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虫の日本史

目次

 一 虫()ずる国日本

  神武天皇が号したトンボの国日本

 私たちがふだん目にする最も小さな生き物は、虫である。だが、小さな命であるからこそ失われやすい。子供のころにはその辺にいくらでもいたいろいろな虫が、今や日常的環境からはほとんど失われてしまった。

 秋になるとあれほど群れ飛んでいた赤蜻蛉(あかとんぼ)は、どこへ行ってしまったのだろう。蛍はもちろんのこと、蝶や蛾さえもあまりみかけなくなった。甲虫(かぶとむし)鍬形虫(くわがたむし)はデパートで売っていることが当たり前になった。街路樹で鳴く外来種の青松虫(あおまつむし)を除けば、秋の虫たちの()を聞くことも、都会ではまれとなった。

 中学生のころ、チョウの採集に夢中になった記憶が懐かしい。捕虫網を持って野山を駆け回った。やがて観察や飼育に凝りだし、冬には(えのき)の根元の落葉の裏からオオムラサキの幼虫を探し出したり、(はん)の木の樹皮にミドリシジミの卵を見つけたり、馬兜鈴(うまのすずくさ)を庭に植えてジャコウアゲハを飼育したりした。やがてゼフィルス類に興味が絞られ、最後はミドリシジミに夢中になった。もう四十年以上も前のことである。

 かつてホタルが飛び、ウマノスズクサが群生していた小川の岸辺は、コンクリートで護岸され金網のフェンスに遮られている。小鮒(こぶな)を釣った小川は単なる排水路と化した。人間の都合で自然を改変してきた結果、チョウなどが生息できる環境ではなくなってしまったのだ。

 たかが虫、という人は多い。だが虫も生息できぬような環境が人間にとっていいはずはない。草木の受粉は多くの場合虫たちによってなされる。人間にとって害虫だからといって、必ずしも〝地球〟という生命の維持に無用というわけではない。

 日本人は古来、虫と深くかかわってきた世界にまれな虫()ずる民族である。

 日本の国を古くは「アキツシマ」(津島、秋津洲、蜻蛉洲)といった。アキツ(アキズ))は蜻蛉(とんぼ)の古名である。なぜアキツシマなのかといえば、『日本書紀』巻第三の以下の記事による。

 神武(じんむ)橿原(かしはら)に即位して三十一年目の初夏のこと。国内巡見のため腋上(わきがみ)嗛間丘(ほほのまのおか)(今の奈良県御所市東北部の国見山とされる)に登った神武が、

妍哉乎(あなにや)、国を()つること。内木綿(うつゆう)真迮(まさ)き国と(いえど)も、(なお)蜻蛉(あきつ)臀呫(となめ)の如くにあるかな」
 と(のたま)った。なんとすばらしい国を得たことか、狭い国ではあるが、蜻蛉(トンボ)臀呫(となめ)(交尾)して飛んでいるような山や丘の連なりだ、と感嘆したのだ。このことによって「始めて秋津洲の()()り」、すなわち、これ以後大和国(やまとのくに)(日本)をアキツシマというようになったのだというのである。

 トンボは日本列島で約二百種が確認されている。ヤンマやシオカラトンボ、ムギワラトンボ、イトトンボ、オハグロトンボ、アカトンボなど馴染(なじ)みが深い。盛夏のころに飛び交いはじめ、秋になるとアカトンボの群れが空を覆う。そのトンボを日本人は古くから益虫として親しんできた。盆のころに突如としてわき出ずるがごとく飛来するところから先祖の霊が姿を変えてやって来ると考え、捕らえたり殺したりしてはいけないとしてきた。東北地方に伝わる蜻蛉長者(だんぶりちょうじゃ)の昔話にみるごとく、人に幸福をもたらす虫でもあった。夏から秋にかけて出現し、稲の害虫などを捕食するトンボを、古人(いにしえびと)は先祖の霊とみたり、幸せを運ぶ虫と考えて大切にしてきたのだ。

 先年(一九九六)出雲の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡(島根県大原郡加茂町)で三十九個の銅鐸(どうたく)が発見され、古代史学界を揺るがした。そのうち六個の銅鐸に絵が描かれており、なかにトンボの絵があった。これまで絵画銅鐸は全国で約五十個が確認されているが、そのなかにもトンボは登場する。銅鐸が作られたのは紀元前一世紀から紀元一世紀の約二百年の間、弥生(やよい)式土器の時代である。稲作を中心とする農耕の(たみ)・弥生人にとって、ウンカやブヨ、蚊といった害虫を捕食するトンボは、すでに大切な益虫であったのだ。

 ところで、古代人たちはトンボのどの種類をもってアキツと呼んだのであろうか。

 日本に生息するトンボで最も個体数の多いのがアカトンボである。アキアカネ、ナツアカネ、マユタテアカネなどだが、九州などの西の方では六月ごろから飛びはじめ、関東地方でも十一月ごろまで見られる。東京周辺でもつい最近まで、秋になると数え切れないほどのアカトンボが飛び交っていた。飛鳥や奈良の古都にもアカトンボはよく似合う。アキツはおそらくアカトンボであったに違いない。

 いや、弥生人は農耕民族ではあるが、戦闘的でもあった。「魏志倭人伝」によれば、二世紀後半の倭国は戦乱状態(倭国大乱)にあったという。神武も東征し、長髄彦(ながすねひこ)軍との戦闘に勝利して大和を手に入れたのだ。だとするとトンボのなかで最大のオニヤンマこそアキツにふさわしい。低空を一直線に、ジジっと(はね)を鳴らしながら()び、素早く小さな虫に襲いかかり、悠然と飛び去る(さま)は、まさにトンボの王者である――。

 いずれにせよトンボは、古代から日本人にとって馴染みの深い虫であったのだ。それが、ここ三、四十年の間にすっかり減ってしまったのは、農薬や殺虫剤のためだ。殺虫剤は害虫だけでなく益虫も殺す。それに、トンボの幼虫ヤゴが生息できる池や沼が、汚染されたり埋め立てられたりして少なくなってしまった。池で子供がおぼれるからと金網で囲い、「遊ぶべからず」の立札を立て、はてはゴミ捨て場となったりして結局は埋め立てられていった例を、いくつもみてきた。それは現代人が、自らの歴史や文化を、切り捨てたに等しい。四季折々に水辺を彩る花や水草、池に集う水鳥、そこを生息地としているトンボや虫たち、そうした生き物たちから私たち日本人は、はかりしれない精神的な恵みを受けてきたのだ。

  虫撰みと物のあわれ

 子供は本来、虫が大好きである。遠い先祖からのDNAのゆえだろうか。筆者の二人の子供も幼児期には喜んでイナゴを採ったり食べたりした。バッタやカマキリを捕まえたり、トンボやセミを追ったりした。それがいつのころからか、イナゴを気持ち悪がって食べなくなり、部屋に小さな蛾や蜘蛛(くも)、ガガンボなどが一匹でもいようものなら大騒ぎするようになった。セミやチョウにもさほど興味を示さなくなった。成長過程のどこかで、虫愛ずる日本人のDNA封印されてしまったのだ。生活様式だけでなく、精神(こころ)までも欧米化されていっているのだろうか。

 ちなみに奥本大三郎氏(フランス文学者。昆虫のエッセイストとしても著名)によれば、欧米の子供たちはセミやトンボ捕りに夢中になったりはしない。セミの鳴き声は〝騒音〟でしかなく、トンボは多くの場合不吉な虫であり、()み嫌われる。ホタルの光に感慨をもよおしたり、虫の鳴き声を愛でるなどということもほとんどあり得ないという。

 対して日本人は大昔から虫と親しみ、虫と遊び、虫を愛でてきた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、縁日での虫売り風景に心を()かれ、虫の声を愛ずる日本人の「非常に上品な、また芸術的な美的な生活」に驚きと深い関心を示した。ハーンは「虫の音楽家」のなかで次のようにいう。

「(西洋人は)……虫がそれぞれ特有の声で珍重されているのだと聞いたら、きっと不審におもうにちがいない。そういう連中に、ある非常に洗練された芸術的な国民の美的生活のなかでは、これらの鳴虫が、ちょうどわれわれのツグミや、紅雀や、ナイティンゲール、カナリアなどという鳴禽(めいきん)が、西欧文化のなかで占めている位置にくらべて、それにまさるとも劣らぬ位置を占めているのだということを納得させるのは、なかなか容易なわざではあるまい」
 ハーンは日本人以上に、日本の文化や日本人の感性を深く理解した人であった。だが虫の音を騒音と聞く大多数の欧米人にとって、それを愛で、詩歌や物語などの文学また絵画や彫刻など美術の対象としてもみる日本人の文化的感性は、理解しがたいであろう。日本人はまた、病葉(わくらば)に美を見出し、絵に描いたり工芸品に写したりする。虫喰(むしくい)、あるいは虫喰手(むしくいで)()う陶磁器がある。器の口縁に小さな(うわぐすり)剥落(はくらく)ある(みん)末の焼物で、茶人はこれを風情(ふぜい)とみて珍重し、のちには人工的に作ったりした。病葉や口縁の欠けた茶碗を(おもむき)があって美しいとみる感性も、欧米人には理解の遠いものであろう。

 さて、『万葉集』巻十に、すでに虫を愛ずる歌が登場する。

庭草に村雨(むらさめ)ふりてこほろぎの

  鳴く声きけば秋づきにけり

蟋蟀(こおろぎ)の声に秋を(さと)り、

影草(かげくさ)の生ひたる屋外(やと)暮陰(ゆうかげ)

  鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも

 と、その鳴き()を愛でるのである。

 虫を捕まえてきて虫籠(むしかご)に飼い、その鳴き音を楽しむ、といったことを行うようになったのは、平安時代になってかららしい。『源氏物語』の「野分」の巻に、中宮が童女らを庭におろして、虫籠を持って虫狩りするさまが描かれている。殿上人が嵯峨野(さがの)あたりへ逍遥(しょうよう)して虫を捕らえ虫籠に入れて内裏に奉るという「虫撰(むしえら)み」という行事もあった。『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』によれば、嘉保(かほう)二年(一〇九五)八月十二日、僮僕(どうぼく)をちらして虫を獲らせ、斑濃(むらご)の糸で作った虫籠に入れ、萩や女郎花(おみなえし)などの秋の花で飾って内裏に献上し、殿上人たちは獲ってきた虫の音を楽しみながら盃酌(はいしゃく)・朗詠を行ったという。『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』によれば、この「虫撰み」は堀河天皇のころ(一〇八六~一一〇七)に始められたという。

 平安時代の貴族たちが愛でた虫は、鈴虫(すずむし)松虫(まつむし)螽斯(きりぎりす)(いまのコオロギ)、機織(はたおり)(いまのキリギリス)、蓑虫(みのむし)(いまのカネタタキ)などである。

 ところで、小鳥は春から初夏にかけて声高らかに(さえず)る。萌え出ずる新しい生命の息吹きを感じさせる明るく希望に満ちた歌声だ。だが虫の音は繊細で物のあわれを感じさせる。去り行く季節を象徴して寂しく、「物想う」人の心に()み入るのである。小鳥が夜明けと同時に鳴きはじめるのに対し、虫は夕闇の訪れと共に鳴きはじめる。

 ある夜ふと虫の音を耳にとめて秋が訪れたことを覚り、また秋深まっても時折チロチロと鳴く虫の声に物のあわれを感じたとしたら、間違いなく日本人である。

  虫売りを商売にした江戸っ子

 上流階級の優雅な趣味であった虫を楽しむ習慣が、庶民の間にも浸透するのは、江戸時代になってからだ。江戸時代の市民は、生活の向上に伴い、教育レベルも高いものがあり、町人文化を現出させる。平安時代には王朝貴族の習慣や行事、遊びであったことの多くを、江戸の庶民たちは自分たちの趣味や楽しみに取り入れる。

 鳴く虫を楽しむ習わしは、初め上方(かみがた)流行(はや)った。京の公家に受け継がれてきた風習をまねたのであろう。やがて江戸の中期には江戸の市民たちにも広がった。江戸っ子たちは、鳴く虫の名所に出かけて「虫聞き」を楽しんだり、捕まえた虫を飼って声の優劣を競ったり、また虫を合わせて歌を競う「虫合せ」に興じるようになる。

 松永貞徳の『貞徳文集』にも、夕方虫吹(むしふ)きに出かけ、行灯(あんどん)提灯(ちょうちん)に集まる機織(きりぎりす)や松虫、(こおろぎ)を捕まえる話が出てくる。虫吹きというのは虫の採集方法で、竹筒の上方に(しゃ)の布を張り、下方を虫にかぶせて獲る。虫は筒の上に向かって()い上がってくるが、そこで筒先を虫籠や布袋に向けて紗の上から息を吹くと、虫が捕まるという寸法である。

東都歳時記(とうとさいじき)』によれば、江戸には道灌山(どうかんやま)や御茶ノ水、根岸の里など、十一カ所の虫聞きの名所があったという。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』にも「道灌山聴虫」の図がある。丘上に茣蓙(ござ)を敷いて月の出をみながら虫を聞く三人の男性、簡単な酒肴(しゅこう)も用意されている。丘の下では幼児が虫籠を差し上げ、それを母親らしい女性と女中だろうか、二人の女性が歩きながらみているというほほ笑ましい図だ。

 虫の音を聞きに出かけたり、捕ってきたりするのは面倒だ。だが虫の音は楽しみたい。そんな連中は手っ取り早く虫を買う。江戸の中期には虫売りが商売として成り立っていた。

 明治期の百科事典『日本社会事彙(じい)』によれば、虫売りのはじめは越後出身のおでん屋忠蔵で、寛政(かんせい)年間(一七八九~一八〇一)のことという。忠蔵は神田に住んでいたが、おでんの行商のかたわら、根岸の里でスズムシを獲ってきて楽しんでいた。するとあるとき、その鳴き音を聞いた人が金を出すから譲ってくれという。そこで忠蔵は、虫売りが商売になることを知り、スズムシを獲ってきては売るようになった。そのうちおでん屋はやめて、虫売り専門になったが、商売繁昌(はんじょう)して虫獲りが間に合わない。ところが、うまい具合にスズムシの人工飼育に成功した者が現れた。青山に住んでいた青山下野守(しもつけのかみ)の家臣で桐山某という者である、忠蔵は桐山から虫を仕入れて売るようになった。また忠蔵の協力で桐山は、邯鄲(かんたん)や松虫、轡虫(くつわむし)などの養殖にも成功した。

 すると今度はまねする者が現れた。足袋(たび)屋の安兵衛である。安兵衛は虫を容れる容器に工夫をこらした。それまでの虫容れは、(つぼ)や箱であった。やがて安兵衛は、本所の大名亀井家の家臣・近藤某を知り、近藤が作った鳥籠に似せた小ぎれいな虫籠に虫を入れて売るようになった。虫売りますます繁昌である。忠蔵は近郊から虫を買いあつめ、飼育をさせて(おろし)専門の虫問屋の元締となった。一方、安兵衛は小僧に虫籠の荷をかつがせ、派手な衣装に粋な声で虫を売り歩き、忠蔵と提携して売り方の元締となった。

 忠蔵の跡目を継いだのは、下谷御徒町(したやおかちまち)に住む山崎清次郎であった。清次郎は虫売りたち三十六人と結び、相模(さがみ)大山の石尊を信仰し定期的に(もう)でる(こう)を結成して、「虫講」として株仲間をつくって江戸の虫売りを独占した。もはや立派な独占企業である。だが、派手にやりすぎたのであろう。水野忠邦の天保(てんぽう)の改革に引っかかり、株仲間三十六人衆は解散させられてしまった。

 しかし虫売りがいなくなったわけではない。昔ながらの個人の行商スタイルに戻っただけで、江戸の町角には一年中虫売りがいて、虫を鳴かせていた。虫売りたちは、野外の虫より早く鳴く虫の飼育に成功し、また季節はずれに虫を生かして鳴かせ、売ったのである。江戸後期の風俗を記した『守貞(もりさだ)漫稿(まんこう)』によれば、鳴く虫だけでなく玉虫(たまむし)(ひぐらし)なども売り、秋より夏や冬のほうが虫売りの商人が多かったという。同書の挿図によれば、虫籠をいくつもつるした屋台が描かれている。売り回るのではなく、いつも同じ路傍に屋台を置いて虫を売っていたのである。

 いまはそんな虫売りの姿もほとんどみかけなくなってしまった。もっとも最近、夏の夜など銀座の町角で風鈴売りや虫売りがいたりして心が和むことがある。ただし酔客相手の商売というところが(かな)しいではないか。

 ラフカディオ・ハーンはいう。

「我々西洋の盲目的進撃的な殖産主義が彼等(虫たち)の楽園を荒廃せしめ、不毛ならしめてしまってから始めて、我々が破壊したそのものの魅力を発見して後悔するであろう」

 二 常世(とこよ)の虫と胡蝶の夢

  古代人を熱狂させた常世の虫

 皇極天皇三年(六四四)、東国で虫を神とあがめる奇妙な新興宗教がはやった。

 皇極三年といえば、大化改新の前年である。蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)父子が天皇をしのいで全権を握り、飛鳥(あすか)に君臨していた時期だ。前年、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲って自殺させた蘇我父子は、まさに栄華の絶頂にあった。蘇我馬子(うまこ)以来、天皇位は蘇我系が占め、蘇我氏が国政の主導権を握り続けてきた。だが翌年、入鹿は宮中の大極殿で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって暗殺され、蝦夷も自殺して、蘇我氏全盛の世は幕を閉じる。

 そうした激動の政局をよそに、そのころ、東国の民衆、さらには都の人士まで、変な虫をあがめ奉っていたのである。『日本書紀』は次のように記す。

「(皇極三年)秋七月(ふみづき)に、東国(あずまのくに)不尽河(ふじのかわ)(富士川)の(ほとり)の人大生部多(おおうべのおお)、虫祭ることを村里(むらさと)の人に(すす)めて(いわ)く、「(これ)常世(とこよ)の神なり。()の神を祭らば、富と(いのち)とを致す」といふ。巫覡等(かんなぎら)(つい)(あざむ)きて、神語(かむこと)()せて曰く、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は(かえ)りて(わか)ゆ」といふ」
 常世の神という虫を祭れば、富を得るだけでなく若返ることができるというのだ。このため、この奇妙な宗教はまたたく間に広がって、人々は家財を投げうってこの宗教に入れあげ、常世の虫を採っては安置し、歌い踊って富と不老を求めた。

 やがて、この新興宗教の流行は都にまで広がったが、財産をつぎこんでも益はなく損する者が多かった。そこで秦河勝(はたのかわかつ)が「大生部多」を捕らえて打ちこらし、以後この奇妙な宗教はなりをひそめたという。

太秦(うずまさ)は神とも神と聞え来る

  常世の神を打ち(きた)ますも

 当時の都人が作った歌である。太秦は秦河勝のこと。「秦河勝は、神の中の神という評判だ、常世の神を打ちこらしたのだから」という意だ。

 秦河勝は六世紀末から七世紀前半にかけて、現在の京都市西郊太秦の辺りに勢力を有した渡来系の有力な氏族である。聖徳太子に近侍して活躍し、蜂岡寺(はちおかでら)(広隆寺)を建立したことで知られる。

 ところで、常世の虫とはいったいどのような虫だったのだろうか。

 「此の虫は、常に(たちばな)の樹に生る。或いは曼椒(ほそき)(山椒)に生る。其の長さ四寸(よき)余り、其の大きさ親指許(おやゆびばかり)。其の色緑にして有黒点(くろまだら)なり。其の(かたち)(もっぱ)養蚕(かいこ)に似れり」(『日本書紀』巻二十四
 これはもう、(まご)うことなき揚羽蝶(あげはちょう)の幼虫だ。私たちがふだん目にするアゲハチョウのうち、ナミアゲハ、クロアゲハ、オナガアゲハなどは、枳殻(からたち)蜜柑(みかん)などの柑橘(かんきつ)類、または山椒などを食樹とする。そのうちナミアゲハ、すなわち最も普通にいるアゲハチョウの幼虫は緑色で、黒の斑紋がある。

 大化改新のころ、なぜ人々がアゲハチョウの幼虫を神と奉ったのかはよくわからない。蝶の幼虫は脱皮を繰り返し、やがて(さなぎ)に姿を変え、最後には華麗な変身をとげて、美しい蝶となって舞う。おそらくその、死と復活を繰り返す変態の神秘と、最後には見事な変身の果て大空に舞う不思議に、復活と富貴の願望を託したのであろう。

 歴史学者の下出積與(しもでせきよ)氏によれば、常世の神は、不老長生と富貴豊穣を基礎とした道教信仰の系譜に連なるものという。

  蝶の意匠と蝶の家紋

 ともあれ、蝶はその姿形も飛翔のさまも優雅で美しく、古くから日本人に親しまれてきた昆虫である。

 花の蜜を吸い、花から花へと飛び交うところから、花とセットになって愛でられることも多かった。中国の唐の時代、蝶は百花の王牡丹(ぼたん)と組み合わされ意匠化された。それは日本にも伝えられ、王朝文化のもとで富貴の美を象徴する模様となった。現在も花札にその名残(なごり)をとどめている。「蝶よ花よ」というのは、富貴な家での、子をいつくしみ愛するさまをいう語だ。

 美術工芸品の装飾としての蝶模様は、すでに正倉院御物中に散見する。唐の様式の影響下にあるものが多いが、平安時代に入ると次第に和風化の傾向をたどり、和鏡の鏡背意匠などに盛んに用いられた。十二世紀に入ると、漆工芸品の模様として登場し、国宝の「蓮唐草蒔絵(まきえ)経箱」(奈良国立博物館)や、重文の「花蝶蒔絵念珠箱」(金剛峯寺(こんごうぶじ))の意匠となった。牛車の飾金具、(よろい)据金物(すえかなもの)、公家や武家の装束などにも用いられた。鎌倉時代にも吉祥文として好まれ、国宝の「寵手」(春日大社)や同じく「蝶螺鈿(らでん)蒔絵手箱」(畠山記念館)等の見事な意匠が知られる。

 平氏の家紋が「蝶紋」であることはよく知られている。もっとも、『源平盛衰記』によれば、源頼朝の鎧の据金物にも蝶紋があしらってあったというから、平氏専用と限ったものではなかったらしい。のちに平氏の末と称する諸家が好んで蝶紋を用い、平氏と蝶紋は切り離せぬものとなった。

 戦国時代、天下制覇を視野に入れた織田信長は、にわかに平氏を称し、蝶紋を用い始めた。源平政権交代思想に基づき、源氏である足利氏の次に政権を担当するのは、平氏である自分だというのである。ちなみに、やがて三河の土豪の出である松平元康が、徳川家康と改名して源氏を名乗るようになる。信長のあとの天下を意識したからにほかならない。

 ともあれ、信長が使用したこともあって蝶紋は好んで武将たちに用いられた。『寛政重修諸家譜』によれば、江戸時代の大名・旗本で蝶紋を用いた家は二百数十家に及ぶ。その意匠・図案も六十種を超え、動物紋系の紋章の中でおそらく最多である。

  胡蝶の夢と胡蝶の舞

 ところで、蝶の異称に「胡蝶」がある。古くは「蝴蝶」とも書いた。

荘子(そうじ)』のなかの「斉物論」にある「胡蝶の夢」の故事はよく知られている。

 昔者、荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也、自喩適志与、不知周也。俄而覚、則蘧蘧(きょきょ)然周也、不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
 荘子が、胡蝶になった夢をみた。だが、夢から覚めて後、自分が夢で胡蝶になったのか、胡蝶がいま夢の中で自分になっているのか疑った、というのである。この故事から「胡蝶の夢」は、夢と現実が定かでないこと、またその区別を超越することの(たと)えとなり、さらに人生のはかないことの(たと)えとなった。

「胡蝶の夢の百年目」というのは、晩年に振り返って人生を夢のように思うこと、また死期が近づいたことを(さと)ってはじめて、驚いて無為の人生を後悔することをいう。

ももとせの花にやどりて過してき

  この世はてふの夢にぞ有ける        大江匡房

ちる花や胡蝶の夢の百年目           松永貞徳

 雅楽、舞楽の曲に「胡蝶」というのがある。「胡蝶楽(こちょうらく)」ともいい、単に「蝶」ともいう。四人で踊る童舞(わらべまい)で、四人の子供が、山吹の花をつけた天冠をかぶり、蝶の紋のついた(はかま)(うわぎ)を身にまとい、背中に蝶の羽をかたどった飾りを背負い、右手に山吹の花を持って舞う。蝶に扮した童たちの、かわいらしい舞だ。

 この「胡蝶」は、平安時代の延喜(えんぎ)六年(九〇六)あるいは同八年に、宇多(うだ)上皇が子供の相撲を見物したとき、楽人の藤原忠房が作曲し、敦実(あつみ)親王が舞いをつけたものという。敦実親王は宇多上皇の子で、雅楽に()け琵琶の名手であったといわれる人物である。この二人はまた、「延喜楽」も作曲・作舞したという。この曲もまた、舞人たちが蝶の飛び交う(さま)を表現して、手を振りながら輪をつくり舞台をくるくると舞い回る。

 なお「胡蝶」の番舞(つがいまい)に「迦稜頻(かりょうびん)」がある。天冠をつけ鳥の翼を背につけ、「胡蝶」同様四人の子供たちが舞う。仏教の法会などで、この二曲は並んで舞われることが多かった。

『源氏物語』の「胡蝶」の詞章には、舞楽の「胡蝶」と「迦陵頻」が出てくる。紫式部もおそらく何回かは、このかわいらしい舞をみたに違いない。

 時代は下るが、能楽にも「胡蝶」というのがある。「舟弁慶(ふなべんけい)」や「羅生門」「鐘巻(かねまき)」(「道成寺」の原作)などを作った観世信光(のぶみつ)(一四三五~一五一六)の作だ。

 シテは胡蝶の精である。ワキの旅僧が古い都の跡を訪ね、ちょうどいまを盛りと咲く梅の花を眺めている。すると一人の女性が現れ、私は四季に咲く花と戯れることができるのに、早春に咲く梅の花にだけはなじめない、と嘆く。前ジテのこの女性は胡蝶の精である。女性は、旅の僧の法力によって成仏することを願う。そこでその夜、僧が回向をすると、夢の中に後ジテの胡蝶の精が現れ、御仏(みほとけ)のおかげで梅の花とも遊べるようになりましたと喜び、胡蝶の舞を舞う。

 浄瑠璃の「寿の門松」には、次のような科白(せりふ)が出てくる。

 「春に育つも花誘ふ。てふはなたねのあぢしらず、なたねのてふは花しらず、知られず 知らぬ仲なれば……」

「蝶は菜種の味知らず、菜種の蝶は花知らず」というのは、青虫のころの蝶は菜の花の美しさを知らず、青虫が蝶になるころには菜の花が散って実になってしまうので、菜の花は蝶を知らないという意。すなわち、切っても切れない間柄のようにみえて、その実相手の其の姿がみえないことをいう。

 ところで、ここでいう蝶は、紋白蝶(もんしろちょう)のことだ。モンシロチョウは、アブラナ科の植物を食草として育ち、(さなぎ)で越冬したものが桜の開花のころにまず飛び始める。菜の花やキャベツが大好物で、アメリカでは「キャベッジ・ホワイト」あるいは「キャベッジ・バタフライ」と呼ぶ。キャベツの葉裏についている青虫がその幼虫だ。

 ところで、昔はキャベツを買うと必ずといっていいほど青虫がついていたが、近ごろはめったにお目に掛からなくなった。殺虫剤の散布だけでなく、土中にも薬品を混入し青虫がつかないキャベツを育てているのだという。そんなものが人の身体にいいわけがない。農家の人は、自家で食べる分だけは別に育てて、それは相変わらずの虫食い野菜であるという。モンシロチョウの受難というだけでなく、なんとも恐ろしい話ではないか。

 筆者は少年時代、蝶の採集に夢中になったが、モンシロチョウで気が付いたことがある。十頭(なぜか蝶は一頭二頭と数える)並べて標本を作ると、すべての個体の紋様がそれぞれ異なっていたのだ。白地に黒い紋が一つのもの、二つのもの、前翅にはなくて後翅にだけあるもの、無紋のもの、裏に紋があるもの、等々である。それが近似種のスジグロチョウと混じり合って飛び交っているのだ。見た目にはすべてが白いモンシロチョウに見えるが、それぞれ個性があってなかなかに味わいが深いのである。

  オオムラサキと凍蝶

 日本の国蝶はオオムラサキである。といっても昔からこの蝶が国を代表する蝶であったというわけではない。定められたのは昭和三十二年(一九五七)のことだ。日本の固有種ではなく朝鮮半島や台湾、中国の一部にも分布するが、日本産のタテハチョウ科の仲間では最大種で、世界でも有数の大型タテハである。

 年一回、夏に飛翔し、オスの深みのある紫の鱗翅(りんし)は見事である。メスはオスより一回り大きいが、(はね)は黒色でオスのごとく紫には輝かない。

 筆者は少年時代を埼玉県の大宮市で過ごしたが、昭和二十年代から三十年代までは、郊外のいたるところに雑木林や池や川があった。

 夏の雑木林は昆虫少年たちの天国である。ことに(くぬぎ)林などには、樹液にカブトムシやクワガタなどの甲虫が群れ、樹上にはアカシジミやウラナミアカシジミ、ミズイロオナガシジミなどのゼフィルスが舞っていた。シジミチョウ科のうち、クヌギや小楢(こなら)水楢(みずなら)(はん)の木などの梢で舞うアカシジミやその近似種をゼフィルス(そよ風)と呼んだのは誰なのだろうか。ゼフィルス類を捕えることに憧れ、夢中になった。そのうちゼフィルス類のうち、ミドリシジミに興味が絞られ、完全個体を得るために飼育に熱中した。

 冬、ハンノキの幹に産みつけられた小さな宝石のような、ミドリシジミの卵を樹皮ごと削り採ってきて、春、ハンノキの若葉が出はじめると飼育箱に入れてやるのである。やがて幼虫となった、ミドリシジミは、糸を吐いて葉を(つづ)って棲処(すみか)とする。そして、樹下に降ってハンノキの落葉の中で蛹となるのだ。飼育箱の中だと、敷きつめた葉の中でコロコロとした小さな蛹となる。

 このミドリシジミのオスの、緑に輝くビロードのごとき翅の色は、見事というほかない。メスは焦茶色だが、前翅に(だいだい)色の紋のあるもの(A型)、ブルーの紋のあるもの(B型)、橙とブルーの紋のあるもの(AB型)、無紋のもの(O型)の四種がある。AB型などはオスに劣らず美しい。

 さて、雑木林に話を戻そう。クヌギの樹液には、甲虫類のほかに、オオムラサキやヒオドシチョウもやってくる。緋縅(ひおどし)(かぶと)鍬型(くわがた)とくれば合戦だ。まさに樹液の(にじ)み出るクヌギの幹は昆虫たちの戦場である。少年の狩人は(いくさ)に夢中になっているオオムラサキをめがけて、捕虫網を一(せん)させる――。首尾よくオオムラサキを捕えたときは、いつも興奮で胸が高鳴ったものだ。

 オオムラサキの食樹は(えのき)である。このエノキを食樹とする蝶は多く、先ほどのヒオドシチョウ、それにゴマダラチョウ、テングチョウ等がいる。(けやき)に似たエノキは、街道の一里塚に目印として植えられたりしたこともあって、あちこちに大木をみかけたが、近年は枯死したり()られたりして、少なくなった。

 オオムラサキの幼虫は、ゴマダラチョウの幼虫と共に、冬は根元の枯葉の中で越冬する。寒風の中、エノキの枯葉の裏にじっとくっついて春を待つ枯葉色の幼虫を、よく採りにいった。背に四列の角があるのがオオムラサキ、ゴマダラは三列であるが、この二種の幼虫は極めてよく似ている。

 最近、冬になると散歩がてらエノキを見つけ、根元を探してみるが、幼虫は見つからない。だいたいに枯葉は掃き清められている場合が多く、幼虫の冬の寝ぐらにふさわしい根元がないのである。

 近年は、オオムラサキもゴマダラチョウもヒオドシチョウも、都市近郊ではまったくみられなくなってしまった。公園などにエノキが何本かあっても、枯葉をすべて掃いてしまうため、幼虫たちは冬を越すことができないのだ。

 なお、蝶の中には成虫で越冬するものがいる。ヒオドシチョウなどもその一種である。老樹の(うろ)などでじっと冬眠し、春に目覚めて交尾し卵を生んで生を終える。まだ冬の最中(さなか)でも、暖かい日など、これらの蝶たちが春と間違えてヒョロヒョロと飛ぶことがある。こうした蝶を、「冬の蝶」または「凍蝶(いてちょう)」ともいうが、そういえば近ごろは凍蝶もめったに見かけない。

凍蝶の日ざせばほろほろ飛ぶ形       白葉女

ささめゆき凍蝶(はね)を閉ぢなほす       樹実雄

 三 養蚕と養蜂の歴史

  日本経済を支えた(かいこ)と生糸

 古来、日本人は虫からさまざまな恵みを受けてきたが、国家経済を左右した虫は「蚕」をおいてほかにない。日本の近代化を支えたのは、実に蚕であった。

 安政五年(一八五八)六月、日米修好通商条約が調印され、幕府はそれまでの鎖国政策に終止符を打ち、本格的な開国に踏み切った。その年のうちにオランダ、ロシア、イギリス、さらにフランスとも修好通商条約を結び、翌年には長崎、神奈川(横浜)、箱館(函館)の各港を開いた。

 欧米各国が日本からの輸出品として、最も期待したのは蚕種と生糸であった。というのはヨーロッパの二大蚕糸国であるフランスとイタリアの蚕糸業が、壊滅的な危機に(ひん)していたからであった。一八四〇年、フランスのプロヴァンス地方に発生した蚕病は一八四七年にはイタリアのロンバルディア州に拡大し、一八五二年には両国の全土に広がり、ヨーロッパの蚕糸業は深刻な状況にあった。そのため、ヨーロッパの業界では養蚕復活のため、病気に冒されていない健全な蚕を、中近東や中国、日本などに求めたのである。各国の蚕種を取り寄せて飼育したところ、日本産のものが最も優秀であったという。

 幕府は蚕種の輸出を禁止していたが、欧米諸国の強い要望で文久三年(一八六三)にはついに解禁し、慶応元年(一八六五)には蚕種の輸出を正式に公許した。徳川幕府の最末期、開国後の輸出品のトップは、生糸と蚕種だったのである。明治の世を迎えてもそれは変わらず、蚕種(蚕卵紙)や(まゆ)、生糸などの蚕糸類の輸出は、明治初年(一八六八)で総輸出額の五七パーセントに及んだ。以来、昭和の初期まで、蚕糸関係の輸出は常にトップの座を保ち続けた。多いときには輸出総額の五〇パーセントを超え、少なくなった昭和初期でも三〇パーセント以上を維持し続けていた。

 明治二十二年(一八八九)、時の大蔵大臣松方正義(まつかたまさよし)は、

「日本の軍艦は、すべて生糸をもって購求するものなれば、軍艦を購求せんと欲せば多く生糸を産出せんことを謀らざるべからず」
 と、農商務省蚕業講習所で演説した。

 生糸すなわち絹は、蚕が作る繭からつむぐ。蚕は蚕蛾(かいこが)の幼虫だ。

 蚕を飼って生糸を取り、織物にすることを創始したのは中国人である。その歴史は極めて古く、四千年から五千年前、新石器時代にはすでに養蚕があったと推定されている。(いん)代(紀元前一三〇〇年ごろ)の甲骨文に、「桑、蚕、糸、(きぬ)」などを表す文字が見つかっている。(かん)代(前二〇二~紀元二二〇年)は、古代絹織物の成熟期であった。シルクロードを通じて、交易品として絹織物がヨーロッパにもたらされたのは、その漢代以前に(さかのぼ)ることが判明している。

 古代ローマでは中国をセリカ(絹の国)と呼んだ。切れ目のない、一本が数百メートルにも及ぶ美しく光る糸で織られた布、それは西方社会にとって、神秘的で最も魅力的なものであった。その絹を求めて、遥か紀元前から開かれた東西交易の道が「絹の道」、すなわちシルクロードだ。

  養蚕起源を伝える金色姫とオシラ様

 日本にいつごろ絹が伝えられたのかは、(つまびら)かではない。北九州の弥生時代前期中葉(前一〇〇年ごろ)の遺跡で発掘された甕棺(かめかん)から絹布が見つかっているので、弥生時代にはすでに一部の日本人は絹を使用していたらしい。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に、

「婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて(これ)()る。禾稲(かとう)紵麻(ちょま)()え、蚕桑緝積(さんそうしゅうせき)し、細紵(さいちょ)縑緜(けんめん)(いだ)す」
 とあり、二、三世紀の邪馬台国(やまたいこく)では、すでに養蚕が行われてたことがわかる。

『日本書紀』の雄略天皇の条に、次のような話が載っている。

雄略六年(四六二)の三月七日、天皇は后妃に桑の葉を摘ませて養蚕を勧めようと思った。そこでに命じて国内の()を集めるよう命じた。ところが蜾蠃(すがる)は勘違いをして小さな()を大勢集めて天皇に献じた。天皇は大いに笑って、集めた子供たちを自分で育てるようにいった。蜾蠃(すがる)は宮廷の垣の近くで子供たちを養育し、少子部連(ちいさこのむらじ)の姓を賜った――という。

 『万葉集』にも養蚕の歌が何首か見える。

たらちねの母が()()繭隠(まよごも)

  いぶせくもあるか(いも)に会はずして     (巻十二)

筑波嶺の新桑繭(にいくわまよ)(きぬ)はあれど

  君が御衣(みけし)しあやに着欲しも        (巻十四)

 しかし、古代の絹はあくまでも上流階級の独占物であった。農民は調(ちょう)の貢進のため養蚕を強制されたが、美しく輝き薄く軽い絹をまとえるのは、貴族たちだけであった。

 養蚕起源(たん)の一つに『御伽草子(おとぎぞうし)』などにみえる「金色姫」の伝説がある。

 桑の木で作った空舟(うつろぶね)で日本に漂着した金色姫は、継母(ままはは)によって四度の危難にあい、四度眠る。その姫の(かばね)から生じたのが蚕であるというものだ。蚕は第一眠から四眠までを繰り返し、五齢から熟齢を経て糸を吐き繭を作る。茨城県筑波町の蚕影(こかげ)神社は、養蚕の祖神とされる稚産霊(わかむすび)神と金色姫を(まつ)って、古くから養蚕家の信仰を集めてきた。

 また東北地方のオシラ様の由来も養蚕起源にまつわる話だ。オシラ様というのは桑の木で作った一対の人形からなる屋内神である。柳田國男の『遠野物語』には、次のような話が載せられている。

 娘が飼馬と通じたことを怒った父は、飼馬を桑の木に吊るして殺してしまう。馬の首にすがって泣く娘に、さらに逆上した父は馬の首を斬ってしまう。すると首はたちまち娘を乗せて天に昇っていった。やがて天から白と黒の虫が降ってきて桑の葉を食べた。その虫が蚕で、馬と娘の生まれ変わりであった。馬と娘はやがて一対の神御蚕(おしら)様となった――という。オシラ様に関しては他にもいろいろな伝承があるが、多くは馬と娘の婚姻譚にまつわる養蚕起源伝承だ。現在でも蚕種の包装紙や蚕種紙に馬の印を用いるのは、オシラ様の伝承に基づいている。

 いずれにせよ蚕は古代から日本人と深くかかわってきた虫であり、養蚕は近代日本の経済を支えると共に、日本の農村の生活に大きな影響を与えてきた。多くの生糸長者を生み、一方で女工哀史も生まれた。だがそうしたことも、もはや過去の夢となりつつある。化学繊維の出現と発達で、二十世紀の半ばごろから養蚕業は斜陽化の一途をたどり、現在の日本から養蚕農家はほとんど姿を消した。

 蚕は何千年も前から人に飼われてきた虫である。自然繁殖はまずあり得ない。成虫の蚕蛾はほとんど翔ぶこともできないのだ。いったい蚕たちはこれからどうなるのだろうか。

  蜜蜂と養蜂の歴史

 蚕と共に人類が太古から飼育し利用してきた虫に、蜜蜂がいる。スペインのアラニア洞窟の壁に、樹の(ほら)からハチミツを採取する女性の絵が発見されているが、なんと一万七千年前の壁画だ。もっともこれは、そのころすでに自然のハチミツを採集し利用していたということであって、養蜂の歴史には直接結びつかない。

 だが紀元前三〇〇〇年ごろには、古代エジプトで養蜂が行われていた。壁画などに養蜂の模様が描かれ、王墓からはハチミツの入った(つぼ)も見つかっている。

 ミツバチは、女王蜂、働き蜂、雄蜂と、それぞれに役割分担の秩序が保たれ、統制のとれた集団生活を営む社会性昆虫である。そうしたミツバチの社会性に気づき、最初に科学的知見を与えたのは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスであるとされる。

 ところで、ハネムーン(蜜月)というのは、古代ゲルマン民族の風習に基づいている。当時の新婚夫婦は一ヵ月の間、ハチミツを発酵させた蜜酒を飲んだらしい。蜜酒は栄養価に富み、人間の寿命を延ばす秘薬とされていた。貴重なものであり、そうそう飲むことはできないが、新しい生命を生み出すために新婚の一ヵ月間だけは、飲むことが許されたのだ。

 ミツバチがもたらしてくれるものは、ハチミツだけではない。ローヤルゼリーと蜜蠟もまたミツバチの恵みであった。

 日本のミツバチに関する最初の記事は『日本書紀』皇極天皇二年(六四三)の条で、

是歳(このとし)百済(くだら)の太子余豊(よほう)、蜜蜂の房四枝(すよつ)を以て、三輪山に放ち養ふ。(しこう)して(つい)蕃息(うまは)らず」
 とある。百済からのミツバチを大和(やまと)の三輪山に放って養蜂を試みたが、ハチは繁殖しなかったというのだ。その目的はハチミツよりも、仏像鋳造用の蜜蠟を得ることにあったと考えられている。蜜蠟からは蠟燭も作る。

 しかしその後江戸時代まで、日本史の文献から養蜂に関する記事を見出すことはできない。平安時代の『延喜式(えんぎしき)』(九二七年)に、

「蜜、甲斐(かい)国一升、相模(さがみ)国一升、信濃国二升、能登国一升五合、越中国一升五合、備中(びっちゅう)国一升、備後(びんご)国二升。

 摂津国蜂房(はちのす)二両、伊勢(いせ)国蜂房一斤十二両」

 という、ハチミツと蜜蠟をとるための蜂房が献上された記事がみえるが、天然のものか養蜂によるものかは詳らかではない。一国あたりの献上量が少ないところから、天然のものと考えた方がよさそうである。

 『今昔物語集』には、鈴香山(鈴鹿山)でハチが盗賊を刺し殺した話が載っている。

 あるとき商人が鈴鹿山中にさしかかると、盗賊団に襲われて馬百頭分の財物を奪われてしまった。ところが商人は平然として大空を見上げていた。やがて一匹の大きなハチが飛んできて、続いてハチの大群が現れ、盗賊の()む谷に降りていった。ハチは盗賊を一人残らず刺し殺し、商人は荷物を取り戻しただけでなく盗賊の蓄えまでも手に入れてますます富裕になった。商人は自宅で酒を作り、ハチに飲ませるなどハチを大事にしていたので、ハチがその恩に報いたのだという。

 また鎌倉時代に成立した『十訓抄(じっきんしょう)』には、「蜂飼いの大臣(おとど)」の話が出てくる。この大臣は花づくりが趣味で庭に広い花苑を有していたが、この花苑でハチも飼っていた。大臣に飼い慣らされたハチは、大臣の命令で人を刺すようにしつけられていたという。

 こうした話は養蜂をうかがわせはするが、それにしては、「蜜」が一字も出てこない。もっぱら刺すハチばかりである。

 蜜を採る目的で養蜂が行われたことをはっきりと記すのは、宝永六年(一七〇九)に貝原益軒が著した『大和本草(やまとほんぞう)』が初めてである。同書では、ミツバチを飼うことの有用性が説かれ、農家に飼育をすすめており、このころから養蜂が盛んになったことがうかがえる。

 やがて紀州の熊野(くまの)がハチミツの一大生産地となり、また良質であったところから、よそで採れたハチミツも「熊野蜂蜜」として売られたりした。養蜂家が花の時季に合わせて巣箱を天秤(てんびん)棒で担ぎ、各地に移動するようになったのは、幕末の安政年間(一八五四~六○)のことという。

 なお、このころのハチはニホンミツバチだが、明治になってセイヨウミツバチが輸入されると、こちらが養蜂の主流となり、今ではほとんどセイヨウミツバチになってしまった。神経質で飼育しづらいニホンミツバチに対し、セイヨウミツバチは管理しやすく、収蜜量も多いのだという。

 

 日本人と虫とのかかわりはまだまだ多い。古来、虫そのものをも食べてきた。イナゴやヘボの子(蜂の子)、ザザムシなど、地方によってはいまでもよく食べる。戦時下の食料難の時代にはマユコ(蚕の(さなぎ))もよく食べた。

 また一方で日本人は、虫害とも戦ってきた。稲作を中心とした農耕民族である日本人にとって、いかに虫害を少なくして収穫量を上げるかは、死活にかかわる問題でもあった。ウンカやアワヨトウが大発生して、そのために凶作となった例も少なくない。今も各地に残る「虫追い」や「虫送り」の行事は、虫害に遭わずに豊作を願った農民たちの、大切な祭りであった。

  虫の「(ことわざ)」いろいろ

 虫に関する諺や譬喩(ひゆ)は多い。日本人がそれだけ虫に馴染(なじ)んできた証拠だ。

 (あり)はミツバチ同様に社会性昆虫で、秩序正しい集団生活を営んでいる。

 日本中のいたるところにいて、土中に営巣し、また蟻塚を作ったりする。小さなアリが行列をつくってせっせと食料を運ぶさまは、誰もが目にした風景だ。「蟻の熊野参り」「蟻の伊勢参り」「蟻の百度参り」などは、大勢の人が同じ道をとぎれることなく行き来するさまをいう。しかしそのアリの行列も外国まで行くとなれば大変である。「蟻の入唐(にっとう)」はひどく時間がかかることの喩え。だが「蟻が塔を組む」ごとく、また「蟻集まって樹を揺るがす」こともあるように、小さな事業でも少しずつ怠ることなく続ければ大事業となり、小さな力も集まれば大きな力を発揮する。蟻の塔とは蟻塚のことだ。「蟻の穴より堤の崩れ」は『韓非子(かんびし)』の中の「千丈之隄、以螻蟻之穴潰」から出た、わずかな油断が命取りになる喩えである。

 日常の生活の中で私たちをわずらわせるのは、()(のみ)(はえ)である。

「蚊が(もち)()く」というのは蚊柱が上下に浮遊するさま。雨降りの前兆であるとされた。「蚊の鳴くよう」は、力なくかすかな声でものをいうさま。「蚊の食う程にも思わぬ」というのは痛くもかゆくもないこと。「蚊を()わず」というのは、『晋書(しんじょ)』に出てくる孝子呉猛(ごもう)の故事。呉猛は、家が貧しく蚊帳がなかったので、親のほうに行かないよう我が身にたかった蚊を追わなかったという。

「蚤の小便蚊の涙」はほんの少量であることの喩え。「蚤の夫婦」は妻のほうが夫より大きい夫婦。「蚤の金玉」「蚤の卵」は取るに足らないごく小さなものの喩え。

「蠅が手を擦るよう」は、もみ手で他人に懇願するさまの形容。「蠅若衆に蚊坊主」というのは、若衆や茶坊主のうるささ、しつこさを喩えていう。「五月蠅」と書いて「うるさい」と読ませるのは読んで字のごとし。五月雨(さみだれ)すなわち梅雨時(つゆどき)になると急に蠅が増えてうるさくなる。

 家の周囲や畑などにいる虫の諺も多い。

蜘蛛(くも)の家に馬を(つな)ぐ」というのは、極めて頼りにならないこと。「蜘蛛の子を散らす」は大勢が散り散りに逃げること。

螻蛄(けら)(たけ)り」は「蟷螂(とうろう)(おの)」と同意、自分が微力であることに気付かず強大な敵に立ち向かうこと。「螻蛄才」というのは、多芸多才だが役に立たない才能を喩えていう。ケラは、飛んだりよじ登ったり泳いだり土を掘ったり走ったりと多くの能力を持つが、どれも大したことはない。

尺取虫(しゃくとりむし)の屈むは、その伸びんがためなり」などという譬喩は、なかなか含蓄がある。「夏の虫飛んで火に入る」はよく知られている。

蜻蛉(とんぼ)の尻を冷やすよう」は、トンボが水面に産卵するさまから、そわそわして尻が落ち着かぬさまをいう。粗末でも自分の力で家を造るのを「蓑虫(みのむし)の家造り」という。「百足(むかで)のあだ転び」というのは、足がたくさんあって転びそうもない百足も転ぶことがある。油断すれば失敗するという意。「百足に草鞋(わらじ)()かすよう」というのは、ひどく手間のかかることの喩え。

 まだまだあるが、切りがない。だが、虫の諺や譬喩は、虫そのものがいなくなってしまっては、やがて意味がわからなくなってしまう――。

 四 昆虫以外の虫たち

  虫は虫でも心の中に()む虫

「虫」とは一体なんなのであろうか。狭義には昆虫のことであり、本稿は昆虫を虫としてこれまで筆をすすめてきた。だが、中国・日本における虫の範囲はきわめて広い。

 本草(ほんぞう)学によれば、人類・獣類・鳥類・魚介類以外の小動物の総称が虫であるという。さらに古く中国では、虎を大虫といったごとく、動物の総称が虫であったらしい。その後「虫」の範囲は徐々に限定されたが、虫偏のつく動物はすべて、虫の仲間である。日本では、昆虫類のほか主に地表を()う種類や土中にひそむ種類を、もっぱら虫と呼んだ。

 蛇はもちろん虫であり、長虫の別称がある。(まむし)は、日本の本州に棲息(せいそく)するヘビ中唯一猛毒があり、ヘビ(虫)の中のヘビ「真虫(まむし)」がその語源だ。蛙や蜥蜴(とかげ)も虫であり、蚯蚓(みみず)(ひる)蛞蝓(なめくじ)も虫である。貝類は本草学では虫に分類していないが、(はまぐり)(しじみ)栄螺(さざえ)など虫偏がつくところから、本来は虫の仲間であったのだろう。(えび)(かに)も同様である。

 さらに、回虫などの寄生虫もいる。目にみえないバイ菌類も虫だ。虫歯や虫食(むしば)むといった言葉に、人体や物などを侵す得体の知れないバイ菌を虫と呼んだことがうかがえる。

 それだけではない。「虫」は日本人にとって「心」の一部でもあるのだ。人間の体内に棲んで、感情や体調を支配する存在、それを日本人は虫と呼んだ。「虫の居どころが悪い」と癇癪(かんしゃく)を起こし、「虫が治まる」と機嫌がよくなる。「虫を殺す」というのはじっとがまんすること。初対面でもなんとなく気が合うのは「虫が合う」から。「虫がいい」のは機嫌のいい状態またお人好しをいうが、自分勝手で図々しい意味にも用いる。「虫の知らせ」は胸さわぎや予感のことだ。

 男が浮気をするのも虫のせいである。「浮気の虫」が頭をもたげはじめると、もうどうにもならない。不義密通は御法度(ごはっと)なので人妻には手が出しにくい。未婚の女性や若後家にちょっかいを出すことになる。そこで彼女たちの親は「悪い虫」がつかないよう、必死でガードすることになるのだが、往々にして「虫がつく」。もっともそれは江戸時代の話で、いまや人妻までもが堂々と浮気をするらしい。「浮気の虫」「悪い虫」の大繁殖である。

 ところで、「虫気(むしけ)づく」というのは産気づくこと。陣痛が起こった状態を「虫気づいた」という。人体に棲む虫は、人の誕生をも司っていたのだ。

  蜘蛛はなぜ嫌われてきたのか

 さて、話を昆虫以外の小動物としての虫に戻そう。

 蜘蛛は古来、日本人には馴染みの深い虫であった。もっとも、親しまれてきたわけではなく、忌み嫌われることが多かった。長い足が八本あり毛むくじゃらで、その姿はどうみてもグロテスクである。妖怪変化(ようかいへんげ)(たぐい)、悪魔の化身と考えられることが多かったのもやむを得ない。

『古事記』や『日本書紀』、また各「風土記」などに「土蜘蛛(つちぐも)」が登場する。この「土蜘蛛」は、大和の王権になかなか服属しなかったまつろわざる民への蔑称(べっしょう)である。『記』は神武(じんむ)天皇が(やまと)を平定するに当たり、忍坂(おさか)大室(おおむろ)土雲八十建(つちぐものやそたける)を征した記事を載せ、『紀』は彼らを「其為人、身短而手足長」と記す。竪穴(たてあな)式住居に居住していた先住民の抵抗に、おそらく天皇家の祖先たちは、王権確立の過程で、かなり苦労したのであろう。大和王権はやがて大和朝廷となり、天皇家となるわけだが、被征服者を(おとし)め歴史書に記すのは、古今東西を問わず勝者の常套(じょうとう)手段だ。

 もっとも、土蜘蛛族に比定される史実としての部族ないし集団は、はっきりしない。「土蜘蛛」は「記紀」編纂(へんさん)の過程で創作された観念的な異族かもしれない。

『土蜘蛛草紙』という重文指定の絵巻物(東京国立博物館蔵)がある。鎌倉時代後期の作といわれ、源頼光(みなもとのよりみつ)の土蜘蛛退治を描いた絵物語である。

 あるとき頼光は郎党の渡辺綱(わたなべのつな)を従えて、洛外(らくがい)北山の蓮台野(れんだいの)に出かけた。そこで空中に飛ぶ髑髏(どくろ)を見つけ、行方を追って神楽岡の一軒の古屋に至る。日が暮れたので古屋に泊まると、種々の妖怪が現れて頼光らを悩ます。明け方近くになると妖しい美女が現れ、(まり)のごとき白雲を投げかけてきた。頼光が()りつけると太刀が折れ、その刃には白い血がついていた。夜が明け、その白い血痕を辿(たど)っていくと、西山の奥の洞窟に続いていた。頼光と綱は、洞窟内にひそんでいた怪物を引きずり出して退治する。なんとそれは巨大な土蜘蛛で、その腹からは千九百九十個に及ぶ人間の髑髏が出てきた――。

 ここに登場する土蜘蛛は、明らかな妖怪変化だ。以後クモはさまざまな戯曲や狂言、物語などに登場する。が、その多くは妖怪であり悪魔の化身で、忌み嫌われる存在である。

 なお、源満仲(みつなか)の愛刀で源家(げんけ)重代の名刀「膝丸(ひざまる)」を「蜘蛛切丸」と呼ぶのは、頼光の故事による。「膝丸」というのは罪人の首とともに膝までも切ったことから名付けられたもの。頼光は満仲の子だ。この「蜘蛛切丸」は平治(へいじ)の乱(一一五九年)で失われ、幻の名刀となってしまった。

 諺に、「夜のクモはたとえ親に似ていても殺せ」というのがある。対して「朝のクモ」は縁起がよかったり、晴天の知らせであったりする。夜グモが縁起が悪く嫌われた理由は、多分にその習性にある。オニグモなど、昼間は軒下や樹間にひそみ、太陽を嫌って決して姿を現さない。ところが夕闇(ゆうやみ)が迫るとやおら行動を開始し、クモの巣を張り巡らして獲物を狙う。まさに闇に跳梁(ちょうりょう)する悪鬼だ。安らかに眠りにつくべき夜に、その眠りを妨げて跳梁跋扈(ばっこ)、人を恐怖に陥れる魑魅魍魎(ちみもうりょう)、邪悪なる存在に擬されたところが、クモの悲運であったといえよう。毒を持つと思われたことも不幸であった。

 実際には日本産のクモで毒を有するものはほとんどいない。あっても微毒である。近年外来種の毒グモ「セアカゴケグモ」(背赤後家蜘蛛)が話題となったが、これとても微毒だ。クモが人間に害をなすことは、ほとんどあり得ない。それどころか、蚊や蠅など害虫を捕食する益虫である。近年来、樹木や野菜の害虫駆除にクモを役立たせる研究(応用クモ学)が進んでいるくらいだ。

 ところで、日本では忌み嫌われることの多いクモだが、ヨーロッパでは大切にされることが多い。古代ローマでは環境や天候の変化を知らせると信じられていた。日本でも『日本書紀』に、衣通姫(そとおりひめ)允恭(いんぎょう)天皇の来訪をクモの行動から予知する歌が出てくるが、クモが神の啓示をもたらしたり、なにかを予兆するものとの考えは、世界的に共通している。また、キリスト教の伝説に、聖家族がエジプトに逃れ洞窟に身を隠したとき、クモが入口に巣を張ったので追手の目を逃れることができた、という話がある。イギリスをはじめヨーロッパ各地では、クモを繁栄のしるしとして大事にする。とりわけ赤い小型のクモはマネー・スパイダーと称し、金銭が(もう)かる吉兆とする。

 それにしても、不気味とはいわないまでもクモは不思議な虫である。糸を吐き(といっても尻から出すのだが)、子グモはその糸を上昇気流に乗せ、風に乗って空を飛んだりする。オニグモやコガネグモなどは、どうしてあの円形の見事な網を張ることができるのだろう。気配を殺して獲物を待ち伏せるハンターとしての腕も相当なものである。ちなみに、江戸時代の街道筋にいたタチの悪い駕籠(かご)かきや馬子のことを「雲助」というが、正しくは「蜘蛛助」である。巣を張って獲物が引っかかるのを待つところから出た語という。クモスケたちは、役人が取り締まろうとすると、サッとクモの子を散らすように姿を隠してしまう。雲助の語源を、浮雲のように定めのない連中だからとする説には、(うなず)きかねる。

 いずれにせよクモのイメージはよろしくない。だが古来、人はクモを忌み嫌うだけでなく、捕らえて遊びの対象にもしてきた。クモを戦わせて遊ぶ「蜘蛛合せ」は、古く中国から渡来したものというが、鹿児島県や高知県では、いまも旧暦五月五日の節供に、コガネグモを戦わせる「蜘蛛合戦」が行われる。また、江戸時代には、ハエトリグモにハエを捕らせて競う遊びもあった。井原西鶴の『好色一代男』にも「今江戸にはやる」「蠅取蜘(はいとりぐも)」の話が登場する。ハエトリグモは「座敷鷹(ざしきだか)」と呼ばれ、よく飛びハエ取りにすぐれたものは、高価で取引きされたという。柳亭種彦の『足薪翁(そくしんおう)記』には、優秀なハエトリグモの持ち主が、蒔絵をほどこした高価な唐木細工の箱で、そのクモを飼った話が記されている。

 夏の日、長い篠竹(しのだけ)の先に針金で輪を作り、朝早くクモの巣をからめて歩き、セミを捕った記憶が懐かしい。近ごろはセミも少なくなったが、クモの巣もほとんど見かけなくなった。そうした環境の変化が、よろこぶべき状況でないことは確かだ。

ヘビとムカデの争い

 ヘビが虫として認識されていたことは先に記した。そのヘビに対する存在は蜈蚣(むかで)(百足)である。大蛇がいると信じられていたごとく、巨大なムカデの存在も信じられてきた。

 『日光山縁起』などによれば、むかし日光の男体(なんたい)権現と赤城(あかぎ)山の神が、山上の湖水すなわち中禅寺湖の領有をめぐって争ったという。男体権現の姿は大蛇であり、赤城明神は大ムカデであった。このヘビとムカデは死闘を繰り広げるが、最終的には眼を射られたムカデすなわち赤城明神が敗退する。その死闘の地が、戦場ヶ原(せんじょうがはら)というわけだ。もっとも、この伝説は日光の側に立ったものであり、敵である赤城の神をことさら奇怪醜悪な妖怪的大ムカデとし、これを退治したという話になっている。赤城山にとっては迷惑な話だ。

 ムカデは『古事記』にも登場するが、すでに、恐ろしく醜悪な存在であった。すなわち、須佐之男(すさのお)葦原色許男(あしはらのしこお)大国主(おおくにぬし))を(むろ)に入れ、呉公(むかで)などで責め(さいな)むという話だ。

 だが、赤城神社の鳥居にはムカデの彫刻がほどこされたものがあったりして、必ずしもムカデを奇怪醜悪なものと考え続けてきたわけではない。京都の鞍馬(くらま)山には、ムカデを毘沙門天(びしゃもんてん)の使者として(まつ)る俗信が伝えられている。戦国時代、甲斐武田氏の軍団に「百足衆」という信玄麾下(きか)の一軍がいた。ムカデの絵を旗印にしていたという。ムカデを強きもの猛きものの象徴としたのだ。行動が迅速でかつ神出鬼没であるといった意味も込められていたであろう。ムカデはまた、お金の神様としても考えられ、縁起がよいとされたりもした。おあし(お足)がたくさんあるから、というのである。

 ムカデとヘビが対立して争うという話は、すでに平安時代には成立していたらしい。『今昔物語集』(一一一〇年ごろ成立か)に、次のような話が載せられている。

 加賀国の漁師七人が漂流してある島に漂着した。すると島の若い男が現れ、酒食をもてなしてくれる。そして、明日別の島から敵が攻めてくるので助勢をしてほしいと頼まれる。翌日、沖合から攻めてきたのは十丈ばかりもある大ムカデであった。対してこちらの島の山上から降りてきて迎え撃ったのは、やはり十丈はあろうかという大蛇だった。両者はからみ合い食い合って離れなくなったが、多くの手を持っているムカデのほうが優勢であった。そこで漁師たちはムカデに矢を射かけ、刀で斬りつけて、ついに退治した――。

 十四世紀後半に成立した『太平記』には、俵藤太(たわらのとうた)の「ムカデ退治」の話が登場する。

 平安時代の中ごろ、俵藤太秀郷(ひでさと)という武勇の人がいた。あるとき秀郷が瀬田の大橋を渡ろうとすると、二十丈もある大蛇が横たわり行く手を遮っていた。だが秀郷は、平然と大蛇の背を踏み越えて橋を渡った。すると、後ろから男が追ってきて、次のようにいう。

「私は先ほどのヘビである。年来、土地をめぐって仇敵(きゅうてき)に悩まされている。私を踏みつけていくほどの豪胆な勇者であるあなたに、ぜひ味方として敵を討ってほしい」

 と。そこで秀郷は承諾し、ヘビに案内されて琵琶湖の水中にある竜宮に入る。果たして夜半すぎ、比良の山から大ムカデが攻め寄せてきた。秀郷は剛弓を絞り、二の矢までを射損じたが、(つば)をつけた三の矢で大ムカデの眉間(みけん)を見事射抜き、退治する。秀郷は赤胴の鐘をはじめ多くの財宝をもらって都に帰り、鐘は三井(みい)寺に寄付した――。

 室町時代に成立した「御伽(おとぎ)草子」の『俵藤太物語』にも、ほぼ同じような話が載せられている。これらの話に共通するのは、常にムカデが悪役で、人がヘビに味方してムカデを討つというパターンだ。確かに、ヘビよりムカデのほうが気持ちが悪い。

 かつて筆者はムカデで胆を冷やした思い出がある。房総半島の館山に家族で遊びに行ったときのことである。網元の営む民宿に泊まった。夜、便所に入っていると、天井からなにかがバサッと首筋に落ち、手で払うと眼の前に落ちて動いた。なんと一〇センチを超える大きなムカデであった。おそらくトビズムカデであったろう。日本産のムカデ中最大で、大きなものは一五センチに達する。なんともグロテスクで気味が悪い。これが説話に登場すると十丈もの大ムカデとなる。約三〇メートルだ。気味が悪いどころの話ではない。

 平安時代後期に成立した短篇物語集『(つつみ)中納言物語』に「虫めづる姫君」の話が載っている。人が嫌悪する毛虫や芋虫を愛好した姫がいたというのだ。ムカデなども()でたのだろうか。彼女の好む「虫」は、本来愛でられるべき虫ではない。隣に蝶めでる姫君が住んでいたというから、こちらは愛玩(あいがん)の対象となる蝶や蛍や蝉などを好んだのであろう。後者の女性とはぜひいろいろと語らいたいが、前者の彼女は……。

 話を戻そう。ヘビにはムカデのほかに天敵がいる。蛞蝓(なめくじ)である。もちろん俗信だが、戦国時代にはすでにヘビの天敵をナメクジとする伝承が成立していたらしい。一五九〇年代の『義残後覚』に、ナメクジがヘビを倒す話が登場する。ちなみにナメクジの天敵は蛙であり、カエルの天敵はヘビだ。十八世紀初頭に書かれた『金玉ねぢふくさ』という奇譚(きたん)の中に、次のような話がある。

 ある屋敷の庭の泉水にヘビが集まり、池に住むカエルを捕っては食っていた。ところが、いつごろからか池の周辺にヘビの死骸(しがい)が目立つようになった。屋敷の主が不思議に思い見ていると、三本足のカエルが現れてしきりに鳴く。するとヘビが声に誘われて出て来て、カエルに飛びかかった。と、ヘビは突然悶死(もんし)し、カエルは平然と鳴きながら去っていった。よくみると、カエルの足は三本ではなく、前足の一本にナメクジを挟んで、襲ってくるヘビの口に差し込んでいたのだ、という――。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/05/28

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高橋 千劔破

タカハシ チハヤ
たかはし ちはや 文芸評論家 1943年1月、東京都生まれ 歴史雑誌の編集長などを経て、著述業。主な著作は、「江戸の旅人」、「名山の日本史」、「花鳥風月の日本史」ほか。

掲載作は月刊「MOKU」連載が初出、後にまとめられた「花鳥風月の日本史」(2000年12月、黙出版刊)に所収された。

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