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時代閉塞の現状

   (一)

 

 数日前本欄(東京朝日新聞の文藝欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住(折廬)氏の論文は、今日に於ける我々日本の青年の思索的生活の半面──閑却されてゐる半面を比較的明瞭に指摘した点に於て、注意に値するものであつた。(けだ)し我々が一概に自然主義といふ名の(もと)に呼んで来た所の思潮には、最初からして幾多の矛盾が雑然として混在してゐたに(かゝは)らず、今日まで未だ何等の厳密なる検覈(けんかく)がそれに対して加へられずにゐるのである。彼等の両方──所謂(いはゆる)自然主義者も(また)所謂非自然主義者も、早くから此矛盾を或程度までは感知してゐたに拘はらず、共に(その)「自然主義」といふ名を最初から余りにオオソライズして考へてゐた為に、(この)矛盾を根柢(こんてい)まで深く解剖し、検覈(けんかく)する事を、さうしてそれが彼等の確執を最も早く解決するものなる事を忘れてゐたのである。斯くて此「主義」は既に五年の間間断なき論争を続けられて来たに拘らず、今日猶其(なほその)最も一般的なる定義をさへ与へられずにゐるのみならず、事実に於て既に「純粋自然主義が其理論上の最後を告げてゐる」に拘らず、同じ名の下に繰返さるゝ全く別な主張と、それに対する無用の反駁とが、其熱心を失つた状態を以て何時までも継続されてゐる。さうして凡て此等(これら)の混乱の渦中に在つて、今や我々の多くは(その)心内に於て自己分裂のいたましき悲劇に際会してゐるのである。思想の中心を失つてゐるのである。

 自己主張的傾向が、数年前我々が其新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合してゐた事は事実である。さうしてこれは(しばしば)後者の一つの属性の如く取扱はれて来たに拘らず、近来(純粋自然主義が彼の観照論に於て実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、漸く両者の間に溝渠(こうきよ)の遂に越ゆべからざるを示してゐる。此意味に於て、魚住氏の指摘は能く其時を得たものといふべきである。然し我々は、それと共に或重大なる誤謬が彼の論文に含まれてゐるのを看過することが出来ない。それは、論者が其指摘を一の議論として発表する為に──「自己主張の思想としての自然主義」を説く為に、我々に向つて一の虚偽を強要してゐる事である。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲を我々に理解させる為に、其処に論者が自分勝手に一つの動機を捏造(ねつざう)してゐる事である。即ち、其共棲が全く両者共通の怨敵たるオオソリテイ──國家といふものに対抗する為に政略的に行はれた結婚であるとしてゐる事である。

 それが明白なる誤謬、(むし)ろ明白なる虚偽である事は、此処に詳しく述べるまでもない。我々日本の青年は未だ(かつ)()の強権に対して何等の確執をも醸した事が無いのである。從つて國家が我々に取つて怨敵となるべき機会も未だ嘗て無かつたのである。さうして此処に我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、(けだ)し、今日の我々にとつて一つの新しい悲しみでなければならぬ。何故なれば、それは実に、我々自身が現在に於て有つてゐる理解の猶極めて不徹底の状態に在る事、及び我々の今日及び今日までの境遇が彼の強権を敵とし得る境遇の不幸よりも更に一層不幸なものである事を自ら承認する所以(ゆえん)であるからである。

 今日我々の(うち)誰でも先づ心を鎮めて、彼の強権と我々自身との関係を考へて見るならば、必ず其処(そこ)に予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たはつてゐる事を発見して驚くに違ひない。実に彼の日本の総ての女子が、明治新社会の形成を全く男子の手に(ゆだ)ねた結果として、過去四十年の間(いつ)に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、將又(はたまた)実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足──少くともそれに抗弁する理由を知らずにゐる如く、我々青年も亦同じ理由によつて、総て国家に就いての問題に於ては(それが今日の問題であらうと、我々自身の時代たる明日の問題であらうと)、全く父兄の手に一任してゐるのである。これ我々自身の希望、(もし)くは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、或は又両者の共に意識せざる他の原因によるかは別として、兎も角も以上の状態は事実である。国家てふ問題が我々の脳裡に入つて来るのは、たゞそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。さうしてそれが過ぎてしまへば、再び他人同志になるのである。

 

   (二)

 

 無論思想上の事は、必ずしも特殊の接触、特殊の機会によつてのみ発生するものではない。我々青年は誰しも其或時期に於て徴兵検査の為に非常な危惧(きぐ)を感じてゐる。又総ての青年の権利たる教育が其一部分──富有なる父兄を()つた一部分だけの特権となり、更にそれが無法なる試験制度の為に更に又約三分の一だけに限られてゐる事実や、國民の最大多数の食事を制限してゐる高率の租税の費途なども目撃してゐる。凡そ此等の極く普通な現象も、我々をして()の強権に対する自由討究を始めしむる動機たる性質は有つてゐるに違ひない。(しか)り、(むし)ろ本来に於ては我々は(すで)(すで)に其自由討究を始めてゐるべき筈なのである。にも拘らず実際に於ては、幸か不幸か我々の理解はまだ其処まで進んでゐない。さうして其処には日本人特有の或論理が常に働いてゐる。

 しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点が其処に存するのである。(けだ)し其論理は我々の父兄の手に在る間は其國家を保護し、発達さする最重要の武器なるに拘らず、一度我々青年の手に移されるに及んで、全く何人(なんぴと)も予期しなかつた結論に到達してゐるのである。「國家は強大でなければならぬ。我々は(それ)を阻害すべき何等の理由も()つてゐない。但し我々だけはそれにお手伝ひするのは御免だ!」これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇に於て()ち得る愛國心の全体ではないか。さうして此結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、更に一層明晰になつてゐる。曰く、「國家は帝國主義で以て日に増し強大になつて行く。誠に結構な事だ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのといふ事にはお構ひなしに一生懸命儲けなければならぬ。國の為なんて考へる暇があるものか!」

 彼の早くから我々の間に竄入(ざんにふ)してゐる哲学的虚無主義の如きも、亦此愛國心の一歩だけ進歩したものである事は言ふまでもない。それは一見彼の強権を敵としてゐるやうであるけれども、さうではない。寧ろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼等は実に一切の人間の活動を白眼を以て見る如く、強権の存在に対しても亦全く没交渉なのである──それだけ絶望的なのである。

 かくで魚住氏の所謂(いはゆる)共通の怨敵(をんてき)が実際に於て存在しない事は明らかになつた。無論それは、()の敵が敵たる性質を()つてゐないといふ事でない。我々がそれを敵にしてゐないといふ事である。さうして此結合(矛盾せる両思想の)は、寧ろさういふ外部的原因からではなく、実に此両思想の対立が認められた最初から今日に至る迄の間、両者が共に敵を()たなかつたといふ事に原因してゐるのである。(後段参照)

 魚住氏は更に同じ誤謬から、自然主義者の或人々が(かつ)(その)主義と國家主義との間に(ある)妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めてゐる。私は今論者の心持だけは充分了解することが出来る。然し既に國家が今日まで我々の敵ではなかつた以上、また自然主義といふ言葉の内容たる思想の中心が何処にあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばはりをする事が出来よう。さうして又其不徹底が、たとひ論者の所謂自己主張の思想から言つては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底では必ずしも無いのである。

 すべて此等の誤謬は、論者が既に自然主義といふ名に含まるゝ相矛盾する傾向を指摘して置きながら、猶且(なほかつ)それに対して厳密なる検覈(けんかく)を加へずにゐる所から来てゐるのである。一切の近代的傾向を自然主義といふ名によつて呼ばうとする笑ふべき「羅馬(ローマ)帝國」的妄想から来てゐるのである。さうして(この)無定見は、実は、今日自然主義といふ名を口にする殆んど総ての人の無定見なのである。

 

   (三)

 

 無論自然主義の定義は、少くとも日本に於ては、未だ定まつてゐない。從つて我々は各々(その)(ほつ)する時、欲する処に勝手に此名を使用しても、何処からも咎められる心配は無い。然しそれにしても思慮ある人はさう言ふ事はしない筈である。同じ町内に同じ名の人が五人も十人も有つた時、それによつて我々の感ずる不便は()れだけであるか。其不便からだけでも、我々は今我々の思想其者(そのもの)を統一すると共に、又其名にも整理を加へる必要があるのである。

 見よ、(田山)花袋氏、(島崎)藤村氏、(長谷川)天渓氏、(島村)抱月氏、(岩野)泡鳴氏、(正宗)白鳥氏、今は忘られてゐるが(小栗)風葉氏、(真山)青果氏、其他──すべて此等の人は皆斉しく自然主義者なのである。さうして其各々の間には、今日既に其肩書以外には殆ど全く共通した点が見出し難いのである。無論同主義者だからと言つて、必ずしも同じ事を書き、同じ事を論じなければならぬといふ理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏の如く、人生に対する態度までが全く相違してゐる事実を如何(いか)に説明すればよいのであるか。(もつと)も此等の人の名は既に半ば歴史的に固定してゐるのであるから仕方が無いとしても、我々は更に、現実暴露(ばくろ)、無解決、平面描写、劃一線の態度等の言葉によつて表はされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、其後漸く、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいふ言葉によつて表さるゝ活動的、自己主張的の内容に変つて来た事や、(永井)荷風氏が自然主義者によつて推讃の辞を贈られた事や、今度また「自己主張の思想としての自然主義」といふ論文を読まされた事などを、どういふ手続を以て承認すれば()いのであるか。其等の矛盾は、(たゞ)に「一見して矛盾に見える」(ばか)りでなく、見れば見る程何処迄も矛盾してゐるのである。かくて今や「自然主義」といふ言葉は、刻一刻に身体も顔も変つて来て、全く一個のスフインクスに成つてゐる。「自然主義とは何ぞや? 其中心は何処に在りや?」()く我々が問を発する時、彼等の(うち)一人でも起つてそれに答へ得る者があるか。否、彼等は一様に起つて答へるに違ひない、全く別々な答を。

 更に此混雑は彼等の間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼等の外に別に、自然主義者といふ名を(がへん)じない人達がある。然し其等の人達と彼等との間には(そもそ)()れだけの相違が有るのか。一例を挙げるならば、近き過去に於て自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方が(やゝ)贅沢で他方が稍つゝましやかだといふ以外に、何れだけの間隔が有るだらうか。新浪漫主義を唱へる人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境に何れだけの扞格(かんかく)が有るだらうか。淫売屋から出て来る自然主義者の顔と女郎屋から出て来る藝術至上主義者の顔と其表れてゐる醜悪の表情に何等かの高下(かうげ)が有るだらうか。少し例は違ふが、小説『放浪』に描かれたる「肉霊合致の全我的活動」なるものは、其論理と表象の方法が新しくなった外に、(かつ)て本能満足主義といふ名の下に考量されたものと何れだけ違つてゐるだらうか。

 魚住氏は此一見収攬し難き混乱の状態に対して、極めて都合の好い解釈を與へてゐる。曰く、「此の奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。(けだ)しこれ此状態に対する最も都合の好い、且最も気の利いた解釈である。然し我々は覚悟しなければならぬ。此解釈を承認する上は、更に或驚く()き大罪を犯さねばならぬといふ事を。何故なれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなる限り、必ず何等かの意味に於て自己主張的、自己否定的の二者を出づることが出来ないのである。即ち、()し我々が今論者の言を承認すれば、今後永久に一切の人間の思想に対して、「自然主義」といふ冠詞を附けて呼ばねばならなくなるのである。

 此論者の誤謬は、自然主義発生当時に立帰つて考へれば一層明瞭である。自然主義と称へらるる自己否定的の傾向は、誰も知る如く日露戦争以後に於て初めて徐々に起つて来たものであるに拘らず、一方はそれよりもずつと以前──十年以前から在つたのである。新しき名は新しく起つた者に与へらるべきであらうか、將又(はたまた)それと前から在つた者との結合に与へらるべきであらうか。さうして此結合は、前にも言つた如く、両者共敵を()たなかつた(一方は敵を有つべき性質のものでなく、一方は敵を有つてゐなかつた)事に起因してゐたのである。別の見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想を有つべき性質のものではなく、一方は理想を失つてゐた)に起因してゐるのである。さうして更に詳しく言へば、純粋自然主義は実に反省の形に於て他の一方から分化したものであつたのである。

 かくて此結合の結果は我々の今日迄見て来た如くである。初めは両者共仲好く暮してゐた。それが、純粋自然主義にあつては単に見、(しかう)して承認するだけの事を、其同棲者が無遠慮にも、行ひ、且つ主張せんとするやうになつて、其処に此不思議なる夫婦は最初の、而して最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。さうして其論争によつて、純粋自然主義が其最初から限定されてゐる劃一線の態度を正確に決定し、其理論上の最後を告げて、此処に此結合は全く内部に於て断絶してしまつてゐるのである。

 

   (四)

 

 斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残つてゐるのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失つた状態に於て、長い間鬱積して来た(それ)自身の力を独りで持余(もてあま)してゐるのである。既に断絶してゐる純粋自然主義との結合を今猶意識しかねてゐる事や、其他すべて今日の我々青年が有つてゐる内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語つてゐる。──さうしてこれは実に「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出し得るか。此処に一人の青年が有つて教育家たらむとしてゐるとする。彼は教育とは、時代が其一切の所有を提供して次の時代の為にする犠牲だといふ事を知つてゐる。然も今日に於ては教育はたゞ其「今日」に必要なる人物を養成する所以(ゆえん)に過ぎない。さうして彼が教育家として為し得る仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、或は其他の学科の何れも極く初歩のところを毎日々々死ぬまで講義する丈の事である。()しそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にゐる事が出来ないのである。又一人の青年があつて何等か重要なる発明を為さむとしてゐるとする。しかも今日に於ては、一切の発明は実に一切の労力と共に全く無価値である──資本といふ不思議な勢力の援助を得ない限りは。

 時代閉塞の現状は(たゞ)にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になつたと言つて喜んでゐる。しかも(その)着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなつたといふ事ではないか。さうしてさう着実になつてゐるに拘らず、毎年何百といふ官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしてゐるではないか。しかも彼らはまだまだ幸福な方である。前にも言つた如く、彼等に何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪はれてしまふではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に其生涯の勤勉努力を以てしても猶且三十円以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」といふ不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行つても三人か五人の中学卒業者がゐる。さうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食ひ減す事と無駄話をする事だけである。

 我々青年を囲繞(ゐげう)する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた。強権の勢力は(あまね)く國内に行亘(いきわた)つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。──さうして其発達が最早(もはや)完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつてゐる事によつて知ることが出来る。戦争とか豊作とか飢饉とか、すべて或偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込の無い一般経済界の状態は何を語るか。財産と共に道徳心をも失つた貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。将又(はたまた)今日我邦(わがくに)に於て、其法律の規定してゐる罪人の数が驚くべき勢ひを以て増して来た結果、遂に見す見す其國法の適用を一部に於て中止せねばならなくなつてゐる事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市に於ける無数の売淫婦が拘禁する場所が無い為に半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 斯くの如き時代閉塞の現状に於て、我々の(うち)最も急進的な人達が、如何なる方面に(その)「自己」を主張してゐるかは既に読者の知る如くである。実に彼等は、抑へても抑へても抑へきれぬ自己其者の圧迫に堪へかねて、彼等の入れられてゐる箱の最も板の薄い処、(もし)くは空隙(現代社会組織の欠陥)に向つて全く盲目的に突進してゐる。今日の小説や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通の記録であるのは決して偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。何故なれば、すべて此等は國法によつて公認、若くは半ば公認されてゐる所ではないか。

 さうして又我々の一部は、「未來」を奪はれたる現状に封して、不思議なる方法によつて其敬意と服従とを表してゐる。元禄時代に対する回顧がそれである。見よ、彼等の亡國的感情が、其祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによつて、如何に遺憾なく其美しさを発揮してゐるかを。

 斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に(その)「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである。それは我々の希望や乃至(ないし)其他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起つて先づ(この)時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを()めて全精神を明日の考察──我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。

 

   (五)

 

 明日の考察! これ実に我々が今日に於て為すべき唯一である、さうして又総てゞある。

 その考察が、如何なる方面に如何にして始めらるべきであるか。それは無論人々各自の自由である。然し此際に於て、我々青年が過去に於て如何に其「自己」を主張し、如何にそれを失敗して来たかを考へて見れば、大体に於て我々の今後の方向が予測されぬでもない。

 (けだ)し、我々明治の青年が、全く(その)父兄の手によつて造り出された明治新社会の完成の為に有用な人物となるべく教育されて来た間に、別に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戦争の結果によつて國民全体が其國民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であつた。既に自然主義運動の先蹤(せんしよう)として一部の間に認められてゐる如く、(高山)樗牛(ちよぎう)の個人主義が即ち(その)第一声であつた。(さうして其際に於ても、我々はまだ彼の既成強権に対して第二者たる意識を持ち得なかつた。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みた如く、(その)日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てゝゐる。)

 樗牛の個人主義の破滅の原因は、彼の思想それ自身の中にあつた事は言ふまでもない。即ち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信が極めて多量に含まれてゐたと共に、一切の「既成」と青年との間の関係に対する理解が遥かに局限的(日露戦争以前に於ける日本人の精神的活動があらゆる方面に於て局限的であつた如く)であつた。さうして其思想が魔語の如く(彼がニイチエを評した言葉を借りて言へば)当時の青年を動かしたに拘らず、彼が未來の一設計者たるニイチエから分れて、其迷信の偶像を日蓮といふ過去の人間に発見した時、「未來の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早く既に彼を離れ始めたのである。

 この失敗は何を我々に語つてゐるか。一切の「既成」を其儘(そのまゝ)にして置いて、その中に自力を以て我々が我々の天地を(あらた)に建設するといふ事は全く不可能だといふ事である。斯くて我々は期せずして第二の経験──宗教的欲求の時代に移つた。それは其当時に於ては前者の反動として認められた。個人意識の勃興が(おのづか)(その)跳梁(てうりやう)に堪へられなくなつたのだと批評された。然しそれは正鵠(せいこう)を得てゐない。何故なれば其処にはたゞ方法と目的の場所との差違が有るのみである。自力によつて既成の中に自己を主張せむとしたのが、他力によつて既成の外に同じ事を成さんとしたまでゞある。さうして此第二の経験も見事に失敗した。我々は彼の純粋にて且つ美しき感情を以て語られた(綱島)梁川(りやうせん)の異常なる宗教的実験の報告を読んで、(その)遠神清浄なる心境に対して限りなき希求憧憬の情を走らせながらも、又常に、彼が一個の肺病患者であるといふ事実を忘れなかつた。何時からとなく我々の心にまぎれ込んでゐた「科学」の石の重みは、遂に我々をして九皐(きうかう)の天に飛翔する事を許さなかつたのである。

 第三の経験は言ふまでもなく純粋自然主義との結合時代である。此時代には、前の時代に於て我々の敵であつた科学は却つて我々の味方であつた。さうして此経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与へてゐる。それは外ではない。「一切の美しき理想は皆虚偽である!」

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によつて(ほゞ)限定されてゐるのである。即ち我々の理想は最早(もはや)「善」や「美」に対する空想である訳はない。一切の空想を峻拒(しゆんきよ)して、其処に残る唯一つの眞実──「必要」! これ実に我々が未來に向つて求むべき一切である。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、其処に我々自身にとつての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

 更に、既に我々が我々の理想を発見した時に於て、それを如何にして如何なる処に求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」を其儘(そのまゝ)にしてか、しないでか。或は又自力によつてか、他力によつてか、それはもう言ふまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。從つて過去に於ける失敗を再びする筈はないのである。

 文学──()の自然主義運動の前半、彼等の「真実」の発見と承認とが、「批評」としての刺戟を()つてゐた時代が過ぎて以來、漸くたゞの記述、たゞの説話に傾いて来てゐる文学も、斯くて()(その)眠れる精神が目を覚して来るのではあるまいか。何故なれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、其時「今日」の一切が初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭してゐては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むる所は批評である。

(明治四十三年八月)

 

石川啄木記念館

     

     

    日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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    石川 啄木

    イシカワ タクボク
    いしかわ たくぼく 歌人・批評家 1886・2・20~1912・4・13 岩手県南岩手郡に生まれる。「一握の砂」などの歌人として永遠の生命を得ているが、27歳(明治45年)の短命でおわり、樋口一葉とともに明治のうちに燃焼し切った。啄木が僅か25歳、掲載作の書かれた1910(明治43)年6月には大逆事件が報道された。2月の「性急な思想」からその6月「硝子窓」に至る啄木奧処での絶望感の推移は傷ましいまで切実であり、稀有の論説「時代閉塞の現状」へと連続する。啄木はただ歌人でいたのではなかった。畏怖すべき鋭き時代の読み手であった。

    掲載作は、幸徳秋水らの大逆事件が大きく報じられた正に直後、深くそれを意識し配慮し洞察して1910(明治43)年8月に書かれた瞠目の一文で、自然主義批判にことよせながら日本の未来を辛辣に洞察、大逆事件にもっとも早く文学者として反応し「時代閉塞」の根を慎重に示唆している。

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