青山博士が長城に耳語せしといふ時なれど、この反古を見ては、其根気可驚也(おどろくべきなり)。又他日これ等を見るの根気もつきて、あの時は、尚これを見るの勇気ありしかと驚く日の到来する事もあらんなど思ふ(うち)、はやくも()みて、(おさ)むるを他に托せり。

 十二時より発熱九度、頓服を用ゆ。流汗衣襟(いきん)(うるほ)ふ。夜幸(さひはひ)に安眠するを得たり。

 

二十八日

 晴

 藤夫人病と聞く、(しな)をして其景況を問はしむ。病の峠も過ぎて(やゝ)軽快に趣く順なりと復す。庭園幾種の花を見るを得たりと品語る。そとは(あはせ)にてもあつきなりといふ天気、吾も車にて園を巡れり。襟もとに動く風寒からぬのみか、(かへつ)て心地よきに至れり。諸山も皆新緑衣を(まと)ひ、人をして清爽の(おもひ)あらしむ。牧田一青年を伴ひ来るに会す。引て面す。青年は牧田の男なり。前途幸多からんと想はるゝ相貌、何故東京より帰り居るぞと問へば、これでも病人にて主家に対して遠慮せざるべからざればといふ。感冒かといへば、禿頭病なりと答ふ。どれと一見せり。成程不可思議、指三本印せし程の処即ち禿(とく)す。其外怪しげに見ゆる場所もあり。新聞にて知るのみ、かく無雑作に持参して吾に見する客のあらんとは思ひもよらぬ事なれば、御馳走して厚遇してもよき筈なれど、夫程(それほど)お気に召すならば、ちとうつしておきましようかといはれては大変、死にかけの吾さへ禿頭(とくとう)は大閉口なるに、(いはん)やこれより一花もふた花も咲かさんといふ人の多くある家にみやげおかれては一大事と、出来合の田舎善哉にて(まづ)は西の海へさらりと払ひたり。

 発熱中苦しき中にも、花は矢張奇麗に映じて、且極て平和なり。殊にこれより開かんとする花は、一しほ無心に見ゆ。いつ迄もこのまゝにあらしめたき心地すれど、自然力には何とも為し難く、やがて満開となり。烏呼(あゝ)うるはしとうたはるゝ半日乃至一日の寿命を、一代の光栄とよろこびて、(たちま)ち兄弟姉妹が手を連ねし如き花弁の組織を惜しげなく散離して、あとに残るは淋しげなる花瓶のみとは知れど、吾はこの望みある蕾に対して、一片の情なきを得ん() (そつ)(ぎんじて)(いふ)

 食雖甚美噛如沙 食は美なれども砂噛む如く
 唯対牡丹喫緑茶 唯牡丹に向ひて緑茶を喫す
 嗟見栄枯春一夢 ああ見る栄枯の春は一の夢
 病危人共欲開花 病危人も共に花咲きたきを
 

二十九日

 書斎に入るや、直に眼に映ぜしは、白瓶に入れられし薔薇花真紅と樺色、猶曉露を帯びて、花よりも葉よりも露滴たらんとして、其色譬ふるにものなし。高き卓上にありて、其品位いふべくもあらず、(かたは)らに一昨日来の牡丹ありて、猶全盛を極めし如くありしが、今此新来の佳人に対して稍遜色あり。美人もさてはなど、憐れの情の生ずるもおかし。吾戯れに吟じて(いふ)

 薔薇初発露團々 薔薇初めて咲き露團々
 不譲瓶中老牡丹 譲らず瓶中の老牡丹も
 相対一堂休相妬 一堂に相向ひ挑まざれ
 迎為姉妹両娘看 姉妹両娘として迎へむ
午下雨となりて(のき)に滴る声、病窓殊に静寞を覚ふ。医来り頻りに時候の為、世間病者の多きを説き、これ程ならば(まづ)(さいはひ)思召(おぼしめ)せなどいふ。此日は熱低くして苦しといふ程にはあらざるべし。

 

三十日 

 けふは少しく遠乗(とほのり)してと、東海道の線路が殆ど吾の虎渓(こけい)なるが、この虎渓を渡りて古駅(こえき)に出で、天を衝く老松(ろうしやう)の路を狭み、日光を遮りて緑影の地に印するは心地よきも、車夫の三々五々客待つ、荷車の塵埃を揚て来往する如き、(はなはだ)俗軆を免かれず。(すぐ)に車を返せり。歩行すれば、庭園今は欧州大陸の感あれど、車上にては、もすこし広ければと思ふ。一周のみではものたらぬ心地する事もあれど、今一度といふも面倒にてやむが常なり。

 半切(はんせつ)二三葉揮毫せり。(うち)一葉絹本(けんぽん)は梅をと頼まれ居りしが、梅描く心生ぜざれば、牡丹を稽古の積りにたのしみつゝ描きしが、成りて後墨色(ぼくしよく)のあしき事怪しき程なり。絹の質によるか、筆の(つたな)きによるか判じ得ず。題詩の墨左程(さほど)あしきにあらざれば、(まつたく)筆力の為めなるべき()。描く度に意外の事生ずるが、是即素人たる所ならん。たのみし人の失望想ひやらる。

 此日始て北窓を開き尽くして新緑の山に対して茶を喫す快不可言(いふべからず)

 世の中自暴自棄に(すぐ)るものは評するまでもなけれど、又身軽でやすやすと渡られる世界を無理に重荷を着けて苦しむこそ気の毒なり。自分にわたらねば渡たれぬやうに思ふが(すで)に重荷のひとつなり。(いささか)も気を労せずとも春来り夏去り秋動き冬(きはま)りなどして、ずんずんと変化してゆくなり。この変化に伴はれて、いやといふとも応といふとも、左様の事には遠慮会釈なく、子児(こども)を大人にして、大人を老人にして、老人をおいとまとして、左様なら御苦労様と、土の中につき落して、すぐ又あと製造の仕度にかゝるなり。順風に帆といふ一代の者もあれば、悪浪に幾回か(くつが)へらんとする一代の者もありて、ちと偏頗(へんぱ)の処置に似たれど、順境も順境の味感ぜざれば、矢張重荷を覚ゆのみ。逆境も味ひ次第にては、なかなか趣味多きものなり。苦なり、楽なり、いろいろいひやうもあらんなれど、煎じつめれば、食へるか、食へぬかといふ問題に過ぎぬなり。(くへ)しところが、一日、米一升の上を(こえ)ず。食へぬところが、餓死の上はあらざるなり。(しかし)そこは妙不可思議のものにして、餓死して見たいといふ物ずきのものあるとも、其望は果し得ざるなり。天生(うん)で養はざるはなしで、千萬人の(うち)風白のものあるとも、餓死せしといふ事は、聞く極めて稀れなり。萬々一、其稀れなるものゝ一人となる運命に出会(でくは)せしとて、大なる資本を投じて自ら製造せしといふ肉躰にもあらず。つまり預りものであれば、惜しげもなき事ならずや。日一日が楽に暮せば、其の上の申分はなき事なるに、兎角現在をたのしまずして、未来を(おもんぱか)る情こそきたなし。子をもつ親は、子が他日能く親を養育してくれるや否やを気遣ひ、子をもたぬものは、老後は誰ありて世話してくれるやと案じ、健康者は、今はすこやかなれど、やみては如何にせんと憂へ、金あるものは、もし此金失ふこともありては、其日何より如何にして暮さんかと配慮し、其事到着して後、始て策を講ずるとも(おそ)きにはあらぬを、これらの心配あるが為めに、現在のおもしろみを没了して、遂におもしろからぬ舟にのみ(さをさ)す。智者の所為ともおもはれぬにはあらずや。今年はこゝに秋の月をながむるも、明年は如何なる(かた)に身を寄する事かと歌や詩には十分啼くもあしきにあらざれど、歌や詩の通りの愁嘆場を実行しては、このもろき肉躰の()ゆべくもあらぬなり。

 幾種となく、うるはしき色以てかざりつくして、いざ遊び給へと霞の幕張りて、匂ひの(せん)しきつめて、(うたひ)且舞ふにまかすかと思へば、これもあかぬうちにとて、老ひし紅ひ(ことごと)く払て緑りの乾坤に雙眼の塵をきよめ、やがて、(えん)の下に秋曲を歌はしめ、夢短かき人の(とぎ)となし、三季の楽しみを籠る冬の火桶にくり返して、すゝれ一椀の茶。これでも猶浮世は苦労なるものか、さても気の毒。

 

五月朔日

 四月中は、兎角、病よろしからずして、陰気(がち)の日を送りしが、先此世と(わか)るゝ事もなく、五月朔日(ついたち)を迎ふる事とはなれり。昨年の今日も(たなごゝろ)(ひるがへ)せし如く、快方に向ひ始て掾先(えんさき)迄出し愉快、今にわすれぬといふ五月一日なり。昨年の事(など)想起して書斎に坐し、新聞紙を手にすれば、胸轟きたり。何が為にとゞろきしぞ、何となくうれしさに堪へざればなり。

 

同四月二十九日 

午後九時十分皇孫降誕。

 

五月二日 

 早起庭を巡る。帰り茶を喫する時、玄関にちやらちやらと足の音する取次の声、アラマ一ハ……などの笑もあり。さて誰なるや、あれ程親しげなる人の来るべき筈なきに、土佐より今は来る人なし。よし来りしとて、取次の、あれ程さへし声以て迎ふる事もなけれ。さすれば、林部のさとにはあらずやなどは咄嗟の間に起り、想像やがて其声の誰なるも明かになれり。次の部屋にて、四人連で困つたよといひつゝ、出すらしき品物は余程急を要する物らしく、ハツハハと騒ぐは飛ぶもの捕らへる様、はて鈴むしの(たぐひ)かと思ふ時、これはかじかだよといふ、始て其の何たるを知る。

 みやげものはといへば、鯛ますはもたけのこさつまいも鯖のすしきざみ昆布やまだし雑魚おぼろすいくき京菜の漬物羽衣昆布みかん胡瓜じゆんさい薬水等なり。其他まだありしやうなれど覚へず。汽車甲府津に停りたれば、鮮魚もたらして腕車(わんしや)にてかけつけしといふのみにて其情察せらる。

 

三日 

 一番の車にて東京にゆく人ありし為め、病客の眠もはやくさまさる。毎朝眠は四時半ごろより覚むるも、眼も閉ぢ、口も黙し、(しん)も死したる如くある事、凡そ二時間余り、これにて身も心も大なる休息を得るなり。真に眠りての休息より、覚めて眠りしが如きの休息こそ、吾には真個の休息なり。今朝はこの真個の休息を破られし為め、規律を失ふて、前夜の疲れが(いゑ)ぬやうの心地せり。胡瓜の朝漬に食気を催せしが、箸を着けては思ひし程(うま)からざりしは、部屋のいまだなれぬによるなるべし。いと残念におもひたり。菜圃(さいほ)に出ればゑん豆の稍熟したるを瞥見し、雛婢(すうひ)に命じて、とりて午食に登す。これが今年のはじめなり。

 午後三時半の一刹那のいそがしき事、驚く程なり。いきがきれる。便が催す。かじかゞ初なきする。東京の松田より新茶が来る。澤庵が匂ふ。(ゆず)の花が眼に()る。蚕豆が(なら)ぶ。木の芽がばらつく。さてさて可愛らしき贈りものなるかなと(やうや)く心落付たり。かじかの啼くを欲する時、こちらより笛ふけば、それに応ずるとの事、是はおもしろしと思ひて、笛とれば、こはそも、いかにいきゝれてふく(あた)はず、母君すこしく笛にて呼び給へば応じたりしは妙なり。東京へゆきし人帰りもせん、門を(しむ)るを見合せと命じて、吾は枕に就きぬ。

 宵の程より胃こゝちあしく、これでは眠り得られぬかと案じ居りしが、九時ごろよりとろとろと眠り催せし時、玄関急に賑はしくなりしは、東京行の人帰り来るなり。御注文の品あたゝかきをもたらし帰りしも、道遠ければといふに、吾ぎよつとせり。なにはさて、はやくあげてよといよいよ事切迫となれり。今夜に限り、胃こゝちあしければともいひかね、あしきもの注文せしと後悔せしも、及ばぬ沙汰なり。これが、名に聞く天金かと少しく箸を降せしも、身に気遣ひあれば、風味の極所も分らず。されど、結構の品にこそと評せり。時には、些細の事に対して病気を軽んじてまでも、(おもん)ぜねばならぬ義理のあるものかなとをかしかりし。

 胃も案ぜし程の事もなく、いと安らかに眠れり。

 

四日 

は雨ならんとして晴

 つとむれば書斎にゆけぬにもあらざれど、書斎に坐せしとて、けふは筆硯(ひつけん)を弄し得らるゝにもあらず。臥して客話を聴く方、疲れ少なからむと枕室(ちんしつ)に籠城と定めたれば(うそ)(まこと)となりて、遂に枕を離る能はざるに至れり。

 製墨に熱心なる梅仙といふ人、我が近作を新聞に見しとて、次韻し来る。曰く数里青松接白沙。小亭無客試新茶。人間無限栄枯事。杜宇声中夢落花。

 はでやかなる薔薇に圧されて、誰の目にもうるはしきと見へぬこのばら吾には得もいへぬかをりのして、毎年此花のさき(いづ)るをまてり。茶の匂ひを帯るを以て、一しほ人をして静かならしめ清くならしむるやう覚へらる。綺羅を飾る美人の中、(ひとり)瀟洒たる様の愛らしければ、のせてこの冊史の中に存しおきぬ。

 

五日 

 けふ一日は是非はればれしき天気に為したきとは萬人の望みなれど、人間のしらぬ必用ありてにや、遠慮なく降り出したり。新宮殿下の御命名式行はせらるゝよしなれば、宮中を始め奉り、東京の賑ひさこそと察せらる。(おごそか)なる御式行はせ給ふ日に、静けく雨の音するは、はれて気のうきうきする日よりは、遥かに結構の事と吾は思ふ。

 此日、吾れ病よろしからず、血痰多量、されど熱度高からぬ為め、黙臥し居れば、痛く苦しきといふ程にもあらざりし。

 人々(にぎにぎ)しくおもしろく感ずる今日、多嘉吉いかにして日を送り居る事か、友人等よりは、却て何等の感なきも、彼自ら面伏(おもぶせ)に堪へぬにはあらざるか、何人(なんぴと)ありて彼が不快の今日を慰藉(ゐしや)するものかなと、人なき時には思ひ出して、吾も亦非常に不快なりとは、彼少しも知らざるべきか、人失敗なきにあらず、失敗して屈せぬ勇気あれば、失敗なるもの(すこし)も憂ふるに足らざれど、二の矢をつぐ勇なき身にとりては、これ程怖ろしきものはあらず二の矢つぐ(あた)はずして、其まゝにやむは(なほ)可なれど、是より往々乱調子(らんでうし)になりて、遂に一生学を廃するに至るの端緒とならん事こそ危し。

 山ぶき色の新茶に伴ふて膳にのぼりし初茄子、東京松田よりの贈りもの、なすはゝしりに及ばぬとは、吾の宿論なれど、お目にかゝりては、なかなかにあしからず。(まづ)これも今年の七十五日にてある、七十五日がかく次々につゞきては竹内宿禰(たけのうちすくね)を学ばねばならぬやうにても大変ならずや。端午なればとて筍飯(たけのこめし)なる。

 藤家より(かしは)餅とちまきと来る。かしはもちは余り形のやさしからぬにいろいろの評あり。其評に辟易して吾食はざりし。ちまき、其形いまだ(かつ)て見ず、何か古実のある事ならんか、他日聞て見んと思ふ。葛にて作る風味ういろうなるものに似て、(はなはだ)佳、形も極めておもむきあり。

 

六日 

 吾に朝食すまさせて後、(いで)んと(しな)思ふらしきも、吾のぐずぐずして居りしに時刻移りて、わが用を弁ずる為に横濱へでゆきたり。車中宿痾(しゆくあ)になやまさるなからんを吾祈る。書斎に移りたれど、何もなす能はず。唯昨日行はせられし御命名式の御模様等を(いさゝ)か拝せり。

 裕仁(ひろひと)親王と御命名あらせられ、迪宮(みちのみや)と称し奉るとの御事なり。

 吾がたのみし事とゝのへて、品は午後の四時ごろに帰れり。此人あればこそと、吾はうれしく覚へたり。菊形の出雲焼のうつくしきとたゝみじやも鈴木のかしはもち等あれど、もつともうれしかりしは、こゝに描きしものなり。(註 わらびの画を省く)今年は油断して居りし為め、其時を失ひたれば、再び逢はぬ事とあきらめてありしに、猶縁ありしにや、これをゆがく事は、わたくしに出来ますと、品名のり出しに吾心強かりし。

 

七日 

 名古屋人松崖とは何人ぞ、余が近作を新聞に見しとて、次韻し寄せらる。一帯青松映白沙。湘簾捲尽試新茶。楊妃去世空千歳。雨冷玉欄干外花。撃筑空成弾鋏影。英雄一去感如何。牡丹花外濛々雨。偏向王城山下多。

 余一読涙落。

 欲弔落紅独自歌。晩春微雨奈情何。

 寡眠還有便宜処。懐奮連宵夢不多。

 午後進藤来る。常の如くならず。吾其故を知らず。頃焉(しばらくして)三絃の音聞こゆ。進藤手を頭にのせて、莞爾(くわんじ)としてつれて来ました。誰が語るのかと、吾の問へば答もせで、へーと手を頭にのせたきりなり。やるのなら、はやくはじめるがいゝと、吾の許すに景気付きて、今まで隣室にこそこそした声も、やゝ言葉の形となりて、吾が部屋に聞こゆるやうになり、かれごゑの婦人らしきは、(けだし)彼等の師匠なるべし。三絃の調子合せに、吾は早くも其名手なるに驚きぬ。此田舎には珍らしきものかなと思ふ。

 進藤は寺岡が帰りて大石の妻に物語る一段三筋のおかげを以て(やうや)く事すみとなれり。

 次に師匠が語るところは、毛谷村の一段なり。吾はふすまを隔て聴く、ひき語りの苦しげなるところ、毫もあらはれず。且男性か女性か知るによしなく、其文中幾人出るとも言語の区別律然として乱れず、吾は義太夫それ自身に泣くより、かく一藝に達する幼年よりの苦心如何ばかり、(しかして)世の慣習の為に(たゞ)翫弄物(がんろうぶつ)となるのみにして、(すこし)の尊敬をもうけぬに吾は泣かんと欲する也。唯(うら)むらくは、其当人自身が、己れは地位の(ひく)きものなり。普通一般の人と相伍する能はざるものと定むるこそ(あは)れなり。枕頭(ちんとう)に呼びよせて、深く其藝を賞し、よくこそ来りて聴かせくれ給ひし事よ、幼年よりの苦辛想ひやらるゝなり。今日の来臨(あらかじ)め知るならば、杯盤の設けも為し置かんものに、誠に疎遇(そぐう)を極めしは不都合なり。何卒又々来りてなぐさめ給へと、吾心より謝す。彼答ふる所を知らざるものゝ如し。吾が丁重なる言語を怪しむものゝ如く、関東にこれ程の達人あらんとは思はざりしといへば、(わらは)は大阪にて近年此地に来りしものなりと語る。

 再び進藤語らんと打て出づ。おまへは、モーいやともいひ兼ぬるを、先生悟りて、極みぢかく句を結びしは、人だすけにてありし。先生又もや三十三間堂(むなぎ)の由來及千両幟(せんりやうのぼり)等を語る。毫も疲労のいろなく、いよいよ妙境に入るものゝ如し。午後四時ごろより始り、夜に入りて散じぬ。

 これは、進藤の周旋なれど、京都客の散財なりとあとにて聞きぬ。進藤等が、傲然とこの師匠に対するを、吾は癪にさへ、美術家も浄瑠璃語りも、医者も何もかも、(すで)に其奥に達して、凡人の及ばぬとすれば、尊敬をうくるは理の当然、佐々木政吉は医道に達し、駒介は斯道(しだう)に達す。共に達人なり。政吉が政吉先生なれば、駒介も駒介先生にあるべきにあらずや。さすれば、政吉に低頭して駒介に低頭せぬ道理はない。御身(おみ)も駒介先生に尊敬を梯ふて可なりと説きて、進藤を困らせたるも、一興にてありき。

 

八日 

 此日は、終日書斎に入らずして枕に就けり。日々二三時間枕を離るゝとするも、一昼夜を算すれば、十八九時間を蓐中(じよくちう)に暮さゞるを得ず。新聞でも枕もとにて読みてくれるものでもなくては、かなはんはなとは母君の言葉なり。かく臥して居るつらさは、傍人の想像する程にはあらぬなり。傍人は第一退屈に堪へぬなるべしといふ点に、何人(なんぴと)も同情を寄するなれど、実際は他人の想像する如く退屈はせざるなり。退屈をするやうなれば、退屈に伴ふて、何か為して見んとの勇気が生ずるなれど、今は夫程(それほど)の勇気もなし。いつまでも目を(とぢ)て居る事も出来れば、口を黙して居る事も出来る。(かへつ)て目や口を開かねばならぬ必要の生じ来る時面倒なりとの感念生ず。呼吸が楽ならば、世の中に何の望みもなしと思ふ。毎朝(おもて)を拭はれる時、手拭の鼻と口との近処に来りし時の痛苦、人の想像すべくもあらず。又自分に拭へば、猶これ以上の息ぎれが来る故、やむなき次第と(こら)ゆるなり。これを早く手際よくやつてくれる時は、非常にうれしきが、何か喋りつゝゆるゆるやられる時のつらさは得もいはれぬなり。又寐たまゝ櫛けづらるゝ髪、うしろの一段に至りて頭を枕より離しておろせし時の一刹那、心臓は破れもせんかと思ふ程の時あり。如斯事(かくのごときこと)日に幾回たるを免れず。夜の眠れぬ、食事のむまくなきなどは、最早(もはや)小言の中にはいらぬなり。

 昔の吾を知る者、今の吾を見て、病の為とはいへ、かくも陰気になり給ふものかと、よく人の(あぎと)を解き給ふが常にておはせしにとあやしむ。吾自らは(すこし)も陰気になりし様は覚えざれど、唯言語の不自由にして必要の事さへ得いはぬ時あれば、なかなかに人を笑はすなどの余裕はあらぬなり。言語の自由ならぬに想ひ至らずして、只管(ひたすら)(さが)の一変せし如く思ふものゝ如し。

 黄昏、多嘉吉帰る。雙脚腫物ありとて、起居エゴエゴ然たり。此エゴエゴ然たらざるも相見て悄然たるを免かれず。

 

九日 

 病窓冷雨蕭々(せうせう)、京都帰去の客あるを以て、破曉(はげう)より騒々しき気味なれど、病窓は却て静寂枕上(ちんじゃう)人なく、吾は眠覚めて眠る如くある中、静かにふすま開く音して帰去の客は(ちかづ)き坐し吾が右手を撫する、一再きこゑぬ程の震ひを帯びし声にて又来ます、又来るとふた言せり。吾は眼を鎖ぢしまゝ、うなづきぬ。やがて、ばたばたと足音するに、彼は他に避けたり。身躰を拭ふ時、再び来りて、以前よりは少し元気よくさよならといふ、吾もさよならと答ふ。侍女等去て送らんとするを押しとゞめ、それに及ばぬ、それよりも病人を、何分病人をたのみますと、軽くいひ放ちて去るも、あとにのこる無量の情、いかばかりつらからんとは知る人のみぞしる。窓には、絶へず雨の音して、寒さは冬の如く、少し垢臭き羽織何人(なんぴと)の肩にも登りて、火桶ほしきといふ顔付なり。吾は蓐中なれば、左程にも思はざりけり。

 何不足なき身ながら種々の感にうたれて、欝然と此一日を送りけり。

 

十日 

晴雨不定

 大阪府知事菊池に、紹介書(したゝ)めくれよと、多嘉吉にたのまれて、一書を(したゝ)め示す。彼一読してものたらぬといふ(かんば)せなり。(しかし)吾にとりて、斧にて脳の中天に一撃うけし程の心地とは、彼知るによしなし。

 櫻井鴎邨(おうそん)いちごをもたらして病気いかにと訪ひ来る。面会を謝絶するは本意なきわざなれど、此両三日は病勢のよろしからぬに、且はおもしろからぬ心地の折なれば、其意を告げ、母君代り面して帰らしむ。

 午後二時の車にて多嘉吉土佐行に登る。於是(こゝにおいて)去るべきは去り、居るべきは居り、一家常に復して病客太平、此日は銀瓶(ぎんべい)も一日のどんたくを得て、おのれの居るべき場所にあらぬ長火鉢の下脇に閑居せり。病気よろしからぬ日は、書斎数里の外にある如き心地、ゆくはゆき得らるゝも、帰りの苦しきを想ひてはあとしさりするなり。遂にはふとんの(かたは)らに、文房ひきよせねばならぬに至るべき()

 

十一日 

半晴半雨

 昨夜十二点鐘かじかに眠を破られてにくからず思へり。今朝いまだ(しとね)を離れざるに、はやくも京都より小包来る。中には、ますかれい鯖のすし澤庵胡瓜みかん(かぶら)みつば等なり。ますは極てむまし、みかんはとても此辺にて得られぬ風味、澤庵は不味(むまからず)。九日夜九時に、京着其翌朝四時より買集めて送るとある。(その)あはてさ加減見る如し。今ごろは、吾が桃尻して机により箸と其細さを争ふべき指以て、ぽちりぽちり無言のまゝ食て居るを、彼も想像し居るならん。

 京よりたのみの井蛙堂(せいあどう)といふ扁額(したゝ)め、興に乗じて近作数葉を(ふる)へり。深く疲れも感ぜざりし。

 力士談の中に、飯はからだを大きくして食へ、角力はからだを(ちひさ)くしてとれの一語、非常におもしろく、此秘法(たゞ)角力道(すまふだう)のみにはあらざるべし。

 病気、けふは(まづ)上出来なり。養生は面倒を聞かぬにある。

 

十二日 

 降ればふれ、晴るればゝれ、病む身には大差もなし。日として好日ならぬはなしとすれば真に好日なり。このごろの嗜好品を(あぐ)れば、下に描く三種、胡瓜は長城の君に大なる関係もなけれど、苺とゑん豆とは、毎年大騒ぎ、時によると、お大名風のあるかの君、苺一粒一銭といふはしりの時代も、構ひ給はず、使を所々に派して(あがな)へよと命じ給ふ。横濱にては、なかなかうるに便ならずして、満足し給ふ事難し。又豌豆は青物店にはわかきもの乏しく、或る百姓家に相談して、自由に得る事に為しおくも、ながくは其まゝに為しおかずして(いは)く、元来是は食用に作るにあらず。他に必用ありて作るものにして、又いつ迄も地面を遊ばしておく能はざればといふに、是又満足為し給ふ事(かた)きに、此大磯に移りて以來、豌豆二三個僅かに上等の料理屋にのみ用ひらるゝ時代より、台所の惣菜となりて猶余りあり。後には皆飽きて顧みぬ程に作り得らるゝ也。苺も今年不作なれど、昨年の如きは十分なり。又他よりも澤山に贈らるゝなり。此二種に対する毎に、旧事を(おも)はざるはなし。

 数日前久しく金絲雀(かなりや)の声を聞かざるを怪しみ、小婢に就きて其故を問へば、(はじめ)これをもたらせし人の来りて今は御傍になくものも来りたればとて持帰りしといふ。あれはあれにして、これはこれなり。これ来りしとてあれを(うとん)ずるにあらぬを、又いよいよ去るといふ事吾の知りせば、かなりやに一言のいとま乞もいふべかりしに、小春の時節より親しみしものを、われにも知らさでもちさるとは無情なり。今は何人(なんぴと)のもとにて歌ひ居るらん。とんまの和介さりしあとは、水青菜の不十分なる日もありしならん。汝が来りし当座と、待遇のうすらぎしは、吾察せざるにあらざれど、吾も亦一々命令する事の自由ならぬ身、此上吾家にて、不満を感じ給ふより、他に就て寵遇をうけ給ふが、汝の身にとりては、(さち)多からんとはいへ、一言の別辞ものべずして、別れしは、名残惜しき心地せり。御身の長処は、多弁なるにあるが、短処も亦其(またその)多弁なるにあり。今(すこし)深重(しんちやう)に其癖を惜しみ給はゞ、更に世の寵遇をうけ給はんか、吾は御身と既に半年の交りあり。(いかで)か其いはんと欲するところをかくして、御身の非を黙々に付せんや、御身以て如何(いかん)と為す。

 聞く、亀は常に食胃の四分を充たすに過ぎず。鶴も亦六分を充たす(のみ)。是長生の所以(ゆゑん)かと、吾が知人富山仙壽といふ医あり、常に語る、人は一日に飯九椀を喫す。或は更に夜食なるものを食ふ、吾は日に六椀を喫し、三椀の食福を余し、以て長生を謀らんとす。壽八十以下にては終らざるべしと、本年八十九に至りて尚健全、其言をして実ならしむ。(たゞ)に食物のみならず、器物にても、何にても、大切になさゞるものは、多くは身貧に壽短なるの結果を免がれぬものの如し。所謂福分のとりこしにやあらん。

 

十三日 

 両三日の雨に、何人も不平を訴へしが、此好晴に顔色もはればれして心地よく、病客にとりては、天気のあしきより天気があしき為め、不平らしき顔付を見るがおもしろからぬ事なれど、健康者よりいへば、はれても降ても昼でも夜でも陰気臭き病顔を見る事の、いかに不愉快なるかを思はざるべからず。

 木村陽三より朝彦(ともひこ)の事に関しての来書、彼一諾を(おもん)じて今日迄の世話、浮薄の当時には得易からぬ親切ものかなと吾は落涙せり。舌にのみ甘き毒言に弄せられて、切角得し出世の(つな)を自ら絶つとはと嘆ずれど是も定まる福分にやあらん。木村への復書、高知への報知、東京への通知等(したゝ)めて、がつかりと疲れたり。

 山田元子より、櫻も菜の花も、(すで)になくなりしが、病気いかにと問ふ。如此(かく)衰弱せりともいひかねて返書を見合したり。けふは、(いさゝ)か蓐中にて読書することを得たり。

 

十四日 

京都来客の考にて、車に棒を付着せしめて、まがり角砂石の上車の通し難き小径等をゆくに便ならしむ。其客の滞在中は天気病躰(ふたつ)ながらあしくして、試む(あた)はざりしは、吾よりも其客いかに残念に感ぜしか。けふは此棒ありし為め、菜圃(さいほ)の中をめぐるを()、茄子胡瓜の花も見るを得たり。茄子も一旬の後は、拇指大(ぼしだい)となりて紫色(しゝき)滴らんとするが追随し来る。老僕を顧み、牛蒡はいつころたべられるかと問へば、左様来年の積りですがと答へしには、心竊(ひそ)かに愕然たらざるを得んやでありし。来年といふ語を聞く時は、もはや吾には関係なき如く想はるゝ。(しか)し昨年の今時も、(おなじ)感念を(いだ)きながら、猶今年に会したれば支配者の胸ひとつと、何と処置してくれるかは吾の知るところにあらず、又知るの必要もなきなり。このごろの如き肉躰の不自由を感じ、猶此上日を()ふて不自由を添ゆるものとして見れば、茄子や胡瓜や牛蒡や新いもを見る為に便々とひつぱられて居るは迷惑至極に類する支配者短兵急処置の恩恵を蒙りたきものだなどの弱音も時には免がれざるを得ぬ。

 吾れの孫弟子位の病人たる伊達来る。このごろは、さつぱりといへど、なかなかさつぱりせぬ顔色元気を示す間がまたたのもしき時代、此際にありて十分の養生すれば、大事にはいたらぬが、そこが難事なり。同姓の文藏といふ者も、肺患にて此地に養生、唯睡眠を是事(これこと)として、これが何より愉快なりといひ居ると語る。(ねむる)左程(さほど)愉快といふにはあらざれど、眠の外は悉く痛苦に属するを以てなり。此味、此伊達時には今一角の病気進歩を得ざれば解する能はざるべき()

 川崎といふ美術家吾が為に一輪花瓶を作りて時氏に托せり。古雅甚だ愛、侍女直に薔薇一枝を挿む。瓶のさびたると、花の(えん)なると相映じて、趣味欲滴(したゝらんとほつす)調製のうるはしきもの見るに()へず。

 伊達去るに臨み、何かたべて見度(みたき)ものはと問ふ、澤庵の逸品と答ふ。彼喫驚(きつきやう)

 

十五日 

 豌豆の飯成る。めし(いさゝか)水たまりの気味にて上出来とはいへず。豆にごまかされて(うま)きやう感じるなり。猶三度や四度は作らるべし、余りせゝこましく作りし故見た程に実入(みいり)よろしからずと僕はいふ。蚕豆も人の脊程にのびても、中は空虚の如し。是は地味のよきに過ぎるにありといふ。このごろさし身給へるには最の好時節である。吾の如き役味ずきは、(まづ)やく味の顔を見て後はさし身に及ぶなり。紫蘇めうが蓼木の芽の類は、庭園にありて何時でもと吾を待つなり。(うらむ)らくは、魚肉漸次にこのまぬやうになりゆくなり。食物の美不美より器の(きよ)げなると配置の蕭楚(せうそ)たるとにほだされて、箸降す気生ずるなり。純白の入物(いれもの)に比しては、量少なくもりしをよろこぶ。食物が器の上に頭出して居るを見て、直に胸塞がるを覚ゆ。漬物の出したて猶露を帯びて居るものは、最も食気を招くものなり。めしびつの殺風景なる、何か工夫のなきものかと多年思ひ来れり。

 

十六日 

晴雨不定

 雨なりとのうわさ、蓐中にて聞きしが、吾が枕を離れて朝食(あさげ)を喫せしころは、日光の見へぬ迄にて、雨景にはあらざりし。吾の知らぬ間に、わが描きし竹表装せられて壁間にあり、風雨を帯びし様勢あり。吾れ覚へずわが細き手を熟視せり。此ぶるぶるふるひし糸のやうなる手より巧拙を論外として、あの竹が生ぜしかと、われながら不思議に感じたり。其手(したゝ)めし屏風を見て、とても、今年は及びの沙汰もなし、(もし)来年壽あるとするも、今日の如く小品ものをも()(したゝ)めぬにはあらずや。

 山口の妻女来る。第一の用事は品に関しての事なり。(まづ)是にて大結局をむすびたり。顔あからむる事も、いやみいふ事もきく事もなかりしは、せめてもの幸福といふべきなり。新茶と味噌漬との土産なり。漬物は其家の妻君が手腕を示すの看板也。味噌漬は山口に限ると、吾常にいふ。其妻君も亦農家には鉄中の鏘々(さうさう)たるものなり。

 午後の四時ごろたけの子すし成る。鳥渡(ちよつと)風味よし、此夜久し振に眠るを得しが、夜頭痛を覚ふ。

 

十七日 

 いまだむまからざれど、唯々珍らしきものとのみ思ひて、ほんの七十五日を望みて送り参らすとこれ(註 枇杷の画を省く)に新茶みかんはも等の小包京都より来る。成程是は珍らしきといつまでも見て居りたき心地すなり。外に指よりふとき線香あり。是にて蚊を防ぎ得らるゝといふ。果して左様の事にあれば、便不可言(べんいふべからず)。蚊は吾辟易するも、蚊帳(かや)は余りあしく感ぜざるなり。隣室に絹燈を細く点じ、宵の風ふわりと蚊帳を微動させて空(だき)の名香折々通ふなどは、夏の夜の一興なり。蚊居らぬとて、石油臭きらんぷまばゆき迄輝かして、あつくるしく書読む如きは、(はなはだ)雅致(がち)乏しく覚ゆ。夏蚊のあるは、蚊ふせぐ為め(かへつ)て風流を損ぜぬなるべき()。又燈を退け浴後の衣さつぱりと、(めいめい)うちはを手にして椽先(えんさき)にすゝみ、かくらの物語もあしからじ。夏は夜も短く、蚊もあれば、一家上下を通じて、ゆあみも食事もはやくすませて遊び暮すをよしと為す。長き日をぶらぶらと送りて、点灯後よりせわしげに為すは、求めて夏に苦しまんとするものにして、愚かの事どもなり。

 伊達時(だてとき)氏より使して送る一品は、まだ開かずして、其何たるを知る。一種の香気えり(=衣ヘンに、伏)を(つい)(ほとばし)る。以て其小判色可察也(さつすべきなり)。此にほひは、書斎(もし)しくは枕室等にありては、萬象(ばんしよう)鄙野(ひや)ならしめ、甚だ恐るべきものなるが、膳上最後には缺くべからずとは不思議なり。外に茄子の味噌漬、静岡製の新茶あり。(くりや)は一時漬物と新茶の懇親会の如し。

 両三日前の夜、夢に峨山(がざん)和尚と父と長城とをなき人として吾れ訪問せり。其場所も服装も記憶せぬが、顔容は分明(ぶんみやう)たり。三者一室にあり。(まづ)峨山と語を交ゆ。峨山憤然たる様にて、まだ来るのでなかつたと大語す。父はおもしろくなくて困るといひ給ふ。長城はよろこばぬ色にて、吾を黙視し給ふのみ。吾も切角の訪問を何人にもよろこばれぬを本意なく感じて去らんとする時、夢醒めぬ。さめて後も、皆のうれしからぬ顔を忘る能はずして、何となく気になる心地せり。されど、又一方より(ぼく)すれば、いまだ吾れの歓迎せられぬにやあらむ。

 此日は、二三日になき気分、食事もむまく新聞新刊等も前後二時間程読むを得たり。

 

十八日 

 昨夜はこゝちあしき程の暖気。此病客さへふらねるのみにて(あたか)も(=よし)といふわけなれば、地震にてはあらぬやと気遣ふもありしが、夜間雨声枕に響きしが、朝来(てうらい)風もかはりて、屋後(おくご)山窓(さんそう)戸に隔りて親しむを得ず。いづれの部屋も暗澹たり。けふは、書斎にゆき給ふとも陰気なれば、筆硯を枕もとにもたらさばやと、品のいふに任かし、終日一室に閉居せり。いき(ぎれ)はすこしもよき方に向はざれど、熱度は大に減じ、八度に達するは稀れなるに至れり。食も幾分かすゝみ気味なり、唯ものいふ事の次第に苦しくなりゆくを覚ゆ。

 京都よりかじか日々なくやと問ひ来れり。故山(こざん)を離れし為か、主人の変りし為かよくなきしと、聞く程にはなかずやうなりし。されど、其音声の真価は吾十分これを知れり。美音を(をさ)めてなかざるも却て趣あり。殊に多弁家のかなりやのあとなれば(おのづか)ら妙、夜深く人定(さだまつ)て後、七八語わが半眠半醒の耳にいる(はなはだ)あしからじ。このかじかに伴ふて来りし三四個の石、鴨川砂清く瀬浅きの辺より得しものなりと聞く。是尋常一般のものなれど、吾にはこの尋常一般のものより涼夜(りやうや)虫を売る柳陰の景より東山三十六峰霞をこむ春の(あけぼの)緑竹声(たえ)て寒に凝る冬の月、阿翁(あをう)と憩ひ、阿兄(あけい)と遊びし紅梅紫亭のおもかげ等生じ来りて(そゞ)ろに今昔の感に()へぬもおかし。

 

十九日 

半晴雨

 けふは、日曜日、誰も来らざれかしと願ふ。昔は吾も日曜を何よりのたのしみにて、金曜の夜より大名に封ぜられし心地、只(うら)む日は一日にて、たのしむべき事は無量なるを、学生を伴ふて原野をしようよう(逍遙、と同義の難漢字)するもおもしろければ、むすび飯などもたらして、遠足するもおもしろく、又智恵ある人を(おとな)ふて、一日の学問するもおもしろければ、やみて動けぬ友を慰むるも心地よく、又塵なき窓に籠りて、幽玄の書繙(ひもと)く如きは最もたのし。今日(こんにち)の如く、一年三百六十五日悉く日曜となりては、真の日曜吾には禁物のひとつとなれり。日曜より休暇なき客は、多くは是俗客にして、浮世外の吾等が組すべきものにあらず。平素閑雅ならぬ生活の為め、居動談話悉く窮屈なる上に、この貴重なる休日をつぶして、このおもしろくもなき病客を訪はんの下心、必ず何か胸に一物(いちもつ)なき(あた)はず。其一物こそ、吾が最の禁物なり。この禁物の願事吾のいれざる時は、必ず不快の顔色をのこして去る。人に不快の念を起さしめて、何等の痛痒を感ぜぬといふ程の大胆なる、吾にあらざれば(ひと)しく不快の念は免がれぬなり。冥土出立(いでたち)がけの人間に依頼するといふものは、いづれ目先の見へぬ執着心の深き俗客なれば出来ぬとの一言にて、事定るにあらず。へびの如くのたりくたりやらるゝ辛さ、何と評せん言葉もなし。

 先人が、(いさゝか)の恩恵を施せしものより幾倍の報酬を得んと企つる俗物も、世に少なからず。(まづ)其心の(ろう)なる、遂に其身を腐らすに至らん。(ほどこし)をうけて忘るゝ如きは、論ずる迄もなき事ながら、われ施して忘る能はざるものは、むしろ施さゞるにしかざるなり。(いはん)や、おのれ自ら施せしにあらずして、おのれの縁者が施せしものを徳としておのれ其報酬を得んとするものゝ如きに至りては、之を何と可評(ひやうすべき)や。

 此両三日は、朝も午時(ひる)も同一に気分あしくて、黄昏(たそがれ)ごろ少し心地よく、何かして見んとの情生ずるころは、(すで)に点燈に近く、これより文具を運搬するものとおもひてはやみぬ。暫く画筆を弄せぬを以てあきたらぬ心地せり。

 

廿日 

 朝無端(はしなく)出納帳一見せねばならぬ事到着して序手(ついで)に算盤をはぢかねばならず。銀行の切手、役所の入要等二三事を為して、はやくも、ぐんにやりとしてたのしみの部類は何ひとつ為す事なくして、此一日も過せり。

 昨朝美人の投身者ありとて、なかなかの評判なりき。美人の投身(みなげ)は殆ど熟字の如く、未曾(いまだかつて)て醜婦の身なげたる語を聞かぬもおかし。されど、多くは其美といふものが、死の因を為すに似たれば、矢張美人にやあらん醜婦なれば兎角(とかく)天下太平なり。

 わが幼時翠琴といふ十八九の婦人、美濃より京に来り、詩文の先生を訪ひ、われも一家を立てんの心組なり。(その)號の奇麗なるに似付(につき)もせぬ(かんば)せなり。漢学はたしかのものにて、詩も達者なりとの事なれど、何分みにくきが(たゝ)りを為して、誰も一臂(いつぴ)の力添へんといふものなきのみならず。文人交際の心得なきものなりなどゝ、難くせ付て遂に京を放逐(はうちく)同様の待遇を為せり。醜美の関する所実に甚哉(はなはだしいかな)

 

     ──絶筆 五日後に逝去──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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中島 湘煙(烟)

ナカジマ ショウエン(エン)
なかじま しょうえん 本名:俊子 民権家・思想家・教育者 号湘烟 1863(旧12・5)~1901・5・25 京都下京の呉服質屋の家に生まれる。幼少から文事に優れ、天才を謳われ1879(明治12)年16歳にして宮中に文事御用掛として出仕、皇后に「孟子」等の漢学を進講した。1881(明治14)年には発奮して辞職、母と共に各地を歴遊、自由民権運動家を知り、その運動に飛び込む。女性の権利確立拡張を初めて広く世に説き、凛乎とした演説は時世に魁けた。1883(明治16)年、「函入娘」の演説が不穏当な言論とされ下獄、しかしこの演説は福田英子ら多くの後進に強い刺激を与えた。1886(明治19)年頃、後に初代衆議院議長となる自由党副総裁中島信行(長城)と対等に自由結婚、家庭人となり横浜のフェリス和英女学校名誉教授となり、女性解放のための言論活動を展開した。一方で持ち前の美貌と才知、弁舌で明治の社交界にも活躍したるも、夫妻共に病み大磯に療養、夫を見送って後2年余、享年39歳で死去。

掲載の日記は大部の『湘烟日記』より、死の五日前まで最期一ヶ月を抄した、綽々有裕、稀有。

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