描写のうしろに寝てゐられない
自然描写はかなはん
と、「文学界」の時評のなかで言つたところ、とんでもない暴言だと、翌月の「座談会」で川端康成氏に叱られた。私がなにかハツタリを言つたみたいな感じになつて了つた。川端氏も読まれたにちがひない、フロオベルのジヨルジユ・サンドヘの書簡のなかに次のやうな文字がある。「貴方はスイスを御存じですからそのお話をしても仕方がないし、またもし私が此処で死ぬほど退屈してゐると云つたら、軽蔑なさるでせう。(中略)どつちにしろ死ぬほど退屈でせう。私は自然人ではありません。歴史のない土地と云ふものは分らないのです。私はヴアテイカンの博物館の為には氷河を全部呉れてやるでせう。」(中村光夫氏訳。二八五頁より)既にフロオベルの時分から、文学は人問的歴史を背負つてゐない自然に対して、かなはん気持であつた。と、読みとることは、とんでもない事であらうか。勿論、このフロオベル書簡が示唆する文学的問題は、直接的には、そんなところに無いであらう。これは「文学界」同人の間で問題になり、どうやら未解決のままお流れになつたらしい「生活と文学」といふことに、直接、関係のあるものである。島木健作氏が「文学」する為には「生活」しなければといつたのに対し、林房雄氏は、作家には書く生活以外に「生活」はないんだといつた。小林秀雄氏は両方正しいといふヤケな軍配を挙げたが正しいといへば両方正しい。然し、まちがつてゐるといへば、両方まちがつてゐるといはなくてはならない。土台両人はちつとも組み合つてなどゐないのであつて、お互にソツポを向いて力んでゐるのだから勝負のつけやうはない。
世界は誰のためにあるんだ
行司はさう叫んで、両人をもう一度仕切りの姿勢に戻さなくちやならなかつたのだ。前記フロオベルの言葉は、世界は作家のためにあると言つてゐるのに他ならない。世界は作家のための博物館に過ぎない。作家が書きたいとおもひ又書くことのできるものごとだけを具合よくをさめてゐる博物館。スイスの氷河自然のごときは作家には無用の存在だから、いつだつて呉れてやる。フロオベルが悪しき「文学の鬼」にとらはれた偏執的瞬間の暴言だとおもふ。即ち、世界は作家だけの為のものではない。作家は世界を作家として、そして同時に作家としてでなく見なくてはならないだらう。世界は人間のためにあるんだ。人間として見、おどろき、「生活」しなくては
描写は文学に於ける民主主義
である。客観的存在である以上、どんなケチなもの、どんなヤクザなものであらうと、平等の市民権を有するといふのが、描写のたてまへである。近代デモクラシーの産物である小説が、なにかといふと、描写、描写と言つたのは
私は私の今の気持として自然描写はどうもかなはんと言つたのだが、描写一般に対してさういふ気持である訳ではない。さうなつたら小説は読めないし又書けない。しかし描写に対する今日的な懐疑がどうもひそかにある事を否定はできない。それは描写を事象の視覚化とし、映画といふ極めて直接的な奴を引合ひにだしてのことではない。なるほど事象の客観的描写力の点では、見させる前に先づ読ませる作用の介在する小説(考へることなくしては見ることのできない宿命を負つた小説)は、見させるだけでもう見させてゐる映画に到底かなひツこはない。小説に於ける自然描写は私の頭にちツともはいつてこないのだが、映画の自然描写は殊の外すきであつて、私はその美しさを非常に楽しめる。が、ヤヤコシイ心理描写などになつてくると、映画は誠に非力でしかない。即ち私は、映画と小説の優劣などといふ浅墓な論議に足ぶみしてはゐられない。私の描写への懐疑は、また、文学における民主主義的精神に対する「進歩的」な揚棄といつた公式的なところから発してゐるのでもない。描写は、大きなことを言ふやうだが、近代の科学文明が文学のなかに
客観的共感性への不信
のやうな所から出てゐるのである。描写は文学にあらはれた科学であり、客観性といつたことがそもそも科学の齎らしたものである。客観的共感性に不信が抱かれるといつても、非科学的な原始文学へふたたび小説を戻さうといふのでもなければ、今更また戻せるものでもない。私は説話形式に縋つた今日の小説の傾向を、それは文学の原始へ退歩しつつある一種のデカダンではないかと、反省することがしばしばある。説話すなはち「物語る」といふ事は勿論描写の反対を行つたものではなく又行けるものでもなく、今日の説話はそのうちに描写をふくんだものである。つまり描写にのみ終始縋つて書けない
(了)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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