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裸川 ――新釈諸国噺より――

 わたくしのさいかく、とでも振仮名を附けたい気持で、新釈諸国噺といふ題にしたのであるが、これは西鶴の現代訳といふやうなものでは決してない。古典の現代訳なんて、およそ、意味の無いものである。作家の為すべき業ではない。三年ほど前に、私は聊斎志異の中の一つの物語を骨子として、大いに私の勝手な空想を按配し、「清貧譚」といふ短篇小説に仕上げて、この「新潮」の新年号に載せさせてもらつた事があるけれども、だいたいあのやうな流儀で、いささか読者に珍味異香を進上しようと努めてみるつもりなのである。西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのやうな仕事に依つて、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるやうになつたら、私のまづしい仕事も無意義ではないと思はれる。私は西鶴の全著作の中から、私の気にいりの小品をまとめて上梓しようと計画してゐるのだが、まづ手はじめに、武家義理物語の中の「我が物ゆゑに裸川」の題材を拝借して、私の小説を書き綴つてみたい。原文は、四百字詰の原稿用紙で二、三枚くらゐの小品であるが、私が書くとその十倍の二、三十枚になるのである。私はこの武家義理、それから、永代蔵、諸国噺、胸算用などが好きである。所謂、好色物は、好きでない。そんなにいいものだとも思へない。着想が陳腐だとさへ思はれる。

 

 鎌倉山の秋の夕ぐれをいそぎ、青砥左衛門尉(あをとさゑもんのじよう)藤綱、駒をあゆませて滑川(なめりがは)を渡り、川の真中に於いて、いささか用の事ありて腰の火打袋を取出し、袋の口をあけた途端に袋の中の銭十(もん)ばかり、ちやぼりと川浪にこぼれ落ちた。青砥、はつと顔色を変へ、駒をとどめて猫背になり、川底までも射透さんと稲妻の如く眼を光らせて川の面を凝視したが、潺湲(せんくわん)たる清流は夕陽を受けて照りかがやき、瞬時も休むことなく動き騒ぎ躍り、とても川底まで見透す事は出来なかつた。青砥左衛門尉藤綱は、馬上に於いて身悶えした。川を渡る時には、いかなる用があらうとも火打袋の口をあけてはならぬと子々孫々に伝へて家憲にしようと思つた。どうにも諦め切れぬのである。いつたい、何文落したのだらう。けさ家を出る時に、いつものとほり小銭四十文、二度くりかへして数へてたしかめ、この火打袋に入れて、それから役所で三文使つた。

 それゆゑ、いまこの火打袋には三十七文残つていゐなければならぬ筈だが、こぼれ落ちたのは十文くらゐであらうか、とにかく、火打袋の中の残金を調べてみるとわかるのだが、川の真中で銭の勘定は禁物である。向う岸に渡つてから、調べてみる事にしよう。青砥は惨めにしよげかへり、深い溜息をつき、うなだれて駒をすすめた。岸に着いて馬より降り、河原の上に大あぐらをかき、火打袋の口を明けて、ざらざらと残金を膝の間にぶちまけ、背中を丸くして、ひいふうみい、と小声で言つて数へはじめた。二十六文残つてゐた。うむ、さすれば川へ落としたのは、十一文にきはまつた、惜しい、いかにも、惜しい、十一文といへども国土の重宝、もしもこのまま捨て置かば、かの十一文はいたづらに川底に朽ちるばかりだ、もつたいなし、おそるべし、とてもこのままここを立ち去るわけにはいかぬいかぬ、たとへ地を裂き、地軸を破り、龍宮までも是非にたづねて取返さん、とひどい決意を固めてしまつた。

 けれども青砥は、決して卑しい守銭奴ではない。質素倹約、清廉潔白の官吏である。一汁一菜、しかも、日に三度などは食べない。一日に一度たべるだけである。それでもからだは丈夫である。衣服は着たきりの一枚。着物のよごれが見えぬやうに、濃茶の色に染めさせてゐる。真黒い着物は、かへつて、よごれが目立つものださうである。濃茶の色の、何だかひどく厚ぼつたい布地の着物だ。一生その着物いちまいで過した。刀の鞘には漆を塗らぬ。墨をまだらに塗つてある。主人の北条時頼も、見るに見かねて、

「おい、青砥。少し給料をましてやらうか。お前の給料をもつとよくするやうにと夢のお告げがありました。」と言つたら、青砥はふくれて、

「夢のお告げなんて、あてになるものぢやありません。そのうちに、藤綱の首を斬れといふお告げがあつたら、あなたはどうします。きつと私を斬る気でせう。」と妙な理窟を言つて、加俸を断つた慾の無い人である。給料があまつたら、それを近所の貧乏な人たちに全部わけてやつてしまふ。だから近所の貧乏人たちは、なまけてばかりゐて、鯛の塩焼などを食べてゐるくらゐであつた。決して吝嗇(りんしよく)な人ではないのである。国のために質素倹約を率先躬行(きゆうこう)してゐたわけなのである。主人の時頼といふひともまた、その母の松下禅尼から障子の切り張りを教へられて育つただけの事はあつて、酒のさかなは味噌ときめてゐるほど、なかなか、しまつのいいひとであつたから、この主従二人は気が合つた。そもそもこの青砥左衛門尉藤綱を抜擢して引付衆にしてやつたのは、時頼である。青砥が浪々(ろうろう)の身で、牛を呶鳴り、その逸事が時頼の耳にはひり、それは面白い男だといふ事になつて引付衆にぬきんでられたのである。すなはち、川の中で小便をしてゐる牛を見て青砥は怒り、

「さてさて、たわけた牛ではある。川に小便をするとは、もつたいない。むだである。畑にしたなら、よい肥料になるものを。」と地団駄踏んで叫喚したといふ。

 真面目な人なのである。銭十一文を川に落して龍宮までもと力むのも、無理のない事である。残りの二十六文を火打袋にをさめて袋の口の紐を固く結び、立ち上つて、里人をまねき、懐中より別の財布を取出し、三両出しかけて一両ひつこめ、少し考へて、うむと首肯き、またその一両を出して、やつぱり三両を里人に手渡し、この金で、早く人足十人ばかりをかり集めて来るやうに言ひつけ、自分は河原に馬をつなぎ、悠然と威儀をとりつくろつて大きな岩に腰をおろした。すでに薄暮である。明日にのばしたらどういふものか。けれども、それは出来ない事だ。捜査を明日にのばしたならば、今夜のうちにもあの十一文は川の水に押し流され、所在不分明となつて国土の重宝を永遠に失ふといふおそろしい結果になるやも知れぬ。銭十一文のちりぢりにならぬうち、一刻も早く拾ひ集めなければならぬ。夜を徹したつてかまはぬ。暗い河原にひとり坐つて、青砥は身じろぎもしなかつた。

 やがて集つて来た人足どもに青砥は下知(げち)して、まづ河原に火を焚かせ、それから人足ひとりひとりに松明(たいまつ)を持たせ冷たい水にはひらせて銭十一文の捜査をはじめさせた。松明の光に映えて秋の流れは夜の錦と見え、人の足手は、しがらみとなつて瀬々を立ち切るといふ壮観であつた。それ、そこだ、いや、もつと右、いや、いや、もつと左、つつこめ、などと声をからして青砥は下知するものの、暗さは暗し、落した場所もどこであつたか青砥自身にさへ心細い有様で、たとへ地を裂き、地軸を破り、龍宮までもと青砥ひとりは足ずりしてあせつてゐても、人足たちの指先には一文の銭も当らず、川風寒く皮膚を刺して、人足すべて凍え死なんばかりに苦しみ、やうやうあちこちから不平の呟き声が起つて来た。何の因果で、このやうな難儀に遭ふか、と水底をさぐりながら、めそめそ泣き出す人足まで出て来たのである。

 この時、人足の中に浅田小五郎といふ三十四、五歳のばくち打がゐた。人間、三十四、五の頃は最も自惚れの強いものださうであるが、それでなくともこの浅田は、氏育ち少しくまされるを鼻にかけ、いまは落ちぶれて人足仲間にはひつてゐても、傲岸不遜にして長上をあなどり、仕事をなまけ、いささかの奇智を弄して悪銭を得ては、若年の者どもに酒をふるまひ、兄貴は気前がよいと言はれて、さうでもないが、と答へてまんざらでもないやうな大馬鹿者のひとりであつた。かれはこの時、人足たちと共に片手に松明を持ち片手で川底をさぐつてゐるやうな恰好だけはしてゐたが、もとより本気に捜すつもりはない。いい加減につき合つて手間賃の分配にあづからうとしてゐただけであつたのだが、青砥は岸に焚火して赤鬼の如く顔をほてらし、眼をむいて人足どもを監視し、それ左、それ右、とわめき散らすので、どうにも、うるさくてかなはない。ちえ、けちな野郎だ、十一文がそんなに惜しいかよ、血相かへて騒いでゐやがる、貧乏役人は、これだからいやだ、銭がそんなに欲しかつたら、こつちからくれてやらあ、なんだい、たかが十文か十一文、とむらむら、れいの気前のよいところを見せびらかしたくなつて来て、自分の腹掛けから三文ばかりつかみ出し、

「あつた!」と叫んだ。

「なに、あつた? 銭はあつたか。」岸では青砥が浅田の叫びを聞いて狂喜し、「銭はあつたか。たしかに、あつたか。」と背伸びしてくどく尋ねた。

 浅田は、ばかばかしい思ひで、

「へえ、ございました。三文ございました。おとどけ致します。」と言つて岸に向つて歩きかけたら、青砥は声をはげまし、

「動くな、動くな。その場を捜せ。たしかにそこだ。私はその場に落したのだ。いま思ひ出した。たしかにそこだ。さらに八文ある筈だ。落したものは、落した場所にあるにきまつてゐる。それ! 皆の者、銭は三文見つかつたぞ。さらに精出して、そこな下郎の周囲を捜せ。」とたいへんな騒ぎ方である。

 人足たちはぞろぞろと浅田の身のまはりに集り、

「兄貴はやつぱり勘がいいな。何か、秘伝でもあるのかね。教へてくれよ。おれはもう凍えて死にさうだ。どうしたら、そんなにうまく捜し出せるのか。」と口々に尋ねた。

 浅田はもつともらしい顔をして、「なあに、秘伝といふほどの事でもないが、問題は足の指だよ。」

「足の指?」

「さうさ。おまへたちは、手でさぐるからいけない。おれのやうに、ほうら、こんな工合に足の指先でさぐると見つかる。」と言ひながら妙な腰つきで川底の砂利を踏みにじり、皆がその足元を見つめてゐるすきを狙つてまたも自分の腹掛けから二文ばかり取り出して、

「おや?」と呟き、その銭を握つた片手を水中に入れて、

「あつた!」と叫んだ。

「なに、あつたか。」と打てば響く青砥の蛮声。「銭は、あつたか。」

「へえ、ございました。二文ばかり。」と浅田は片手を高く挙げて答へた。

「動くな。動くな。その場を捜せ。それ! 皆の者、そこな下郎は殊勝であるぞ。負けず劣らず、はげめ、つつこめ。」と体を震はせて更にはげしく下知するのである。

 人足たちは皆一様に、妙な腰つきをして、川底の砂利を踏みにじつた。しやがまなくてもいいのだから、ひどくからだが楽である。皆は大喜びで松明片手に舞ひをはじめた。岸の青砥は、げせぬ顔をして、ふざけてはいかぬと叱つたが、そのやうな恰好をすれば銭が見つかるといふ返事だつたので、浮かぬ気持ちで、その舞ひを眺めてゐるより他は無かつた。やがて浅田は、さらに三文、一文と皆の眼をごまかして、腹掛けから取り出しては、

「あつた!」

「やあ、あった!」

 と真顔で叫んで、たうとう十一文、自分ひとりで拾ひ集めた振りをした。

 岸の青砥は喜ぶ事かぎりなく、浅田から受け取つた十一文を三度も勘定し直して、うむ、たしかに十一文、と深く首肯き、火打袋にちやりんとおさめて、にやりと笑ひ、

「さて、浅田とやら、このたびの働きは、見事であつたなう。そちのお蔭で国土の重宝はよみがへつた。さらに一両の褒美をとらせる。川に落ちた銭は、いたづらに朽ちるばかりであるが、人の手から手へ渡つた金は、いつまでも生きて世にとどまりて人のまはり持ち。」としんみり言つて、一両の褒美をつかはし、ひらりと馬に乗り、戞々(かつかつ)と立ち去つたが、人足たちは後を見送り、馬鹿な人だと言つた。智慧の浅瀬を渡る下々の心には、青砥の深慮が解しかね、一文惜しみの百知らず、と笑ひののしつたとは、いつの世も小人はあさましく、救ひ難いものである。

 とにかくに、手間賃の三両、思ひがけないまうけなれば、今宵は一つこれから酒でも飲んで陽気に騒がうではないかと、下人の意地汚なさ、青砥が倹約のいましめも忘れて、いさみ立ち、浅田はれいの気前のよいところを見せて褒美の一両をあつさりと皆に寄附したので一同いよいよのぼせ上り、生れてはじめての贅沢な大宴会をひらいた。

 浅田は何といつても一座の花形である。兄貴のおかげで今宵の極楽、と言はれて浅田、よせばよいのに、

「さればさ、あの青砥はとんだ間抜けだ。おれの腹掛けから取り出した銭とも知らないで。」と口をまげてせせら笑つた。一座あつと驚き、膝を打ち、さすがは兄貴の発明おそれいつた、世が世ならお前は青砥の上にも立つべき器量人だ、とあさはかなお世辞を言ひ、酒宴は一そう派手に物狂はしくなつて行くばかりであつたが、真面目な人はどこにでもゐる。突如、宴席の片隅から、浅田の馬鹿野郎! といふ怒号が起つた。小さい男が顔を蒼くして浅田をにらみ、

「さいぜん汝の青砥をだました自慢話を聞き、胸くそが悪くなり酒を飲む気もしなくなつた。浅田、お前はひどい男だ。つねからお前の悧巧ぶつた馬面(うまづら)が癪にさはつてゐたのだが、これほど、ふざけた奴とは知らなかつた。程度があるぞ、馬鹿野郎。青砥のせつかくの高潔な志も、お前の無智な小細工で、泥棒に追銭みたいなばからしい事になつてしまつた。人をたぶらかすのは、泥棒よりもなほ悪い事だ。恥かしくないか。天命のほどもおそろしい。世の中を、そんなになめると、いまにとんでもない事になるにきまつてゐるのだ。おれはもう、お前たちとの附合ひはごめんかうむる。けふよりのちは赤の他人と思つていただきたい。おれは、これから親孝行をするんだ。笑つちやいけねえ。おれは、こんな世の中のあさましい実相を見ると、なぜだか、ふつと親孝行をしたくなつて来るのだ。これまでも、ちよいちよいそんな事はあつたが、もうもう、けふといふけふは、あいそが尽きた。さつぱりと足を洗つて、親孝行をするんだ。人間は、親に孝行しなければ犬畜生と同じわけのものになるんだ。笑つちやいけねえ、父上、母上、けふまでの不孝の罪はゆるして下さい。」などと、議論は意外のところまで発展して、さうしてその小男は声を放つて泣いて、泣きながら家へ帰り、翌る朝は未明に起き柴刈り縄なひ草鞋(わらじ)を作り両親の手助けをして、あつぱれ孝子の誉れを得て、時頼公に召出され、めでたく家運隆昌に向つたといふ、これは後の話。

 さて、浅田の狡智にだまされた青砥左衛門尉藤綱は、その夜たいへんの御機嫌で帰宅し、女房子供を一室に集めて、けふこの父が滑川を渡りし時、火打袋をあけた途端に銭十一文を川に落し、国土の重宝永遠に川底に朽ちなん事の口惜しさに、人足どもを集めて手間賃三両を与へ、地獄の底までも捜せよと下知したところが、ひとりの発明らしき顔をした人足が、足の指さきを以て川底をさぐり、たちまち銭十一文をのこらず捜し出し、この者には特に一両の褒美をとらせた、たつた十一文の銭を捜すために四両の金を使つたこの父の、心底がわかるか、と莞爾と笑ひ一座を見渡した。一座の者はもじもじして、ただあいまいに首肯(しゆこう)した。

「わかるであらう。」と青砥は得意満面、「川底に朽ちたる銭は国のまる損。人の手に渡りし金は、世のまはり持ち。」とさつき河原で人足どもに言ひ聞かせた教訓を再びいい気持で繰り返して説いた。

「お父さま、」と悧発さうな八つの娘が、眼をぱちくりさせて尋ねた。「落したお金が十一文だといふ事がどうしてわかりました。」

「おお、その事か。お律は、ませた子だの。よい事をたづねる。父は毎朝小銭を四十文づつ火打袋にいれてお役所に行くのです。けふはお役所で三文使ひ、火打袋には三十七文残つてゐなければならぬ筈のところ、二十六文しか残つてゐませんでしたから、それ、落したのは、いくらになるであらうか。」

「でも、お父さまはけさ、お役所へいらつしやる途中、お寺の前であたしと逢ひ、非人に施せといつて二文あたしに下さいました。」「うん、さうであつた。忘れてゐた。」

 青砥は愕然とした。落した銭は九文でなければならぬ筈であつた。九文落して、十一文川底から出て来るとは、奇怪である。青砥だつて馬鹿ではない。ひよつとしたら、これはあの浅田とやらいふのつぺりした顔の人足が、何かたくらんだのかも知れぬ、と感附いた。考へてみると、手でさぐるよりも足でさぐつたはうが早く見つかるなどといふのもふざけた話だ。とにかく明朝、あの浅田とやらいふ人足を役所に呼び出し、きびしく糺明してやらうと、頗る面白くない気持でその夜は寝た。

 詐術はかならず露顕するもののやうである。さすがの浅田も九文落したのに十一文拾つた事に就いて、どうにも弁明の仕様が無かつた。青砥は烈火の如く怒り、お上をいつはる不届者め、八つ裂きにも致したいところなれども、川に落した九文の銭の行末も気がかりゆゑ、まづあれをお前ひとりで十年でも二十年でも一生かかつて捜し出せ、ふたたびあさはかの猿智慧を用ゐ、腹掛けなどから銭を取出す事のないやうに、丸裸になつて捜し出せ、銭九文のこらず捜し出すまでは雨の日も風の日も一日も休む事なく河原におもむき、下役人の監視のもとに川床を残りくまなく掘り返せ、と万雷一時に落ちるが如き大声で言ひ渡した。真面目な人が怒ると、こはいものである。

 その日から浅田は、下役人の厳重な監視のもとに丸裸となつて川を捜した。十日目に一文、二十日経つて一文、川の柳の葉は一枚残らず散り落ち、川の水は枯れて蕭々たる冬の河原となり、浅田は黙々として鍬をふるつて砂利を掘り起こし、出て来るものは銭にはあらで、割れ鍋、古釘、欠け茶碗、それら廃品がむなしく河原に山と積まれ、心得顔した婆がよちよち河原へ降りて来て、わしはいつぞやこの辺に、かんざしを一つ落したが、それはまだ出て来ませんか、と監視の下役人に尋ね、いつごろ落したのだと聞かれて、はつきりしませんが、わしがお嫁入りして間もなくの事だつたから、六、七十年にもなりませうか、と言つて役人に叱られ、滑川もいつしか人に裸川と呼ばれて鎌倉名物の一つに数へ上げられるやうになつた頃、すなはち九十七日目に、川筋三百間、鍬打ち込まぬ方寸の土も無くものの見事に掘り返し、やつと銭九文を拾ひ集めて青砥と再び対面した。

「下郎、思ひ知つたか。」

 と言はれて浅田は、おそるるところなく、かうべを挙げて、

「せんだつて、あなたに差し上げた銭十一文は、私の腹掛けから取り出したものでございますから、あれは私に返して下さい。」と言つたとやら、ひかれ者の小唄とはこれであらうかと、のちのち人の笑ひ話の種になつた。

(「裸川」了)

 

 

太宰治文学サロン(三鷹市)

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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太宰 治

ダザイ オサム
だざい おさむ 小説家 1909・6・19~1948・6・13 本名・津島修治。青森県に生まれる。稀有の才能に芽生えた、人間の優れて美しい哀情と念慮をたたえた魅力溢れる作品を多く遺した。さまざまなコンプレックスから自殺未遂・心中未遂、麻薬中毒などを重ねたのも素材となり、古典や他者の手記などを換骨奪胎した作品も多い。戦争中にも安定した結婚生活から生まれた「走れメロス」や「津軽」などを発表。戦後に代表作「斜陽」「人間失格」「桜桃」等をのこしたが、1948(昭和23年)6月13日東京都下玉川上水に入水死、19日に発見された。

掲載作は、西鶴を下敷に連作「新釈諸国噺」を書き起こした第1回作品で、1944(昭和19)年「新潮」1月号初出。

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