桜桃
われ、山にむかひて、目を挙ぐ。
──詩篇、第百二十一。
子供より親が大事と、思ひたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考へてみても、何、子供よりも、その親のはうが弱いのだ。少くとも、私の家庭に於いては、さうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話にならうなどといふ
夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、
「めし食つて大汗かくもげびた事、と
と、ひとりぶつぶつ不平を言ひ出す。
母は、一歳の次女におつぱいを含ませながら、さうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちの、こぼしたものを拭くやら、拾ふやら、鼻をかんでやるやら、
「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるやうね。いつも、せはしくお鼻を拭いていらつしやる。」
父は苦笑して、
「それぢや、お前はどこだ。内股かね?」
「お上品なお父さんですこと。」
「いや、何もお前、医学的な話ぢやないか。上品も下品も無い。」
「私はね、」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあひだに、……涙の谷、……」
涙の谷。
父は黙して、食事をつづけた。
私は家庭に在つては、いつも冗談を言つてゐる。それこそ「心に悩みわづらふ」事の多いゆゑに、「おもてには
人間が、人間に奉仕するといふのは、悪い事であらうか。もつたいぶつて、なかなか笑はぬといふのは、善い事であらうか。
つまり、私は糞真面目で興覚めな、気まづい事に
しかし、それは外見、母が胸をあけると、涙の谷、父の寝汗も、いよいよひどく、夫婦は互ひに相手の苦痛を知つてゐるのだが、それに、さはらないやうに努めて、父が冗談を言へば、母も笑ふ。
しかし、その時、涙の谷、と母に言はれて父は黙し、何か冗談を言つて切りかへさうと思つても、とつさにうまい言葉が浮ばず、黙しつづけると、いよいよ気まづさが積り、さすがの「通人」の父も、たうとう、まじめな顔になつてしまつて、
「誰か、ひとを雇ひなさい。どうしたつて、さうしなければ、いけない。」
と、母の機嫌を損じないやうに、おつかなびつくり、ひとりごとのやうにして
子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団さへ自分で上げない。さうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言つてゐる。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない。全然、宿屋住ひでもしてゐるやうな形。来客。饗応。仕事部屋にお弁当を持つて、出かけて、それつきり一週間も御帰宅にならない事もある。仕事、仕事、といつも騒いでゐるけれども、一日に二、三枚くらゐしかお出来にならないやうである。あとは、酒。飲みすぎると、げつそり痩せてしまつて寝込む。そのうへ、あちこちに若い女の友達などもある様子だ。
子供、……七歳の長女も、ことしの春に生れた次女も、少し
父も母も、この長男に就いて、深く話合ふことを避ける。白痴、
「唖の次男を斬殺す。×日正午すぎ×区×町×番地×商、何某(五三)さんは自宅六畳間で次男何某(一八)君の頭を薪割で一撃して殺害、自分はハサミで
こんな新聞の記事もまた、私にヤケ酒を飲ませるのである。
ああ、ただ単に、発育がおくれてゐるといふだけの事であつてくれたら! この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を
母も精一ぱいの努力で生きてゐるのだらうが、父もまた、一生懸命であつた。もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いてゐるのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救ひを求める。ヤケ酒といふのは、自分の思つてゐることを主張できない、もどつかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思つてゐることをハツキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである。)
私は議論をして、勝つたためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。さうして私は沈黙する。しかし、だんだん考へてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこつちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言ひ負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言ひ争ひは殴り合ひと同じくらゐにいつまでも不快な憎しみとして残るので、怒りにふるへながらも笑ひ、沈黙し、それから、いろいろさまざま考へ、ついヤケ酒といふ事になるのである。
はつきり言はう。くどくどと、あちこち持つてまはつた書き方をしたが、実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである。
「涙の谷。」
それが導火線であつた。この夫婦は既に述べたとほり、手荒なことは勿論、口汚く
「涙の谷。」
さう言はれて、夫は、ひがんだ。しかし、言ひ争ひは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持で、さう言つたのだらうが、しかし泣いてゐるのはお前だけでない。おれだつて、お前に負けず、子供の事は考へてゐる。自分の家庭は大事だと思つてゐる。子供が夜中に、へんな
が無いのだ。……父は、さう心の中で呟き、しかし、それを言ひ出す自信も無く、また、言ひ出して母から何か切りかへされたら、ぐうの
「誰か、ひとを雇ひなさい。」
と、ひとりごとみたいに、わづかに主張してみた次第なのだ。
母も、いつたい、無口なはうである。しかし、言ふことに、いつも、つめたい自信を持つてゐた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが。)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから。」
「
「私が、ひとを使ふのが下手だとおつしやるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、さう思つてゐたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇つてくれたらいい。母が末の子を背負つて、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。さうして、来客が毎日、きまつて十人くらゐづつある。
「仕事部屋のはうへ、出かけたいんだけど。」
「これからですか?」
「さう。どうしても、今夜のうちに書上げなければならない仕事があるんだ。」
それは嘘でなかつた。しかし、家の中の
「今夜は、私、妹のところへ行つて来たいと思つてゐるのですけど。」
それも、私は知つてゐた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞ひに行けば、私は子供のお守りをしてゐなければならぬ。
「だから、ひとを雇つて、……」
言ひかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
生きるといふ事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまつてゐて、少しでも動くと、血が
私は黙つて立つて、六畳間の机の引出しから稿料のはひつてゐる封筒を取り出し、
もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考へてゐる。さうして、酒を飲む場所へまつすぐに行く。
「いらつしやい。」
「飲まう。けふはまた、ばかに綺麗な
「わるくないでせう? あなたの
「けふは、夫婦喧嘩でね。
子供より親が大事、と思ひたい。子供よりも、その親のはうが弱いのだ。
桜桃が出た。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだらう。父が持つて帰つたら、よろこぶだらう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまづさうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、さうして、心の中で虚勢みたいに
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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