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名山の文化史

目次

 谷川岳――歴史を秘めた魔の山

  「魔の山」の魅力と若き日の山行の思い出

 上越国境に、屏風のごとく聳え立つ三国(みくに)山脈の主体部をなす谷川(たにがわ)連峰は、峻厳(しゅんげん)にして優しく、そして美しい山並である。

 谷川岳は、北方の清水峠から南西方の三国峠までS字型に続く谷川連峰の盟峰である。清水峠のすぐ西に聳える七ツ小屋山から(よもぎ)峠を経て武能(ぶのう)岳、茂倉(しげくら)岳、一ノ倉沢岳と北から南へ連なる山並は、谷川岳にぶつかって西へと向きを変え、オジカ沢ノ頭、万太郎山、仙の倉山、平標山(たいらつぴょうやま)へと続き、また南に向きを変えて大源太山から三国山を経て、三国峠へと至る。

 この谷川連峰は、日本海側気候と太平洋側気候の区界にあたる。冬は北西の季節風をまともに受けて、大量の積雪をもたらす。冬季、三国山脈を遠望すると、谷川連峰だけが、ひときわ白く輝いて美しく、よく目立つ。

 北から西にかけての越後側と、東から南に当たる上州側の山容の違いは顕著で、越後側は概して穏やかで優しい。 対して上州側には荒々しい岩壁が屹立する。岩登りのメッカとして知られる東側の一ノ倉沢やマチガ沢、南側の俎嵓(まないたぐら)などである。

 谷川岳は連峰の(かなめ)に位置し、北東にのびる東尾根を挟んで、マチガ沢と一ノ倉沢の急崖(きゅうがい)湯檜曾(ゆびそ)川へと落ち込んでいる。谷川岳が「魔の山」と恐れられるのは、その急崖に挑む若者たちの遭難があまりにも多いからだ。

 これまで谷川岳で命を落とした登山者の数は、大正以降でなんと七百人を超えるという。本場アルプスのアイガーやマッターホルンでも、これほど多くの死者は出していない。

 遭難の原因は、滑落・墜落が圧倒的に多く、次いで疲労による凍死、雪崩(なだれ)その他となっている。年齢別にみると、約二割が十代で、約七割が二十代、いかに谷川岳が若い人の山であるかがわかる。

 確かに、谷川岳は若人を魅了してやまない魅力にあふれている。同時に若者の冒険心、チャレンジャー精神を刺激する魔力を秘めている。

 

 春から初夏にかけての谷川岳山麓を辿る山径(やまみち)はまことに美しい。芽吹きが新緑に変わるころ、山径は小鳥の声に満ち、雪解けを待ちかねた草々が息吹き、可憐な花をつけはじめる。

 昭和三十二年(一九五七)五月、中学三年生だった筆者は、昆虫採集仲間の友人と二人、上越線土合(どあい)駅からマチガ沢出合への山径を歩いていた。友は甲虫、筆者は蝶が目的だ。二人を先導するように足元を小さな虫がピョンピョンと跳ね飛んでいた。捕虫網で捕まえると、カミキリ虫を小さくした派手な色合いの甲虫であった。目は少し出ているけれど色物のドレスを着たなかなか可愛いお嬢さんではないか、と思って油断したのがいけなかった。そのお嬢さん、筆者の指をいやというほど齧って逃げてしまった。

 その甲虫がハンミョウ(斑猫)という名で、ミチシルベあるいはミチオシエとも呼ばれることを、友が教えてくれた。その後、よくあちこちの山径でこの道先案内の虫に出合ったが、最近は見かけることが少なくなった。

 マチガ沢の出合で、遥か稜線に突き上げる大雪渓に目をみはった。いつかこの山の頂きに立ちたいと思った。さらに一ノ倉沢の出合に至って、異様な感動を覚えたのを記憶している。秋になっても消えないのだという雪渓の上に、巨大な岩の壁が圧倒的な迫力で立ち並んでいた。まさにそのとき筆者は、この山に魅入られていた。

 はじめて谷川岳の頂きに立ったのは、それから四年後の昭和三十六年五月下旬のことであった。高校時代から山登りをはじめた筆者は、浪人中のこの年も、山にばかり行っていた。

 山友達のKと二人、谷川連峰の縦走を計画し、二泊三日分の食料と寝袋などの一式をキスリングに詰め込んで、三国峠山麓にバスから降り立ったのは、五月二十三日のことであった。山小屋を利用することにしていたので、テントは持参していない。それでも入山初日の登りは、荷が肩に食い込んで重い。

 かつて多くの旅人が往き交った三国峠(後述)には、「上越国境 三国峠」の標柱が立ち、石灯籠(いしどうろう)がポツンと立っていた残雪の苗場(なえば)山がよく見えた。ここから大源太山経由で平標の山小屋まではゆるやかな登りである。途中、石楠花(しゃくなげ)の群落があり、ちょうど花盛りであった。

 平標小屋に泊ったのは我々二人だけ。小屋番が一人いて、素泊り二百五十円であった。自炊で食事を摂ったが、近くで採ってきたフキノトウの味噌汁が美味かったのを、今もよく憶えている。

 翌日は、平標山から仙ノ倉山、万太郎山を経て谷川岳肩ノ小屋まで、のんびりとした尾根道コースである。まだ残雪が多く、霧と小雨もよいの寒い一日であったが、堅い雪を踏みしめて満足であった。

 

 肩ノ小屋も素泊り料金は二百五十円。朝、昨日とはうって変わった好天で、念願の谷川岳頂上に立った。谷川は双耳峰で手前がトマの耳(一九六三メートル)、先に聳えるのがオキの耳(一九六七メートル)である。三角点はトマの耳の方にあり、標高はやや低いがこちらが主峰である。ちなみに連峰中の最高峰は仙ノ倉山で、二〇二六メートルである。

 オキの耳を経て一ノ倉岳(一九七四メートル)を往復し、西黒尾根を土合へと(くだ)って、筆者にとってはじめての谷川連峰への山旅は終わった。山行中ほとんど人には会わなかった。

 翌年、大学の山岳部に所属した筆者は、春のマチガ沢での雪上訓練ののち、マチガ沢をつめて頂上に至り、芝倉沢をグリセードで降った。秋にもマチガ沢を登り、芝倉沢を降ったのち蓬峠を越えて土樽(つちたる)へ出たりもした。だが、残念ながら一ノ倉沢にチャレンジしないうちに谷川通いは終わった。翌年から北アルプスの劔岳や穂高に興味が移ってしまったからである。魔の山に魅入られて命まで捧げる結果にはならなかった、ということになる。だが、命を賭けてもよいと思わせる何かが、谷川岳にはあったように思う。

  神の座に挑んだ修験者と山岳信仰登山の伝承

 谷川岳は、近現代の登山史の中で語られることは多いが、近世以前の歴史についてはほとんど語られることがない。峻険なる人跡未踏の秘峰であったわけではない。古くから、清水峠を越えて、また三国峠越えによって、上越国境を人々が往き来していた。

 上州沼田(群馬県沼田市)から、利根川に沿って後閑(ごかん)上牧(かみもく)水上(みなかみ)と辿り、支流の湯檜曾川沿いの道から清水峠を越えて越後に至る清水峠越往還は、おそらく古代から続く道だ。後閑や上牧のあたりからも、「耳二ツ」の谷川岳はよく目立つ。

 水上温泉のあたりからは、その谷川岳南面の大岩壁俎嵓が間近に望める。谷川岳の名称は、かつてはその俎嵓を指したものという。俎嵓に源を発し、水上温泉のあたりで利根川に注ぎ込む渓谷が「谷川」であり、その水源の岩壁群を谷川岳と呼んだのであろう。

 険しい山があれば、その頂きに立ってみたいと思うのは人間の本能だ。おそらく、古代より、あるいはもっと古くから、この山に憧れたり挑んだりした人は少なからずいたにちがいない。

 水上温泉から利根川を少し上流に遡った大穴(おおあな)には、石器時代の住居跡がある。昭和十年(一九三五)に発見された国指定史跡「大穴石器時代住居跡」である。縄文時代の中期には、すでに谷川岳を仰ぐこの地に、私たちの遥かなる先祖が住みついていた。

 縄文人が谷川岳に登ったかどうかはわからないが、大穴のすぐ先で湯檜曽川が利根川に合流しており、湯檜曾川に沿って遡り峠を越える越後との交流ルートがあったことは、想像に難くない。

 太古の旅人たちもまた、谷川の峰々を仰ぎ、のちに一ノ倉沢やマチガ沢、俎嵓と呼ばれることになる大岩壁を間近に見て、畏怖の念を抱いたことであろう。なかには、冒険心をかき立てられた者もいたにちがいない。

 やがて仏教が伝来し、各地に山岳霊場が開かれ、修験道が盛んになると、谷川岳もその対象となったことは疑いない。古来人びとが畏怖し続けてきた岩壁を、修験者たちが見過ごすはずはないのだ。

 だが、残念ながら、古代から中世にかけての谷川岳の山岳宗教に関しては、伝説からうかがうだけで、史実としてはほとんどわかっていない。

 谷川岳は谷川富士とも呼ばれる。これは、オキの耳に富士権現が(まつ)られ、古く浅間(せんげん)岳と呼ばれたことに由来する。対してトマの耳は薬師岳と呼ばれていたという。中世後期から江戸時代にかけて、各山上に詣でる人が少なからずいたらしい。

 オキの耳を奥宮とする富士権現の里宮・富士浅間神社は、水上町(現みなかみ町)谷川にある。康暦(こうりゃく)二年(一三八〇)の創建と伝え、木花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神とするが、江戸時代前期の万治(まんじ)元年(一六五八)に上州沼田藩主真田信利がこの神社を再建したときの棟札に「沼田総鎮守谷川嶽郷中蒼生大産土」とあり、もとは谷川岳東麓から南麓にかけての産土神(うぶすながみ)であったのであろう。しかし富士浅間信仰との結びつきは中世に遡る。谷川の富士浅間神社の神体は、一ノ倉の大岩壁の岩室から発見されたという二面の懸仏(かけぼとけ)である。一面は坐像で虚空蔵(こくぞう)、もう一面は立像の十一面観音。共に「永禄(えいろく)八年(一五六五)」銘と、「富士浅間大菩薩(だいぼさつ)」の銘が刻まれている。

 開基にちなむこんな伝説がある。

 足利義満(あしかがよしみつ)の時代の康暦二年二月の夕刻、不思議な光が南方から飛んで来て谷川岳上空に留まり、一晩中山上を照らし続けた。翌日、東麓の村々では大騒ぎになり、水上村に住む祈祷師に占ってもらうと、祈祷師は神憑(かみがか)りして、

「我は駿河(するが)の霊峰富士の浅間大菩薩なり。この地の人々に救いの道を開かんとす。山上に社を建て末長く守護せよ」
 と叫んだ。そこで村人たちは、雪解けを待ち六月になって苦難の果てに山上に至ると、頂上の大岩の中に桃の木が生え、八面の浅間大菩薩の懸仏が掛けてあった。村人は驚き畏れ、懸仏をご神体とした社を山上に建立して、山麓の谷川に里宮をつくった――。

 こんな話も伝えられている。

 やがて谷川岳信仰登山が盛んになり、夏のお山開きの期間には多くの人が山上に詣でるようになった。里宮の浅間神社にお参りし、新しい草鞋に履きかえて、保戸野川で身を(きよ)めたあと川に沿う道を辿り、途中の険路・岩場を苦労して乗り越え、山上に詣でた。

 急峻な岩壁に囲まれた一ノ倉は、人の侵入を拒む神の座である。一ノ倉の「倉」が「磐座(いわくら)」を意味することはまちがいない。山上に詣でた人々が、その神の座に賽銭(さいせん)を投げる風習があったといい、一ノ倉沢は「銭入れ谷」とも呼ばれたという。

 その一ノ倉に挑んだ者たちがいた。岩登りに()けた修験者たちである。彼らは、一ノ倉を修行の場とし、源頭の洞窟に住んで谷川登山のルートを開拓した。

 いつしか、修験者たちが住んだ一ノ倉の洞窟には、彼らが秘かに埋蔵した黄金の御幣(ごへい)と黄金の鰐口(わにぐち)黄金づくりの太刀の三宝があるという噂が広まった。すると、その宝物を盗もうという者が現われた。利根郡のさる神社の息子という光次郎と左近の兄弟である。彼らは大穴村の多兵衛を案内に雇い、水垢離(みずごり)もせず、山に登りはじめた。山開き前のことで、残雪も多く困難な登山であったが、天神嶽を経て何とか山頂に辿りついた。

 山上から見下す銭入れ谷は、あまりにも深く急峻で、到底下りられるとは思えない。だが欲にかられた兄弟は、彼らの意図を知って驚き止める多兵衛を振り切り、左近の支える綱を頼りに光次郎が岩を下りはじめた。それを止めようとする多兵衛。左近は綱を放し光次郎は深い谷に吸い込まれていった。揉み合う多兵衛と左近もまた、奈落へと滑落していった――。

 以上はもちろん伝説にすぎないが、かつてこの山が山岳信仰の霊場としてそこそこに賑わい、また一ノ倉沢などの大岩壁が修験者たちの行場であったことを伝えている。

 富士浅間神社の境内には、かつて「沓掛(くつかけ)柳」と呼ばれる柳の古木があったという。谷川登山の禅定者(ぜんじょうしゃ)たちが、ここまで履いてきた草鞋を脱いでこの柳に掛け、下山のときには山に履いていった草鞋をまたこの柳に掛けて帰ったのだという。

  廃道となった清水峠と大名行列も通った三国峠

 最後に、谷川連峰の両端に位置する峠道について語ろう。

 清水峠は、前述したように、古代から人々が往き来した峠道と思われるが、中世以前ははっきりしない。古くは、清水峠のすぐ南東に聳える朝日岳東尾根の馬峠を越え、宝川を下って利根川に出るコースであったという。

 清水峠越の往還が活発に利用されたのは、中世後期から末期、戦国時代であった。軍用道路としてである。往還は、水上方面では清水の直越(すぐごえ)、越後側の塩沢では直路(じきろ)と呼ばれた。

 上杉謙信(けんしん)上野(こうずけ)への侵攻に際して、三国峠と共にしばしば直路を利用した。上州側から峠を越えてすぐの尾根を十五里尾根というが、謙信尾根の別称でも知られる。

 江戸期に入ると越後側の清水(塩沢町)と上州側の湯檜曾に口留番所が置かれたが、間もなく清水峠を往き来する人の群は途絶えた。寛永(かんえい)九年(一六三二)、幕府が交通を禁じたからである。

 代わって脚光を浴びたのが三国峠であった。この峠も古く、古墳時代の五世紀ごろには、すでに開かれていたらしい。かつては上信越三国の境界に位置すると考えられ、三国峠の名がつけられたという。峠下には古くから御阪三社神社(かつては三国権現)が建ち、上野の赤城(あかぎ)信濃(しなの)諏訪(すわ)、越後の弥彦(やひこ)の三神が祀られている。縁起にちなむ坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)伝説もある。

 幕府は清水峠越の道を封鎖した代わりに、三国峠越の道の整備につとめた。そのため多くの旅人が往来し、物資が往き交った。上州にとって特に重要であったのは、峠を越えて越後からやって来る米であった。三国街道上州路の最奥の宿場である永井宿は、米市で賑わった。また三国街道は、越後諸藩の参勤交替路ともなり、大名行列がこの峠を越えた。

 幕末から明治にかけて、養蚕の季節になると、越後からの出稼ぎの人たちが大勢、この峠を越えて上州にやって来たという。さらに明治五年(一八七二)、上州富岡に日本初の官営製糸工場ができると、多くの越後の女性たちがこの峠を越え、女工となって明治の国営製糸業を支えた。

 これらの峠を含む谷川連峰はいま、上信越高原国立公園に含まれ、登山客やスキー客、また観光客で賑わっている。昭和三十五年(一九六〇)、土合から天神平までロープウェイが完成し、山麓から三時間足らずで山頂まで行けるようになってしまった。だが一ノ倉やマチガ沢、俎嵩の岩壁は、いまも厳然と聳えて、山に憧れる若人を魅了し続けている。

 甲斐駒ヶ岳――黒駒伝説の白き山

  車窓に見る雄姿と冬山登山の思い出

 筆者が登山に夢中になっていた昭和三十年代、どれほど中央線の列車に乗っただろうか。国鉄がJRになり、「あずさ」などの特急が走るずっと以前のことである。奥秩父の金峰(きんぷ)国師(こくし)、南アルプスの北岳・仙丈岳・甲斐駒(かいこま)ヶ岳、それに鳳凰三山・八ヶ岳・槍や穂高の北アルプス、どこに行くにも中央線を利用した。新宿発二十三時四十五分の鈍行夜行列車に乗ることが多く、列車はいつも登山者やハイカーで溢れていた。

 やがて出版社に勤務し、仕事が忙しくなるにつれて山とは疎遠になっていったが、中央線に乗る機会は少なくなかった。

 昼の列車の車窓から見る山々の風景に、飽くことはない。間近に見る四季折々の低山の、芽吹きや新緑や紅葉・枯木立はいうにおよばず、その後方に連なる峰々は、筆者の青春の思い出を留めた山々だ。

 いまでもそうだが、いつも無意識に甲斐駒ヶ岳を探した。甲府盆地を信州に向かって列車が走ると、左手に鳳凰三山が現われ、その後方に北岳がちょっとだけ山巓(さんてん)をのぞかせる。白根山とも呼ばれる日本第二の高峰北岳は、初夏のころまでだと残雪に白く輝いて、すぐそれとわかる。秋になって真先に白くなるのも北岳である。

 やがて右手に八ヶ岳が見えてくると、左手の車窓に甲斐駒ケ岳が堂々たる白い山容を見せ始める。全山花崗岩からなるこの山は、雪に覆われていなくとも白い。その雄姿に接すると、いつも胸が高鳴ったものだ。

 初めて甲斐駒ヶ岳に登ったのは、昭和三十四年(一九五九)の夏、高校二年生のときであった。その後春夏秋冬、何度となく、この山の頂きに立った。筆者にとって、中央線の車窓から見える山々の中で、特に思い出深い山なのである。

 昭和三十八年(一九六三)一月のことだ。山の友人と二人、厳冬の甲斐駒ヶ岳に登った。

 元日の夜行列車で新宿を発った私たちは、二日の朝、山麓の白須から黒戸尾根を登り、無人の五合目小屋に泊った。他に登山者はいなかった。翌日、雪が降っていたが、荷物を小屋に置き、サブザックに非常食をつめ、ピッケルとアイゼンに身を固めて頂上を目指した。森林限界を出ると雪は深くなり、八合目の鳥居直下では胸まで沈む新雪のラッセルに悩まされた。風雪の中をともあれ頂上に立ったが、視界はゼロに近く寒さは厳しい。早々に五合目小屋まで引き上げたのであった。

 

 その時の山日記を見ると、「頂上からシリセードで飛ばし午後二時五合目小屋着。気温マイナス十五度」とある。シリセードというのは、山仲間の隠語で、お尻で雪の斜面を滑り降りることである。

 事件が起こったのは、翌日の朝のことだ。前夜の猛吹雪で小屋の中は隙間から吹き込んだ雪で真白、寝袋(シュラフ)の上にも雪が積っていた。暖を取ろうとルンペンストーブに火を付けようとしたが、雪で湿った薪はくすぶるばかりで、なかなか火が付かない。持参したラジウス(携帯用石油コンロ)の石油をかけると一旦は燃え上がったものの、またくすぶってしまった。もう一度火を付けようと、紙を丸めて薪の下に押し込み、マッチの火を右手に持ってストーブの()き□に差し込んだときのことである。いきなりドカンという音とともに炎が焚き口から吹き出したのだ。

 幸い大したことはなかったが、このときの火傷の跡は、十年以上も右手から消えなかった。

「午後三時。駒神社を過ぎ白須へと向う。振り返ると駒がものすごい雪煙を上げている」

 その日の山日記には、そう記されている。

  江戸の文献に見る山容と山名の由来

 さて、甲斐駒ヶ岳は標高二九六五・六メートルの堂々たる山体で、山梨県北巨摩郡と長野県上伊那郡の県境に位置している。赤石山脈(南アルプス)の北東端を占め、山体全体が第三紀に貫入した花崗岩からなる。東側は標高差二二〇〇メートルにおよぶ急斜面の断崖層をなして、フォッサマグナ西縁の低地に臨んでいる。

 甲斐駒ヶ岳あるいは単に甲斐駒と呼ぶのは甲州側の名称で、信州の伊那地方では東駒ヶ岳(東駒)と呼び、古くは白崩(しろくずれ)山・赤河原岳とも呼ばれた。

 江戸時代の文化九年(一八一二)に成立した『伊那志略』によれば、

「白崩嶽、黒河内(くろごうち)(長野県上伊那郡長谷村)に在り、甲信の境なり。甲斐で()駒嶽(こまがたけ)是なり。

『甲斐名勝志』に(いわ)く、上に数千仞(すうせんじん)(いわお)あり、迂廻(うかい)して絶頂に至る。則ち平坦(へいたん)十余歩、安んじて石仏観音を()く」(原漢文)

 という。また、同じころに成立した『甲斐国志』は、

「大武川に沿うて南方山中に入ること若干にして石室二所あり。下を勘五郎の石小屋と呼び、上を一条の石小屋と呼ぶ。これより上は絶壁数十丈にして攀臍(はんせい)し難く、樵夫猟丁と(いえど)も至らざる所あり」

 と記す。山上に石仏があり、途中に石室などもあったというので、すでに山岳霊場として開かれていたらしいが、不詳である。文化年間のころには、登る人も稀であったらしい。

 近代になって編まれた『北巨摩郡誌』は、つぎのように記す。

「駒ヶ岳は駒域・菅原二村に属し、長野県伊那郡と界す。海抜九九〇五尺ありて山上に大国主命(おおくにぬしのみこと)(まつ)る。山勢すこぶる奇峨(きが)にして奇岩幽谷に富む。往時は容易に山頂に道するを得ざれども文政年間信濃人弘幡(開山威力不動として神にまつる)なる入頂上に至る道路を開く。現今は鉄鎖楷梯(かいてい)を以つて子女といえども登山することを得……云々」

 江戸時代には山上に石造の観音像が安置されていたのが、明治以降大国主命に変えられたのは廃仏毀釈(きしゃく)の故であろうが、登山道が開かれ一般の登拝者が登るようになったのは、文政年間(一八一八〜三〇))以後のことらしい。その駒ヶ岳開山の語は後述するとして、まずは山名について考えてみることとしよう。

 駒ケ岳という山名は全国に数多い。駒すなわち馬にちなむ山名であり、山の形が馬に似ている、残雪による山肌の模様が馬に似ている、山麓に古代の牧があったことによる、馬にまつわる伝説がある、などを由来とするものが多いが、それだけではあるまい。駒は高麗(こま)に通じ、山麓に古代朝鮮からの渡来系氏族が住んだことによる場合もあろう。山上に渡来系の神や、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)などからもたらされた仏像が祀られたケースもあった。

 甲斐駒ヶ岳の場合はというと、以上の山名由来説のいくつかが当てはまり、どれかは決めがたい。

 江戸時代の文献(『甲斐国志』『裏見寒話』『甲斐名勝志』『峡中紀行』『甲斐叢記』など)の記すところによると、聖徳太子伝説にちなむものが多い。

『甲斐国志』は、

厩戸(うまやと)王ノ驪駒(くろこま)此山(このやま)ニ産育セルコトヲ俚説(りせつ)ニ伝タリ」

 と記し、荻生徂徠(おぎゆうそらい)の『峡中紀行』も、「相伝豊聡王所畜驪駒飲是渓而生」と黒駒伝説を書きとどめている。すなわち、「伝えるところによれば、豊聡王(聖徳太子)が()っていた所の驪駒は、駒ヶ岳麓の(たに)の水を飲んで生育したということだ」というのである。

  黒駒伝説と高麗人の里

 甲斐国は古くから名馬の産地として知られていた。大和朝廷には諸国の牧から馬が供給されていたが、甲斐国造(くにのみやつこ)が貢上する馬は、「甲斐の黒駒」と呼ばれ、代表的な名馬であった。

『日本書紀』の雄略紀十三年九月の条に、「ぬばたまの甲斐の黒駒鞍著(くらき)せば 命死なまし甲斐の黒駒」という雄略天皇が詠んだ歌が載る。処刑目前の名工を救うため甲斐の黒駒を刑場に走らせ、間に合って名工の命を救うことができたときの歌である。

 甲斐の黒駒の名声は後世にも語り継がれ、平安時代後期に成立した『扶桑(ふそう)略記』には、つぎのような話が登場する。

 推古天皇の六年四月、聖徳太子は諸国の牧に名馬の貢上を命じた。数百匹の名馬が集められたが、四本の足だけが白い甲斐国から献じられた烏駒(くろこま)を太子は選び、愛馬として飼育させた。九月、太子がその「甲斐烏駒」に試乗すると、たちまち雲の中に飛び去り、帰って来たのは三日後であった。その間に太子は、まず富士山頂に至り、その後は信濃国を廻っていたのだという――。

 こうした話がもとになって、後世、駒ヶ岳の山名由来が語られるようになったのであろう。

 ともあれ甲斐国が古くから名馬の産地であったのは疑いない。『日本書紀』には、壬申(じんしん)の乱(六七二)のとき、大海人皇子(おおあまのおうじ)の側近として騎馬兵の「甲斐の勇者」が活躍した記事が見え、『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、甲斐守の田辺史広足(たなべのふひとひろたり)が、体が黒くたてがみと尾が白い神馬を献上したという記事を載せる。

 では、甲斐国の名馬の生産地はどこにあったのであろうか。

 歌枕に「くろごまの牧」「黒駒の御牧(みまき)」が見え、古く黒駒牧があったとして、東八代(やつしろ)郡(現笛吹市)御坂(みさか)町黒駒付近に比定する説がある。しかし黒駒の牧は和歌の中にしか登場せず、黒駒牧が実在したかどうかは疑わしい。ただ単に、黒駒の産地である牧の意で、甲斐国内の特定の牧の名ではなかった可能性もある。

 山麓の白州町横手(北杜市)にある駒ヶ嶽神社の社記(慶応四年=一八六八)によれば、

釜無川(かまなしがわ)の水源に神馬の精があるによりて此水を飲て畜育にあたる駒は必ず霊ありと云、又この山より下瀝(したた)る水流の及ぶ限りを一郡とす、或人の説に云、平原多くして馬を畜に便りよき地なれば他郡よりも多く牧を置れしと見へて今もそこここに牧の名残れり、されば、駒を産するの地なる故に駒ヶ嶽と称し此山の縁由をもて巨摩郡と名つけしと云り」

 という。駒ヶ岳水系の山麓一帯を一郡とし、そこには多くの牧があった、その故をもって駒ヶ岳の名と巨摩郡の名がついた、というのである。

 北杜市白州町から同武川(むかわ)町にかけての一帯には、平安時代に真衣野牧(まきののまき)があって、毎年朝廷に三十匹の馬を献じていた。現在も牧原などの字が残る。真衣野は「牧野」であり、奈良時代あるいはさらに遡って、このあたりが牧であった可能性が高い。だとすれば黒駒牧に相当する古代の牧は、やはり駒ヶ岳山麓であったろうか。

 巨摩郡(古くは巨麻郡)の名も、名馬の産地であった駒郡からの転訛ではないかというのである。『甲斐国志』などもこうした説を載せているが、上代仮名遣いの研究家によれば、「巨」の文字を駒の「コ」の音に宛てることは用法上あり得なく、用例もないという。

 コマの地名は各地にあり、『和名抄』に見える河内国の巨麻郷(旧中河内郡と八尾市の二郷がある)や、北武蔵(埼玉県西南部)の高麗郡が知られるが、いずれも朝鮮半島からの渡来系氏族と関係の深い土地だ。六六八年の高句麗滅亡前後に多くの高麗人が日本に渡来し、各地に移り住んだことが知られており、各地にコマの地名をのこした。

 駒ケ岳山麓の巨麻郡もその一つだったことは否定できない。『甲斐名勝志』は、

「駒井は、高麗人の居たると云う意ならん()
 と記す。駒井郷は韮崎(にらさき)市藤井町駒井のあたりに比定される古代の郷で、北杜市武川町に近い。

 駒ケ岳山麓は、高麓人たちの住んだ土地であり、古代の牧が置かれていたのであろうか。馬は三〜四世紀ごろに朝鮮半島から渡来し、馬の飼育法や馬具なども朝鮮半島からもたらされたものであることを考えるなら、駒ヶ岳のコマには、駒と高麗の二つの意味が込められているといえよう。

 

  駒ヶ嶽神社と甲斐駒ヶ岳開山

 甲斐駒ヶ岳が山岳霊場として開かれたのが、いつごろのことかは、詳らかではない。

 横手の駒ヶ嶽神社は、駒ヶ岳山頂を本宮とし、その前宮であるという。由緒によれば、

「神の()建御名方命(たけみなかたのみこと)この地に至りし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、『この山はいと高く清々(すがすが)しき地なり、かれここに()御親(みおや)の神を祭るべし』と云うに始まる」
 として、雄略天皇の二年に、改めて建御名方の父である大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)を出雲より遷祀(せんし)したという。また、

白鳳(はくほう)二年(六七三)(えん)の行者小角(おづぬ)が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢(かいびゃく)と伝えられている」
 とも記す。もとより後世の付会であり、信ずべき説ではない。駒ヶ嶽神社は、江戸時代には駒ヶ嶽権現とも称し、神仏習合であった。『甲斐国志』は、山頂に駒形権現・馬頭観音、また摩利支天が祀られていたことを記している。山上のよく目立つ瘤を摩利支天と呼ぶのはそのためだ。だが明治に至って、神仏判然令(神仏分離)により修験道や仏教的なものが除かれ、国家神道に基づく尊皇皇国思想の駒ヶ嶽教会となった。関係者は、山上に雄大な本社建築を目指したが果たさず、大正三年(一九一四)に八合目の本社鳥居だけが造られた。横手に前宮の社殿が新築されたのは昭和初期のこと。現在の宗教法人「駒ヶ嶽神社」となったのは、昭和二十七年(一九五二)のことである。

 なお、尾白川の渓谷に沿う千ヶ尻にも、竹宇(ちくう)の駒ヶ嶽神社前宮がある。こちらは社伝を失っており、詳しいことはわからない。

 江戸時代の初期には、すでに駒ヶ岳は開かれていたと思われるが、そのころの歴史に関しては、史料がなく不明である。その後、ほとんど登る人もなく、やがて未登の霊峰として遥拝するだけの山となっていたようだ。

 その駒ヶ岳が改めて開かれ、一般禅定者が登拝する山となったのは、江戸後期の文化十三年(一八一六)のことである。開山は弘幡行者・小尾権三郎という。権三郎は信州諏訪の出身で、十八歳のときに自ら弘幡行者と名乗って甲斐駒ヶ岳開山の大願を立て、横手に逗留(とうりゅう)して何十回となく駒ヶ岳に挑み、ついに山上までの道を切り開いたのだという。

 開山に成功すると弘幡は、京都に赴いて、「駒嶽開闢延命行者五行菩薩」の尊称を受けたが、開山から三年後の文政二年(一八一九)、二十五歳の若さで没し、後に駒ヶ岳六合目の不動岩に「大開山威力大聖不動明王」として祀られた、という。

 甲斐駒ヶ岳の信仰登山が盛んになるのは、これ以後のことである。

 登拝路は、山麓の横手駒ヶ嶽神社前宮から入る黒戸登山道と、竹宇駒ヶ嶽神社前宮から入る尾白川登山道の二筋があった。尾白川登山道は、渓谷に沿って登り、千丈ノ滝の下流で左手の急坂を辿って、五合目の屏風岩のところで黒戸登山道と合流する。そこから屏風岩の岩場を経て七合目の七丈小屋に達し、二日目は八合目で朝日を拝して山頂の本宮に到達するように開かれていた。

 現在もこの登山道は、甲斐駒登山のメインルートとして登山者に利用されている。また信州側の北沢峠から登る人も多い。かつては北沢峠まで、飯田線の伊那北駅からバスを高遠で乗り継ぎ、戸台口から長い距離を歩いて入山したものだ。いまは北沢峠までバスで入ることができ、入山が容易になった。

 北岳――歌枕の山甲斐の白根

  古くから人に知られた高く白き山甲斐が根

 北岳は、赤石山脈(南アルプス)に位置する高山で、標高三一九二・四メートル、富士山に次ぐ日本第二の高峰である。山域は山梨県中巨摩(なかこま)芦安(あしやす)村(現南アルプス市)に属する。

 南に(あい)ノ岳(三一八九メートル)、農鳥(のうとり)岳(三〇二六メートル)と三〇〇〇メートル級の山々が連なり、主峰の北岳と合わせて白根三山と呼ばれる。三山を含む山塊は古くから甲斐の白根(白峰・白嶺)また甲斐が根として知られており、最高峰の北岳を指して白根山ともいう。

 「甲斐が根」「甲斐の白根」は歌枕としても知られる。『古今和歌集』巻二十に東歌(あずまうた)として、「かひうた」二首が載る。

「かひがねをさやにも見しがけけれなく横ほりふせるさやの中山」「かひがねをねこし山こし吹く風を人にもがもやことづてやらむ」
  先の歌は、甲斐が根(嶺)をしっかりと見たいと思ったが、さやの中山が心なくも横たわっているのでよく見ることができない、という意。さやの中山は、遠江(とおとうみ)(静岡県)の小夜(さよ)の中山である。歌枕として知られる東海道の名所だ。『続後撰集(しょくごせんしゅう)』にも蓮生(れんじょう)法師の、
「かひがねははや雪白し神な月しぐれてこゆるさやの中山」
 が見え、『新千載集』には大江茂重の、
「雪つもるかひのしらねをよそに見てはるかに越ゆるさやの中山」
 が載る。他にも「甲斐が根」「甲斐の白根」を詠んだ歌は少なくない。古くから東海道を旅する人にとって、小夜の中山のあたりより(はる)かに望む甲斐の白根山は、心ひかれる白き高峰であったのであろう。もっとも、古歌に歌われた甲斐が根あるいは甲斐の白根が、北岳であるという確証はない。北岳を中心とした白根三山を指したのであろうが、南アルプスの白き山々を漠然と「甲斐が根」「甲斐の白根」と表現した場合もあったと思われる。

 ともあれ、白根三山が古くから知られていたことはまちがいない。江戸時代には甲斐八景の一つとして「白根夕照」が知られていた。享保九年(一七二四)から宝暦三年(一七五三)にかけての見聞を、甲府勤番であった野田成方(なりかた)が記した『裏見寒話』は、北岳について、

「富士に続いての高山(なり)、盛夏までも雪あり、(その)雪の年中絶ざるを以て、白根ケ嶽の名あり、此山を甲斐ケ根とも云ふ」
 と記す。

 その北岳に筆者がはじめて登ったのは、昭和三十八年(一九六三)七月下旬のことである。前年に北岳で遭難死した後輩をしのび、北岳小屋に霧鐘(むしょう)を取りつけるための追悼登山であった。

 前年の夏、筆者の二年後輩である浦和西高等学校の山岳部のキャプテンYは、南アルプス縦走の夏山合宿の途中、北岳頂上に近い中白根(なかしらね)との間の稜線(りょうせん)にテントを張っているとき、夜半に苦しみ出して、十八歳の命を終えた。急性心不全であった。

 そのとき筆者は、立教大学山岳部に所属していて、北アルプスで夏山合宿中であった。劔岳での岩登りを中心とした合宿ののち、立山から一ノ越を経てザラ峠までの稜線を辿り、五色ヶ原から黒部渓谷の平ノ小屋へ下って、黒四ダムを船で渡り黒部川を遡った。東沢の出合からは上ノ廊下へは行かず、東沢をつめてワリモ岳近くの稜線に出て、雲の平を横切り、再び黒部渓谷の薬師沢出合に下った。そこから薬師沢に沿って太郎山へと登り、黒部五郎岳へと尾根道を辿った。

 黒部五郎岳を越え、黒部五郎小屋に近いカールにテントを張った夜のことである。八時には全員シュラフにもぐり込んだ。時折笹を渡る風音のほか、外はしんとして物音一つしない。そのときである。単独行者らしい足音が近づいて来て、テントの前で止まった。

「山小屋はもう少し先だよ」

 上級生が怒鳴った。すると足音は、テントの周囲をぐるぐると回りはじめた。

「何か用ですか」

 テントからの問いかけに応える声はなく、足音だけがつづく。さすがに皆、気味が悪くなった。熊かもしれない。だが、起き出して外を確かめる勇気は誰にもない。しばらく緊張の時がつづいたが、そのうち足音は、はたと止んでしまった。遠ざかるでもなく、九時を過ぎたころ、まさにはたと止んだのである。

 翌朝、夜明けと同時に全員がテントから飛び出した。闇と共に恐怖は去り、暁光が勇気を運んできたのだ。

「夕べの足音何だったんだろうな。その辺に遭難者でも倒れていないか。探してみよう」

 しかし、足音につながる痕跡(こんせき)は何も見つからなかった。

 翌々日、一行は槍ヶ岳から奥穂、西穂を経て上高地に下り、二十余日に及ぶ合宿を終えた。一目も早く下山したいと思っていたが、いざ山を下りると名残り惜しく、二、三日のんびり上高地で過ごしたら、屏風岩にでも登ろう、と何人かの上級生に誘われ、その気になっていた。

 ところがその日、連絡場所の白樺荘に、筆者宛の電報が届いていた。後輩のYが南アルプスの北岳で死んだという報せであった。筆者は上級生たちに促されて、その日のうちに上高地を後にした。屏風岩のクライミングは中止ということになり、皆も翌日には帰京しようということになった。

 数日後、新聞を見て驚愕した。筆者が上級生と登る予定であった日、屏風岩の一ルンゼで大落石があり、三人のクライマーが死んだのだ。後輩の死が、筆者の命を救ってくれたのである。

 後日わかったことだが、Yが北岳で苦しみ死亡した日と時刻は、筆者が黒部五郎岳のカールで聞いた謎の足音の日時と、まちがいなく一致していた。

 不思議な話はまだ続く。

  追悼登山の思い出と不思議な出来事

 翌年七月下旬、Yの一周忌にあたり北岳に追悼登山することになった。高校の山岳部が主体となって募金を集め、川口市の鋳物工場で記念の鐘を鋳造し、山上へ担ぎ上げた。

 北岳小屋は、水場の関係で稜線から三十分ほど急坂を下った場所にあり、霧の日などには位置がわかりづらい。小屋に辿りつけずに遭難した登山者も少なくなかった。そこでYの死を無駄にしないためにも、遭難防止に役立つ霧鐘を、墓標の代わりに北岳小屋に設置することにしたのである。

 広河原から大樺沢を辿り、八本歯を経て北岳まで、皆で代わる代わる鐘を担いだ。その他土台用のセメント等も担ぎ上げた。

 七月二十五日、設置された鐘を一人ずつ鳴らして、若くして()った山の友を追悼した。

 その日の夜のことである。小屋の近くでキャンプファイアを囲み、Yが好きだった山の唄を歌ったりして過ごした。中日新聞社の取材班がその模様を撮影したりしていた。

 夜の八時を過ぎたころ、稜線からいくつかの明りが下りてくるのが見えた。

「今ごろ来るなんて大丈夫かな」

「さっそく鐘鳴らそうか」

「いや、キャンプファイアの火が見えるはずだから、小屋の位置をまちがうことはないさ」

 ふと気がつくと、明りは十幾つかに増えていた。

「二、三人かと思ったら大パーティーじゃないか」

「こんな時間まで何してたんだろ。怪我人か病人でもいるのかな」

 皆で薪をくべ、火の明りを一層強めた。しばらくして見上げると登山者の懐中電灯と思われる明りの群は見えなくなっていた。近くまで下ってきたらしい。すぐ近くのダケカンバの林の奥からワイワイガヤガヤと人の声が聞こえてきた。やっと辿り着いたようだ。

 だが、いつになっても彼らは到着しなかった。いつしか話し声も止んでいる。

「おい、おい、どうしたんだ。ここまで来て道に迷うわけないよな。火を焚いてるんだし」

 ふと見上げると、幾つもの明りが稜線に向かってジグザグに登っていくではないか。稜線に水場はないし、もちろん山小屋もない。テントを持っているにしても、こんな時間では遭難しかねない。

「おーい。おーい」

 皆で声を限りに叫んだが、明りは上へと上り続け、やがて一つ消え二つ消えして、二、三の明りだけがしばらく揺らいでいたが、やがてそれも見えなくなった。時計はすでに夜の九時を回っていた。

 翌早朝、何人かで稜線まで登った。夕べの登山者たちが気になったからである。だがテントは見当たらず、どこにも人の気配はなかった。

「稜線で霧に巻かれて遭難した人たちの霊と一緒に、Yがオレたちに会いに来たんじゃないか」

 誰かがそういった。ありえないことという思いはあるものの、ほかに説明のつかない不思議な出来事であった。

 こののち筆者は、大学の山岳部を辞め、高校時代の山仲間と山岳会をつくった。山に対する憧れや、より高くより険しきを目指す気持ちは依然強く持っていたものの、そのときの大学山岳部のあり方には馴染めなかった。

 

 山岳会の山仲間たちと厳冬の北岳に登ったのは、昭和四十年の一月のことである。野呂川を遡り、小太郎尾根から小太郎山を経て北岳山頂を目指した。悪天候に悩まされ、雪との格闘の山行であったが、このときも不思議な、というより感動的な体験をした。

 頂上にアタックした日も雪が舞っていた。山頂が近づくにつれて風雪が激しくなり、もはや登頂は諦めて撤退しようとしたとき、突如雲が切れて前方の空に窓が開き、そこから陽光が筋となって降り注いだ。するとその窓の中に、大きな光の十字が現われたのだ。依然として雪が舞っているのにである。それは、ほんの数分間のことであったが、しばし皆で、神秘的な自然現象に我を忘れたのであった。

 そんなわけで北岳は、筆者にとって、幾つもの意味で特別な山なのである。

 なお北岳小屋は現在、稜線上に移されて北岳山荘となっている。霧鐘も移されて山荘の傍らに今もある。信仰はされても霊山として賑わい栄えることはなかった。

 さて、歴史に戻ろう。

 白根三山が古くより知られていたことは初めに記したが、『平家物語』にも登場する。巻十の「海道下り」の場面だ。

「宇津の山辺の(つた)の道、心細くも打越えて、手越(てごし)を過ぎて行けば、北に遠ざかつて雪白き山あり。問へば甲斐の白峰といふ。その時三位(さんみ)の中将落つる涙を抑へつつ、惜しからぬ命なれども今日(まで)ぞつれなき甲斐の白根をも見つ」
 三位の中将すなわち平重衡(しげひら)が、一の谷の戦いに敗れ、捕えられて鎌倉に護送される途中、駿河の手越(静岡市)に差しかかったときの場面である。重衡は源平合戦で活躍した平家方の名だたる剛勇。存分に戦い、武運つたなく敗れはしたが、もはや思い残すことはない、と思いつつも、遥か甲斐の白峰を見て涙したというのだ。

 もっとも深田久弥によれば、手越を過ぎたあたりで富士山の西側の遥か彼方に見えるのは赤石岳や悪沢(わるさわ)岳で、白根三山は見えないという(『日本百名山』)。

 鎌倉時代に成立した京都と鎌倉間の紀行である『海道記』にも、

「手越(たち)て野辺をはるばると(すぎ)、……北に遠さかりて雪白き山あり、とへは甲斐の白峯といふ」
 とあるが、これら古書に記された甲斐の白根は、甲斐と駿河の国境に聳える富士山のことかも知れない、と深田久弥はいう。

 だが富士山は『万葉集』の昔からよく知られていた。ことに東海道を往き来する旅人は、誰もが知っていた名山だ。やはり甲斐の山根は、現在の北岳・白根三山ではないにしろ、南アルプスの峰々を指したものであろう。

 江戸時代に入ると、白根三山ははっきりと認識され、そのうちの最高峰が北岳であることも知られていた。文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、

「南北ニ連ナリテ三峯アリ、其北ノ方最モ高キ者ヲ指シテ今専ラ白峯(しらね)ト称ス」

 と記す。また同書は、白峯すなわち北岳の山頂には黄金で鋳造した仏像が祀ってあると記し、峰の下方には瓢池(ひさごいけ)があって、そこに米粒を投げ入れる風習があったことを伝える。

 瓢池は、白根御池のことである。広河原から北岳へ登る道は、途中で大樺沢に沿って登る道と、右手の山腹を登って白根御池を経由する巻道とに(わか)れる。今は大樺沢沿いの道が整備されて、こちらを登る人が多いが、かつては白根御池経由の道がメインであった。

 白根御池は雨乞い信仰の対象となっていたのであろう。米粒を投げ入れたのは、稲作にとって最も重要な水の恵みを祈るためであった。『芦安村語』によれば、国中(くになか)地方の農民は、日照りが続くと、講を組んで御池に登り、牛馬の骨などを投げ入れて雨乞いをしたという。

 また同誌は、寛政七年(一七九五)には北岳の山頂に白根大日如来が安置されていたことを記す。

 黄金の仏像はともかく、江戸時代には山岳信仰の霊場として登拝する人もいたのであろう。山頂東壁は、バットレスと呼ばれる巨大な岩稜になっており、磐座(いわくら)として信仰の対象になっていたと思われる。山岳修験の行場ともなったであろう。

 だが残念なことに、北岳の山岳修験の霊場としての歴史は、ほとんど不明である。山頂に仏像を安置したのが誰なのかも、また近世のこととしてもいつであったか、まったくわかっていない。山腹や山麓に、道場としての寺社が聞かれた形跡も、今のところ見当たらない。

 古くから知られた山であり、近世には農民が豊かな稔りを願って、また雨乞いのために御池まで登っていたことを思えば、山岳霊場として栄えてもおかしくはない。だが、多くの人が登ることはなかったのであろう。

 北岳の開山として、はっきりしているのは、芦安の行者名取直衛である。明治二年(一八六九)、北岳開山の官許を得た直衛は、独力で登山道を開き、山頂に甲斐ヶ根神社本宮を祀り、御池の下方には同中宮を、さらに夜叉神峠入口に前宮を建てた。

 だが、その後参詣する人は少なく、いつしか荒廃してしまった。

 明治三十五年八月、ウォルター・ウェストンが北岳に登っているが、それぞれ神社の遺構が残るのみであったという。『芦安村誌』によれば、外国人の初登頂者はオーストリアの公使夫妻で、明治三十二年夏、ウェストンの三年前であった。

 それから一世紀を経た今、北岳は登山の山として賑わいを見せている。七月下旬から八月上旬にかけて、山上各所のお花畑は見事である。風に揺れるキタダケキンポウゲやキタダケソウの群落を思い出すたびに、北岳小屋の鐘の音が、筆者の胸の中で響き渡る。

 劔岳――本邦随一の岩の殿堂

  初登頂した山頂に千年以上前の金属器が

 江戸時代中期の医師で、日本各地を旅行し『東西遊記』を著わした橘南谿(たちばななんけい)は、『東遊記』中の「名山論」の項で、

(すで)に天下をめぐりて、公心(こうしん)(もっ)(これ)を論ずるに、山の高きもの富士を第一とす、又余論(よろん)なし」
 と述べ、続く各地の名山を列記したのち、次のようにいう。
「山の姿峨々(たかだか)として嶮岨(けんそ)()のごとくなるは、越中立山の劔峰(けんぽう)に勝れるものなし」
 劔峯というのは劔岳(つるぎだけ)のことである。まさに南谿のいうごとく、劔岳ほど堂々と高く聳え、かつ重畳たる岩峰の山塊は他にない。重厚にして猛々しいその山容を仰ぎ見るとき、古来、「人間登る(あた)わず、人間登るべからず」といわれ畏敬されてきた神聖不可踏の名山であったことが、よくわかる。

 立山は、単独の山ではなく、劔岳をふくめた雄山(おやま)大汝(おおなんじ)、富士の折立(おりたて)真砂(まさご)、浄土、大日、奥大日などの山々の総称である。立山の万葉仮名は「多知夜麻」であり、古くは「たちやまと呼ばれていた。すなわち「太刀山」である。多くの太刀を立てたごとく鋭鋒(えいほう)の連なる劔岳が、立山連峰を象徴する山であったことが、うかがえる。

 劔岳の標高は二九九八メートル。南稜(なんりょう)の岩尾根(別山尾根)は、前劔(まえつるぎ)一服劔(いっぷくつるぎ)劔御前(つるぎごぜん)と続いて別山乗越に至る。今は、弥陀(みだ)ヶ原の室堂(むろどう)から雷鳥沢を登って別山乗越に出、この別山尾根を辿るコースが、一般的な劔岳への登山ルートになっている。

 北稜は、小窓の王、小窓の(あたま)、池ノ平山、大窓の頭などの岩峰を連ね、白兀(しらはげ)赤兀(あかはげ)に続く。

 東側は八ッ峰や源次郎の急峻(きゅうしゅん)な岩尾根が劔沢に向かって落ち込み、その間を長次郎(たん)平蔵谷(へいぞうたん)などの急峻な谷が山上へと突き上げる。

 西側には長大な早月尾根が延び、白萩川と立山川の合流点・馬場島(ばんばじま)へと下っている。ここから早月川へ沿って下れば、山麓の町・上市(かみいち)へ出る。古く立山修験で栄えたところで、別山乗越からのルートが一般化されるまでは、早月尾根から劔岳へ登る登山者も少なくなかった。

 明治に至り、近代アルピニズムの萌芽と共に、日本各地の高峰の登山ルートが開かれていった。また、陸軍参謀本部に所属する陸地測量部(のちの国土地理院)によって、各山々に三角点が置かれ、正確な地形と標高が定まっていった。

 そうしたなか、最後まで人を寄せつけず、未登峰の牙城を守り続けたのが、劔岳であった。

その劔岳の初登頂を目指して、陸地測量部と日本山岳会が(しのぎ)を削った。

 先に登頂に成功したのは、柴崎芳太郎を中心とする陸地測量部のメンバーであった。明治四十年(一九〇七)七月十三日のことである。日本山岳会の吉田孫四郎らが民間登山者として初登頂に成功したのは、それから二年後の明治四十二年七月二十四日であった。

 両隊とも、室堂から別山乗越を越え、劔沢から山頂へ突き上げている急峻な雪渓を辿って登頂した。現在の八ッ峰と源次郎尾根の間の急谷で、両隊を案内したガイド宇治長次郎にちなみ、長次郎谷の名が今に残る。

 さて、陸地測量部の一行が苦労を重ねてついに劔岳頂上を極めたとき、驚くべき事実が判明した。人跡未踏のはずの山頂に、なんと銅製の錫杖(しゃくじょう)の頭と錆びた鉄剣が置かれていたのである。頂上直下の岩窟(がんくつ)からは、炭化した木片も見つかった。ここで火を焚いた人がいた証拠である。

 錫杖頭と鉄剣は、鑑定の結果、平安時代前期のものと判明した。奈良時代後期の可能性もあるという。いずれにせよ、人跡未踏と思われていた、天に聳える岩の殿堂・劔岳を極めた者がいたことは、動かしがたい事実となった。だが、はるか古代に、誰がどのようにして、またどのルートでこの三〇〇〇メートル級の鋭峰に登ったのかは、一切わかっていない。謎を秘めた二点の遺物は、現在富山県立の立山博物館に保管され、国の重要文化財に指定されている。

 なお、柴崎芳太郎と陸地測量部による劔岳登攀(とうはん)の模様は、新田次郎著の小説『劔岳・点の記』に詳しい。小説といえば、新田次郎は、当時の記録を詳細に調べ、劔岳にも登頂して苦労の末にこのノンフィクション・ノベルを完成させた。

 新田次郎が劔岳に登ったのは、昭和五十一年九月上旬のことだが、出発前にあれこれ劔岳について質問されたのを憶えている。山から帰って間もなくお会いしたときには、真黒に陽やけされていたが、かなり疲れた様子で、「帰ってから痔の具合が悪くてまいった」と、笑いながら話された。このころ筆者は、編集者として新田次郎の大作『武田信玄』を担当しており、月に一度は新田家におじゃましていた。どちらかといえば気難かしい先生に、しばしば飲みに連れて行ってもらったり、取材行を共にするなど気に入ってもらえたのは、ひとえに筆者が「山男」であったからであろうと、思っている。

  剱岳にかけた青春の思い出と傷痕

 筆者が、はじめて劔岳の頂きに立ったのは、昭和三十七年の夏であった。

 大学山岳部の新人であった筆者は、六〇キロの荷を背負い、弥陀ヶ原西端山麓の千寿ヶ原から称名川に沿って歩き、称名滝のすぐ手前から八丁坂(称名坂)を喘ぎながら登った。入山第一日目、最もきついところである。弘法平まで出ると、あとは比較的なだらかな弥陀ヶ原を辿り、第一日目は天狗平(てんぐだいら)に泊った。

 今は、富山地鉄の立山駅(以前は千寿ヶ原駅)から、美女平まで一気にケーブルで行き、バスに乗り替えて弥陀ヶ原の風景を楽しみながら室堂まで僅か一時間である。昭和三十七年には、すでにケーブルもあったが、あえて千寿ヶ原から歩いて入山するのが、山岳部の伝統であった。

 二日目は、弥陀ヶ原を足元だけを見て辿り、室堂から雷鳥沢を別山乗越へと登った。弥陀ヶ原が、高層湿原のお花畑と池塘(ちとう)の点在する、美しい高原だと意識したのは、翌年以降のことであった。雷鳥沢の登りは真底(しんそこ)きつかった。別山乗越から仰ぐ劔岳には、ただただ圧倒された。というより、今日はもうこれ以上登らなくてもいいという安堵感が先に立っていた。乗越から劔沢を下り、真砂沢出合にテントを張ったときには、すでに陽が傾きかけていた。

 真砂沢出合をべースキャンプに、十日間ほど岩登りの合宿である。その間に、 源次郎尾根や八ッ峰、チンネなどの岩を登り、何度か劔岳のピークにも立った。帰路は、平蔵谷や長次郎谷、三ノ窓の雪渓などをグリセードで一気に滑り下りた。別山尾根も辿った。

 岩登り合宿のあとは、上高地までの縦走である。

 真砂沢出合を撤収する日、なぜか劔岳に後髪をひかれる思いがあった。真砂岳からも雄山からも、また浄土山からも、振り返る劔岳は堂々と雄々しく、筆者の胸を揺さぶり続けた。

 翌年、筆者は大学山岳部を退部し、高校時代の山仲間と山岳会をつくったが、夏の劔岳へはその後も二年間続けて通った。真砂沢出合にテントを張り、岩登りに夢中になった。合宿の中ごろに、一日岩登りを休んで、内蔵助平に遊びに行くのが楽しみであった。まだ内蔵助平に登山道も小屋もないころで、ハシゴ(だん)遡行(そこう)し、ハシゴ谷乗越から森の中を下って内蔵助平へと出なければならなかった。蛇行する小川と草原の、夢のような場所であった。

 筆者の左太股には、三センチほどの傷痕がかなりはっきりと、いまでも残っている。昭和三十八年の夏、平蔵谷をグリセードで下降中、転倒してピッケルを刺した痕である。わが青春の、いわば記念すべき傷痕である。

 筆者が劔岳を間近に仰ぎ見た最後は、平成二年(一九九〇)八月下旬のことであった。新田次郎の『劔岳・点の記』をしのぶ山旅であった。筆者は、四年に一度スイスを訪れ、それ以外の年は国内の新田次郎の作品の舞台を訪ねる「スイス会」の幹事をしている。このときも、夫人の藤原ていさんや、親しかった人たちと一緒であった。立山の主峰雄山に登り、別山乗越まで辿って雷鳥沢を下ったが、別山あたりから見る劔岳は圧巻であった。思いは若き日に飛んで、晩夏の陽光のもと、しばし胸を熱くしてその雄姿を見続けていた。

  立山信仰の広がりと最奥の岩峰劔岳の関係

 さて、歴史に話を戻そう。

 先にも述べたように、古くは劔岳をふくむ立山連峰の総称が「立山(たちやま)」であった。『万葉集』巻十七に、大伴池主(おおとものいけぬし)が詠んだ「立山の賦」の長歌が載る。一部を引用してみよう。

(あま)そそり 高き立山(たちやま) 冬夏と ()くこともなく 白たへに 雪はふり置きて (いにしへ)ゆ あり来にければ (こご)しかも (いは)(かむ)さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども(あや)し峯(だか)み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内(かふち)に 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居たなびき……」

 これはどう見ても劔岳の描写だ。池主は越中(じょう)として赴任し、大伴家持(やかもち)とも親しかった万葉歌人である。「巌の神さび」である劔岳に登らないまでも、間近に飽かず仰ぎ見た様子がうかがえる。

 立山(たてやま)が、信仰の山として、奈良時代にはすでに開かれていたことは疑いない。弥陀ヶ原の西端にあたる美女平からは、古く縄文土器や石鏃(せきぞく)が出土したという。生活の場であったはずはないから、おそらく祭祀の場に遺された遺物であったろう。立山連峰を神と仰ぐ、縄文以来の素朴な信仰があったことを、遺物出土の事実が物語っている。

 縄文時代に、すでに人が弥陀ヶ原に登っていたとすれば、当然その最奥部である室堂のあたりまでも行ったはずであり、だとすれば雄山や浄土山にも登った可能性は高い。彼らの目に劔岳はどう映ったであろうか。

 立山が、はっきりと宗教性を帯びた信仰登山の対象となったのは、奈良時代以降のことで、平安時代には神仏習合の信仰登山の基地として、山麓に芦峅(あしくら)寺・岩峅(いわくら)寺が開かれ、やがて立山信仰は広く諸国に知られていく。

 立山の開山説話については、以前「立山」の項で詳述したので(『名山の日本史』に収録)ここでは省くが、原初の立山信仰は、タチヤマ信仰で、劔岳こそが、人を拒絶して天空に聳える神の座であったと思えてならない。

 山岳修験が広がりを見せるなかで、その神の座に挑んだ行者たちが少なからずいたと思われる。そして、頂上に至った者もまた、少なからずいたのではないか。山頂に錫杖と(つるぎ)を奉じたのもその一人であろう。

 タチヤマ、すなわち劔岳が、いつから人山を禁忌する「断ち山」になったのかは、わからない。ともあれ、平安時代より多くの禅定者が立山へ登っていたと思われる。『今昔物語集』に立山の地獄に堕ちた女人と修行僧の説話が語られ、室町時代に成立した謡曲「善知鳥(うとう)」では、立山地獄に彷徨う猟師の亡霊が登場する。

 立山は亡霊の山、地獄の山として有名になるが、地獄を見てみたいと思うのは人情だ。たしかに室堂の近くには地獄谷があり、荒寥とした地に硫黄や熱湯が今も吹き出している。いっぽうその周辺は、高山植物が咲き乱れる、まさに浄土でもある。

 中世後期にはすでに、禅定者の宿泊施設として室堂が建てられていた。日本最古の山小屋といえる。そして江戸時代に入ると、芦峅寺・岩峅寺の御師(おし)たちの活躍によって、夏山シーズンには多くの登山者で賑わうようになる。

 そのころになると劔岳は、登山の対象ではなく遥拝するだけの神聖不可踏の山となったようだ。立山地獄を象徴する死の山であり、冥界(めいかい)として位置づけられたと思われる。

  立山曼荼羅と不動明王の磨崖仏

 江戸時代、芦峅寺・岩峅寺は共に多くの坊を持ち、そこに所属する衆徒、すなわち御師たちが、全国各地に布教して信仰を広め、立山登山の禅定者たちを(いざな)った。江戸後期には芦峅寺三十三坊、岩峅寺二十四坊があった。

 御師たちは「立山御絵伝」あるいは「立山絵図」と呼ばれる掛図(「立山曼荼羅(まんだら)」)を持ち歩き、その絵解きをして立山の地獄説話や種々の伝説を語り、立山に登れば堕地獄の罪も許されると説いた。

 立山曼荼羅には様々なものがあったが、基本パターンはほぼ同じだ。中央上部に雄山・大汝などの立山が描かれ、右端に浄土山、左に別山、さらに左奥に劔岳が描かれていた。浄土山の上空には日輪、劔岳の上には月輪が描かれ、浄土と地獄を対照させる。

 すなわち、浄土山には三尊二十五菩薩の来迎(らいごう)を描き、劔岳は針の山で、鬼に追われた亡者どもがよじ登る図を描く。まさに凄惨な図柄で、劔岳が死霊の山であることがよくわかる。劔岳の大窓雪渓を古く「シカノハナ」といったというが、これは死花(しか)ばな、すなわち死者に捧げる造花を意味する。夏なお残る雪渓を、白い死花に見立てたものだろうか。

 別山の山頂に白衣の行者が劔岳に向かって脆拝(きはい)する姿が描かれている図柄も多い。別山が劔岳遥拝の場であったのであろう。あるいは禅定者がここで劔岳に祈れば、堕地獄の罪をまぬかれると説いたものだろうか。

遥拝所といえば、劔岳南稜(別山尾根)の劔御前も遥拝の場であった。劔御前は、本来は劔岳の尊称だが、この山が劔御前(劔岳)を遥拝する場であったため、いつしか山名となってしまったのだという。

 近世になって劔岳は、地獄の象徴であり死者の山として定着したが、もともとは山そのものが不動明王として遥拝されていた。

 劔岳山麓の大岩川の上流に、「大岩の不動さん」として知られる古刹・日石寺(にっせきじ)(上市町大岩)がある。本尊は岩に彫られた巨大な不動明王像だ。約三・五メートルの不動明王坐像を中央に、向って阿弥陀如来坐像と矜羯羅(こんがら)童子立像、左に僧形坐像と制吒迦(せいたか)童子立像が、背後の大岩壁に刻まれている。

 寺伝によれば、天平(てんぴょう)年中(七二九〜四九)に行基(ぎょうき)が彫刻したと伝えるが、もちろん伝説である。この磨崖仏は、十一世紀から十二世紀にかけて彫刻されたと推定され、磨崖仏背後の京ヶ峯から出土した「仁安(にあん)二年(一一六七)」銘の経筒との関連が指摘されている。

 磨崖仏は現在、国の重要文化財に指定されているが、それにしても、平安時代、よくぞこのような山中の岩壁に、不動明王を現出させたものだ。彫刻者を知るすべはもはやないが、古人(いにしえびと)の信仰心と根気には感心せざるをえない。

 古代の登頂者にせよ、磨崖仏の彫刻者にせよ、劔岳は謎とロマンに満ちている。弥陀ヶ原にバスが走り、雄山直下の(いち)(こし)まで黒四ダムからケーブル乗り継ぎで登れるようになったとはいえ、劔岳だけは、昔に変わらぬ岩の殿堂を誇っている。

 登山道が開かれてはいるが、どのルートもかなりの体力と、岩場ではそれなりの技術が必要だ。筆者もすでに老齢に達したが、いま一度頂きに立ちたいという思いは強く、これからもその思いが消えることはないであろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/12/25

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高橋 千劔破

タカハシ チハヤ
たかはし ちはや 文芸評論家 1943年1月、東京都生まれ 歴史雑誌の編集長などを経て、著述業。主な著作は、「江戸の旅人」、「名山の日本史」、「花鳥風月の日本史」ほか。

掲載作は、2003年12月号から、2007年5月号まで、月刊「MOKU」連載が初出、後に、まとめられた「名山の文化史」(2007年9月、河出書房新社刊)に所収され、それより、抄録。

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